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   序

 

ある平等主義者は訴える。

「差別はこの世で最もあくどい所業だ。差別を根絶しなければならない」。

あるマイノリティは糾弾する。

「それは差別だ。この様にして我々は社会から差別されてきたのだ」。

 人々は、彼等の訴えを素朴に受け入れ、その主張を共有し、彼らに非難されているものを、即座に社会の悪として、罪として敵視し、根絶を目指す。

 

 しかし、一体、差別とは、何であろうか? 彼らは何を根拠に、それを差別であると判断するのだろうか? 客観的に、絶対的に、理論的に、それが差別であることを証明する手立てを、我々が所有していたことが過去に一度でもあっただろうか? 断じて否。我々は、何故それが差別であるかを万人が納得する形で提示できる根拠を決して持ち得ていないのである。 

 にもかかわらず、人は、何かを差別であると軽々に判断し、非難し、社会に同意を求める。するとその訴えを聞いた側も、何の検証も、何の疑義も、何の躊躇も挟むことなく、すぐさま告発者の意見に賛同し、問題視されているものを不当な存在として社会的に扱い、一致団結して排除する方向へ向かう。

 

 我々が今回目的とするのは、正にこの様な時代的傾向への警鐘を鳴らすこと――即ち、安易な差別批判の横行が、現代において一つの権力として、圧力として、暴力として機能している自体を暴き出すことである。故に、重要なのは、差別を分析することではなく、差別認定を分析すること、即ち、人はなぜ差別をするのか、ではなく、人は何故それを差別と認定するのか、という、差別批判者側の心理に焦点を当てることである。 

差別認定に関する理論を構築するためには、差別そのものに関する分析もまた必要とされるわけであるが、しかし、それは決して、具体的にどの様な性質を持った事例が差別となり、如何なる論理を有したものは差別とならないかを選別すること、つまり、それが差別であることを証明する理論を組み立てることではなく、むしろ逆――客観的な差別の判別が不可能であること、何が差別であり何が差別でないかは、結局のところ主観性の域を出るものではないという事実を暴露することである。

 即ち、本書の目的は、次の命題の立証に集約される。

「差別は、差別批判者によって作られる」。

 

これは、差別に関する論考ではなく、差別認定に関する論考である。

 


第一章 認識の根本構造

 

 

第一部 差別論

  

  第一章 認識の根本構造

 

   第一節 画一化

 

     一

 

実のところ、差別とは何か? という問いに答えることは、認識そのものの機能について語ることと変わらない。人が何かを差別として非難するとき、如何なる場合であろうと、必ずその普遍的動機として、ある集合体に対する画一化、或いは区別化という作用への否定という問題意識を先験的に有しており――画一化、とはつまり、「ある属性を持つ人々に対する一面的判断」であり、区別化、とはつまり、「ある集合体に対する他の集合体との異なった判断」、という思考法についてであるが、この二つの要素は、必然的に表裏一体を成しており――というのも、複数の事象を一つのカテゴリーとしてまとめることは、同時に、その他の事象群との差異を見出さなければ成立しないからであり、ではなぜ、差別論を語ることと認識論を語ることが同じなのであるかと言うと、正にその、「画一化と区別化」=「境界化」という作用自体が、実は認識の普遍的機能そのものとして内包されているものだからである(実際は認識のみならず、一切の思考、意識作用の根源として当てはまる)。

これを上手く説明するために、我々はまず、人間の認識機能における基礎的構造について、必要最低限の分だけ触れなくてはならない(自著「認識の論理」参照)。

 

     二

 

「認識の論理」の中で、生物の認識機能というものが、根源的に画一化、記号化、平均化を内包していることを述べた。その画一化は、個と他を繋ぐ共通要素に対する横の画一化であり、同時に個を個としてまとめる縦の画一化でもある。そうしてその「認識による画一化」における一つ一つの判断は、主観的な帰納と演繹、経験則、統計結果に基づくものであり、便宜的な、可変的な、必要悪としての画一化なのである。 

人間は対象の存在、本質、全体像、即ち、「それが何であり、どの様なものであるか」、を判断する際、その対象から直接的に読み取れる情報(記号、属性)を頼りとする。例えば私が目の前の物体を捉えたとき、その形、その色味、その匂い、その在処、その動きなど、現時点で直接的に取得されている情報の統合によって、それが何であるかを直観的に判断している。その赤さや、丸みや、大きさや、置き場所など、対象から知覚される要素から、私はその物体に「リンゴ」という判断を加え、同時に「リンゴ」が持つ一般性質をその対象物に想定する――これくらいの重さであろう、とか、こんな味であろう、とか、中はこうなっているだろう、とか、この様な手触りであろう、とか、一ヶ月後はこうなっているであろう、とか、未だ直接的に知覚されざる部分を独りでに仮定している。これが認識=判断の基礎的な働きである。これは私の中で、その対象物の視覚性であるとか、匂いであるとか、位置関係であるとかの、対象物から知覚された情報に、「リンゴ」という存在を表すもの、示すものとしての世界の法則、理論を経験的に構築しているからであり、目の前の個別の対象物から知覚された属性(見た目や匂いなど)に関する、過去の経験より得られた結果を援用し、目の前の個別の対象物の未だ知覚されざる部分=全体像(「リンゴである」という判断。リンゴの持つ一般的諸性質)を演繹するのである。

 

これは人間に関する判断においても変わらない。私がレストランでとある客を見掛けた場合、私はその人から得られる情報(記号、属性)によってその人を判断する。髪が短く、髭を生やし、目つきが鋭く、小汚い服装をし、刺青を入れ、体格ががっちりとしていることから、私は彼に、男性である、という判断を自然的に加えている。これは、それら見た目という属性、記号が、「男性」、という性別を示す素材であることが、経験的統計によって導き出されているからであり、同時に、「歳は40代」、とか、「野性的な性格」、とか、「堅い仕事に就いていない」、などの性質を示すものとしても私に表れている。或いはそれ以前に、姿形から、「人間である」と当然のように判断しているし、席に着いて食事をしていることから、「店員ではなく客である」、とか、料理の残り具合から見て、「少なくとも二十分以上前に入店している」、とか、彼に関する様々な命題を直観的に想定している。

そうしてこれら自然的、直観的な判断、想定は、私にとって一つの事実として機能する。というのも、この時点で私には彼を判断する材料、情報が、それ以上取得されていないために、現時点で知覚されている記号を頼りに、その記号に関する複数の経験的法則から、彼という存在の性質を見極めるしかないからである。しかし同時に、これら一つ一つの記号、属性、知覚対象に関する意味の判断は、飽くまで過去における複数の共通事象により経験に得られた、確率的、統計的な結果に過ぎないために、それらの事実を絶対的なものとして保持しているわけではない。

例えば私は、彼の姿を目にした瞬間に、漠然と、「歳は四十代」という想定を加えているわけであるが、この判断は、彼に関する視覚的な情報が、四十代、という性質を示す可能性、確率が、統計的に高かったという経験を私は有しているからであり、ならば当然、そうではなかった経験、そうではない可能性も有していることになる。後で第三者に、その男は絶対に四十代だったか、と聞かれても、私は確信を持って答えることは出来ないし、私にはそう見えた、と答えるのが限度であろう。例えばこれが、さらに新たな情報を取得することで――彼の声が異様に細く高かったり、就職活動の話をしていたりすれば、それらの属性による統計から、彼がもっと若い年齢であることの可能性、確率を私の中で高めるだろうし、逆に彼が子供の話をしていたり、四十肩の話をしていたりすれば、彼が四十代の年齢であることの判断を、より強固なものとするであろう。これが年齢ではなくて性別に関する判断となれば、より信憑性の強い事実として私に表れているだろうし、「彼は人間である」、という判断に関してとなると、もはや私は絶対的な確信と共にその判断を抱き、疑いを挟もうとすることはないであろう(ただしやはり、彼が機械仕掛けで出来ていることを目の当たりにすれば、彼はロボットだったという判断に変化するかもしれない)。

