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倉庫番

  倉庫番

 

   1

 

 おやじが出張するので、おれは代わりに倉庫番をやることになった。なにも頼まれたからやるんじゃない。たまには気晴らしにそんな仕事をやってみるのも、話の種かと思って、ちょうど退屈していた折でもあるし、引き受けたのである。おやじの方はおれを跡継ぎにしたがっている。高校を出て以来、職にも就かず、やくざな生活に身をやつしている息子のおれに、少しは仕事の味というものを教える機会もがなと、前からねらっていたのだろう。今日、おれがあまりあっさりと引き受けたので、少しは日頃の感化らしきものがあったと自惚れてしまったらしい、実に上機嫌に出かけていった。おれに倉庫の鍵をあずけ、おやじの配下たちにはよく話しておいたから、心配するなというのである。ここで説明しておくと、おれはおやじのことを倉庫番と呼んでいるが、実際は下に何人かの部下のいる倉庫の管理人なのだ。でもやっぱり倉庫番には違いなかろう。

 おれは生まれて初めて仕事らしい仕事をやることになったので、その日は町を歩いていても、何となくいつもとは気分が違っていた。これまではまっとうな仕事なんてものは馬鹿にしきっていたのだが、実際におれの肩に責任というものが預けられてみると、そんなことは意に介していないつもりでも、何となく背中がこそばゆくなってきて、いつもの背中を丸めて体を揺すって歩く歩き方ではなく、いつの間にか背がしゃんとしてしまい、足つきにも落ちつきがでたし、なによりも世間の人間に対して軽蔑に軽蔑でむくいるという、あの意識過剰の状態が静まったことは特筆に価する。こういうことなら仕事もまた悪くないな、とおれは思った。

 前方から遊び仲間のヤー坊がやってきた。両手をだぶだぶズボンに突っこんで、肩であたりの空気を切ってるつもりが、おれたち特有の猫背がなんだか陰険にいじけさせてしまっている。昨日までのおれの姿を鏡の向こう側に見ているようなのには、おれは思わずニヤリとしてしてしまった。

 「よお、マー坊」

 おれのニヤ笑いを挨拶と心得て、ヤア坊は寄ってきた。

 「なんかいいことがありそうじゃねえか」

 おれはすんでのところで倉庫番のことを言いだしそうになったが、あやうく思いとどまった。おれがこんないい仕事にありついたと聞いたら、ヤア坊はきっとおさえのきかない嫉妬に狂うだろう。やっこさんだってまともな仕事があれば、それにつきたいに違いないのだ。だからもしおれが口をすべらしたら、彼はさんざん倉庫番をあざけったあげく、そんなものになろうというおれの根性をさげすみ、裏切り者とののしることだろう。

 「それを言いたいのはおれの方だよ。なんかいいことねえかな」

 ヤア坊はおれの顔をさぐるようにジロジロ見た。それから向かいのなじみの喫茶店の方を顎でしゃくりあげた。

 「来いよ」

 ぶっきらぼうに言って先に歩きだした。

 その喫茶店はやけに照明が薄暗い。内部はどういう造作なのか、あちこちに段があって、鍵の手に曲っている。古道具屋から運びこんだような古めかしい椅子やテーブルが置かれ、椅子の背もたれがまたやけに高いのである。こういう暗がりを嗅ぎつけるのに特別の嗅覚をもった者たちが、隅のいっそうの暗がりに三々五々たむろしている。学生服姿が隅の方でこそこそと煙草をふかしたり、おかまのお兄さんがトイレのそばの席でがんばっている。そのほか、電気の節約だか意図的にそうしているのだかは知らないが、ぼんやりした照明の下では、あたりまえの客でも何か神秘めいたふうに見えてしまう。いずれ改装するという話だから、それまではおれたちの恰好のたまり場だった。

 ヤア坊と二人、いつもの奥の席へ、急に暗い所へ入った視力のきかない手探りの状態でたどりつくと、さきに二人来ているようだった。一人はタア坊という顔見知りだったが、もう一人は目が慣れてからよく見ると、まったく知らない年長の男だった。タア坊とは目で挨拶して、三人掛けの長椅子の端に間をあけて坐った。ヤア坊は向かいの知らない男のわきに、やはり間をあけて坐った。ボーイが注文をとってコーヒーを運んでくるまでは、話らしい話を誰からも切り出さない。その間、手持ちぶさたにむっつりしている。ヤア坊がポケットからゴソゴソと煙草を出す。タア坊がまだ吸殻のくすぶっている灰皿をそっちへ押してやる。おれは煙草を切らしていることに気づいたが、さっきの優越感の一件があるので、おれのほうから手を出すのはさし控えた。ヤア坊は知らんふりをして吸っている。知らない男はさっきからマッチの軸をしきりに指でもみ回していたが、やっと点ける気になったらしく、一瞬男の顔が下から明るく照らされた。そのまま軸を斜めにしてもとまで燃やすらしい。指先までくると、指で鼻くそでも丸めるようにもみ消してしまった。

 そのうちおれはタア坊とヤア坊が、どうやら目くばせを交わしているらしいのに気づいた。二人ともおれの方をチラチラ見るので、どうやらおれのことらしい。こういうこちらをつんぼさじきにした、しかも自分に関係のあるらしい眼の合図というものは実にいやなものだ。なんだか、おれが自分でも気づかないで仲間に悪い事をしたような気がして、それとも、もうおれは仲間ではないのだと言われてるようで、実に気にさわる。

 その時コーヒーが運ばれてきたので、この場の緊張は一時救われた。おれは倉庫番の仕事もあるので、帰ってもよかったのだが、なんだか彼らの態度が腹にすえかねる気がして、意地でもいてやろうと決心した。コーヒーに砂糖とミルクを入れて、わざとウマそうにすすってみせた。ついでに煙草もボーイに持ってこさせた。ヤア坊は鋭い眼でおれの顔を終始さぐっていたが、急に硬い表情をやわらげて、おれのことを仲間に吹聴しだしたのには驚いた。

 「こいつはよう、中学の時からのダチでよう、やばいことを何度も一緒にやってきた仲なんだ。こないだもよう、オメーあのこと言っちまうぞ、女子大生をよう、こいつのおやじの倉庫のかげでよう、ヤッちまったんだ。ヤベー」

 ヤア坊は声を低めながら、最後に思い出し笑いにヒッヒッと下品な笑い方をした。倉庫という言葉に急に関心を引かれたように、知らない男が身を乗りだし、そしておれの顔をじっと見た。実にいやな凝視だ。心の奥の奥まで見すかさずにはおかないような、あのねちっこい蛇のような視線だ。もっともおれの方もそんなふうな目つきをして、見返していたには違いないんだが。

 タア坊が身を乗りだして、テーブル越しに男に何ごとか囁いた。男の眼は相変わらずおれの方を見ている。

 「鍵があるんだな」

 男はふと視線を動かし、誰にともなく感情のこもらない声で言った。男の声で、一瞬固い沈黙が支配した。いよいよ話の核心に迫っていく時の、息詰まる緊張がそこにあった。それをほぐそうとして、ヤア坊は咳払いした。タア坊は片腕を窮屈そうに背もたれ越しに伸ばし、体を斜めに向けていた。知らない男は両肘をひざに乗せてかがんだ姿勢で、新しいマッチの棒を指の間でもてあそんでいる。

 「そうなんだ」

 ヤア坊が代わりに答えた。

 「それじゃ、おれのでる幕じゃねえな」

 「そらねえよ、いまさら」

 タア坊がビクッとして背を伸ばした。

 「鍵があるんなら、おれは用がねえだろう」

 「鍵があったって、どこの倉庫か分かりゃしねえぜ」

 「おらあ、もうおめえらの遊びにつき合う気がしなくなったよ」

 男は立ち上がった。ヤア坊もあわてて立ち上がった。

 「待ってくれ、ハアさん」

 タア坊は袖をとって引き止めようとしたが、振り払われて同じくあわてて立ち上がった。おれももちろん立ち上がった。男はおれたちに目もくれずに、悠然とレジの方へ歩きだす。タア坊があとを追った。ヤア坊はあきれたように二人の背を眼で追っている。おれはヤア坊の横顔を見ていた。ヤア坊はおれの視線に気づいて、不機嫌にわざとドスンと長椅子に腰をおとした。おれも坐った。冷たくなったコーヒーの残りをまずそうになめた。ヤア坊が向かいから顔を寄せてきた。

