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一 序章

 

とある架空の作家の物語 

 

 

 

前編 

 

 序章 

 

思えば死ぬ事ばかり考えて生きて来たような気がする……この世に生を享けてから二十七年、今の今まで一日たりとも苦悩が絶える事は無く、いつ如何なる時も必ず何かしらの悩みが、不安が、憂いが、恐怖が付き纏って離れず、私は人生の大半を苦悩に費やし、まるで自ら苦悩を見出さんと躍起になり、悩み苦しみたいが為に生まれて来たかのようである……あの頃に戻りたいと思えるような明朗な時期が私には無く、辛い事、苦しい事、悲しい事、酷い事ばかりで、どの時期を思い返してみても陰鬱な色調を帯びた悲惨な映像しか想起されないのである……一つの苦悩が過ぎ去ればまた別の苦悩が訪れ、その苦悩が過ぎ去ればまた別の苦悩が訪れる……これが私の人生の要約である…… 

思い起こしてみれば、私が今こうして物を書いて作家という職業を務めているのも、偶然ではなくどこか必然――過去の至る時分、至る場面、至る瞬間において現在へと続く幾つもの伏線や兆候のようなものが見出せ、まるで何者かが私を誘導し、未来の選択肢を限定し、進路のずれを修正し、ただ一つの道へと追いやり、現在というこの場所へと導かれてきたかのようである…… 

この年になってようやく一段落を経た今、私は私が小説家へと至った経緯、私が辿ってきた人生の大枠、私という人間の有りようを可能な限り赤裸々に忠実に語ろうと思う……どうして小説家になったのか、どうして小説家にならなければならなかったのか、その全てを…… 


二 少年時代

 

      少年時代 

 

 私が生まれ育った土地、それは家を一歩でも出れば目の前には広大な田畑が姿を現し、辺り一面山々に囲まれ、どこもかしこも知った顔ばかりで埋め尽くされ、遊ぶ店も十分に買い物出来る程の店もなく、冬にもなれば全ての交通手段が途絶えんばかりに雪が積もるそんなあらゆる点において不便極まりない寒々しい、枯れたような、閑散とした田舎町だった…… 

 

幼年期……私の記憶の限りでは、ほんの幼い頃の私は、どちらかというと駄目な子供だったように思える……ドジで、泣き虫で、臆病で、不出来な、子供の中でもより子供っぽい子供だったような、そんな情けない映像ばかりが頭の中に残っており、自分が何か勇ましい行動を取ったり、男らしさを見せたり、リーダーシップを発揮したりするような姿はほとんど見当たらない……外に出れば礼儀正しい、大人しい、真面目な子供だったが、家の中においては、確実に兄弟の中でも最もわがままで、最もやんちゃで、最も甘えん坊で、最も聞き分けのない、最も手の掛かる子供だったに違いない――兄と姉が一人ずついたけども、一番兄弟喧嘩の種となっていたし、一番両親に怒られていたし、母が自分のそばから消えるとすぐに愚図っていたし、毎日のように何らかの理由で泣き喚いていたしさらにたちの悪い私は幼い頃から、自分の方が正しい、何で分かってくれないんだ、みんな酷い、という思い上がり、自惚れ、被害者意識を持っており傍若無人に振る舞う自分を加害者ではなく常に被害者だと本気で思い込んでいるのだった……とにかく、子供の頃の私は絵に描いたような典型的な末っ子として育った(根っこのとこでは今でも全く変わっていないのだ…… 

私はどちらかに分類するとすれば間違いなくいじめられっ子の側に属する人間だった……人に殴られた記憶はあっても、人を殴った記憶はなく、度々同級生に泣かされていたような気がする……保育園の時にして既に、上級生に苛められるのが嫌という理由で保育園に行きたくないと駄々をこねていた記憶がある……ほんのちょっとした事が切っ掛けで同級生の輪からはぶられたりもした……私はもうその頃から集団の中に上手く馴染む事の出来ない性質を抱え後年私を悩ませ続ける集団と個人という問題を幼少期から既に持ち続けていたのである…… 

また、大人になってからも精神的な安定性の欠如に酷く悩まされ続けたが、その萌芽を示すように、幼少期からとてもプレッシャーに弱く、大事な行事が開催される日になると、緊張やら不安やらで度々体調を崩していた……臆病で、卑怯で、弱虫だった私は、とにかく親や先生から怒られるのを恐れていて、保育園の遊具や窓ガラスを過って壊してしまった時も、先生に見つかって怒られるのが嫌で、友達を置いて園内を全力で逃げ回った記憶がある……私は目上の人間に怒られると、怒られるのが怖いというより、弱い立場にある以上言い返す事が出来ないという、その不条理さが悲しくて、悔しくて、やりきれなくて、すぐに涙を浮かべて声を詰まらせてしまうのだった……私は生まれた時から、異様なくらいに人から怒られる事、或いは人を怒らせる事を恐れ、その様な対人的不安が、時を経て深刻な様態へと変貌させてしまうのだった…… 

 

確かに私は小さい頃から精神的にひ弱で繊細な傾向にあった、しかし、取り分け深刻な悩みを抱えていた訳でも、特別他の子と比べ変わっていたものを持ち合わせていた訳でもなくまあどこにでもいそうな、極平凡な、地味な、普通の子供だった…… 

 私という人間の性格、個性、自我が明らかに他の子供たちと差別化され、独自性が確立され、今の自分へとつながる兆候が見え始めたのは、私が小学校の中学年あたりに差し掛かった頃だと思われる……私は父の都合で生まれた時から各地を転々としていたけども(私が地元愛、郷土愛を理解出来ないのはその為かもしれない、私が八歳か九歳の時に、両親が生まれ育った土地に戻ってきて、そこに家を建て、そうして引っ越し生活が一段落し、新しい学年に上がると同時に新しい学校に通うことが決まった頃……それが何を切っ掛けで、どういった経緯でそうなったのかは定かではないけども、当時の記憶を振り返ると、その前の学校での地味で平凡な振る舞いとはまるで違った自分の様子が映像として頭に残っている…… 

まず第一に、私はそれまでとは打って変わって、とても気さくで、天真爛漫で、大らかで、明るくて開放的な、人見知りのしない人間になった……誰に対してもニコニコと、優しく、元気に、気兼ねなく、まるで昔からの知り合いでもあるかのように自然体で接し、人付き合いの順序やらマナーというものをすっ飛ばして一気に距離を詰めていた……そして最も自分の特徴を表すものとしては異様な程に人を笑わせるのが好きという事だった……四六時中、どこにいても、何をしてても、笑いを生み出す方法ばかりを考え、人から笑いを取る事が何よりの至福だった……寝ても覚めても笑いのネタを練り、新しい世界、新しい道具、新しい素材を手にすれば、すぐにこれをどういう風に笑いに変えれるだろうかとそんな事ばかりを考え、一人ニヤニヤと笑みを浮かべ、テレビをつけてもお笑いの番組ばかりを見て熱狂していた……それが行き過ぎて、不謹慎な事も、残酷な事も、深刻な事も、悲しい事も平気でネタにしていた為、場を和ますどころか皆を引かせてしまったり、先生に注意されたりする事もたまに見られ、しかしそれも裏を返せば、根本的な明るさ、前向きさ、明朗さ、開放感の表れなのだった……今考えれば少々異常なくらいだったが、当時の自分にとっては、人を笑わせる、というのが、自分の精神の軸であり、とても自然な状態だったのだ…… 

私はすぐに学校の人気者となった、私はいつも人に取り囲まれるようになった、これまでは些細な事で同級生の輪からはじかれる事が度々あったけども、今度はむしろ逆で、色んなクラスメートに話し掛けられたり、遊びに誘われたり、頼られたり、引っ張りだこだった……私はとても優しく穏やかな性格だったので、常にニコニコと笑顔を欠かさず、誰に対しても何に対しても、決して断ったり怒ったりする事をしなかった……いや、しなかったのではない……出来なかったのだ……私は単に、臆病だった……人に嫌われる事、人を怒らす事が、その頃の私にとって最大の恐怖だったのだ……ここに自分の人生最大の苦難の源が姿を現す……私は自分自身はっきりと明瞭に意識していた訳ではないけども、その頃から人間関係というものに異常に気を払い、気に病み、気を煩い、気を遣うようになっていた……私はどうしても人の頼み事を断ったり、人に言い返したり、人にやり返したり、人を怒らせたり、人に嫌われたりする事が出来なかった……私は友達に遊びに誘われる事を過剰に恐れていた……私は人と接する度に必死で己自身を繕い、趣味嗜好を無理矢理合わせ、相手を怒らせないように、或いは相手から馬鹿にされないように、相手から暴力を受けないように、命を削る思いで人知れず緻密な心理戦を行っていた……私は幼い頃から人間の暴力性、人間の野蛮性、人間の悪質性というものを肌で感じ取っており、これは大人になっても変わらず感じ続けるのだった…… 

 

私はとても発想が自由な子で、物事をありのままに受け止めずに斜めからひねくれた視点で世界を捉え、世間の常識というものとは無縁で、その土地に根付かれた一切の文化や習慣から解放された精神を持ち合わせていた……しかしまた、その為に様々な誤解や軋轢を生み出してしまったことも少なくは無く、私にとっての善意が他人にとって悪意である事、私にとっての礼が他人にとって無礼である事、私にとっての常識が他人にとって非常識であるような事が多々見られ、今後最も私を苦しめる原因の一つである、他人と自分との違いというものをこの頃から否応なく意識せざるを得なくなっていた……些細なこと、些末なことを全然気にしない大らかなタイプだった自分は、何故そんな小さなことで怒るのか、何故そんな小さなことで嗤うのか、何故そんな小さなことで拒否するのか、理解出来ずに苦しんだ……そうして私は彼らと自分との距離を誤魔化そうと必死になり、人間関係に神経質になり、誰にでも優しく丁寧に繊細に接し、色々な対人的場面での適切な対処法を取得しようと身を削っており、私の学校での人気はその裏返しで、私は両親、先生、友人の親、クラスメート、ありとあらゆる人に対し少なからず不安や恐怖感を抱えながら接してい…… 

私には、分からなかったのだ……人が、何を嬉しいと思い、人が、何に怒りを感じ、人が、何を悲しいと思い、人が、何を楽しいと感じるのか……外国人が異国の文化に慣れようと四苦八苦するのを、私はこの国の人間としてこの国に生まれながら同じように経験し続けていた……幼い頃からこの国は私にとって異文化だったのだ……郷に入れば郷に従え、私は必死で周囲の人間の動作、所作行動、マナー、反応、習慣を模倣した……こういう時は、喜べばいいのだ、こういう時は、恥ずかしがればいいのだ、こういう時は、謝ればいいのだ、こういう時は、お礼を言えばいいのだ……全くもって中身の欠けた理解なき形だけの一般常識、物真似の社会通念に従い続け、大人になった今でも日常の何気ない動きが感情の伴わぬ単なる形態模写のようなぎこちないものになってしまい、一つ一つの場面においてその言動が社会人として本当に適切なものなのかどうか不安に駆られる瞬間頻繁に訪れるのである…… 

その様な文化的乖離は「礼儀」に関して特に強く表れた……礼儀的言動を自然に行う事が出来ず片言のようになってしまう事が多くあった……ゴクロウサマデス、アリガトウゴザイマシタ、オハヨウゴザイマス、オツカレサマデシタ……私は今でも、一体いつ謝罪をし、どんな場面で感謝を示し、どんな所で挨拶を交わし、何が無礼で、何が親切で、何が気遣いに当たるのか、それが分からない……相手への親切というものが、一体どういったものに当たるのか実感として理解する事が出来ないのだ……その為に私は数々の誤解を生み出し、いわれのない非難を浴びてきた……どうして自分が責められてるのか、自分が一体どんな悪い事をしたのか、相手にとって何が失礼に映ったのか……訳も分からないまま地獄の中で阿鼻叫喚するように死に物狂いで生き抜いてきたのだ…… 

 

ムードメーカーとしての自分は中学生の半ば辺りまで続いたけども、その頃から少しずつ私にも思春期的な自意識が芽生え始め異性を気にしたり、目立つ事に恥ずかしさを覚えたりするようになった為、人前で笑いを取るような姿を晒すのも抵抗を覚え出し、同級生からギャグみたいなものを求められてもまともに返さなくなり、いつも一緒に行動を共にしていた二三人の前でしかふざける姿を見せなくなった……ここへ来て私はまた幼い頃のように地味で、冴えない、つまらない、平凡な生徒へと変わっていった……しかしそれは単に羞恥心から来る変化だけではなく、やはり人と接する事への苦痛から来るのが大きかった……人気者になればなる程、人は私を構ってくる、人気者になればなる程理想の自分を求められる、人気者になればなる程他人に気を遣わなくてはならなくなる、私はもうそれが嫌になった……子供というのは本当に無邪気なもので、誰も真剣に気に留めていなかっただろうが、人を喜ばせる道化を振る舞っていた私は毎日毎日クラスメートから悲しい暴力や嫌がらせを受け続けた……私は何をされても決して本気でキレたり泣いたりやり返したりせず、ニコニコと笑顔を欠かさないよう努めていたのできっと人は私を気楽な奴だと思っていたに違いない……誰も私が本気で嫌がってるなどと、誰も私が日々酷い暴力を受け続けているなどとは映らなかっただろう……実際は私が学校一多くの暴力に晒されていたというのに……いじめられっ子より、クラスの人気者の方が、精神的にも肉体的にもより多くの暴力や苦悩、ストレスに晒されているという事実を、人々は見過ごしているのだ……人間に対する不信の感情は募る一方だった……明るさの裏に酷い神経質を抱えていた私は、人にとっては何でもないような事でも、自分にとっては巨大苦悩として表れ、次から次へと色々な問題が途絶えることなく無数に襲い掛かってき、どうして自分だけ、というありきたりな嘆きを日々感じざるを得ず、私はどんないじめられっこやどんな問題を抱えた生徒よりも自分の方が遙かに不幸であり、その上自分の不幸は誰にも気付かれることなく放置され続けていると一人悲嘆に暮れるのだった……過剰な意識過敏な感受性が、日常の至る場面で要らぬ不安や恐怖や苦痛を掻き立て学校生活への反発、嫌悪、疑念を深めていった……強いストレスを感じない日は一日とて無くなり、そうしてそれ以後もうすっかり楽しかったと素直に思える時期も消え、不安定な精神状態が延々と続くのだった……。 

 

それでも不登校に陥ったり病を患ったりする事もなく何とか私は無事中学を卒業し、高校へと進学した……が、その高校というのが、最悪だった……私の進学した高校はとても厳格で、重々しい、堅苦しい、生真面目な進学校で、特に勉学に関しては途轍もなく厳しく、極端な話勉強以外は何もしなくてもいいというぐらいの方針で、学祭や修学旅行などの行事も娯楽要素はまるでなくただ形式的に処理させるに過ぎず、青春を謳歌するような瞬間や、学生生活を満喫しようというような生徒は全くというほど存在せず、教室中が若さに反した暗く重い雰囲気で覆われていた……時代錯誤の校風、がんじがらめの校則、軍隊式の教育と当時の価値観を基準とすればそれほど非常識とは言えなかったかも知れないが、今の教育観から言えば確実に問題となってたであろう古臭い教育方針が多々残っていた…… 

私はこれが切っ掛けで極度の学校嫌いになった、教師も、クラスメートも、全てが憎らしかった、積極的に友達を作る事は一切せず、教室ではほとんど言葉を発さない人間だった、勉強をする気にも部活をする気にも全くなれなかった、虫のように黒板にかじりついて機械のようにノートを取るクラスメート達を軽蔑した教師達の非人権的な命令に従順に従って反発しようとしない生徒達を嫌悪した何て人間味のない教師と生徒達であることかと気味悪く思った、学校で行われる全てが馬鹿馬鹿しい無意味なものとしか映らなかった、私はその学校の中で一人完全に孤立して生きていた、学校という場から少しでも離れる事、私の頭の中はそれだけだった……。 

もう一つ、学校への反発、社会の常道からの離脱を求める契機となった、私の人生において最も重要なある出会いがあった、それは、芸術だった……私はその頃から芸術というものを強く意識するようになった、それはどれか特定のジャンルに限定されるものでなく芸術という概念全般に対する興味だった、芸術こそがこの世で最も気高く、崇高で、価値のあるものと感じた、それ以外の何物も人生を捧げるだけの価値はないと思った、私は四六時中、途切れることなく芸術について思案に暮れる少年になった、朝、目が覚めれば芸術について考え、夜、床に就けば芸術の事を考え、授業に出席すれば、やはり芸術の事を考え、ぼーっとして先生に怒られる、そんな調子だった、まるで芸術という悪霊にでも取り憑かれたかのように、それ以外の事に思考を費やすのを遮断させ、同世代の人間が気を惹かれるようなもの、日々没頭するもの、興味事、関心事、そういうものから悉く距離を持たせ、周りの人々や世界に対し、一人現実から独立したような、悲哀や孤独、寂寥、卑屈、自尊、驕慢、複雑な感情が混合する奇妙な感覚を持って生きていた……当時の私はその様な思考回路、精神状態が特別おかしなものとは思っていなかったけども、今振り返れば明らかに異常と言わざるを得ないようなそんな特殊な時期にあった……。 

