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やっぱり、ゆり子と一緒になるの?

師走の寒い日、孝詞と恭子は浦安のひっそりとした隠れ家のようなバーで逢った。遅れてきた恭子は、黒いコートを入り口の側の壁に掛けると、すでに座っていた孝詞に微笑みかけ、赤い革張りの丸いバーチェアーに腰かけた。

「お疲れさん。今日は判りにくいところに呼び出してごめん。迷わなかった?」

「大丈夫よ。私は方向音痴じゃないから・・・・・・

恭子は笑いながらも、このバーに来ることができて、ほっとしているようだ。恭子はバーテンにホワイト・レディというカクテルを注文し、テーブルの上に置かれると、孝詞とグラスを合わせてお疲れさまと呟いた。孝詞はウィスキーのロックだ。孝詞の顔の表情は、どこか本当に疲れ切っていた。しばらく仕事の話をしていたが、ウィスキーのお代わりをすると、話題を変えた。恭子は小さなチョコレートを頬張っている。

「あれからいろいろと考えたんだ。ゆり子の狡いやり方を責めても何にも解決しないし、それでは前に進むこともできない。だから、まず僕の子供がゆり子の腹の中に宿ったという事実を、まず受け入れることにした。そしたら、少し気が楽になった」

「そう?私はまだ不完全燃焼のように燻っています。いつもなら竹を割ったように割り切れるのに、今回は駄目。孝詞さんをそれほど好きだっていう事が判ったような気がする」

「そうか・・・・・・。そんな言葉を聞くと、僕はとても嬉しいね

「でも好きなのに前に簡単に進めないこの状況ってありえない。私の運命を呪う」

「いや、呪うなんて言わないでくれ。妊娠の件は結局僕のしでかしたことが、とてつもなく酷いと言われているようで・・・・・・

「ごめんなさい。今のは他愛のない愚痴と思ってください・・・・・・

 恭子は孝詞の肩に軽く触れて、また手をカウンターの上に戻した。その仕草は中途半端なほどぎこちない。

「恭子さん。仮の話だけど聞いてくれる?」

 孝詞の声は怖気づいた子供のような響きを持って、とぎれとぎれに恭子の耳に伝わった。

「怖い、孝詞さん怖いわ・・・・・・

「ごめん、やっぱりゆり子のお腹にいる子供の事を考えると、僕には中絶してなどととても言えない。僕がみんな悪いんだよ。僕さえしっかりしていれば、策略に乗ることなどなかったのにと、悔しくて仕方がない」

「あら、さっきは妊娠の事実を受け入れると言ったのに・・・・・・。やっぱり私と同じく悔しいの?やっぱり似た者同士なのかしら・・・・・・。余計に辛いわ

「だからそんな中途半端では続かないから、自然の流れに従うしかないと今は思っている・・・・・・」

「それじゃ、正式に親になるつもりなの?」

「うん。それしか前に進む方法はないと思う。もう一つあるとしたら、君と心中することだ。そんなことを君が承諾するはずはないだろう?」

「そうね。どんなにひどい境涯に落ちても、死ぬくらいなら乞食になっても生きていく。私はそういうタイプよ」

「知っているよ。僕の天使は本当に明晰で強いことをね。でもその強さが反面脆さに繋がる事だって知っている」

「そうかもしれない。孝詞さんを愛する気持ちが強いほど、衝撃に弱いようなところもあるものね・・・・・・

 恭子は2杯目のホワイト・レディを飲み始めていた。強い酒が恭子の喉をひりつかせる。

「実はこの世に僕が生まれていなかったかもしれないんだ」

「どうして?」

「昔僕の母が付き合っていた男性がいた。そいつは身勝手な男で、つまり僕の父だが、妊娠したという事で母を捨ててしまったのさ。だから、母は僕を中絶するしかなかった。その事で悩んでいる時に、今の僕の育ての親になる父が現れて、母を思いとどまらせて僕は生まれたんだ。でなければ、僕は本当にこの世にいなかったし、楽しい仕事だってできなかったし、恭子さんとも出逢えなかったし、こんなにも愛することができなかっただろうと思う。だから、前向きな人が良く言う言葉に、生まれてきて生きていることだけで丸儲けだと僕も思っている。苦労も多いけど、こんな素晴らしい人生を与えてくれたのは母と養父のお蔭なんだ。だから、せっかくこの世に生を受けようとしているお腹の子を殺すなんて絶対できない。これが僕のこだわりなんだ。だから・・・・・・」