 「今夜・・・ちェ、おめえのお蔭でダイなしだ。おめえのオヤジが出張したのはまちがいねえんだろうな。あとに残ってるのは薄のろばかりだからな。今夜、倉庫になにが起こっても、黙っていろよ。まあ、おめえのことだから心配ねえが、今夜は早いとこ家に帰って、寝ちゃいな。じゃ、あばよ」

 ヤア坊は伝票を残して足早に出て行った。おれは四人分払わされるハメになった。だがそんなことより、さっきからおれの頭の中は全くこんがらがってしまっている。三人が今夜、おやじの出張を見計らって、倉庫を襲う相談をする予定だったのは見当がつくが、最初はおれを誘っておいて、それからおれのお蔭で計画がだめになったとはどういうことだろう。おれが今晩、倉庫番をやることを、彼らは知らなかったにちがいない。それを彼らが知っていれば、こんな好都合な話はないではないか。しかし、このおれはどうだろう。やはりこれまでのように、唯々諾々と彼らの話に乗っただろうか。彼らがおれの倉庫番を知って、話を持ちかけてきたら・・・きっとおれは承知してしまっただろう。おれはそういう人間だ。優柔不断で、人に対してはっきり反対することができない。今晩、倉庫番をやるんだって、おやじと怒鳴りあうのがもう面倒くさいから引き受けたまでのこと、もし泥棒の片棒かつげと人からもちかけられれば、これまた断りきれないこのおれだ。こういうふうに仲間われしたのは、まったく幸運というほかはないではないか。おやじにとって、そしてひょっとしたらおれにとっても、幸運なのかもしれないのだ・・・。

 

   2

 

 火燈し頃におれはぶらぶら駅へ向かった。駅の裏口の方に倉庫がたくさん並んでいる。駅の横手の狭い道を入っていくと、一方は鉄道荷物の発着所らしい建物の黒い羽目板が迫り、他方は焼棒杭(やけぼっくい)に刺のついた鉄線を張った柵で、その先は線路だ。

 倉庫事務所の中へ入ると、女事務員が一人いた。帳簿かなんか机の上に開いて、せっせとペンを動かしている。眼鏡をかけたまったく目立たない顔の女だ。体だって蚊トンボのように骨ばっている。とても女として相手にする気にならない。女事務員というのはこういうタイプが多い。生き物というよりも、机や椅子と一緒の事務所の付属品という感じがしてくる。だからおれもほとんど彼女の存在を気にとめなかった。彼女はおれのくるのを十分心得ていたらしく、おれが入っていくと眼で笑って迎えたが、それっきりで、あとはまた帳簿の方にかかりきっている。無視したのでもないらしい。なにしろおやじの代理とはいえ、おれが上役なのだから、おれの方から話しかけねばならないのだろう。だが考えてみれば、おれに何の話すことがあろう。おれは何一つ倉庫番の仕事の内容を知らないのだ。

 おやじもうかつなことだが、おれが仕事を引き受けた嬉しさに、仕事の手はずとか内容とかを伝授することについては、すっかり失念してしまったらしい。おれもおれで、そんなことは聞いてみようという気も起こらなかった。倉庫番などというものは、出ていけば何となくどうにかなろうなどと考えていた。だから事務員を見ても、命令はおろか、彼女がなにをしてるのかも知らないし、これからおれが何をすべきなのかも知らないし、といって途方にくれていたわけでもない。とにかく自分がここに存在していることが大切なのだという、漠然とした仕事意識しかなかったのである。

 倉庫番に事務員が必要なのかどうか、彼女はいつまでいるのか、そんなことはどうでもいい。彼女の好きなようにやらせておけばいいさ。それが一番間違いがないんだ。なまじおれが口を出したところで、トンチンカンを笑われるだけのことだろう。それにせっかく彼女の方で、おれが気をまわさんでもいいようにと、黙って仕事を続けているんだから、部下に理解のあるところを示すのも、また上役の務めのうちだろう。

 おれは事務所を出て外をぶらつくことにした。たくさん並ぶ倉庫の前を歩いていると、二人の倉庫番に出会った。おやじほどではないが、二人とももうかなりの年である。おれは彼らの姿を見かけると、急に体の動きが固くなるのを覚えた。おれのような若蔵を見たら、やつらはきっとこ馬鹿にした態度を取るに違いない。おおっぴらに逆らうかもしれない。あるいは、それが一番ありそうだが、完全に無視してかかるかもしれない。一人とすれちがった時、思っていたとおりのことが起こった。彼はおれの存在などまるで眼中にないかのようだった。だが不思議と腹が立たなかった。屈辱を覚えることもなかった。というのは、その無関心が悪意からではなく、まったくあの女事務員の沈黙と同じように、おれに対する一種の遠慮から出ていることを、おれは彼の顔から一目で見てとったからである。実際おれは、その遠慮がおれに対するものではなく、おれのおやじの威光に対するものであろうと、すぐに考え直した。だが、それもどうも違っているような気がした。もう一人も同じような態度を取った。それはあたかも羊が番犬に接する時のような、おだやかな無関心であった。

 彼らは従順なのだ。従順そのものなのだ。おれが空気のように邪魔さえしなければ、彼らは与えられた仕事を忠実に果たす。空気のように。そうだ、それがおれの仕事だ。おれがそこにいるだけで、指一つ動かさずに、彼らはおのおの自分らの仕事にせいを出す。おれがちょっとでもちょっかいをすれば、彼らはたちまち躓いてしまうだろう。上役というのは何にも仕事をしてはいけないのだ。彼らの邪魔にならないように、しかし絶えず彼らの勤労本能を刺激するように、存在だけはしている。おれは彼らに対する不安をまったく失くしてしまった。とにかく、おれは倉庫番の仕事について何も知らないのだから、万事彼らにまかせておけばよい。いや、まかせるほかはないわけだ。

 そこでおれは倉庫から離れて、線路際の柵の方へ行った。杭にもたれて休息んでいると、誰か線路の向こうで呼ぶ声がした。おれの名を呼んでいる。女の声だ。もうかなり暗くなって、眼をこらさねば見えなかったが、向こう側の官舎から人影が出てきた。おれの方へ手を振った。そして、引き込み線がたくさんあるおかげでずいぶん本数の多い線路の上を、駆けながらこっちへやってくる。近所の小母さんだ。世話好きな人で、何かとおれに就職口を持ってくる。またそんな話の一つを思いついたらしい。小母さんの後ろから、小母さんの二人の子供が一緒について、線路上を走ってくる。幸い列車の気配はないものの、危ないことだなと思った。伯母さんは柵の向こう側まで、息を切らせてやって来た。何かいい話があるらしく、にこにこ笑顔を見せている。子供たちも、線路の上をひとつひとつ、遊びのつもりでピョンピョン跳ねながら、こっちへ来る。

 「正夫さん。やっぱりあなただったのね。姿が似ていると思ったら。こんなところで何してらっしゃるの」

 「倉庫番だよ」

 おれはちょっと得意になって答えた。

 「あら、そう。とうとうお仕事につく気になったのね。えらいわ、やっぱり正夫さんだわ、わたしの目に狂いはなかった」

 「ちがうよ。今夜一晩だけだよ。おやじが出張して、代理なんだ」

 言ってしまって、おれはちょっと後悔した。こんなこと言わなくてもよかったじゃないか。小母さんに、この先ずっと倉庫番につくものだと誤解させておいたままの方が、気分が良かったじゃないか。おれは薄闇の中に浮かぶ小母さんの顔をうかがった。小母さんの丸みを帯びて肉づきのよい面(おもて)は、目も口もとも笑っている。

 「それで、おれに何か話でもあるのかい」

 「あら、もういいのよ。正雄さんがいいお仕事についたんだもん。わたしの出る幕じゃなくなっちゃった」

 前のおれの言葉を、幸い聞きもらしたらしい。

 「でもよ、話があるなら一応聞いとかなきゃ。おれも何の話だったか、あとあとまで気にならあな」

 「たいしたことじゃなかったのよ。でも倉庫番やってらっしゃるなら、もう必要なくなったわ」

 二人の子供は小母さんの足元の線路の上にしゃがみこんで、砂利いじりをはじめている。下りの急行列車がゴーッと、幻のように過ぎて行った。線路の向こう側の駅前には、居並ぶビルの窓の灯が、黄色く闇をくりぬいている。

 

 3

 

 「そんなこたあねえよ。この仕事だっていつやめるか分からねえんだから、聞くだけ聞かせてくれよ」

 小母さんは頭だけひねって、後ろのビルの方を眼で指すようなふりをした。何かその辺の窓のうちのどれかに、話と関係のある会社でもあるらしい。おれも、窓だけがますます際だってくるそっちの方を、興味をそそられて見た。