現在的な「表れ」が、私にとって暫定的事実として機能する。なぜならそれ以上に彼を判断する情報を私は彼から取得していないからであり、今現に私に与えられている彼の情報(属性、記号)、素材を頼りに、経験的秩序、法則に照らし合わせて相手の実像を判断する以外ないからである。少なくともこの時点で彼は私にとって、確かに「男性」でしかないし、「40代」でしかないし、「野性的な人」でしかない。ただし、その事実は、飽くまで仮定的、想定的、暫定的な、常に変化可能な事実として存在し、絶対的、確信的な事実として私に表れるとは限らないのである。

つまり、認識=判断は、私にとって飽くまで、蓋然的、抽象的、不確定的なものとしてしか表れておらず、彼に対して抱くイメージ、想定、推察として存在しており、未来の如何なる新たな事象にも左右されぬ絶対的確信として所有しているわけではない。ただ私は、過去の経験から得られた法則を、目の前の新たな事象に援用し、そこから読み取られる結果、事実を演繹しているに過ぎず、飽くまで「そうである確率、可能性の高さ」として私に表れており――つまり、その暫定的事実は、過去の統計によって得られた、対象属性が示す意味の蓋然性の高さに応じて、真実であるという確信の度合いが変わってくるのである。暫定的事実は飽くまで暫定的なので、常に変化の余地を残すものであるが、一つ一つの時点においては、確かに事実として認識者に表れ、それ以上深く知ろうとしない態度においては、それを事実として――最も有力な事実として所有しているのである。事実とは、事実か虚偽かという質の問題ではなく、どれだけ信憑性があるか、という量的な問題なのであり、懐疑論的な一切の非現実的可能性を一応は想定可能な以上、事実もまた決して想定の域を出るものではなく、それぞれの判断における確信の度合いに違いがあるに過ぎない。

 

私は経験によって帰納的に構築されている世界の法則を用いて、彼という存在から瞬時に知覚可能な属性が指示する結果を演繹し、彼という存在の性質を自然的に判断したわけであるが、今度は逆に、彼という存在を深く知り、彼というサンプルを得ることによって、私の中の世界の理論に対して、新たな変化をもたらすことになる。 

 例えば、私がその男に声を掛け、話を聞く内に、私が彼に想定していたものとは全く違う情報を取得したとしよう。実は彼はこの店の経営者であり、歳はまだ二十代であり、そのしゃべり声は非常に高く細く、おしとやかで、常に弱気な態度であり、野生さの欠片も見られなかった。するとまず第一に、私の中で更新されるのは、当然、彼という存在そのものの性質に関する法則である。新たな情報、材料を知覚、取得した結果、「彼はこの店の経営者で、真面目で律儀、穏やかで柔和な性格で、教養深い人である」、という、彼に関する新たな理論を手に入れ、これがまた私にとっての現時点での暫定的事実として機能し、以後、彼という人物について考えたり、接したりする際に、彼に関するこの法則を念頭に置いて行動するのである。

さらにまた、彼の新たな情報=属性を知ったことによって、今度はその属性に関する経験的理論から、その属性が指示する新たな性質を彼に想定することになるだろう――「飲食店の経営者」、という属性から、「彼は料理上手である」、という一面を想定したり、「教養深い」、という属性から、「彼は高学歴である」、という過去を導き出したり、「真面目で律儀」、という属性から、「彼は派手な遊びはしない」、というイメージを加えたりするだろう。新たな情報が知覚されることによって、その情報=属性と相関性を持つ確率の高い性質が想定されていき、彼と触れ合う度に、彼を知る度にこれが繰り返されていくだろう。

 

私は彼に関する新たな情報を取得することで、彼に関する理論を更新させた。しかし、世界に対する私の中の法則、秩序、理論の書き換えは、これだけに留まらない。彼の行動が、彼という存在の法則を書き換えると同時に、余波はさらに拡大し、彼という存在そのものが、彼から見出される諸記号、諸属性そのものに関連する世界の秩序体系へと影響を及ぼす。この一個人の持つ諸性質は、この諸属性、諸記号それ自体が指示する性質として、世界の諸々の方程式に変化を加えるのである。

例えば、彼と同じような「むさ苦しくガタイの良い見た目」という記号を抱える人が、「野性的な性格である」という法則の信憑性を一歩弱め、逆に、「大人しく温厚な人」を表す確率を一歩高めることになるし、或いは、「レストランの経営者」という属性が、「二十代」という年齢であることの可能性を高め、それ以外の年齢であることの可能性を低めることになるだろう。もしも彼が「映画好き」であったとすれば、同じように、彼から見出される諸属性――「いかつい見た目」とか、「二十代という年齢」とか、「レストランの経営者」とか、「臆病さ」とか、「高く細い声」とか、あらゆる性質が、「映画好き」、という属性と関連性、相関性、因果性のあるものとしての法則を強めるし、実は彼が「女性」であると知れば、この様な人物が女性であることの確率を私の中で高めるであろうし、もしも彼が殺人犯であると知れば、この様な人物が殺人犯であるという理論の事実性を、私の中で強めるだろう。

つまり、この人物が抱える全ての情報、性質、属性が、互いに相関的関係にあるものとして、私の中で繋がりを強める。もしも彼が、最初私が彼に想定した判断通りの存在であれば、彼から見出された諸事象、諸項目に対する私の中の理論は、さらに確信を深め、より確固とした法則として理解し、今後、世界と対峙していく上で、同様の記号と出会う度に、その方程式を用いて、実態を演繹していくだろう。もともとレストランの人物を私の意識が捉えたとき、私が過去に知覚してきた無数の個人に対する経験的統合から、彼という対象物に対し、その帰納的理論を用いて、彼から取得出来る諸記号、諸属性を頼りに、彼という対象物が何であるか、どの様な性質を持つかを自然的に決定していたわけであって、となれば今度は逆に、彼という個人が、ある性質に対する法則を見出すための、一材料として組み込まれるのである。彼という標本を知ることで、私の中の世界の法則に少しだけ変化をもたらすのであり、これら様々な標本の集積が、私の世界を、未来の行動を形作るのである。

当然この人物は、世界の法則を知るための無数のサンプルの一人に過ぎないために、この人物から抽出される諸属性が互いに絶対的な指示関係にあるという認識を持つには至らない。例えばある一人の人物から、「髪が薄い」という属性と、「学校の教師」、という属性が読み取れたとしても、その二つの記号が絶対的な因果関係にあるとは思わないであろう。その二つに関連性があるという確信を持つためには、同じ性質を持った複数のサンプルを必要とし、相当数の統計材料を得なくてはならない。「髪が薄い人」が、現に「学校の教師」である確率、統計が実際に圧倒的な高さを誇っていた場合、我々は「髪が薄い人」を見たら、「学校の教師」であるという想定、判断を強く持つようになるであろう。

この様な認識の構造をより厳密にしたのが自然科学であり、科学的法則を発見することと、日常的な認識、判断とは、ただその厳密性、確実性、及び他者との共有率に差があるだけであり、構造は変わらないのである。

 

     三

 

認識の画一化、とは正に、この様な認識の根本構造そのものにある。ある対象を、過去の何かと同一視し、諸経験から得られた帰納的理論を参照とし、その正体を演繹していくのである。目の前に飛び込んできたリンゴは、初めて出会ったリンゴであるにも関わらず、過去の同じような視覚性を有した対象と照らし合わせることで、それはリンゴである、と瞬時に判断しているし、その重量や、匂いや、味や、過去や未来の姿を同時に想定している。隣の個室から聞こえてくる声を聞いた際、私はその人物の実像を何も知らないにも関わらず、その声質や口調を、過去の類似素材と照らし合わせ、発話者の性別や容姿や年齢など、全体像を連想するだろう。

この様な全体化作用は、初対面の対象物だけに適応されるものではなく、既に経験済みの対象、既知の対象、個別の対象においても同様の構造を以て為されている。友人Aを見掛けたとき、私はそれが友人Aであることを、友人Aに関する諸経験から得られた理論――その容姿、動き、出現パターンなどに則って判断しているわけであるが、しかし実際のところ、友人Aがその都度有している諸要素は、以前私が彼を直接的に経験、知覚したときとは、ミクロ的な無数の変化、物質的な一切の差異で常に満ちているわけであって、その微細な差異を無視して、私は私が友人Aに対して抱いているイメージを、目の前の人物に勝手に重ね合わせているに過ぎないのである。つまり、個体に対する判断も、集合体に対する判断も、その基本的な構造は同じであり、どちらも同様に、対象を過去の何かと同一視すること、画一的に見ることによって、その全貌を読み取ろうとするのである。