 恭子は孝詞の言葉に、目の縁が涙でにじんでいた。それは孝詞への愛おしさと、受け入れなければならない現実が、目の前で明らかになることへの悲しさであった。

「やっぱり、ゆり子と一緒になるの?」

「本当に申し訳ない。今はゆり子と結婚するしか道がないと思っているんだ。妊娠した以上、僕がお腹の子を育てる。それは人間として当然のことだと思う。男の責任と言えるだろう。だから、結婚するよ、恭子さん。それでも君が一番好きなんだ。これはどうしようもない事実なんだ」

「孝詞さんが私の事を愛していることを信じているわ。嘘だとは思わない。でも、物凄く悲しい。孝詞さんと晴れて一緒になることができないなんて。私はどんな運命なのかしら。なんでそんな苦しみを味わい、孝詞さんを愛することで常に不安を抱き続けなければいけないの?私は不幸の子、悲劇のヒロイン?いじめられっ子?いったい何なんでしょうね?」

「恭子さんは、間違いなく僕に一番愛されている女性だよ」

 恭子はその事を良く知っていた。時々、孝詞への猜疑心が生まれることもあるが、信じ続けることを止めなかった。

 孝詞のウィスキーグラスの氷が溶けて、カランとグラスとぶつかりあう涼しい音が聞こえた。バックグラウンドミュージックはかすかにしか聞こえない。店内には他に2組のカップルがいたが、囁くような声がするだけで、静かな湖畔にいるような佇まいだ。バーテンは物静かな黒縁メガネをかけた白髪の男性で、どのカップルの会話にも興味を示すことなく、食器やグラスを丁寧に拭いている。いや、拭いているというより磨いているような動作だ。

 数分間、沈黙の壁が二人の間に立ちはだかっていたが、その間、恭子の胸の中では、越えられない現実に対する歯がゆさで、悲痛の苦しみを味わっていた。胸の奥で地団太を踏んでいたのである。孝詞は何を言っても恭子の悲しみを払しょくできない無力に、やはり同じように地団太を踏んでいたのである。

 

しかし、やがて恭子は押し出すように呟いた。

 

「悔しいけど、そうするしかないのね・・・・・・。体や感情は全く理解していないけれど、理屈は判りました。そうやって孝詞さんと私は、進むしかないのか・・・・・・。でもね、私は孝詞さんとの関係をすっぱり絶つなどできないわ。それは死ぬより辛いことです。だから、ずっとずっと私と逢う時間を作ってください。心からお願いします。来年結婚してあなたの子供が出来たとしても、私を愛し続けてください」

「当たり前だよ、ずっとずっとだよ。確かに、ゆり子と結婚して生活がどう変わっていくか、未来なんかまったく予測がつかない。不安だらけだよ。でもね、これだけは言える。僕の中にある恭子さんへの愛情は、全く微動だにしていない。逢えば逢うほどに、ダイヤモンドのように固くなって行くよ。君と逢っていることは、僕の最大の幸せなんだ。これを取り上げられたら、生きてゆけないくらいだよ。これが僕の嘘偽りの無い本心だから・・・・・・。何度でもこのことは言っておきたい。愛おしくて、離れたくない人なんだ」

「じゃあ、ずっと逢えますね?結婚してあなたが新居を持っても、ゆり子と楽しい日々を送っても、子供をあやして育てていても、逢えるよね?」

「そうだよ」

「孝詞さんがゆり子と生活することが表の顔で、私との日々は裏の顔かしら。裏と言う言葉は嫌だから、私たちの方が表の顔にしようと思うの?良い?」

「ああ、それで良い。そんな生活のなかから必ず活路が見いだせるはずだから、まず進んでみよう。そうしよう」

「判ったわ。孝詞さんのその言葉が嘘でないことを信じて、私にあなたを止める権利はないけれど、ゆり子との結婚を認めるつもりです」

「ごめんね。どうしても子供を中絶させることに踏み切れない。申し訳ない恭子さん」

 孝詞はカウンターの上に置かれた雪肌のように白い恭子の手を軽く触った。恭子の手はまるで雪女のように冷たい手をしていた。

 孝詞と恭子の運命は、もう止めようもない方向に動き出していた。それは自分が抗ったのにもかかわらず、外されて追いやられた結果の道のようにも見えるが、実は全てが全能の神のなせる技であった。二人の行き着くゴールの一つはもう決まっているのだろうが、今は全く予測すらできない。それでも生きている以上、大げさな言い方だが、這いつくばってでも生きていかなければならないと恭子は思った。

