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前書き

 

   前書き

 

今振り返ると、「認識の論理」ではなく、「思考の論理」と名付けた方が良かった気がする。ここに示されているのは、認識という限定的作用の分析、例えば、脳科学的な意味での対象物への知覚や判断、その物理作用などについて論じられているわけではなく、人間の内的な思考活動における基礎的な法則、世界に対する根本的態度について分析されているからであり、それゆえこの書物では、認識も、判断も、思考も、殆ど同じ意味において使われている。

 では一体、その思考の原理とやらは、具体的にどの様なものなのかと問われれば、次の一文に集約されるだろう。

 

「世界が完全同一状況の不可能性(無限の差異、カオス)で満ちている以上、あらゆる認識(思考)は経験則(帰納と演繹)による便宜的な推論(記号化)の域を出ない」

 

 思考活動の非常に根源的な部分に限定して叙述したかったため、多くの言葉を割いて一つ一つの論証を綿密且つ丁寧に構築していくという体系的手法をとらず、本質的に主張したい事柄のみを命題的に羅列するというアフォリズム式を採用した。そのため、説明不足な点、読者に不親切な点、誤解を招きかねない点、自分自身でさえ不審に感じてしまうような点が僅かながら見られ、同時に、単純に文章の書き手として表現が酷く未熟な点も見られ、哲学書としての品位を損なわせてしまっているが、しかし、全体として主張しようとしている基本的テーマ(右の文)に関しては、誤りはないと確信している(細かい点においては今後の執筆活動の中で修正が見られるかも知れない)。 

 この書物は飽くまで筆者の哲学的基礎であり、今後、本稿で示されている理論が別のテーマを軸に、より細分化、専門化、体系化された形で展開され、それらはこの書物と相互補完的な役割を果たすであろう。そのときこそ、本書で明示された理論の真意を理解出来るかも知れない。

 


第一章 認識の基本構造

 

  第一章 認識の基本構造

 

一 秩序

  

世界は認識者の秩序である。

 

世界は認識者の秩序である為に、世界の秩序に対する超越的な絶対性、正当性を判定することは出来ない。

  

我々はただ、人間は世界に対して先験的に秩序化をもたらすという事実を示し、その根源的な認識構造を暴くことが出来るだけである。

 

 重要なのは、認識者が自己保存活動の為に各々にとっての最良の秩序を世界に見出すということであり、絶対普遍の秩序を見出すことではない。

 

世界に対する互いの秩序が共有、合意されることによって「客観性」という観念が生み出される。

 

 

二 記号 

 

秩序とは、記号化(法則化、理論化)された対象の連鎖である。

 

意識の対象、意識に表れるものの一切(即ち世界)は記号的に機能する。

  

記号、即ち意識の対象とは、主体者が知覚可能な一切であり、我々が想像し得る、想起し得る、考え得る森羅万象の観念である。

 

記号、それはつまり、あらゆる意識の対象が、別の対象、観念、イメージを指示するということである。

 

同時に、秩序化=記号化とは、世界が認識者の必要に応じて便宜的にまとめられることである。

 

「記号化」という言葉は「画一化」のように一般的に悪い印象を含むが、この場合はただ、我々認識者にとって現実を生きる為に必要な、認識の根本的機能という意味でしかなく、善悪の評価はない。認識がもたらす世界の記号化というのは、社会学的、文化論的な相対的意義とは無関係であり、生物として先験的に内在されている機能のことである。

 

そもそも何かを認識するということ自体に記号化作用が内包されており、それを免れた認識というのはあり得ない。認識するということは、他のものと区分化、境界化、差異化し、既に所有している何らかの観念と同一視すること、共通項を見出すことである。

 

ある記号が指示する記号の対象は個人によって異なる。

 

 記号関係の判断に対する他者との一致が、客観性という概念を生む。

 

あらゆる記号と記号の連なりが即ち、世界である。

 

 記号の連鎖、その集積が世界そのものを示すのであれば、当然、記号の外側、世界の外側を認識、思考することは不可能であり、世界の外側を意識した時点で、それは世界の内側と化しており、循環に陥る。それは結局のところ、認識が世界の普遍的真理を確立することではなく、生存の為に法則たらしめるという実用的な道具として与えられていることを示す。

 

一切の意識対象は様々な記号の集積で出来ており、同時にその対象自体もまた一つの記号として機能している。

 

言い換えるなら、記号とは、対象にまつわる「属性」であり、「情報」である。

 

例えば、「リンゴ」、という観念から得られるのは、赤い、とか、丸い、などの、視覚的、形状的な属性(情報)であり、甘い、とか、酸っぱい、などの、味覚的な属性であり、或いは、「林檎」、とか、「りんご」、という文字表記の属性であり、その収穫時期や原産地などの、リンゴに纏わる知識という属性である。

 

つまり、記号とは、「リンゴ」というイメージが意識に与える一切の情報であり、一つの対象から抽出可能な全ての観念である。

 

繰り返すが、その「記号」というのは、客観的、一般的、学術的、文化的に指示するような対象のみを言うのではない。例えば、リンゴという対象に関して、かわいらしさ、だとか、苦手なもの、だとか、友達が好きな食べ物、だとかいったような、個人的な感覚、過去の私的な体験などによって想起される属性もまた、主体者にとってその対象が抱える記号の一つなのであり、それが他者と共有されているかどうかは関係がない。

 

記号の指示性、属性の相関性、情報の意味性は、それ自体が一種の理論として、法則として、秩序として、即ち「命題」としての形式を持つ。

 

例えば、リンゴ、という観念は、「リンゴは、果物である」、とか、「リンゴは、赤い」、とか、「リンゴは、甘酸っぱい」、とか、「リンゴは、『林檎』と表記される」、といったような、複数の主観的命題を形作り、その様な認識自体が、主体者にとっての、対象に関する理論、法則、秩序として存在するのである。

 

 

三 帰納と演繹

  

 記号の指示関係は、経験則、即ち「帰納法」に基づいて形成される。

 

人は、視覚や聴覚、嗅覚、味覚、触覚などの知覚を頼りに、対象物の情報を、直接的、或いは、他者を通じた間接的な方法で取得していくことによって、その法則、秩序を見出し、世界の理論を構築していく。

 

人間が世界と対峙する際の根本的な態度は、帰納と演繹である。帰納とは世界の諸事物、諸事象、諸現象、諸観念に対し、経験による理論を形成することであり、演繹とは帰納によって得られた法則を基に世界に対して判断を加えることである。

 

人間は帰納的判断と演繹的判断を交互に繰り返すことで現実と対峙する。

 

共通の対象からデータを抽出し、法則立てるという意味では、科学的認識も主観的認識も同様である。科学法則はただ主観法則よりも人々にとって厳密性、共有性が高いというだけである。

 

見た目、視覚要素に、一定の共通、類似性を持つものが、目の前に並べられている。それらは筒状であり、一方は空洞で、一方は平面であり、基本的には透明である。大きさにもそれほど差はなく、いつも大体同じ場所に、同じように並べられている。使用の方法や状況も同じである。液体状のものをそこに注ぎ、口へと移す。床に落とすと大きな音を立てて粉々に割れてしまう。人はそれを「コップ」と呼んでいる。

この様な、ある一定の共通項、属性を持つものが、「コップ」という観念でまとめられる。「コップ」という言葉から、コップに関するそれぞれの属性が想起され、記号の繋がりを生む。その外見、手触り、音、使用法、置き場所、呼び名、それぞれの記号がそれぞれの記号に相関性、関連性、指示性を持つようになる。あの見た目、或いは、この手触り、或いは、この音は、「コップ」という観念が所有する諸属性を表すようになる。

 

それら諸属性が、経験的に、帰納的に得られた「コップ」に関する法則であり、秩序である。

我々は幼児の頃に、コップを他者が使う様子、或いは、自分に対して使われる経験を通じて、その用法を、名称を、性質を、素材を、知識を得てきた。飲み物を注ぐもの、とか、落としたら割れる、とか、主にガラスで出来ている、とか、叩いたら響く、とか、コップに纏わる情報、記号、属性を見出してきた。

そうしてそれを演繹の材料とする。あの見た目は、〇〇であろう、とか、この匂いは、〇〇であろう、とか、過去の経験に即して、いま知覚出来ている記号から、別の記号を類推する。例えば物を手に取るときに、我々は自然と演繹を行っている。ある一定の外観を持つものは、ある一定の重量を持つことを想像する。初めて出会う個別のコップを手に取るときに、ある程度の重量を無意識に想定している。もしもこれが実は中に鉄が詰まっているものであったら、その重みに一瞬驚きを感じるだろう。それは我々が帰納法によって抽出したコップの理論、秩序からはずれることだからだ。また、もしもそのコップを握ったとき、とてつもない熱さを感じたとしよう。すると隣のコップに対し多少なりとも慎重さを覚えるだろう。個別のコップに対する一つの経験から、「コップはとても熱い」という理論の可能性が帰納的に構築されるからである。

 

 意識対象の判断は、個人が世界に対して抱いている秩序と照らし合わせることでなされる。

目の前のテーブルに置かれているリンゴは、その形、色、手触り、匂い、味など、知覚によって直接捉えられる属性、或いは、それがそこにあることの必然性――昨日これをテーブルに置いた記憶とか、同居している家族が買ってきた可能性とか、その対象がそこに存在することの妥当性と共に判断される。

その様な、一つの対象を判断する際の、既に意識に与えられている、抱えている、軸となる要素が、主体者にとって「リンゴ」の秩序であり、法則であり、理論であり、記号であり、属性であり、情報なのである。

 

例えば、目の前のリンゴAに対する認識、判断の構造を簡単な三段論法で表した場合、次の様になるだろう。

  

1ある一定の外観を備えたものはリンゴである

2事物Aはある一定の外観を備えている

3事物Aはリンゴである

 

彼は目の前のリンゴをその視覚的な記号の取得により、それがリンゴであること――その重さ、味、触感、匂いなど、まだ得られていない要素を、過去の経験(帰納によって得られた主観的法則)と照らし合わせ、演繹したのである(しかし当然それが事実かどうかは分からない。実際触ってみると、本物そっくりの作り物かも知れない)。

 

即ち、判断(認識)とは、対象に見出される部分的属性から、確定されていない全体像を想像することである。見えている部分から、見えていない部分を類推することである。

  

言い換えれば、判断とは、ある共通項から別の共通項を見出すことである。

一つのリンゴを前にしたとき、過去に扱ってきた多くのリンゴから、見た目という共通項を見出し、これはリンゴであると判断する。そうして対象物に対し、リンゴという観念に抱いている様々な属性を付与し、想定する。

 

コップAとコップBの色々な類似性――円筒形であるとか、透明であるとか、ツルツルしているとか、持つとこがあるとか、棚に並べられているとか、それら対象から取得できる様々な属性、記号を得ることで、コップという観念に対する一般法則を見出す。

 

友人の家に初めて遊びに行った際、友人から「何か適当に飲んで」と言われた私は、冷蔵庫からジュースを取り出し、食器棚からコップを取り出し、それにジュースを注ぎ、飲むであろう。コップに対するその使用法を見て、友人は私に何の疑問も抱かないであろう。しかし私は友人からそれがコップであることを聞かされたわけではない。その置き場所、その見た目から、私は勝手にそれをコップであると――飲み物を注いで飲む為のものであると無意識に仮定、判断し、それに即した行動を取ったに過ぎない。実際に、私がそのコップを握ったとき、私が想定していたもの、即ち「コップ」と同じような手触りであったし、同じような重さであった。 

私はコップという存在に対して抱いている情報――例えば、コップはガラスやプラスチックで出来ており、筒状であり、台所の棚に並べられている、などという情報、法則、理論から、友人の家で初めて目にしたものに対し、それはコップである、という判断を演繹し、使用したのである。

 

記号とは、無数の対象が主観的にまとめられた結果である。例えば、リンゴAとリンゴBは、物質としての差異はあっても、リンゴという果物としてまとめられる。私はこの世の全てのリンゴを見たわけではないが、新しく出会うリンゴをリンゴと判断することが出来る。

 

つまり記号とは、厳密に考えれば類似の範囲を出るものではなく、世界に対して認識者によって主観的に区分化されたものである。

 

ある色を赤と感じたとき、それを専門的に分析すると厳密には赤ではないかもしれないが、我々は同じ赤としてまとめる。なぜなら我々の意識には現に赤色として与えられているし、そう扱っても差し支えないからであり、他の色との差異を見出しているからである。

 

類似と同一には明確な区分がなく、量を越えるものではない。ただ認識者にとって感情が強いか弱いかの問題である。同じと判断して差し支えないかという便宜的なものである。それがそれであることではなく、自分にどの様な意味合いを持って表れるかが重要なのである。

 

 

四 記号の連想

 

記号の指示関係は、一種の連想ゲームのようなものである。リンゴ、という記号は、赤い、という記号を連想し、赤い、という記号は、血液、という記号を連想し、血液、という記号は、痛み、という記号を連想し、痛み、という記号は、怪我、という記号を連想し、怪我、という記号は、事故、という記号を連想し、事故、という記号は、自動車、という記号を連想し……この様に、それぞれがそれぞれの記号に対し指示性を、相関性を持つのである。

 

判断とは、対象を知覚によって捉えた際に見える記号から、それが何であるかを「連想」することである。 

テーブルの上に置いてあるものの視覚的記号――その赤み、その丸みを見て、過去の経験から、リンゴという観念――一定の重みや、感触や、味や、香りなど、リンゴの持つ秩序、法則、理論を連想するのである。

 

 ある音が耳に入ると、それを自動車のタイヤが激しくこすれる音だと連想し、同時に、事故が起きた可能性を連想する。 

「昨日遊園地に行ってきたんだけど、とても楽しかったよ」という彼の言葉から、私は彼が昨日遊園地に行く様子、楽しんでいる様子などを連想することが出来るし、「あの件どうなったの?」と言われれば、「あの件」が何なのかを連想する。

車を運転中に、目の前に飛び出してきた「何か」を見て、その漠然とした見た目、その動き、或いはその状況性から、野良猫、を連想する。

 

連想の根源は現実の経験であり、目の前にあるもの、聞いたもの、触れたもの、つまり知覚で捉えたものである。我々が生まれてから触れてきた様々な現実の対象に、一定の法則を与え、それらが連鎖を生み出し、複雑化していく。

 

認識とは対象に関する法則を連想することである。これは今までこうであっただろうし、今はこうであろうし、今後もこうであり続けるだろう、という法則を連想し、仮定することである。

 

認識者は対象の絶対的本質に永遠に辿り着くことは出来ない。認識者は対象から取得できる情報を頼りに対象の法則を仮定するだけである。しかしまた、認識が本質に辿り着くことが出来ないならば、本質とは認識そのものであろう。

 


第二章 対人的判断

 

第二章 対人的判断

 

一 個人の判断

 

 人間に対する認識は、事物への認識と同様の構造を持つ。そもそもあらゆる認識――事物、動物、人間、言葉、文字、絵、音、あらゆる現実の諸観念、諸概念、意識対象は、認識として全て同じ構造である。

 

ただし、人間の場合は、事物の判断と比べて、主観性が強い。言い換えるなら、記号の相関性における他者との共有率が低く、同時に、認識者自身の中でも、厳密性、持続性、恒久性が低い。というのも、人間にとって、例えば事物の変化は、我々にとって客観的な一定の法則がある上に、細かな差異や極自然的な状態の変化にはそれほど大きな意味を持たず、同一の物として扱われ、各々に対して表れる意味や使用法も共有度が高いが、人間の場合は違う。人間は生き物として同じでも、それぞれが全く違う意味を持って認識者に表れるし、時間による諸々の変化も重要な違いとして我々に訴えかけてくるのである。

 

 認識者は如何に人間を判断しているだろうか? 