「友人A」という属性は、社会的属性と同じように、何らかの副次的、付随的性質を指示するものとして存在する。私にとって、「日本人」という属性が、シャイだとか、小柄だとかいう性質を示したり、「太った体」という属性が、不潔さだとか、運動嫌いだとかいう結果を示したり、「医者」という属性が、高学歴だとか、厳格さだとかと関連性を示したりするのと同じように、「友人A」という属性が、そのDNA上の判別以外に、優しい性格だとか、二十歳という年齢だとか、特定の容姿だとか、勉強嫌いだとかいう蓋然的性質を示すのである。

さらに細分化し、現象、について考えてみよう。電車内、大声でおしゃべりをしている人を見て、友人Aは、「ああいう人は嫌いだ」と怒りに震えていた。そんな彼の様子を見て、私は彼が、マナーに厳しい人、正義感の強い人、他人の声に敏感な人、など、一つの現象から、友人Aの性質に関する様々な判断を行うだろう。彼はそういう人間であり、これからもそうであろう、という想定を念頭に彼と接するし、それを彼という存在の法則として、本質として認識するだろう。しかし、彼がある出来事に怒りを覚えていたからと言って、そこから導き出した判断が当たるとは限らず、類推の域を出ない。彼が怒ったのは、声が大きいからではなく、その声の雰囲気が嫌いだったからかも知れない、或いは、話の内容に腹が立っていたのかも知れない、或いは、好きな電車の中だから怒りを覚えただけで、バスや図書館などでは気にも留めないかも知れない、或いは、今はそうでも、三日後は他人の振る舞いに気を掛けなくなっているかも知れない。つまり、目の前の行為、出来事、現象も、私にとって飽くまで記号としてしか表れず、彼の未来、彼の今この瞬間の性質を類推するための素材でしかないのである。

 

結局のところ、固有属性と抽象属性、個体と集合体は、認識の判断論理としては何も変わらず、単にその属性を抱えている人間、その対象となるものの数に違いがあるに過ぎず、数が違う以上、理論の当たる蓋然性、法則の厳密性、確率に違いが出やすいだけである。

個人に対する時間軸的な判断である「縦の画一化」と、属性に対する集合的な判断である「横の画一化」、この二つは互いに影響を及ぼし合いながら構築されていく。というのも、結局、ある一般属性への帰納的な経験則というのは、「個人」という一人一人の事象に対する経験の積み重ねに他ならないからである。

 

この様な、認識による世界の記号化は、無論人間や物体に関する判断のみならず、例えば絵であるとか、文字であるとか、音楽であるとか、言語であるとか、とにかく、耳から入るもの、目で捉えるもの、嗅覚に訴えかけるもの、肌で感じ取るもの、即ち一切の知覚の対象、認識の対象においても変わらず、全ての属性は「それが何を意味するものであるか」を指示する記号として存在しており、そうしてその「それが何を意味するか」が、認識者にとって暫定的事実として表れ、その事実は情報の取得によってその都度更新されていくものなのである。

つまり属性とは、それが何であるか、その本性、その本体を的確に捉えるためのヒントとして存在している。見た目とか、仕草とか、しゃべり方とか、職業とか、言葉遣いとか、全てはその本体が何であるか、どの様な性質を持つかを判断するための記号として存在し、それら記号の集積が、一人の人間を形成する。

「知覚された部分から知覚されざる部分を想像すること」、「見えている部分から見えていない全体を類推すること」、それが認識、判断の全貌なのであり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。

認識というものが、属性区分による他者の記号的判断という構造によって成り立っている以上、一切の認識は、先験的に画一化、統一化という作用を有している。一切の認識は、意識に取り込まれた記号の内容を、過去の記号の結果と同一視する「先入観」「偏見」の域を超えることはなく、ただその判断の内容、及びその蓋然性、事実性に違いが表れるだけである。

 

つまり人間そのもの、或いは認識の対象そのものが属性の、記号の集積に過ぎず、対象者から見出せる属性を、同じ属性を持つ複数の標本から得られた共通結果を頼りに、目の前の対象者に、憶測という名の判断をその都度その都度加えるほかなく、認識が対象そのものの本質に迫ることは不可能なのである。 

この様な画一化、秩序化を免れた「純粋な認識」というものは絶対的に不可能であり、あらゆる認識が、その本質なるものに直接届くことがないのであれば(本質にたどり着くことがないのであれば、そもそも本質という概念自体が無用になるのだが、ここで言う「本質」とは、つまり、情報更新後の事実、事後的な認識という意味である。事実が暫定性を持つ以上、常に事実は更新されていくのだから、絶対的本質がないという意味であって、暫定的本質は必ず存在するし、それが存在しない限り、人間は判断そのものが出来ないということになる)、一切は偏見であり、先入観でしかなく、ただその偏見、先入観としての認識機能の結果が、妥当なものであるかどうかという違いでしかないのである。

 

第二節 区別化

 

認識が画一化という機能を先験的に含んでいるということは、逆に言えば、そこに区別化、差異化をも同時にもたらしているということになる。なぜなら、何かと何かが同じである、という認識が生まれる為には、それ以外のものとは違う、という区別意識が存在しなければならないからである。例えば視覚的に何かを捉える場合、目の前にあるリンゴを認識したとき、それが過去に私が知覚的に経験してきた他のリンゴ群と同種の存在であることを、その見た目という共通項によって判断=同一視し、同時に、未だ見えざる部分――そのリンゴの裏側の形や色、或いはその重み、匂い、感触、味など、一般的な「リンゴ」に纏わる諸要素を、確かめてもいないのに、この個別のリンゴに対しても自然的に想定しており、それ以上の情報が与えられていない限り、それが今現在の私にとって最有力の事実として機能するわけであるが、第一に、その物体をある物体として同一的認識を行った時点で、空間上においてそのリンゴが他のものと独立した物体であるという、空間的な区別化、分離化が行われているし、同時に、それが他の存在ではないこと、つまり、人間でもないし、機械でもない、という差別化、あるいは、他の果物ではないということ、つまり、バナナでも、イチゴでも、梨でもないということが、瞬時に判断されているのである。 

もしも一般的なリンゴとバナナの匂いに全く差異が見られず、尚且つリンゴとバナナ以外のものとははっきりと差異が存在した場合、私は目隠しをした状態でリンゴの匂いを嗅がされれば、それはリンゴかバナナである、と考えるであろう。しかし一般的なリンゴとバナナの匂いに差異があれば、私はすぐにリンゴであると答えるであろう。

あるリンゴが自分にとって特別な個別のリンゴAであるとすれば、それは「リンゴA」という概念で統一されるだろうし、「リンゴA」という概念がなければ、それは一般的な「リンゴ」という概念で統一されるだろうし、「リンゴ」という概念がなければ、それは「ばら科の果物」で統一されるだろうし、「ばら科の果物」という概念がなければ、それは「果物」という概念で統一されるだろう。それら一つ一つの集合体或いは個体ごとの概念、分類が存在するのは、それらの間に平均的な同一性及び差異を見出すからである。

つまり、何かと何かの間に線を引くということは、その境界の外部に差異を見出すことであり、境界の内部を同一のものと見なすことなのである。認識とは線を引くことであり、境界を設けることであり、それによって画一化と区別化という二つの現象が結果的に、同時的に生まれるのである。

 

認識、判断とは、画一化と区別化の内包であり、それは「境界化」という一つの機能に集約されるわけであるが、世界が無限の変化に満ちたカオスとして存在している以上、その「境界化」には、絶対的な論拠、客観性が伴うことはなく、究極的には主観性から逃れ出ることは出来ない。同じ川の流れに二度と足を入れることは出来ない、と言われるように、現実の一切は流動に満ちた混沌であり、そもそも何かと何かを同一視したり、何かと何かに差異を見出したりすること自体が、根本的な誤謬なのであるが、我々は境界化を行うことによって、このカオスの世界に独自の秩序体系を組み立てるのである。