恭子の内部では、孝詞をゆり子に取られるという現実が明確になるほどに、孝詞の存在は自分にとってかけがえのないものであることが良く判った。心底愛していることが理解できた。来年には、恭子が止めることのできない運命の流れの中で、孝詞とゆり子が結婚していくのを、耐えなければならない。耐えるほどに孝詞を多分ますます好きになるだろう。そして、とりあえず不倫と言う形かも知れないが、愛を育み、隠れ蓑として重徳と結婚するかもしれないという事を予感していた。ただし、重徳と結婚したからと言って、孝詞への愛が消え失せるなど、あるはずがないと思い込んでいた。しかし、ひょっとしたらその愛がクールダウンして、平凡な女になれるかもしれないという考えも、心の片隅にあったのも事実である。だから、孝詞がゆり子と結婚するならば、重徳と結婚して、水面下で孝詞との逢瀬を重ねることも、選択肢の一つだと考えた。

そんなことを考えていると、一番窓際に座っていたカップルが声を上げた。小さな格子の入った窓から、白いものが見えたと歓声を上げているのである。恭子は目を凝らしてこう呟いた。

 

「初雪かしら・・・・・・


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孝詞と常に近くにいるために重徳と結婚?

1994年という新しい年がやって来た。恭子にとってはあまり嬉しくない年だが、今日は重徳のマンションに遊びに来ていた。重徳がしつっこく誘うので、仕方なしに来たような感があるがそうでもない。本当に好きでもないのに来たのは、重徳がセックスフレンドとしては都合の良い存在だったからである。孝詞がゆり子と結婚することになった今はなんとなく逢えない。その寂しさは半端なかった。時折、孝詞との激情的な貪りを思い出しては、下半身が熱くなる。そんな時、恭子は近くに住んでいる重徳の元へ突然行ったりする。会社が引けて、孝詞が帰ってしまうと、寂しさがこみ上げて来て、重徳の家に予告も無く行く事が多いのだ。

 

大洋マンションの306号室の玄関のチャイムを鳴らすと、予期していたかのように満面の笑みの重徳が出てくる。重徳は恭子の気持ちに反して、ぞっこん惚れ込んでいるのだ。重徳は寒いのにいったん外に出ると、コート姿の恭子にこう言った。

「今日は恭子さんが来そうな気がしていたけど、そんな日に限ってうちの母もやってくるから困ったものだよ」

 そう言いながら、本当は嫌がっている訳ではない事が恭子には判っている。

「大丈夫、重徳さん、いつもさっさと帰るでしょう。だから、いらっしゃっていてもそんなに困らないわ」

「すまん。直ぐに帰ってもらうから、挨拶だけしてくれるね?」

「お安いご用です」

 部屋の中に入って行くと、リビングルームの座卓の前にちょこんと座っていて、ブラックコーヒーを飲んでいた小太りの光代が、立ち上がって迎えてくれた。テレビはつけっぱなしだ。

「あら、いらっしゃるのだったら、何か美味しいものを買ってきて置けば良かった。ごめんなさい恭子さん」

「とんでもないです。今日はちょっと立ち寄っただけです。私こそ突然お邪魔してすみません」

 恭子は光代に一種の抵抗を感じているが、どの家庭の母親と息子の関係も、同じようなものと思い、賢く対応していた。心の中では、重徳を溺愛している光代に、相当距離感を感じていたのであるが・・・・・・

「しげちゃん、それじゃ私の作ったクッキー、恭子さんにも召し上がっていただいたら・・・・・・」

「うん、いいよ。お母さんのクッキーは、本当に世界一と言っていいくらい美味しいものね。恭子さんも喜ぶと思う」

「しげちゃん、お世辞がうまいのね」

 光代は恭子が目の前にいるのにも関わらず、重徳の頭を撫で、自分の頭を軽く彼の肩に寄せた。まるで小学生ぐらいの息子に対する仕草だ。意味ありげに見えるその仕草は、重徳が大好きという事を、体を使って表現しているようなところがある。あなたを頼りにしているから、重徳も母を大事にして欲しいと言っているようだ。恭子は後ずさりしたいくらいだった。

 それでも、恭子は微笑ましい親子を見るように、にこやかに笑って演技をした。そして光代の言われるままに床に座った。

「お母様と重徳さんは、仲が良いのですね?」

「そうですね、しげちゃんは一人っ子だから、大事に育ててきましたね。この子には、反抗期と言うものがなかったのよ。ねえしげちゃん?」

「うーん。少しはあったんだけど、お母さんが気付いていないだけだよ。結構天然だし・・・・・・」

 二人は顔を見合わせて笑っている。

「本当にうちの母さんは、気持ち悪いくらい僕の事が好きみたいだ。恭子さん信じられる?」

「えっ、どんなこと?」

「恭子さんに話したら引くかもしれないけど、中学3年までお母さん、一緒にお風呂に入っていたよ。どう思う?」

 恭子は嘘でしょうと言いそうになったが、一旦その言葉を飲み込んだ。

「本当に仲が良いんですね。魔の中学2年と良く言われてますから、そんな時期でも一緒というのは、良いことなんでしょうね」

「他にもエピソードがいっぱいあるよ、恭子ちゃん」

 ちゃん呼ばわりに恭子は背筋がぞくっとするような気がしたが、顔色を変えないで頷いている。もともと重徳には変わった執着心があるようで、それが結局開発業務で成果を上げることに役立っているようだから、仕方がないと恭子は思った。