 「あなた、アメリカへ行きたくない」

 「アメリカ?」

 「そう、いい口があるのよ。そこでは英会話だけ一生懸命、勉強すればいいらしいの。そうするとアメリカへタダで渡してもらえて、そっちでお仕事があるらしいの」

 なんだか雲をつかむような話だが、それ以上にアメリカというわけの分からない地名が、おれの中に漠然とした不安をかもしていった。おれはビルの窓の灯をじっと見た。するとその窓のどれかひとつの中に、アメリカという所への入口があるような気がした。入口だけでなく、その中にアメリカが詰まっているような気がしてきた。

 「そんなのはね、よくある人を引っかける手だよ。最初、取るものだけ取っておいて、あとでドロンを決めこむ寸法さ。おれにはよく分かってるんだ。それに、おれは勉強なんて大嫌いだァ」

 小母さんは強いて繰り返そうとはしなかった。なにしろおれには倉庫番というレッキとした仕事があるんだからな。小母さんは急に話題を変えて、柵ごしにおれの方へ体を近づけてきた。棒杭にしなだれかかって、甘い声を出した。

 「ねえ、あたしのことをもうお見限りかい」

 おれはドキッとした。はて、小母さんとこれまで関係したことがあったろうか。おれは靄のかかったような頭の中で思いだそうとした。子供の一人が砂利いじりをやめて、小母さんのスカートをしきりに引っぱっていたので、半分ズリ落ちそうになっていた。

 「今晩、仕事が終ってからおいで。きっとだよ」

 小母さんは柵の間から手を入れて、おれの腿をギュッとつねった。それから子供を叱りとばしながら、線路の上をピョンピョン越えて、官舎の方へ帰っていった。

 おれは茫然として、しばらく柵の前にたたずんでいた。小母さんの良人のことを考えようとした。すると小母さんが寡婦だったことを思いだした。するとおれは、これまで何度か小母さんの寝床へもぐりこんだことがあるに違いない気がしてきた。そればかりか、小母さんの良人が死んだのも、おれのせいだったような気がしてきた。どうしてこんな妄想ばっかり起こってくるのか、おれは我ながらあきれて笑いだしたくなった。列車がまた幽霊のように前を過ぎて行った。

 

  4

 

 事務所へもどると、女事務員の姿はなかった。仕事を了えて、もう帰ったのだろう。壁に名札がぶら下げてある。仲居ワカ子とある。その隣に坂井キチ兵衛、赤井チキ兵衛と並んでいる。おれの名札はなかった。まあ、今日の当番とはいえ、臨時だからな。ところで事務所には机と椅子とが一揃いしかなかったので、というのは倉庫番にそんなものは必要ないからだろう、ワカ子がいる時はおれは堅い木のベンチに腰を下ろすのもしゃくだったので、あっちへ行き、こっちへ行き、手持ちぶさたに部屋の中をうろうろしたものだが、一人になると、おれはまだワカ子の温かみが残っていそうな椅子に腰かけてみた。後ろにふんぞり返って、机の上に両足を挙げてみた。すると倉庫管理人という感じがじわじわとわいてきて、おれを喜ばせた。これでキチ兵衛かチキ兵衛のどちらかを呼びつけて、命令でも下せたら、この上の満足はないのだが、それにしてもワカ子が早々に帰ってしまったのが、おれには心残りだった。お茶の一杯でも汲ませてみたかった。

 キチ兵衛とチキ兵衛は外で何をしているのか、事務所には入ってこない。とにかく倉庫番なんだから、番をしてなきゃなんない。きっと建物の薄暗がりかなんかにうずくまってるんだろう。おれは昼間のヤア坊やタア坊たちとの出来事を思いだした。やつらは本当に今夜、倉庫を襲うつもりだろうか。それともあれはあのままお流れになってしまったのじゃないか。おれはタア坊が兄貴と呼んだ見知らぬ男のことを考えた。彼の仕草とねちっこい眼つきが甦ってきた。きっとこういう方面の仕事の達人か何かだろう。鍵と聞いてプライドが傷つけられ、計画から下りる気になったのだろう。

 やつらのねらいは何だろう。よく普通の品物に見せかけた禁制品を、倉庫を襲って横取りする連中のあることを聞いた。もちろんおれは倉庫の中に何がしまわれているかを知らない。そんなことは昼間の連中の範囲で、倉庫番の知ったことじゃないからな。おやじは知っていたかもしれない。だが必要ないと思ったか、おれには話してない。おれたちは外から侵(はい)る者を見張っていればいいんで、中のことまで面倒はみれない。おれはそう開き直ってみた。というのは少し不安だったからだ。彼らの計画が、夜がふけるにつれて、おれの神経を圧迫しだすようだった。

 それというのも仕事というやつが、無意識にそれに従事する者におよぼす感化のせいだったかもしれない。おれは目に見えない責任というやつが、おれの肩をしっかとつかんでいるような気がしてきた。彼らの計画に対して、昼間は思いも寄らないことだったが、だんだん怒りのようなものを覚えてきた。やつらはひょっとして、おれに対して挑戦していたんじゃないだろうか。おれの鼻先で倉庫破りの相談をほのめかして、おれを愚弄していたんじゃなかろうか。

 一旦そんな想像がわいてくると、おれは屈辱と怒りのために、顔が蒼ざめるのを覚えた。ただ単に倉庫が襲われるというのだって、だんだん不愉快になってきたのに、おまけにおれが倉庫番をやっていて、そのおれの面前で計画を立て、しかもおれが上手に立っていると勘違いさせておいて、なんにも知らないのはそっちだと、今頃は腹をかかえて笑っているだろう。まして計画がオジャンになったと見せかけて、実は明日の朝になって倉庫が破られていたなんてことになったら、おれの面目はまるつぶれだ。そうだおれの面目だ。おれはその言葉が気に入って、幾度か舌の先でころがしてみた。

 「メンボク、メンモク、メンボクない」

 おれは鍵の輪をひっつかむと、事務所を飛びだした。キチ兵衛とチキ兵衛を探した。二人は少し行った倉庫の前の通路にいた。どこから運び出してきたのか、木のベンチに二人ともまたがっていた。ちょうどシーソーをやるような恰好で向かい合っている。こんな暗がりで何をやっているのだろうと思い、急ぎ近づいてみると、どうやら将棋を指しているらしい。街灯も月もないのによく見えるな。おれが近づいても、二人は顔もあげないで熱心に盤面に見入っている。おれは将棋の駒ごと蹴とばしてやりたくなった。

 「おい、おまえらに訊くが、だれも怪しい者は見かけなかったか」

 二人は同時に顔をあげた。薄暗がりの中だったが、こう並べて見比べると、二人の顔は双子のように似かよって見えた。丸顔で、両頬が二十歳前の女のようにふっくらしている。違うのはつやつやと脂ぎって、汚い無精ヒゲが伸びていることだ。眼鏡がまたそっくり同じ丸型のを掛けている。油をテカテカ塗った髪の分け方も同じだ。ただ一方の方の鼻の頭が赤いのが、夜目にもはっきり分かった。おれは何ということのない連想から、こちらが赤井チキ兵衛だなと思った。どっちがどっちだってかまやしないが、とりあえずそう決めることにした。

 「だれも怪しい者は見かけなかったかと訊いてるんだよ」

 おれよりもずっと年嵩の人間に乱暴な口を利いたものだが、おれは上役というのはこういう口の利き方をするものと心得ていた。

 「はあ、だれも見かけなかったべ」

 チキ兵衛が言って、キチ兵衛と顔を見合わせた。

 「わしも見かけなかったでごぜえます」

 キチ兵衛もややあって答えた。

 「おまえら、将棋なんか指しとって、よく見回ったか。会社はな、おまえらにタダ飯食わしてやってんじゃねえんだぞ。遊んでても給金がもらえるような、甘い会社と思うなよ」

 何でおれがこんなことを怒鳴りだしたか、自分でも分からなかった。分からないのは彼らも同じらしかった。顔を見合わせて、呆気にとられているようだった。それからチキ兵衛が下目づかいにオズオズと言いだした。