朝方、私は外へ出る。そこには様々な人々が行き交っている。スーツを着て駅の方向へと向かっている人を見れば、私はそれを、仕事へ向かう会社員だと判断する。警察官の制服を着ている人を見れば、それは警察官が仕事をしているのだと考えるし、ヘルメットを被った作業服姿の人を見れば、作業員が道路工事をしているのだと判断するだろう。それが世界に対して私が抱いている法則であり、秩序であり、記号内容だからである。同時に、私は彼等に対する判断に付随する諸属性、諸機能、諸原則を想定している。例えばあの警察官に道を尋ねれば丁寧に教えてくれるだろうとか、事故が起きたら駆けつけてくれるだろうとか、ひったくりを見掛けたら追い掛けるだろうとか、例えばあの交通誘導員はルールに従って車両を誘導するだろうとか、あの駅員は乗客が不正をしないか見張っているだろうとか、あのバス乗り場の人々はバスが来るのを待っているのだろうとか……。

私が特別な関心を払わない限り、彼等にそれ以上の判断を加えないだろう。なぜならそれが私にとって彼等に対する必要な距離であり、私には彼等を、職種としての、機能としての表れ、態度、関係性以外のものを必要としないからである。私にとって彼等は職業や通行人としての情報しか与えられていないし、それ以外の何ものでもないのである。

 

より個人の領域へと踏み入れてみよう。私は道を尋ねる為に交番に行こうとする。しかし私はそこで不安に襲われる。今まで警察という人々と接してきた結果、警察官は横柄な人が多い、という帰納的理論を、統計結果を所有しているからである。私は明確な個人ではない「警察官」を思い浮かべるとき、そこにマイナスのイメージを持つ。それが世界に対する私の秩序として機能している。これから向かう交番の警察に対する個別の情報が何もない限り、これから出会う警察官のイメージは、「警察官」という記号を有する対象に関する過去の経験、統計、帰納によって導き出された「警察官は横柄な人が多い」という理論、命題に頼って判断せざるを得ない。近づいていくと、私の視界は交番の前に立つ警察官の姿を捉える。私は彼の姿を目にすることによって、既存の認識以外の情報、目の前にいる個別の警察官としての新たな情報を取得することに成功する。彼は小柄で、細身で、眼鏡を掛け、とても柔和な表情をしている。外見、という新たな情報を取得することによって、対象への判断が更新される。外見に関するそれらの要素が、謙虚さや穏やかさという属性と繋がっていると、その様な法則を所有しているからである。私は安心して話し掛ける。しかし、どうだろう、実際話し掛けてみると、睨み付けるような表情で、面倒くさそうな態度で、適当な、素っ気ない回答をされた。私はその経験から、この様な見た目が謙虚さを示すものとして当てにならないこと、記号の相関性として弱い関係にあることを学び、それらの見た目に対する法則、秩序が書き換えられ、同時に、「警察」という属性に関する新たなサンプル、統計を得ることで、「警察は横柄な人が多い」という命題の正当性をより一層強めることになる。

 

我々は常に先入観を持っている。先入観とは、現実への想定である。あれは、こうだろう。これは、ああだろう。我々は世界に対する先入観、即ち世界の理論を、法則を、秩序を所有して生きている。現実的な意味における「先入観」とは、結局、表面的な情報以外が与えられていないことであり、それは人間に対する認識において「第一印象」という言葉で形容されるだろうが、そもそも我々は、職業や、年齢や、性別や、国籍や、容姿や、仕草など、他人と出会った際に最初に取得した記号を頼りに相手を判断する。それらの記号が何を指示し、どの様な属性と相関性を持っているかを経験に拠って判断する。なぜなら対象者に関するそれ以外の情報が与えられていないからである。他人を認識するにおいてまっさらな認識というのはあり得ず、対象者から見出せる記号によって必ず何らかの先入的判断を加えているのである。

 

では我々は如何にしてその様な判断を加え、認識を持つのだろうか? ある個人に対する認識の変化をなぞってみよう。 

私は毎日バス停である男を見る。その人は細身で、眼鏡を掛けており、服装は地味で、縮こまったような仕草をし、黒い鞄を肩からぶら下げており、参考書を手に持っている。私は経験則に、帰納法に、統計によって得た理論、秩序、法則に従って、それら彼から取得できる記号、属性、情報が何を示すかを想定、演繹する。

彼は大学生である、とか、彼は二十歳前後である、とか、彼は勉強が出来る、とか、彼は運動が苦手、とか、彼は臆病である、とか、漠然と彼の身分や内面性や能力を判断する。

 

しかし、彼と知り合いになって様々な事実を知った。彼は大学生ではなく、プロのダンサーであり、歳は自分より上で、既婚者であり、勉強は苦手で、スポーツ万能であり、好きな音楽はヒップホップ。私はその様な彼に纏わる多くの情報を知ることによって、彼の抱えるそれぞれの記号の関連性に変化をもたらす。例えば彼の見た目に備わる記号――眼鏡とか、地味な服装とか、黒くぼっさりした髪とか、華奢な体とか、弱々しい仕草とか、うつむき気味の姿勢とか、それらの属性が、既存の記号認識と一致する可能性を低め、相関性を弱化させ、記号の結び付きを緩める。

 

それぞれのパーツ、容貌を抱えている人間の諸属性を示す新たな統計を手にしたことによって、世界の秩序、法則、理論に変化をもたらす。つまり、属性によって対象を判断し、対象によって属性の判断を変化させるのである。

 

同時に私は、付き合いを深めることによって、彼という個人に関する秩序、法則、命題を見出し、彼という個人の記号が指示する記号を具体化、強化していく。彼の名前は、Aである。彼は普段、斯様な容貌をしている。彼は、プロのダンサーである。彼は、運動神経が良い。彼の好きな音楽は、ヒップホップである。彼は、偏食家である。

これらを彼に関する理論として抱え、彼の現在を、彼の未来を演繹する。例えば「彼は遅刻することが多い」という統計の下に、今日の待ち合わせにも少し遅れてくるだろうと判断したり、「彼はある一定の見た目をしている」という秩序の下に、人混みから彼を発見したり、「彼は野菜が苦手である」という法則の下に、食事を取る店を選んだり、「彼は楽しいことが好きである」、という理論の下に、彼に悪戯を仕掛けてみたりするのである。

 

 

二 統計結果としての認識

 

認識とは統計の結果である。

 

 ある対象が、どの様な性質を持つか、どの様な属性、記号に満ちているか、その統計結果を対象に触れることで取得し、対象に関する理論を形成するのである。

 

あらゆる意識対象は、認識機能における統計のサンプルとして作用する。

 

 この言葉は何を意味するのか、あれはどんな動きをするのか、この人はどんな人物なのか、この生き物は自分にどう働きかけてくるのか、これはどんな手触りなのか、あれはどう変化していくのか、この音は何を表しているのか、あれはどうすれば良くなるのか……認識対象の一切は、経験を通して統計結果を取得することで、帰納的に自然と判断されているのである。

 

 私はリンゴというものの諸性質を、リンゴに関する多くの体験を通して、統計結果を得ている。その見た目や、味や、匂いや、手触り、或いは、どんなリンゴが美味しいか、不味いか、成熟しているか、腐っているか、など、リンゴとの直接的経験を通して統計を取得し、そこから様々な情報、理論、規則性を導き出している。私はその統計から得られた理論を基に、今後もリンゴというものと接していくのである。

私が目の前のリンゴを見てリンゴだと判断したのは、「リンゴの見た目を持ったものは現にリンゴである」、という統計結果を得ているからである。しかしこれを手にした際に、実は精巧なリンゴの模造品であったとして、それから何度もその様な状況が続けば(そんな状況は想像しづらいが)、統計上、リンゴの見た目を持ったものが本物のリンゴである可能性、確率、頻度が下がり、今後の判断に変化が起きるだろう。「リンゴの見た目」が持つ「本物のリンゴ」の指示性が弱まり、偽物を指示する可能性を強めるからである(同時に、「あるリンゴが偽物であるような状況」に関する理論も形成するであろう)。

 

彼女のいない私は、友人からある女性を紹介されることになった。私はその相手の名前、職業、出身地、見た目、友人との関係など、初歩的な情報だけ聞かされている。私はそこから彼女の実像を連想する。彼女に関する様々なステータス、情報が示す諸属性の統計結果を私は経験から得ている。名前、職業、出身地、見た目など、それらの属性が、他の何を指し示すことが多いかという統計、理論、法則を漠然とであれ所有しており、それに従って、彼女の性格、雰囲気、しゃべり方、趣味、嗜好などを、抽象的な形であれ連想している。例えば「彼女は柔和で穏やかな人なのだろう」とか、「家庭的な人なのだろう」とか、曖昧なイメージを作りだしている。

  後日、実際に会ってみると、思った通りの人だった。それによって私は、事前に伝え聞いた幾つかのステータスから抽出できる諸性質が、一定の因果性、信憑性を持つという認識をより一層強めた。同時に、触れ合いを重ねる中で、彼女個人に関する統計を取得し、「彼女は、穏やかな性格である」、「彼女は、清楚な服装を好む」、「彼女は、控えめな人である」、「彼女は、甘いものが好きである」、などの彼女に纏わる様々な命題を、秩序を構築していく。

しかし、さらに付き合いを深めていく内に、それらとは全く違う側面を度々目にするようになり、また、過去の写真を見せてもらうと、今の彼女とはまるで逆である。彼女という存在に対する新たな情報を得ることで、私の中で彼女という統計に変化が生じ、「彼女は表と裏を使い分ける人である」という認識が生まれる。それと同時に、彼女が属する「女性」という集合体への統計結果にも変化をもたらし、「女性は表面だけで判断できないものだ」、という新たな統計を得て、その結果、諸々の表面的な属性が指示する記号、即ち属性への理論に対する信憑性が揺らぐことになる。

 

当然、その統計、受け取り方自体が個人のフィルターを通しているし、統計結果から得られる理論もまた個人の主観によるものである。同じ数であっても、インパクトの強いもの、より身近に存在するものの方が印象に残りやすいだろうし、それが事実として認識者に強く訴えかけるだろう。認識の工程は明瞭かつ客観的に提示できるものではない。

ある統計が取れても、それをそのまま鵜呑みにするかどうかは人それぞれだし、個人的統計そのものに関する統計的理論によって、その統計をどう受け取るかも変わってくるだろう。たまたまそうである可能性が高い、とか、別のある条件によってこう映っただけだ、とか、統計学的な思考がそこには存在している(その思考自体も統計、つまり経験から得られたものであるが)。如何なる外的条件にも左右されぬ統計認識というのはないのである。

 

大学で、A県出身の人と初めて出会い、交流を深めた結果、とても良い人だと感じた。これによって「A県出身者」と「良い人」という観念同士の連関性を一歩前へ進めることになるが、しかし、出身地という属性が、絶対的に人柄を決定するとは普通は考えないために、たった一人のサンプルで断定すること、記号同士の因果性を強く抱くのは早計であると考え、強い判断はせず、弱い材料のままに保留させておくだろう。

その後、さらに9人のA県出身者と出会い、計10人のA県出身者と交流を深めたが、一人も例に漏れることなくとても良い人達だった。もはや疑う余地はない。彼は主観的な統計調査、帰納法の結果、「A県出身者」と「良い人」という二つのイメージを結びつけ、「A県出身者は良い人が多い」、という法則を、秩序を、理論を形成する。その理論を持っている以上、彼はA県出身である人に対し、良い人であるという先入観を持って接するようになる。過去の経験によって取得した法則から、新たなA県出身者の人間性を演繹するのである。

しかし、長い時間を掛けて、その後さらに90人のA県出身者と出会うと、全てにあまり良い印象を抱かなかった。この場合、A県出身者が良い人であった割合は10分の1である。新たな情報の取得によって、彼は、「A県出身者は良い人が多いわけではない」という理論を形成した。

 

つまり、判断は統計であるとともに、言い換えれば、判断とは、確率の問題である。

  

判断はただ確率の大小に過ぎない。

集合体であろうと個人であろうと同じ事である。過去の経験に即し、「男性という属性を抱えている人々は、同時にAという属性を持っている確率が高い」、という理論の下に、これから出会う男性、よく知らぬ男性に対して適切な態度を取っていくし、例えば、私が偶然町で見掛けた友人Aに声を掛けたとき、私は友人Aを判断する上での重要な情報―彼の見た目や、振る舞い、出現地域、行動パターンなどを手掛かりに、視界に入ったその人を友人Aであると瞬時に判断しているのであるが、それは飽くまで、Aという人物に対して、自分が所有している情報、理論、秩序、記号、属性と、目の前に表れた人物から見出されるそれらとを照らし合わせ、一致していると感じただけであり、実際にどうかは分からず、まず間違いなくそうであろう、という蓋然的な判断の上で声を掛けているに過ぎないのである。

