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殺人

 

     一

 

鈍い音が響き渡ると、通行客は、まるで衝突実験で利用されるもろい人形のように虚しく周囲に横たわっていた……悲鳴、混乱、怒号、狂騒、そこはあっという間に日常の賑わいから戦場さながらの緊張へと様相を変えた……逃げ惑う者、助けに入る者、呆然と立ち尽くす者、非常事態に遭遇した時の様々な人々の姿がそこにはあった……私はすぐにナイフを手にしてトラックを降り、目に入るものを手当たりしだい刺していった……特定の誰かを狙った訳ではなかった――私はただ大衆という不透明な個の固まりそれ自体を標的として定めていた……私は人々の体を切りつけながら、昔少しばかり仕事でやった食用肉の加工作業を思い出した……子供の頃に蟻の行列に手を突っ込み一匹一匹潰していった時の様なそんな気持ちがした……次第に彼らの反応がトラックによる過失事故から通り魔による無差別殺人へと変換されるのを感じ、現場の混乱はより一層深みを増していった……私はきっと、出来るだけ多くの人々を殺したいという事ではなく、大衆という一匹の巨大生物に立ち向かったという証が、主張が欲しかったのだと思う……確実に急所を狙うなど必要なかったし、倒れてる人が本当に死んでるかどうかもどうでも良かった……。

 

私が手の届く範囲で一通りナイフを振り回し終わった時、既に私の周りからはみな遠ざかっていた……私は酷い徒労感に襲われ、何だが凄くくたびれた感じがし、無気力感に覆われた……追おうと思えば出来たかも知れないが、それ以上深追いする気にはなれなかった……逃げ惑う人間を必死に追い続けるのも何だか無様な感じがして嫌だったし、そのうち私を取り押さえようとする人も出てくるだろう、そうすれば彼らはきっと私に大きなダメージを与えてでも動きを止めようとするに違いない、それは御免だった……私は逃げるというよりむしろ彼らに終わりの合図を与えて穏やかに取り押さえられる為に路地の方へと入っていった……私は典型的な通り魔としての末路を役割として最後まで義務の様にしっかりやり遂げなければと思った……路地に入るとすぐに数名の警官がやって来て、マニュアル通り私に銃口を向け何やら大声で威嚇するような事を言った……私はその場にナイフを放り投げ、壁にもたれるようにしゃがみ込んだ……多大な労力を要する大きな仕事から解放され、ゆっくりと息をついて休みにつくような、そんな気持ちがした……私は取り押さえられた……。

 

 

 

     二

 

 

 

丁度バブルがはじけた頃、私は生まれた……人々の熱狂酔狂が覚めた時に生を授かり、国が衰退していくのと同時に成長する事、それはまるで私という人間に課せられた一つの宿命を意味しているようだった……。

 

私が生まれ育ったのは厳格な家庭だった……私の父は高給取りの役人で、母は名高い企業の令嬢であり、いわばエリート一家とでも呼べそうなブルジョア志向の俗気に満ちた富裕層であり、兄も姉も幼い頃から英才教育を施され、大人の社交場へと連れていかれた……私も例外ではなかったが、私は兄姉と比べ社交性に乏しく他人との付き合いを疎んじ、独りでいる事を好んだ……「何を考えてるか分からない」、それが大人達が私に対して感じる第一印象の典型だった……両親は私を好かなかった……彼らは私を気味悪がり、ほとんど私を気に懸けず、兄と姉に愛情を注いだ……私はいてもいなくてもどちらでもいい存在だった……私はこの家庭の中で影の様に生きていた……。

 

幼い頃から私は自分が子供なのだという事を理解し、大人達にとって一人の子供でなくてはならぬと感じ取っていた……大人達は彼らの抱く子供の肖像を私に押し付け、それが裏切られると歯がゆそうな表情を浮かべ、私を忌み嫌った……私は出来る限り大人達の要求する子供の様態であろうと努力した……彼らはまさか私が彼らの意図を汲み取って態度を合わせていたなどと考えもしなかっただろう……むしろ自分が子供の理解力に合わせ目線を下げていたと思っていたに違いない……しかし、実際はそうではなかった……大人達が常に後ろに何かを隠しながら接しているという事、絶対的優位のもとに下手に出ているという事、むき出しの真実を隠し通し無難で無害な会話のみに徹しているという事が、私にはありありと感じられた……大人は子供に合わせる自分を演じ、それに対し子供は大人に合わせる自分を演じ、それによって円満で穏和な均衡の取れた子供と大人のやり取りを成立させるという奇妙な共犯関係があったようにも見えた……。