私は芸術の道で食べていく事を深く望むようになった私は創造性に関して根拠のない自信を持っていた、私の将来像は芸術家以外見えなかった、安定的な職という選択肢は初めから欠片もなかったそんな自分の姿を想像しようとする事さえ不可能だった、私は自分の力によって自立し、自分の力によって成功し、自分の力によって自由に生きる事を望んでいた、誰にも束縛されず、誰の命令にも従わず、何の規則にも動かされず、世の中の煩瑣事、世俗的な事に惑わされず、私に指示する人、俗な人々から解放され、自分自身として、自分自身の生活を支え、自分自身の人生を堂々と生きる事…… 

それだけに学校へ通う事の不毛さが強く強く際立ってくるのだった……授業を受ける事が苦痛としか感じず、クラスメートと会話するのも馬鹿馬鹿しいとしか思えず、教師の叱責や指示が屈辱としか受け取れず、学校に行っては家に帰る時間が空費にしか映らず一日一日、一時間一時間、一分一分、一秒一秒が、無意味な、無駄な、無用な作業の反復であり、十代という人生において非常に大きな時期の三年間を、何の成果もない単なる徒労として終えるのかと、そんな激しい焦燥や苛立ち、失望を感じていた…… 

勉強、とは、何であるか、それは、学校で教えられる記号を記憶する事なのだろうか、確かに、大学に進学したいのであれば、教科書に書かれている情報をうまく処理する事がその人にとって勉強であろう、技術職に就きたいのであれば、その道の技術を極める事がその人にとって勉強だろう、スポーツ選手になりたいのであれば、そのスポーツの練習に励む事がその人にとって勉強だろう、ならば、芸術の才に恵まれ、芸術家を志す人間は、より多くの芸術に触れ、芸の技術や知識、世界観を身に付ける事が、一番の勉強ではないか、それが端から見れば単に遊んでいるようにしか見えなくとも、本人にとっては、立派な勉強なのだ…… 

人は思春期に教育社会に対する反発の感情や思想を抱いても、いざ大人になれば若かりし頃の幼かった考えや態度を反省し、若気の至りや青春の一ページとして自嘲的に回顧するものだ、しかし、私の場合は大人になっても、やはりあのとき学校で学んだものは何の意味もなかったと、苦痛をひたすら我慢させられるだけの長い拷問に過ぎなかったと、何一つ役に立った事などないと、あの頃感じていた事は間違っていなかったと、むしろもっと早くに逃れるべきだったと、そう思い続けるのだった…… 

 

自由、私が欲していたのはそれだった、人は馬鹿にするだろう、しかし、世界中で誰よりもそれを真剣に望んでいた、私は奴隷のような気分で生きていた、誰にも理解されず、誰にも優しくされず、誰にも慰められず、誰にも好かれず、誰にも気付かれず、独りぼっちで、人知れず凄惨な苦痛の毎日を強いられていた……酷い学校だ、毎日毎日とんでもない量の宿題を出され、授業中には罵声が飛び交い、下らない些末な規則に厳しく縛られ、休日も容赦なく学校に駆り出される、その上通学距離も長い為に登下校だけで多くの時間と体力を取られ、休む時間など少しもないそうして思春期特有の強烈な自意識が毎日毎日多くの人々に囲まれる空間をまるで地獄のように、魔物に取り囲まれているかのように感じさせ、他人の存在、他人の視線、他人の無思慮、他人の無神経に苦しみ、呻き、のたうち回りながら、常時厳しい緊張と不安に押し潰されそうな状態で生きていく……ただ人という存在が自分のそばにいるのを察知しただけで異常に気になり、底なしの痛苦、計り知れぬ苦悶を感じるのだ……学校にいる間は、まるで教室の自分の席に縄で全く身動きできない程きつく縛られ、絶えず拷問を受け続けているような、そんな気分だった……突然発狂してクラスメートや教師を全員殺してしまうのではないかと思った、或いは奇声を発しながら窓をぶち破り飛び降りてしまうのではないかと思った……私はあまりのストレスから、身体が破裂して内臓が飛び散るようなイメージが度々想起された……休息のひとときなど、一瞬もない……朝目が覚めてから、夜意識が眠りに落ちるまで、間断なく気が狂いそうな程の重苦に責められ続ける……これを拷問と言わず何と言うのか……。 

たった一人、たった一人で良かった、自分を理解してくれる人間が、たった一人いてくれれば、それだけで救われたかもしれないの……。 

 

私は世界で一番学校が嫌いな人間だと思う、学校に関する全てが自分には合わない、学校というものの根本的なシステムや機能が自分とは真逆の世界なのだ、そもそも私は、毎日毎日、規則正しく、決められた時間通りに、決められた物事を行うという基本的な事さえ出来やしない、これはやる気の問題ではなく体質の問題なのだ、身体的に不可能なのだ、そうしてまた、私は教師という奴とも上手くやっていく事が出来ない、偉そうに、上から目線で、命令口調で接してこられると、どうしても腹が立ち素直に言う事が聞けなくなる、何かを相談するなんて以ての外だ、分かってもらえる訳がないのだ、そして、何より、私が最も問題とするのは、他の生徒だ、教師なんていうのは、嫌な奴だろうと、酷い奴だろうと、学校内で常に自分のそばに付いて回る訳ではないし、普段の付き合いを持つ必要もない、しかし、クラスメートというのは、いつだってすぐ近くに生息している、こちらがどんな人間だろうと、相手がどんな人間だろうと、否応なく同じ空間で、同じ時間を、同じ作業を共にする事を強いられる、強引な話だ、何の共通項も見出せない人間達、自分の意思や性格とは無関係に選ばれた人々と、無理に人間関係を築こうとするなんて、不和が生じるに決まってる、そうしてその不和の分だけ、苦しみを味わわされる……私にとっての最大の問題はそれだった、誰だって抱える集団内での人間関係、コミュニケーション、その悩み、苦悶が、尋常ではなかった、私の過敏すぎる自意識や感受性が、周りを取り囲む人々に対し過剰な不安や憂慮を抱かせ、集団の中に溶け込んでいく事を拒否させるのだった……。 

私にとって唯一の安らぎは、未来を夢想する事だった、こんな何もない、つまらない、固い、古臭い田舎を抜け出して、大都会、東京に行き、毎日毎日、荒れた、はちゃめちゃな、変化に満ちた生活を送り、才能一つでのし上がり、自分の正しさを証明し、全ての人間を見返し、楽しくてたまらない日々を送る……夜道を一人、星空を見上げながら、そんな現実離れしたロマンチックな空想を思い浮かべている時だけは心が安らぐのだった…… 

 

しかしまた、その様な自由への希求、反骨精神と同時に、他人の目や世間体を極度に気にしすぎる私は誰よりも反発を抱え、誰よりも大きな夢を抱え、誰よりも自由を求めていたにも関わらず、誰よりも目立たない、誰よりも大人しい誰よりも模範的な生徒でいる事を強いられていた……というより、むしろその様な繊細で真面目な人間だからこそ、がんじがらめの管理教育に対する強い怒りを覚えていたのだろう……私は周りの人間に対する根強い反発を抱えながらも、その反発を表に出す勇気はなく、激しい緊張や不安を内に押し込めた状態の中で毎日を乗り越えていた……。 

私は今すぐにでも学校をやめ芸術の世界に飛び込むことを真剣に望んでいたがそんな事を人に打ち明けられる訳がなかった、自分の親だろうとクラスメートだろうと教師だろうと、私は決して私の中の将来像を伝える事はしなかった自分の置かれている立場は、芸術家というような不安定で根無し草的な生き方とは全く遠い世界であり進学もせず就職もせず不確かな芸の道を歩むなど、笑われるか叱責されるに決まっていた両親は堅い道を歩ませる事以外頭にない人間で、してこんな片田舎では芸の道で成功する人間など非現実的も良いとこで、そんな行動を取れば気狂い扱いされるに決まっているよしんば家出をしたとしても何の知識も経験も繋がりもお金もない私にはどうする事も出来ないのだった……。 

 

そんな巨大な鬱屈を抱えたまま一年間通い続けた頃、ここでもまた私の人生を大きく変える出来事が起こった……私は精神的な病を患った……毎日毎日吐き気やめまいに襲われ、夜になってもまるで眠れない日々が続いた……自宅から些か遠い勉学至上主義の学校にただ通い続けるだけでも大変だというのに、そこに訳も分からぬ悪しき症状が加わった……しかし、私はそんな事態になっても学校を辞めるという決断に近づけなかったいや、辞めるどころか休みを取る事さえも全くせず、常にふらふらと倒れそうな状態で、ほとんど死んでるのと変わらないような様子で学校に通い続けた……当時はまだ精神疾患に対する世の中の意識が今ほど高くなかったのだろう、両親も特に私に休みを取るのを促すような事は言わず、精神疾患の意味もよく分かっていないような感じだった……自意識の強い私は、不測の事態や未知の世界に足を踏み入れるのを極端に拒んでいたし、根が頑固気質で、精神的病に対する薬の効能というのをあまり信用していなかったのもあり、精神科に通うことを遅らせてしまっていた……私には心や身体の事を遠慮なく相談出来る相手がまるでいなかったのだ……。 

病院に通い出してからも、精神が衰弱しているが故に肉体の免疫が低下し、そこへ来てさらにその土地の持つ気候の寒さが追い打ちを掛け私は秋から春にかけて毎日のように風邪をこじらせており常に鼻は詰まり喉は痛んで授業どころではなくストレスは募り修学旅行の時でさえ三泊四日、毎夜毎夜、寝る前に精神系の薬を飲み、或いは風邪の薬を飲み、しかしそれでも特殊な状況への緊張で全く眠れず、初日から最終日までずっと酷いめまいと吐き気を感じながら、今にも倒れそうなふらふらした状態で孤独な辛い時間を過ごしていた(厳格な校風を表すように、娯楽性のある場所や施設には一切行かず飽くまで伝統文化を巡るだけの糞真面目な社会講習に終始していた、あまりにも下らない、馬鹿馬鹿しい、阿呆らしい四日間だった為、今となってはほとんど記憶にも残っていない……)。 

一度、勉強合宿といったような、ひと学年の生徒全員が、およそ一週間、ある宿泊施設に箱詰めにされ、朝起きてから夜寝床に就くまで、休む暇もなくひたすら勉強を強いられるという拷問と変わりない非人道的な滅茶苦茶な行事があり、私はそれを人間のやる事ではないと、奴隷として監禁状態で強制労働を強いられていると暴動が起きたって不思議じゃないと、その様に感じ、それを実行する教師あるいはそれを受け入れる生徒達を異常だと思った……休む暇など与えられず、ただただ教科書と黒板にかじり付き、授業が終わった後も明日までの課題を大量に与えられ、味気ない食事、ぎゅうぎゅう詰めの狭い部屋を押しつけられる……私はその間、気を失いそうなくらいの極度のストレスに晒され続けた……それが祟ったのだろう何とか苦行を乗り越えて家に帰った、正にその日の夜、私は突然、猛烈な胃の痛みに……鷲掴みにされてるような、雑巾絞りの如く捻られてるような、真っ二つに引き裂かれてるような、筆舌に尽くしがたい激烈な胃の痛みに襲われ、すぐに救急へと駆け込み、意識が朦朧となりながら治療を受けた……死ぬ死なないの話では無かったが、ベッドに横たわって曖昧な意識の中で激痛と闘いながら、自分はこのまま死ぬんだろうか、まあそれはそれでもういいや、という、自暴自棄な気持ちに陥り、自分自身の惨めな状況と人生を振り返り、自然とおかしさがこみ上げてくるのだった……。 

私はもはや発狂寸前だった、学校を爆破し、自宅を燃やし、周りの人間を殺し、高所から飛び降りたいような、そんなどうにもならぬ衝動を、苦悶を、懊悩を心の奥へ必死で抑え付けていた…… 

とにかく、私の青春は、ゴミのような、クズのような、虫けらのような、何の価値もない日々だった、友情も、愛情も、何もなかった喜びも、興奮も、何もなかった、あるのは、ただただ、常軌を逸する程の、孤独、不安、寂寥、空虚、苛立ち、懊悩……あの頃に戻りたい、と思う事など決してない、もう一度学校に通いたい、などと絶対に思わない、今となっては良い思い出、などと口が裂けても言えない……あの頃の自分の姿を思い返すと、あまりにも、いたたまれない、可哀想で可哀想で仕方がない、泣きそうになる、そうして、そのような状況を作り出した、大人達や、同級生や、社会が、憎い、悔しい、悲しい、遣る瀬無い……そう、彼は、必死で戦っていた、一人孤独に、戦っていた、世の中と、古い価値観と、或いは自分自身と、命を削りながら、人知れず、戦っていたのだ……。 

 

次第に私は生きる事に希望を持てなくなっていった、将来に対して悲観すべき確たる理由があった訳ではない不幸な出来事に見舞われた訳ではないただ私はこのあまりに変化のない死んだような鬱屈な毎日を過ごしている内に、喜びや興奮を感じ取る心の感覚が麻痺を起こしてしまい気が付けば生きる意味が分からなくなってしまっていた……何を築き上げようが人はいずれ死ぬ、結局我々が存在する真の意味など解明出来やしない、宇宙の広さ長さから比べれば自分の存在、人生はゴミ以下でしかない、そのような、およそこの世で考え得る最大の究極的ネガティブ思考へと陥っていた……哲学の悪魔に取り憑かれた私は、世の中について、人生について、人間について、現実について、ひたすら思念に耽り、熟考していく内に、何かを分かろうとしていたはずのものが、考えれば考えるほど、逆に何もかも分からなくなり、無意味な混沌の中に身を放り投げ出されように感じた……今まで抱いていた魅惑的な未来の夢想を思い浮かべても硬化した私の心を蘇生させる事は出来ず、人生そのものが長い長い不毛な作業の連続としか考える事が出来なくなり感情を失い機械化された日常の中で人生というものを考える度に、一体何の為に、何を目指して、どんな理由で生きていかなければならないのかと、身体に粘り着くような虚無感に覆われ始めるのだった……消えたいという漠然たる空虚感が身体の奥底からじわじわと湧き出て、次第にそれが、死にたい、というはっきりとした希死念慮の塊へと変貌し、どうせ何をしたって意味はないのだとその様な失望感、絶望感が私の身体に纏わり付いて離れなくなった……生きてたって無駄だという感情が湧き上がる度に過呼吸に襲われ、吐き気やめまいも一層酷くなり、日夜ふらふらふらふらと、まるで成仏出来ずにさまよう幽霊のように存在していた……仕舞いには、死にたい、という思いが、死ななくては、という義務観念、強迫観念のようになっていった……しかし、現実的且つ明確な不幸、具体的な人生の障壁が目の前にたたずむ訳ではなく、飽くまで決定的な理由のない感覚的な希死念慮、観念的な自殺願望だった為実際に思い切った行動に出る事はなく、私はただただ心の中で生死をさまよい続けた……。 

世間体を命の次に重視する私も、さすがにもう耐えられなくなり、不可抗力の結果として、ついには学校を辞める事となった……今まで心の奥底から叫ぶように散々願っていた退学という行動も、今となっては何一つ解放感を得ることは出来ず、重い鎖を全身で引きずるようにして無為な時間を生きていた……「昨日」も「今日」も「明日」も存在しないかのように、表情も感情も失われた人形のように、虚しく地べたに横たわり、生きよう、という力ない意志と、死のう、という絶望感との狭間で、もがき苦しみながら日々が過ぎていった……しかし、いくら時が経っても結局死ぬ決意に至らない事が分かると、次第に、このままではいけない、今こそ前に踏み出すときだ、今までの全てを断ち切ろうと、前向きな意志がゆっくりと心の中に生まれ始めた……しかしそれは、どちらかというと、生きよう、という力強い意志より、死による解決は不可能だ、という、死に対する諦めによってもたらされた、受動的な生への意志に過ぎなかった……そうして私は、せっかく学業の道から脱したのだから、これを機に芸術の道へ足を踏み入れようと、そう考え、私は両親に、恐怖と羞恥心がひしめき合うような苦悶の中で、恐る恐るその事を告げた……が、当然、せめて高校は卒業した方が良いという両親からの説得があり未来を考える時間が作れるなら、と私は結局、形だけでも学校に通って卒業の証を残そうと定時制の学校に転入する事に決めた……。 

 