つまり私は、彼に対して所有している秩序と、今現在の彼自身とが一致しているという認識の正しさに、高い確率を感じているのである。友人Aは整形しているかも知れない。友人Aはロボットだったのかも知れない。友人Aは幻覚なのかも知れない。しかし、自分の経験上の確率から、Aは明日もAのままであろうという想定を行い、Aを自分の知っているAとして自然と認識しているのである。

 

 私の好きな食べ物が寿司であるのは、寿司、という共通項を持つものが、美味しい、という共通項を持つことが多いからであり、高いところから落ちるのを恐れるのは、落下、という記号を持つものが、痛み、という記号をもたらすことが多いからであり、リンゴを見てリンゴだと思うのは、リンゴの見た目、を持つものが、実際にリンゴである、という結果を持つ事が多かったからである。 

例えば特定の国では俗説として「血液型占い」というのがあるが、それを信ずる人にとっては、血液型と性格には強い相関性、因果関係があると判断しているのである。

 

 

三 相関性の判断

 

ある個別の対象への判断は、その対象が抱える記号全てへと影響を及ぼす。

 

それは世界の一切が記号の集積、属性の集合に他ならないからである。

 

例えば、個別のリンゴAを食べてお腹が痛くなったら、それ以外のリンゴに対するお腹が痛くなることへの危機感を強めることになる。他のリンゴとリンゴAとは、同じリンゴとしての記号を共有しているからである。延いては、果物、或いは、食べ物全般に対する恐怖も生み出すことだろうし、極端な話、その腹痛が生死をさまようほどのものであれば、赤くて丸いもの、に対する恐怖感さえももたらすかもしれない。なぜなら個別のリンゴAは、赤くて丸い、という視覚的な属性を所有しているからであり、「赤くて丸いもの」と「リンゴA」が認識者にとって相関性を持つものだからである。

 

対象を人間に置き換えてみよう。

とある一人の人物Aと接した中で、意地悪な事をされたと感じることが多かったとしよう。すると、特別な条件(相手の主体的な意志による行動でない場合など)がない限り、第一に、「意地悪」、という属性が結びつけられる記号は、行為者、つまり、A本人である。人物Aに対するイメージと意地悪な性格という観念とが結びつけられ、Aは意地悪な奴である、という命題、理論が形作られる(より厳密に言えば、人物Aと意地悪な性格を結びつけること自体が属性判断の波及である。なぜなら意地悪な行為をしたときのAとそれ以後のAが同じであるとは限らないし、そもそも全く同一の状況というのはあり得ないにも関わらず、この人はこうである、と決め付けている。同じ状況など厳密には二度とないのだから、ある個人の発言や行動から読み取られる人物像への判断も、根本的な画一化である)。

しかし、意地悪な性格、という認識は、人物Aという個人それ自体のみに結びつけられるわけではなく、必ず他の属性へと波及する。人間は記号の集積である。故に一人の人間への評価は、その人間の持つ全ての属性の認識へと、無意識であれ少なからず影響を及ぼすのである。人物Aは意地悪な奴であると感じたときに、Aから感じ取られる全ての属性――性別、人種、出身地、職業、姓名、体型、顔立ち、癖、声質、趣味、その他、対象者から見出すことの出来る一切の属性が、「意地悪な性格」を表す判断材料としての事実性を強めることになるのである。

 

一人の人間を分析してみよう。彼の名は鈴木太郎、国籍は日本、出身は東京、歳は二十七、職業は塾の講師、背はかなり高く、細身であり、目つきが鋭く、紺色の服を好み、音楽はクラシックを聴き、好きな食べ物はラーメンで、神経質な性格であり、子供の頃から英才教育を受けてきた。 

彼に関する属性を挙げようと思えば尽きることはないが、認識者は、彼から見出される全ての属性を、互いに相関的関係にあるものとして、一つ前へと押し進める。それぞれの属性が、それぞれの属性に対して因果を持つ可能性を少なからず高めるのである。

 

例えば、鈴木太郎という名前を持つ人は、目つきが鋭い、とか、塾の講師は、ラーメンが好きである、とか、紺色の服を好む人は、クラシックが好きである、とか、塾の講師は、背か高い、とか、それぞれの記号を繋がったものとして、指示し、指示されるものとしての可能性を一歩進め、判断における統計の材料とするのである。

 

というのも、認識は帰納法によって得るものであり、帰納法とは統計であるからである。判断とは主観的な統計調査であるため、一つの対象を知ることによって、その対象の抱える属性同士の因果認識を強め、世界の秩序を判断する為の、新たなサンプル、材料として与えられるのである。認識者は彼の存在を知ることによって、記号同士の関係性に対する新たな情報を得たことになるのである。

 

しかし当然、一人の人間を見ただけでは、その人間が抱える属性同士が必ず相関関係にあるとは判断しない。認識者にとって、この人物の情報は、数ある情報の中の一つに過ぎず、判断、即ち帰納法、主観的統計における一材料に過ぎないからであり、属性同士の判断を確固たるものとするには、ある程度のサンプルを必要とするのである。

 

属性同士の相関性を判断する為には、ある一つの共通項を抽出し、そこにまた新たな共通項を見出されなければならない。ある一つの共通項を持つ人間同士から、別の共通項を見出されれば、そこに相関性を感じ取るのである。 

例えば、この鈴木太郎という人物から、「塾の講師」という属性を抽出し、同じ属性を抱えている他の人物を複数調べてみよう。もしもその際、鈴木太郎と同じように、「クラシック音楽が好き」という属性を抱えている人数、サンプル数が多ければ、認識者は「塾の講師」と「クラシック好き」という属性に因果性を見出すし、もしも「ラーメン好き」が多ければ、同じように「塾の講師」と「ラーメン好き」という二つの記号が強い結びつきをもって秩序化、法則化、命題化されるようになる。

 

 

四 個体と集合体、個性と属性

 

 個人への認識と集合体への認識は本質的に同じ構造を持つ。

 

「個人への認識は正しくても集合体への認識は誤りである」、というような理論を我々は時折耳にするが(特に平等主義、差別批判的な言説において)、実際のところ、個人への認識と集合体への認識に構造的な差異はなく、どちらも同じように存在するのであり、ただ現実的に見た場合、判断の当たる確率に違いが表れやすいというだけである。

 

 友人Aに対する認識と、「人種A」に対する認識には、構造的な違いは存在しない。というのも、「人種A」に対する認識が、数多くの個別の人種Aに対する認識から導き出された便宜的な連想であるのと同じように、友人Aに対する認識も、友人Aという「複数の事象」に対する経験の統合に過ぎず、常に蓋然的な認識にしかならないからである。

 

 それは「羊」に対する認識が、複数の羊との経験の上に成立し、その平均事項、共通事項を個体に対して想定するのと同じレベルであり、その確実性の違いに量的、数的な差が表れるに過ぎない。

 

集合体に対する認識が、世界を論理的に把握する為の便宜的なものに過ぎないのと同じように、個体に対する認識もまた便宜性の域を出るものではなく、一切の認識は便宜的な道具なのである。

 

我々は、記号、属性、情報というものが、主観的な帰納、統計によって作られた理論に即して、それが指示するものを演繹、連想させるものであることを理解した。 

ある対象者に関して、「二十才」、という情報を得れば、丈夫な身体、とか、精神的な未熟さ、とか、大学生やフリーター、とかを思い浮かべたりするだろうし、「男性」、という情報を得れば、女性の体に興味がある、とか、長くない髪、とか、低い声、とかを仮定するかもしれない。また、「作家」という情報を得れば、知識が豊富である、とか、頭が良い、とか、眼鏡を掛けている、とかを連想するかも知れないし、「長くて派手な色の髪」という情報を取得すれば、ロックを好む、とか、事務職ではない、とか、型にはまらない性格、とかを連想するかも知れない。

これらの属性を抱える人間が、必ず今挙げたような性質を同時に抱えているとは言えないが、少なくとも、それらの指示記号は認識者の経験によって得た、ある属性を持つ人々に対する主観的理論、秩序、相関関係として存在しており、見ず知らずの人間、未知の対象物に対する合理的な想定、仮定として機能するのである。

 

日本人、とか、男性、とか、三十歳、とか、教師、とか、高身長、とか、高学歴、とか、高い鼻、とか、運動音痴、とか、派手な服装、とか、相手から読み取られる一切の情報、属性は、「それ以外の何かを示す記号」として存在する。 

例えば我々は、人間の見た目に関して、アメリカ人、を思い浮かべることも出来るし、十才の子供、を思い浮かべることも出来るし、医者、を思い浮かべることも出来るし、頭の良い人、を思い浮かべることも出来る。それらは、我々がその属性を抱えている人々から経験的に得られた、見た目に関する平均的な共通事項だからである。見た目だけでなく、諸々の能力とか、性格とか、好みとかを連想出来るし、それに応じて知らない相手にも適切な態度を取っていくことが出来る。

七十才の老人は体力がないからこう接した方が良いだろう、とか、彼は太っているからよく食べる人だろう、とか、彼女は女性だから人前で着替えるのに強い抵抗を持つだろう、とか、実際はどうか分からないことでも、こうであろう、という想定を持つし、判断は想定の域を超えるものではないのだから、その個人特有の新たな情報を取得しない限り、それが事実として機能するのである。

 

 現に我々は、未成年は分別がつかないという認識の下に、様々な権利を制限したり、男と女の平均事項に従って、それぞれに適した対応を取ったり、人種、国籍ごとの文化や価値観を想定して、それ相応の環境を整えたりするのである。それに対して文句を言うものもあれば言わないものもあるだろう。しかしどうあれ、認識自体は絶対的に画一化を持っており、ただその内容、判断が正しいかどうかという面で各々が違う認識を持っているに過ぎない。

 

もしも集合体への認識が誤りなのであれば、我々は目の前にいる人間を人間として認識することも、女子更衣室に侵入する男性を男性として認識して追い出すことも出来ないだろう。

 

属性というのは、個人が保有するものでも同じであり、「友人Aの見た目」もまた、私にとって「友人Aを示す記号」として存在しているのである。「属性Aを持っている人間は、現にそうであった」、という経験則による判断は、「友人Aの見た目をもっている人物は、現に友人Aであった」という事と変わらないのである。

 

認識そのものが、流動的世界に対する論理化を前提とする限り、人間自体もまた、属性、記号の集合体に過ぎないのであって、故に我々は、対象から読み取られる記号を頼りに蓋然的な判断を加えていくしかないのである。

 

一人の人間と出会ったとき、その見た目とか職業とか年齢とか性別とかから、それらの属性に関する理論に即し、「こういう人間だろう」という弱いイメージを想定している。しかし、彼という個人を深く知ることによって、彼に対する判断は更新され、強いイメージとして持つようになる。しかしその認識自体も、彼という人間に対する画一化であり、先入観でしかないのである。

 

認識とはイメージ(印象)である。イメージから本質に辿り着くことはない。彼という経験に対するイメージによって彼を判断するし、ある属性を持つ人々や物体へのイメージによってどの様な性質を持つかを連想する。知っている人間や個人、或いは知らない人間や集合体への判断は、ただイメージの強弱に過ぎず、どうあれイメージの域を超えない。

 

「属性に対する最初の想定と、個人に実際に触れ合って知ることは、根本的に違う」、と言うかも知れないが、判断というのは、強いか弱いかの問題であり、あまり深く知っていない相手への判断は弱い判断として機能し、より直接的に経験した相手は強い判断として機能しているだけである。強い判断も、それが事実かどうか分からず、そうであろう、という仮定の意識が強いだけである。

 

「日本人Aという個人の実態は存在するが、日本人という集合の実態は存在しない」、というのは誤謬である。そもそもAという個人からして、その同一性、つまり、AがAであるという普遍性はなく、本当の彼、を判断する術を我々は持っていない。AがAであることを常時証明する絶対的な手立てはなく、肉体のほぼ全てが入れ替わったときに彼が彼と言えるかという問題は客観的な答えを持たないし、答える必要もない。認識はただ対象者に関する情報を統合させて、彼を彼として便宜的に秩序立てているに過ぎない。Aという存在は意識にとって常にイメージとして存在し、それを越えた認識はない。我々はただAという記号を所有し、AをAとして恣意的にまとめているだけである。 

彼はAである、というのも、彼は日本人である、というのも、記号としては同じ機能を持ち、個人と集合体は、ただその厳密性の強さに違いが出やすいだけである。それらはただ、複数を示すか、個人を示すかの問題、数の問題に過ぎないのである。そうして数が多い以上、対象者それぞれに対する妥当率、当てはまる確率が下がる傾向にあるだけの話であり、個人という記号も、集合体という記号も、連想の域を出ない蓋然的なものなのである。

 

属性の認識において、個体から集合体へと理論を拡大するにつれて、確実性は減少する傾向にある。猫Aに対して当てはまる法則を、猫全般で考えた場合、或いは、ねこ科全般で考えた場合、或いは、ほ乳類全般で考えた場合、或いは生き物全般で考えた場合――この様に、属性の範囲を広めれば広めるほど法則の妥当性は下がるだろう。

 

あらゆる属性、記号が、必ず別の属性、記号を指示する以上、我々の認識は偏見や先入観を越えることは出来ない。

 

我々は先入観なしに物事を認識することは出来ない。ある一人の人間を前にしたとき、その見た目から、人種を想定し、年齢を想定し、性別を想定し、中国人とか、20才とか、男性とか、それらの属性が持つ諸々の能力や性格を想定するし、その人間個人について深く知ったとしても、彼の見た目や雰囲気から、彼が自分の知っている友人Aであると想定し、友人Aに纏わる諸性質をイメージするのである。 

「十歳の子供」と聞いていた相手と出会ってみると、背丈が百八十センチもあり、驚いた。「十歳の子供」から連想されるイメージと全く違うからである。暗かったクラスメートAがある日突然明るくなっており、驚いた。それは同じように、「クラスメートA」という記号が指示するものとのずれを生じさせ、何があったのかと驚愕を覚えるからである。

 

人間は記号の集積である。子供服を着た幼稚なしゃべり方や動きをする女の子を見て、その子は小学生だろうと思った。それはその見た目や雰囲気が「小学生くらいの年齢」を指示するものという法則を持っているからである。しかし実際は二十歳であることを知り、彼女は二十歳である、という認識に変化すると、今度は「二十歳」という年齢が指示するイメージを彼女に持つことになる。彼女の身分や能力や経験など、二十であれば普通はこうであろう、という理論と共に、彼女を改めて判断し直す。さらに彼女を知ると、彼女は実は彼、つまり男であった。すると今度は、男、という記号が指示するもの、体の構造とか、興味の対象とかを思い浮かべるだろう。男であるのに女のような格好や雰囲気をしているので、過去の経験による認識から、彼は同性愛者かと思ったが、単に女装をするのが趣味なだけらしく、それを知ったことでまた新たな情報を取得し、認識が変化する。そうして、彼は明日も明後日も自分の知っている彼であるという記号的な認識、想定と共に接していくのである。 

