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解説

 この論稿は、インターネットメディアが現実世界において大きな影響力を持ち出し、急激な一般化を遂げた、00年代後半から10年代前半辺り、2010年前後の、ネット界全体に見られる特有の価値観や動向に対する、否定的且つ総合的な分析によって成立している。

 この頃のネット界は、とにかくインターネットというメディアを絶対視するネット原理主義、全能主義的な言論が非常に多く見られ、やれ、ネットによって世界は変わるだの、ネットが革命を起こすだの、ネットは最も高度な空間であるだの、やたらとネット空間を盲目的に賛美するような風潮が蔓延していたが、私はネット上に見られる特殊な価値観や諸現象をずっとバカバカしい低俗なものと感じていたので(今も思っている)、そういった風潮に全く賛同できず、逆に怒りや苛立ちが募る一方だったため、それを一気に吐き出したいと思い、結果、このような著作が出来上がった。

 

 この時代のネット界における象徴的な思想は、「情報アナーキズム」と「文化的保守」であり、その象徴的な人種はネット右翼とオタクであると言えるだろう。アナーキズムと保守というのは一見矛盾するように思われるが、ここで言うアナーキズムというのは政治上というより情報メディア論としてのアナーキズムであり、倫理上のアナーキズムである。明らかな実害をもたらす著作権の侵害を独占財産の解放として促したり、誹謗中傷やあらぬ噂話、感情的な陰謀論の流布を言論の自由の名のもとに正当化したり、愉快犯的な炎上をところかまわず引き起こしたり、一言で言えば、「何でもあり」で、こういう無秩序性、暴力性をむしろ評価することが、知識人にとっての一種のステータス、先進性を示す材料として受け入れられているような有様であった。

 保守というのは政治的にはネット右翼、文化的にはオタクの存在が大きく、彼らの形作る価値観がネット界全体を覆っていたと言っても過言ではなかったし、これにはっきりと当てはまらないタイプのユーザーでも似たような意識を共有する者が多く、ネトウヨ的およびオタク的な主張がかなりの圧力として機能していて、堂々と反論を行うことはリンチの対象となるために、抑圧されていたような状況にあった。

 しかし、執筆と同時期、あるいはその直後には、かなりネット界ひいては世の中全体の意識が大きく変化していた為、今ではあまり当てはまらないような主張もいくつか書かれており、具体的に言うと、例えば、ネットメディアの無法性、暴力性、無秩序性は、ピークに比べればかなり改善されているし、思想面での極端な偏りも緩和され、マスメディアへの依存性も少なく、文化面、情報面でもかなり自立してきている。ネトウヨもオタクも批判的な書き込みをされることは全く珍しくないし、前者に至ってはもはや、「頭のおかしい人たち」という共通認識が一般ユーザー全体の内にあるだろうから、怖い存在でもなんでもなくなっている。そういう意味では、この著作はもう少し早くに取り掛かったほうが意味があったと感じている(当時の情報共産主義や極右的発想に安易に乗っかっていた人々は、いまどう思っているのだろうか)。

 当時は倫理的無秩序性及び文化的閉鎖性が異常に強かったので、それに対する殺意に近いほどの反発をもっていたが、10年代の半ばから(つまりこの著作を書き終えた直後辺りから)、今度は逆に、秩序化、道徳化、左傾化が強くなりすぎているような感じがしたため、いまの私はむしろ保守的意識に共感を寄せるし、著作権や書き込み、表現への締め付けが 厳しくなりすぎているのではないかとさえ思っている。

 

 今でも全く理解されていないと思われる主張は、10年代において絶対的思想と化している反メディア思想、マスメディアを悪と見なす発想が、根本的な誤解の上に成立しているいうこと、むしろメディアを批判する側に独善性や偏向性が潜んでいるということ、メディア文化の衰退は、むしろ旧世代ではなく若年世代の体質や能力に問題が潜んでいるという点である。

 これらに関しては、別の著作でより本格的に、綿密且つ論理的な考察を提示するつもりなので、そういう意味では、自分にとってこの著作の意義はもうほとんどないと言っていい。ネットの歴史を振り返る上での資料くらいにしかならず、「こういう滅茶苦茶な時代があった」という意識で読み進めてもらえれば結構である。

 

 形式的な面としては、独立した短い文章を羅列したアフォリズム形式を採用しており、哲学的な論理性というのはほとんどなく、感情の吐露といった側面が強い。いわば、SNSのようなつぶやき、日常の中で生まれた思い付きを、寄せ集めたような感じになっている。それゆえ、ネット至上主義的な言論が力を持たなくなった今となっては、ただ当たり前のことがつらつらと述べられているだけなので、少々物足りなさを感じるかもしれない(しかしそれは逆に言えばこの著作の正しさを証明していることにもなる)。

 

 今とはネット界の状況がだいぶ違うので、この頃に増加していた非常に特殊な層を基準に各分析、各主張がなされている、ということを念頭に据えて読み進めていただきたい。

 

 


  

   序

  

古くからインターネットは、社会生活の効率化を促し、旧型のシステムを改変させ、メディアに合理性をもたらし、全ての人に発信権を与え、必要な情報を共有し、隠蔽されていた不正を暴露し、その結果、人々に多くの豊かさが、安穏が、娯楽が、知識が、平等が、解放が与えられるものとして、様々な識者、批評家、知識人達によって称揚、礼賛、推進され続けてきた。

  

確かに、インターネットは、便利である。現代のネットシステムを用いれば、ネットに接続できる環境があるだけで生活の殆どがその場で事足りてしまう。生活レベルでも、仕事レベルでも、コミュニケーションレベルでも、娯楽レベルでも、取りあえずネットがあれば多くのことを代用、補填、援助できるし、むしろネットがなければ何も始まらないと考える人も多いだろう。

  

しかし、それは飽くまで、便利、という意味での話に過ぎない。社会生活を助けるものとしての、情報伝達としての、構造的、形式的な利便性、先進性を示しているだけであって、それ以上のものがあるわけではない。それ以上のもの、とは、つまり、その中身を通されるもの、伝達されているもの、発信されているものにおける、質的なレベルの高さ、ということだ。

  

インターネットが優れた情報システムであることは間違いない。しかし、だからといって、その優れた伝達形式を通された情報物、即ち、ネット界に蔓延、浸透している、特殊な価値観、思想、道徳、規律、芸術等が、他のメディアや空間に対して特別優れたものであるかどうかは別の話である。

  

しかし、インターネットという発明品の便利さ、素晴らしさ、偉大さを主張し、ネットの普及、社会化を促す運動の中で、明らかに、形式的な優位だけではなく、内容的な優位を謳うような言説が含まれてしまっており、ネット界を象徴するような世界観や、そこで積極的に活動する人々が、新しい、高度な、未来的な文化を持つものとして称揚される傾向にあった。

そうしてその、優位、という立場を確保する為の比較対象、劣位側の存在として、現実空間や、マスメディア、既成業界、権力機構、勝ち組などが攻撃相手に選ばれ続けた。

  

しかし、本当に、そうなのか? リアル空間、マスメディア、既成社会に比べ、本当にネット空間を築いているものはレベルが高いものなのか? ネット内にあふれる人物、文化、思想、価値観、コンテンツ、言論、ルール、マナー、道徳、その全ては、本当に非ネット空間に対して優位を保っているのだろうか……

  

本稿が執筆されたのは、ネットを日常的に利用するようになって以来持ち続けていたその様な疑問を、いつか文章として統合的にまとめてみたいという考えがあったからである。 

 

ネット界に特別垣間見えるような偏った価値観や人々の意識への批判、構造の分析から始まり、後編では、ネットメディア界の実質的な支配者たる、オタク、及び、ネット普及と同時に爆発的な広がりを見せ、ネット界の芸術文化的側面を担っている、オタク文化に対する論究、そうして最終的には、情報端末の急速な進化によってネットメディアが世の中で大きな影響力を持ち始めた、00年代突入以降、我々の生きる21世紀初頭の社会、メディア、芸術文化、時代全般に対する分析が語られることとなるだろう。

 

ここでいう「ネットメディア」とは、特定の企業が運営するニュースサイトという意味で使っているのではなく、掲示板や動画サイト、SNS、ブログ、つまりはインターネットの世界そのもの、ネットで発信を行うあらゆる個々人の全体的傾向についてを指示している。これを「ネット文化」でも「ネット界」でもなく「ネットメディア」という言葉で形容したのは、一つは、「ネットというメディアを通された全て」というニュアンスを込めていること、もう一つは、ネットを扱う人々一人一人がメディアそのものなのだという戒めを込めていることが理由である。