 「何の話だんべえ、坊ちゃん。わしらは倉庫番だで、会社だのなんだの、かいもく見当がつかねえでごぜえやす」

 「そうでごぜえやすだ、坊ちゃん。わしら長いこと倉庫番をやっておりやすが、会社がどうのこうのなんて、これっぽちも聞いたことがごぜえやせんで」

 「しかしおまえたち、給料をもらってるんだろ」

 「へえ、坊ちゃんのお父様から」

 「それならそれが会社だ。つべこべ言わずに仕事をしろ。見回れ」

 「へえ、何の見回りでごぜえますか。わしらは倉庫番でごぜえますだ」

 「だから、その倉庫番の仕事をしろというんだ」

 キチ兵衛は何か落としものでもしたように、地面をキョロキョロ見回しだした。

 「だれが目だけ動かせといった。だいたい腰も上げようとしないで、仕事がつとまるか」

 「坊ちゃん、わしらの仕事は昔からこれでごぜえますだ。わしら腰などあげたことは一度もねえんでごぜえます」

 「そんならこうしてやる」

 おれはあんまり腹が立ったので、ベンチの真ん中へ手をかけると、二人を上にまたがらせたまま、見事ひっくり返してしまった。将棋の駒がパラパラと落ち、将棋盤がパタンと音を立てた。倉庫番たちは黙って裾をはたいて立ちあがった。

 「ついてこい」

 彼らはおれの剣幕に恐れをなしたか、黙ってついてくる。おれは先ず、手近な倉庫の扉の前まで行った。

 「おい、もう盗賊が入っているかもしれないから、中を調べるぞ」

 鍵穴をさぐったが、暗くてどこにあるのか分からない。

 「懐中電灯だ!」

 おれは怒鳴った。おれ自身そんなものが必要とは考えてもみなかった。案の定、キチ兵衛もチキ兵衛も、途方にくれている。おれは舌打ちをして、喫茶店のマッチがあったのに気づき、ポケットをさぐった。鍵穴が見つかっても、鍵を合わせるのが大変だった。どれがどれだか見当がつかないので、手当たりしだいにつっこんで回してみた。やっと手応えがあって、おれは一つ大きな安堵の息をついた。するとおれの手先を熱心に見ていたらしい二人の倉庫番も、おれに合わせてホッという息をついたようだった。畜生めら!今度はおれのご機嫌をとろうというのらしい。おれは気がつかぬふりをして、重い扉を左右におしはじめた。

 「おい、ぼんやりしてるな。手伝わんかい」

 「へえ、でもわしら扉なんぞは・・・」

 「開けたことがごぜえません、とでも言うのか。この怠け者め、給料泥棒め」

 「わしら倉庫の中なんぞ、入ったことがねえんで・・・」

 「今夜から入るんだ。倉庫ドロがいるかも知れないぞ。気をつけろよ。まごまごしてると反対にやられちまうぞ」

 おれは一人で扉を両側にいっぱいに開けた。こんなにいっぱい開けることはなかったのだが、つい腹が立って力が入ってしまった。

 しばらくは何も見えなかった。目が慣れてくると、明り取りからもれてくる夜空の明りで、意外に内部が広々としていることが分かった。しかし物の形はほとんど見えない。どこかに電燈のスイッチがあるはずだった。おれは扉伝いに、右側へ行った。マッチを擦ってみると、そこに運良くスイッチがあった。裸電球がポツン、ポツンと急な天井の横木に灯った。下の方へは実にぼんやりした光しか届かない。おれは倉庫の中をすばやく見回した。見たところ何もない。何ひとつ物品らしいものが置かれていない。ひどく埃っぽく、カビ臭い空気だけがあった。

 「おい、おまえらに訊いてもどうせ分からんだろうが、これは一体どうしたことだ。まさか空っぽの倉庫の番をしていたわけじゃなかろうな」

 倉庫番たちも灯りが点くとオズオズと入ってきていた。時々目を見交わして、スワといえばすぐに逃げ出すつもりのようだった。おれはどういうわけか床のコンクリートの上に落ちていた古ステッキを拾いあげ、それを振り回しながら、倉庫の隅々を見て歩いた。いい加減切りあげて、次の倉庫に移ろうと考えていた時、奥の電燈の光もほとんど届かない隅に、小さい扉のようなものがあるのに気づいた。おれはそこまで歩いていって、把手を回してみた。鍵はかかっていなくて、すぐに奥へ開いた。戸外に出るのだろうと思っていると、意外にまだ倉庫の中らしかった。明り取りもないらしく、本当の真っ暗闇だ。

 おれは手探りで扉の周囲のしかるべき場所を探った。スイッチに触れてそれを上げた。やはりぼんやりした裸電球が天井にともって、足元をおぼつかなげに照らした。中に何も見あたらないのは前と同じだ。おれは扉のところに立って目を凝らした。隅の方は暗くてよく分からない。床は固めた土になっていて、光の当たったところに何かウサン臭いものがポツポツ落ちている。おれは大声で倉庫番たちを呼んだ。おれの声がうつろに高い天井へ反響したが、すぐ沈黙に呑みこまれた。

 見ると、キチ兵衛とチキ兵衛の二人は、どこから持ってきたのか竹箒を手にして、何のつもりか倉庫の床の上を掃いている。おれは腕をふって二人を手招いた。彼らはしぶしぶやってくる。こわごわ扉口から、おれのいる倉庫をのぞいている。おれはじれったくなって、彼らの腕をとって引っ張りこんだ。

 「これを見ろ。泥棒どもはあとに必ず土産を残していくというが、今の今までやつらはここにいたに違いない」

 おれは土の上の黒い塊を指差して言った。するとキチ兵衛とチキ兵衛も興味を引かれたとみえて、おれのわきから覗きこんでいる。そしてだんだん大胆になって、箒を手にしているはずみか、周囲を掃きながらその塊に近づいていく。箒がその上を掃くと、その糞の形をしたものは、たちまちパラパラとくずれてしまった。後には鋸屑のようなものが散らばっている。ずいぶん古い土産だった。おれはがっかりして、部屋の他の方面へ注意を移した。

 

 5

 

 何もない空っぽの部屋だ。板壁をステッキで叩きながら回っていると、入ってきたのとは別の扉が闇の中に浮かんできた。一体こんな所にいくつ扉があったら足りるんだ。おれは腹が立ってきた。今度こそ戸外に出る扉だろうと思って、把手を回してみると、すんなり開いて、先は一点の明りもない真っ暗闇だ。おれは手でゴソゴソとスイッチをさぐった。すると、何かがおれの手首にしっかりと巻きついた。こんなに驚いたことはない。一瞬心臓が止まってしまって、おれは怪奇映画のヒロインのように、醜く顔をゆがめて叫んでいた。腕を強く引っぱると、そのものも一緒に扉の方へ引っぱられてきた。かなりの大きさの手応えだった。扉口におれの手首をしっかり握ったまま、何かが、誰かが立っていた。スッとおれの目の前に近づいてきた。おれは必死に手を振りほどこうとしたが、万力にでも挟まれたようにビクともしない。腰を抜かしかけた時、声が響いてきた。

 「坊ちゃん、あわてないで、わたしですよ」

 初めて聞いた声なのですぐには分からなかったが、少し明るいところへ一緒によろめき出ると、眼鏡がキラリと光って、女の細い体が背後に浮かんできた。

 「おまえ、ワカ子か。どうしてこんな所にいるんだ」

 おれはまだ震える声で、叱るように言った。

 「どうしてって、お仕事ですからね」

 「事務所の仕事が終って、帰ったんじゃないのか」

 「あれはほんの序の口ですよ」

 二人の倉庫番はワカ子の出現に、別に驚いたふうもなかった。おれが悲鳴をあげた時だけ、地面に這いつくばる姿が横目にとらえられた。ふたたび何もなかったように箒を走らせている。ワカ子もまた倉庫番にまるで注意を払わなかった。互いに相手の仕事を熟知しあっているらしい。

 ワカ子はまだおれの手を握っていて、おれの心を鎮めようとするのか、手の甲をしきりにさすってくる。おれは邪険に、とられている手を引っこめた。ワカ子は気にした様子もない。眼鏡の底から、あの笑うような眼でおれの顔をじっと見ている。