つまり、ある個人に関して、その個人特有の性質を知らない限り、その個人の諸々の性質は、経験から得た主観的な記号の法則に従って自然と判断されており、またその個人特有の性質を知ったところで、ただ記号的な認識が細分化されるだけで、記号的な認識自体は絶対的に残り続ける。その個人を深く知ったところで、その個人の抱える属性を記号的に判断するという事は変わらず、ただ個人が抱える記号への認識が変化するに過ぎないのである。

 

彼から見出されるAという容姿に関する理論に即し、彼はBという職業なのだろうと思ったが、実際はCであった、すると今度は、Cという職業に関する法則に則り、彼はDという環境に住んでいるのだろうと思ったが、実際はEであった、すると今度は、Eという環境に関する経験に即し、Eに住んでいるのであれば、Fという社会的地位を持つのだろうと思ったが、実際はGであった……つまり、最初に想定したイメージが誤りであったと知ったところで、その都度新たに繰り出される属性、新たに取得する情報に関して記号的な判断を下すことは変わらないのである。

 

認識はただ変化の余地を常に残してあるというだけで、どちらにしろある情報が知覚された段階では、その情報に関する帰納的理論に即し、画一的、記号的な認識をその都度行っており、そうして認識が経験則から越えることが出来ない以上、新たな情報を取得しない限り、その時点では認識者にとって事実として機能するのである。

 

認識、判断が、対象の本質に辿り着くことはなく、常に想定の域を超えないのであれば、個人に対する認識も集合体への認識も、同じように属性への暫定的な認識として還元されるのである。

 

集合体に関する認識が、横の認識であれば、個人に対する認識は、縦の認識と呼べる。或いはこれは、横の集合―縦の集合、横の統計―縦の統計、横の帰納法―縦の帰納法と呼んでもいい。つまり横の認識が、ある属性を抱えた複数の人物の総計であるのに対して、縦の認識は、一人の人物に対する複数の経験の総計である。しかし同時に、集合体への認識は、個人の認識によって左右されるし、個人の認識は、集合体の認識によって左右されるのである。

 

個人は属性によって判断され、同時に属性は個人によって判断される。個人はその個人が抱えている属性に対する認識者の主観的統計、帰納法、経験則によって、それが指示する情報を演繹、想定、判断する。その個人が逆に、彼の持っている属性に対する認識に新たな変化をもたらすのである。 

彼女が付き合ってきた男達はみな偶然にも天秤座で、同時に浮気性だった。迷信を信じやすい彼女は、過去のこういった経験から、天秤座の男は浮気性なのだという法則を形成する。各個人に共通する二つの属性、即ち「天秤座」と「浮気性」が、彼女の中で結び付きを、因果性を持ち始める。そんな中、またしても次に好きになった男は天秤座であった。しかし、付き合っていく中で、彼に全く浮気の気配も見られず、常に自分を一番に考えてくれ、浮気の心配は杞憂に過ぎないことが分かった。すると、「天秤座」という記号に関する新たなサンプルを取得したことにより、「天秤座」と「浮気性」が持つ相関性が彼女の中で弱まる。ところが、彼女はある知り合いの女性から、「自分の経験上、天秤座の男は絶対に浮気をする」という言葉を聞いた。天秤座に関する新たな情報を他人の経験を通して取得したことで、再びその記号の指示関係に変化が生じ、彼女は改めて、やはり彼はこっそり浮気をしているのではないか、という疑念を持つようになった。

 

個人への経験の積み重ねが、ある集合体、属性への判断を形成し、それが逆に、その属性、集合体に類する新たな個人の判断の素材として機能し、さらにその個人が、改めて各属性の意味を形成するサンプルとして作用し……この様に、個人と集合体、個性と属性は、循環且つ相互的な影響を与え合う関係にある。

 

認識とは諸々の対象に共通項を見出すことである。それは集団であれ個人であれ、即ち、横の繋がりであれ、縦の繋がりであれ同じであり、個人というのもその個人に関する記憶の中から見出された共通項なのである。

 

個人が存在するのであれば、集合体も存在するし、集合体が存在しないのであれば、個人も存在しない。 

相手が個人だろうが、集合体だろうが、重要なのは、世界を「想定」することである。ある属性を持った人物は、別のある属性を持っている可能性が高いと、その様な想定を持たなくては、世界と対峙できないのである。

 

ある属性へのイメージ、理論に関して、「全ての人がそうなわけではない」と言われるのと同じように、ある個人への認識も、「必ずしもそうとは限らない」のだし、具体的に取得していない部分はやはり帰納的法則に従って想定するしかない。どちらにしろそれは世界をより賢く生き抜いていく為の主観的で脆弱な法則に過ぎないのである。

 

 

五 情報と先入観

 

認識、判断は、「現に与えられている情報」を基に導き出される。

 

というのも、認識は統計、帰納法という経験的理論である以上、「対象に関して今現在所有している情報」を基に判断する以外不可能だからである。

 

ある職業Aの人間五人とバラバラに出会い、どれも嫌な奴だと感じたとする。すると認識者はこう判断する、「五人中五人が嫌な奴だったのだから、他の奴らもまた嫌な奴に違いない」、そうして彼は職業Aに悪いイメージを持つようになる。確かに、出会った五人がたまたま性格の悪い人達だった可能性も考えられる。Aという職業に勤めている他の九十五人はとても良い人達かもしれない。しかし、バラバラに出会った五人が、偶然百人中五人しかいない嫌な奴だったとも確率的に考えにくい。幾らその可能性を想像したところで、それは一種の自己暗示であり、払拭できるものではない。なぜなら認識者には、職業Aに勤めている人間に関して、その五人以外の情報が与えられていないからである。「そうかもしれない」という想像と、「そうであった」という現実とでは認識に与える重みが全く違う。現に目の前に与えられている情報に頼って判断するしかないのである。同時に、職業によって人間性に全体的差異が見られるというのは、彼の経験上あり得ることだとそう認識しており、それが偏見かどうか、偶然かどうかという判断自体もまた経験上の理論に頼るしかないからである。

 

自分の彼女と思って後ろからわっと驚かしたら、実は赤の他人であった。それは「後ろ姿」という情報が、自分の彼女であるという判断を導き出したのであり、そこに「正面の姿」という新たな情報を得ることによって、この人は自分の彼女ではない、という新たな判断へと辿り着いたのである。

 

車を運転している私は、後ろから猛スピードで追い越してくるドライバーの危険な運転に怒りを覚えた。しかしその先の病院の前を通りかかったとき、先ほどの車が停車しており、中から大怪我を負った子供が連れ出されていた。するとそのドライバーに対する私の怒りは和らいだ。これは私の中で「危険な運転」という記号が「重傷者を助ける為の行為」を指示するものではなく「スピード狂、或いは早く着きたいという身勝手な欲求」を表すものでしかなかったからであり、それ以外の情報が与えられていなかったからである。もしも自分が同じような状況になったことがあるなら、「そうである可能性」を少しでも考えていただろう。「危険な運転」が「やむを得ない事情」を指示するものとしての可能性を持っているからである。

 

あるクラスメートAはとても乱暴な奴で、私はずっと彼を嫌っていた。別のクラスになってから一度も話をしていなかったが、一年ぶりに再び同じクラスになると分かったとき、私はとても嫌な気がした。一年の月日が流れているとしても、「今まで彼に腹が立つことが多かった」という統計が出ており、その情報しか与えられていないからである。同時に、「月日による人間の変化」に関して、「そう簡単には変わらない」、という法則を経験的に得ているため、やはり過去における彼との接触経験という情報を基に今の彼を演繹、判断するしかない。しかしいざ話をしていると、彼が今までとまるで変わっており、とても優しく、気遣いの出来る人になっていた。その新たな判断材料を得ることによって、彼という人物に関する理論に変化をもたらし、同時に、「時が経てば人は変わる」という命題が妥当である可能性を自分の中で高めるだろう。

 

インターネットの書き込みで、ある問題に関し、自分の意見と真っ向から対立する書き込みを見たとする。私はその書き込み主に対する怒りを持つだろう。軽蔑するだろう。私はその書き込み主の全体像を想像し、私と全く相容れない者として仮定するかもしれない。なぜならそれが相手に関して私に与えられている唯一の情報であり、そこから相手の姿、全貌を想像するしかないからである。 

しかし実際は分からない。実はその問題に関する意見のみが対立しており、それ以外は驚くほどに価値観が一致しているかも知れない。しかし現に「対立する意見」以外の情報が与えられていない限り、その様な想像はしづらい。私はその意見に強い誇りを持っており、私の意見は私という存在と一体であり、私という存在は私の持つ諸々の価値観、属性と幾ばくかの相関性を持つ以上、ある問題に対し全く違う意見を持つ二人が、それ以外で多く一致するとは思いづらい。故に、少なくとも現時点においては、マイナスのイメージを持つことしか出来ない。

街で見掛けた人に嫌な印象を覚えても、たまたま出会い方が悪かっただけで、実は凄く馬の合う相手かも知れないが、悪い印象を感じた姿という情報以外の情報を知る機会もないのであって、今与えられている数少ない情報が、その人間を判断する全てとして機能してしまうのである。

 

言わば、世界の秩序、法則、理論とは、広義での先入観であり、想定である。我々は常に先入観と共に、想定と共に世界と接している。朝になれば太陽が昇るとか、眠ったのと同じ場所で目が覚めるとか、冷蔵庫には牛乳が入っているとか、この黄色い物体はバナナであるとか、玄関を開ければいつもの風景が広がっているとか、そこを右に曲がると駅があるとか、ある時刻には電車が来るとか、自分の上司はとても遅刻に厳しいとか……様々な想定を当たり前のものとして無意識に行っている。

 

この様な想定は一つの判断として機能している。例えば警察の制服を着た人を見れば、それは警察であると思うのが普通だが、実際にその人が警察かどうか確かめたわけではなく、単なるコスプレかも知れないし、もしくは警察の制服に似た普通の服を、こちらが単に見間違えただけかも知れない。しかし私はそれを見て、彼は警察である、という想定を行う。なぜなら、「町中で警察の制服を着ている人は警察官である」、というのが私の中の(そして一般的にも)経験則だからである。

 

 鼻の高い人間を全て嫌な奴であると心から感じたのなら、これから出会う鼻の高い人間も、深く接しない限り、つまり、その個人に関するより直接的な情報を得ない限り、嫌な奴であると判断するだろうし、それが彼にとって完全な事実として機能するのである。 

たとえ深く知って嫌な奴ではないと知ったとしても、それが最終的な正しさであるかも分からず、その後の変化に対してはやはり先入観として機能するのである。

 

認識、判断が、過去の経験、帰納、統計により形成された理論の適応、演繹である限り、一切の認識は全て偏見であり、先入観なのである。それは対象が個体だろうが集合体だろうが同じ事なのである。 

 

 

 意識と境界化

 

意識されるものは一切が記号として存在する、それはつまり、意識の対象には必ず何らかの判断が伴うことを示している。

 

人間が何かを意識するとき必ずそこに何らかの判断が付随している。それが認識者にとって不明瞭なもの、明確に判断しづらいものでさえ、「よく分からないもの」「はっきりと明言できないもの」としての判断が伴う。例えば私の背中に急に違和感を覚えれば、虫が入り込んだとか、誰かが触っているとか、皮膚の病気であるとか、物に当たっているとか、様々な可能性が瞬間に想定されているのであり、だからこそ私は慌てて背中に手を回すのである。

目の前に黒いもやもやした霧状のものが突然現れたとする。それが何なのかは分からない、しかし、少なくとも、「黒いもやもやした霧状のもの」、という理解が存在するし、それが意識されたのは、例えば、恐怖を呼び起こすもの、怖いもの、害のありそうなもの、不安を呼び起こすもの、などの意義が伴っているからである。

 

そもそも何かを認識する際には、その対象を主体者が区分化している必要がある。黒い霧状のもの、をそれとして個別に認識し、他の事物、他の空間から独立したものとして認識している時点で、それを何かとして認識していることになる。

 

ただその判断の決定が強いか弱いかの問題に過ぎず、どうあれ意識されるものは何かの判断が伴っていなければならない。なぜなら、意識されるものは、主体者にとって意識される必要があるからこそ意識されるのであり、それに意味が伴っていなければ、そもそも人間には意識されないからである。意識されるとは、意味があって意識されるのである。

認識は必ず意味を持って表れる。主体者にとって、それを意識する必要性があるからこそ意識されるのであり、意識される必要がある以上は、何らかの内容を持つのである。

 

 ある対象を認識するためには、世界を主観的に境界化、区分化、線引きする必要があり、そこには同一化、画一化、及び差異化がもたらされている。

 

それはつまり、何かを何かと同じものと見なすことであり、或いは何かを何かと違うものと見なすことである。意識される対象を何らかの形で他と切り分け、同時にそれを以前の何かと同じものとして区分化するのである。

 

 同じものや同じ状況というのは科学的見地から見て厳密に言えば存在しえないが、我々は細かい差異や変化を無視し、諸々の対象を同一のものとして認識したり、或いはもともと一切が違うものにも関わらず、これは違うものである、という判断を持ったりする。 

それは我々にとって、その様に扱うこと、接すること、認識することが妥当であるという判断を持つからである。「同じものとして扱っても問題ない」、或いは、「違うものとして扱って差し支えない」、「そう接するのが合理的である」、という感覚的な判断があるのである。

 

全てが根本的に差異で満ちており、本人にとっての妥当性によって同一という判断が決定される以上、何かを同じであると見なすのは全て主観的でしかない。 

例えば、ある対象の熱や匂い、音など、とある生物によっては強く意識されるものも、人間には普段意識されないものがあったり、様々な分類において、それぞれの文化によって分類の数が違っていたり、存在しているとされているもの、存在しないとされているものが違っていたりするように、同一と差異は主観的なものなのである。

 