 

それは大人達に対してだけでなく、同じ年頃の子供達に対しても同じ事だった……私は大人が思うような形で周囲の子供を子供と認識し、自身をその範疇に分類せず異なる種類である事をおぼろげに自覚し、彼らの言動、行動、嗜好そして思考を常に一歩後ろから分析的な目線を以て眺め、その集団の中に積極的に己を没入させる事がなかった……つまり私は子供の一つ一つの表れ全てがどのような意図から、どのような推移を辿り、どのような結論を以てそこに至ったのか、まるで物理の方式を解くかの如く明確に感じ取られるのだった……それでも私は、私は子供なのだから、他の子と同じように子供としての義務をこなし無邪気に生活していれば良いのだと考え、特に目立った行動に出る事もなく一子供として時間を過ごした……。

 

 

 

私は人に愛されない人間だった……私は小さい頃からいじめられた……それはきっと私に原因があるのだろう……いじめる人間がどこへ行っても人をいじめるように、いじめられる人間もまたどこへ行ってもいじめられるものだ……価値観の相違、協調性の不足、権力志向の欠如が、私を全体主義の統制を徹底させるための生贄として民衆に捧げるのだった……しかし私はそれを別段大きな問題として認識する事がなかった……人というものは、常に己の権威を高め、他者を貶め、優越感を覚え、絶対的であろうとする欲求、願望を、誰もが根源的に内に潜め、それを日常の中の至る場面において表出させ、それに対し他の者もまた、その人間の下手に回らぬよう何らかの形で暴力を回避し、集団と自分との穏和なバランスを保とうと努力する……しかし私は、その様な人間の生物的な競争性に対する防御壁を築かず、対抗策を講じず、調和を選ばず、集団の一員として生きる上で誰もが取るべき行動意識、集団主義への危機意識を持たず、為すがままに放置していただけなのだ……なぜならそれは私にとって、彼らとの融和、譲歩、折り合いをつけることであり、己の世界観を捻じ曲げ、彼らの文化に屈することの証明であったからだった……私はそこに判然たる否定的感情をもたらすのではなく、むしろ人間というものの行動パターン、欲求の現出、思考の工程を考察、解析、整理する為の素材の様なものとして受け取り、それが後年に至るまで私の中の人間観の形成に大きな影響を与えるのだった……。

 

小学生にもなると、次第に私の中に傲慢な自意識が芽生え始め、私は彼らと私自身との不和に一個の意味を付与し、両者の間に優劣の関係をもたらすのだった……即ち、彼らが私に接する際に暴力という態度を選び取る事によって、自ずと彼らと私自身との間に差異が確立され、それが多数派である彼らに対する少数派としての私という自意識を生み出し、私の中で優越の感覚が、尊大の心が育まれ、生まれついての傍観者的気質によって、彼らの暴力を私の中で合理化せしめ、私の日常、私の自我の一部として享受され、血肉化されるのだった……。

 

集団の圧力に対する個の抵抗、これが私の人生において決定的な意味を持たせるのだった……。

 

 

 

小学生のある日、私はテレビの中で、国際都市にそびえ立つ二つの高層ビルに、飛行機が二機追突するのを見て取った……私はそこに一種の興奮を、期待を、躍動を感じ取った……それは性的興奮にも似た心の躍動であった……すぐにビルは崩落した……私の興奮はいよいよ絶頂へと達していた……それは今にして思えば、世界が一つの歴史的終末へと向かう最初の契機だったのだ……人類が長い歴史の中で築きあげてきた伝統や文化、価値観、道徳が崩れ去る瞬間……あれは一つの象徴だったのだ……その後の急激な世界の混迷、衰退、荒廃を予言していたのだ……。