「あとね、やっぱり中学生の時まで、お母さん時々添い寝してたね。油断するとチューしたりしてくるから危なかったよ、ハッハッハッ」

「それは、愛情の印よ。しげちゃんは今でも可愛くてイケメンだけど、中学の時も可愛かったからね・・・・・・

・・・・・・

 恭子は一瞬黙ってしまった。すると、光代が突然カーディガンの上のボタンを外すと、鎖のついたアンティークシルバーカラ―のロケットペンダントを取り出した。楕円の花柄である。そのペンダントを開けると、学生服を着た少年の顔写真が見えた。紛れもない重徳の顔写真である。

「だんだんと息子が大きくなって、私から少しずつ離れていくようで淋しいのですけど、中学の頃のしげちゃんは、今もそうだけど一番輝いていたわ」

「へぇー、まじまじと見たことがないので見せて?」

 重徳は恭子と一緒に小さなペンダントを覗いている。重徳の髪と恭子の髪が絡みそうになる。対面していた光代の顔が、一瞬嫉妬心で曇ったように恭子には見えたが、重徳はまったく気づいていないようだ。

「中学生の頃の僕って、確かにイケメンだったね。恭子さんどうですか?」

 光代がいる手前、冗談でも悪く言えないから、恭子は歯が浮きそうなのを堪えてこう言った。

「いい顔していたのね。凄いキラキラしている」

「そうよ、しげちゃんは私の自慢の子だったの。もちろん今も・・・・・・」

 光代はまた重徳にボディタッチしている。

「あそうそう、この間買ったこの映画のビデオ、しげちゃんきっと面白がるかと思って持って来たわ」

「どれどれ、あ、これ最新作じゃん。サンキューお母さん。見たかったんだ。あっ、この間借りたビデオ返すよ。このビデオちょっと泣けたね」

「そうでしょ。私もこの恋愛映画とっても好きで、3回ぐらい見ているわ」

二人は恭子がお客様で来ているのに、わざとかどうか判らないが、仲睦まじい親子のやりとりを隠すどころか、最大にオープンにしているようだ。光代が天然なせいだろうか。その二人の楽しそうなやりとりを見ていると、恭子は複雑な思いがした。

重徳のことをしげちゃんと呼んでいることや、共通の趣味であるらしい映画の事で話が弾んでいる姿を見ると、親子の関係が微笑ましいと思う反面、孝詞と比べたらそんなに好きでもない重徳に、嫉妬してしまう恭子がそこに居た。

息子を溺愛する母親は、大抵自分の息子に対する疑似恋愛中と言われる。本当は自分の夫にこうされたい、こうしたい、夫にこうなって欲しい、こうして欲しいっていう欲求不満を、異性の子供に向けることで解消しているのである。特に夫が海外赴任のため、光代には不満が累積し、寂しい思いをしている。その代りに息子の重徳が親孝行だと思って、色々と面倒を見てもらった事に対して返す行為が、ますます疑似恋愛に拍車をかけたのだろう。だから、この母親の本当の感情としては、夫の存在がかなり薄くて、夫に言っても無駄だと思いこんでいるのであろう。もし、母親とその夫の夫婦仲がもっと良かったら、息子の重徳との関係は、これほど密着的ではなかったのであろう。

ずばり、この母親にとって、重徳というのは子供でもあるけど、同時に恋人のようなものであり、その重徳ともし恭子が結婚した場合、母親からその恋人を奪うようなものであり、重徳が結婚して一つの家庭を持ったとしても、本当は母親のいる家、つまり実家に帰りたがっているはず、と思い込むことは想像に難くない。

なぜこうまで執着するのであろうか。ある科学者の仮説では、遺伝子の世界から見ると、息子の持っている遺伝子の殆んどは母親からのものとのこと。反対に娘の場合は、♂と♀からは半々ずつらしい。だから周囲が呆れるほど溺愛するのはこのためという。巷では異常な溺愛ぶりが多いが、そういうものだと諦めるしかないという説がある。しかし、それは全くの迷信と言う人もいる。ただし、一つ言えるのは、娘は父親に似て、息子は母親に似るというのが、幸せになる確率が高いらしいという説は、納得できるようなところがある。