人間は意識や知覚の成長を通して、より細かく外界を取り込むことにより、多くの差異を見出し、世界の法則を細分化、合理化させ、より上手に生き抜こうとする。

 

ある属性がある属性として認識される為には、主体者にとってそれ以外との差異化が図られている必要がある。 

属性とは区分であり、差異である。日本人という属性は、外国人がいて初めて成立し、人間という属性は、人間以外の生き物がいて初めて成立する。この世に日本人しかいなかったら、「日本人」という観念は「人間」という観念に吸収されるし、もしもこの世に人間以外の生き物が存在しなかったら、「人間」という観念は「生き物」という観念に吸収されるだろう。とある対象との間に差異を感じるかどうかによって、属性は生まれるのである。

 

何が同じで何が違うかを判断するのは主観的なものに過ぎない。例えば差別の問題に関しても、批判者からすれば、AとBは同じであるのに何故違う扱いをするのか、と言うだろうが、そもそもその「同じ」という判断自体が主観性によるものなのであり、批判されている側からすれば、AとBには明らかな差異があり、それに応じて異なった扱い、異なった対処をするのは当然だ、と言うだろう。そもそも一切は差異に満ちており、その差異が「差異として扱うべきほどの差異かどうか」、つまり、現実的差異があるかどうか、という主観的区分の問題でしかないのである。故に如何なる理論をもってしても、その区別が正当であるか、或いは不当であるかを客観的に示すことは出来ないのである。 

つまり、「大して変わらない」と認識されるものに関して、「同じだ」という論理を振りかざしているに過ぎないのである。

 

一人の人間の肉体がほとんど入れ替わってしまったとき、彼を彼として呼べるかどうか、という問題も、結局は、現実的差異がどれだけあるか、という感覚的問題に帰着する。つまり、「同一である」、ではなくて、「同一として見て良い」、という言い方の方が正しい。同一で良い、という感覚がどれだけ多いか少ないかの問題なのである(それはつまり、過去、現在、未来という時間的区分が、持続的な対象の中でどこかに便宜的な線引きをしようとする、実用的な区分化に過ぎないのと同様である)。

 


第三章 事実論

 

第三章 事実論

 

事実とは、判断の妥当性である。

 

つまり事実とは、「それで差し支えない」判断である。

 

妥当であるという事、差し支えないという事、それは結局事実が絶対客観的な事実ではなく、その判断で問題ないというレベルを超えないことを示す。

 

事実とは飽くまで確率であり、蓋然性であり、分量の問題である。自然科学はそれを極限まで高めたものである。つまりその法則がその対象全てに適応されるのが妥当と考える学問である。なぜなら科学的法則を客観的事実として受け入れることに対し、我々は基本的に問題なく、差し支えなく生きてきたのだから。

 

どんな科学法則も表面上は疑う事が出来るため、科学もまた究極的には蓋然性を超えるものではないが、その様な疑いは不毛な懐疑論であり、「明日地球は滅亡するという可能性を経験として否定できない以上、常に考慮しながら生きるべきだ」、と思うくらい無駄なことである。

 

手に持った石を離せば万有引力に従って下へ落ちるだろう。しかし全ての石がそうであるかを確かめたわけではない。しかし石は下へ落ちることを我々は何の疑問もなく仮定して生きている。それが我々にとって妥当な事実なのである。

 

事実判断を構成するあらゆる要素の中で現代人が最も信頼しているもの、それが科学である。 

 

科学的事実は究極的には蓋然性をはみ出るものではないが、人間活動という点からすれば、科学的事実はやはり客観的事実なのである。

 

懐疑論の立場から見ると、絶対的な同一性、つまり、AはAである、という判断は、科学的根拠を以てしても不可能であり、あらゆる事象の可能性を絶対的に否定することは出来ない。故に科学的な根拠を以てしても事実は妥当性を越え出ない

 

事実が確率の域を出るものではない以上、懐疑論を完璧に反駁することは不可能である。しかし、懐疑論はただただ無意味である。

 

どれだけ非科学的な疑いを掛けようが懐疑論者は科学的法則を信じて日々行動するだろう。それが妥当な判断であり、彼にとっての事実なのだから。

 

非科学的な思想を抱いている人間でさえ、その人なりの秩序を、法則を、事実を世界に与えているのであり、ただそれが他人と共有できるものかどうかの問題に過ぎない。

 

判断は一切が憶測、推量の域を出るものではない。しかし、憶測の域を出るものではない以上、その憶測を事実として受け止めて生きるほかないし、それで問題ないのである。

 

事実は想定の範疇を超えるものではない。事実とは想定であり、想定とは事実である。 

 いつも通い慣れており、昨日も行ってきたばかりの学校が、今この瞬間も存在していることを当然の事実として考えているが、実際はどうか分からない。自分が寝ている間に爆破され、既に無くなっており、自分はそれに気付いていないのかも知れない。或いは、目の前にいる母親を、私は母親として認識しているが、実は精密なロボットかも知れないし、そっくりな他人かも知れないし、幻覚を見ているのかも知れない。

しかしその様な可能性を考えるのは現実的に言って無意味であるし、正にその「現実的」な判断こそが対象の事実性を形作るのである。

 

つまりあらゆる認識は妥当的なものであり、便宜的なものであり、機能的なものである。

 

それがそれであると認識されることが、主体者にとって妥当であり、現実的であり、便宜的であり、機能的であるということが、認識の事実性を形作る。

 

目の前にあるリンゴが本当にリンゴであるかどうかは分からないし、懐疑論的可能性を考えれば永遠にその本質にはたどり着けない。しかしそれが精巧に作られた置物だろうと、或いは味も見た目もリンゴそっくりに出来た別の果物だろうと、認識者にとってそれがリンゴとして認識されている内は、それはリンゴでしかない。

 

目の前にある物体をリンゴだと判断する。それは判断者にとってリンゴであるという事実が生まれる。判断者はそれを個人的な判断だけでなく客観的な事実だと信じている。 

しかし実はそれをかじってみると、本物そっくりに作られた模造品であった。すると彼はそれを「自分の勘違いだった」と思うだろう。しかしそれは飽くまで、それが本物ではないという情報を取得したから自分の認識が誤謬であったという判断が生まれたのであり、それを本物のリンゴだと思っている限りにおいては、それは確かに本物のリンゴである。認識者が対象に自然な態度を取っている内は、それが偽物であるという情報、可能性は与えられていないのだから。

 

「そんなわけがない、主体者がそれをリンゴだと勘違いしていただけで、最初からそれは本物ではなく偽物のリンゴであったはずだ」、と反論するだろう。確かにその通りである。しかし、それは情報の更新によって得られた「反省的事実」、「回顧的事実」なのである。つまり、彼がそれを本物のリンゴであると自然的に受け取り、偽物かもしれないという疑念を挟む必要が全くなかった場合、彼の世界の中では確実にそれはリンゴでしかない。そのままそれに触れることがなければ、彼の中では永遠に本物のリンゴとして処理されるだろう。その物体の感触という新たな情報を得ることで初めて「それが偽物である可能性」が生まれたのであり(或いは他人から、「あれって本物のリンゴだったの?」と聞かれるなどして)、同時に、「それがずっと偽物であったという過去」が生まれたのである。つまり、対象の過去が更新されたのである(さらに言えば、それが本当に偽物であるかどうかさえも懐疑主義の立場に立てばやはり証明できるものではないのである)。 

新たな情報が取得されていない限り、それは事実である。

 

例えば科学的根拠があるとして長年の間社会的に正しいとされていたものが、新たな法則の発見によって根底から覆された場合、新たな発見によって、それがずっと間違いであったという形で過去が更新され、塗り替えられたのであって、その発見がなされる前は紛れもない事実であったし、我々が今、ごく当たり前のものとして受け取っている世界の諸法則も、未来においては間違ったものとして認識されているかも知れないが、少なくとも現在の我々はそれに疑いの余地を挟むことなく事実として接しているのである。

 

どうあれ、それが「本当に」リンゴであるのかどうかは永遠に分からない。しかし、それがリンゴだと認識し、接していくのが妥当であるという生命活動の要請によって、それがそれであるという事実認識、判断を生み出すのである。

 

つまり事実とは、客観的でも主観的でもなく、生物活動の結果としての事実である。あらゆる認識の形態は生物活動の文脈と共になされ、それが対象の事実、即ち世界の秩序=記号の体系を形成する。

 

全ての事実判断は実用性を伴うのであって、生命活動という文脈を無視した本質的判断は不可能である。故にあらゆる判断は絶対的事実へとたどり着けず、便宜性が絡む。

 

我々にとって重要なのは、それが何かではなく、それがどのような意味を持つかである。それが何であるかを客観的に決定する術はないが、真に必要なのはそれをどう扱うべきかなのであり、それをどう扱うべきものかという答えが、我々に客観的な事実として表れるのである。

 

人間は世界に秩序を与え、それを事実として受け入れて生きるのであれば、あらゆる事実は主体者にとって「それを事実と認識するのが一番良い」というレベルなのである。

 

事実とは、世界に対する秩序の事実であり、法則の事実であり、理論の事実である。あれが何を示し、これが何を示すか、という記号の連立関係の確実性である。あれは、リンゴである、とか、この人は、母親である、とか、この音は、感謝を示す言葉である、とか、この痕跡は、彼がものを盗んだ証である、とか、火に触れると、やけどをする、とか……。

 

超越的な事実を証明することは不可能だが、それでも人間は生きる為に何かを事実として判断しなければならない。

 

つまり事実とは、「事実という判断」であり、「事実という感情」であり、「事実として意識に与えられていること」である。

 

機能性という意味では、主観的判断は科学的事実と等しく事実なのである。そもそも科学的事実とは主観的事実を判断する上での拠り所の一つに過ぎない。つまり科学的事実は主観的事実に内包されているのである。科学を信じない人間からすれば、科学的に虚偽であるのと等価に科学は虚偽なのである。

 

事実とは、人々がそれを客観的事実であろうと思うところのものである。その事実が他者の存在を通した結果、一般的な意味での「事実」の概念が生まれる。

 

人間的事実は客観的事実である。客観的事実を人間が判断したのが事実である。これは矛盾である。パラドックスである。しかしそれが事実である。

 

無論事実は一つである、しかしそれは事実の可能性を極限に高めたもの以上ではあり得ない。絶対的事実、とは飽くまで比喩を超えることは出来ない。しかし人間的にはやはり絶対であり、絶対という感覚を抱いても問題ないし、絶対という言葉を使っても差し障りないのである。

 

哲学的見地から絶対的に何かを事実であると示すことは出来ないけども、そもそもその様な事実は存在しないのだから、現実的な事実を事実として扱うべきなのである。

 

それは決して、「全てが事実なのだ」、或いは、「一切の事実は存在しない」、というような、欺瞞的な多元論、極端な相対主義、空虚な懐疑論を意味するのではない。そもそも「これが事実である」とか「それは間違っている」という感情を本質的に全ての人間が備えているのであり、その感情こそが結局のところ「事実」の存在そのものなのである。 

形而上学的事実は証明不可能だが、現実的事実はやはりある。なぜなら現実的事実とは、人間的事実であり、「これは事実だ」、という感情のことであり、その様な感情は現に存在するのだから。

 

事実とは感情である。「それはそれであり、それ以外ではあり得ない」、と感じる気持ちのことである。その感情の存在自体への否定は不可能である為、やはり事実は存在するのである。

 

 つまり事実とは、確信内容である。私の意見と彼の意見が対立していたとして、私は私の意見の正当性に強い確信を抱いており、且つその意見の主張が私の生活上とても重要な意義を持つ場合、私の中で「私の意見は事実である」という認識が生まれているし、「彼の意見は非事実である」と判断が生じている。故に事実という感情は存在するし、事実という感情、確信感情こそが「事実の正体」なのだから、やはり事実は存在する、存在していると言わなくてはならない。

 

 結局のところ、事実とは判断そのもの、認識そのものであり、言い換えれば、事実とは、「信じている事柄」、「感じている事柄」、「思っている事柄」であって、ただその確信度合いが各対象によって異なるだけである。私の視界が何かを捉えれば、私はその対象に関する事実を判断という形で生み出しているし、私の耳がある人物の言葉を捉えれば、私はそこから感じ取れる事実を創造している。そう考えると、我々は普段から無数の事実を持っており、事実を存在せしめているわけで、認識が端から便宜的、実用的なものである以上、事実もまたそれを免れておらず、それが事実という言葉の実質的意義、事実的意義なのだから、やはり我々の生活上、事実は存在している。

 

 事実とは、確信の対象、内容であり、認識、判断そのものである。言い換えれば、認識とは、それがそうであると、それが事実であると「信じること」である。彼を彼と思って話し掛けるのは、彼を彼だと信じることであり、リンゴを口に運ぶのは、それがリンゴだと信じることであり、崖から離れて歩くのは、重力で体が落下すると信じることであり、これが認識者にとっての事実、認識、判断である。信じるという行為が量的なものであるのと同じように、事実もまた量的であり、それは確信の強弱――「信憑性」なのである。

 

現実的な相対主義というのは結局、主体者にとって無害な相違を許容すべきである、という正にそれ自体が相対的なものであって、主体者にとって有害であることを全て受け入れるのは無論不可能なのであり、我々は様々な他人との相違に対し、それが生活上重要な意義を持つ限りにおいて、何が正しいか何が間違っているかを「便宜的」に決定していかなければならないのである。

 

本質とは、「それをそれとして認識するところのもの」である。或いは、個人が形作った秩序に対して各々が覚える、正しい、という感情である。 

対象の本質はゼロの状態から綿密な思考の積み重ねによって構築されるものではなく、既に認識者の中で事前的に構築されている内容を反省的に記述することで得られる。

 

そもそも、事実、というのは、理論的に導き出すものではなく、既定の判断なのである。例えば、冷蔵庫の中からジュースを取り出して飲もうとすれば、ジュースがそこにある、ということを事実として自然と判断しているのであり、問いを生む必要もなく事実というものを理解している。それを絶対的なものとして理論で答えを導き出そうとすると混乱が生じる。 

つまり、これはリンゴであるかどうか、と考えることではなく、現にこれをリンゴとして認識していた、ということが、事実の正体なのである。

 

事実とは判断者にとっての線引きである。一体どれだけの情報が備わればそれをそれとして認識して良いか、という線引きの問題である。それも主観的な線引きである。知覚的な情報、他人から聞いた情報、様々な情報の取得の中で、これはこうであるともう判断しても問題ないだろう、という線が感覚的にあり、その判断を事実として受け取るのである。 