 

 

 

中学生になると、集団内における個々の能力差が明瞭に浮かび上がり、出来るもの、出来ないもの、その区別が日常生活において大きな意味合いを持つようになり、それがさらに私の自尊心を強固で絶大なものへと成長させていった……常に学年トップの試験結果を残していた私は、勉学能力の優位性によって彼らとの間に傲慢な差別化をもたらすのだった……私の中の膨れ上がった驕りの感情は相も変わらずクラスメートとの交友を妨げていた……いいや、私は恐れていたのかもしれない……彼らの友情、彼らの恋愛、彼らの娯楽、彼らの希望を……円満な学校生活に対する劣等感、青春への負け犬意識を突き付けられる事が、怖かっただけなのかもしれない……。

 

私の望む事としては、とにかく社会的地位の高い職を手にする事それのみであった……彼らは秀でた身体能力や、着飾った容姿や、最先端の趣味嗜好を、我々の集団文化における最上の付属品と捉える……しかし、そんなものがステータスとして発揮されるのは子供の内のみで、大人の社会に足を踏み入れれば何が最もその人間を計る尺度となるか、私は重々承知していた……復讐心……私の行動の原動力はそれに支配されていた……。

 

 

 

その後私は全国でも有数の進学校に入学した……私の傲慢さは益々募っていった……しかし、それが最初の過ちだった……小学校中学校においては首席を譲らなかった私も、この高校においては大した学徒ではなかった……それが腫物を扱うように大事に守ってきた私の自尊心を著しく傷つけた……なぜならそれが私にとって唯一私と余人との差別化を図る重要事項であるからだった……自分が凡庸な存在である事、人より格別に秀でた要素がない事、過去の傲慢たる自分の哀れで滑稽な姿、私の挫折感、屈辱感は、次第に私をその競争の場である学校という空間から遠ざけた……こうして私は社会のレースから脱落した……。

 

両親は私を罵った……私を失敗作だと、負け犬であると、一家の恥であると、私を罵倒した……彼らは人との付き合いや家系の体裁以外考えていなかった……もしもお前の事を聞かれたら何と答えれば良いのかと、その事ばかりを執拗にぶつけてきた……。

 

私はこれからどうすればいいか……今後の自分の行くべき道を考えると、もはやエリート街道をひた走るレールへ再び車輪を乗せる気にも、勉学の功績によって己の将来を支えるという方法を選び取る気にもなれず、ただ私は社会という世界を生き抜く上で最低限必要な経歴を確保する為だけに、ほとんど形式的に定時制の学校に通い、卒業した……学業的素養という観点から周囲の人々を下等な者達と軽蔑していた自分が、気が付けば最下等へと転落していたのだった……。

 

私は卒業と同時に地元で工業関係の仕事に就職したが、あまり長続きはせず、その後も二転三転したが、結局落ち着く事はなかった……青春期における挫折が投げやりな気持ちを生み出し、人生に対する厳格さを欠損させ、何もない自分に対する無用な性急さを育てるのだった……私はここにいては駄目だと考えた……私の暗く重たい人生を育んだこの土地にいては、私は永遠に前に進む気力を持てないだろうと考え、そうしてちょうど成人した頃に地元を離れ、一人で生活し始めた……。

 

 

 

私は解放感に満たされていた……私は生まれて初めて自由というものを感じた……私を束縛する人間が傍にいないという事、私の過去を知る者がどこにもいないという事、競争という世界から距離を置いているという事、それが私にはとても新鮮で開放的な事と感じた……。

 

私は私なりに充実した日々を送っていた……しかし、すぐに私の心は暗い影で覆われ始めた……経済的困窮、物質的不便、対人的孤立、敗北者的自覚……私の心は次第に不安定さを帯び始めた……。

 

私は度々職場の人間と軋轢を生じさせた……私は普段温厚な性格で、他人に対する無用な文句や反発は必要としなかったが、ある瞬間に突発的に喚き立てる癖を持っていた……一度カッとなると溜められた心の負荷が次々と溢れ出し、開いたふたを閉じるのにかなりの時間を要した……私は他人にとっては不可解にしか映らないような場面で激しい憤りに駆られていた……幼少期から続く他者との軋轢と社会への挫折による劣等感が、私に被害妄想的意識を植え付け、己の人生に対する不安や苛立ちがそれをさらに助長させるのだった……。