 「では、坊ちゃんは、どうあっても倉庫の裏のことが知りたいんですね。お父様からも、もし坊ちゃんが来たら仕方ない、案内せよとのことでした」

 「なに、おやじが、おやじがなぜそんなことを言うんだ」

 おやじのような生まじめ一方の堅物に、そんな秘密の面があろうとは、今の今まで夢にも思わなかった。

 「何の話をしてるのか、まったく分からねえ。おれはただ倉庫ドロが入ったような気がしてならねえから、こうして調べてるだけのことだ」

 「それならば、わたしの後について来なさるといいわ。わたしなら抜け道を知ってるし」

 倉庫の中に抜け道があるなんて妙だったが、おれは少しずつ、この先何が起こっても不思議ではないという気がし始めていた。

 「あんたに訊いておきたいんだが、どうして倉庫の中は空っぽなんだ。ほかの倉庫もそうなのか」

 「ホホホ、そう見えるだけですよ」

 「そうもこうもないよ。おれには何も見えない」

 ワカ子はそのことは説明するまでもないと思ったのか、話を打ち切っておれの腕を取った。さっき出てきた暗い扉口のほうへ引っぱって行こうとする。

 「おい、おい、出口はそっちじゃないよ」

 「いいから、わたしの手にしっかり掴まってね」

 おれの手を固く握って、さっきおれが悲鳴をあげて飛びのいた、暗い穴の中へ引きずりこんでいく。やせた体にこんな有無を言わせぬ力がこもっていようとは、女も見かけによらないものだ。扉を背後で閉めると、灯りも点けずに手探りで壁を伝って進んでいく。

 「ここはまだ倉庫の中なのかい」

 「そうよ。見かけよりずいぶん広いでしょう。本当はね、すべての倉庫は一つなの。外からだと別々に見えるけれどね」

  ワカ子は狂気じみた話をはじめる。

 「こういう箱を知ってる。開けていくと中からつぎつぎに別の箱が出てくるの。どこまで開けていっても果てしがないの。この倉庫もそんなふうな造りになっているのよ」

 そんなお伽話で、おれをケムに巻こうとしているワカ子を憎く思った。この仕事が終ったらひどい目にあわせてやろうか。正面からではその気にならないから、後ろから襲ってやる。なんなら今やるか。真っ暗闇だからな。どんな女だって区別がつきゃしない。するとおれを待っている小母さんのことが浮かんできた。今夜はダブルヘッダーか。そんなおれの邪念に気づいてか気づかぬでか、ワカ子はぐんぐんおれの手を引っぱって行く。あんまり力がこもっているので、おれは一筋縄では行きそうにないぞと、考えを改めた。

 「どうして灯りをつけないいんだ」

 「泥棒を捕まえるには、この方がいいでしょう」

 少し怒気を含んだ声で言った。おれの妄想が手の平から伝わったかなと、おれは冷やりとした。

 

 6

 

 もう幾度も扉を越した。心なしか扉に着く間隔が、少しずつ早くなってきているような気がした。どの倉庫も真暗だった。灯りを点けなくても、手に触れるのは板壁ばかりなので、空っぽに違いなかった。それにしてもこんなにたくさんの倉庫があったろうか。もう何百米も歩いている気がした。しかもどの倉庫も扉一枚、壁一重で隣りあっているらしく、一度も戸外の空気に触れている感じがない。見あげたって、もちろん光一筋もれてこない真黒な天井だ。おれはふと、ワカ子にたぶらかされて、おんなじ倉庫をぐるぐる堂々めぐりさせられてるんじゃないだろうか、という気がしだした。方向感覚なんてものは、闇の中ではまったく役に立たない。二つの部屋を出たり入ったりしてたって、何百米も先へ進んだような気にさせられるかもしれない。

 「おい、どこまで行くんだ」

 おれは両足を踏んばって、ワカ子の男まさりの腕の力に抵抗した。さすがにこの闇の中で、手を離す気にだけはならなかった。

 「そんなことを訊いてどうするの。あなたはもうここから出られないのよ」

 凛とした声が闇を伝わってきた。

 「なんだと、出られないだと。ふざけるなよ。さあ、出口はどっちだ。言わないと・・・」

 「まだ分からないの。ここへ来るのはあなたが望んだこと。思い出してごらんなさい、思い出して」

 なにを思い出すのか、おれには皆目分からなかった。

 「なんにも思い出すことなんかあるもんか。おまえがブスだってことぐらいだ。おれの命令に逆らうアホだということだ。おまえなんぞ、この場でひんむいて、この場で、この場で・・・」

 「ホホホ、坊ちゃんに出来るかしら」

 おれが怒りのあまり跳びかかろうとする寸前、ワカ子はおれのきつく握る手をするりと抜けて、どこかへ身を引いた。なにしろ目の前に手をかざしても見えないくらいだから、一度この広い倉庫の中で別れてしまったら、まず声でも掛け合わなければ、ぶちあたる確率はゼロに近い。

 「おい、どこへ行ったんだ。おれを馬鹿にすると、あとで非道いぞ」

  おれの声だけが、しんとした闇の中に反響も残さず吸いこまれていった。おれはマッチを思い出して、ポケットを探った。無い! いつの間にかスリ取られている。おれの怒りは頂点に達した。たかが女事務員ふぜいに鼻面をとられて、引きずり回されたあげく、子供じゃあるまい闇の中に置き去りにされて、おまけにおれのダブルヘッダーの楽しみに、肩すかしを食わされたのがなんともシャクだ。おれはまだ手にしていたステッキをめったやたら振り回しながら、怒鳴った。

 「おおい、出てこい。今のうちならまだ許してやるぞ。出てこい。返事をしろというんだ!」

 倉庫の中はまったく静かで、足音も衣擦れも息づかいも聞こえない。本当におれを置き去りにしたんだろうか。おれはちょっとパニックめいた不安にとらわれた。おれが出られないと言ったな。きっと倉庫の鍵をかけたに違いない。本当におれを閉じこめたに違いない。おれの腰に下げていた鍵の輪が、いつの間にかなく無くなっている。おれはあわてて壁の方へ戻ろうとした。方角など分からないので、とにかく盲滅法まっすぐに闇を突っきった。

 

 7

 

 アッという間もなく、おれの体は宙に浮いていた。足の下の地面がなくなっていた。兎の穴に落っこちたアリスだって、こんなに驚きはしなかったろう。おれの心臓はギューと縮まって、脂汗が額ににじんできた。そういうことを落下の瞬間に意識するのは不思議なようだが、そのとおりだから仕方ない。おそらくおれを救ったのは、その恐怖だったのだろう。というのは、次の瞬間におれの体はふわりと浮いていて、何の衝撃もなく下の地面に降り立ったからだ。人間はいざとなると飛べるもんなんだなと、おれはまだドキドキする胸を鎮めながら考えていた。

 同じ闇でも、穴の底となると、ぐっと暗くなったような気がした。倉庫の中にこんな穴を開けておくなんて、まったく建てたやつの気が知れないよ。おれは穴の大きさを探ろうとした。ステッキを手にとって、辺りを探った。思えば、ステッキを拾ったのだって、偶然ではなかったかもしれないぞ。この闇の中じゃ、盲人と同じなんだから。そのことに気づいて、もっと慎重になっていたら、こんな所へ落ちこまずにすんだものを。ところがステッキの先は、一向に穴の側面にぶつからない。おれは一歩一歩足元を確かめながら、前へ進んでいった。ずいぶん進んだような気がした。やっとステッキの先が何か固いものに当たって、乾いた響きをたてた。手で触ると、倉庫のと同じ壁板だ。その壁板にそって歩いていく。かなり歩いたところで角に行きあたり、壁は直角に折れている。要するに、これまでワカ子に手を引かれてきた倉庫と、まったく同じじゃないか。するとどこかに扉があるはずだ。板壁にそって四分の三周ぐらいしたところで、でっぱりが手に当たり、どうやら扉に行きあたった。おれはほっと安堵の息をついた。外の世界に出られると確信したからじゃない。とにかくどこへでも出口があるということは、まったくの密室よりましだ。

 扉はなんなく開いた。やっぱり顔をなぐりつけてくるような暗闇だ。扉の左手の板壁にそって、盲人のように足先をステッキで確かめながら、ソロソロ進んだ。角を二つ曲がったところで、扉に行きあたった。扉を開けると同じ闇があった。今度は右手の方の壁を伝って進んでいくと、角を一つ越えた先に扉があった。こんなことをいったい何度繰り返したら、おれは外へ出られるのだ。おれは祈るような気持で扉を押した。何も見えない。左手に進む。角に行き着かないうちに、扉に行きあたった。いったいどういうことだ。もとの倉庫へ出てしまうではないか。そこを越して倉庫内を一周してみた。扉はやはりいま出てきたやつと、それと同じ壁にあるやつだけだ。とにかくあとの方を開けて入ってみた。前と同じ倉庫か、そうでないか、分かるはずがない。左手へ行ってみた。するとどこまで行っても、扉に行きあたらない。角を三つ越えた先に、やっと扉があった。おれはやけくそに押して次の倉庫に入る。少し壁伝いに行ったところで、ふと倉庫を横切ってみようと思いつく。一歩踏み出したとたん、ステッキの先が地面にさわらなくなった。ステッキを下に伸ばしたが、何の手ごたえもない。壁ぞいに少し移動してみたが、同じことだ。どこまで回っても、一歩先はステッキの反応がない。おれはぞっとしてきた。深さの知れない大きな穴のへりを、手さぐりで歩いているに違いない。そう考えたとたん、眩暈がしてきて、もたれている壁がぐんぐん穴の方へかしいでいくような気がした。