 

恭子は割と口が達者な方であったから、光代と会話である程度盛り上げることができたが、やはり重徳が間に入ってくれるからこそなんとかこの場をしのげた。

しかし、頭脳明晰な恭子も思わず地雷を踏みそうになった。光代と話している時に、会社での話題を確認するために、「しげのり」と呼び捨てにしてしまったのである。するとどうだろう、

「いつもしげちゃんの名前を呼び捨てにするの?」

と嫌味のように言われてしまった。その時、恭子は光代の鋭い目つきと気色ばむんだ顔に、恐怖を感じた。もしかしたらそれが光代の恐ろしい本性の一つで、もっと凄いものが水面下に隠れているのかもしれないと恭子は思った。未来の空に幾ばくかの不安が、垂れ込めているようなのだ。その顔つきはしばらく忘れられないものになるだろうと恭子は確信した。恭子は一見フランクな光代と重徳の会話に溶け込もうと努力しているのに、それが全く気に入らなかったようである。恭子にとって衝撃的であった。

恭子が重徳と結婚し、息子が奪われることで、光代が何か一波乱起しそうな予感がした。いいや、恭子にとっては大魔王のような存在になるような気さえした。もし、恭子の本心は何倍も孝詞の事が好きだという事が発覚したら、光代が必ず復讐するに違いないとさえまで思った。

恭子はただ結婚という契約で、生活を重徳から保護され、そのお返しとして、単なるやむを得ないセックスフレンドになろうとしていたのである。そして、孝詞と常に近くにいるためには、現時点では結婚という隠れ蓑が一番得策と思った。それ以上はあまり考えないことにした。今は進むことしかなかったのである。

 

やがて、光代はひとしきり話し込むと、重徳に愛想を振りまき、恭子には儀礼的な挨拶をして帰って行った。見送ってリビングに戻ってくると、恭子はすぐに呟いた。

「重徳のお母さん、手ごわそうだね?」

「そんなことないよ。僕はごく普通だと思うけど?」

「私は貴方の事をしげちゃんと呼ぶのと、さすがにロケットペンダントには引いてしまいました。私には考えられないわ・・・・・・

「そうかな。そんなにおかしいのかな?まあ、どの家庭でも他人から見たらおかしなことは幾つかあるのだから勘弁してくれよ。それより早く一緒にお風呂に入ろう。さあさっぱりしてビールでも飲もうよ」

 重徳はさっさと風呂に入る準備をし始めた。その勢いに恭子は反対する理由もないので従った。

 外からは拍子木を叩く音が聞こえてきた。自治会の人間たちが回っているようだ。恭子はそのカチカチという音が、耳の奥底に沈んでいくような気がした。 


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黒い願いに反して孝詞とゆり子の結婚式は

2月初めの割と暖かい日曜日、孝詞と妊婦のゆり子は、結婚式を行った。会場は1983年4月15日にオープンした東京ディズニーランドに近い、サンルートプラザ東京である。交通アクセスとしては、東京駅から電車1本で繋がる場所である。そして20分間隔で舞浜駅からシャトルバスが出ているため、結婚式に参列する人間も気持ちに余裕を持って行けるところだ。もし、バスを逃してしまっても、タクシーだとメーターで行けるホテルである。

また、東京ディズニーランドの側なので、終わる時間によっては、帰りにパークや駅前のショッピングモールで買い物を楽しむ事も出来るので、招待客にとっても良い立地だった。

ゆり子のお腹はまだそれほど目立たなかった。ゆり子のつわりは長引いていて、孝詞には心配をかけていたが、不思議と外に出ると元気になり、すっかり母親らしい佇まいを醸し出していた。式場との打ち合わせはゆり子が行った。孝詞は本音は乗り気でないから忙しいと言いつつ、ゆり子に任せっぱなしだった。しかし、ゆり子は妊娠して自分が浮気相手に勝ったという事で、全く孝詞の事を疑っていなかった。だから、忙しいという孝詞の代わりに段取りをしていた。

確かに結婚式は一生に一度というのが普通だから、慣れるという訳ではないから、解らない事だらけだ。だからゆり子は疑問を感じたら質問をして、面倒なことはプランナーに指示して何とか当日を迎えている。仕事である以上、あれもこれもと儲けるために提案せねばならないのがプランナーだが、忙しいという孝詞の代わりに、ゆり子はあれこれ注文をつけて変更させたりもしていた。それでも忍耐強いプランナーは、それに応えて結婚式を盛り上げようと努力したようである。孝詞と恭子の意地悪な心理に反して、結婚式の出来栄えは上々であったようだ。

 