ある犯罪を、私自身が直接目撃していて、尚且つ科学的な確たる妥当性があったとしても、対象が全ての認識者にとって超越的存在である限り、やはり懐疑論的反駁は免れず、超越的絶対を約束することは出来ない。しかし、目撃者の証言、監視カメラの映像、現場の痕跡、容疑者の素行、動機、環境など、様々な情報を統合させることで、各記号の経験的諸法則に則って、各々の認識者の中で、「これだけの現象が確認されれば、もはや彼が犯人であること、彼が犯行を行ったことは疑いようがない」、という線引き=事実判断を形成するのである。

同様に、私は目の前にあるリンゴを、その視覚性や位置、状況などの情報の統合によって、これをリンゴと判断しても良いだろう、という「事実の醸成」を瞬間的、直観的に行っているのである。

 

つまり、事実か誤謬か、という判断は、記号と記号の連なりが、堅いか緩いか、直接的か間接的か、近いか遠いか、という「程度の問題」なのであり、どちらか一方に位置づけられるものではないのである。あらゆる認識、判断は、比喩の域を出るものではない。是か非か、正か否か、「ある」か「ない」か、という二元論的な判断は全て、「間違いなく」、とか、「限りなく」、とか、飽くまで量を表すものでしかない。

 

そういう意味では、一切の事実は究極的には価値判断である。あらゆる事実判断は、それが美しいとか醜いとかいう感覚的、美的、倫理的判断と本質的に同義であり、ただ一般的な価値問題より、客観的な実証性、他者との共有率が現実的に高いだけである。

 

結局ここで示されているのは、形而上学的な事実論を語るのはどういう方向に対してであれ無意味であり、「事実」という言葉は我々が普段使うような意味で使えば良いというだけのことである。 

なぜなら事実を語るとき我々は既に人間的事実の中に組み込まれており、秩序を語るとき我々は既に人間的秩序の中に存在してしまっているからである。思考の外に出て思考を分析することが出来ないように、そこには必ず思考の限界が生ずる。

 


第四章 認識の論理性

 

 

第四章 認識の論理性

 

一 論理的推論

  

論理学は言語活動に主軸を置いて研究されるが、人間の認識活動自体が論理学的な構造を持ち、論理とは言語活動だけでなくあらゆる判断に付随するものである。

 

 人間の認識、判断が、帰納と演繹を用いた論理的推論の形式を持つことを私達は学んだ。例えば目に飛び込んでくるものの正体を把握するといったような極初歩的な認識――「街で偶然友人Aを見掛けた」といったような例を取り上げて分析してみよう 

私は友人Aを知っている。今まで何度も会ったことがあるし、話をしたこともあるし、となれば当然、私は友人Aの姿を何度も目にしている。私は友人Aと接してきた中で、友人Aの見た目に関するはっきりとした記憶を、イメージを所有している。友人Aの体格、顔立ち、歩き方、服の傾向など、友人Aの外観に関する情報を所有している。これらは私にとって友人Aという存在に関する理論として作用する。彼と接してきた中で、彼の見た目に関して、「彼の見た目は~である」という命題を帰納的に算出している。これまで経験してきた「彼の見た目」という幾つもの事例から、共通項を、平均値を割り出している。

ある日私は街に繰り出すと、人混みの中に、私が友人Aに対して抱いている視覚的な情報と一致する人物を発見した。私は彼に関する理論という一般的前提から、目の前にいる人物という個別の事象の結果を演繹する。彼は友人Aである。

この工程を簡易な三段論法で表すとこの様になる。

 

1友人Aはある見た目をしている 

2目の前にいる人は、ある見た目をしている。

3目の前にいる人は、友人Aである。

 

当然これは厳密な論理としては誤謬にあたり、1と2から確実に3を導き出せるわけではない。友人Aがある見た目を保有していたところで、他の人もある見た目を保有している可能性はあるし、そもそも友人A自体が、今も私の知っているような見た目であるかは分からない。我々認識者が日常的に行う推論は非常に主観的で不確実なものである。

 

生ける日常において大前提及び小前提を絶対確実なものとして考えることは出来ないのだから、ここにどれだけ言葉を足したところで、絶対的な判断へと辿り着くことは出来ない。 

そもそもある対象への認識は、視覚的な要素だけで決定されるわけではない。その人物に関する一切の情報――今は海外にいる、とか、この時間は仕事をしている、とか、人物の判断に必要な様々な情報の統合で決定されるものである。まさか外国の雪山でAにそっくりな人を見掛けたところで、同一人物だとは思わないだろう。対象への推論は、対象に関するあらゆる複雑な情報、理論の統合によって為されているのであって、ただ対象に関する視覚的要素は、人間がその正体を判断する上で最も拠り所とする場合が多い為に、その部分が象徴的に取り上げられやすいだけである。

 

論理的な言語として明確に表現出来るものではないが、認識がこの様な構造を持つ事だけは確かである。「認識、判断が論理的推論の構造を持つのであれば、論理的に言語化できるはずではないか?」と疑問を持つ人もいるだろう。しかし、ここでいう論理とは、言語の論理ではない。例えば数学であっても言語ではないが論理的な仕組みを持っている。 

認識は経験による推論の形式を持つが、その対象となるものは、感覚的に捉えられたものでしかなく、如何なる概念で置き換えても矛盾が生じる。論理を他者と共有する為には、対象の区分化自体を共有している必要があるが、何と何を同じと見なすか、何と何を違うと見なすか、それ自体が主観的且つ先験的な判断によって成り立ち、世界が常に流動的なものである限り、他の概念で代替することは出来ないのである。

 

認識の根本的構造、推論の方法は、視覚からでなく、音や、触感、味、匂い、あるいは言語による知識など、あらゆる知覚を通して得られる細かな情報の統合によって行われる。その様な複雑な要素を別の概念で明確に表現、伝達することは出来ない。なぜならそれを別の概念で置き換えた時点で、主観的な区分化が行われており、既に伝達の対象となったものとの差異が生じているからである。 

 

人間の判断に備わる根源的な形式、論理的推論は、非常に曖昧で、確実性、厳密性に乏しく、主観性が強い。自然科学、論理学はそれを出来るだけ客観且つ普遍的に構築する学問である(しかし同時に、自然科学でさえも、ある集合体への法則が、それに属するこの世の全ての対象に当てはまるか、そしてそれが永続的であるかを調べる術はないのだから、結局は蓋然性を越え出るものではない)。

 

認識とは、個別の事象を、過去の共通事象から得た一般法則と照らし合わせて判断する、ということである。

ある見知らぬ男に関して、入れ墨をしているという情報を得たとしよう。認識者は、経験上、「入れ墨をしている人間」という複数の事例から、怖い人、威圧的な人、暴力的な人が多いという統計結果を得ており、「入れ墨」と「怖い人」という二つの記号に強い相関性があるという理論を導き出している。認識者はこう思うだろう。

 

1入れ墨をしている人は暴力的な人が多い 

2その男は入れ墨をしているらしい

3その男は暴力的な人である可能性が高い

 

 この「可能性」というのは、ゼロか百かという感覚で認識するわけではない。つまり、「その人間が実際にどういう人間か深く知るまでは、ただ可能性として存在するだけで、『相手は怖い人だ』と実際に感じる感覚はまだ持たない」、というのは虚偽である。実際にその人を深く知らずとも、経験から推察されるその可能性の高さの分だけ、実際に怖い人であるという判断が為されているのであり、それに応じた不安や恐怖感は覚えるように出来ているのである(それが生物にとっての様々な脅威に対する防衛手段であり、本能なのである)。常に認識内容に対して変化の余地を残しつつも、蓋然的、一時的であれ、その時点では確かに相手は怖い人でしかないのである(なぜなら人間は属性の集積であり、属性の示すものが真実として機能するからである)。

 

ある事象現象に対しその法則を考えるように、人間は互いの行動、発言に対し、その主体者自身に関する理論を常に見出している。 

 友達同士であるAとBが一緒に散歩をしていると、目の前にまだら模様の蛇が現れた。Bは蛇を前にして異様に怖がっており、その様子を見てAは、「彼は蛇がとても苦手である」、という理論を持った。しかし、後日また二人で歩いているときに、縞模様の大きな蛇が現れても、Bは全くそれに怖がる気配を見せなかった。というのも、Bは過去の特殊な体験によって、まだら模様を見るだけで恐怖感に襲われるようになっており、別にその蛇を恐れたのではなく、背中に描かれたまだら模様それ自体に恐怖感を覚えただけなのだった。このときAは思うだろう。

「Bは蛇が苦手だったんじゃないのか?」

認識とは、個別の事象を、過去の同じ様な事象群に関する法則、理論、統計と照らし合わせ、結果を演繹することである。つまり、

 

1蛇を前にして怯える人は、蛇の存在が苦手な人である 

2彼は蛇を前にして怯えていた

3彼は蛇が苦手な人である

 

「蛇の出現によって恐れおののくB」、という個別の事象を、「蛇を前にして怖がる人」、に関する理論と照らし合わせ、Bは蛇が苦手である、という答えを導き出したのである。

 

もっと深く突っ込めば、彼が飛び上がってガタガタ震える様子を見て、それは恐怖の表れである、と認識すること自体も、一つの演繹である。「その動作は何かに恐怖を抱いていることを表す」、という法則、理論に即して、「彼は恐怖に駆られている」という判断を為したのである。

 

理論は当然他者に対する認識のみならず己に対する認識にも同じように適応される。対象が自分自身であるだけにより多くの情報を取得しやすいが、無論、己自身であるからといって、常に正しい認識が行われるわけではないし、本質に辿り着くこともない。 

私はとある女性の姿を初めて目にした際、胸のドキドキが止まらなくなった。すると私は、自分は彼女のことが好きなのだ、と思うだろうし、彼女の諸性質を参考、サンプルに、自分の好きなタイプを考察するだろう。しかし、再び会ってみると、彼女に対して何のときめきも感じない。自分は彼女が好きなのだ、という理論を持っていたが、実はそうでないことを知った。初めて会ったときの私が特殊な心理状態にあったのかも知れないし、或いは彼女のどこかが変わったのかもしれない。とにかく私は認識を修正することを余儀なくされた。

 自分自身がどういう性質を持つかは、常に事後的な認識であり、己の感情の表れによって、自分の性格や体質を結果論的に整理し、理論立てているに過ぎないのである。

 

あらゆる論理、認識が本質的に誤謬を含んでしまうのは、世界の一切が厳密には再現不可能であり、絶対的同一が存在しないからである。 

遊園地に遊びに行った彼は、その日の帰り、「今日は楽しかった」、と感じ、それと同時に彼の中で、「遊園地に行くのは楽しい」、という論理が強まる。するとその理論に則り、もう一度遊園地に行こうと考えるだろう。しかし後日行ってみると、全然楽しいという感覚がなかった。結果、彼の中で、「遊園地に行くこと」と「楽しい」という二つの記号の相関性が弱まった。

もしもそれが厳格な理論となるならば、必ず再現可能でなければならない。しかし、それにはまず遊園地に行ったときの状況を、自分自身の状態なども含め全く同じに再現しなければならないが、厳密には不可能である。せいぜいあの時と同じ「ような」状況を作るのが限度であって、科学的、物理的な見地から見れば、細かなものであれ絶対的に差異は生じる。ただその差異が、大きな支障をもたらすほどの差異かどうか、という認識の問題に過ぎない。故に、あの時は楽しかったと感じたとしても、また遊園地に行って楽しめるかどうかは分からない。

遊園地に行って楽しい、という部分のみが抽出、境界化、分離化され、一つの理論として確立されてしまい、個別のケースにおける細かな諸々の条件は省かれてしまう。

 

理論とは再現可能であることである。諸々の科学的法則は再現可能性が高い。リンゴの見た目を持ったものは現にリンゴである、という理論も、再現可能性が高い。ある共通事例を比較する時に大きな差異が出にくいものであれば出にくいものであるほど再現可能性は高いものだ。しかし当然、絶対ではない。 

 私は目の前にある事物をリンゴだと判断した。それは目の前にある事物をリンゴと認識するのが妥当であるという直観の上に成立するものであり、またその直観は、如何なる手段を以てしても再現不可能な個別の状況の上に成立するものである。

あらゆる認識は「再現不可能な個別の状況」の上に成立する為に、如何なる理論を以てしても、絶対的な結果を導き出せない。

ある共通の認識、判断を抱いた複数の対象から見出せる別の共通要素、共通部分、共通属性を抽出し、それを軸に理論化、絶対化、画一化させ、同じ共通項を持ったものにその経験理論を適応させるのである(即ち帰納と演繹)。

 

蛇を前に震えるBの姿を見て、「Bは蛇が苦手だ」、と判断するのは、「蛇」という属性によって恐怖の対象を区分化したことになる。しかし彼は、その個別の蛇が持つ特性に恐怖を感じたのかも知れないし、たまたま精神的に不安定だったのかも知れないし、別の生き物と見間違えていたのかも知れないし、蛇も含めた諸事物の位置関係に特殊なヒステリーを起こしたのかも知れない。どうあれ、同じ状況は再現不可能である為、また蛇を前にしたからといって、同じ結果が導き出されるとは限らない。

 

理論の有用性とは再現可能性である。 

ある人は、「自分の親はとても子供に厳しい親だったから、自分も子供に厳しく接しようと思った」、と言う。しかしある人は、「自分の親はとても子供に厳しい親だったから、自分は逆に子供に優しくしようと思った」、と言う。

理論が正当なものとなるには、再現可能性を持っていなければならない。この場合で言うと、「とても厳しい親を持った人」は、「必ず自分の子供には特別厳しくなる」、或いは「逆に優しくなる」、という結果へ繋がらなくてはならないが、どちらであっても全てが同じ結果をもたらしているとは思えない。

 

 

 言語

 

知覚された一切が、何かを指示する記号として存在するのと同じように、言語もまた、何かを指示する記号として存在する。一切の意識対象は記号として機能するのだから、言語もまたその内の一つに過ぎず、認識の記号として特別なものではなく、同じ構造を持つ。

 

ある表情を見て、彼は喜んでいると判断したり、ある外観を見て、それは車であると判断したり、ある匂いを嗅いで、何かが焦げていると判断したりするのと同じように、ある言葉を見て聞いて、それが何を示すかを我々は判断する。