何故こういう注釈を述べたかというと、基本的に、メディア批判を行う者達の多くは、政治意識、社会意識が強いために、例えばマスメディアというと、イコール報道、マスコミを指示するという捉え方をしがちであるため、誤解を招かないようにする必要があるからである。はっきり言ってここでは報道に関してはあまり詳しく論ずるつもりはなく、ここでいう「マスメディア」というのも、どちらかと言えば娯楽産業、カルチャーなどを中心とした意味で使っている。

 


第一章 インターネットと社会秩序

 

前編 ネットメディアの意識と構造

 

第一章 インターネットと社会秩序

 

一 インターネットの無法性

 

ルールを先に用意した上で何かを始めるべきであった。しかしインターネットはルールの設定より先にまず誕生があった。

 

インターネットは現実世界に突如生まれた大きな亀裂であった。故にそこには現実空間の秩序や道徳が存在しなかった。

 

インターネットは紛れもなく我々の生きる現実空間と同様、全体の秩序を守るべき一つの公共空間に他ならないが、インターネットがこの世に生まれたとき、人々にとってネット世界は公有空間ではなく私有空間でしかなかった。

 

黎明期、ネットテクノロジーが未発達段階にあった当初は、ネットを通して行えるコミュニケーション、情報伝達機能は非常に限定的、狭量的であり、当然、その定住的な利用者は世の中の極一部でしかなく、一般社会、実世界とは隔絶、遊離した、現実空間、生活空間のルールや倫理の適応されない、独自の特権的空間として存在した。

 

言わば、初期のネットユーザーにとってネット空間とは、この世に存在しない空間、妄想の世界、おもちゃの世界に過ぎなかったのである。それ故、ネットという場所は、現実では消化、表現出来ない欲望を顕現させる為の空間として存在し、不正行為、不良行為が横行していた。

 

ネット利用者達は互いに仲間意識、共有意識を持ち、世の中の少数の人間の集合体に過ぎぬと考える彼らは、自分達が一つの私的な小集団、サークル、友達同士の集い、というレベルでしかないと考えていた。つまり、自分のノートに何を書こうが、それを身近な人間に見せようが、或いは自分の所有しているものを貸そうが共有しようが、こちらの勝手ではないか、第三者に干渉される筋合いはないではないか、これが彼らの論理であった。

 

ネット世界は個人的、私的なものであり、国家や法が介入するのは越権行為、過干渉であると見なされ、治外法権区域として存在した。つまり、インターネットは巨大なプライベート空間だったのである。

  

人間あるいは社会というものは基本的に、時代が進むと同時に倫理化、道徳化、秩序化、規律化が進むものだが、しかし、インターネットというのは生まれたての赤ん坊、突如現れた未開拓地である。故にそこには現実社会が歴史の中で築き上げてきた秩序の体系というものが適応されなかった。

特に匿名性の強いネットにおいては、人々は透明人間となり、不法行為を繰り返すことに罪悪感を覚えづらくなっていた。

  

しかし、徐々にネットが世の中全体に普及し、利用者数が増加し、社会生活における重要性が増すと、ネット界は明確たる社会性、公共性を与えられ、それにより現実空間と同じような法治区域として扱われるようになった。

  

それは過去の現実社会において、村社会や教育現場、家族制度、身近に存在する者同士の問題は、国家権力が介入することではなく、個人あるいは身内同士で決定、解決するべきとされてきたものが、社会生活の自由化、個人の権利拡大により、単に現場的問題というだけでは済まさず、全体の秩序へと組み込まれていったのと似ている。もしくは、ある途上国が、世界的な影響力の低さから、環境や著作権などの問題が放置されていても、飛躍的な経済発展を遂げ、先進国の仲間入りをすると、良い影響と同時に、古くから抱えていた諸問題の悪い影響もまた外国にとって無視できないものとなり、注意を受けるようになるのと同じである。

  

つまり、インターネットとは、一つの未開拓地、発見された新大陸だったのである。故にそこには国家のルール、社会規律が存在せず、降り立った人々はそれぞれみな思うままに行動し、住み着き、生活した。住人が少なければそれでも問題なく成立していたかも知れない。しかし、当然住人が増えれば、全体の秩序を保つ為にルールを制定せざるを得ないし、他の世界に対して、社会的な影響力を持ち始めれば、強い力が介入せざるを得ない。だが住人達はそれを拒否しようとした。誰のものでもない空間を何者かに管理される筋合いはない。我々が発見し、勝手に住んでいる場所に、第三者が口を出す権利はないと……。それが単なる我が儘、利己的発想であることに気付かないでいたのだ。

  

二 道徳意識の欠如

  

徐々にネット界に法による統治、社会秩序化、社会道徳、通念の適応が行われるようになってきたが、しかし依然、ネット空間には誰が見ても違法的、暴力的、不正的と思える行為が横行し、当たり前のように放置、野放しにされており、その上、何より問題なのは、そもそもそれが多くの人々にとって問題とされていないこと、つまり、厳密に言えば明らかに違法、違反であると分かっているにもかかわらず、そこに罪という認識、駄目という意識、してはいけないという自覚が存在していないことである。

  

第一に、ネットという世界が、そもそも実質的に規律の存在しない無秩序から始まり、それがスタンダードとして出来上がってしまっていることにより、他の空間、他のメディアでは明らかに問題視されるような行為、状態にも、「悪い事」、「放置してはいけない事」「改善すべき事」、という認識が生まれづらくなる。つまり、インターネットとは現実社会に突如生じた大きな亀裂であった為、人々はその世界をどう統治すべきなのか、明確な答えを持たず、曖昧な意識のまま進んでいってしまったのである。

 

何より、ネットの無法性がいつまで経っても野放しにされ、取り締まりが強化されない一番の原因は、結局の所、ネットを取り扱う大多数が一般市民である、という事が大きい。

 

というのも、ネットにおける犯罪、悪行の被害となる対象は、基本的に一般市民ではなく、有名人や企業などの公的な存在であることが圧倒的に多い。同時に、ネットにおける違反行為の恩恵を授かるのは、結局のところ一般市民である事が多い。

違法アップロード、ダウンロード、無規制的なアダルトサイト及びコンテンツの乱立、有名な存在への誹謗中傷や噂話、プライバシーの侵害、これら多くが一般的なネットユーザーにとっては得としかならないのである。

  

つまり、ネットにおける違法行為、非道行為において、加害者―被害者で言った場合、市民は加害者側として存在することが多い為、必然的に世の中全体としてネットの秩序に対する意識が上がりづらくなる。

  

また、糾弾や取り締まりという観点から見ても、その構造上適切に動きづらいものとなっている。これもまた、ネットメディアの中心的な発信者が市民という不明瞭な存在の固まりであることが大きい。

  

そもそも大衆というのは現実空間においても古くから責任を問われにくいものとして存在している。

例えばある場所やイベントにおいて、集まった大勢の人々による群集心理的行動によって一つの事件、事故が発生し、多数の負傷者が出た場合、その場にいた人々一人一人が具体的にどの様な意識を持って、どの様な行動を取っていたかは考慮されないまま、不運にも事故に巻き込まれたという形で、市民全体が即座に被害者として一括りにまとめられる。たとえ集団の中に明らかにマナーを無視し、ルールを破り、自分勝手な行動を取った人間が多くいたとしても、それを特定することが難しいことや、無作為に裁くと不公平さが生じてしまうこと、或いは集団の中で正常な判断を取ることは難しいなどという理由により、彼等自身もまた不可抗力の被害者という認識が生まれ、結果、市民という存在それ自体が一つの自然現象として扱われ、罪に問われず、現場の管理者が一方的に責任を追及されることになる。

大勢の人々が束になることで特定の対象者にもたらされる被害は当然甚大なものになる。しかし、集団形成による責任の喪失、群衆的な責任逃れによって、数多くの人間が罪を共有していたとしても、その中の誰一人として裁かれず、責任を追及されないという不合理な事態が生まれる。

 

これはネット犯罪の責任問題にも置き換えられる。例えばあるサイトで起きた問題をサイト側が促したと判断するべきか、あるいは飽くまでネットユーザー個人の責任に帰するべきかという問題、さらには、ユーザーが悪いとなったとしても、基本的にネット上において常態化されている問題は、不特定多数の利用者によって当たり前のこととして引き起こされている為に、相手が多すぎて対処の仕様がない、或いは訴えるにしても具体的にその中の誰に責任を求めるべきかという問題が生じてしまう。

 

とある情報やコンテンツが、第三者によって、非ネットメディアからネットメディアへ、あるいはネットメディアからネットメディアへと、勝手に流用、増殖され、その内容が波紋を呼び、問題視されたとしても、責任を問われるのは元々の制作者であり、流用、増殖させていった人々は何の責任にも問われないのが現状である。