そうしてその「境界化」は、認識者の必要性に応じて作られる。それらを同じものとして扱うのが妥当である、或いは、それらを違うものと見なすのが妥当である、という、個人的な妥当性によって醸成される。色の分類は学的には我々の知らぬ無数の分類が存在するが、日常生活において、我々は「赤」とそれに最も類似する色を一々分けて認識せず、同じ「赤」として扱うだろう。その二つの色を同一視すること、その二つの色の間に差異を見出さないこと、それが我々にとって必要な判断だからである。

 つまり我々の認識は、対象の絶対的本性が何であるかという問いに答える為に存在するのではなく、その対象を我々はどの様に捉え、どの様に接し、どの様に扱っていくのが最も良いかという、このカオスの世界を生きる上での功利的、実用的、合理的な道具として存在している。故に、あらゆる認識は、真の意味での絶対的客観性、普遍性、厳密性を掴むことは不可能なのである。


第二章 差別批判の論拠

 

 

第二章 差別批判の論拠

 

   第一節 画一化

 

ここで我々はようやく、本来の目的である差別論の分析に踏み込むことが可能になる。実のところ、我々は、認識の基本的構造を分析し終えた時点で既に、差別の構造をも同時に分析し終えているようなものである。我々がこのように認識=判断の基本構造――「先験的な同一化と区別化」を子細に論述しなければならなかったのは、正に我々が今回取り扱う「差別」という概念が、同一と差異、画一と区別という機能に関連するものだからである。

 

差別と非難する人々の言論には、必ず共通する主張の論拠が含まれており――それ自体が正に差別という言葉の意味を表しているのだが、即ちそれは、ある表現に内在する「画一化と差異化」という認識についてである。

差別批判感情は、大まかに分類すると、画一化と区別化、この二点に集約される。私が、「集合体Xは不良ばかりだ」、と述べたのに対し、Xに属する者が、「一部には確かに不良も存在するが、不良ばかりではない。それは属性Xに対する差別である」と反論したとしよう。これは、属性Xを抱えている人々に対し、私が画一的な認識を持っているという非難であり、同時に、集合体X以外と異なった認識を抱いていることへの非難ともなる。というのも、集合体Xに「そうである」という認識を持つためには、何らかの集合体に対する「そうではない」という認識が必ず存在しなければならないからである。この様な、画一化と区別化、という構造自体を、人は差別の論拠とするわけであるが、その両者の働きが、認識の構造そのものであることは、今さっき述べたばかりである。これをもっと詳しく見てみよう。

 

私がとある人種Aについて、劣等民族である、と述べれば、それを人種差別であると批判するものが現れるだろう。私は反論する、「現に人種Aは、迫害や侵略、環境汚染など、世界に悪影響を与える非人道的行為を繰り返しているし、実際に会ったことのある幾人かのA人達も、とても横暴で無思慮な人間ばかりであった。何故それを批判することが差別なのか」、すると差別批判者達は、斯かる論理を繰り出す、「では君は、全てのA人に会ったというのか。君は遠い国で聞いた限られたA人達の行為、そうして直接出会った限られたA人達の振る舞いを知っているに過ぎないではないか。それら限定的な経験を敷衍させ、共通する人種の遺伝子そのものが絶対的に悪い因子を持っていると、そう断言するのは、画一化も甚だしいではないか」、彼はさらにこう続ける、「人種であれ、性別であれ、出自であれ、職業であれ、容姿であれ、何であれ、ある集合体に対して、画一的な判断を下すことは、全て差別的発想である」。

 この様な、画一化を論拠とする差別批判は、最もポピュラーで、且つ最も客観的に判別可能なものの一つである。確かに我々は、ある集合体に関して、こうである、という評価や判断を下すとき、その集合体に属する人物、即ちある属性を有する対象者全てに対し直接的経験を重ねているとは限らない。殊にそれが人種や性別になると、その対象者は膨大で、全ての対象者に厳密に調査を計った上で発言するものはほとんどいないと思われる。

 しかし、認識の基本構造に関する先程の分析で見たように、実際のところ、認識というものはそれ自体で、程度の差こそあれ必ず画一化の要素を先験的に含んでいる。そもそも認識の働きは、世界を記号的に秩序化し、属性ごとに区分化し、諸々の事象に法則を見出すことを目的としている。認識による世界の記号化は、人間が知覚可能な一切の現象事象を対象としており、となれば当然、差別批判の対象となりやすいもの――即ち、生物種レベルでも、人種レベルでも、民族レベルでも、性別レベルでも、年齢レベルでも、職種レベルでも、地域レベルでも、容姿レベルでも、或いは、個体レベルであっても、結局は同様の機能を果たすのである。

認識とは、ある共通の属性を持つ本体に関する諸々の経験から、その属性に備わる理論や法則を帰納的に導き出し、これから出会わんとする各属性の所有者に適応させ、その本体の性質を演繹していくことであり、それが経験則である以上、属性に対する判断は、確率や統計という形を持つのである。それによって、これから出会う未知のもの、未経験のものにも、適切な対応を取り、合理的に処理していくことが可能になるのである。

 

人種に対する認識を取り出してみよう。

 ひょんな事から、私の家にエジプトからの留学生を宿泊させることになった。私はその個人に関する情報はほとんど何も知られていない。そのエジプト人を迎えに空港まで行った私は、「エジプト人」という人種に対する様々な知覚経験(メディアを通して見たり、街で直接見掛けたり)から得られた平均的なイメージ――眉毛が濃く、肌が茶色で、目鼻立ちがはっきりし、髪質に癖があり、髭を生やしている、などの個人的な視覚イメージを念頭に、到着した便から出てくる人々を見渡し、彼を発見しようと努めるだろう。また、家に迎え入れてからの私は、このエジプトからの留学生に料理を振舞う際に、彼がイスラム教徒であることを想定して、豚肉やアルコールを使うのを控えるだろうし、礼拝の時間と場を適当に確保しておくだろうし、エジプト人の一般的な文化や価値観に最低限の配慮(それが正しい認識かどうかは別として)をした待遇で迎えるだろう。なぜならこれらが、私が唯一彼から取得している「エジプト人である」という記号から連想される諸性質であり、その理論を頼りに、彼という人物自身の諸性質を導き出すしかなく、彼が快く日本に滞在してもらうための、私なりの人種的配慮なのであり、現に彼はその様な色々な気遣いを非常にありがたく親切に感じて帰って行ったのである。

 しかし、これは裏を返せば、私は「エジプト人」という属性から抽出できる諸性質を勝手に彼に重ねたという形ともなろう。なぜなら私は実際に彼がどの様な人物で、どの様な見た目で、どの様な性格で、どの様な習慣を持っているかなど、直接的に聞いたわけでも、見たわけでもなく、ただ「エジプト人である」という素材ただ一つを頼りに、「彼」という存在の理論を勝手に組み立てたのである。これはある意味では、エジプト人という人種に対する画一化ともなろう。私のこの独自の想定は、実際には良い結果をもたらしたが、私のこのイメージは偏見となっていたかも知れない。ただ私は、「エジプト人」に関する様々な経験から、彼もまたこれこれの性質を持つであろう、という高い確率、統計結果に賭けたのであり、それが実際に功を奏したのである。

 

次に、性別に対する認識を取り出してみよう。

 私の管理する工場へ、男五人、女五人の計十人の男女が数時間の労働をしにやってくる。私が彼等に与える作業は、腕力を要求される運搬と、器用さを要求される加工の二つであり、丁度半数ずつに分けなければならない。しかし、彼等が現場へ到着する頃にはすぐに仕事に取り掛かってもらわなくてはならず、その振り分けを悠長に話し合って決めるわけにはいかない。よって私は取りあえず、男性を運搬の仕事に振り当て、女性を加工の仕事に振り当てて、作業に着手させようとする。