恭子は紺色のシンプルなドレスを着て結婚式に参列した。心の中にある重く視界の開けない洞窟のような気分に少しイライラしているが、孝詞との愛が途絶えたわけではないので、淡々としたむしろさばさばとした気持ちもあった。人生の中ではどうしても越えられないような状況も多いが、恭子と孝詞はそれでもめげないようなところもある。恭子は時間の流れに身を任せ、今できることだけに一生懸命取組むしかなかった。だから唯、孝詞を心の中で愛し続けていた。

会場に近づくと、シャトルバスの中から、大きな白い軍艦のようなホテルの威容が目に入ってきた。恭子は少したじろぐような気分がした。愛する孝詞とゆり子の結婚式に出るというかなり勇気のいる行為に、少なからず緊張感が漂っていた。2月だというのに、手の平に汗をかいているのが良く判る。といってこの苦しい緊張感を味わないために結婚式に参列しない手もあったが、同僚でもあるのに余計な詮索や浮気相手かも知れないという疑いを一切持たれないためには、恭子は無理をしてでも出なければならなかった。ただ参列するだけだと心に言い聞かせているが、孝詞を失う悲痛な失望感は否めない。

シャトルバスを降りて、挙式会場に向かった。内部は清潔感の溢れる調度品などが整然と配置されていた。恭子はホテルの醸し出すきらびやかなイメージを堪能しながら、目当ての会場に到着した。しばらくすると、顔見知りの同僚が何名かやって来たので、挨拶しながらゆっくりと式場内を見ていた。

そのシンプルで白を基調としたチャペルは、華美な装飾はほとんどなく、木の椅子がこじんまりと並んでいた。純白のバージンロードや、ほのかに灯るオイルランプが、ロマンチックなムードを演出する幻想的なチャペルである。全体的には落ち着いた雰囲気であるが、恭子の心はやっぱり穏やかになれるはずもなかった。

 

式が始まった。最初にオルガン演奏である。聞きなれたウェディングの曲が厳かにチャペルに響き渡った。新婦とその父親が後方から入場してきた。バージンロードに反射して映っているドームの光が、ドリーミーな雰囲気を醸し出していた。バージンロードは長すぎず、妊婦であるゆり子と初老の父親にとっては、好都合であったようだ。

バージンロードの横に並んでいるブルーの光も、神秘的で美しい。結婚式で花嫁が身に着けると良いとされている事柄の中に、サムシングブルーというものがある。『おふたりに幸せな時間を過ごしてほしい』という意味で、ブルーの光で迎えているようだ。

ゆり子は妊娠中という事で、お腹が苦しくならない白のエンパイアラインドレスを着て登場してきた。ブルーのリボンが入ったドレスである。孝詞のベストとタイもブルーであった。ブーケや髪飾りも、ホワイトとブルーを基調にコーディネートしていたのである。恭子は苦々しい気持ちがした。

恭子は内心断りたくて仕方がなかったが、全く疑いを持たないゆり子の依頼で、メイドオブオナーの役をやらなければならなかった。聖職者と、新郎とベストマン、そして恭子は祭壇の前に立ち、新婦の入場をにこやかに待たねばならなかったのである。               

新婦が祭壇の前に到着すると、聖歌隊が澄んだ声で賛美歌斉唱を行った。そして挙式開始の宣言が、聖職者の格好をしたホテルのスタッフから発せられた。

続いて偽聖職者の問いかけに対して、新郎・新婦が答える形で結婚を誓約する。孝詞は淡々と誓い、ゆり子は満面の笑顔で誓っている。そのコントラストは参列者には判らない。知っているのは恭子と孝詞だけである。

さて、指輪の交換である。結婚の誓約として指輪を交換する訳だが、何とベストマンは重徳が努めている。少し薄笑いを浮かべたような妙な顔つきで、聖職者に指輪を渡した。ゆり子はメイドオブオナー役の恭子に、手袋やブーケを預けた。ゆり子の顔つきは、何処までも勝利者のように自信に満ち溢れていた。その顔を恭子は一部始終見ている。いつかは孝詞をもぎ取って見せるという固い意志のままに。

孝詞は、偽聖職者から指輪を受取り、小刻みに震えるような手でゆり子の指にはめた。ゆり子は有頂天の頂に住む神のように微笑んだ。今度はゆり子が偽聖職者から指輪を受取り、孝詞の指にはめた。恭子は心の中で、奇跡が起きて指輪が薬指に入らない事件が起きるような妄想に襲われた。妄想に襲われると、今目の前で行われていることは、朝方の儚い夢ではないかとさえ思った。しかし、厳しい現実の時間の振り子は、妄想を吹き飛ばした。確かに孝詞の薬指に、銀色の指輪がはめられ、鈍い輝きさえ放っていた。