さらにそれによって情報物を勝手に拡散しただけのサイトやユーザーが、責任を問われるどころか広告による利益を得ることがあるという不条理も存在している。

 

法は市民を、大衆を守る為に存在する。しかしネットの不法行為は、正に加害者側が市民、大衆そのものなのである。

市民という、国を根本的に形作る群衆の手にした新たな世界であるということによって、改善へと動きづらくなる。ネットという無限的な空間においては、改正の対象が膨大すぎるのである。

 

これは暴動、暴徒による略奪、破壊と同じ論理である。つまり、一つの犯罪も、その共犯者の数があまりに多すぎる場合、それに対する罪という意識は薄まっていく。 

 

インターネットというメディアほど行為の責任を放棄しているメディアはなく、ネット内の人間的なマナーや社会的ルールがいつまで経っても発達しないのは、ネットメディアにこの様な責任回避の構造が存在することが大きいのである。

 

三 情報共産主義、情報アナーキズム

 

そもそもインターネット界では古くから、ネットメディアにおける無法性、無秩序性を称揚し、国家権力の拒否、統制からの離脱を謳ったような価値観、思想、論調で深く覆われていた。

 

それらは一種の無政府主義的、共産主義的、左翼的な思考回路に基づいている。

極端な言論の自由、表現の自由、私有財産=著作物の共有と撤廃、権力批判、マスメディア批判、陰謀論、弱者敗者中心の言論……これら多くが現実空間における左翼的発想と共通している。

 

 この様な、情報メディアに対する平等思想、自由思想は、言わば、「情報共産主義」、「情報アナーキズム」であり、社会主義的メディア論なのである。

 

これは現実社会の歴史である。つまり、民主思想が高まる中で、人々は、権力による搾取や不平等、管理のない世界を作ろうと、国家に対して、社会的上層に対して戦いを挑み、体制を解体し、理想の世界を築き上げようとした。が、しかし、それもいつしか、目的の見えぬ、利己的な、矛盾した、偽善的、空想的、非現実的な思想運動として、結果的に、市民による横暴、幻想として終わったのと同じように、ネットメディア内における、共産主義的、無政府主義的、左翼的なメディア論も終わるのである。

 

この様な過度な平等思想、自由思想は、二十世紀の消費社会から二十一世紀の情報社会への移行に応じて、単に経済論からメディア論へと転換したに過ぎず、現実空間において共産主義が資本主義に破れたのと同じような推移が、ネット空間でも繰り返されるだろう。

 

真なる平和、安定、平等を求めて生まれたはずの社会主義的な思想が、いつしかテロリズムや独裁主義などの恐怖政治へと陥り、市民権を失ったのと同じように、情報発受における解放運動や平等思想、マスメディアに対する糾弾や陰謀論も、その暴力性、利己性、排他性が人々から糾弾され、収縮していくこととなるだろう。

  

インターネット誕生時から起きていた情報解放運動、自由空間としてのネット思想とは、メディア論における利己的な左翼運動に過ぎなかったのである。

 

ネット界に幅を利かしている右派的な主張を繰り返す人々が、実はメディア論において左翼的思考に陥っているという矛盾に気付かないのである。

 

つまりネットユーザー達は、ネット界に対する法の統治を、横暴なる権力による市民の管理、侵害、支配であると決めてかかることによって、自らの悪行を正当化し、正義と謳い、乱暴に押し通そうとしたのである。 

 

インターネットの自由性は幻想に過ぎなかった。今後、インターネットの監視化、ネットユーザーの管理化は、時代が進むにつれてさらに増すであろう。

 

ネット住民達は、インターネットの重要性、社会的地位の向上を謳いながら、それが逆に彼等の自由を奪い取ることになるという矛盾には気づかずにいたのだ。 

 

四 インターネットの野蛮性

 

市民に自由を与えると、規律を無視した野蛮な世界が築かれると、インターネットが改めて証明したのである。

自由に書き込みの出来る場を与えれば、下品で低俗な言葉や根も葉もない噂で溢れかえり、自由に動画を投稿できる場を与えれば、著作権の侵害やアダルトコンテンツ、プロパガンダ的動画で溢れかえり、自由に自己発信の出来る場を与えれば、低レベルな、傲慢な、横暴な、偏執的な主張、思想の嵐、或いは、他人と繋がることによる、暴徒の形成、集団による悪事、野次馬の群れ、軽率な下らないデモの要請……。

 

これが人間の正体なのである。市民に自由を与えると、結局は悪人が、無法者が、愚か者が幅を利かすことになると、再度証明されたのである。この様な無秩序に対し、権力による統治を回避させるなどあり得ない。

  

ネットで一つ言葉を検索すれば、人の噂や誹謗中傷、群衆的攻撃があふれる低俗なサイトが必ずというほど上位にヒットしてしまう。これは動画サイトやニュースサイトにおける検索でも変わらない。それ自体がもう人間の愚劣さを表している。

 

ネット住民達は、現実空間で非常識な振る舞いをする人々、或いは、過去における大衆や、有名人、マスメディアなどの痴態、非行、無法ぶりを、時代性も社会状況も考慮せず、色々な映像や記事をもとに、得意げに、野次馬的に、面白がって叩き、群がり、晒し、吊し上げようとし、自分達の優越を掲げようとする。

しかし、実際の所、彼等がネット界においてやっていることは、彼等が批判しているものと同じような悪質さを持っているのであって、彼等はネットの秩序が向上した未来の人々によって、同じような形で逆に批判される立場であるということを知らない。

 

彼等はネットを特権的空間と考える為に、ネット界における違法、不良行為は、罪の浅いもの、存在しないものと考える。彼等は倫理や秩序の疎かだった前時代を生きる人々の姿そのものなのだ。

 

これもまた現実社会の変遷と一致する。つまり過去の現実空間において、今の価値基準では明らかに非常識な行為、違法行為が横行しており、それが時代の流れの中で徐々に厳罰化、道徳心の向上、社会意識の改善がもたらされることによって、厳格な秩序が与えられたのと同じである。 

ネット空間は現実空間と同じような経緯を辿ってきたし、これからも同じような経緯を歩んでいくだろう。

 

つまりインターネットとは新たなに生まれた社会空間であり、新たな国家なのである。故にネット世界もまた、現実社会の歴史、変遷、推移を繰り返すに過ぎないのである。

 


第二章 インターネットとルサンチマン

 

第二章 インターネットとルサンチマン

 

一 敗北主義

 

自己発信における自由性及び匿名性という性質上、当然そこでは生活者が日々抱える様々な不平不満、愚痴、鬱憤、苛立ちに満たされることになる。一般社会の中で抑圧された感情の最も安易で安全な表現の場としてインターネットは選ばれ、必然的にネットは市民によるマイナス感情の処理場、鬱憤の掃きだめとして機能することになる。

 

さらにネット自体の利用者が、圧倒的社会的多数を誇る一般市民、つまり、社会的あるいは日常的な下位下層の存在であり、それが社会状況の色々な衰退と相まって、ネット界は下層から上層へ、下位から上位への攻撃的感情で支配されるようになる。

 

社会的地位の高い、世の中に認められた「持っている人間」は、マスメディアや公の場を通して発言権、発信の機会、表現の場を与えられる。しかし、社会的下層を生きる、世に蠢く数多の「持っていない人間」は、その様な権利を与えられていない為、自由な発信の許されたネットメディアへと流れることとなる。

 

それに加え、もともとインターネットという道具自体が、生誕期からずっと、内向的、文化系的、引きこもり的、オタク的体質の傾向にある人々によって特に利用されており、その様な人種達は往々にして、高い自尊心を持ちながらも日常生活において不遇な状況に陥り、それを直接的にぶつける術を知らず、ねじ曲ったネガティブな感情が内側へと溜まっていることが多い。故に様々な意味での勝ち組に対する、ネット世界での恨みや嫉みの昇華、代替行為が増えることとなる。

 

結果、ネットメディアはルサンチマンを原理に構成されるようになり、負け犬的な思考、敗者の論理に支配されるようになる。

 

それによって様々な分野における勝者と敗者、強者と弱者、主人と奴隷という対立構造がより意識化されるようになる――マスメディアに対するネットメディア、政府に対する市民、勝ち組に対する負け組、企業に対する労働者、大人に対する若者、体育会系に対する文化系、不良に対するオタク、モテる人間に対するモテない人間……

 

ネット界は負の側面から価値が構築され、下位の者が上位の者を攻撃するような思想が流行のように勢力を広め、それに準じたスラングが次々と生み出さされ、支持されていく。

 

負け側の経験理論が覇権を握り、敗者中心の言説が支配し、それによってネガティブな主張、上昇志向及び特権的言動への嘲笑など、特別な才能を持つ者、野望を抱く者への攻撃的な書き込み、俗語などが流行ることになる。