これは確かに、男女という性別によって画一的な処置を行ったという事になる。しかし、彼等の技量を正確に審査する時間がない中で、男女五人ずつの計十人を瞬時に振り分けなければいけないとなれば、性別という情報に拠って判断することが、私にとって最も合理的な方法として表れたのである。なぜなら私の経験上、男が女より腕力に富んでいることが明らかに多く、尚且つ男より女の方が細かい作業を得意としていることが多かったからであり、その様な男女という性別、性別という属性に対する経験から得られた理論を、見知らぬ男女に応用することが、私にはその状況において最も現実的且つ便宜的な方法だったのである。

 

年齢に関する判断を例に取ってみよう。

 とあるクラブでドアマンの業務に従事している私は、店の性質上、未成年の入店はお断りする規則となっている。多くの客を迎える中で、一人、身長凡そ百五十センチ、肌は透き通るように綺麗で、キャラクターの描かれたTシャツを着、リュックサックを背負った男性らしき人物が、店の中へ入ろうとしている。私はすかさずその人の前に出て、未成年の入店はお断りしていますと告げる。しかし、彼は鞄から免許証を取り出し、自分が成人であることを明らかにした。

私が迷わず彼を未成年であると判断したのは、私が年齢と容姿に一定の相関性があることを信じており、彼の容姿が、私の中の未成年のイメージと一致するからであり、逆に、入店を快く迎えるのは、その人の容姿が成人に対するイメージと一致するからである。これは私が年齢によってその人々のイメージを画一化したことになろう。

 

これらの具体例を分析してみても分かるように、我々は誰しもが日常的に、対象者から知覚できる記号に基づいて、対象者の性質を演繹している。我々はある属性が指し示す何らかの二次的性質、法則、イメージを必ず所有しており、あるときは人種を以て、あるときは性別を以て、あるときは年齢を以て、あるときは職業を以て、あるときは容姿を以て、あるときは発言を以て、あるときは行為を以て、対象者の全体像を導きだそうと努め、それが認識者にとって事実として機能する。五才、というのは、単にこの世に誕生してから五年が経つという意味であるが、現に我々は五才の視覚的なイメージを思い浮かべることが出来るし、五才の人に関する様々な共通項を列挙することが出来る。これは人種であろうと、性別であろうと、職業であろうと、同じ事である。我々は様々な記号から、その記号を所有する者が示す副次的性質の平均値、共通項を割り出している。

現に我々は、社会的にも日常的にも、年齢や性別によって一定の権限を付与したり、或いは制限したりすることを認めている。それは我々が、人間の性別や年齢にある程度の共通項の存在を見出しているからであり、例えば一つ一つの決定に対し、その区分けの必要性あるいは区分けのポイントに疑問が生じたとしても、属性ごとの区分けという発想から成り立つ一切のルールを否定する人はいないし、それはもはやルールという発想そのものを否定することになってしまう。もしも画一化が差別の論拠として成立するのであれば、あるときは批判を与え、あるときは批判を与えないのは、矛盾している。なぜなら一切の認識、判断は、根本的に画一化だからである。

 

結局のところ、人間が、帰納的に形成された理論を頼りに未来を演繹する生き物である以上、一切は画一化であり、ただその内容の問題、及び確率、割合、比率の問題に違いが出るに過ぎない。

内容の問題とはつまり、人種Aは愚かだ、ということと、人種Aは優れている、ということの違いであるが、どちらにしろ一つの集合体に一つの判断を加えている時点で、画一化となろう。そうして確率の問題とは、ある対象者がどれだけの割合でその判断に合致するか、ということ、例えば、人種Aと接して、愚かであると感じたことがおよそ八十%であったとすれば、高確率で人種Aは愚かであるという印象を持つ事となろう。

確かに我々は、「全てのAはBである」、と常に全称命題的な判断を下すわけではない。しかし、ある属性に対して、二次的な性質、印象を抱いている時点で、結局は同じ事であろう。現に、人種Aはバカが多い、と述べれば、人種差別であると非難が上がる。そもそも私が「人種Aはバカが多い」という理論を形成したのは、バカだと感じた人々から「人種A」という属性を勝手に抜き出しているからであり、尚且つ、たまたまこれまで出会った限定的、個別的なA人の人々との経験結果を、A人全体の平均値、比率を表していると拡大解釈しているのであって、結局は、「全ての人種Aは、八十%の確率でバカである」という意識を持っていることなのだから、やはり画一化ということになろう。人種Aは100人に99人は愚かである、と、残りの一人を抜け穴として作ったところで、「画一化している」と非難が飛ぶのは自然のことであり、結局のところ、画一化、という批判自体が、相対的な意味合いを含んでいるわけだ。

そもそも、全てのXはYであるという発言の真偽は、論理学的命題として言語化した場合の話であり、実際のところ、差別批判家でさえ、ほとんど百%に近いような形で、ある属性に対する特定の性質を想定している。もしもある女性への強姦事件が起きれば、差別批判家は、絶対的なまでに、その女性の悲痛な感情を想い、加害者の人間性を疑うであろう。それに対し、私が、「全ての女性が強姦に傷付くとは限らない、それは集合体への絶対化であり、差別である」などと発言すれば、逆に私が差別認定を食らうだろう。

 

A人は愚かであると判断した人間にとっては、確かにA人は愚かであったし、他のA人も愚かであるという意識を持って接することが、彼にとって最良の処世術なのであり、如何なる根拠を以てしても、それを論理的に差別と断定することは不可能である。もしも百人のA人と深く触れ合った結果、漏れなく仕事が出来ないと感じたら、やはりA人という記号は悪いものを示すものとしての印象が形成され、それによって、A人は雇わないようにしようとか、A人が働く店へは行かないようにしようなど、自分なりの処世法を発見していくだろう。これは、三歳の子供は危機管理に疎い、と想定することと構造は変わらない。 

 逆に言えば、「集合体への認識は画一化であり、個体への認識は画一化ではない」、というのも背理である。人種Aは悪い奴だと思うことと、実際に触れ合った個人に「悪い奴だ」と思うことは、記号的認識としては同じ事なのである。人間との出会いにおいて、一般的な記号に則って対象者を判断することから始まり、徐々に個人の特殊性を掴むに至るが、今度はそれ自体が彼個人の蓋然的法則として記号的に定着するわけだ。

 

ある属性には、必ず副次的性質、付加的法則が付きまとい、画一化という差別批判を繰り出す者でさえ、ある属性に対する経験の中で、必ずその属性がもたらす諸要素のイメージが形成されてしまうものなのである。 

属性によって人を判断しないことは不可能である。なぜなら人間は属性の集積に過ぎないからであり、属性によって対象者を判断することが、認識の根本機能だからである。

 

第二節 区別化

 

差別批判の典型的な論拠として、画一化と共に挙げられるのが「区別化」である。先に分析したように、画一化と区別化は表裏一体を為しているので、これは至極当然のことと思われる。そもそも差別批判は、他の集合体との格差を訴えることが第一の目的となっているだから、むしろこちらの方がよっぽど一般的な論拠であろう。

 しかし、認識の分析によって証明されているように、世界そのものが無限の差異である以上、区別を引き合いに出すことでその判断の不当性を立証することは出来ない。何かを認識する為には、それ以外のものとの差異を先験的に見出していなければならず、認識という機能自体に区別化という作用が含まれているからである。差等の存在を根拠に不当性を訴えられても、端から一切の対象は差異で満ちているのだから、それに対する判断に差が生じるのは当然である。

画一化批判の分析を行った際に述べたように、我々は様々な属性的区分を、例えば年齢的区分によって異なった権限、待遇を与えることなどを認めている。それは現に、各集合体に平均的差異が存在しており、その差異に応じて適切な対応を取ることが妥当であるという判断を抱いているからである。もしも区別的認識、差異的認識そのものが問題なのであれば、あらゆる認識に対し、一方は差別と非難し、一方は差別と非難しないのは矛盾している。一切の認識には区別化が内在するのであるが、結局のところ、ある区別に対して差別と訴えるのは、その区別が正当な区別ではないと思ったからで、逆にある区別に対して何の疑問も生じないのは、それが正当な区別であるという暗黙の合意があるからである。

 