それから、孝詞、ゆり子、続いて偽聖職者が結婚証書にサインをした。もう戻れないような道に入ったのだろうか。いいや、そんな形式的な証書なんか何の意味もないと恭子は思った。

やがて、孝詞とゆり子はキャンドルを手渡され、このシンプルなチャペルの祭壇中央のユニティーキャンドルに火をつけると、いよいよ誓いのキスだ。孝詞がゆり子のベールをあげてキスをするのだ。恭子はとても見ていられる気分ではないが、努めて顔は穏やかにしている。それでも恋する孝詞は役者のように振る舞ってゆり子のベールをゆっくり上にあげ、薄い唇にキスをした。当のゆり子はキスをされた孝詞に対して、強く吸い返しているのが判ると、恭子は激しい吐き気さえしてくるような気がした。

「結婚が成立しました」

という偽聖職者の堂々たる声の結婚宣言がチャペル内に響くと、式はお開きである。

再度オルガン演奏が場内を占領すると、参列者の祝福や拍手を受けながら、二人は退場していった。恭子はまるでこれでもう孝詞とは一生逢えないような寂しさに一瞬覆われた。

 

披露宴は最上階のレストランで行われた。

着席すると恭子と重徳はやはり同じテーブルになった。開始前のざわめきは恭子にとって心が紛れたが、親友として挨拶する緊張感は、大きな槍の切っ先が、今にもこの五体を突き刺すような苦痛に満ちていた。何故なら今日、恋人の孝詞の前で、公にしなければならない事があったからだ。

披露宴会場の窓はグレーの厚いカーテンで覆われている。恭子にとっては気分が塞ぐような会場だった。しかし、どうだろう、直属の上司の乾杯発声の後、参列者が杯を思い思いに飲み干したりしていると、ディズニーの軽快な音楽と共に、グレーのカーテンが上がっていくと、東京湾が眼下に広がった。もちろん夢の国ディズニーランドも視界に入ってきた。景観の美しさに思わず恭子は、グレーな気分などすっかり忘れて、テーブルを少し離れて見入ってしまった。そう、他の参列者も何名かそうしているのである。司会者からもどうぞご堪能くださいと案内があった。恭子は目の中に全ての美しいシーンを閉じ込めるような気持ちでずっと見まわしていたが、重徳の顔が目に入ると、はっとして現実の自分の置かれた立場に戻るしかなかった。恭子が自分のテーブルに戻ると、重徳は笑いかけてきた。

「スピーチを頑張るために、少し飲みなよ」

 とビールを注いできた。恭子は緊張をほぐすために、男のように勢いよくグラスを空にした。

恭子にとっては、さっきまで気に入らない会場だったが、東京湾などを一望できるシュチエーションに、すっかり落ち着いてしまったようだ。それは何故か諦観のようでもあり、恭子の心を平らかにしてしまったようだ。他の参列者たちも圧倒的な景観に、衝撃を受けているようだった。

改めて会場を見直した恭子は、シックでどっしりとしている雰囲気の会場のコーディネートを、やっとゆっくりと見まわすことができた。重徳が挨拶の続く中で、何度も注いでくれるビールのアルコールは、恭子の大脳皮質を支配していた。気が大きくなり、荒々しささえ出て来た。レストランをコーディネートしている会場は、横に広がっていて、60人ぐらいは入っていただろうか。楕円形の円卓には話の輪が幾つも広がり、笑いさざめく声は大きくなるばかりだ。恭子はこれだけざわついていれば、私の話など聞き流してくれるだろうと安心していた反面、座っている全員がバックグラウンドミュージック以外しわぶき一つない中で話してやろうという、変な居直ったような気持ちもあった。確かにスピーチ次第で、いくらでも自分に目を向けさせることなど、今の酔った恭子にはたやすいと思った。愛する孝詞の前で、親友挨拶のメインとして、大見得を切ってみせると恭子は軽く拳を握った。

やがて、恭子のスピーチの番がやって来た。司会が新婦と恭子の関係をつまびらかにしている。表向きは大親友という事なのであるが、実際は恭子にとっては最大の敵なのに、スピーチしなければならない不条理に、地団太を踏みたいところだが、窓の外の景色と酩酊の初期段階に突入した恭子は、女優のように演じ始めた。そのセリフの一つひとつが歯の浮くような美辞麗句であっても、完ぺきに演じ切り始めた。

「孝詞さん、ゆり子さん、ご結婚本当におめでとうございます。会社で毎日、ゆり子さんの正面の席に座って、仕事をしております名取恭子と申します」

恭子の美しい顔立ちは、スポットライトを浴びて輝いていた。酔いが回った恭子は、シックな紺色のドレスを来た妖艶な女優のように周囲には見えた。歓声が上がるほど確かに恭子は美しかった。だから、参列者の目は釘付けになっている。