 

現実社会を生きる上で本来プラス要素として判断されるステータスが、ネット界においては逆に攻撃の対象となり、社会生活におけるマイナス要素や敗北を一つのステータスとしてアピールする風潮が生まれ、勝者と敗者の逆転現象が生じることが見られる。

  

現実社会において勝者的立場にある者は無条件に悪である、といったような極端な負け犬思想、弱者思想、敗北主義が蔓延し、勝者強者は、卑怯な手を使い、他人を蹴落とし、人を馬鹿にし、不当な対価を得ていると断定され、対して敗者弱者は、優しさを持ち、清らかであり、賢く、理不尽に虐げられている、と考えられるような風潮が作られる。

  

上位者が下位者にとって一種の仮想敵として機能し、強い者いじめ、勝ち組狩りがわき起こり、負けたもの勝ちといった思想が蔓延する。

  

二 被害者志向

  

彼等が目指すのは上位に対する下位の勝利である。しかし、下位の人間には、社会的な影響力もなければ、大きな行動を起こせるような環境にもなく、独自に這い上がるだけの能力も持っていない。となると当然、才能や努力、自主的、主体的な力によって、上にあがり、相手を凌駕し、勝ち抜き、優越性を証明し、力を示し、地位を確立することが出来ない。結果、人は自分が上へとあがるのではなく、相手を下へと引きずり下ろすことへ切り替える。自分のレベルは一切上がっていないままでも、相手と自分の差を縮め、或いは自分より下に蹴落とすことが可能だからである。

  

同時に、一人一人では力を持たない為に、匿名の不特定多数の市民が、群集心理と相まって、一つの暴徒を形作り、集団によるヒステリックなバッシング、つまり「炎上」なる現象、或いは、「権威を持つ存在には必ず裏があり、我々はその弊害に晒されているのだ」、という嫉みや被害妄想的な感情、思考回路に基づく陰謀論の蔓延に発展する。

 

力のない下位の存在が力のある上位の存在に対して行える最も有効な対抗手段は「訴え」である。

下層を生きる自分達は、上層を生きる彼等に従うしかない、故に我々は、上位存在に抑圧され、虐げられ、無下にされているのだと、そう訴えることで、自己の存在、無力を正当化、優位化させようとする。

  

彼等は自分達を積極的に弱者化、被害者化させる。被害者は加害者に対して社会的に上位である。相手に対して受け身の形を取りながら、相手に劣っていながら優位に回れるのは、相手を加害者化させ、己を被害者化させることである。

  

ネット住民達は自分達を常に被抑圧者側、被害者側、マイノリティ側の存在として積極的に維持、アピールすることによって、自己責任の追及を回避しようとする。

  

彼等は弱者という言葉の中に「不当に虐げられている者」という意味付けをし、強者という言葉の中に「不当な利益を得ている者」という意味付けをする。

  

「虐げられている者」と「虐げている者」という構図を作ることによって、劣位側の訴え、つまり、ネット的な価値観や思想は信憑性を増し、勢力を広めていくようになる。

  

 被害者、被差別者であることと、善人、賢者であることは無関係であるのに、彼らはその両項を混同し、「抑圧されている我々の価値観は正しいのだ」、という反動的価値評価を行う。

  

そうして、自分達を常に虐げられている被害者として考える彼等は、上位存在の生み出す不当性、不条理性、不法性なるものをアピールする為に、被害妄想的、自己中心的な陰謀論を繰り出すようになる。

  

また、優越願望の強いネット住民にとって、世の中の裏側に気付いている、真実を見抜いている、ということ自体が、自尊心を満たし、他を嘲笑するという、一つのステータスとして機能し、防護壁を築くことへと繋がる為に、「彼等は騙されているが自分は騙されない」、というような自意識、特権意識を助長し、そうしてその様な陰謀論の主張を見掛ける側、受信する側も、多数派への無条件の降伏、仲間入りを目指そうとする安易な集団意識、同化意識によって、軽々しく信じ込んでしまう。

 

また、市民側による自由な発信装置の誕生によって、インターネットという世界が、今まで見えなかった権力者達の横暴を暴き出し、監視するという意味合いを与えられ、弱者による悪しき権力への反抗という役割として認識され、その結果、非市民存在に対する攻撃的思想、偏向的妄想が真実として支持されやすくなる。

 

そうして、不特定多数の匿名的存在による興味本位の噂話や野次馬的な心理も相まって、それが数珠つなぎのように爆発的に広まり、結果、あたかも当然の事実かのような、誰もが了解しているものという決定事項として根付いてしまう。

 

ルサンチマンに支配された者は、自分が常に劣位の立場、受け身の立場、弱い立場に置かれている為、人間を主体的存在ではなく受動的存在であると捉える。それゆえ人間は生まれ持った自らの積極的な意志や思想、性情に従って生きるものではなく、下位者の人間性や行動は全て上位者の力によって強制的に形成されるものと考える。結果、彼等は「洗脳」という言葉を使って力を持つ人々を攻撃するようになる。

  

三 反体制的発想

  

ネット住民達はインターネットに一つの対権力装置、権力監視システムとしての役割を担わせようとした。

 

それは、ネットメディアが世の中全体に向かって発信し、大衆に呼び掛けることが出来るほどの幅広い権利を持つものでありながら、その発信者が、社会的に公的、組織的な存在、高位の立場であるという資格が必要なく、権力とは無縁に媒体を構築することが可能だからである。

  

それは政府、行政、マスメディア、企業、教育機関、つまり、社会における巨大なもの、権力的なもの、上層的なもの、組織的なもの、公的なもの、非市民的なものに対する、市民側からの唯一の自由な発信装置であった。

 

必然的にネット界は反権力、嫌体制的な表現で覆い尽くされるようになり、本来、権力や体制というのはそれ自体に善悪が付きまとうものではなく、ただその対象の職業的地位、社会的役割、置かれている状況、結果を指し示すに過ぎないが、弱者思想、敗北思想に駆られた人間は、権力的、体制的な立場にあるというだけで=悪と見なすような固定型の反権力思考に陥る。

 

ネットの普及に並行するように加速していった社会全体の凋落によって、社会形成への強い影響力を持つ公的存在、社会的上層への批判意識をさらに強めるようになり、「被害者である我々」としての一般市民が自由に主張を行うネットメディアに広まる言論は、さらに影響力を強めていくこととなる。

  

体制批判的な思考は、「巨大機構は決して市民の姿、市民のレベルを反映しない」、という発想に基づくものである。

 

即ち、政府は国民の思想を反映しない。マスコミの報道は市民感覚に基づかない。メディアは世間の需要に応えない。企業は労働者の能力を生かせない。

  

この様に、市民と非市民の間に、距離、乖離、力関係を想定することによって、社会全体の衰退は、社会的権力を持つ側が全面的に悪く、市民側は何も悪くない、という主張の裏付けを得ようとする。

  

下位的存在から上位的存在に対し似非権力、架空権力を付与することによって、自分達は上位からの横暴な力によって虐げられているのだと訴えることが可能になる。

  

有能な市民を扱えない無能な非市民、という構図を作り出すことによって市民は責任を回避できる。

  

特に封建的な上下関係の強い文化の場合、下位の自由は上位の者に預けられる代わりに、下位の責任もまた上位の者に吸収されやすくなる。それによって、下位の過失によって全体に生じたマイナスや損失は飽くまで上位の者の責任として処理され、それが余計に批判の矛先を権力的地位へと向かわせることとなる。

 

また、風通しの悪い、流動性のない、固定化された社会構造、文化構造であると、当然、その人間の実力に応じた職、待遇、対価を得ることは難しくなり、社会制度、社会文化を形作る上層機構への反発は強まることとなる。

 

 この様な様々な敗者の論理がネット内に蔓延し、ネットメディアの社会的地位が向上するにつれ、現実世界への影響力も高まり、社会はマイナスの連鎖、負のスパイラルへと陥っていくこととなる。


第三章 インターネットとマスメディア

 

第三章 インターネットとマスメディア

 

一 テレビフォビア

 

インターネットが市民中心の発信によって成り立つメディアである以上、ネットメディアの情報システム的な新しさ、先進性への認識、或いは自分達の活動の場であるネット界の地位向上運動などにより、既存メディアに対する風当たり、反感は強くなる。

 

社会文化を映し出す巨大な鏡であるマスメディアは、国家意識、社会意識の強い人間にとって、非常に重大なもの、核となるもの、世の中を形成するものとして存在し、それだけに厳格な、繊細な、神経質な、感情的な、妄執的な態度をもって監視される。

 