その学校では生徒の自立性を重んじてい為、自分で授業を選択し、自分で勝手に出席し、自分で勝手に欠席し、学級というのも形式的な括りでほとんどクラスメートとの交流もなく、行事への参加もほぼ任意で、プライベートな事にも一切干渉されなかった……大抵この様な場へ来れば以前他人との接触を拒んでいた者も交流を持ちそうなものだが、私は結局ここでも友達を作る事をしなかった、しかし、そもそも集団での行動があまりなく、皆それぞれ自由に生活していたので、一人きりでも特に苦痛を感じる事はなく堂々と過ごせていた……私はこれに関しとても大きな自由を感じた、それまで自分の日常における最大の苦痛の原因でもある「他者」という存在が、自分の周りを取り囲まない、自分に干渉しない、自分と繋がらない、これ以上に有り難い事はなかった、自分で自分の行動を決める、自分で自分の価値観を決める、自分で自分の未来を決める、私は初めて小さな自由を手にしたと感じた……しかし、学校という空間の煩わしさからは一旦解放されたからといって生きる事へのはっきりとした希望や未来への望みが生まれた訳ではなく、何をしている時も常にどんよりとした重い粘膜に覆われ、どこにいる時も必ず心の隅っこに黒い邪悪な塊が潜み、日常のふとした瞬間に突如死の誘惑が訪れ私をパニックに陥らせるのだった……。 

以前通っていた学校でかなり単位を取得しており、大学に進学する積もりもさらさらなかった為、私は一年通してほとんど午前授業の予定表を作成し、非常に多くの余暇を生み出すことが出来た私は気を紛らわせる為、或いは己の進路の為、もしくは単なる趣味として、多くの様々な芸術に触れ、色々な世界を覗くことが出来たやはり私は芸術に触れている瞬間だけは生きる虚しさを忘れ、自分もこうなりたい、こういうものを作りたいという希望を抱くことが出来るのだった、余った時間を最も有効に使うことが出来た為中でも特に私は映画を借りて観ることに熱中し、毎日毎日レンタルビデオ店に足を運んでは大量に映画を借りて家で見ていた、その内私は自分でも映画を撮りたい、物語を書いてみたい、役を演じてみたい、という気持ちを抱くようになり結果、私は映画の世界へ飛び込むことを決意した…… 

そうして、翌年の春、私は東京にある映像関係の専門学校に通う為に、東北の田舎を離れ、大都会、東京へと向かった…… 


三 東京

 

      東京 

 

遂に私はあの忌々しき故郷を抜け、何年も前から望み続けてきた夢の都、東京へとやってきた……私は一山当てようと田舎から東京に出てくる古臭い少年のような純粋な気持ちだった……不安も大いにあったが、それに負けないぐらいの期待が、希望が、熱意が、興奮があった……これまでの十八年間は、最悪だった……何の意義も、価値も、喜びも見出せず、毎日毎日が辛く苦しい時間でしかなく、生産性のないゴミのような日々だった……しかし、それももはや過去の事、もう過ぎ去った事だ、全て忘れよう、足枷は外れた、縛り付けるものは何もない、もう過去は振り返らない、未来を見つめよう、希望溢れる新たな未来を築こう……自分の力に自信を抱き、都会の生活や人々に夢を見ていた私は、引っ越した当初興奮冷めやらぬ様子だった……そんな私の気分を反映してか、不思議な事に、嘘でなく本当に、実家から東京に出て一人暮らしを始めたその日を境に、二年も患ってきた鬱の症状が、ぱたりと止んだのである……夜になって薬を飲まずとも安眠でき、朝になって薬を飲まずとも具合が悪くならず、問題なく過ごせていた……きっと無意識の内に故郷の環境が私にとって相当な精神的抑圧となっていたのだろう――というのも、それから実家に帰省する度に、必ずと言って良いほど体調を崩していたし、数年後に実家暮らしを再び余儀なくされてからも、また同様の症状に悩まされ続ける日々が続いたのだから(そう考えると、私は一応医師から『鬱病』という診断名を下されてはいたものの、実際は、厳密な内因性の鬱ではなく、どちらかと言うと、私自身の特異な性格による生活環境への不適応や、極端に虚無的な人生観から生じる、『重度の鬱状態』と言った方が適切であったように思える。現に、薬物を投与されても、ただ不眠や吐き気、目眩などの身体症状を部分的に抑制するだけで、症状をもたらす根本的な考え方の改善には至らなかった他人には理解できずとも、一応私なりの『絶望の理由』というものは明確に存在したのであって、もしも私に病気があるとすれば、それは私自身の生まれ持った極端な性格、思考法の方であり、それが各種の苦悩、症状を招き寄せたに過ぎないのだ)……。 

 

私は学校に通い始めた、様々な期待を胸に、通い始めた、今までとは打って変わって、多くの友人を作り、多くの経験を積み、仲間と共に歩み、共に笑い、共に泣き、共に未来を作り、青春を謳歌し、自由気ままに行動し開放的な生活を目指し明るく楽しい毎日を過ごす……そんな思いを胸に、通い始めた……。 

ああ、しかし、私に順調な人生などというものは決して与えられないのだ、それが私の運命なのだ、私に与えられた試練なのだ、お前の進むべき道はこっちではないと、神が私を引き剥がすのだ、は無理だった、私はやはり、不可能だった、学校、その空間に上手く融和するなど、先天的に出来ない事なのだった、それがどんなものであろうと、どんな事があろうと、決して私は、学校というものに慣れ親しむ事が能力的に出来ない人間なのだ……。 

私は失望した、私は辟易した、私には無理だった、どこに来ようが他の生徒と分り合うという事は絶対に出来なかった、私は周りの学生を見渡し、その言動振る舞い、見た目の雰囲気から読み取れる細かい情報を前に彼らと自分とが仲良くやっていく絵をまるで浮かべられなかったどうしようと無駄だ、全く文化が違うのだ、住む世界が違うのだ、言語が違うのだ、何から何まで共通するものがないのだ、相手は何とも思ってないだろうが、私は全く会話が成立していないと思った、本当に形式的な、表面的な、軽く薄っぺらい機械的な言葉が交換されて終わっているだけのように感じた、私は人というものがロボットに見えたのだ、この人間は、私が目の前にいる事が分かっているのか、私の表情や、私の仕草や、私の言葉の機微を、一つ一つちゃんと受け取っているのだろうか私は人が他人というものをまるで見ていないように感じた、彼らはまるで接している相手が存在しないかの如く振る舞っているように見えてならなかった、私は他人を前にしながらも自分が一歩離れた場所から客観的にこの状況を眺めてるように思えてしまった、常に自分が相手の発言行動に自分のそれを合わせて接しているように感じた、まるで小さな子供を相手するみたいに……。 

また、当時、芸術至上主義者だった私にとって、学校という空間はあまりにも生温い、つまらない下らない、浅い、軽いものに感じてならなかった私は人生の全てを芸術に捧げる気だった、芸術に対して非常にストイックだった、芸術以外の事は一切考えず、芸術に関係のない行動は一切取らず、とにかく芸術の世界に少しでも近づく事、芸術制作に携わる事、私の頭の中はそれ以外になかった、芸術の為なら自分を殺したって構わない、芸術の為なら他人を殺したって構わない、本気でそう思っていた、生活も、娯楽も、恋愛も、お金も、仕事も、住まいも、どうでも良かった、ただ、芸術、これだけだった……が、無論そんな事を考えて入学してきた人間など一人もいない、私の方がおかしかったのだ……大抵が、社会に出るまでの時間稼ぎや、自分が好きなものに携わって仕事が出来れば良いとか、その様なレベルでの意識しか持ってきていなかった、それが普通なのだ、おかしいのは私の方だ、芸術に身を滅ぼそうなど、そんな馬鹿げたことを真剣に抱いてきた奴は私だけだ、他の生徒にとってはまるでお笑い種だ、しかし、私はその様な感覚が世間的にずれたものだという認識がなかった、そのため私は他の学生との意識の違いに勝手に失望し、勝手に落胆し、勝手に嘆いた…… 

また、講師、という奴とも、私はやはり分かり合える気がしなかった、そもそも、どうして尊敬もしていない奴に、自分より才能があるとも思えない奴に、どこの馬の骨か分からないような奴に、私が素直に言う事を聞き、指示に従い、助言を聞き入れ下の立場に甘んじなければならないのか、そうして他の学生はまた、どうしてそれを許す事が出来、当たり前のものとして受け取り、疑問を抱かずにいれるのかそれが納得いかない、釈然としない、呑み込めない……私は、こんな事をしに来たんじゃない、こんなぬるま湯に浸かってうだうだと無為な時間を過ごす為に来たんじゃない、今までと変わらず一学校の生徒としてお決まりのレール上を歩む為に来たんじゃない、私は自分の持てる力を発揮し、自分の人生を切り開き、自分の正しさを証明する為にここへ来たのだ、こんな芸術など何も知らぬような奴らと仲良し小好しで足並み揃え、何の実績もない癖に偉そうにする奴らの召使いになる積もりで来たんじゃない、一体、彼らに何を理解でき、何を創造出来るというのか……学校といえども、芸術の世界だ、芸術は、経験より、経歴より、年齢より、資格より、才能が優先されるべきなのだ、実力が全てなのだ……。 

私は自分の能力に絶対の自信を持っていた、いくら講師といえども自分の芸術観を否定されるのは我慢ならなかった私は授業の初日で専属の講師と喧嘩した、私は私が書いてきた脚本にダメ出しされ、腹が立った、今考えれば、それはダメ出しというより何て事ないちょっとしたアドバイスに過ぎなかったが、自信家だった私にとっては大きな屈辱に感じた、一体お前は、どこの誰なんだ、何の実績があるというのか、何を根拠にそんな事が言えるのか、どうしてそんな偉そうに振る舞えるのか、芸術の講師なんて、結局、ろくに活躍できなかった人間、栄光を掴み損ねた人間、芸の世界で負け、こぼれ落ちた人間の最後の食いぶちに過ぎないではないか、本当に才能があるのであれば、こんな所に安住するわけないのだ、お前はもう、底が知れてしまっているのだああ、しかし、それ以上に、十八の新入生に過ぎない私は、当然偉そうな口を利く権利はないのだが……私は今まで教師に対して反抗的な態度を示す事などなかった、弱虫で臆病で平和主義の私は、自分の方が明らかに正しいと思っていても、立場上引かざるを得ないと感じると、涙と悔しさを胸に引き下がっていた……しかし、やはり私のその頃の意識は少し異常だったのだろう、自分の世界に固執し、他の文化と融和する事を知らず、非常に攻撃的かつ被害妄想的だった私は自分の何を否定されようと、殊芸術に関してだけは、断じて引き下がる事が出来なかった、これを否定される事は、私の全てを否定される事だと、私の存在の中心、核、基盤を崩される事だと、そう思った……いきなり食って掛かってきた事だから向こうもびっくりした事だろう、一新入生が講師に対しちょっとした事で喧嘩腰になるなんて、そんな奴今までいなかったに違いない、変な奴だと皆から思われたに違いないのだ…… 

入学日から私はその学校で目にする全てを馬鹿馬鹿しく、下らなく、阿呆らしく思った……つまらない会話や、軽薄な振る舞いや、浅ましい芸術観を繰り広げる生徒達を軽蔑し、小さな、浅い、狭い世界で、まるで大きな事をやってるかの如く振る舞う講師達が哀れに感じた……それ以降何度も味わわされる羽目になる、世の中に対する失意、失望、幻滅、その第一歩だった…… 

 

私は次へ……とにかく次へ、次へと行きたかった……私は異常なくらいに生き急いでいた……順序を辿る、段階を踏む、地道に歩むという事が私には出来なかった……才能のある人間は、その経歴や背景に関わらず、すぐにでもふさわしい地位に就くべきだと、その様な性急な考えを持ち、コツコツと下積みを経て上へあがるという事を疎んじた……今すぐ叶わぬというなら、永遠に叶わなくても構わない……十代を終えれば後は余生に過ぎぬ……年を食ってまで無駄に生き延びたくない……本気でそう信じ、出来るだけ若くして歴史に名を残したいという芸術至上主義に駆られた若者が俗に抱くようなロマンチシズムに支配され、まるで自分が世界の中心であるかのような過剰な自意識、自負心、自尊心、利己心を持ち、地道な運動を、着実な前進を確実な蓄積を尊ぶ事を拒否した……。 

結果、私は誰に何の相談もなく、すぐに学校を辞めてしまった……こんな所でうだうだと無駄な時間を過ごすのであれば、早々に切り上げて独自の方法で前に進んだ方が良いと、その様な場当たり的な甘い考えの下、私は4月に入学し、4月に退学届を出したのだ……当時はそれが無謀な考えではなく、むしろ賢明な英断であると誇っていた……今まで全て親や教師、周りの人間達の言いなりのままに動いていた自分の人生、生き方への反発、反抗の感情が、余計にこの様な暴挙へと駆り立てた……きっと学校では、あいつは一体何しに来たんだと、そう笑われているに違いない……己の才能に対する過剰な自信、社会に対する無知、或いは己の決断力の欠如に対する反動意識が、この様な無茶で性急すぎる判断に拍車を掛けたのだ…… 

 

それから私は脚本を書いて様々なコンテストに送ってみたり、役者として事務所や映画のオーディションを受けてみたりと、とにかく何らかの形で業界に近づこうと当たってみた……しかし私は最初からまるで相手にされていなかった……そもそも私はその内容や能力以前の問題で、人としての、社会人としての、最低限の礼儀や、マナー、作法、というものまるでわきまえてなかった……脚本を書こうがその形式は滅茶苦茶だったし体裁も粗雑だったし、オーディションに行こうがまともに挨拶さえ出来ずだらだらと動き常識のわきまえない勘違い小僧に過ぎなかった……私は、関係ないと思っていた……社会の仕来りは、社会の仕来り、芸術の世界は社会の一部ではないと、そう信じていた、余計なしがらみや駆け引き、社会人としての嗜みや大人の事情を極力排除した、飽くまで実力勝負、才能勝負の、真っ白な、実直な、純潔無垢な世界だと思っていた……高校の時に芸術に目覚めてから、芸術以外の何にも興味を抱かず、自分の好きな世界にのみ意識を没頭させてきた自分は、最低限の社会のルールや礼儀さえもまるで知らなかった……。 

私は、芸術の世界に夢見すぎていた、芸術の世界だけは汚れた社会から独立し、商売っ気とは無縁で、飽くまで才能のあるものが勝ち残り、ただ質の高い価値観を生み出す事を目的とした、純朴な者達の集う世界だと、勝手に思い込んでいた……いや、それも結局、社会全体に対する無知から来ていたのだ……私は社会というものを、世の中というものを、世間というものを、極端に過信していた……私は世の中というものが、もっと賢く、もっと清くもっと進んだものと思っていた、自分とそこまで大きな隔たりがあるとは思っていなかった、が、実際はまるで違った、社会というものは、全く合理性がなく、下らない些末な事に妙にこだわり、実質よりも形式に執着し、どうでもいい古臭いルールや文化がはびこっている……私は大きなショックを受けた、専門学校に次いで、すぐにまた世の中に対して深い失望を味わわされる事となった……。 

私はとうとう映画の道を諦めた、もう嫌になってしまった、馬鹿げた低次元の世界だと見切りを付けてしまった……せめてどこか雑用としてでも入って地道に下積みを重ねればいいものの、私には無理だった……人生に対する性急さ、才能に対する驕り高ぶり、労働社会への嫌悪が、万人に与えられた常道から私という存在を遠ざけた……取りあえずアルバイトくらいはしなければと思ったが、労働社会への経験も関心も一切なく、ひらすら夢想の世界に浸かってきた私は、そもそもどう仕事を探せばいいのか、どんなバイトから始めればいいのか、社会人としての節度ある態度とは、のある作法とは、礼儀正しい言葉遣いとは……社会に出る上で必要な全てが私には欠けていたのだ……結局バイトを始めても、他の労働者と上手く接すること出来ず作業別の事ばかり考えてちっとも身が入らず、右往左往してまともに職務をこなし続ける事さえ出来ない……細かい事ばかり気にしてしまうが為に接客もろくに出来ない自分は、必然的に力仕事へと向かう羽目になったが、それはそれで肉体労働特有の奴隷的、非人道的、パワハラ的扱いを食らい、社会の恐ろしさを目の当たりにする事になり結果根性も忍耐もない私は、すぐに職探しから離脱してしまった……。 

 

私はようやく焦燥に駆られてきた、いよいよまずい事になったと自分の無思慮を反省しだした、今の自分は、学校にも通わず、働きもせず、両親を騙し、定期的に送金されてくる学費を生活費にあてがい何の当てもないにも関わらず、芸術家になると心に抱く、大馬鹿者……とにかく、いま、すべき事は、こんな不出来な自分でも食べていける方法、生計を立てれる道、誰かに認めてもらえるもの、安心して身を置ける世界を一刻も早く見つけ、前進する事だ……やはり自分には芸術の道しかない、私は十五の時から映画だけでなく様々な芸術、芸能に平行して関心を持ち、学び、親しみ、思索を深めてきた何か今の自分がすぐにでも、手をつけられるもの、形に出来るもの、自己表現出来るもの、何だ、何だ、何だ……小説、それ以外に、ない……。 

 

今の自分には、何の人脈も、何の財産も、何の権力も何の経歴もない、そんな自分が、唯一、今、この場で、この状況で形に出来る材料が揃っているものそれが、小説……社会と関わっていく事が出来ず、人と接する事が出来ず、人間的な生活を営む事が出来ない私に唯一出来る事、それが、小説を書く事なのだ…… 