 おれは両手を地について這いながら、扉を探した。やっと扉を探りあて、転げこむように次の倉庫へ出た。そのまま息を切らせて、しばらく地にうずくまっていた。すると奇蹟のようなことが起こった。先の方にボォーッと、かすかな光が浮かびあがったのである。先の方と言ったが、おれにはすぐ目の前でチラチラ踊っているように見えた。

 「出た! やっと外に出れたんだ! 畜生め、ワカ子のやつ、見つけたらどんな目にあわすか。待ってろよ」

 おれはまだ立ちあがって歩く気になれなかったので、膝をつくようにして灯りの方へ這っていった。少し進むと、急に光を見失ってしまった。見失ったのか、消えてしまったのか分からなかったが、しばらくは残像にあざむかれて、とんでもない方向に這っていたらしい。気がつくと真っ暗闇の中にとり残されている。おれは泣きたくなった。おおい、もうかんべんしてくれよ。そう叫ぶところだった。すると左の方にまた、光がパァーッと浮かんできた。さっきより近くなっている。おれは喜びいさんで、そっちの方へ犬のように四足で走っていった。近づくにつれて光は広がってくる。その中で動いているらしい黒い人影も、見分けられるようになった。おれは立ちあがって、ゆっくりと彼らの方へ近づいていった。あんまりぶざまに怯えたところを、他人に見られたくはないからな。

 穴の前に一人の男が膝をかかえるようにして、腰をおろしている。光は男の手元からやってくる。マッチを灯しているらしい。炎の燃えるのが早からず、小さからず、指先の焦げそうな根もとまで燃やしている。最後は指の間でもみ消してしまう。しばらく闇が支配したあと、目くらめくような閃光が起こって、男の手に小さな炎が灯りだす。

 なんだ、昼間サテンにいた男じゃないか。こんなところで何をしているんだ。気がつくと、穴の中でスコップを手に何やら掘りかえしている二人の男がいた。何のことはない、ヤア坊とタア坊だ。おれは顔見知りの人間に出会った嬉しさで、自分が彼らの倉庫ドロの現場を押さえようなどと考えていたことをコロッと忘れてしまって、上機嫌に呼びかけた。

 「おおい、そこにいるのはヤア坊とタア坊じゃないか。何してるんダァ」

 二人はスコップの手を止めて、同時におれを見上げた。マッチの火がゆらゆら揺らめいて、彼らの顔に明暗を走らせた。マッチを指につまんだ男の方は、顔もあげずに火をじっと見ている。

 「おめえを待ってたんだよ」

 ヤア坊がちょっと棘のある声で言った。

 「おれの来るのがどうして分かったんだ」

 「女が行っただろう」

 「女? ワカ子のことか? どうしてワカ子を知ってるんだ」

 ヤア坊の口唇がニヤリと歪んだ。その時、フッと闇が下りてきて、真暗な中で、声だけが響いてきた。

 「おめえ、女と一緒じゃなかったのか」

 「途中ではぐれた。あの女、見つけたらただじゃおかねえ」

 「おっと、待てよ。あの女はおれたちのものだ。おめえ、もう手えだしたのか。それで逃げられたってわけか。いいザマだな」

 その時、マッチを擦る音がして、リンのはじける音と一緒に閃光があたりに広がった。ふたたび男たちの姿が浮かびあがった。ヤア坊の口の利き方が気にくわなかったが、ワカ子のことはしばらく脇におくことにした。

 「それで、ここは一体どこだい」

 ヤア坊とタア坊は顔を見合わせた。

 「おめえ、倉庫番の息子のくせに、自分のいる所を知らねえのかよ」

 おれはちょっとムッとした。ワカ子といいヤア坊といい、みんなでおれをケムにまいて、オチョくっていやがるな。

 「知らねえもんは、知らねえんだよ」

 ヤア坊とタア坊は答えるまでもないという様子で、ふたたびスコップを使いだした。

 「で、どこなんだよ」

 「ケッ、倉庫の中にきまってんじゃねえか」

 ヤア坊は吐きだすように言った。それを聞いて、おれは本当にがっかりしてしまった。なんだってまだここが倉庫の中なんだ。

 「それでおめえらは、ここで何をしてるんだ」

 マッチが幾度か消えたり、点いたりした。そのたびに眼前の光景が浮かびあがり、また沈んでいった。

 「見りゃあ、分かるだろう。穴を掘ってんだ」

 「穴を掘ってどうすんだい」

 「うるせえ野郎だな。ほかに見つかる場所があるかい」

 おれはしばらく黙っていた。だんだん事情が呑みこめてきたような気がした。ワカ子はグルだったのだ。こいつらを手引きしたばかりか、おれを倉庫の中で迷いこむように、闇の中に置き去りにしたのだ。だが偶然のおかげで、おれはやつらの仕事の現場に行きあたったというわけだ。と言って、おれはもう彼らの仕事がどうのこうのという、倉庫番としての自覚を失っていた。彼らに出会ったことがかえって嬉しかった。

 

 8

 

 マッチの火が消えて、しばらく時間がたった。男はなかなか次のマッチを擦らない。スコップの音も止んでいた。待っている時間があまりに長いので、ふとおれは一人でいるような気がしてきた。

 「おい、どうしたんだ。どうしてマッチを点けないんだよう」

 誰の返事もない。

 「おい、何とか言ってくれ。火をつけてくれ。頼むから置き去りにしないでくれよ」

 おれはわれしらず嘆願調になって、穴の方へ用心しながら近寄っていった。手で穴のふちをさぐった。手を伸ばして穴の奥をまさぐった。誰の体も手に触れない。穴から這いだしたのかと思った。穴のふちを離れてどの方向へ向かったらよいのか、かいもく見当がつかない。しかし思い返して、穴の中へソロソロ下りたってみた。そうしたのは実に幸運だった。というのは、穴の底に人ひとりがもぐれるくらいの横穴が開いていたからだ。

 おれはステッキを手に握ったまま、四つん這いになって穴のなかを匍匐(は)っていった。ゆるやかな勾配になっていて、下へ下へと向かうようだった。所どころ体をよじらなければ抜けられないほど狭まっていた。おれはこのまま大地の底で窒息死してしまうのではないかと、大声でわめきたくなった。幸い穴は広がって、勾配は感じられなくなった。立ちあがっても頭がつかえなくなった。その反面、方向の感覚がまったく失われてしまった。土の壁がまっすぐ走っているのか、横に開いているのか、通路なのか、開けたところなのか、壁を離れて確かめてみるだけの勇気が出せなかった。

 どれくらい歩いたことだろう。おれはもう永久にこの地下の穴蔵から出られないのではないかと、心細いなどという表現をとっくに通りこした、絶望的なパニックにおちいっていた。一度うっかり躓いてしまったのが運のつきだった。どこを探っても、もう壁は見つからなかった。ステッキだけはしっかり握りしめていた。おれはもう我武者羅に闇の中を歩き回っていた。オーイ、オーイと叫んでみても、まったく反響も残さず、黒々とした夜の中に吸収されていった。

 ステッキを使う手を一瞬休めたのがいけなかった。あるいは幸いしたのかもしれない。いきなり、おれはサラサラした砂のような斜面を体ごとすべっていた。浮かべ、浮かべ、飛べ、飛べ。おれは滑落の恐怖と眩暈の中で、呪文のように唱えていた。傾斜が増し、落下のスピードがぐんぐん上がり、恐怖がもう耐えきれなくなった時、おれの体はフワリと浮いて、地の底にゆっくり尻から落ちていった。

 ・・・しばらくそのまま尻もちをついた姿勢で、おれはじっとしていた。するとどこからか話し声が聞こえてくるような気がした。おれはじっと眼を凝らした。するとこれまでただの暗闇に見えていた黒ビロードの幕の上に、実にかすかだが光の筋が幾本か浮かびあがってきた。おれは跳ね起きた。手を目の前にかざしてみた。するとこれまでどんなに近づけても見えなかったのが、薄ぼんやり指の形がうかんでいる。おれは闇を払うようにして光の方へ進んでいった。人声はだんだんはっきりしてくる。すると思いがけなく近いところで、おれの手は板壁に触れた。倉庫の板壁のようだったが、板は縦ではなく横に張ってある。その隙間からかすかに光がもれているのだ。どうやら板で厳重にふさいだ窓のようだった。声もそこからもれてくる。中をのぞくことはできないが、はっきりと会話が聞こえる。おれには話し手が誰であるかも、すぐに分かった。