 

私は同じ職場に長く留まるのは不向きであると考え、派遣会社に登録し、様々な仕事を転々とした……。

 

 

 

     三

 

 

 

生きる、というのは、一つの行動だろうか、それとも、一つの状態だろうか、どちらにしろ私は、人生に重要な意味合いも、将来への蓄積も、大いなる野望も持たず、一日一日を流れるように、吐き捨てるように、浪費するように過ごした……世の中では日々様々な出会いや、驚きや、喜び、変化、交友、愛が溢れている事だろう……私の世界には何もなかった……私は一人社会の下に埋もれた地下の空間で泥濘を這うように、空き地に捨てられたゴミの様に毎日を生きていた……。

 

 

 

年齢なのだろうか、私にも友情や恋愛に対する憧れの様な通俗的願望が生まれ出てきた……人と繋がりを結ぶ事を厄介な仕事の様なものとしか認識していなかった私も、こうも孤独な毎日が続くと、他人と日常を共有したい、無駄で雑多な言葉を投げ交わしたい、世の中の凡庸な喜びや楽しみを味わいたいという思いが湧いて出てきた……。

 

異性を異性という認識の上で接するという事、それが私の記憶を振り返っても特に思い当らなかった……私は男性としての魅力に自信を持っておらず、鏡をのぞき込む度になんて醜くて冴えない顔なんだろうと感じていた……時にはこの無様な容姿こそが諸悪の根源なのではないかとさえ思えた……コンプレックス……私の日常を縛り付ける内面要素は全てここから生まれ出るに違いなかった……。

 

現実世界において思うように他人と繋がりを持てなかった私は、心の拠り所をネットの掲示板に求めた……私は暇があれば手元の情報端末を用いて掲示板を覗き、誰かの反応を望んでは適当に何かを書き込んだ……私の何気ない一言に対して、誰かが何気ない一言を返す……それが私には涙が出そうになるくらい嬉しかった……相手は顔も名前も何処にいるかも分からぬ見知らぬ他人、しかし、それでも気兼ねなく誰かと意思の疎通というものが出来るという事を一つの感動と感じた……私の意見、価値観、存在を肯定する者がいるという事、他人の書き込みを見て、自分も同じ感覚の持ち主であると、同じような人生を歩んでいる者が他にもいると共感を示すという事、ただそれだけで私は救われたような気がした……私は日々何者かとの心のやりとりを求め掲示板内をふらふらさまよった……。

 

しかし、徐々に私はその様なネットの世界に対しても不信の感情を抱くようになっていった……私は現実社会の上層を生きる人々だけでなく、私が日頃から記号の交換をかわす掲示板の書き込み主達にも、己自身との大きなずれを感じるようになっていった……掲示板を利用し始めた当初、私は密かに情報機器の向こうにいる人々が私と同じような動機で、私と同じような人生を辿り、私と同じような感覚を持ち、私と同じような日常を送っているのだと思い込んでいた……みな社会を生きる野蛮で凶暴で低俗な世人達に虐げられ、疎外され、迫害され、そうして助けを求めるように、隠れ家を探すように、必死の思いでこの世界へ飛び込んできた弱き者達なのだと、そう勝手に思い込んでいた……しかし、そうではなかった……結局彼らも、私が幼少の頃から周りの人間に感じ取っていた愚かさを、汚さを、稚拙さを、暴力性を本質的に持ち合わせており、ただそれが表現される方向性や形式が異なるだけであって、彼ら自身が実際社会において攻撃対象とするような無法者達と同じような無作法且つ非常識な行為を、ネット社会においては当たり前の様に繰り広げているのが分かった……。

 