 A~Dの各集合体の中で、集合体Dに属する人々の就業率のみ極端に低いとする。これに対しある人が、集合体Dへの差別であると訴えを起こした。彼がこのような状況を差別であると受け取ったのは、各集合体間に明らかな差が生じているからであろうか? 否。もしも等差の存在が差別批判の原理なのであれば、彼は世界の一切を差別と訴えなければならないが、実際にはそうはならない。彼がこれを差別と受け取ったのは、「ある結果に影響を与えるような差異は各集合体間に存在していない」と考えるから、即ち、今回問題とされているA~Dの人々の間には、就業率に甚だしい格差をもたらすほどの能力差は存在しない、と思っているからである。

 彼はそれを証明するために、テストを通してそれぞれのグループの能力値を算出し、各集合体にほぼ差が見られないという結果を提出した。しかし、ある雇用主はこう言う、「労働者としての適性は、単純な数値だけで計れるものではなく、一社員として組織に従事するための総合的なバランスが必要である。そもそもそのテスト自体がどれだけ有用性のあるものかさえ分からない。この集合差は、飽くまで公平に審査した結果である」。

それが如何に理不尽な言い分に見えようと、少なくとも、その雇用主にとっては、妥当な判断であり、事実存在した重要な差異に則って適切に判断を下した結果に過ぎない。

複数の対象に同じ結果を求めるには、それらに差異が存在しないことを証明しなければならないが、一切は無限の差異に満ちており、尚且つその差異が、ある判断に影響を与えるほどの差異かどうかは主観的なものである為、判断者にとって現に異なった判断が浮かぶ以上、その者にとっては何らかの大きな差異を感じ取っているのである。ある判断に関して、何が関係し、何が無関係であるのか、その判断自体が論理化不可能な感覚的直観に拠っている。ある一点に関して論理的には同じだとしても、それ以外の点に関してはやはり差異が生じており、一見無関係とも思える差異が、認識者にとっては重用な差異として表れるのである。

根本的に存在する差異が絶対的差異であれば、認識上の境界化された差異は相対的差異であり、ある対象同士に異なった判断が下るかどうかは、異なった判断を下すに値するだけの相対的差異を感じ取るかどうかの問題であろう。

 

差異が差別の論拠として繰り出されるのは、互いに同じものが与えられるべきであるという前提があるのだが、もしも全く同じものを与えることが妥当であるのならば、各集合体が全く同じものでなくてはならず、「少なくとも、比較対象群は、その判断を下す上で決定的な差異は生じていない」、と言われたところで、何が決定的な差異であるかは主観性を含むので、意味がない。 

これを個人レベルで考えるとより分かりやすい。というのも、結局ある集合体は、個人の寄せ集めに過ぎないからである。

 A~Dの四人の生徒が存在する中で、教師は、Dの子供にだけは厳しく当たる。当然Dにとっては、その扱いを了承することは出来ない。なぜ自分だけ差別されるのか、全く理解出来ないのである。つまり、Dにとっては、他の三人と自分は同じで、少なくとも、自分だけがこの様な冷遇を受けるほどの差異は存在せず、なぜ同じ四人でこうも扱いが異なるのかが分からないわけであるが、しかし、教師にとっては違う。現にその子供への評価が他の三人と決定的に異なる以上、教師にとっては、挙げることが可能な無限的差異、絶対的差異の何らかが、ある固有の判断を導くための重要な相対的差異として表れる。

それは、そのしゃべり方、その癖、その動作、その表情、その雰囲気、その性格――如何に不合理で、如何に理不尽で、如何に非論理的に思えようと、この様な、言語化できないような細かな無数の差異が、教師にとっては、他の子供とは違う対応を取るだけの妥当性があるというように映るのである。

Dはこう思う――同じ子供なのに、同じ教え子なのに、同じクラスメートなのに、同じ人種なのに、同じ人間なのに、同じ学力、運動能力なのに、なぜ、扱いが、判断が、評価が違うのか……。しかし、もしも対象同士のある共通点、ある共通属性、ある共通論理を抜き出して、それを根拠に、対象同士全く同じ認識を施すべきだというのであれば、我々は認識可能な一切に同じ判断を繰り出さなければならなくなる。

 ある有名人と一般市民を比べてみよう。この二人の共通項は、「人間」であり、「男性」であり、「三十歳」であり、「日本人」であり、「東京都出身」であり、「大卒」であり、「魚座」であり……その他、非常に微細なものも含めれば、同一の論理を幾らでも抽出することが可能となる。これを以て、同じ◯○ではないか、と、互いの共通項を論拠に、同じ扱い、同じ評価を求められても、同時にこの二人は、一方は特別な才能を持っており、一方は持っていない、一方はその存在が幅広く知られており、一方は身近な人にしか知られていない、一方は魅力的な容姿を持っているが、一方は平凡な容姿である、一方はスポーツ万能であるが、一方は運動音痴である。ミクロレベルのものも含めれば、世界が無限の差異である以上、幾らでも差異を発見することは可能である。なぜ一方は特別待遇を受け、一方は受けないのか、なぜ一方はプライバシーの監視が許され、一方は許されないのか、なぜ一方は抱きつくと喜ばれ、一方は嫌がられるのか、それは、両者における差異の部分が、その判断を形成するに重要な差異だったからである。

同じ犯罪を行った者同士に、異なった判決が下されることもあるだろう。そもそもその、同じ、というのが、ある論理、即ち、犯罪の基本的分類、という観点からまとめ挙げているに過ぎない。両者が窃盗犯だとして、違う量刑が下されたのに対し、不服を申し立てたとしよう。同じ窃盗ではないか――しかし、同じ窃盗であっても、盗んだ商品が違う、商品が同じあっても、盗みに入った店が違う、店が同じでも、その店の状況が違う、店の状況が同じでも、やり方が違う、やり方が同じでも、本人の置かれた環境が違う、環境が同じでも……今述べた「同じ」も、結局は大まかに分類した上での「同じ」であり、そもそも、全く同じ、であることは、世界が無限の変化に満ちた混沌である以上、物理的に不可能である。

「何故あの人は許されるのに、自分は駄目なのか、何故あの例は良かったのに、この例は駄目なのか」、それは、対象が根源的に別であり、根源的に別である以上は、何らかの差異が生じ、その差異が異なった判断を形成するだけの差異だったからである。その差異への判断が妥当であるか不当であるかは、主観的なものであるから、完璧な形で理論的に反駁することは出来ない。

嫌なことをされた者が相手に言う、「じゃあ自分がされても良いのか」、すると相手はこう返す、「いや、俺とお前は違うから駄目だ」、一見理不尽な言い分に思えようと、論理的には間違ってはいないのである。

一人の男性がどこに遊びに行こうが勝手ではないか、しかし、一人の男性であると共に、一人の所帯持ちであったり、一人の政治家であったり、一人の僧侶であったりすれば、話は変わってくる。ある判断は、対象のある一点だけを見て為されるわけにはいかない。同じではないか、という論拠は、同じ部分のみを抽出したに過ぎず、同じではない無数の差異を無視することである。

そもそも、根拠や理由というのは、「ある原因が起きれば必ず導き出される結果」、即ち、法則、理論の応用であるが、価値判断の対象は、物理ほどの精密さを持たないのだから、ある原因を持ち出しても必ず例外は出来上がるし、懐疑論的な無限の可能性を確実に反駁することが出来ない以上、同一点を持ち出しても完全な論拠とはなり得ない。

 

 結局のところ、画一化も区別化も相対的なものであり、差別の絶対的な根拠として成立させることは出来ない。そもそも、もしも「それは差別である」という判断が客観的、理論的に可能なのであれば、差別批判者同士、或いは個別の差別批判者における各判断が一致しなければならないが、現に差別批判というのは千差万別であり、あるときは差別だと非難を加える側となれば、またあるときは差別だと非難される側になったりするのが実状である。

 


第三章 差別とは何か?

 

第三章 差別とは何か?