何一つ経験を積んでこなかった自分が唯一積み上げてきたもの、それは、苦悩だ……この世に生まれ、記憶が生まれ、物心が生まれたその時から、私を片時も離れず、執着し、蓄積し、肥大化し、反芻し、憂い、煩ってきた種々雑多な苦悩達……私の心にあるもの、それをただ、飾らず、ありのままに、実直に、素直に文章に書き起こせばそれだけで、ただそれだけで、それはきっと、人の心を打つ、感動的な、歴史的な、立派な芸術となるであろう……これまで感じてきた地獄のような苦悩を、或いはこの凄惨な現状を描き尽くし、そうして、理解させるのだ、知らしめるのだ、証明するのだ、自分の正しさ、自分の苦しみ、自分の存在を……そうして、生き残るのだ……この残酷な世界を…… 

私は決意した、私はもう二十歳になっていた…… 

 

私は早速構想を練り始めた、自分が今書けそうな事今まで感じてきた事、経験してきた事、何を書くべきか、どう表現すべきかを、頭の中で整理し、まとめ、的を絞る……そう時間の掛からぬ内に、私の中で一通り書くべき内容が自然と限定されてくる……後は実際に書き出してその中で少しずつ修正を重ねながら完成へと近づけていくだけだった……ああ、しかし……書けない……私にはどうしても書けなかった……少しも、ほんの少しも、まるで、何一つ、書けなかった……一文とさえ、一行とさえ、一文字とさえ進まなかった…… 

書いても、書いても、納得がいかない、文章を打ち込む度に、無駄な記号の連続に思え、すぐに消してしまう、一向に文章が定まらない、句点を打つ場所、読点を打つ場所、語尾の言い方、漢字ひらがなの使い分け、読者にとってはあまりにもどうでも良いような、末梢的な細かい細かい要素が執拗に気に掛かり、それだけで一日中頭を悩ませ、気が狂いそうな程に追い詰められ、体中を掻きむしり、のたうち回った……伝えたい事、小説のテーマ、内容それ自体はもう揺るぎなかった、早い段階で描きたい事は決まっていた……ただ、それを伝える形式、構成、文体、つまり、自分の頭の中にある漠然とした感覚、記憶、メッセージを、的確に、具体的に、物質的に、上手く文章としてまとめて表現する事が出来なかった……。 

そもそも私はこれまで二十年間、本という本をまるで読んだ事がなくまして小説となるとまず手に取ること自体が稀で、根本的に小説の面白さや意義というものが理解出来ない事が多く、大抵が最後まで読み進める事が出来ずに終わっており、ただそれも、結局は私の中の小説観と、世間一般との小説観とが大きく乖離している事に起因していた……また、私には元より語彙力というものが著しく欠けていた……文章を読むという行為を嫌悪し、物事を抽象的に思考し、感覚的な伝達の仕方ばかりに逃げていた自分には、中学生あるいは小学生並みのボキャブラリーしか持ち合わせていなかった……その為に、文章を書こうと思っても、自分の中に浮かぶ漠然とした感覚を的確に言い表す言葉がなかなか見つからず、適切な言葉を必死で探ろうとして頭を抱え一文一文書き起こそうとする度に巨大なストレスに見舞われ、呻吟し、身を滅ぼしていった……。 

偏執的な完璧主義、懐疑主義によって、一番最初の文章からして既に、これで本当に良いのか、もっと良い言葉があるんじゃないか、文体を変えた方が良いんじゃないか、別の構成の方が良いんじゃないか、と執拗な疑念に駆られ、一行一行読み返す度に、重みのない薄っぺらな文章に感じ、終わりがまるで見えないのだった…… 

 

そうしてまた、作家としての技術や資質とは別に、人間としての性格的な問題があった私は極端な怠け者だったのだ…… 

異常とも言える程に飽きっぽく、集中力がなく、持続力、忍耐力が欠損した、極度の面倒臭がりだった私は、才能の開花に人間的成長がまるで追いつかず、例えばたった一行文章を書いただけで全ての仕事を終えた気になり、怠け呆けてしまっていた……執筆に向かうモードにいつまで経っても切り替えられず、いざ切り替わったところで、少し集中して書き進めているだけでまるで水中で必死に息を止めているかのような苦しみに襲われ呼吸をしに勢いよく浮かび上がるように投げ出し、すぐに横になってまた怠ける意識へと逆戻りしてしまう……生まれついての怠惰癖と、己の人生に対する圧倒的な焦燥感他者からの評価に対する完璧主義とが、一行一行地道に着実に筆を進めていくという行為を妨げ、小説の完成を遠ざけており、私は何度も何度も、次こそは、次こそは、と思いながらも、悉く新人文学賞の応募締め切りを逃していくのだった(当時は電子書籍がまだ普及しておらず、まして一般のユーザーが自由に配信するというシステムはなかった為、文芸誌の主催する公募の新人賞を通るのが作家への一般的なステップだった…… 

 

私を地獄の底なし沼へ誘う原因となるものは他にも多々あった……例えば、世代や時代の表現者たる芸術家としての強い自負、自意識を抱えていたその頃の私は、自分自身と世の中の風潮とを常時照らし合わせながら生きており、それが私には一種の苦しみとしてのし掛かった……当時の世の中は今までに前例がないくらい時代が大きく変わろうとする時期に当たっていたそれはもっぱら悪い意味においての変化であった、例えば社会的に見るとテレビを付ければ目に入ってくるのは行き場をなくした者達による流行的な自殺や、いじめ、社会への憎悪や心中的な無差別殺人のニュースなどで溢れかえり経済的に見ても歴史的とも言える大不況世界的な金融危機に陥り、文化的に見ても、様々な分野におけるスター的な存在が次々に姿を消し、長い期間を掛けて築き上げられてきた価値観の流れが突如崩壊し、それに代わるような新たな感性を表現する新世代の代弁者は現れず、向かうべき時代の指針となるようなものも生まれず、明確な主流もなければ明確な傍流もない、焼け野原のような荒廃した状態へと陥っていた……人間が成長する過程において、古い自分から新たな自分へと移行する際に痛ましい不適応を起こすのと同じようにあまりに急激な時代の変化に様々な過渡的軋轢が生じ、それが各方面での暗い出来事となって表れているのだった……。 

私は自分自身の人生の衰退、凋落ぶりと共に、その様な世の中の険悪な風潮を肌で感じ取って、一種の使命感に駆られていたいや、それは、使命感、というより、強迫感情、といった方が近かった一刻も早く、作品を形にしなければならない、世の中に届けなければならない、世の中を変えられるのは、虐げられた弱き者を救えるのは、人々の苦悩や怒りを代弁できるのは、自分しかいない、自分が時代の救世主、新世代の英雄とならなければならない……私は一種のヒロイズム、犠牲者、殉教者的自惚れに陥っていた……しかしその自惚れは、もはや現実逃避と変わりない自惚れに過ぎなかったのだ…… 

時代に対する意識が焦燥感を余計に煽り立て、さらには己の内奥と世代的感性とを照らし合わせる内に、いま現在執筆中のものとは別の新たな構想が次々に沸いて出てき、それらのイメージが脳裏をよぎる度に、一刻も早く形にしなければならないという強迫観念に襲われた……まるで何かに取り憑かれているようだった……目の前にしている作品は一向に筆が進まず、完成の気配すら見えぬ中で、書きたい事が次から次へと増殖し、書きたい事という願望、熱望の表れが、次第に、書かなければいけない事という一種の義務観念、強迫意識へと変貌し、私を苦しみ蝕んだ……。 

頭の中にははっきりと、今自分がなすべき事しなければならない事進むべき道が存在している、しかし、それを、形に出来ない、手が追い付かない、体が動かない……真面目に生きんとする頭と、怠惰に身を任せんとする体とが、互いに激しくぶつかり合い、凌ぎ合い、葛藤し合い、その分だけ、精神を崩壊させる……すると次第に何が面白いのかが分からなくなってくる、自分の書いた文章の魅力を素直に感じ取る事が出来なくなってくる、そうして遂には自分の才能を疑い始め、深い絶望の感に嵌まる事になる……いいや、自分には才能があるはずだ、一時的に混乱しているだけだ、そう言い聞かせても、推敲に取り憑かれる内に感覚が麻痺し、小説の感動を実感として味わうことが出来なくなる……当然、小説の執筆に疑心が生まれると、同時に己の置かれる状況に対する必死の猛省に取り憑かれるようになる……自分は、何をやっているのか、本当に、これで合っているのか、自分の人生は、これ以外にないのか、何か他に、やらなければいけないのではないか……自分の人生、自分の生活の全てが疑わしくなり、無駄な不安に陥り、出口なき暗い闇の中へと迷い込んでいく……怠惰と焦燥、この二つが私を絶望へと向かわせた…… 

 

問題は執筆の滞りだけではない、当時精神的に荒んだ毎日を送っていた自分には、様々な実生活上の問題を抱えていた……世俗的な生活というものにまるで興味を持たず、ただひたすら芸術的空想に浸り、内に籠もって社会に目を向けず、他人との触れ合いを拒んで生きてきた自分は、社会での生活の仕方、一人暮らしのマニュアル生きる上での一般常識というものが何一つ分からず、まるでセレブのお嬢様のように買い物も家事もろくに出来ない無知な人間へと成り果てていた……一人暮らしをするに当たって何のアドバイスも訓練も受けぬままに飛び出し料理の仕方、掃除の仕方、洗濯の仕方買い物の仕方、お金の下ろし方振り込み方、諸々の手続きの仕方とにかく暮らすという事への知識が悉く欠けており私は一人で生活の出来ない人間だった……そこに生来の怠惰癖と、自分が置かれている状況への焦りと苛立ちが加わり、やるものもやらず、調べるものも調べず、生活の上で現れる煩瑣な物事から現実逃避のように目を背け、全てを放置し、結果何らかの形で爆発、パンクを起こして悲惨な目に遭うというのを幾度となく繰り返した……部屋は足の踏み場もないほどに散らかり、丁度自分の座る範囲以外全てほこりやカビで覆われ、悪臭が充満し、人間の住む場所とは思えないような凄惨な状況だった……服も汚れたぼろぼろのものを着続け、髪も髭も処理せず、おろおろと歩いている姿はまるでホームレスのようだった……朝も昼も夜もない、不規則極まりない毎日を送り、ろくに運動もせず、金もないのに金を使い、仕事もしてないくせにぐっすり眠り、動いてもないのにお腹いっぱい食べ、学校に行ってもないのに一人娯楽に興じる……もう、無理だった、どうしようもなかった、だらだらと部屋に寝転びながら、身体を動かそうと思ってもまるで動かず、激しい重力にのし掛かられているように感じた……私は堕落に溺れていた、まるで麻薬中毒者だった、肉体という主人に対して、私の精神は奴隷として動かされてるに過ぎなかった、生きた人間とは思えない有様だった、ここから脱出したい、しかし、自分の意志、自分の力ではもはやどうしようもない……生活から、離れたい、俗世から、解放されたい、もう、何もかもを投げ出し、ただ、普通に、平穏に、平和に、生きたい…… 

 

無論、家族は私がそんな廃れた毎日を送っているなどとは夢にも思わない、彼らは私が真面目に一日一日しっかりと学校に通い、学び、社会へと一歩一歩着実に歩んでると思っている、当然、実家からは近況を聞くための連絡が定期的に入ってくる、私はその度に嘘を突き通した……言えるわけない、言えるわけがなかった……わざわざ東京の専門学校に通わせる為に手を煩わせ、それも一ヶ月もしない間に勝手に辞め、さらにはそれを隠し続け、実家から送られる学費を無駄に使い潰し、バイトさえせずにだらだらと過ごし、挙げ句の果てに自分は小説家になるなどと宣い、しかもそれさえまともに進行していないというこの有様……その事実を両親が知った時、どんな反応をする事だろう、彼らに対し私はどんな顔を見せ、何と言えば良いというのか……作家になると言い放って部屋に引きこもり続けているなど、世間からすればキチガイも同然だ、両親の近所付き合い、職場の関係、私の事を聞かれたら何と答えればいいのだろうあんな閉鎖的な田舎町で私の事が知れ渡ったら、両親は変な目で見られるに決まっている二十を過ぎているというのに学校にも通わず働いてもいないだなんて、自分の息子は犯罪者だと告白するようなものだ、町中の笑いものだ…… 

私は実家から電話やメールが届く度に、心臓が飛び出そうになるほどに驚き、ガタガタと震える手で恐る恐る覘いた……ばれたのではないか、今度こそばれたのではないかと、一回一回のやりとりの中で生死に係わるほどの神経をすり減らし、それだけで何キロも体重が痩せたのではないかと感じるほどの精神的負担を背負い、体中に汗を滲ませながら、薄氷を踏むような思いで、地雷地帯を通り抜けるような思いで、慎重に、慎重に受け答えしていた…… 

通学し続けていれば長期休暇であろう時期が迫ると、どうしても実家に帰省せざるを得ず、私は実家に戻って家族と触れ合っている間、嘘に嘘を重ねて家族を騙し続けた……通ってない学校の事を語りありもしない就職口について語り実際とはまるで異なる普段の生活について語った……私はその間、両親の細かい表情や言動、振る舞いが異様に気に掛かって仕方がなかった……私は心の奥底から湧き上がるような罪悪感で満たされていた……恩を仇で返すとは正にこの事今もこうして暖かく迎え入れ、東京に戻れば息子を心配して電話やメールを寄越し、実家で作ったお米を送ってくれたりするなのに自分は、両親を騙し、保証なき不確定な道へ向かい、無為な日々に暮れる、世界一の親不孝、どら息子、穀潰し……ああ、最低だ、最悪だ、クズだ、ゴミだ、虫けらだ…… 

 

自己嫌悪に取り憑かれる日々が始まった、今まで周りの世界に対して多くの苛立ちや怒りや軽蔑を抱いていたが為に、自分自身の無能ぶり、不甲斐なさ、思い上がりを知ると、その分が猛烈な反省や後悔と共に余計に自分自身への憎しみと転化して返ってきた……何かある度にとかく社会を憎んでいたのもこうなるともはや言い訳無用、責めるべきは自分以外いないと、そう思い知らされる、結局今までは、自分の愚かさ、浅はかさが露呈されるような状況を避けていたからこそ傲慢な気になれていただけで、だからこそ自分以外のものに非を求める事が、言い訳を述べる事が出来ていたに過ぎなかったのだ……そうだ、これまでは、何があろうと、全てそれを他人のせいだと、社会のせいだと、世の中のせいだと、責任を転嫁してきた、それが正義であり、自然だと思っていた、だが実際は違った……自分だった、自分に他ならなかった、クズなのは、愚かなのは、悪いのは、自分だった、自分が無力だったのだ……社会が悪いのではない、社会に対応できない自分が悪いのだ、人々があくどいのではない、弱すぎる自分が悪いのだ、労働環境が厳しすぎるのではない、すぐに音を上げる自分が悪いのだ……自分の体を殴り、頭を壁に打ち付け、全身を掻きむしる、そんな衝動に悩まされる日々が続いた……。 

自己嫌悪によって己に対する信頼、評価が極端に落ち込めば必然的に他者に対する態度や意識にも直接影響が出てくる……無知から来る世間への失望、罪意識から来る家族への恐怖感、不甲斐ない自分自身への嫌悪感などによって私は己という生き物をこの世で最も下等な存在と認識し、その意識を自分の中で自然と他人の意識に同一化させ他人もまた同じように私に嫌悪を、軽蔑を悪印象を抱いているのだという強い被害妄想を抱くようになり、結果、私はいつからか対人恐怖症のようになってしまった……。 

私は、いつ、どこで、何をしていようとも、酷い被害妄想に駆られ、自分に対する周囲の視線が過度に気に掛かり、普通にしていても人々から馬鹿にされ、笑われ、蔑視され、嫌われ、怒られそうな気がしてならず、常におどおどしながら、びくびくしながら、震えながら、逃げるように、隠れるように街を通過していた……外に出るのが、恐ろしかった、人と顔を合わせるのが、恐ろしかった、生きているのが、恐ろしかった…… 

一人だった、私は完全に一人だったこの広い広い宇宙でたった一人自分だけが存在している、或いは、自分一人だけが存在していないように感じた、気の合う友人も、頼れる家族も、心許せる恋人もいないクリスマスも、大晦日も、正月も、何もない、私は世間から完全に断絶していた……人生を生きているのではなく、ただそこに存在していた、時間を過ごしているのではなく、ただそこで時間が勝手に流れていた無為な、無駄な、無用な日々を、私は遠くの方からぼーっと見送っていた……。 

 