 彼らは、自分達の特殊な価値観――ネット的価値が、如何に真実を、優秀さを物語っているかを誇示せんがために、自分達を抑圧された存在と仮定し、その対立項としてマスメディアを要請し、結果、マスメディアへの徹底したネガティブキャンペーンが繰り広げられた。

 

特に最も巨大なマスメディアであるテレビメディアに対してはヒステリックな執着が加えられる。

 

負け組対勝ち組、ネット空間対非ネット空間、マイノリティ対マジョリティ、市民対権力など、上流に対する下流という様々な対立構図において、テレビは最も敵対するものの象徴としてやり玉に挙げられる。

 

外世界に対する敵対意識、恨み、嫉妬、優越願望、支配欲によって、ネットと非ネットという二元構造が生み出され、それをより強固なものとする為の仮想敵としてテレビ批判が要請され、様々なヒステリックな批判が行われる。

 

ネットメディアの賞賛、称揚、地位向上という運動の中で、最も巨大なマスメディアであるテレビが標的にされ、テレビをこき下ろすことによって、対比的にネット=素晴らしいという図式が作られ、テレビ界はルサンチマン的行動の受け口となる。

 

テレビヒステリー、テレビフォビアというのは一種の干渉主義、自己中心的発想であり、国家、社会、世の中全体に対する意識が極度に強い者は、己の価値観にそぐわぬものがメディアを通して発信されることを受け入れられないのである。例えば彼等に「嫌いな番組は見ない」という選択肢はなく、「嫌いな番組はこの世から消滅しなければならない」という思考に陥る。世の中の多くの人が共有する、社会を捉えるメディアにおいて、己自身の思想、価値観に反するものが流されることに耐えられないのである。

それは言わば親が子供を思い通りの人間に形成したいが為に、学校教育に過度に入り込んで、ヒステリックな主張を行うのと同じようなもので、それを客観的意見であると、正義であると思い込むのである。

 

ネット至上主義者達は、寄生虫のように徹底的に執着し、嫌い嫌いと言いながらストーカーのように夢中になり、事ある毎にテレビヒステリーを引き起こし、テレビ界に関することをあれこれあげつらい、揚げ足を取り、邪推し、悪意を持って監視し、意図的な解釈を加え、作為的な伝え方をし、陰謀論を広め、やれ悪影響だとか、偏向的だとか、下品だとか、暴力的だとか、何かにつけて騒ぎ立てており、いつしかテレビ批判はいじめや差別の領域にまで達してしまっている。

 

テレビやラジオなどで放送される番組の企画や有名人の発言行動などを、動画サイトや掲示板、ニュースサイトなどで取り上げ、大げさに盛り立てることによって、たわいもないことを故意に事件化、ニュース化させ、まるで大事であるかのように広める。誰が見てもどうでもいい普通のことであっても、何者かによって一種のハプニング的、事件的な扱いを受けた時点で、悪いイメージが付きまとってしまう。その様な悪意のある、身勝手な、恣意的な事件化、ニュース化、ハプニング化が増えることによって、過度な自粛、自主規制の傾向が強まってしまう。

 

一部の変わった人々が何かを炎上化させることによって、大衆にそれが社会悪であると思い込ませると、作り手のみならず視聴者同士までもがギクシャクし、ハラハラしながら番組を見るようになってしまう。

 

存在しない過度な倫理基準を勝手に設けて、まるで大事をしたかの如く取り上げることで、世の中的に悪いことなのだという認識を広めさせることが出来、するといつしか、存在しない被害者、架空被害者が生まれる事態に陥り、殆どの人が本来何とも思わないはずのものでも、何となく駄目なんじゃないか、どこかに怒る人がいるのではないか、という空気で満たされ、勝手にお互いに問題視してしまう。

 

そうやって彼等はとことんテレビを規制の方向へと持っていきながら、多様な表現を奪った挙げ句、テレビはつまらない、同じ事ばかり、言論の自由がない、多様性に欠ける、などとぬかすのである。

 

過去のマスメディアにおいて非倫理的に見られるような表現や行為も、それ自体が時代全体、国全体のレベルの低さを反映している可能性を考慮せず、まるで市民はいつの時代も善人で倫理的で被害者側であると語るべきではない。マスメディアの愚かさを広める為に、面白がって過去の映像なんかも掘り出して叩く材料にするが、時代性というものが全く無視されており、何よりまず前提として世の中全体の倫理基準の差異を考慮すべきであるし、特にマスメディアは情報媒体であるが故に記録として残りやすいという点も見逃してはならない(勝手に挙げられた下品な動画を見て下品だと批判するくせに、下品なタイトルに釣られてその動画をクリックする自分への反省は全くないのだ。コメント欄に批判的な内容を書き込みながらも、その動画をちゃっかり鑑賞し、驚異的な再生回数に加担すること、その卑しさ、汚らしさ、気味の悪さ、偏執性……)。

 

それらテレビメディアに向けられる様々な批判群が、実はネットメディア自身が最も抱えている問題であることに彼等は気付いていない。未来のネットユーザーによって我々の生きる時代のネット界の無法ぶりは叩かれているに決まっている。

 

ネット原理主義者達は、テレビ―ネットの関係を、抑圧者―被抑圧者、マジョリティ―マイノリティという構図に仕立て上げることによって、ネットにも十分当てはまるメディア的欠陥、批判点を退け、メディアとしての責任を放棄しようとするのである。

 

情報メディア界において、ネットは元々部外者でしかなかったから、蚊帳の外から野次馬的に、優雅に、幾らでもマスメディアを攻撃できた。つまり、これまでインターネットは実質的にメディアではなかったのである。しかし、ネット世界が社会化、中心化することによって、ネット自体にマスメディア的な責任が与えられ、今度は逆に、今までマスメディアに対して向けていた非難が自分自身に向けられてしまうのである。

 

一体ネットというメディアが今まで、そして今現在、どれだけ多くの悪行を生み出し、罪なき人々が葬られてきただろうか。ネットの社会的影響力が高まれば当然それ相応のルールやマナー、責任というものが必要になるのに、自由の拡大ばかりが先行し、公衆に対する発信者としての自覚はいつまで経っても根付かない。

 

当事者の気持ちを無視した誹謗中傷、社会的評価を損ないかねない噂話、審査検閲が形骸化しているアダルトサイト及びコンテンツの横行、著作権の慢性的な侵害、これら現実空間及びマスメディアにおいては即座に糾弾されるような非行が、ネット空間においては「そういうもの」として基本化されてしまっている。

ネットメディアにおける悪行はあまりに膨大で日常的である為に、そもそも問題として浮き上がりづらくなっているだけなのだ。

 

ネットによって真実が見えるようになったというが、ネットによってどれだけ多くの嘘が流されただろうか、そうしてそれによってどれだけの被害をもたらしただろうか、しかしその点には全くの無反省で、一面的にネットは真実を見せるという。

マスメディアにおいて少しでも嘘があればすぐに袋叩きにされる。しかしネットの嘘情報による被害は、大規模にならない限り、いやなったところで事件としてさえ扱われないことが多い。発信者が一般市民、個人の集まりに過ぎないために、批判を行っても意義を感じられず、またあまりに嘘の情報が有象無象ありすぎるからだ。

 

メディアに流されるなという言説、警鐘を度々目にするが、その中になぜかネットというメディアを含めていないことが多い。ネットメディアほど、世論を操作しようと、私的な思想、価値観を広めようとする人々で溢れているメディアは存在しないというのに。メディアに流されるな、信じるな、騙されるな、という人々が、実は最もネットというメディアに流され、騙されていることに気付いていないのである。

 

二 寄生メディア

 

インターネットというものは結局、未だに寄生中のようなメディアでしかなく、「既成」のメディアに対する「寄生」によって成り立っている。現代のインターネットは他のメディアから発信された情報やコンテンツを流用することによって支えられているに過ぎないのが現状である。

 

いま人々に当然のように利用されている動画投稿サイトも、結局は著作権を侵害することで利益を上げ、私腹を肥やし、巨大化してきたに過ぎず、もしも初めから著作権に対する厳正な審査、規制、罰則が存在し、アップロード者オリジナルの動画以外投稿不可能であったら、動画投稿サイトなど誰も利用しなかったに決まっているし、話題のオリジナル動画が増えた今でさえ、利用者は壊滅的に減少するだろう。もしもこれまで著作権侵害によってサイト側あるいはユーザー側が得た利益を換算するならば途轍もない数字を叩き出すに違いない。

挙げ句の果てに、動画投稿サイトに他人の著作物が平気で上がっているのを、まるで当たり前のことのように認識され、ネット文化独自の正当な功績、産物、所有物のように語られている。

  