 

     一

 

認識の根本機能――画一化と区別化=境界化を描き出すことによって、差別の客観的論拠が成立し得ないことを我々は理解した。あらゆる認識には画一化と差異化が根本的に内包されているし、我々は常に対象を集合体単位で、属性単位で、記号単位で認識し、評価し、判断している。もしも差別の条件が対象の境界化であるというのなら、我々の認識は一切が差別であると言わなくてはならない。 

 これによって、我々は差別という概念に関し一つの答えを見出す。

 

差別とは、ある集合体に対する不当な認識のことである。

 

結局のところ、何が差別であり、何が差別でないかというのは、ある一つの認識、判断が、妥当であるか、不当であるか――言い換えれば、妥当な画一化であるか、不当な画一化であるか、或いは、妥当な区別化であるか、不当な区別化であるか、という問題に過ぎず、そうして、何が不当であり、何が妥当であるかは、個々人の主観であるため、客観的な論証を行うことは出来ないのである。

ある人種に対する認識が、私にとっては不当な認識、即ち差別と思えるものも、彼にとっては正当な、妥当な、合理的な認識であり、差別ではないのである。この子はまだ三歳だから道路に飛び出すかも知れない、とか、この人は女性だから体を触られることに強い抵抗を持つだろう、という一般的な認識を持つことと変わらないのである。

 

集合体への侮蔑的な表現は一切が差別なのだと言われたところで、我々は現に、ある属性に対する経験的統合から、ある集合体に否定的なイメージ――怖い人達、とか、暴力的な人達、とか、迷惑な人達、とかを漠然と想定し、接する機会がある度に意識を切り替えているわけだ。そもそも、何が肯定的認識であり、何が否定的認識であるか自体が主観性を孕んでおり、私にとっては褒め言葉でも、他者にとっては悪口であることは日常的にあるだろう。「集合体Xは、ひょうきんな人ばかりである」、ひょうきんである、というのが、面白くて気さくな良い人、のように肯定的表現として受け止める人もいれば、騒々しく脳天気な思慮に欠ける人、と否定的に受け止める人もいるだろう。性別Xを、能動的存在として描き、性別Yを、受動的存在として描けば、ある人にとっては、Yは常にXに対して受け身であることが強制されている、と解釈するかも知れないし、またある人にとっては、Yは常に行動を起こさずXに任せてばかりで優雅なものだ、と解釈するかも知れない。

 

つまり、差別とは何か、それは正に、「認識者がそれを差別と認識するところのもの」であって、それ以外の何物でもない。一切の差別意識が主観的なものに過ぎないように、一切の差別認定もまた主観的なものに過ぎない。

 

差別という現象は、それ単独で客観的な実態として存在するのではなく、認定者側による一種の感情であり、価値評価である。差別とは何か? という問いは、善とは何か? 美とは何か? というような倫理学的、美学的な問いと同じ構造を持っており、これらの問いにどれだけ理論立てて答えようと、究極的には整合的且つ客観的な論証に至ることはないのと同じように、「差別である」、という判断は、飽くまで価値判断であり、主観的判断であり、感覚的判断である。言い換えれば、差別という言葉は、ある区別行為に対する一種の蔑称であろう。例えばある指導者を「独裁者」と揶揄したり、日本人を「ジャップ」と呼んだり、ある作品を「駄作」と評したりすることと同じである。

 

「差別はいけない」、と人は言う。しかし、差別という言葉自体に、不当なものである、という価値判断が内包されているため、「差別はいけない」、という言葉は、「不当な判断は、不当である」、と言っているのと同じで、一種の同語反復であり、無意味な文章なのであって、問題は、何が不当であり、何が正当であるか、いうことなのだが、それを矛盾なく体系的に立証することは出来ないのである。

そもそも、あらゆる人間は、差別に対して批判意識を持っている。なぜなら、差別とは、本人にとって不当と感じる認識のことであり、それが不当な認識であると認識している時点で、不当性という批判的判断を既に持っているからである。となれば必然的に、次のようなことが言えよう。

「人は永遠に己の認識を差別と認めることは出来ず、且つ差別主義者を自称することは出来ない」。

なぜなら、ある認識は、認識者がそれを妥当な認識と先験的に判断しているからこそ生まれる認識であり、もしも自分の認識に対し「差別である」と自ら思いながらもその認識が変わらないのであれば、「この不当な認識は、正当なものである」、という論理的矛盾が生じるからである。差別とは「不当な認識」のことであるが、あらゆる認識は「妥当である」という自然的判断の上に成立しているため、己の認識を差別的認識であると同時に認識することはパラドックスに陥るのである。たとえ、自分の認識は差別的であった、と考えを改めたとしても、その時点で既に古い認識はもはや持っておらず、過去の自分に対する認識なのだから、少なくとも現在の認識を差別とか偏見であると実際に思うことは出来ない。

 例えば、少数民族として存在する人種Aにとんでもなく酷い目に遭わされれば、それが偶然悪い人物であったと頭では理解していても、やはり同じ人種を持つ人に対し、強い警戒感を持ってしまい、己自身に「それは偏見なのだ」と言い聞かすような、一種のトラウマ的な状況は考えられるだろう。しかし、対象属性にマイナスイメージを現に持ってしまうのは、やはりその認識が彼にとって大事な、重要な、妥当なものであるという判断が暗に存在するわけであって、実際のところ、心から真に「これは偏見だ」と思ってはいないのである。これが後に、様々なA人達と触れ合って、過去の記憶が徐々に薄れ、人種Aに対するマイナスイメージが払拭されたとき、ようやく心から「過去の認識は偏見であった」と思えるだろうが、それは飽くまで結果論であって、過去のある時点においては、他のA人達の情報を与えられず、酷い目に遭わされた個人に拠ってしかA人という属性を判断できないのだから、確かに彼にとってA人は悪い人間を示す可能性の高いものでしかなかったのである。

 

差別主義者を自称したり、差別を認めるべきという主張を行ったりする者も確かにいる。しかし、その場合の「差別」という言葉は、差別という抽象的概念を示すのではなく、現に実態として存在している具体的な事例を指示する言葉として代替的に使われているのである。

私が「人種Aは悪人だ」と発言したのに対し、人々が「それは差別だ」「彼は差別主義者だ」と非難を浴びせたとしよう。この認識は私にとって不当な認識=差別ではないので、私は一向に人種Aに対する攻撃的な言動を止めるつもりもないし、社会的な非難に屈する意思も全くない。同様に、「これは正当な、客観的な分析である」と私が幾ら主張したところで、彼等は差別であるというレッテル貼り(少なくとも私にとっては)を止めようとしない。いつしか特定の人種への否定的発言は、差別という評価で社会的に絶対化され、私はもはや差別という評価そのものへの疑問という形で反駁することを封じられる。すると私は、世間から押し付けられた「差別」という言語表現を引き受け、問題視されている具体例を「差別」という空虚な言葉で便宜的に表現することを自ら意志し、結果、「差別は認めるべきである」、というような、論理的矛盾を孕んだ特殊な言い方をしてしまうのである。

帰する所、やはり人は、本当の意味で差別主義者を自認することは、論理的に不可能である。

 

斯かる言語上の混乱を避けるためには、差別という言葉を使わず、不当な区別、という言い方をした方が正確且つ公平であろう。というのも、ある具体的な出来事を、差別という言葉で形容した上で論ずるとき、それが既に差別――即ち「不当な認識」であることが前提とされてしまっており、その言語表現に付き合ってしまうと、「差別は認めるべき」という極端な言い回し、意図しない主張に陥ってしまう恐れがあるからである。

差別という言葉は一つの価値判断を内包している為に混乱を招きやすい(この様な、主観的判断が前提化、隠蔽化され、まるで絶対的、客観的認識であるかのような響きを持ってしまうマジックワード=『認定言語』が幾つか存在する。例えば、「体罰」や「いじめ」や「暴力」や「セクハラ」など。この様な言葉は議論の際にしばしば混乱を招く)。故に我々は、無用な混乱や誤解を避けるため、或いはその認識構造を分かりやすくするために、「差別」、という言葉を、「不当な扱い」、と置き換えて使う方が得策である。 

 

     二

 

もしも差別というものが、差別認定者側による一つの価値判断に過ぎないのであれば、我々は次のようなことが言えよう。

 

差別は、差別認定者によって作られる。

 