死にたい、私の心はそれで支配されていた、当時の私は一日とて死の圧力に襲われない日はなかった毎日毎日が色々な自殺のイメージを練る作業の連続だったそれは安易な空虚な形だけの自殺願望ではない、本当に、心の底から、マグマの様に沸き上がる、身体全体に纏わり付いて離れぬ、人間に取り憑く悪霊のような、真の希志念慮だった……私は常に絶望に伏していた、生きている一秒一秒が苦痛だった、何も考えることが出来ない、明日を想うことが出来ない、未来を見出すことが出来ない、八方塞がりとは正にこの事、私は人生の窮地に追い込まれていた、この現実から、逃げ出したい、全てを、終わらせたい、この人生を、投げ出したい……腐臭を放つゴミ屋敷のような部屋の中で、腹一杯食べる度に、ぐっすりと眠る度に、だらだらと怠ける度に、尋常でない自己嫌悪と自殺念慮が襲いかかってくる……意識も身体も一向に執筆へ向かう態勢にならず、身体は老人のように衰え、死んだように床にひれ伏し、まともに立ち上がる事さえ出来ず、呼吸も上手く出来ず、自分が置かれている現実を想う度に吐き気やめまいを覚え、死にたい、という言葉が己の中でただひたすら繰り返される……。 

 

そんなドブのような不毛な日々を送っている中、さらに追い打ちを掛ける出来事が起こった、ついに私の嘘が両親に露呈したのだった……卒業が近づいても具体的な連絡を寄越さない私を不審に思った母が通っていた学校に問い合わせ、そこで私がとうの昔に学校を辞めていた事を知ったのだった…… 

到頭その日が来てしまったかと、私はそう思った、当然、こんな生活を送っていればいつかはバレるに決まっている、そもそも時が来れば学校は卒業する予定になっているのだから、隠し通せると思う方がおかしいのだ、しかし、私は、そういう事態に陥る前に、己の力で、確実たる才能で、芸術家としての地位を、胸を張れるだけの名声を失ってきたものを十分補えるだけの富を、既に手に入れていると思っていただが、実際はどうだ? 何か生活を支える糧となるようなものを見つけたか? 作家としての地位を手に入れる事が出来たか? いやそもそも、たった一編の小説さえ完成させる事が出来たか? 大人としてするべき事も何一つ出来てはいないではないか……当たり前だ、高校を卒業して上京したばかりのガキが、何の問題もなく壁にぶち当たらず挫折なく、スムーズに、己の夢、抱えた理想通りに事が運ぶなど、そんなものは奇跡も良いとこだ、結局、いつまで経っても、どんな窮地に追い込まれても、私は、ガキなのだ、甘いのだ、阿呆なのだ……。 

 

私は目を瞑りながら頭を抱え、大きなため息をついた……どうすればいいだ、どうすればいいんだ、どうすればいいんだ……一体母の神妙な問い掛けに対し、私は何と返せばいいというのか…… 

何より、もう二年ほど家族に対して取っていた態度が、全て嘘だったのだと、それが露呈したのがとにかくたまらなかった……あの時の、あの言葉、あの時の、あの表情、あの時の、あの行動は、全て家族を騙す為のものだったのかと、偽りの息子の姿だったのかと、そう思われるのが、たまらなく、たまらなく嫌だった…… 

彼らは私を憎んでいるだろう、彼らは私に憤怒しているだろう、私は何と言い訳を述べればいいのだろう、どうすれば理解してもらえるのだろう……彼らの私に対するあらん限りの痛まし報復、その映像が頭の中を幻覚のように駆け巡り、私は恐怖で震えた……。 

作家になる、などというのはやはり素直に打ち明けられず、それこそ相手の感情を逆なでし、収集のつかない事態になるとそう感じ、とりあえずこの場だけでも何とか凌がなくてはと考え私はこの期に及んでもまた嘘を吐こうとし性懲りもなく、「僕は大丈夫です、ちゃんと暮らしていけてます、といったような文面のメールを送った……私は後ろめたさや恐ろしさから、実の母に対し自然とメールの文章が敬語なっていた……。 

無論、それだけで相手の気持ちを納得させる事など出来るはずがない、そもそも向こうが抱える疑問に対し何の説明にもなっていない、それからも何度も続けざまに母からのメール、或いは電話は掛かってくる……しかし私にはそれが暴力団からの脅迫の電話のように思えてならず、決して出る事が出来ないでいた……何を言われるか分かったもじゃない……直接話せるとなったら、鬼のような怒鳴り声で怒濤の如く私を責め続け、私は恐ろしさや罪悪感で泣き崩れ気を失ってしまう事だろう……。 

尽きる事なく送られてくる恐怖メールに対し、私は地獄の煩悶を繰り返した後、結局、自分の状況、状態、そして未来に関する意思を、端的に、簡潔に言い表そうと、の様なメールを送った…… 

 

僕は作家になります、人と接するのが怖いんです…… 

 

それ以降母からは、私を心配するような内容のメール私に憎悪を向けているような内容のメール交互に繰り返すように送られてきた……私はその度に一つ一つ身を切り刻まれるような思いで慎重に返信した…… 

また、母からだけでなく、姉からもメールが来て、とりあえず帰ってきて土下座しなさい、と言ってきた……怖かった、憎かった、味方は一人もいないと思った確かに向こうからすればあまりに突拍子もない、非常識な、無礼な、自分勝手な振る舞いに違いない、ただふざけ、遊び、怠け、親を騙し、我がままに気ままに生きていると、そう思っているかも知れない、しかし、それとは比較にならぬほどの遙か巨大な恐怖を、不安を、苦悶を、絶望を自分が抱えながら日々生きているという事を、どうして分かってくれないのか……どれだけ怠けようと、どれだけ休もうと、どれだけサボろうと、ちっとも楽しくなど、ちっとも嬉しくなど、ちっとも面白くなどないのだ……社会に適応したいのに、適応できない、学校に順応したいのに、順応できない、小説を書き進めたいのに、書き進めれない、その状態が、苦痛で、苦痛で、苦痛で、たまらないのだ……自分が今まで、そして今現在、どれだけ地獄の苦しみの中で闘っているか、決して理解してはくれないだろう……とにかく、放っておいて欲しい、そっとしておいて欲しい、構わないで欲しい、私の願いは、ただ、それだけ……。 

ああ、世の人々は、分かってくれるだろうか、長い未来を持つ若き一人の青年が、家族を裏切り、学校に通わず、仕事にも行かず、世間を恐れ、人を恐れ、引きこもり、思うように動けず、意志が持てず、家族に問い詰められ、追い詰められ、四方八方を塞がれ、出口もない底辺を、這いずり回りあがき、もがく、その苦しみ、悲しみ、痛み、嘆き…… 

 

実家から何度となく今の状況やこれからについてを問うメールが届いたが、私はただただ、もう少し待ってください、もう少し待ってくださいと、命を乞うような必死の思いで返すしかなかった……そうしてまた、私はこの様な状況になっても、もう本当にこれ以上引き下がりようもない窮地に追いやられても、それでも、それでも私は、未だに小説の執筆を上手く進める事が出来ず全身が引き裂かれるような痛みの中もがき苦しんでいた……。 

 

そうして遂に、審判の日は訪れた……それは、実家を離れ東京へ出て、あと数ヶ月で三年にもなろうとしていた頃、小説家を志してから一年以上経過していた頃の事……次こそは、次こそは書ける、今度こそは、今度こそは本当に……そう思っていた矢先であった…… 

両親が私の下へやってきた……その数日前に母からメールで、「日にそちらにいきます、という内容の文が届けられた……私はそれに対し、お願いします、どうか来ないで下さい、僕をこれ以上苦しめないで下さい、と絶望するような必死の思いで懇願したが、当然の如く受け入れられなかった……。 

来るな、来るな、来るな、私は心の中で子供が泣き喚くようにそう念じていた……まるで窮地に追い込まれた人間が開き直ってどうにでもなれという自暴自棄な気持ちになるような感じだった……私には関係ない、家族など知らない、来るわけがない、自分にはどうでもいい、そんな現実逃避とも思える誤魔化しの感情を持ち、あえて部屋から逃げずに、普段通りに一日を過ごそうとしていた……しかし…… 

 マンション入り口のインターホンが鳴った……私は気絶しそうなほどの衝撃を心臓に感じた……手が震え、呼吸が荒れ、目眩が始まった……私は恐る恐る、テレビに接続されているエントランスのカメラの映像を確認したそこにははっきりと両親の姿があった私はすぐに映像を消し、カーテンを閉め、耳を塞いだ……インターホンは何度も何度も休む事なく鳴り響いたそれはまるで私を殺しにくる合図のようだった……私が出ないのを見て取ってか、すぐに携帯に着信が入った、私はあまりの恐ろしさに電話に出ることが出来なかった、私はただただ耳を塞いでいた、いっそ携帯の電源ごと落とせばいいのだが相手との連絡手段を完全に断ち切るとそれこそ取り返しの付かない事になりそうな気がして、そうはしなかった……私が電話に出ないのを理解すると、今度はメールが送られてきた、私はどうしようかと悩んだ挙げ句相手の動向を探る意味も込めて、勇気を振り絞り、小刻みに震える手で恐る恐る携帯を取り、メールを確認した……「これ以上入れさせないのであれば管理人を呼んできて開けてもらいます……ああ、来るとこまで来てしまったのだ、もう逃げ場はないのだ……私は母の言葉に私へのはっきりとした怒り、憤りの感情を読み取り、もはや脅迫メールとしか思う事が出来なかった……恐怖に包まれた私は泣きそうな、崩れ落ちそうな、助けを乞うような気持ちで、頭を抱えながらうずくまり、何とか最悪の事態を避ける為に、その場で引き返してもらおうと、ゆっくりゆっくり、震える指で、一つ一つ、携帯のボタンを押し、返信した……。 

お願いです、帰って下さい、本当に、お願いですから帰って下さい 

しかし、その様なあまりに身勝手すぎる私の願いは当然聞き入れられず、母は立て続けに様々な口実を述べて私の部屋へと入れさせようとした……自分は心労で病気になっただとか、姉がもうすぐ結婚するだとか心からあなたを心配しているだとか、いつまで迷惑掛けるつもりなんだとか……とにかく母は私を部屋からおびき出そうと必死で、純粋に心配するようなメールが届いたと思ったら、すぐに怒りに満ちた脅迫的なメールが届き、その度に私は恐怖に震えた…… 

 

私は母に当然顔を合わせたくなかった顔を合わせたくなかったが、しかし、私にとって、本当に気掛かりな存在は、母ではなかった……父であった…… 

……それは私にとってその存在自体が一つのトラウマの塊のようなものだった……父は古めかしい昔気質の亭主関白な人間で、正に家族の中の絶対者、権力者と呼ぶにふさわしい存在であり、私は幼い頃からずっと無尽蔵の恐怖を抱き続けていた……そんな父親に対し、私はこれ以上にないというほどの身勝手な行動を取り、迷惑を掛け続け、この期に及んで面会を拒否しようとしているのだ……ああ、想像するだけでも気絶しそうになる……父の怒り狂う姿が頭から離れない……もしも私の姿を見掛けたら、間髪入れずに私をなぎ倒し、馬乗りになって気絶するまで殴り続けるだろう……そんな恐怖のイメージばかりが私の脳裏を支配していた……。 

 

私はただただカーテンの閉められた真っ暗な部屋の中で、隠れるように布団の中に潜りこんで耳を塞ぎ、ガタガタと震えていた……私は今でも、この時の映像を思い出すだけで恐ろしく、憎らしく、痛々しい気持ちになる……まるで悪夢を見せられてる気分だった……敵が、悪魔が、怪物が、すぐ傍で、今か今かと私を食らう時を待っている……逃げ場はない、出口は塞がれている…… 

地獄だった、地獄としか言いようがなかった……その時私が感じていた恐怖……今まで生きてきた中で間違いなく最も恐怖を感じた瞬間だった……本当に、誇張ではなく、殺される、と、本気でそう思っていた……あまりの恐怖に呼吸が上手く出来なかった、手足に力が入らず立ち上がれなかった、恐怖という感情に圧迫されて気絶してしまうのではと感じた、いっそこの恐怖から逃れるなら死んでもいいとさえ思った、いわば銃を持って殺しにくる無数の敵に取り囲まれた兵士が、拷問に遭わせられるならこの場で自害した方が良いと考えるような、そんな心境だった……窓を突き破って飛び降りる姿が私の脳裏を過ぎっていた…… 

もしも何らかの方法で玄関を突破し、私の部屋の前まで辿り着き、鍵を開けて強引に中へ入ってきたのなら、私はすぐさま包丁を手に取り、自分の首に押し当て、自分自身を人質に取り、これ以上近付いたら自殺すると、本気で脅してやろうと考えていた……自分の心情を理解してもらう為にはそれしかない、自分の身を守る為には自分の身を傷付けるしかない、彼らの目の前で自殺して、自分をここまで追い込んだ事を後悔させてやろう、如何に自分が苦しみ、怯え、絶望していたか、知らしめてやろう…… 

 

しかし、こちらがどれだけ面会を拒み続けても、一切退こうとしない向こうの様子を見て、結局のところ、現実的に考えるとやはり最終的には会わざるを得ないのだと、そう理解し、私は長い葛藤の末、とうとう観念し、外に出る事を決意した……ただし、やはり相手の言葉を信用できなかった自分はせめて少しでも自分に危害が及ばないような状況で顔を合わせようと、メールで譲歩を持ちかけた 

お母さんと二人きりでは駄目ですか? お父さんにどこか離れたところで待っててもらえないでしょうか 

何度かのやりとりの末、母は私の要求に応じ、二人きりで会うことを承諾するメールを寄こした、しかし、あまりに父を恐れて神経質になっていた私は、それに対してもまだ不信感を抱きこの様なを送った、 

本当ですか? 本当にお父さんは近くにいないですか? 僕をおびき出す為に嘘をいてるんじゃないですか? 本当は近くで隠れてて、僕が出て行った瞬間に姿を現すんじゃないですか? 

私のあまりの神経質振りに、それに対する母の返事はどこか呆れている風だった…… 

 

私はようやく母に会う決心をした……万一の為にカッターを懐に忍ばせようかなどと馬鹿な事も真剣に考えたが、止めにした…… 

私はドアを開けた……するとそこには、「外」があった……私は「外」という空間がこの世に存在するのを忘れていた……まぶしい陽射し、風の匂い、道行く人々、車の騒音、街の喧噪……目に飛び込んでくるもの、耳に触れるもの、肌で感じるもの、それは紛れもなく「外」だった……私はあまりにも長い間、真っ暗な、狭い、重苦しい、孤独な空間に閉じ籠もりすぎていたのだ…… 

私は階段を降り、エントランスへと向かった、すぐに母の姿が目に入り、私が廊下を出ると同時に、母がこちらへと近づいてきたが、その場で立ち止まって話すのは抵抗があったので、そのまま通り過ぎるようにして母と共に外へ出て行き、適当にその辺を歩きながら話すことにした……ここへ来てもう三年近くになろうとしているはずなのに、何だかその時だけはいつもと違う風景、まるで初めて通る道であるかのように感じた…… 

会った瞬間の母の表情や何気ない一言から、母が特に怒った様子がなく、割と淡々とした、嘘ではなく本当に心配していたような、そんな面持ちに見えたので、私はそれを見て取ってひとまずほっと胸をなで下ろし、震えるような恐怖感からは一時的に解放されたが、しかし、相変わらず家族に対する強い罪悪感や羞恥心は深く根を下ろしていたので、私はなかなか顔を上げて歩くことが出来なかった……私は外に出てすぐに、「お父さんは?」と聞いた、すると母は「向こうの駅の方で待ってる」、と言っていたので、私はそれとは別の方向へ歩むことにした……母の方からまず初めに、ちゃんとご飯食べてるの? 体の方はどう? 外に出てる? と、終始私の生活を心配するような言葉を投げ掛けていた……また、人と接するのが恐ろしいと言っていた私の状態を、母は本か何かで得た借り物の知識でもっともらしく色々私に語ってきたが、私はそれらを聞き流していた……。 

今後の事を簡単に話し合った、私としては、このままでは家族に面目が立たないので、むしろもう少し一人で生活させてもらい、一刻も早く小説を完成させて、自分が作家としてデビュー出来るまで、そっとして置いて欲しいと思っていたが当然そんな筋の通らない願いを切り出せるわけがなかった……結局、しっかりとした話し合いをしたわけではないが、今後の予定としては、そこから数ヶ月ほど先の、自分がちょうどこちらに来て約三年となる春頃に、両親がもう一度こちらに来て部屋から荷物を出し、私と共に実家へ帰るという結論になっているらしかった…… 

 

もうこれで話す事は終わったと思った時、母は私に父と会う事を勧めてきた私は初めそれを頑なに拒否した、それだけは本当に、本当に、心から嫌で嫌でたまらなかった、どうしても恐ろしい父のイメージを拭い去る事が出来なかった、母が私を安心させようとして繰り出す言葉も信用する事が出来なかった、しかし、どうも会わない訳にはいかないらしい事を悟った私は、母に先導されてゆっくりと駅の方へと向かっていった……恐怖に対して身構えるような気持ちと、底知れぬ罪意識を抱いたまま、おもむろに歩を進めていくと、自分の視界に父の姿が飛び込んできた……私を見た時の父の反応は、素直に長い間会っていない知り合いに会った時のような軽い笑みを含んだ柔和な表情だった……さらに近づいて、私が妙に萎縮している様を見て取ると、一体何をそんなに怯えてるんだという感じを見せとてもあっけらかんとしており私の方が逆にその反応を見て驚きを覚えた……私が東京にいた三年の内に大分丸くなっていたのだろうか或いは私の姿を取りあえず確認できた安心感の方が大きかったのだろうか……大きな事故に遭ったとき、相手への憎しみより命が助かった喜びの方を感じる、そんな心理だったのかも知れない……父は特に私に怒りを覚えるような様子も、逆に心配するような素振りを見せる事もなく、母と同じように今の生活に関する簡単な問いだけ投げ掛けた……私はその間も、相変わらず己の罪意識に怯え、たどたどしいしゃべりと動作から抜け出すことが出来ずにいた…… 