 「ほほほほ、可笑しかったわ。わたしを襲おうとしたのよ」

 「正夫にそんな元気があったのかい。ほめてやっていい。あのことがあってから何年になる」

 「もう四十年になりますか」

 「そうか。あの子はまだ気づかずにいるのだな」

 「ええ、たぶん永遠に・・・」

 「あれがこうなったというのも、もとはといえば・・・」

 「それをおっしゃらないで。あれは事故なのです」

 「だが、母親を奪ったのは・・・」

 「よしましょう。さあ、これでもお飲みになって」

 グラスに壜のあたる音がした。

 「それでヨタ者たちは」

 「そっちはうまく始末しました」

 会話が途切れて、しばらく沈黙が続いた。一人はワカ子で、もう一人は意外なことにおやじらしかった。出張などと称して、こんなところで女事務員と密会していたとは。すべてはおやじが仕組んだ猿芝居だったのか。おれは不快感と怒りで、今すぐにも部屋の中に踊りこんで、二人を罵倒し、はずかしめてやりたかった。おれは家の周りを手探りでめぐった。倉庫というよりも、箱のような木造の小屋だった。それぞれの面に板でふさいだ窓が一つずつあって、扉らしいものがない。何度回っても、同じようにふさがれた窓の下を通る。おれはじれったくなって、窓の一つをドンドンと叩いた。すると中で足音がコツコツとして、ふさがれた窓が板ごと下からせり出してきた。光を背後にして、影になった女の顔がのぞいた。

 

 9

 

 「坊ちゃんでしょ。さあ、お入んなさい」

 おれは窓框に飛びついて、頭から部屋の中へ転げこんだ。ワカ子がおれの腕を取って起こそうとした。その手を振り払って、おれは部屋の中を見まわした。天井のないむきだしの屋根裏と梁、裸電球が一つそのすすけた梁からぶら下がっている。部屋の中央に鳥籠の載った細長いテーブルと、椅子が一脚。そのほかに家具調度らしきもののない、閑散とした空間だった。ただ床板の上に、羽目板に寄せて、何か穀物か粉のつまったような白い木綿の袋が、いくつも並べられ、積まれている。人影はワカ子だけだった。

 「おやじはどこだい。逃げだしたのか」

 「あなたのお父さんのこと?最初からいらっしゃらないわ」

 「今おまえと話していたではないか」

 「なにを聞いたのかしら。私の話し相手はそれよ」

 ワカ子はテーブルの上の鳥籠を指さした。籠の中には緑色のオウムが吊り輪にとまっていた。

 「たしかにおやじの声を聞いたぞ」

 「お父様の声を覚えさせたのよ」

 「こんなところで、ひそかに腹いせをしていたというのか」

 「ホホホ、いやなことを言う坊ちゃんね」

 ワカ子は鳥籠に近づき、籠からオウムを出して手に乗せ、人間に語りかけるように言った。

 「さあ、オウムさん、夜の魔王のところへお帰りなさい。あなたの舌の罪を、夜に紛らせてくださいな」

 オウムはワカ子、ワカ子と叫びながら、梁の上へ飛んでいった。その声を聞くと、おやじがオウムに化けたとしか思われなかった。ワカ子はテーブルに腰を寄せて、昼間見た時の針金のような印象とはうって変わった、しなやかなポーズをとり、おれの顔を笑みを含んで見まもっている。おれは忘れていた怒りが、急にこみあげてくるのを覚えた。

 「よくもおれを置き去りにしたな」

 「あら、まだ怒っているの。あれは坊ちゃんが悪いのよ」

 「ウソをつけ。おれには全部分かっているんだ。おまえらは、みんなで寄ってたかっておれをコケにしたんだ」

 気がつくと、おれはまだステッキを握っていて、それを振り回しだしていた。

 「おまえを足腰立たないほど、ぶちのめしてやろうか」

 「やめろ、マサオ」と頭上から声がした。見あげると、オウムと目があった。鳥というのは不思議なことに、人間と似た目の表情を持っている。その目がじっとおれを見ているのだ。おれは一瞬おやじの声を聞いたように、動揺した。

 「なんだい、この鳥は。変なことを教えるない」

 「自然と覚えるのよ」

 「マサオ、やめろ」と、オウムは繰りかえした。

 「うるせえな」

 おれはステッキで鳥を威かそうとしたが、梁までは届かなかった。オウムに気勢をそがれたばかりでなく、おれはさっきから、というよりこの部屋に入ってきた時から、ここに来たのは初めてではないような気がしていた。意識の敷居にわだかまったまま、それ以上に踏み入ってこようとしない記憶のいらだたしさに、おれは顔を横へそむけた時、壁際の袋の口が一つ開いているのに気づいた。その口から白い粉がこぼれていた。小麦粉のようだったが、指をやって舐めてみると、変な苦みがあった。その苦みには不思議な記憶が結びついているような気がした。

 「これはなんだい」おれは、袋に腰をのせて、おれを上からじっと見下ろしているワカ子に訊ねた。

 「それはクエン酸よ」

 「クエン酸?」

 「そう、サイダーの素よ」

 「うそだ! おれには分かってる」

 「疑りぶかいのね、坊ちゃんは。お父さんは、サイダーの工場もやってらしたの。忘れてしまった?」

 なんだかおれは頭の中が混乱してきて、どう整理していいのか分からなくなってきた。ただむやみに腹が立ち、同時になぜか悲しかった。おれ自身のまったく知らないうちに、周りの出来事が展開して行き、おれはただのデクに過ぎない気がした。おれを操っているのは誰だ!

 「さあ、坊ちゃん、そんなものはこっちへ渡して、疲れたでしょう。すこし袋の上でお休みなさい」

 急に腹立ちがウソのように引いていった。なにをこれまで怒っていたのかさえ、思いだせなくなった。ワカ子の声が不思議に心を鎮めていった。おれの求めていたのはこんなちっぽけな慰めの言葉だったのか。おれはワカ子の言葉におとなしく従ったが、ステッキだけは何か神通力の源のような気がして、手離さなかった。粉の袋の上にワカ子はおれを横たわらせた。おれの額の髪をしきりに指でより分けていた。うるさく思ったが、払うだけの気力も起こらなかった。おれは奇妙な気分に打たれていた。ワカ子がおれのよく知っている、別の人間と混同されてきたのだ。ちがう、ちがうと、おれは心の中で叫んでいた。ついに、おれはワカ子を突き飛ばして叫んでいた。

 「ちがう、おまえはママなんかじゃない!」

 「まあ。どうしたの正夫さん」

 ワカ子は特に驚いたふうもなく言った。

 「おまえの母さんだ、マサオ」梁の上から声が降ってきた。

 「母さんだよ、マサオ」

 おれははっきりと思い起こすことができなかったが、激しい憤りがおれの正しさを証明していた。

 「ママは死んだんだ!おまえたちのせいで」

  そうだ、ママは死んだのだ。どのようにしてかはもう思い出せないが。そして、おれは、おれは・・・。

 「あなたのお母さんは病気だったの」

 ワカ子が言ったが、おれはまるで無視して、別のことを思い出そうとしていた。それは狂乱のさなかにある女性の姿だった。まだ世間のことを何も知らない子供のおれに、夫婦の間の嫉妬のおぞましさを垣間見せたのだ。それはおれだけが知っている母親の姿だ。

 「おれは認めないぞ、おやじも、おまえも」

 「まあ、まだそんなことを。わたしはいいとしても、お父様にあたってはいけないわ」

 「二人とも、悪党だ」

 「あなたはどうなの。自分がそんなに正しいと思ってらっしゃる?」

 学校の教師のようなことを言う。こういうのを小面憎いというのだろう。

 「ああ、おれはワルだよ。ワルだから、悪党の考えることはすぐ分かるのさ」

 おれは手に握ったステッキを、振り回してみせた。ワカ子は動じなかった。

 「そして、正夫さん、あなたはどうなりましたか」

 「どうもこうもない・・・」

 と言いかけて、不思議に頭の中が混乱して、それ以上続けられなかった。

 「おれは、おれは・・・」

 「あなたは、あなたたちは・・・」

 「ワカコ、ワカコ、やめよ、やめよ!」

  オウムが鳴いた。それはやはりおやじの声だった。

 「少なくとも、あなたは永遠の倉庫番なのです」

 「どういう意味だ、それは」

 「たぶん、あなたには永遠にお分かりにならないでしょう。ここにいる限りは」

 「マサオ、父さんが話してあげよう」

 オウムが言った。

 「マサオ、おまえは永遠に眠っているのだよ。父さんたちが生きている限りは」

 「だから、どういう意味なんだよ」

 おれは相手がオウムであることを忘れて、不安のあまり震え声で訊ねた。

 「人間がこの世に生きているのも、また同じことなんだな。人生は夢ともいい、夢は人生ともいう。どちらに生きていても、醒めるまでは同じことなのだ。醒めたあとのことまでは分からない。それは父さんも同じだ」