誹謗中傷と大差ない感情的批判、幼児の喧嘩にも似た野蛮且つ不毛な論争、正義面した快楽的な集中攻撃、偏向的で無責任な情報伝達、外世界に対するネット世界の根拠なき勝利宣言、自己顕示欲に駆られた種々雑多な主義主張の嵐、合言葉の様に次々飛び交う下種なスラング、一体感を求めて思慮もなく同じ価値に群がろうとする下等な集団志向、日々生まれては消えゆく軽薄で安易で空虚な音楽や動画群……。

 

私が望んでいるのは、そんな事ではない……私が欲しているのは、純然たるコミュニケーションなのだ……誰かが言った何気ない一言に対して、また誰かが何気ない一言を返す、それの積み重ねに他ならなかったのだ……。

 

私は次第にネットの世界を嫌悪するようになり、自分の行いが虚しく、儚く、卑しく、不毛な事と思え、自分が彼らと同じ存在として認識される事への反発から、結果ネット上へのあらゆる書き込みを自粛し、他人の書いた文章にも全く目を通さなくなり、一切のネット文化から距離を置くようになった……。

 

現実世界からはじきだされネット世界へと逃げ込んだ私は、そこでもまた己が圧倒的少数派である事、現実社会を肯定する事もなければネット世界を肯定する事も出来ない、第三極的な真のはぐれもの、異分子的存在である事を認識した……。

 

 

 

私は完全に行き場を失くした……私は幼い頃から、自分の生活空間の中でマイノリティ的レッテルを貼られ集団から弾き出される仕打ちを食らう度に、ヤドカリが新たな宿を探すように、自分なりの安住の空間、他者との合理的関係性を心の中で模索し、迫害を凌いで来た……しかし、今となってはもはやどの空間においても溶け込めず、安息を得られず、如何なる人達とも交われない事を知らされ、私はこれから一体何を信じ、何を想い、どこへ向かうべきなのか、その指針が完全に失われたような気がした……。

 

私は事あるごとに自殺を想った……あらゆる苦悩の源泉である生そのものを消し去る事、それが最も単純かつ究極的な解決と思えた……実際にそれへと繋がる行動に出ようと決心してみた事もあったが、結局いつも一歩手前で死ぬ事の虚しさが生きる事の儚さに少しだけ打ち勝つのだった……。

 

 

 

私は、変わらなくてはならない……この鬱屈に満ちた、逃げ場のない、がんじがらめの現状を打破し、荒涼たる雑然とした人生を大きく転換させる、決定的な切っ掛けを得なければならない……何もかもを破壊し、多くのものを巻き込み、目の前を一変させる様な、そんな強力な切っ掛けを……。

 

次第に私の複雑な情動のぶつけられる方向は内部ではなく外部へと向い始めた……私は現時点における私という存在の形成過程を、自己の内奥ではなく他者の存在と強く結び付けて意識し始めた……幼い頃から私と私を取り囲む者、或いは世間全体というものの関係を奥深くまで探るのだった……私の人生の行く末を占い、私の特異な性格を形成した存在、「他者」……私を縛る鎖、私を取り囲む鉄格子は、社会そのものではなかろうか……私自身の葛藤や懊悩は私の無分別ではなく、世間という不明瞭たる匿名の群衆によって贈与されたものではなかろうか……私という存在、人生が生まれ変わる為には、世間そのものと対峙し、闘わなければならないのではなかろうか……他でもない己自身の強靭たる意志と行動によって、私の人生を蝕み続けた世の中とぶつかり、過去の清算と未来の生産を行わなくてはならないのでなかろうか……。

 

少しずつ私の中で指標が具体化され始めた……いま私に必要なのは目標ではなく手段だった……私は何を以て自己の信条を表現すべきなのか……それは出来るだけ反社会的な行動であるべきだった……社会的規範を逸脱した行為によって世の中への対立を主張するべきだと思った……それは犯罪に他ならない……私は直接的暴力的表現によって大衆と個との軋轢を指し示すべきなのだ……つまりそれは、人を殺す、という事……私は人を殺傷するという破壊的行為を以て迫害された異端者の一つの象徴として存在すべきなのだ……私は一度たりとも人に直接的危害を加えた事はない、しかし、これは暴力ではなく思想の表現である……芸術家が筆を以て、楽器を以て、撮影機を以て自己の内面を表現するように、私は刃物を以て私の芸術を形作るべきなのだ……これは、私にとって乗り越えなければならぬ大きな壁なのだ……私は、挑戦しなければならぬ……出来るだけ世の中に自省を促し、後悔をもたらし、恥辱を与えるものでなくてはならぬ……。