そうして、話が終わり、別れが近づこうとした時、父は何も言わず、すっと私に数万のお金を差し出したそれは両親が再び迎えに来るまでの生活費とはまた別の、何かお金が必要になった時の為のものという意味だった……私はそれがありがたくて、ありがたくて仕方なかった……部屋の契約が切れるぎりぎりまで、私にお金だけを渡してそっとして置いてくれるという事が、私には何より嬉しかった……私はこの面会を通して、死刑の直前に赦免されたような、そんな安堵と放心が入り交じる気持ちになった……自分が生きてきた中でその時ほど両親への感謝の気持ちに溢れた事はなかった…… 

 

それからまた数ヶ月が経った、私はこの間も上手く小説を完成させる事が出来ずにもがいていたがそうこうしている内に三月に入りとうとう両親が私を迎えにくる日が来た、私はこの部屋に引っ越して来てからの三年間、一度として掃除らしい掃除をしてなかったので、部屋は廃屋のように汚れとゴミで満ちていた両親が来る前に、人間的な生活者としての体裁を保とうと自分の出来る範囲で何とか一生懸命綺麗にしようと奮闘したが、掃除のノウハウが全くない私には限度があった、その後両親が私の家を訪れ、共に部屋を掃除し、荷造りをし、引っ越し屋を呼び、私を連れて、実家へと車を走らせた……私は結局、学校へ通う為の資金および三年間の生活費を無駄にした挙げ句、あの忌々しき故郷へと連れ戻されたのだ……私は心も体もボロボロ、満身創痍、死に損ない、戦場からの帰還兵、三年振りに発見されて保護された遭難者のようだった…… 

その頃私は二十一になっていた…… 


四 帰郷

 

 帰郷 

 

東京で一人暮らしを始めた当初は、長期休暇の度に形だけでも帰省していたけども、最後に実家へと帰った時から数えると、もう二年近くも故郷を見ていなかった……私は実家の東北へと向かっている車の後部座席に、抜け殻のような呆然とした様子で座っていた……車に乗るという事自体も久しくなかった為、ただ車に乗って揺られているという状態さえも奇妙な新鮮さを感じるのだった……共に実家へと向かっている段階であっても、まだ両親の柔和な態度を信用できていなかった私は、彼らの心情を少しでも害するのを酷く恐れ車に乗っている間ただただ大人しく、申し訳なさそうに、縮こまってじっとしており、途中、どこで食事を取るか問われた時も、特に何も答えずうつむいていた……。 

窓の外に流れる景色を眺めながら、この三年間の事、未来の事自分の人生、自分の存在、家族、世の中、色々な事を、哀愁や、悲嘆や、反省や、後悔や、安堵、疑念、憐憫、様々な複雑な感情と共にぼーっとしながら想っていた……私は一体何をしていたんだろう、あれは本当に現実の生活だったんだろうか、なぜ自分はこんな風になってしまうのだろう、私はこれからどうしていけば良いのだろうか……あまりに無茶苦茶な三年間ひいては人生そのものを生きてしまった故、もうどうでも良いや、とか、自分は本当に生きているのか、というような、自暴自棄的、現実逃避的な気持ちに陥っており車の中、久しく目にすることのなかった綺麗な夜景に包まれながら私は放心状態に近い様子で、妙なロマンチシズムに浸っているのだった…… 

時間が経って、少しずつ自分の育った街へと近づいてくると、そこに見える景色に、一種の感動を……あんなにも嫌い、憎み、反発していた、退屈な地元の風景に、私はほのかに温かみを、安心を、感動を覚えていた……故郷を離れる際、ようやく過酷な苦役から解放されたという大きな安堵の気持ちに駆られていたのに、その心から嫌悪していた故郷へ戻ってきた時にも、同じような深い安堵感、解放感に満たされるのだった……。 

半日近くかかってようやく実家へと到着した……久しぶりに家の中に足を踏み入れた時、視覚、嗅覚、或いは触覚によって実家という空間を確認した私は、特に何も変わっていないはずなのに、懐かしいという感覚ではなくむしろ全く知らない人の家にお邪魔するような初めての旅館に泊まるような、そんな奇妙な感覚を覚えた……それはきっと、自分のような、世間に顔向け出来ない人間が堂々と家に上がり込む事への、後ろめたさ、引け目、罪悪感があり、自分の住まい、という感覚をなくさせたからなのだろう……。 

それは家族に対しても同じで、素直に顔を合わせる事が出来なかった……とにかく、恥ずかしくて、恥ずかしくて、申し訳なくて、申し訳なくて、たまらない……一体自分は、この三年間、何をしていたというのか……家族の応援、支援と共に、実家を離れ、一人暮らしを始め、学校に通い出す、しかし、本来の目的であるはずの学業を早々に投げだし、仕事もせず、作家になるなどと言い出し、それすらままならず、自堕落な日々を送り、何の説明もせず、何の連絡も返さず、結局もとの住処へと、一切の成果も、資格も、経験も得る事なく、金を無駄にするだけ無駄にして、心配させるだけ心配させて、怒らせるだけ怒らせて、そうして、ノコノコと戻ってくる……これほどまでの馬鹿息子、親不孝者がいるだろうか……隣の家に住む祖父母にも、上京する際に小遣いをくれ、暖かく送り出してくれたのにこの始末……一体、何をどう話せば良いというのか……本当に、最低の孫だ…… 

私は兄弟を前にした瞬間に、申し訳なさと共に、久しぶりに顔を合わせた事、自分の不甲斐なき状況一連の騒動に、極度の羞恥を覚え、また、身内に深刻な表情を見せる事への照れや気遣いの気持ちから、若干はにかむような気味の悪い笑みを軽く浮かべ、目も合わせず、顔を下げ、体を丸め、萎縮するばかりだった…… 

 

実家に戻ってきてすぐに感じたのは、家事を他人が分担してくれる事のありがたさだった……自分で生活の雑事をこなさなくても良いという事が、これほどにも幸福な事とは思わなかった……きれいに掃除された部屋で、暖かい布団に就いて眠り、朝起きればご飯の用意がされておりお風呂にもゆっくり入れる……家を出るまでの十八年間当たり前のものとして享受していた生活環境に、こんなにも感謝を感じるものなのかと思い、涙が出そうになった……つい最近まであまりにも荒唐無稽な生活を送っていたので、この三年間がただの悪い夢に過ぎず、初めからずっと実家にいて、今ようやく目を覚ましたのではないかと、故郷の様子を見てそう思うのだった……。 

 

帰ってきた私は生まれて十八年共に過ごしていた家族に対して、明らかに人見知りを抱いていた……まるであまり知らない、仲の良くない、出会ったばかりの人といきなり一緒に生活しなければならないかのような、そんな感覚がした……他人に対しては昔から目を合わせて話すという事が出来ていなかったが、今は家族に対しても同様に目を合わせる事が出来ず、向かい合って話をすると、目がきょろきょろと虚ろになり、視線の置き場所が気になって気になって仕方なく、会話どころではなくなっていた……何より、罪悪感から来る人間恐怖を抱いていた私は、もしも一瞬でも気の抜けたような表情を見せると、こいつは少しも反省していないんじゃないか、のんきに生活しやがってと思われ激怒されるような気がしてたまらなかった為、最初の頃の私は、自分の表情や仕草に細心の注意を払い、実際に自分が感じている後ろめたさ以上の憂鬱な振る舞いを少なからず行い、出来るだけ質素な、素朴な、禁欲的な生活を意識していた……。 

久しく人との会話がなかった私は、完全にコミュニケーション不全に陥っていた何気ない自然な会話、素朴な言葉の交換というものが成立しなかった人と会話する時でさえ自分の世界に閉じこもり、相手を無視して一人勝手に内省に駆られ他人との意思疎通が上手く出来ていないのだと感じた祖母と接する際も祖母がしゃべっている事が、自分に対してしゃべっているものなのか、もしくは単なる独り言なのか、それが上手く判別できず、ぺちゃくちゃぺちゃくちゃとただ無意味な音を羅列しているだけのような感じがし、無視しているつもりがなくても相手を無視してしまっている事が多いのだと気付いた……私には、明確な会話の境界線が分からなかったのだ……どこから会話が始まり、どこで終わっているのか、はっきりとした論理的な会話の規則が欲しかった……そばにいる父が何か言葉を発しても、それが私との具体的な対話を求めたものなのか、もしくはほとんど独り言に近いようなものなのかが判断できず、何か返した方が良いのだろうかと、もしくはただ聞き流していれば良いのだろうかと、恐怖のような戸惑いに駆られていた……私にはきっと、他人と出来るだけ接触を持ちたくないという意識が働いており、相手の発する言葉を自分への呼びかけとして受け取ることによって相手対自分という判然たるコミュニケーションの構図が生まれる事を認めたくないのだろう……人間同士のコミュニケーションにおける、論理的でない規則のない、曖昧な、抽象的な言葉のやりとりに、私は思い込みに近い勝手な解釈を加えて、自分には関係ないと、その場から逃げ去ってしまうのだった……相手あるいは自分が発する言葉の意義正確さ、会話の論理、流れ、秩序というものを考えすぎて、素直なコミュニケーションに徹する事が出来ず、他人から発せられる言葉や表情、態度の解釈というものが、妙に形式張った堅い捉え方になり、言外の意味を察する事が出来なかった……素直に自分から聞き返せば良いのに、自分の意思を言葉に出して示せば良いのに、ただ無言で相手の言葉を反芻し、考え込み、頑固になり、ふてくされ、本当は分かっているくせに、厳然たる伝達表示のなかった相手の責任にしてしまうのだ……。 

 

 

実家に戻ってから最初に私が憂慮を抱いた事柄は、姉の結婚式の件についてだった学校を辞めていた事が両親にばれてからそう時間の経たぬ頃に、私は母から姉が結婚するという旨のメールを送られていた、その際私は、姉の仕事の事も私生活の事もまるで知る由がなかったし、私自身がこのような状況である事から、何でまた自分がこんな悲惨な目に遭ってる時に、全ての家族に関係してくるような大きな変化を起こすのかと、憎むような、滅入るような、やり切れない思いがしたものだった……。 

姉が結婚する、という事自体はどうでも良かった、私が大きな不安を抱え、心の底から厭わしく思っていたのは、結婚によって身内に生ずる諸々の動きについてだった……姉が結婚する、となると、当然、弟として式に出席しなければならない、となると、また当然、結婚相手にも挨拶を交わさなければならない、それだけでなく、相手方の親族、関係者、或いは自分側のそれなど、大勢の人々と顔を合わせ、新婦の弟として、式の最中、或いはその前後、常に立派に振る舞い、付き合っていかなくてはならない、しかし、その弟というのは、今現在、職もなく、学もなく経歴もなく、将来もない、単なる引きこもりのニートでしかない……冠婚葬祭における社会人としての常識的な振る舞いなど何一つ知らぬ、何も出来やしないし、何もしゃべれやしない、もしも誰かに自分の事を聞かれたらどう答えればいいというのか、自分の名誉が傷つけられるだけならまだしも、家族、親族への印象を害したり、無愛想な態度を取って場の雰囲気を悪くしてしまったり、それが私には堪らない……。 

私は式に出席する事を頑なに拒否したかった、出来れば弟という存在自体を初めからいない事にして欲しかった、しかし、そんな非常識な願いを聞き入れてくれるはずがないのは分かっていた…… 

 

元々うちの家は親戚一同が集う拠点となっていたので、式の前日には多くの親戚や関係者が宿泊し式の直後にも多くの大人達が集い、家の中を賑わしていた、そんな中、私は二階の一番奥にある自分の部屋にこもって息を潜め、一切顔を出そうとしなかった、他人が自分と同じ家の中にいるというだけで恐怖に震え、鉢合わせしたらどうしようと大きな不安に駆られ、誰かが二階へ上がってくる足音が聞こえただけで混乱した、どれだけ空腹に駆られても、どれだけトイレに行きたくても、来客が帰るまで、或いは寝静まるまで待ち、何度も何度も、聞き耳を立てながら、のぞき込みながら、泥棒のような気持ちで、細心の注意を払って素早く用を済ませていた……自分の家だというのに、自分が一番堂々と振る舞えなかったのだ…… 

式当日も、隠れるように、身を潜めるように、影を消すように行動し自分に話し掛けるな、近づくなというオーラを目一杯出し、出来るだけ他人から話し掛けられない状況に身を置くよう徹し、ほとんど言葉を発さず、何を聞かれても必死ではぐらかし、常に挙動不審な様子だった……私は私についての質問の言葉が発せられるのを極度に恐れた、いくつ? 今何してるの? どこに住んでるの? 仕事は? ……私は己の身分、性格、存在にコンプレックスしか抱いていなかった、何をどう答えても、相手に蔑まされたり、馬鹿にされたり、怒られたりする結果しか思い浮かばなかった、誰かが私のそばに座るだけで緊張が走り、何とか自然な形で逃げ出そうと必死になった、賑わう人々の間でひとりぼっちでいても、気にされないように、浮かないように、出来るだけ背景に溶け込もうと苦心した…… 

式場へ移動するバスの雰囲気も非常に重かった、私のせいなのだ、私がいなければ、もっと明るく、和やか賑やかに、打ち解けていたはずなのだ、彼らの耳には私についての情報が多少なりとも入っていた事だろう、みな私に対し妙によそよそしく気を遣っている感じがした…… 

子供の頃は皆、非常に仲良く遊んでいた、毎年毎年、お盆や正月になると、いとこが遊びに来るか、こちらからお邪魔していた、子供同士、何も気にせず、無邪気に、仲睦まじくはしゃいでいた、それが気が付けば、よそよそしい、他人行儀な間柄になっていたそれも結局、全て私が原因なのだ、子供の頃は陽気に、愛想良く、親しげに振る舞っていた自分も、中学生の頃から少しずつ内に籠もりだし、家族との衝突を引き起こし、家庭の雰囲気を不穏にし、他人に冷たい態度を取り、勝手に精神を病み、勝手に高校を退学し、勝手に東京に行ったと思えば、やはり勝手に学校を辞め、勝手に引きこもる……こんなお荷物がいる家と、気兼ねなく親密にしていられる訳がないのだ常にどこかに時限爆弾を抱えているようなものだ、彼らは私の地雷を踏まないように、そうして私は彼らに地雷を踏ませないように、互いに気の悪くしない程度に避け合い、変に気を遣い合い、ギクシャクしているのだ……。 

私が全てを滅茶苦茶にしていた、私は不幸をもたらす呪いの塊だ私は悪霊なのだ、私は感染病なのだ、この家庭に生じるありとあらゆる問題は私という存在に起因しているのだ、私は悪の温床なのだもしも姉の結婚生活が上手くいかなかったら、それは私のせいである、もしも母が病気で倒れたりなんかしたら、それは私のせいである、もしも貯蓄が底を尽きたら、それは私のせいである……私は身内に起こるかも知れぬあらゆる不幸を全て私の罪へと結びつけた…… 

 

親戚の中では最年少、唯一の小学生である女の子が、他に遊ぶ相手が居なかったらしく、兄弟の中で一番年の近い私の部屋へと遊びに来たしかし私は彼女の来訪に対し強い抵抗を覚えた私はまだ小説の執筆を続けていたので、それを妨げられる事への迷惑感もあったが、何より、今の自分が彼女に対しどう振る舞えば良いのかが分からなかった、私は人を喜ばせるのが好きだ、子供とはしゃぐのも好きだ、出来るだけ楽しませてやりたい、しかし、私に一体何が出来る? これは精神的な問題だ、一生懸命彼女を楽しませる事も出来たろう、彼女と仲の良い関係にもなれただろう、陽気で頼もしいお兄ちゃんという印象を与える事も出来たろう、しかし、正にその認識が、その関係が、私は恐ろしかった、私は常に闇を抱えた人間だ、罪を背負った人間だ、そこに触れられる事、露呈される事、害を与えてしまう事が恐ろしかった、自分なんかに近付いたって良い事など何もない、ただ私の事を嫌いになるだけ、息苦しい時間を味わうだけだ、たとえその子に対して明るく振る舞っても、他人に対してまでそんな自分を引きずる事は出来ない、他の人がいる状況でもフレンドリーな自分を求められたら私はどうしたら良いか分からなくなるだろう、どうあれ私という存在から喜びを得ようなど無茶なのだ……。 