これはコンテンツのみならず、情報という点でも同じことだ。結局マスメディアによって発信された多くの情報をネット上に流用しているにもかかわらず、マスメディアを散々攻撃し、ネットの方が面白い、レベルが高いなどと言い、そうしてさらには、例えばテレビが書籍や新聞から情報を引用する際は何も言われないのに、ネットの記事や動画を(許可を得た上で)引用する際は、ネットに頼っているなどと理由にならないことを言って、集団的なバッシングを浴びせるのである。

 

三 インターネットの低質性

 

誰にでも自由に発信できる、という、ネットメディアをネットメディアたらしめるその特性こそが、正にネットメディアの低質性を形作る。 

 

ネットメディアを通した発信には、質的な審査、検閲というものが必要ないため、どんなに低劣愚劣な書き込みやコンテンツであっても容易にネット上へと発信することが可能になってしまい、また、匿名という性質によって、自己表現における責任感が失われ、軽薄な発信を行ってしまう。

 

その上、愚か者ほど声が大きい、というのが世の常であって、もともと自己顕示欲、自己主張欲の強い人間は、思想的価値観的レベルが低い者が多い傾向にあり、特に、極端にねじ曲った、偏執的な思想、感覚を持った人間ほど、ヒステリックに騒ぎ立てやすく、結果、ネット全体が低俗な価値観で覆い尽くされることになる。

 

非ネットメディアにおいて伝達の容量は有限的なものであるため、それを通して発信されるものは、何らかの審査を通してふるいに掛けられた、選ばれた情報のみであり、発信者側も一応それを仕事として専門的に行っている者達だが、しかし、ネットメディアの情報発信量は無限的で、何のふるいにも掛けられず、無分別に行き交うことになる。もしもそこにふるいというものがあるとすれば、他でもない不特定多数のネットユーザーによる評価そのものであるが、所詮ネットユーザーなど素人の集まりに過ぎず、真に才能ある者、真に優れた作品を不特定多数のユーザーが捜し当てれるとは言い難い。

 

当然、優れた才能を持った人間の中心的な活動は、規模が大きく利益の発生しやすいマスメディアへと流れやすい。となれば必然的に、才知の欠けた世の中に認められない人間は、発信の自由が約束されたネット空間に活動の軸を求めるようになる。

 

中にはどのマスメディア、プロの業界にも引っかからなかった才人もいるだろう。しかし、それは砂漠に埋もれた一粒のダイヤ程度に過ぎないほど極々一部なのであって、結局は数多の凡人の中に埋もれて見えなくなってしまうのだ。

 

簡単な話である。インターネットというのは一般市民によって形作られる、そうして一般市民とは結局のところ特に人より優れたところがない者の集まりである、そんな人々が率先して形作る世界がレベルの高いもののはずがない。

 

誰でも何でもどこへでも発信できる、だからインターネットはとても広い世界なのだ、とそう思うか知れない。しかし、誰でも何でもどこからでも発信されてしまうからこそ、有象無象、魑魅魍魎うごめく、数多の情報、数多の空間の中の一つにしかならない。故にネットは非常に狭い世界なのである。

 

情報の多様化、自由化とは、結局、質の悪いものがたくさん流れ込んでくる、という事なのだ。中には質の良いものもあるだろう、しかしそんなものは他の雑多な質の悪いものに埋もれてしまうし、ユーザーがそれを見抜けるわけでもない。極一部だけを見てるだけだ、という批判もあるだろう、しかし、その極一部、という低俗な伝達物が、どうして色々なサイトの検索結果で上位に出てくるのか。それは結局ネットユーザーがその様なレベルであることを表しているのではないか。

 

愚かな人間がインターネットを使っても、愚かな情報を発信し、愚かな情報を受信するだけである。

 

四 インターネットの不公平性

 

ネット界における文化的、価値観的独自性は、ネットメディアの不公平性によって確立される。

 

我々は何よりもまず、インターネット界への積極的参加者達には、明らかな思想的、価値観的偏りの傾向が存在する、という前提の認識から始めなければならない。

 

ネットユーザー=一般市民という方式は明らかに誤りであり、ネットユーザーとは言わば似非市民なのである。

 

ネットにおける不平等性を形作る最も大きな要因は、インターネットという道具を利用する頻度の高い者達に、明らかな内面的関連性が見えてしまうということである。

 

インターネット、というのは、市民が自由に情報物を発受できるメディア、という形式的機能のみを指し示すものでなければならないのに、インターネット、という言葉の中に、ある特定の世界観や価値観、内容的イメージまでをも想起させるような意味合いが含まれてしまっており、これは明らかに、ネット界が特殊な人々によって偏向的な構成をされてしまっていることを表す。

 

基本的にメディアは二つの原理によって公平性を保とうする力がもたらされる。一つは、利潤追求の為により多くの人々に受け入れられるものを発信し、多数派の価値観に沿おうとする商業的、市場原理的理由。もう一つは、世の中の実相を伝えるものという社会的役割としての、自主的あるいは外的な拘束力。

 

しかし、ネットというメディアは一般市民主体の情報発信装置であるため、商業的効力あるいは社会義務的な効力が適用されにくく、全体のバランスを考慮せず己の思うままに発信されてしまっており、それが真に一般市民の平均的な価値の集合体ならまだしも、ネット界を支配するのは偏りを持った似非市民なのだから、公平性は保たれない。商業主義が質の低下を生むとは限らないし、権力からの離脱が公平性を生むとも限らないのである(商業性、営利性がなければ公平性が保たれるというのが嘘であることを、社会主義国家や、スポンサー制度を取らない一部のメディアが証明してしまっている)。

 

つまり、マスメディアが「義務」を抱えているのに対し、ネットメディアは飽くまで「権利」である。故にマスメディアの場合は出来るだけ公正且つ客観的、多数派的な価値観、意思を汲まなければならないという制約が働くが、インターネットは義務的平等ではなく、権利的平等であるため、主張したい人間だけが己の意志の下に勝手に主張すれば良いとなる。そもそも客観的、公平的である必要性が存在しないからである。

 

即ち、インターネット界に往々にして見受けられる、様々な分野における偏向性、特殊性は、ネットにおける発信が主体的、自発的、能動的であるという、正にそのネットメディア特有のシステムに起因するのである。

 

皮肉にも、マスメディアを受動的であるが故に偏向性が強いと批判し、それに対してインターネットは主体的メディアであると称揚した、正にその一見優位に見える情報システムの特性こそが、ネットメディアの偏向性を形作る最大の要因となるのである。

 

例えば統計で考えた場合、一般的な統計調査の対象者は、市民の中から無作為に選ばれた受動的な回答者であることが多いが、ネットの場合は逆である。つまり、自らの能動的な意志によって、主体的、自主的に調査対象者として参加し、それが集まった結果が統計として表される。しかし、能動的な参加というのは、基本的にそこに何か特別な意図、動機、偏った感情の下に生じるものであり、必然的に、現実における実数とは異なる、偏向的な結果を生じさせることとなる。

 

不特定多数の市民による自発的な発信という特性を持つ以上、このような、事実とのずれ、現実との乖離、特殊な偏りは、ネット界における様々な世界、文化の形成に見られてしまうものなのである。

 

インターネットは発信者の主体性、能動性によって不公平性を形作る。マスメディアがネットメディアよりも公平なのは、マスメディアが市民にとって受動的だからであり、ネットメディアがマスメディアよりも偏向的なのは、ネットメディアが市民にとって主体的だからである。

  

即ち、インターネットは最も偏向的なメディアである。

 

実はネット以外のメディアの方が市民感覚を表現しており、逆にインターネットほど市民を無視したメディアはなく、ネット住民ほど市民感覚に乏しいものはない。

 

インターネットの民主性、公平性というのは幻想に過ぎない。

 

五 報道フォビア

 

ネットメディアの台頭によって、市民側からも発信が可能になったことから、これまで一方的な語り手であった報道、マスコミに対する、受信者側からの返答、反応、意見が活発に繰り出されるようになった。

 

発信が一極集中でなくなったことから、報道機関に対する批判的言論も容易に繰り出しやすくなり、ネットユーザーのみならず、例えば報道番組のコメンテーターなども安易に報道批判を口にすることが増えた。

 

そうしてネットイズム的な権力批判、被抑圧者の訴えという流れに乗ることにより、いつしかマスコミ批判は一種の流行と化した。何かにつけてマスコミが悪いと繰り出すことが即座に正義であると、正当なものであるという解釈へ繋がり、報道責任論を繰り出すことが知性や先進性、自立性を表すステータスとなり、優れたネットユーザーとしての共通認識、合い言葉、前提条件のような意味合いを持ち始めた。

 