「ゆり子さん、職場は別の時もあったけど、同期入社以来のお付き合いなので、かれこれ4年になりますね。ゆり子さんも私も総合職としての入社だったので、『男性社員に負けないようにがんばらなきゃ』を合言葉に、今まで二人で仲良く頑張ってきました。『仕事に追われ過ぎて、プライベートでゆっくりできる時間がないのは良くないね』と、何度か一緒に大好きなこのディズニーランドに来ました。本当に楽しかったですね、ゆり子さん。職場では、『いつも君たちは一緒だね。嫁に行くのも一緒かい?』と尊敬する星野部長に良くからかわれていましたね、ゆり子さん。でも、今回は本当に残念なのですけど、一緒に結婚するという訳にはいきませんでした。ちょっとだけ悔しい!『孝詞さんと結婚します』と打ち明けられた時は、『こんなに忙しい毎日なのに、いったい、いつ恋愛して、いつ未来の宝物をさずかったの?』と、本当に驚いたり、うらやましがったり、悔しがったり大変でした。仕事仲間であり、良き友人であり、良きライバルだったゆり子さん。白状しますが、私はゆり子さんの仕事のこなし方、服装のセンスの良さ、女らしいこまやかな心遣いなどを、心から尊敬していたのです。そして、これからも尊敬し続けると思います」

 ここまで恭子は言い切ってしまうと、ゆり子はメインテーブルに座ったまま、ハンケチを目に当てていた。孝詞は笑ってはいるが、恭子のあまりにも出来過ぎた挨拶に、驚きを隠せない。恭子は腹の中で、自分の演技の上手さに酔いしれていた。

「孝詞さんにご協力いただいて、ゆり子さんはしばらくしたら退職されてゆっくりされると聞いています。これからも今までのように、いえ、今まで以上に仲良くお付き合いをしていただけるとありがたいです。私より先に結婚するのだから、色々な事についてご指導の方もよろしくお願いします。新婚旅行は、グァムに行かれるとうかがっています。仕事のことは全部忘れて、思う存分、楽しんできてください。今日はお招きいただき、ありがとうございました。お二人で素晴らしいご家庭を築いていってください。

そして、最後に一言だけご報告があります。孝詞さんとゆり子さんに見習って私も近いうちに結婚します。相手はまだ申し上げませんが、知る人は知っているでしょう。いずれ、会社の先輩、後輩の方々にはご報告しますが、その時にはよろしくお願いします」

大見得を切って恭子は話を終えた。会社関係の参列者は、どよめきの声さえあげている。

ゆり子は孝詞の浮気相手である恭子を、無二の親友であるかのように思い、スピーチの間、涙さえ浮かべて嬉しそうに聞いていた。そして、恭子が祝福してくれるこの結婚式で、姿の見えない浮気相手と新郎の孝詞が、間違いなく縁を切ってくれると確信していた。結婚式を通して孝詞と契約を結び、その契約を反故にしないことをゆり子は信じた。

スピーチを終えて席に戻ると、重徳がピースサインのような仕草をした。恭子は重徳の嬉しそうな顔に、うんざりしていたが、将来動くATMになることを考えると、無下にもできないので、微笑みを返した。

座っていると、煮えくり返るような怒りが、ゆり子に対して再び湧いてきた。まだ初期の酩酊状態だから、表向き同僚であり、親友であるゆり子の結婚式を祝うというスタンスは保たれているが、恭子の内部は醜いほど荒れ狂った。

先ほどの、やけくそのような気持ちで演技し挨拶させられたことに対して、元凶であるゆり子を殺したいほど憎んだ。不条理は覆せていない。孝詞も悪いと言えば悪いが、愛し抜いている以上、孝詞を憎むことはできないし、未練をふっ切ることなどできない。それでもこれからも生き延びて愛を育み続けるためには、隠れ蓑が必要だった。なんとなく利用され利用してきた重徳と結婚することで、ゆり子からの浮気の疑いの候補から完全に消失する。それだけでも幸せだから、重徳の名前を明らかにはしなかったが、結婚することを出席者に言い放ったのである。

 

恭子の心の中の黒い願いは叶う事なく、孝詞とゆり子の結婚式は、盛大に大成功で終わった。恭子は孝詞を奪った敵は、ゆり子なのだと再度確認しながら、憎しみをさらに募らせ、帰りのシャトルバスの中で床を何度も蹴った。


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怖れは愛をそそのかし


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著者 : 三輪たかし
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