 

とある視覚的情報を取得して、その実態、その諸属性を連想する。例えばコップの見た目を見て、それがコップであると判断し、コップに纏わる諸属性――その重みや触感などを連想する。それはつまり、「コップの見た目」という情報が、ある対象の全体を判断していることであり、また、ある対象の全体が、「コップの見た目」という情報に集約されているということである。 

 それは言語でも全く同じ事で、「コップ」、という言葉が、コップという観念を連想し、コップに纏わる一切の情報が、「コップ」という言葉に集約されているのである。コップの手触りとか重みとかその知識とかが、「コップ」という言葉と関連性を持つのである。

 

言語とは、置き換えであり、代替物であり、集約化、簡略化である。認識の対象は何かを指示する記号として存在しているが、それら全てが言わば「置き換え」であり「代替物」であり、例えばリンゴの見た目は、そこにリンゴがあるということの置き換えとして機能しているし、汗を流して息を切らしている姿は、彼が激しい動きをして疲れているということを表現する代替物として機能している。現にそれを確かめたわけではないのに、目の前に映るある情報から判断している(認識が本質に辿り着くことが出来ない以上、確かめることは厳密には不可能なのだが)。それと同じように、言語もまた置き換えとして存在しているのである。

 

認識は便宜的なものなのだから、当然言語もまた便宜的なものである。認識が絶対本質にたどり着けなくとも、「あれにはああいう認識を持って問題ないだろう」という便宜的な判断として存在するように、言語もまた、本質を表現出来なくとも、「これはこういう言葉で表現すれば十分伝わるだろう」、という便宜的なものでしかないのである。

 

指示代名詞で考えると分かりやすい。「それ取って」、と言われても、「それ」が何を示すか多様な解釈が出来る。「あれってどうしたの?」と言われた私は、発話者が知っている最近の事柄を思い返すだろう。発話者は、具体的な対象物に対し、具体的な言語化が出来なかった為に、「あれ」という言葉で置き換えて、相手に伝達する。しかし、この「置き換え」、「集約化」は言語の本質であり、指示代名詞に限ったことではなく、言語とは一切が広義における指示代名詞なのである。

 

好きな食べ物は何ですか? と聞かれ、カレーです、と答えたとしよう。回答者はこの「カレー」という言葉に一般的なカレーのイメージを込めるだろう。一般的なカレーとは、つまり、我々が経験の上で出会ってきた多数派のカレーであり、統計上の平均値であり、人々が普通示すような意味でのカレーである。しかしカレーには普段我々があまり口にしないような種類のカレーもあるし、辛くて口に出来ないものでもカレーはカレーである。リンゴと答えたとしても、腐ったリンゴも未成熟なリンゴもリンゴであるには違いない。しかし回答者はこの様な例を初めから無視して答えているし、質問者もそれを了解しているのである。

 

彼は「猫は可愛い」と言う。では、とにかく凶暴で、見た目もおぞましい、化け物のような猫が現れたらどうか、と聞く。すると彼は、一般的な猫は可愛い、と言う。では、自分が死に直面している状況とか、或いは、一般的な猫が一億匹も目の前に突然現れたら可愛いと思うか、と聞く。すると彼は、特殊な状況でない限り可愛い、と言う。 

このように条件を次々に重ねていくと、結局は、「可愛いと思うものは可愛い」、という同語反復にしかならない。そもそも、一般的、とか、特殊な状況、とかいう言葉が指示するものも主観的で曖昧である。どこからどこまで、という境界、線引き、区分をしなければならないが、己自身が実際にそれを可愛いと感じるかどうかも想像だけでは明言出来ないし、非常に細かい要素によって、可愛いと思うか思わないかの違いは変化し、無限に近い差異に対して、その境界を厳密に探るなど不可能であり、ならば当然、それを言語で、いや言語のみならずあらゆる表現をもってしても完璧な伝達は不可能である。

その猫を実際に可愛いと思うかどうかは、それぞれの状況、対象によって異なるが、そう思う可能性が高い、という法則を彼は抱いているのである。言語化される以前でも、猫に出会うと可愛いと思うことが多い、という理論に則って行動しているのである。

 

一切は個別のケースに対する感覚的で主観的な判断に過ぎない為、完璧に伝達することは出来ず、ただ言葉を足すことによって、自分の感覚を出来るだけ精密に伝えようと努力出来るだけであり、しかしそれでも厳密には不可能で、そもそも自分自身がそれを正しいかどうかさえ把握できていないのである。どちらにしろ、現実的に考えて、日常生活において他人との会話の中で、一つ一つそこまで細かく厳格に伝達しようなど無理がある。

 

認識が蓋然的且つ画一的なものでしかなく、対象の本質に触れることが出来ないように、言語もまた蓋然的なものでしかなく、対象の本質を厳密に表現することは出来ない。発話者は永遠に対象そのものに言語で辿り着くことが出来ないのである。

 

同一が絶対的にあり得ない以上、当然言語によって完璧に表現することは出来ないだろう。 

もしも完璧な伝達が可能というならば、彼の経験した一切の状況、条件を、物質的な最小単位レベルまで全く同じ形で相手に繰り返してもらわなければならないが、それは神の手にでも掛からぬ限り不可能であり、ただそれに類似する状況、近似的な情報を相手に伝えることが限界である。

 

認識が画一化を含むように、言語もまた画一化を含む。同じものは一つとしてないのと同じである。 

一切は再現不可能なのだから、言語だろうと、絵であろうと、映像であろうと、その場で演じて見せようと、完璧な再現は不可能であり、再現しようとした時点でそれは本来のものではなく、差異が生じていることになる。

 

 一切の認識が、ある具体的な状況と共に存在し、具体的な状況性と共に判断されるように、言語もまた、その状況、文脈、前後関係、即ち、認識者に与えられている一切の情報と共に判断される。

 

言語的なパラドックスは、主体者の動機や意図、状況を無視することで起こる。あらゆる言語は文脈の中で解釈され、状況が付きまとうが、それを無視した場合、全ては解釈次第でパラドックスになり得る。言語には全て意味を持っている。意味不明なものでも何らかの意味がある。なぜその言葉が発せられたかという理由が存在する。ただ話し手と聞き手の言語に対する解釈が一致していないだけである。その言葉が発された際の諸々の条件、状況を想像することが解決への近道である。 

「私が今話していることは嘘です」、たとえこれ以外に何も言っていなかったとしても、私が今話していること、はその文を示しているとは限らない。私、も分からない。極端な話、発話者は幻覚を見たり、幻聴を聞いたりしているのかも知れない。つまりは、厳密に論理的な解決などなく、永遠に循環を追い続けるしかない。論理学は言語に社会的に共有率の高い意味を与えることを前提としているのである。

 

認識とは平均値である。同様に言語もまた平均値である。ある類似物に対して便宜的に付けたものでしかないのである。その明確な境界は存在しないのである。

例えばある事件で被害者が子供だと伝え聞くと、我々はいわゆる「子供」をイメージして可哀想と思うだろうが、しかし実際その子供がどんな子供かは分からない。年齢的に子供でも、様々な形の「子供」が考えられるからである。

女の人が、「男に裸を見られるのは嫌だ」、と言ったとしても、それは生物学的に男である人全て、という意味で言っているのではないだろう。見た目も雰囲気も中身も完全に女である男でも、男であることには変わりないし、逆に見た目も中身も男である女であれば、見られるのは嫌であろう。赤ん坊だって男は男であるし、彼氏や夫も男であるが見られても何も思わないかも知れないし、例外になりそうなものは幾らでも考えられる。それは結局、その発言における「男」という言葉が、彼女にとって「見られると不快に感じる相手」を示す代用品として機能しているのである。

見られたくない相手、というのを厳密に言語化することは出来ない。それは様々な細かい条件の下に直観的に判断されるからであり、尚且つ想像だけでは確証を持てないからである。例外を考えようと思えば尽きることはないし、自分でも今の段階では分かっていないだけかも知れない。故に結局は、「見られたくない相手には見られたくない」、という同語反復になり、何の説明もないことになってしまう。しかし、何らかの言語を以て相手に伝えなくてはならない。故にそうである可能性の高いある一つの属性を切り取って、全体化させる。そこで抽出されたのが、「男」という言葉だったのである。

認識は帰納と演繹である。見られたくない相手、という共通項を持った複数の事例から、別の共通項を発見する。するとそこには「男」という属性が高い割合で発見されるのである。

 

言葉はその言葉が持つ多数派を示し、例外を省いてしまう。例外の存在を考えることが出来ても、そもそも例外が存在しない認識など存在しないのだから、考慮するだけ無意味なのである。

 

一つの言葉を繰り出すと、その言葉に妥当する膨大な指示対象が見出され、発話者が意図していない例が必ずそこには含まれてしまう。世界が無限の変化に満ちている以上、厳密な論理化は絶対的に不可能である。

 

 一切は差異に満ちている。言語で表現されるものは、言語そのものではないのだから、当然ズレは生じるだろう。ある経験を言語で伝達しようとしても、その経験は視覚や聴覚や嗅覚など、感覚的に捉えられたものであり、それ自体が既に言語ではないのだから、当然、同一ではなく、「連想されたもの」でしかない。 

一切の認識は、対象への想定という範囲を出るものではないし、一切の論理は、対象の絶対性を確保するものにはならないし、一切の言語は、対象の代用品としかならないのである。

 

言語は矛盾を犯すし、認識も当然矛盾を犯す。しかし、直観は決して矛盾を犯さない。直観はただあるがままにあり、あらゆる現象に対してそれに適した直観を生む。直観に対して矛盾を感じ取っても、それは認識の方が過った法則で捉えていたり、言語化に失敗したりしているだけの話である。 

私は過去の経験から、自分は高いところが苦手なのだ、と思っていたが、ある高層ビルの屋上に出ても、恐怖を感じなかった。これは自分自身に対する理論の構築を過っただけで、各状況における感覚自体は常にあるがままにある。様々な高所の経験から、高所は私に恐怖を与えるものだという理論を構築したが、実際の所、自分でも気付かぬような、高所以外の何らかの要素と相まった結果として、恐怖という感情が生起されていたのかもしれない。故に、新たに高所へと登ったところで、確実に恐怖がまた生まれ出てくるかは分からない。あらゆるケースは差異を含み、完全に同一の状況など存在しないにもかかわらず、過去のそれぞれの経験と今回のケースとで任意の一点を抽出することで同一視し、それに対し違う結果が生まれたので矛盾と感じ取ったのである。

 

 彼女は動物保護活動をしており、動物の飼育に関する様々な提言をし、動物が平和に暮らせる環境作りを行っている。しかし一方で、彼女はクジラ肉が好物であり、専門の飲食店に足繁く通っている。その挙げ句、彼女は、「全ての動物は人間の都合で殺してはならない」、と発言した。私はそれに対し、彼女の言動は矛盾している、と感じ取るだろう。確かに、後者の矛盾は、言語上の論理的矛盾であり、日常的な解釈基準から言っても誤謬を含んでいることが分かるが、しかし、先程も述べたように、無限の変化に満ちた世界に対しては、たとえどれだけ言葉を多く足して厳密に自己の感覚を伝達しようとしても、必ず例外が、ズレが生じてしまう。 

前者の矛盾は、私の認識上の、記号化上の矛盾であり、私の早合点、画一化に過ぎない。前者の矛盾は、私が勝手に、彼女の活動は一切のほ乳類が該当する、という論理化を行ったに過ぎず、実際のところ一切の生き物には、種類でも個体でも、無限の差異が存在するのだから、彼女の中では、クジラは保護感情を起こすに必要な何らかの要素が欠けており、例外の存在なのである。矛盾は恣意的な論理の抽出=認識によって生じるのであり、彼女自身はずっと、各判断対象に対する自己の先験的な感覚、直覚に従って感情を形成し、動いているに過ぎない。

 

 直観は、二度と訪れぬただ一つの状況に対して個別的に向うものなので、その都度その都度の絶対的な妥当性があるのであるが、この直観を理論化、法則化しようとして、類似事例との共通項を抜き出すことで画一化されると、その例外の部分に出くわしたとき、論理的矛盾が認識の方で生まれるのである。

 

直観それ自体は、結果的な誤解、間違いを起こすことがあっても、矛盾は犯さない。矛盾というのは言語化、理論化によって事後的に生じるものであり、外的な矛盾は存在しても、内的な矛盾というものは存在しないのである。

 

 

三 因果

 

認識が主観的な統計法、帰納と演繹、経験則に基づくように、因果関係の判断もまた同じような構造で意識に与えられる。

 

 認識とは、ある共通項を持った複数の事象から、別の共通項を見出し、諸々の対象に相関性を発見することである。これを因果律に置き換えると、ある集合事象が起きた前後に、別の共通事象を見出すことが、因果関係の有無判断を形成する。

 

 また、認識が確率や蓋然性、想定の域を出ないのと同じように、因果性の判断も絶対客観的な答えを出すことは出来ない。純然たる因果というものは存在せず、あらゆる因果は主観性を含む。

 

私は今日、会社に向かう途中、いつも通っている交差点で、横断歩道を渡る際に、右折してきた車と軽く接触し、怪我を負った。その原因というものを考えてみる場合、通常であれば、運転手の不注意として片付けられるであろうが、それは飽くまでルール上の責任という意味での原因であって、もしも「原因」というものが、この事故が起きなかった可能性、という意味で考えるのであれば、例えば、運転手が今朝玄関を出るときにつまずいていたら、とか、歩行者が朝もう少し遅く起きていたら、とか、その道路で別の車同士が先に事故を起こしていたら、とか、これ以外にも、どれほど無関係に思えるような事象でも、可能性――「車と歩行者がその瞬間にぶつからなくなるような何かが起きていれば、或いは起きていなければ」、という可能性を原因とするのであれば、原因は無限に想定できてしまう。 

しかし実際のところ我々は、原因というものを考える際、より現実的なもの、確実なもの、限定的なものに絞って思考する。実際にそれを予期することが出来たか、とか、回避することが出来たか、とか、尚且つその必要があるかどうか、とか、現実的な観点の下に思考される。

 

自動車事故が起きる原因を考えてみる際、我々は、運転手の不注意、とか、飲酒運転、とか、居眠り運転、とか、既に幾つかの原因を想定している。なぜなら現に事故を起こす人間は、そのような状態であることが多いからである。 