マスコミ悪い論の最も悪質かつ厄介な点は、そのような意見が反論を寄せ付けにくいという点にある。

報道という影響力の強い巨大な機関に対する批判は、安易に流されない人間、奥を見抜ける人間という解釈を生み出し、それによって報道への問題定義は、賢明で客観的、勇敢な意見に見えてしまい、軽々に多用されてしまう。

 

マスコミの情報を無批判無条件に受け入れるな、というのが彼等の主張だが、逆にマスコミに対する批判的言論は無精査に広まってしまう。

 

つまり、報道批判は、言ったもん勝ち、なのである。

 

彼らの間では、マスコミは悪しき権力の象徴である為、マスコミ批判に対して逆に反論すると、報道批判に対してなんてことをいうのだ、権力に立ち向かう勇気ある者を否定するのか、というような、悪に対する正義、強者に対する弱者、差別者に対する被差別者、というネット至上主義的な二項対立、下位存在的な思考回路、善悪二元論的発想によって語られてしまうのである。

 

報道批判をすれば、無批判無反省にそれが正義となり、報道擁護論を発すれば、真実を見抜けない、洗脳された、騙されている、愚かな、体制派の人間というレッテルを貼られる。むしろマスコミ擁護論を繰り出す方が勇気のいることになってしまっている。

 

本当にマスコミが悪かったか? 本当に報道の仕方に問題があったか? それがマスコミの独断であったか? 本当にマスコミだけに限った見方だったのか? 市民もまた同じ感覚を持っていたのではないのか? それを支持し、それを面白がっていなかったか? 置かれている立場や役割を無視してないか? 単に結果論的な批判じゃないのか? よく考えればどうでもいいことじゃないのか?

その様な検証、吟味は行われず、即座に報道批判論は正当な意見として受け取られてしまう。

 

ネット住民達の偏向的なものの見方によって、マスコミは「偏向的」というレッテルを貼られ、まるで実際に過った報道をしたかのようにネット上で「偏向的」に伝えられ、広められ、そうしてその様な風潮に無意識に付き従おうとする人間が現れる。自分の目でしっかり確かめようとしない人間は、ネット上でその様な炎上的ニュースの見出しを目にしただけで、またマスコミが何か悪いことをしたのだと安易に受け取ってしまう。これこそ正に権力や強者に飲まれる典型的な形であり、彼等が度々唱える、メディアによる洗脳、悪影響の構造なのである。

 

マスメディアに対する「偏向的」という批判意見の散乱は、ネットメディア自身の偏向性を表しているに過ぎないのである。彼等の偏向的な視点を通せば世界は全て歪んで見えるのだ。

 

インターネットは構造上、情報操作が当たり前のものとして存在する。それを明確に規制するもの、真偽を判断するものがなく、匿名であるが故に同一人物によって幅広く可能であり、責任の所在も曖昧であり、なおかつ一般市民の取り扱うメディアという特性上、それが客観的な、民主的な意見であると思われやすい。

 

報道の恩恵を受け、心の中で面白がり、楽しみ、興味を持ってみていたくせに、それを無視して、蚊帳の外から都合良く批判し、自分達の鑑賞態度には何の反省も持たないのだ。

 

六 報道批判の構造

 

国家形成、社会形成への関心の強さはマスメディアの監視へと繋がり、それが政治性、社会性を持つもの、時事を世の中へ伝達するもの、即ち報道機関となるとさらに厳しい意識をもって見られる。

 

それがどのような思想の表れ、持ち主、支持者であっても、マスメディアに対する過度な批判的態度という点においては一致している。愛国的であろうと嫌国的であろうと、国家に対する強い関心は変わらない為に、右派左派関係なく、政治意識、社会意識、国家意識の強い人達には、必ずメディア批判、報道否定的な言論というのが散見される。

 

社会意識の強さは、同時に干渉主義、全体主義を生み出し、自分の価値観、思想と、国民全体とのそれに相違が存在するのを受け入れられない。国民と自分、国家と自分は一体でなければならないという欲求が存在するからだ。

同時に彼等は、国家というものを、何より重要、重大で、深刻なもの、巨大なものであると考えるために、国家形成の動きの中には、必ず何か独善的な「強い力」が存在していると考える。それは彼等自身が国家形成に対する独善性を抱えているからである。

 

結果、報道機関を通した時事の伝えられ方に、自分自身の見解とずれが生じると、それは決して市民の平均的価値観が表出したものではなく、マスコミの独断的な、主観的な、作為的な思想の表れに過ぎないという解釈をし、それを示す根拠として、陰謀論、洗脳論、情報操作論が繰り出される。

 

結局、陰謀論であろうと洗脳論であろうと、受け手側の価値観に沿うかどうかによって発生の有無が変わってくる。彼等は自分以外の価値観を信じられない。自分以外の価値観は全て嘘で、作り物で、騙されているのだ、という発想に至り、それは報道に限らず、世の中のあらゆる決定、判断は、民主主義的な方法ではなく、その上位に存在する者の、独断、作為、陰謀、権力行使によってもたらされるのだと考える。

 

自分の納得のいくような動きになればそれは正当で客観的な結果であり、自分の納得のいかないような形になれば、それは全て力を持つ人間による独断であると言う。これこそ典型的な負け犬型、ルサンチマン型の思考回路である。

 

自分と同じ意見が見受けられなければそれは言論弾圧、言論規制だと言い、自分と違う意見が見受けられればそれは問題発言として炎上化させる。

そもそも言論の自由などというものは法的なレベルでの話で、一つの相対的な尺度に過ぎず、現実にはどのような場所でもその時々のマナーや空気、コンセプト、流れ、というコミュニケーション上のルール、倫理というものは存在するのだから、言論に自粛を求められるのは当然である。

もしも言論の多様化、自由化を推し進めれば、それはそれで、テレビで何てことを言うのだ、メディアとしてのマナーを守れ、だのなんだのとクレームを寄越すに決まっている。

 

意見が一方的だという主張も、結局は自分自身の見解が述べられているかどうかを基準にしているユーザーがほとんどであるし、何より、多様な言論を封じ込めるような空気を形成してしまう国民性にも問題があろう。 

 

ニュースの着眼点が低俗だというが、そもそも人々にとってニュースとは何であるか? それは国の政策や経済の動き、外交問題など、国民、国家全体に直接関わる難しい問題だけなのか? 実際のところ、多くの人々にとって関心があるのは、有名人の噂やプライバシーであったり、殺人事件の背景であったり、視覚的に面白い映像であったりと、芸能週刊誌的な情報であり、元々ニュースというものを野次馬的、娯楽的な目線でしか見ていない者ばかりである。それが彼等の日常生活における「重要なニュース」なのだ。社会全体に関わる真面目な情報のみが真のニュースだと思うのは、マスコミ批判者側の偏りに過ぎない。政治経済のニュースに特別関心があるからといって高尚なわけでもないのだ。

 

彼等は自分自身の価値観に固執し、最も客観性を持てないからこそ、外の世界に対して、客観性がないと批判するのである。

 

彼等は報道、マスメディア、権力機構の決定に対し、その奥に潜む一般市民の価値観、国民性の存在を忘れている。

 

例えば会社や教育における年齢偏重を批判したって、国全体の基本文化として年功序列があるのだから、制度面のみを批判したってしょうがない。その根本に潜む、より大きな基盤を見なければならない。 

 

 世論を汲もうとしたところで本当に世論を反映しているとは限らない、と彼等は言う。確かにその通りだ。しかし、世論とは、なんだ? 民意とは、どこにあるのか? インターネットに溢れているものが世論と言えるのか? 全ての国民がネットで発信を行っているとでも言うのか? 結局は自発的な個人の集まりに過ぎないではないか。彼等が国民の平均価値を表していると言えるのか? ネットのニュースサイトがマスメディアより世論を反映してるという根拠は? ネットで活動する人々が、マスメディアで活動する人々より、公平性に対する責任感や使命感を背負っているとなぜ言える? 

 

出来事を世の中に伝える役割を担う人々というのは必ず必要になる。既存メディアではない人間が動いたら、どうして客観的で、道徳的で、高尚なものになると言えるのか?