  おやじは理屈っぽかったから、よくそんな回りくどい、説教めいたことを言われたことがある。まるでおやじの口写しだ。このオウムはただのオウムではあるまい。おれは神妙に問いただしてみた。

 「あんたがおれの父さんのことを知ってるなら、おやじはこの倉庫で何をしているのだ。まさか粉の密売ではなかろうな」

 「マサオ、この世界でも相変わらずワルをやってるのか。自分のしていることを人に押しつけておいて」

 「分からねえな。あんたのしていることだろう」

 おれはつい、相手をおやじと見なしていた。おれはつねづね、おやじを謹厳な堅物と考えていた。それに疑いを覚えだしたのは、おやじがワカ子と特別な関係にあることが薄々分かりだしてからだ。いま現場を押さえてしまったからには、それは既成の事実だった。おやじはおれと同じ悪党であることが分かったのだ。それはくすぐったくもあり、同時に不快だった。それは近親憎悪に近い不快感だった。ワルはおれだけにしといてもらいたい。おやじがしらばっくれるなら、それはそれでいいだろう。

 

 10

 

 「おれはここから出てえんだ。もうおやじの仕事を手伝うのはやめだ。出口を教えてくれ」

 おれはワカ子の方を振りかえった。姿はなかった。おれはそれでなくても薄暗い電燈の陰になっている、隅の方を探した。小さな木の落し戸があった。ワカ子は、おれがオウムに気をとられている隙に逃げだしたのだ。おれはあわてて戸を引っぱりあげ、狭い梯子段を下りた。下には照明がなく、上からの灯りでわずかに明るんでいただけであるが、どうやら通路になっているようだった。先の方はまったくの暗闇だ。

 「おおい、どこだぁ」

 叫んでみたが、女の返事はない。しかし、この先に抜けて行ったことは間違いなさそうだから、おれも思い切って闇の中に飛びこんでいった。またも手探りでの闇の中の彷徨だが、ワカ子に出会ったことで、おれは勇気づいていた。通路がまっすぐらしいのも、おれの歩みをはかどらせた。

 そのうち、不思議なことに何となくあたりの様子が見えるように思われてきた。というよりも、なにやらぼんやりした光の渦のようなものがおれを取り巻いていた。その渦は先の方まで伸びて、おれの行く手に何かを現わしだそうとしているかのようだった。いよいよ出口なのか。おれはいつの間にか歩いているよりも、軽く飛んでいるような足取りで、光の先へと急いでいた。ふいにおれの体は高く浮かび上がったようだった。と思うと、おれは明るい部屋に出ていた。しかも部屋の床ではなく、どうやら天井のあたりに浮いているらしいのだ。

 部屋の中央にはベッドがあった。一人の年くった病人があおむけに寝かされていた。口には人工呼吸器が当てられ、そばには点滴のポールと、何かの計器が置かれていた。病人が老人であることは、禿げあがったひたいと、白髪で知れたが、顔の肌だけはつやつやと、いかにも健康そうに見えたのは不釣り合いだった。たぶん酸素呼吸器のおかげなのだろう。ベッドのもう一方の側には、二人の人物がいた。一人は車椅子に乗った、これも相当な年齢の老人で、いかにもくたびれきった様子で、椅子の背にもたれていた。もう一人は連れあいらしい、これもかなりの年齢の老婆だが、しゃんとして元気そうだった。老婆は病人の顔をじっと見つめて言った。

 「さっき、なんだか目の玉が動いていたようでしたよ。めったにないことなのに、不思議ですわね。こんな時になって。あなた、聞いてます?」

 「なになに、目の玉がどうしたい」

 「まるで夢でも見ているように、目が動いたのですよ」

 「正夫も夢ぐらいは見るだろうよ。どんな夢だろうかな。あれから何年たったかね、お母さん」

 「あれから、マアちゃんが事故にあってからですか。さあ、四十年にはなるでしょうね」

 「どうも忘れっぽくなってしょうがない。あれはどんな事故だったかな」

 「忘れては困りますよ。こんな時に」

 「正夫は車に轢かれたのかい」

 「マアちゃんは友達三人と、パトカーに追われて、車ごと崖から落ちたんですよ。奇蹟的にマアちゃんだけ助かったんですけどね・・・」

 「生きていただけよかったかな・・・」

 「さあ・・・」

 突然計器のブザーがなりだした。老婆は心電図らしい波の動きが弱まったのを見て、

 「大変、看護婦さんを呼ばなくっちゃ」

 そう言って、病人の頭のところにあるチャイムのボタンを押した。白衣の看護婦が入ってきて、計器をちらと見、すぐに出ていって、白衣の医者とともに戻ってきた。医者は病人の眼球をのぞきこみ、型どおりの検査をしてから、老夫婦に言った。

 「処置をなさいますか。もう心臓が相当に弱っていますので、マッサージをしても苦しいだけかもしれません」

 車椅子の老人はすでに心を決めていたのか、落ち着いて言った。

 「もう結構でございます。正夫も長いこと、よく頑張った。もう楽にさせてあげなくてはな」

 医者と看護婦が出ていったあと、老夫婦は弱まっていく心電図をひたすら見つめていた。最後に波型が一本の線になった時、どちらからともなくほっと息をついた。

 

 11

 

 おれはどこを歩いているのだろう。あのおれと同じ名前の年とった病人は、一体誰なのだ。そしてあの老夫婦は。その解けない謎が、おれの頭を混乱させる。おれは少なくとも倉庫を抜け出していた。明るい日差しがあるはずだが、すべてが白い、朦朧とした光の雲に包まれていて、どこをどう歩いているのか、そもそも大地を踏みしめているのかどうかさえ、はっきり意識できなかった。おれの頭が悪いのは生まれつきだが、それにしても何も思い出せないのはいまいましい。

 そのうち、おれのひたいの辺りに小さな明かりが灯ったような気がした。それを見つめていると、たちまち大きく、まばゆく輝きだし、ぐんぐんおれの方に近づいてきた。その輝きに包まれたかと思うと、おれはどこか山の斜面の花の咲き乱れる場所に出ていた。赤、ピンク、白、色とりどりの花が群がり咲いていた。おれはこれまで、色のついた夢を見ることはめったになかった。もしおれのいる世界が夢ならば、こんなに鮮やかな色彩の夢は初めてだった。色彩が鮮やかなばかりではない、どこからか強烈な日差しが照らしているらしく、こんなに明るい昼間の光景は見たことがない。おまけに、花びらのひとつひとつが、その小さな筋や斑点などが、遠くにあるはずなのに、実にありありと見えるのだ。

 思えば、おれは、まるで色彩のない倉庫の迷宮から抜け出して、永遠の光と色彩の世界へたどりついたのだろうか。もしかしたらこれは死の世界ではないだろうか。おれの生きていたのは闇の世界で、死んで光の世界へ入れたのか。死んで? それにしても、おれはなぜ死んでいるのか分からない。おれが生きている時だって、なぜ生きているのか分からなかったように。あの女は、たしか、おれが永遠の倉庫番だと言っていたな。生きていても死んでいても同じなら、おれは永遠にこの迷宮から抜け出せないのか。

 いつの間にか、おれの周りには、真っ赤な花の群がとり巻いていた。まるで画面いっぱいに真紅の絵の具を塗りたくったようだった。ひとつひとつの花びらが溶け合って、輪郭が見えなくなり、色彩の洪水がおれを呑みこんでいた。その時おれは、その色彩の一部であるような気がしてきた。いや、その鮮烈な赤い色彩そのものであり、それと溶け合っていた。そしておれの周りにはまばゆい光だけが見えた。そして、それ以上のことは、おれには分からない。おれはすでにおれではなくなっていたから。おれは光そのものだったから・・・。

 

 (了)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


この本の内容は以上です。


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