自動車事故、という共通項を持つ複数の事例から、別の共通項を見出そうとし、ドライバーがよそ見していた、とか、かなりスピードが出ていた、とか、居眠りしていた、とか、酔っ払っていた、とかを考える。自動車事故に関わらず、どの様な行動を取っていたら予期せぬハプニングに遭うか、過去の無数の事例から推察する。その統計の結果、自動車事故と何らかの行動や意識が、因果関係にあることが認識され、その法則を基に、これから起きる個別の事故に対して、その原因を演繹する。しかし、あらゆる可能性が想定できてしまう以上、それが原因であると絶対的に明言することは出来ないのである。

 

それはつまり、とある現象の前後に対する、「どこからどこまで」、という主観的な区分化、境界化、線引きを意味する。 

 この事故が起きた原因を考えよう。歩行者である私は、ちゃんと青信号で渡ったし、特に急いでいたわけでもなかったし、車が右折してくる前に横断歩道に足を踏み入れていた。対して運転手は、考え事をしながら、ぼーっと一点だけを見詰めて運転をしており、ぶつかる直前になって気が付き、慌ててブレーキを踏んだ。これを知った時点で既に、運転手の不注意として片付けられるであろう。なぜなら「運転手の不注意」と「自動車事故」というのは、強い相関性があるという理論を我々は一般的に持っているからである。

では、何故注意を怠ったのか、ということ、つまり、事故の原因である、「不注意の原因」にまでは基本的に踏み入れない。事故の原因を分析するにおいて、不注意を招いた原因、というものに、事故へと繋がる必然性を感じないからである。

運転手は事故を起こす前、とあるコンビニに入っており、そこの店員の態度が非常に悪く、胸くそ悪い思いをしていた。その事について運転手は車に乗りながらずっと考えており、それが事故に繋がった。運転手は、あの店員さえいなければ、と考えるだろう。彼にとったら、「事故を起こしたのは、あの店員の責任である」、とその様に感じ取られるかもしれない。しかしその店員も第三者も、悪いのは運転手である、と考えるであろう。なぜなら嫌なことがあると必ず人間は事故を起こすとは限らないし、客が事故を起こす可能性まで店員は想定する必要がないからである。

 

さらに突っ込めば、その店員が悪い態度を取ったのは、店長の扱いに不満を持ったからで、店長の扱いが酷いのは、売り上げが悪いからで、売り上げが悪いのは、企業の経営方針が悪いからで、経営方針が悪いのは……と、無限後退を続けるだろう。「不注意を起こしていたとしても、その不注意を生み出さないような環境、或いはそれが事故に繋がらないような交通ルールにしておけば良かったではないか」、という言い方だって出来ないわけではない。しかし、現実的に、便宜的にどこかで線を引かなくては、永遠に因果を求めることは出来ないのである。最終的に線を引かれたポイントが、それが起きた原因として認識、判断されるのであり、その境界線というのは全く以て主観的で個人的なものでしかなく、如何なる理論を繰り出しても絶対客観的に正当化できるものではないのである。

 

居眠り運転で事故を起こしたとき、居眠りをしていたことが理由とされるが、居眠りをしていたからと言って絶対に事故を起こすとは限らないし、逆に居眠りしていなくても事故を起こしていたかも知れない。その二つが偶然重なった、という言い方も出来る。あらゆる対象が差異を含むように、あらゆる現象は偶然性を含むが、人間はその二つに因果認識をする。

 

つまり、因果の判断は必然性と偶然性の問題である。そこに必然性をどれだけ感じ取るか、という量の問題なのであり、はっきりと明確に線を引けるわけではない。その必然性というのが、認識における主観的統計、帰納法の結果なのであり、それは先に述べた、認識、判断、事実論の一般構造と同様に、推量、想定、信憑の問題なのである。 

 

転んだときに痛みを感じることが多かったら、転ぶことと痛みを感じることは因果関係があるとされる。もしもある未開部族が、雨の降った日には必ず悪いことが起こると考えていれば、彼等にとっては、我々が科学を信奉するのと同じような形で因果関係があるのである。

 

境界を設けなければ、決定論のように、この世のあらゆる現象は一続きであり、全てが原因と結果で繋がっている、と言わなくてはならない。決定論というのは、認識の区分化を無視した発想であり、一種の懐疑論なのである。

 

因果関係とは、ある現象の原因と結果という意味と同時に、「それがそうである理由」、記号同士、属性同士の相関性、必然性という意味を持つ。

 

日本人はシャイな人が多い、と思った場合、「日本人」と「シャイ」は強い相関性を持ち、同時に因果としての意味も持つ。例えば色々な人種がいる中で、日本人だけが常に消極的な態度を取っていたら、他の人々は、「彼は日本人だから」、と言うだろう。例えば、大人達が登山をしている中で、その中のたった一人の子供のペースが遅れれば、「まだ子供だから」、と言われるだろう。この「~だから」、という言葉は、対象者と対象者の行動に因果があるということを表現している。つまり、日本人と消極性は因果を持ち、子供と体力のなさは因果を持つという認識である。そうしてそれが認識者にとって理由として開示される。

 

ある一人の青年が身勝手な犯罪を繰り返したとする。すると親や関係者は、なぜ彼がそういう性格になったのかと考えるだろう。彼が凶悪な性格になった理由、原因を考える。甘やかしてきたからだ、とか、構ってやれなかったからだ、とか、悪い友達と付き合ったからだ、とか……それらは認識者にとって、子供が非行に走る可能性として強い関連性を持つことを意味している。それがそうであることの必然性として表れているのである。

 

因果とは理由である。ある現象が起きた理由を、その現象と強い相関性を持つものと結びつけるのである。

 

対象者の特性は認識者に対して、その特性と関連性があると感じる対象者の属性を意識させる。それは認識者にとって、対象者がその特性を持っていることに対する一つの因果、理由として開示される。それは逆に言えば、対象者を判断する上での重要な記号として表れることを意味している。

知らない人物を他人に伝える場合、年齢、性別、職業などが真っ先に来るだろう。それが一人の人物を判断する情報として、最も重要な、確実な記号として意味を持っていることを示している。我々は20才の人間と聞いてそれが示すものを想像するし、それに纏わる漠然たる諸属性も連想できる。男性、であっても、公務員、であっても、その見た目や能力や性格などを漠然とであれ連想する。それは自分がその属性を持つ人と実際に触れた結果、或いは他人から、メディアから伝え聞いたその統計、イメージを持っているからである。

 性犯罪の容疑者の自宅からアダルトグッズが多く回収されたという報道は、人々にとって、アダルトグッズの所有が性犯罪と強い相関性を持つということ、彼が性犯罪者であるという幾ばくかの根拠、理由として開示されていることを示すのである。それが認識者にとっての世界の秩序、記号の関連性として存在しているのである。

 

理論を形成することが生きることの第一歩なのである。あれは、食べ物である。これは、触ると熱い。あれをすると、損をする。こうすれば、良くなる……

 世界に法則を求めること、それが生物の根本的態度である。故に一々人は色々なことに対し、「~だから」、と付け加える。判断の正しさを証明する為に、それがそうであることの必然性を訴えたがるのだ。

人間は誰しも、世界に対して明確な秩序や法則、理論を求める欲求を抱えている。なぜ、という疑問を消化させる道具として因果は存在する。それは当然科学的なレベルだけでなく、ある一人の行動や発言、性格、価値観、思想など、内面的なレベルに関してもそうである。納得が、安心感が欲しい。故に人々は、「~だから」、という論理を、理由を、因果を求める。

 

 

四 理由

  

理由とは、因果と同じように、一つの理論である。ある結果が必ず起きる法則であり、厳密な答えを客観的に演繹することが可能な論理であり、ある結果を導く為の統一されたルールのことである。

 

それは例えば、「現象Aが起きれば、必ず現象Bが起きる」、といったような、物理的法則と同じ論理構造を持つが、しかし、懐疑主義的可能性が反駁不可能である以上、絶対的な理由は存在し得ず、どの様な物理的因果性を用いようが、我々は懐疑主義的思考を以て反駁するだろう。まして、物理現象からはみ出た事象の理由というのは、余計に他者との共有率が低いことが多く、様々な軋轢が生じてしまう。

 

理由とは、ある一定の判断をもたらす複数の事象から得られる共通要素の事である。それは認識の根本原理と同じように、統計、帰納法、経験則に基づくものである。

 

理由は我々にとって飽くまで可能性、蓋然性、確率として表れるだけであり、絶対的な因果を持つことはない(その可能性の高ささえも主観的である)。如何なる理由も反駁し得るし、絶対的な根拠となり得ないのである。しかしそれでも我々は、合理的に世界を生き抜く為に、他者と共存していく為に、諸事象諸現象に対し理由を設けなくてはならない。

 

ある判断が絶対的に正しいことは証明できないと我々は既に知っているが、結局、理由というのは、ある認識が正しいものである根拠、と同じ事であり、故に理由は根本的に誤謬を犯す。

 

 つまるところ、理由とは、己の根拠なき直観、判断を正当化する為の道具である。

 

幾ら理由を述べても、懐疑論的思考によって様々な反駁を受け、その度に新たな言葉を足すだろうが、最終的には主観的な判断に辿り着かざるを得ず、「Aであったから、Aという判断を下したのだ」、という循環論法に陥る。「あれと全く同じ状況なら、全く同じ判断を下すだろう」、というのは当たり前の話である。しかし、厳密に同じ状況など二度となく、ルールとして統一できるものではないので、理由にならない。

 これは言語化の誤謬と同じ構造を持っている。理由化とはつまるところ言語化である。我々は言語というものが、単なる便宜的な置き換えに過ぎないということを学んだ。幾ら言葉を足したところで、それが本質を表現することは絶対に不可能である。

 

理由とは因果律であり、因果律は区分化されたものである為に、絶対性はない。ある分かりやすい一つの理由、現実的な因果が抽出されたに過ぎない。ある判断は、全て主観的な直観の中に集約されており、分解できるものではない。それを理由化するのは全て主観的な区分化である。

 

 認識が主観的な区分化に満ちている以上、万人が共有できる客観的な理論を繰り出すことは出来ない。認識は一切が差異に満ちている為、それが正しいことを示す共通の理論を繰り出すのは不可能である。

 

理由の前に直観が先行するのであり、根拠なき価値観がまず最初にあり、それに対して客観的に正当であるような理由付けを行うのである。

 

 動物愛護家の私は、「動物も人間も同じ生き物なのに、なぜ動物は殺しても良いのか」、と問うかも知れない。これは、「動物も人間も同じ生き物である」、というのが、「動物を殺してはいけない理由」として意味しているという事である。つまり、「動物を殺してはいけない」のは、「動物が人間と同じ生き物である」からである。

しかし、生き物、という形で言えば、虫だって、植物だって生き物と言えるし、「もの」に命が宿っていると本気で信じている人間は、「もの」を破壊するのも殺人であると言うかも知れず、そこに客観的な境界はなく、そもそも、生き物という共通項を持てば同じ扱いをすべきなのであれば、人間が持つ社会的ルールの一切を動物に要求しなければならない。

つまり、人間も動物も同じだ、という認識が既に主観的な区分化の結果なのであり、初めにあるのは、動物を殺してはいけない、という根拠なき偶然的価値観である。その感覚が正しいことを主張する為に、理由付けを行う。先程も述べたとおり、理由とは理論であり、統一されたルールである。全ての人間が論理的に共有できる理論を述べなくてはならない。その際にまず、「殺してはいけない」という直観的判断を社会的に共有する別の対象を見出す。つまり、人間である。同時に、人間と動物の共通項を探し、「生き物」とか「ほ乳類」とか「知性」とかを抽出する。結果、「同じ生き物なのに」という理由が作られるのである。

 

ある判断に対し、一つの論理を抽出し、それと同じ論理を持った別の例と同一視する。これは人間がある対象の認識において、属性によって同一視し、まとめて判断するのと同じ事である。しかし別の事例を持ち出した時点で、それは別の事例なのであり、ある一点の共通する論理があるからといって、それ以外は別なのだから、絶対的なものとはなり得ない。

 

問題Aと問題Bは、同じである、或いは、同じではない、と判断を下すのは、主観的であり、より根本的に言えば、同じ問題など物理的に不可能なのだが、同じだとか同じではないとか言うのである。飽くまで感覚的な価値判断が先行しており、価値判断のあとに、同一性の有無を言語によって理由化するのである。

 

 人物AとBが同じ行為をしたが、Aは許されたのに、Bは許されなかった、なぜAは良くてBは駄目なのか?

そもそもあらゆる事例は違うものである。「同じ行為をした」、と言っている時点で、行為という論理によって区分化され、切り取られているのである。実際は、その空間、時間、行為者あるいは対象者の心理や周囲の様子など、幾らでも二つの事例における差異は見出せるが、批判者にとっては、それらは無意味な差異として映り――言い換えれば、現実的差異がないものと映り、Aの場合もBの場合も同じように許されないもの、或いは許されるものとして映った。それを証明する為に、行為、という共通の部分で区切り、同じ行為をしたのに、と理論立てるのであるが、行為という部分で切り取った時点で、他の無数の差異を殺しているのである。

 

同じ判断を持った対象に対して、同じ属性を抽出し、同じ生き物なのに、同じ人間なのに、同じ子供なのに、同じ身分なのに、同じ性別なのに、同じ人種なのに、とか、共通要素を理論の軸にすることで、二つに対して同じ判断が客観的に演繹されるように仕組む。

しかし、もしもある部分で共通要素がある場合は同じ扱い、同じ判断を与えるべきなのであれば、連続殺人犯も、犯罪歴のない市民も、同じ人間、であるし、同じ大人、であるし、同じ日本人、であるし、となれば全く同じ扱いを受けるべきであるが、同じである部分を持つと同時に、例えば、同じ殺人犯ではない、とか、同じ経歴ではない、とか、同じ性格ではない、とか、同じ能力ではない、とか、その他言語で上手く言い表せないようなものも含め、同じではない無数の差異が存在するのだから、それに対して違う判断、違う扱いが与えられても何ら不思議ではなく、結局は直観、個人的価値観の問題に帰着するのであり、如何なる理論を以てしても己の正しさを証明することは出来ないのである。

 

数学の概念を万人が一般的には共有できるように、論理の概念もまた共有できるものだが、しかし価値観は共有できるものではない為、万人の共有物である論理に訴えかけようとするのである。

 



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