何か出来る範囲で楽しませよう、しかし、自分の独断で何かしようとすると押しつけがましい事になるだろう、そう思い、何する? と聞いてみると、何でもいい、と返ってくる……私は昔から何でもいいと人に言われると、何をすればいいか全く分からなくなり、混乱し、憔悴し、呆然と立ち尽くしてしまう……ああ、何て情けない事だろう、小さな子供一人楽しませる事も出来ないなんて……私は何とか彼女を楽しませようと奮闘した、私なりに出来る範囲で精一杯やった、しかしその中に私が彼女に対し本当に心を開こうとはしていない事、彼女の存在にどこか戸惑いや抵抗を感じている事が、自然と滲み出てしまっていた……向こう側もそれを感じ取るかのように「楽しかった」と儀礼的な一言を残して帰って行った……小学生の女の子に気を遣わせる大人など、最悪も良いとこである…… 

彼女はこの家を訪れるのをあまり喜ばしく思っていないようだった、それもまた全て私のせいなのだ、もしも私がこんな身分に陥らず、家族とも良好な関係を築いていたら、兄弟親戚みんなで輪になって笑顔で遊んでいたに違いない、一人っ子である彼女もこの家に来るのを毎回楽しみにしていたに違いない……彼女は私の下へ遊びに来ながらも、どこか形式的な訪問という色合いを残しており、心の端っこで私に怯え、警戒し、気を遣っているようにしか見えなかった……ニートという立場にあり家族とも深刻な問題を抱えてる私の姿は、子供ながらにも不気味に、脅威に映ったのだろう…… 

 

 

帰郷直後の問題はそれだけではなかった、というより、これが最も今の自分にとって肝心な事、私の本来の目的、一年以上も前から存続している問題、そう、小説の執筆……この時点でもまだ私は一つとして作品を書き終えておらず、どうしても逃してはならない新人賞の締め切りが間近に迫っていた…… 

あと少しで最低限の体裁を整える事は出来るものの、私が実家に連れ戻された日から締め切りまで一ヶ月を切っており、姉の結婚の件が一段落した時にはもう二週間も残されてなかったにもかかわらず、にもかかわらず、私は本当の意味での焦りというものを未だ感じる事が出来ないでいた、東京にいた頃は、実家に帰って家族に取り囲まれ期限も一ヶ月切れば、いくら怠け者の自分でもさすがに本気にならざるを得ないだろうと、そういう楽観的な認識をしていたしかし、実際は違った、自分の怠惰癖、甘えた発想は、予想を遙かに上回るほどに奥深くまで根付いていた、怠惰によってあれだけの地獄を味わったというのに、それでもまだ怠惰に打ち勝つ事が出来ず、あれだけ書く事が出来ないでいたのに、その気になればすぐに書き終えると思い込んでいた……社会人的成長が常人より遙かに遅れていた自分は、本気で望めば小説の完成など三日で十分と、そんな幼稚にも程がある非現実的な考えを根底に持っていたのだ……結局、最後の最後、ぎりぎりまで追い詰められた結果、何とか強引に小説としての体裁だけを早急に整え、母に必死で頼み込んで、遠くの街にある、遅くまでやっている郵便局へと車を走らせてもらいそうしてようやく新人賞への投稿を初めて間に合わせる事が出来たのである……。 

気が遠くなる程に推敲に推敲を重ね、狂いそうなまでに頭を酷使し身を投げ出そうかと思うほど煩悶し、人生を犠牲にするほど心血を注いだ……納得の行かぬ絵に様々な色を重ねすぎて訳が分からなくなる、そんな場面を数えきれぬほど乗り越えてきた……たった百五十枚程度の短編を完成させるのに二年近くもの月日を要したのだ……それは私が二十一の春、高校を卒業してちょうど三年が経った頃の事だった……。 

 

私は、必ず受賞するつもりでいた、それが自分の運命だと思っていた、それ以外の未来を思い浮かべていなかった、半年後には、出版社から連絡が入り、受賞作が掲載され、そのままもっと権威ある文学賞にも選ばれ、処女作は爆発的に売れ、たちまち時の人となり、多額の印税が舞い込み、この廃れた生活からも脱出し、家族を驚かし、自由を謳歌する日々を送る……誰が聞いたって単なる空想、妄想、幻想として一蹴されるようなそんな未来像が、私にはただあらかじめ定められたレールを歩んでいるに過ぎないと、物理的法則に沿って結果を算出しているだけだと、自分は神に動かされているのだと、狂信的なくらいに至極当然のものとして感じられ、原稿を送付してからというものの、れが現実となることを想定した行動を取り、前提として周りの人間に振る舞っていた……。 

しかし、現実は違った、受賞する事はなかった、最終選考にさえ残らなかった、いや、それどころか、雑誌に掲載された予選の通過発表にさえ載っていなかった……何かの間違いだ、まだ連絡が来ていないだけだ、私は現実逃避的な思考に陥り、あらゆる特別な事情をひねり出した……落選する、という結果を全く想定していなかった私は、それを認めざる得なくなった時、大きなショックを受け、失意に駆られ、混乱に陥った……なぜ? 何がいけなかったのか? どうして理解してくれなかったのか? 私の運命はこれではないのか? ……しかし、よく考えてみれば、思い当たる節がないわけではなかった……物事の形式、体裁という部分に対するこだわり、配慮が生まれつき悉く欠け、中身さえ良ければ後は何でもいい、という極端な合理主義者、実質主義者だった私は、文章の国語的な正確さを無視し、感覚的な言葉遣い、不正確な文章表現、突飛な技法を多用しており、また、そもそも時間的な余裕がなかった事から、単純な誤字脱字、文法上の決定的ミスが多々見られ、それに加え、小説自体だけでなく、それを応募するための体裁、つまり、用紙のまとめ方、封の閉じ方、宛先の書き方など、投稿の作法自体にも問題があったのではないかと考えた……予選が通過した後に落とされたのではなく、初めから相手にされていなかったという事は、小説のおもしろさの有無に問題があるのではなく、それ以前の応募作としてのマナーに問題があるのだと、そう考える事が唯一の希望の道だった……そんなもの、関係ないではないか、中身が面白ければ、多少言葉上のミスが存在しても、十分許容範囲ではないか、応募作として作法がなってなくたって、どうだっていい事じゃないか……本来はそのように考えていた自分だが、落選してしまった以上はしょうがない、しっかりと丁寧に形式面での完成度を上げれば問題ないと信じ、気持ちを切り替えて、心を持ち直し、希望を捨てず、すぐに簡単な手直しをして最も期日の近い新人賞へと送った……。 

が、結局、それもダメだった、同じように、一次審査さえ通過していない有様だった、つまり、体裁の善し悪しにかかわらず、どうあれ私の小説は相手にされていないのだという事が分かった…… 

その後、処女作が完成してからおよそ三年もの間、私は何度も何度も様々な文芸誌の主催する新人賞に応募する日々を過ごしたが、どれも予選結果に応募作の名が載る事はなく、不毛な日々が続いた……私は失意に失意を重ね絶望に陥った……自分は一生誰にも理解されず孤独に死んでいくのではと恐怖に駆られた……次第に自信も失ってきた、私は一人ただならぬ勘違いを犯してしまっているのではないか、おかしいのは世間でも出版社でもなく私の方なのではないか、自分でも気付かぬ間に狂ってしまっているのではないか……私は元々自分の才能に誰よりも強い自負心を抱いていた、自分より感性に富んだ人間はおらず、自分を革命児なのだと信じ込んだ……しかし、いくら心の根っこが自尊の感情に包まれていようが、あまりにも世間に相手にされない日々が続くと、やはり自分の才能感性審美眼に対する疑いの芽がどうしても出てきてしまう……。 

出版社側の人間には理解してはもらえぬ、とそう割り切り、これはもう名の知れた文学者に直接見てもらい、評価、後押ししてもらうほかない、とそう考え、無謀にも、ある日決心して、朝早くに起き、母に交通費を唐突に無心し、新幹線に乗って、東北から東京へと向かい、講演中のとある作家の下を訪れ、事情を説明し、何編かの作品を受け取ってもらった……後日、一応返事はもらったもののその内容は、全体的に否定的な言葉で溢れておりなんだかんだ言って結局のところ、理解してもらう事はなかった…… 

 

私は絶望の淵に陥った、自分は作家になる資質があるはず、自分は作家になるため生まれてきたはず、しかし、それを具現化する手段は悉く潰されていく……どうすれば良いのか、どうすれば良いのか……。 

その頃、我が国でもようやく一般利用者による電子書籍の配信サービス普及し始めた、私ははっきり言って、何のふるいにも掛けられず、猫も杓子も参加できてしまう、通俗的な空間へと、自分の作品を投与させる事に対し、強い抵抗を覚えていたが、背に腹は代えられぬと、機械音痴なりにも必死で、自分の作品を配信する方法を理解し、開始した……当然、それもすぐには話題にならず、数ヶ月に一冊程度の売り上げの状態がしばらく続いた……。 

電子書籍の配信を始めてから、三年ほど経っただろうか、ある日、久々に、何の期待もなく、何の気なしにサイトを確認してみると、先月からの売り上げが急激に伸びていた何が起こったのだ、と思い、調べてみると、とある電子書籍の紹介サイトで取り上げられ、話題となり、それがさらにある文学批評家の目にとまり、ブログで紹介されたらしい……それだけでは食べていけるほどではなかったし、飽くまで一部の文学好き、電子書籍の常連にしか相手にされていなかったが、この一連の動きを見ていたとある出版社から声が掛かり、紙書籍として出版してみないかと言われた……。 

 

かくして私の小説は紙書籍として僅かながら書店に並ぶ事になった優雅な印税生活、とまではほど遠いが、一応人並みに食べていけるだけの財源を確保する事は出来た、まだ色々と問題は多いけども、どうあれ、形式上は作家という地位を手にし、自立する事に成功した……私は二十七になっていた…… 

 

 

私が作家という職を手にするに至った大雑把な経緯はこうだ、決意してから実に八年、実家に戻ってからだとおよそ六年もの歳月を要した、その間様々な変化が起こった、家庭環境、生活環境、経済状態、精神状態、健康状態、思想、価値観、全てが目まぐるしい変化を遂げた……私が本当に描きたいのは、その六年間についてである……実家に戻ってから、小説を生業とするようになるまで私が経験した事、感じた事、考えた事を余すところなく全て書き起こしていきたい……家族について、故郷について、小説について、仕事について、病について、世の中について、自分について、そうして未来について……。 

 


一 田舎暮らし

 

     一 田舎暮らし 

 

実家に戻り、身内の面倒ごとを終え、何とか小説を発送し終えた自分だったが、そこで執筆活動に休憩を挟むわけにはいかず、すぐに別の作品に取りかかった……私は応募作が必ず受賞し、大々的に出版されると信じていたので、それに遅れないように私の中にある様々な小説の構想を一刻も早く形にしなければならないと、そう考えていた、その為、私は私の生活における全ての時間をただ執筆活動にのみ費やし、それ以外の事は一切労力を費やすのも頭を働かせるのも拒否したかった、ただ芸術だけが自分の人生の上に存在し、ただ芸術のみに埋没する、それが理想だった……しかし、現実的に考えて、そう望み通りにいくはずがない、そもそも学業も職業も放棄し、生活の財源がない自分に対し、創作の時間だけを過ごす権利を与えるなど、周りの人間が許すはずがなかった…… 

実家に戻ってからというものの、これからどうするのかを何度も親に尋ねられたが、私はただただ返答に窮するばかりで、その質問を受ける、或いは受けそうな雰囲気のする度に逃げ隠れしていた……無論私の中で腹は決まってる、作家として成功し、作家として活動し、作家として生きるのを心に誓っている、しかし、それを改めてはっきりと面と向かって伝える勇気がまるでなかった、私は私に小説家としての才能がある事を確信していた、芸術というものをこの世で至上のものとし、人生を捧げるだけの価値のある唯一のものとし、生きる上での立派な仕事の一つと考えていた、しかし、両親にそんな考え理解してもらえるはずがない、分かって欲しいという方が無茶だ、それが世間一般の常識的な感覚だ、彼らにとっては、芸術家などという道は、非現実的な、突拍子もない、あってないような、不安定なものに過ぎないし、まして自分の息子に才能があるなどと思う訳がない、一親とすればそれが正しいのだろう、田舎という我々の生活空間において、芸の道など、まるで異世界、別次元の、おとぎ話のような感覚であり、過去に私が、映画の道に行きたいとか、作家になるとか、両親に伝えた時、とにかく恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなかった、そんな事を口にするのは笑い物でしかないし、現代の未開文明を生きる彼らの日常には、一切無縁の世界、無縁の発想だったからだ……。 

万一その道に進む事を受け入れたとしても、目的を達成するまでの間、最低限自分の生活は自分で支えるべきであって、芸術家などという、先の見えぬ、根無し草のような、道なき道を行くのを、何の確証もなく支援できるわけがない、しかし、数ヶ月後には作家としてデビューし、莫大な収入が舞い込むと盲信していた自分は、なぜその様な、下らない事を、細々しい事を、面倒な事をしなくてはならないのかと憤怒に駆られ、俗世へ身を投じる事に対する嫌悪、軽蔑や、芸術家としての自負心、プライド、傲慢が、地道な労働を拒否した……。 

芸術家としての自意識が私を堕落させた……書かなきゃ、書かなきゃと、こっちは死に物狂いで生きてるのに、仕事なんかしてる暇、手伝いなんかしてる暇は無いのだ、休憩時間さえも執筆活動の一部として扱いたいのだ、余計なことをするなら、怠けている方が為になる、執筆以外の時間、労力、全てが無駄に思えてならなかった、もしも私が小説を毎日順調に滞りなく書き進めれていたとすれば、少しは他のことに時間を使う気になれたかも知れないが、身を切り刻むような思いで、書けない書けないと、阿鼻叫喚しているのだ、これ以上、邪魔しないでほしい、成功すれば、バイト、雑用、家事、そんなものは比べものにならぬくらい多くのものを手に入れられるんだ、これは一種の投資なのだ、当たると分かっているギャンブルなのだ、なぜ黙って信用してくれないのか……世間の常識から考えればまるでキチガイのような発想だが、当時の私は本気でそう信じ込んでいた……。 

 

私が職を探す意志を持てなかったのは、無論、この様な芸術至上主義的精神のみならず、東京時代から依然続いている、病的な人間恐怖、社会恐怖、適応性の欠如、及びその様な不安定な感受性がもたらす過度の緊張や不安、絶望感、希死念慮、自殺願望、そしてそれらを含めた様々な精神的抑圧によって生じた健康状態の悪化――夜は眠れず、朝は吐き気や目眩、日中は粘り着くような眠気、寒気、震え、息切れ、免疫力の低下、これら数々の要因によって、職に就く、という選択肢が端から欠落しており、それは、やりたくない、とか、面倒くさい、とか、そんな幼稚で我がままな感覚ではなく、病気による不可抗力、という感じの方が適しており、そんな自分に対し、言葉に尽くせぬほどの罪悪感や、自死欲求を形作るほどの自己嫌悪を抱いていた……。 

だからこそ私は、両親に対して積極的に関わることによって、彼らとの距離が近付くのを恐れた、両親からの要求が大きくなること、自分がまともに働けると誤認されること、何も問題を抱えていないと思われること、それが怖かった…… 

 

職に就く気のない私に、両親は実家の手伝いをさせようとした、元々父方の祖父が隣町で農家を営んでいたが、身体があまり動かなくなって以降、春から秋にかけて父が中心となって兼業として米作り、畑仕事を行っており、私はその手伝いに毎度連れて行かれた…… 

 

 私は頑なに嫌がった、それは身体を動かす事、単純労働に従事する事への拒否反応ではなく、その作業内容、仕事内容から滲み出る、一種の世界観への心的忌避感であった……私が農作業に関わる事への反発を人一倍強く持っていたのは、父に対する嫌忌や、執筆活動への執着などとは他に、ある特殊な個人的価値観に多くを負っていた……それは、農作業を通じて感じ取られる、農耕文化ひいては田舎社会への生理的な嫌悪だった……。 

 

私は田舎を嫌っていた……田舎及び田舎に住む人々に、体の底から湧き出る侮蔑や嫌悪、或いはおぞましさや気味の悪さを覚えていた……私は田舎に住もうとする人々の心理がまるで理解できなかった……交通、気候雇用、公共施設、ショッピングレジャー、人間関係、あらゆる点における田舎特有の不便、不都合、不合理に、どうして耐えられるのか、意味が分からなかった……買い物しようったって、ろくに欲しいものも置いてありゃしないし、店舗数自体が限られている、生活に必要な最低限の店しか存在しない、ここに行けば何でも揃ってる、そんな店自体が揃ってない、遊ぶところだってありゃしない、友達と遊ぼうとしたって、ただただ閑散とした田園風景が広がってるだけ、彼女が出来たところで、デートに行く場所なんてない、町のイベントなんて高が知れている、施設だって、そうだ、緊急の怪我や病気になっても大きな病院は遙か遠く本を探していてもこぢんまりとした図書館があるだけ特別な用事があれば遠くの町へ行かなければならないしかし都会と違って交通網が発達しておらず、一度出掛けるだけで時間も金も相当掛かる…… 