 

インターネットであれ十分な活動を行う為には結局マスメディア的な構造を形作ることになる。彼等は影響力のない立場だからこそ自由気ままな行動を取り、好き勝手なことが言えるだけで、いざ自分達が社会的に巨大なものへと発展すれば、問題点だらけなのである。

 

 ネットジャーナリズムなど、自分は真実を伝えているのだと自惚れているだけ、得意げになっているだけだ。

 

マスコミ批判者の言葉に従った形の報道の仕方へと切り替えたところで、それを大多数の視聴者が受け入れられるかは別である。一般視聴者からの支持を得られず、別の層からクレームを招き、さらにたくさんの批判者を生み出すことになれば、結局は多数派の価値観に従って、一般市民が求める形に戻すしかないだろう。となればやはり、批判すべき対象は市民ではないか。

 

彼等にとっては、市民感覚に基づいた報道をしても、それが自分と一致していれば問題なく、ずれていればマスコミの独善的な偏向報道となる。

即ち、大抵のマスコミ批判は、批判者側の市民感覚の欠如によるものである。何も市民との感覚がずれていることが悪いわけではない。ただ、報道機関の最終的な権力者たる市民の存在を無視して、伝達の媒体そのものに全責任を押し付けるのはいかがなものか。

 

報道批判者は業界の裏側ばかりに目が行って、一般的な受信者の価値観や文化、国民性を理解できていないのだ。 

 

権力機構の根本を支えているのは、組織という権力者ではない。一般市民という権力者である。全ての基盤に存在する「国民性」というものを無視した権力批判はあってはいけない。報道の原理は基本的に「無難」であり、視聴者のお口に合うような作り方へと流れるように出来ている。

 

構造的な問題や偏向性、しがらみが存在しないと言いたいのではない。ただ報道の抱える問題点は結局、ネットメディア或いは世の中全体が抱える問題と変わりはなく、国民のレベル、文化を反映しているに過ぎないというだけである。単に己の思想が反映されなかったという感情的動機から、まるで世の中で特別マスコミのみが低レベルであるかのように言うべきではない。

同時に、受信する側は必ず被害者側であり、間接的な加害者にはならないかのように言うべきではない。

  

マスコミは真実を報道しないという。一体真実とは何なのか。それも結局は個人の主観に過ぎないのではないか。どんな伝達であれ真の客観性などというものはないのだ。もしも民主性こそが最大の構成原理なのであれば、たとえそれが虚構としか思えなくても、民意に従った以上、真実というべきではないか。

もしもマスコミに彼等の言う「真実」なるものを報道せよと言うのであれば、それはある種、マスコミが市民感覚を無視することを、世間を誘導することを認めているようなものではないか。

 

市民とマスメディアが乖離しているのではなく、ひとえに市民とネット住民との乖離である。

 

結局、報道批判というのは大抵、私的な理想論の域を出るものではない。報道という一部分だけを見て、世の中全体の文化や価値観を見ず、伝達メディアとしてのシステムや立場的な限界というものを無視している。どれだけ構造的、制度的な変革を求めても、全ての人々に共通する客観性など不可能で、結局は受信者側の意識に改善を求める方が現実的である(ネット界に限らず、様々な分野において報道批判、メディア批判が隆盛を極め、絶対的言説と見なされてしまっている現代において、報道批判というものが如何に欺瞞性、偽善性、利己性、矛盾に満ちているかということを、我々は一刻も早く暴露しなければならないが、それを行うにはあまりに分量が多くなりすぎるし、本来の趣旨からは些かずれてしまうため、別の機会に論述されるだろう。報道批判は、報道側の体質的問題ではなく、批判者側の心理的問題である可能性を持っているにもかかわらず、その点に関しては殆ど追及されていないのが現状である。実は、報道に対して行われてきた典型的な批判内容が、報道批判者側へと映ったに過ぎないのだ)。

 

ネットを基準に批判されても、そもそも媒体的構造や社会的立場が違うのだから意味がない。欧米の教育法をいきなり持ち込んでも、文化が違うのだから子供達が急に対応できるわけがないのと同じだ。インターネットで出来ることを既存メディアに求めるのは間違っている。別物として考えるべきだ。

 

どちらにしろ、インターネットでも非常に影響力の強いサイトであれば、マスメディアと同じような構造を形作ってしまい、ただ既存メディアが為していたものがネット上へ移動したというだけであって、それで中身が優れたものになるわけではなく、当然マスメディア的な問題もついて回る。 

マスメディアというのは実態ではなく単なる社会的役割であり、たとえ現存するマスメディアがこの世からなくなっても、別の空間に新たな「マスメディア」が生まれるだけである。それが国民の要望だからだ。

そこにあるのはネットメディア対マスメディアではなく、ネットメディア対ネットメディアという構造である。ウェブサイト対ウェブサイト、ネットユーザー対ネットユーザーである。

 

七 情報受信の主体性

 

インターネットは情報受信という点においても他のメディアより主体的な態度でいれるという。例えばテレビを取ってみれば、限られた時間の中で限られたチャンネルの中から選択しなければならず、またリモコンのスイッチを一つ入れればそれだけで自動的に何らかの情報が垂れ流しの状態になってしまう。かたやネットの場合は、無限に近い情報の中から己が知りたい情報を検索することで自由に対象へと接近することが出来る、そういう点において、ネットは非ネットメディアよりも主体的受信性に富むという。

 

本当にそうだろうか? 本当に主体的であると、能動的であると言えるだろうか? 例えばネット検索を始めるときに、全ての人間が明確な意志、目的を持って望んでいるか? 目の前にある全ての情報が自分にとって真に知りたい有益な情報であると言えるか? 確固たる目的を持って、とある個別の事柄に向かって情報を検索する為に、ブラウザを開いたとする。そこには彼の望んだ、欲した、想定した情報だけが並べられているだろうか? 知るつもりもなかった雑多なニュース、ワード、広告、余計な情報が画面一杯に広がっているではないだろうか? それを全く気にせず、意識に取り込まれずに流すことが出来るだろうか? 検索バーにて文字を一つ打ち込んでみる、すると一気に他のユーザー群による人気検索ワードが予測変換として姿を見せ、自分が用意していたワードを打ち込んでも余計な付加ワードが添えられる。そこで自分が元々用意していた言葉のみを検索しても、目的のサイトだけが検索結果に表示されるわけではない。

 

動画を検索しても、無数の関連動画が表示され、動画視聴の迷宮、連鎖から抜け出せなくなり、もともと目的としていた情報以外に関する無用な労力、時間を削ってしまう羽目になる。

 

その上、様々な検索において上位に来るもの、引っかかりやすいものは、偏向的な価値観に染まった一部のネット住民達による粘着質な活動の結果、或いは、面白半分に、愉快犯的に色々なサイトへと拡散され、軽薄な野次馬どもに群がられた下品で低俗なニュースや動画であったりし、その様な、ネット住民達によって様々なサイトに半ば強引に流布された多くの書き込みやコンテンツを目にする内に、一般的なネット利用者もそれに付き従い、流されてしまったり、安易な群衆の形成によって、どうでもいいことが大げさに扱われたり、事件に発展したりする……。

これが本当に主体的であると言えるだろうか?

 

選択、という行為は苦痛を伴う。それはその対象が、選択肢が多ければ多いほどより困難さを帯びる。なぜなら、自由に選択できる、というのは、逆に言えば、膨大な量の中から取捨選択し、自分の求めていた適切な情報を正しく選び取らなければならない、という障壁が伴うからである。大抵のユーザーは情報収集、情報検索における時間的あるいは労力的な限界があり、自分の求めているものをしらみつぶし的に検索し続けるわけにはいかず、結果、利用者はネットの中における影響力の強いサイトや、目に入りやすいページ、他のユーザー群による検索情報に頼ることになるが、それらの情報発信にも発信者達の意思が入っている以上、一つの作為を帯びているのであって、決して既存メディアよりも優れたもの、客観的なものが提供されているわけではない。こうなると結局、マスメディアを利用するのと実質的に殆ど変わらない。 

 

確かに情報の数という点においては他のメディアを圧倒するだろう、しかしそれは同時に厳正な検閲や審査、フィルターを通さぬ玉石混淆で埋め尽くされていることであり、嘘の情報や低俗な意見、愚劣なコンテンツが当然引っかかりやすくなる。

何より、ネットの中の有益な情報やコンテンツの殆どが、結局は他のメディアを通して発信されたものの流用に他ならないのが現状であり、それがネットの手柄のように語られているのである。

 

情報摂取の不足ではなく、情報摂取の過剰が問題となる。つまり、知りたい情報が知れないのではなく、知るつもりのない情報を知らされてしまう。少し冷静になって考えれば、本質的にどうでもいいような情報も、それが目の前に表示され、一度でも意識されると、その情報に吸い込まれ、さらに表示される別の情報にも巻き込まれ、情報摂取の連鎖から逃れられず、それが下らない事を巨大化させたり、無意味な時間と労力を費やすことになったり、肌の合わぬ記事や動画、書き込みなどが目に付いてストレスや不快感をもたらされたりする。そうして終わった後に、ふと我に返って気付くのだ、何て無駄なことをしてたのかと……。

自分自身が本当に知ろうとしているもの以外は知らないようにすること、それが大切なのだ。 

 

非知のすすめ――重要なのは、如何に必要な情報を取り込むかではなく、如何に不要な情報を遮断するかである。

 



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