 

その頃ニュースで通り魔事件の報道が相次いで為された……容疑者達は犯行の動機を、死ぬに死ねなかったから、世の中に対する復讐、道連れにしようと思った、などと供述していた……私はそれを見て、私は一つの個ではなく、一つの時代なのだと感じた……私は私の自分勝手な、独り善がりの、偏執的な思い込みによる意志ではなく、今という時代における象徴として、表現として、道標として存在を与えられていると感じた……つまり私は人々がより先へと向かう為に必ず乗り越えなければならぬ必要悪であるのだと感じた……私は一人の代弁者として時代に呼ばれたのだ……私が求めんとする事と時代が求めんとする事がいま一致したのだ……これは双方による合意上の自作自演なのだ……私の存在、私の行動は、歴史の中に組み込まれるべきものなのだ……。

 

罪のない人々を……と、人は言う、しかし、本当にそうだろうか、本当に、彼らに非はないのだろうか……世の中の真の弱者、目に見えぬ犠牲者は、一体誰によって痛みを与えられたのだろうか……殺人を犯せば、その実行者が法に裁かれるだろう、事故が起きれば、現場の管理者が責任を問われるだろう……では、世の中に虐げられたら……? 世の中の下劣なモラルに、世の中の不条理なルールに、世の中の不合理な文化によって、罪のない純粋で清らかで真っ直ぐな心を持った者が、人生を投げ出す程までに追い込まれたら、一体誰が裁かれるべきなのか……?

 

人々はみな、殺人の共犯者なのだ……善良な市民という法的な罪に問われぬ無法者が集団を成せば、そこには確固たる一つの悪行が、暴虐が、弾圧が成立するのだ……彼らの知らぬ所で、彼らの気づかぬ所で、彼らは一体となって、誰かを傷つけ、殺しているのだ……私という世の中における反乱分子は、正に世の中それ自身によって産み出されたのだ……世の中が作り上げた罪によって世の中が罰を食らう、これはとても理に適った事ではないだろうか……。

 

私の心は殉教者的英雄感で満たされていた……私はもはや自己と世間というものを勧善懲悪的な物語として展開し、正義と悪という単純明快な関係性を築いていた……。

 

私は、一個の時代の要請である……。

 

 

 

私は計画を立てた……仕事の都合で取得した免許を生かし、まず手始めに人混みの中へトラックで突っ込み、そうしてトラックをその場に止め、ナイフを取り出して行き交う人々を次々と刺していこうと考えた……私は実行の場をA駅前の歩行者天国に定めた……そこに決めた理由としては、歩行者天国(天国、というのは何たる皮肉だろう!)という特質上より多くの人々が行き交う事、その街が今現在における文化の繁栄を示している事、現実社会とネット世界とが混在する場である事などによった……。

 

私はレンタカーを借りに店へと向かい、仕事で要する事を装い無難に事を運んだ……店員は疑う様子なく他の一般客に接するのと同じような態度で私に応対した……。

 

全ての準備が整った……現場に向かう直前、私はネットの掲示板に殺害予告を書き込んだ……私は己の決意を人類が新たなに手にした公共空間に宣言する事によって、支離滅裂とも思える私の行動を一つの運命へ、使命へ、必然へと浄化させるのだった……いいや、本当は、止めて欲しかったのかもしれない、声を掛けて欲しかったのかもしれない、責任を逃れたかったのかもしれない、人々に対する私なりの捻じ曲がった最後の求愛だったのかもしれない……私はきっと、精神的に子供なのだろう……なぜ計画実行の直前にそんな事をしたのか、本当の所は私にも分からない……。

 

書き込みに対する反応はなかった……私は軽く身を引き締めた……私は少しだけ重要な仕事に取り掛かるような気持ちで現場に向かっていった……。

 

私の行動が世の中に変化を与えん事を……。

 

 

 

 

 

   完

 


この本の内容は以上です。


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