当然、学校だって、つまらない事しかない、出来ることは、限られている、人口自体が少ないから、出会える人の数や種類も限られており、友人も恋人も選択肢がなく、大して共通点もない奴らと、同じ顔ぶれでずっと過ごさねばならず、どこで誰が何をしていたか、すぐに露呈、常に把握され、噂はあっという間に広まり、大きな行動や変化を起こすと、変な目で見られたり、馬鹿にされたりする……極め付けは、冬に訪れる、身体を徹底的にいじめ抜こうとする冷気、交通を妨げる積雪、生活を邪魔する氷結現象……ああ、全く、こんなクソ寒い地域に居住する意味が理解出来ない、こんな不便な土地に住む意味が理解出来ない、そのくせ、文句だけは一人前に言う、ここで生まれ育ったからと言って、他の土地に移り住むという選択肢には目をつむり、不便だとか、寒いだとか、○○弱者だとか、国が何とかしろだとか、そういって文句を訴えるのは、どこか矛盾を感じるのだ……出て行けば良いのだ、多少の犠牲を支払ってでも、多少の損害を被ってでも、もっと便利な土地に移り住めば良い、人には人の事情があるだろう、しかし私は、どんな事情があろうと、それを振り切ってでも出ていくだけの価値があると思うのだ……昔、ある北国の豪雪地帯で、とある親子が、猛吹雪によって家まで辿り着けず、自宅付近で父親が子供をかばって死んでいて、それによって子供は一命を取り留めたというニュースがあり、人々はそれを感動話として、美談として、美しい悲劇として語っていたけども、何のことはない、ただの父親による判断ミスではないか、認識不足ではないか、ただ己の子供を危険に晒しただけではないか、私に言わせれば、冬になると歩くことも出来なくなるような、凍え死んでしまうような、そんな地域で子を育てること自体が、虐待のようなものなのだ……。 

都会に比べて田舎は平和じゃないか、そう言う者もいる、しかし、実際は全然そんなこと無い、ただ人口が少ないから、そう見えるだけで、実際は色々あるものだ、身内同士、或いは近所同士の、醜い争い、嫌がらせ、排斥が毎日続いており、人口に対する殺人の割合だって、むしろ都会より多いとも聞く…… 

 

山林や田畑だけが広がる土地でのうのうと暮らす人々をみると、彼らは一体何の為に生きてるのだろうと、そういう疑問が湧かないわけには行かなかった、大きな意味も、生き甲斐も、野望もなく、食べて、働いて、眠る、それを延々と繰り返す、毎日毎日、誤差のない生活を、何年も何十年も重ね、動物や、昆虫や、植物と同化するように、ただ、生存する事だけを、繁殖する事だけを、維持する事だけを目的として生きている、いや、生きている、というより、ただ、呼吸をしている、といった方が近い、彼らは人間というよりもはや自然の一部なのだ…… 

特に私は自分の生まれ育ったこの東北の風土や文化や気質を嫌っていた、訛り言葉を耳にしただけで苛々し、吐き気を覚えた、東北訛りのあの、生温い、動物的な、後進的な、野蛮な、知性の欠けた感じが、無性に私を苛立たせた……田園風景を目にするのも、農作業をしている人間の姿を目にするのも、苛々した……あの古臭さが、あの原始性が、社会の抑圧的で不合理な部分を造り出している気がしてならず、自分が農作業に従事することによって、彼らと同化する事がたまらなく嫌だった……自分は作家として生きる人間だ、自分は一刻も早く作品を書き上げる使命がある、自分に残されている時間は限られている、何故こんなところでこんな事をしなくてはならないんだ……。 

 

私は今でも田舎育ちである事に強いコンプレックスを抱いており、都会育ちの人間から幼少時代、学生時代の話を聞くと、羨望や、劣等感や、惨めな感情を覚え、酷く落ち込んでしまう……自分の人生は、何だったのか……彼らに比べて、何て無意味な、退屈な、味気ない青春時代を送ってきたことだろう……もしも自分が、こんな空疎な田舎ではなく、賑やかな都会で育っていれば、どんな風になっていただろう、親友と呼べる人間と出会えたかも知れない、恋人を作れたかも知れない、学生時代の思い出を作れたかもしれない、好きなものにたくさん触れられたかもしれない、ニートに陥らなかったかも知れない、社会活動に従事できたかもしれない……しかし、今となってはもう、二度と取り返せやしない……田舎という巨大な牢獄の中に閉じ込められ自由、娯楽、出会い、経験全てを徹底的に奪い去られ、人生の喜びを全然知らぬまま育ったのだ…… 

 

様々なメディアを通じて、都会の人間は、金に汚く、人を蹴落とし、人間同士の繋がりを疎かにし人として大切なものを失っている、現代社会が産んだ負の部分のように描かれ、その対極として、田舎の人間は、のどかで、穏やかで、心優しく、素朴な、古き良き美しい、我が国民のあるべき姿といったような構図で語られる事が多い、しかし、私はそれが虚妄であると、幻想であると知っている……彼らは、田舎の風土、風習が持つ、現代の倫理観や社会構造から逸脱した暴力性、非人間性、非論理性を知らない……田舎の風習、田舎の戒律、田舎の価値観、田舎の道徳に潜む、我々の思考では理解しがたい、原始的、宗教的、非科学的な、意味不明の、謎の、不気味な世界観を知らない……あのデリカシーの無さ、偽善的なヒューマニズム、素朴さの仮面をかぶったエゴイズム……常に彼らは踏み入れてはならぬ禁断の領域をどこかに隠し持っており、私には科学を持たぬ未開部族と同じように映った…… 

 

田んぼを所有していた父方の祖父母は、今にも崩れんばかりの、足を踏み入れるのも拒まれるような、カビやほこり、腐敗物、虫だらけの、酷く汚れた古い家屋に住んでいた、いつか近所の野良猫を拾ってきて、家の中で飼っていたがその扱い方がとにかく酷く、事あるごとにハエ叩きで激しく叩いたり、無理な掴み方で強引に持ち上げたりし体のケアもまるでしていなかったため、皮膚や毛はボロボロ、見るに堪えぬほど痩せ細っており、常識的な価値観を持っている人間から見たら、どう見ても虐待、愛護団体が見たら目くじら立てて怒るような有様なのだが、何より恐ろしいのは、彼ら自身には、まるで虐待という意識がない、いや、そもそも、動物虐待という概念自体が彼らの文化にはなく当然、虐めているという感覚もなければ、しつけという感覚さえなく、ごく普通に可愛がっているだけだと、飼われてて幸せなのだとペットを飼うとはこの様な関係、この様な扱い方を言うのだと、そんな様子なのであり、人間に対してであれ動物に対してであれ、何かを可哀想と思う人間的な感情が欠けているのである…… 

 

田舎に住む人々の人間的繋がりを美しいものとして語る人達がいる、しかし、実際は、田舎の人間関係ほど偽善的で、排他的で、不自由なものはない……私の知る限り、どこにいる人もみな近所同士でのトラブルや不安を常に抱えている、ものを盗まれたとか、壊されたとか、土地の境界がどうとか、あれは迷惑だとか、やることをやってないだとか……うちの母も、隣の祖母も、日々そんな話題で持ちきりで、隣人の噂をしたり、悪口を言ったり、祖父が喧嘩をしたり、警察沙汰になったりと、地域の絆なんてありゃしない……都会の人間は他人に無関心だと言う、田舎の人間は親切だと言う、それも結局は表面的にそう見えてるだけだ、それぞれの環境がその様に動かしているに過ぎない、ただ単に、人口が少ないために一人一人の存在感が浮き立ち、それによって否応なく、他人との繋がりや、人助けの強制、悪事の困難さを与えられているに過ぎない、ただお互いを監視し合い、束縛し合うことによって善行を促し、悪行を防いでるに過ぎない、出来ることなら、くわばらくわばらと言って、面倒事には関わりたくないと思っているに決まっている……彼らは来る人来る人を全て疑いの目で見て、何しに来たんだというような表情で、よそ者か地元民かを区別し、関わり合いを避ける……世間の習慣、社会のレール、多数派から外れることを行えば、たちまち白い目で見られるようになる……都会の人間関係の希薄感が問題視されたりするが、私はむしろ他人は他人と割り切ってる分、生きやすいと思う、少なくとも自分のような他人との結びつきに神経質な人間は、一切干渉されたくないし、まやかしの人間関係など築きたくない……。 

 

農民は我々国民のあるべき本来の姿として神聖視される、しかし、農耕民族の持つ古い価値観が国を堕落させ、衰退させ、破滅させている事を彼らは知らない、農民の最も悪質な点は、変化というものを嫌う点だ、農家は変化を知らず、ただ変化する社会を非難するのみである、時代の変化について行けない事に対し、自分達への反省は欠片もなく、世の中が悪い、国が悪い、政治が悪いと文句を述べる、自分達に能がない為に、柔軟性がない為に、向上心がない為に、時代の進歩へ適合することを拒み、しかしそうすると格差が生まれ、損害を被ってしまうため、せめて社会の進歩を阻もうと、足を引っ張ろうと躍起になる、そうしてその時必ず大義名分、批判の論拠、正当性の支柱とされる発想が、「古き良き伝統」、であり、「我が国の在るべき本来の姿」、であり、「弱いものいじめ」などという美辞麗句である……古き良き田園風景を壊すなとか、弱者切り捨てだとか、人間同士の繋がりがどうとか、一見真っ当で正義に見える都合の良い言葉で押さえ込もうとし、弱者対強者という構図を演出することによって国民を味方につけようとする……何言ってやがる、ただ単に、既得権益にすがりつきたいだけではないか、自分のことしか考えていないだけじゃないか、努力するのを嫌ってるだけじゃないか……いくらでも合理化できる部分、改善できる部分、利便化できるはあるにかかわらず、既成のシステム、ルールを崩すことを嫌い、環境の変化を面倒くさがり、何の努力もせず、何の工夫もせず、その挙げ句、金がない、不便だ、村が大変だ、国が悪い、政治が悪い……。 

 

農業は神聖視され、農家は聖人とされ、田舎は聖地とされる、古き良き美しい日本の姿、そんなもの一度だってあったことはない、素朴なんて嘘だ、純粋なんて嘘だ、農民というのは、昔から、金を誤魔化そうと、土地を盗もうと他人を押しのけようと必死なのだ……農業だろうが漁業だろうが、私は自然を相手に生活している人々ほど、乱暴であくどい人間はいないと思っている彼らほど優しさのない、穏やかさのない、無神経な者達はいない、彼らは暴力によって人を苛め、抑圧し、追い出し、排除し、ねたみ、そねみ、抜け駆けを許さぬ…… 

 

地元愛、という奴が私は嫌いだ、反吐が出る、そんなもの、単なるエゴイズムではないか、世界中がどうだろうと、国中がどうなろうと、知ったこっちゃない、自分の住んでる地域さえよければ、それで良い、そんな自己中心的な発想を、地元愛、郷土愛、愛郷心などという言葉で美化する……愛国心だろうと、愛郷心だろうと、体の良いエゴイズムに過ぎない……自分達の無能によって衰退していく町を、人口が減っていく町を、愛郷心を植え付け、生まれ育った故郷を愛させることによって、若者に背負い込ませようとする……そこで生まれ育ったからって、何でその町を愛さなきゃいけない、自分が好きな町ぐらい、自分で決める、私はこの町に散々苦しめられたのだ、愛することなんて、出来るはずがない……。 

 

私の両親、特に私の母は、神仏風習行いを非常に熱心に、厳格に取り組むタイプの人間だった……墓参り、寺参り、神棚、仏壇、葬式、いちいち細かい段取り、手順、作法を調べ、その通りに遂行し、少しでも手順にミスがあると、ああ、どうしよう、何か悪いことが起こるかも知れない、罰が下るかも知れない、神様の機嫌を損ねたかも知れないと、焦燥に駆られていた……そうして誰の日常にも起こる些末な出来事をいちいち神仏との関係で解釈し、ちゃんと神棚の手入れをしたから良いことが舞い降りた、とか、あのとき手を合わせるのを忘れていたから悪いことが起きてしまった、とか、一喜一憂していた……対して、極端なくらい現実主義者、合理主義者であった自分は、超自然的現象、非科学的現象というのを一切信じず、宗教、占い、迷信、伝統、風習、全てを嫌悪していた……神社にお参りに連れてこられた際、私はお賽銭を投げ入れる振りをして、ポケットの中にしまい込んでいた、賽銭箱に入れるなど、ゴミ箱に捨てるのと変わりないと感じていたからである、それならまだ募金箱に入れた方がましだ、こんなもの、新興宗教への寄付と変わりないではないか、お寺に対する寄付なんて、正にそれではないか……我が国の人々は基本的に宗教というものに忌避感を持っている、しかし、仏教だって宗教じゃないか、私に言わせれば、仏教的慣行に真面目に従属する人々も、新興宗教の信者と何も変わりはしない……ある日、墓参りの際に、私が墓前でちょっとふざけてみせたら、母は鬼のような表情に変貌して私を怒鳴りつけた、この罰当たりが、そんなんだからあんたは駄目なんだ、と、もはや人格否定、存在否定に及ぶような言い草だった……私は、母が墓参りという行為に真剣すぎることよりも、自分がちょっと笑わせようと、子供のようなお茶目な気持ちでふざけたのを真っ向から否定されたことが、非常にショックで、悔しくて、泣きたい気持ちだった……。 

 

母方の祖父が死んだとき、親戚一同皆しくしくと涙を流していたが、私一人だけは涙を流さなかった、死んだもんは、死んだんだ、生き物が死ねば、ただの抜け殻、魂なんてものあるわけがない、自分が死んでいるという意識さえない、いくら泣いたところで、いくら悲しんだところで、終わったものは、終わったのだ……人間の死としては年相応、年齢的には十分生きたし、体も弱まってたし、しょうがないことだ、何をそんなに悲しむことがあるのか、生きながら苦しんでる姿を見る方が、よっぽど悲しいし、辛いものだ、普段ほとんど会おうともしなかったくせに、こういう時だけは泣きやがる、あまりに周りが泣くもんだから、私は少し引いてしまった、その内だんだん腹が立ってきて、自分だけは絶対に泣いてやるかと、反発の気持ちを抱いた……祖父が死の直前、病院のベッドで医療器具を付けながら苦しんでいるときも、親戚皆が必死で励まし、体を揺すり、天命に逆らって無理矢理延命させようとしているのを見て、私は不快な思いがし、一人隅っこで冷めた気持ちを抱いており、ただ、体裁のために彼らの悲哀に参加しようか、とか、飽くまで自分の素直な感情を貫いて平然としていようかとか、そんなことばかりを考えていた…… 

葬式の最中の重々しい空気が私はとにかく駄目だった、吐き気がした、逃げ出したかった、水の中で息が苦しくてもがいてるような感じだった、根が道化気質、芸人気質な私は、朗らかで、軽くて、穏やかで、和やかで、開放的な空気でなければ生きていけない、誰かが激怒、殺気立つほどに真剣、真面目、厳かであったり、皆が涙を流すほど感動的であったり、そういうシリアスな雰囲気が悉く苦手なのだ、その空気に素直に混じっていけず、感情的になることが出来ず、一歩引いたところで客観視してしまうのだ、私はどんな悲惨な状況にあっても、そんな自分を笑い飛ばすような客観的視点を持っているつもりだ、んな私にとって、重く、真剣な、厳粛な、悲壮感漂う葬儀の雰囲気は、とにかくもう、恥ずかしくて恥ずかしくて、気味悪くて気味悪くて、堪えられなかったのだ……。 

 

占い師だか預言者だか分からないが、そういう種類の有名な老婆がどこかにいるらしく、誰から紹介されたか知らないけども、両親はその人の下を度々訪ねて、神のお言葉を頂いていたらしい……母は私が子供の頃から、宗教は駄目、と度々言っていたが、母のやってる事と新興宗教と、何が違うというのだろう……宗教的慣行というのは、あらゆる迷信と同じように、科学が未発達な時代を生きた人々による、世界の諸現象に対する誤解の積み重ねに過ぎず、現代のように、科学の発達によって自然界の謎が解明され、全てが虚妄であったことが証明されたならば、もはや古い習わしを信奉する必要などどこにもなく、我々はただ、飽くまで合理性、実用性によって動くことが実質的な幸福へと繋がるのに、彼らは徹底して無駄な時間、無駄な財力、無駄な労力を浪費し、望みを手に入れる現実的且つ緻密な努力を忘れ、結局、神頼み……その挙げ句、ああ、不幸だ、大変だ、金がない、などと、嘆き、被害者ぶり、思い詰める……。 

私が確か高校生の時、家族内の会話が、珍しく神様がどうのこうのとかいう話題になりその際父が不意に、柄にもなく、神とやらについて、天国とやらについて真面目に語ったことがあり、私はその発言と、そしてそれを聞く家族という状況が、とにかくもう恥ずかしいというか阿呆らしいというかまさかそんな事を父が真剣に語るとは思わなかったので、自分はもうこの家族とは一生分かり合えないじゃないかとさえ思った…… 

私は、占いも、迷信も、霊魂も、神様も、天皇も、信じない 



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