 差別認定が存在する前に差別は存在せず、差別認定されることによって初めて差別であるという発想、選択肢、可能性が生まれるのである。

「何をバカな、人種差別という非難が上がる前から、現に差別行為は存在していたではないか、差別行為が存在しないで、どうして差別批判が出来よう」。

 確かに我々は、問題視されている行為自体が先に存在していたことは認めよう。しかし、差別認定が客観的論証に頼らない以上、正にその差別行為なるものは、差別であると認識する者がいて初めて「差別行為なるもの」として存在し始めるのであって、それ以前は、その行為自体は存在していても、「差別行為なるもの」としては存在していなかったのである。

 ここにA民族とB民族がいる。古くからこの世界には、B民族には汚れた血が流れているという言い伝えがあるため、A民族とB民族との間には、生まれながらに絶対的序列が存在し、これをA民族の人々もB民族の人々も共に当然のことと受け止めている。B民族達自身も、この古くからの言い伝えを信仰している為、たとえ苦しい生活を強いられていても、A民族によるぞんざいな扱い、抑圧、権威が、不当な、不合理な、不条理なものとは思っておらず、神話に沿った正当な身分制度であると理解している。しかしあるとき、B民族の中から(或いはA民族でも、無関係な土地の者でも構わない)、この様な階級制度は、理不尽な、非人道的な、暴力的なものであるとして、撤廃するべきだと考えた者が生まれた。すると彼は、斯かる格差を、不当な区別=「差別」という言葉で糾弾し始める。

 彼にとっては、我々B民族は歴史的に酷い差別に晒され続けていたと、そう解釈するわけであるが、しかし、それは単に「彼個人」が感じた、この身分制度、民族的区別に対する懐疑の感情を、「我々B民族」という形で全体化させ、これを「差別の歴史」として解釈したに過ぎず、過去この階級制度を知る人々の中に、疑問を感じる者が存在せず、正当な区別として漫然と受け入れられてきたのであれば、そこに「差別である」という発想、可能性は存在せず、「差別である」という発想、可能性が存在しなかった以上、現に差別=不当な区別は存在していなかったのである。この例において、二つの民族の身分的区別、階級的格差の存在自体は、その場にいる誰においても同じように把握されていたものであるが、ある明確な区別が存在していたとしても、それが差別=不当な区別であったかどうかは、個々人の価値観によるものでしかない。差別というのが一つの価値評価に過ぎない以上、この長い階級制度の歴史の中で、差別認定者の存在によって初めて「差別なるもの」が誕生したと言えるのである。 

 これは科学的発見と似ている。我々の時代において絶対的とされている法則が、未来の科学者によって覆されると、その未来を生きる人々にとっては、宇宙が誕生したそのときから既に存在していた法則として歴史を振り返るであろう。しかし、その仮説すら誕生していない現代の人々にとっては、その新たな法則は、発見のみならず、物理的にも実在していないのと同じことである。現に、古代の人々は、我々が持ち合わせている科学的世界観とは相容れない秩序を世界に対して抱いていたし、彼等にはそれが事実として機能していたのである。

また、差別認定が主観的なものに過ぎない以上、これを差別として糾弾する者が現れても、それが正当な判断であるかは分からず、支配的種族だけでなく従属的種族の人々にとっても、それを神の設けた制度に対する冒涜として退けるかも知れないし、例えば、明らかなに運転技術が不足している老人が、免許を剥奪されることを老人差別として訴えることがあり得るように、単に自分自身を客観的に認識出来ていないことによる認定者側のエゴなのかも知れない。

 

この様な例からも分かるように、差別とは、差別認定者によって、区別から差別へと塗り替えられたものである。認識が境界化を先験的に内包している以上、世界の一切は区別されたものとして我々に表れているのであって、それが差別として存在するのは、それを差別として積極的に認定したからである。差別という実態が初めから存在していて、それを認定者が発見するのではなく、初めはただ区別だけが存在し、そこに認定者が差別という評価を与えるのである。 

つまり差別認定は、受動的な行為ではなく、能動的な行為である。相手による先行的、能動的な働きかけによって、後発的、受動的に差別認定が行われるわけではない。差別認定は、自ら積極的に、自発的に認定対象を探しに行くのであり、むしろ認定対象者の方が、認定者に対して受動的立場に存在するのである。差別認定というのは、認定対象者にとって、一方的なレッテル貼りにしかならないのである。

 

 差別が成立するには、区別者と区別対象者が存在すればそれで良いのだろうか? 否、差別が成立するには、必ず差別認定者を必要とする。むしろ、差別を成立させるには、認定者がいればそれで十分であり、認定者が、ある表現を見つけて、「それは◯○への差別である」、と、そう述べれば良いのである。

絶対的に差別であるような差別は存在しない。差別は決してそれ単独で存在出来ず、差別として認定する者によって初めてその可能性を得るのであって、その表現が生まれた時点で既に差別的な表現として存在しているわけではない。なぜなら差別という概念は一つの価値評価であり、形容だからである。

世界の一切は認識によって境界化されることで初めてその存在を得るのであり、対象への認識は認識者にとって正しく区別されたものとして、ただ漫然とそこに存在しているのであって、その自然的区別に対して第三者である認定者が異を唱え、認定者の視点が入って初めて「差別であると捉える発想」がもたらされるのである。

もしも差別というものが、ある具体的な行為として明文化出来る類いのもの、即ち、行為者側が単独的に表現可能なものであるとすれば、我々はそれに則って、差別批判を受けないよう気を付けることが可能であろうが、しかし実際は、如何なる表現であっても差別と呼ばれる可能性を有しており、現に、大多数の人にとって、それが差別であると捉える発想さえ全く持たないような表現に対し、ある反差別運動家が、「斯く斯くの理由により、差別である」と糾弾してくるような例を日常的に見掛けるわけだ。 

差別が実態として存在するように思えるのは、ある行為に対する差別判定を、多くの人が共有する事例が多々あるからであって、それが次第に理論化されていき、ある共通の論理を抱えるものは差別である、という画一的な思考が優先され、権力となって人々に同意を促すのである。

差別認定が、認定者による自発的で感情的なものである以上、私が何をしゃべろうと、何を描こうと、どの様な行為を取ろうと、それが第三者に「差別的である」と捉えられる可能性を常に有しているのである。差別でしかない行為は存在しないし、差別にはならない行為もまた存在しないのだ。

 


第一章 認定論とは何か?

 

第二部 差別認定論

 

第一章 認定論とは何か?

 

 差別論、即ち、差別とは何か? を分析することによって、差別とは、差別と思うところのものである、という究極的な結論を導き出すに至った。それが差別である絶対的な根拠は存在しないし、差別批判者が、必ずしも己の理論に沿った形で世界を認識しているわけでもないし、ある一方では差別であると糾弾するものの、同じ論理を持つ別の例に関しては差別であるという認識を持たかったりするわけであって、つまるところ差別認定感情は一つ一つの事象に対する個別的な感覚の結果に帰着し、それは同時に、彼らが幾ら平等主義者を自称しようと、他者から見て差別的な行為をしていないとは限らないことを意味する。

そうして何より重要なのは、差別は、差別認定者によって初めて差別としての可能性を与えられるということである。如何なる区別、如何なる格差が存在していようと、それを差別と感ずる人間が存在する以前は、差別は存在していなかったのであり、差別認定者の手によって、ある区別は差別として塗り替えられるのである。

 

 このような答えに辿り着いた以上、我々が分析すべきは、「なぜ人は差別をするのか」、ではなく、「なぜ人はそれを差別と捉えるのか」、という問い、即ち、差別認定そのものに関する理論を仕上げることである。先に分析したように、差別認定が、認定対象者に対して先行的な立場に存在し、認定する者の存在によって初めて差別問題が誕生する以上、差別認定は飽くまで能動的、自発的な行為なのであって、当然、その心理構造を分析することは可能なのである。

差別認定が主観的なものに過ぎないのであれば、それを差別だと糾弾することが、他人にとってはむしろ一個の暴力として、抑圧として、レッテル貼りとして機能することも当然あるわけであって、過去に差別という暴力を分析することでその改善が目指されてきたように、差別認定という暴力もまた分析されることで、その不当性が暴かれるべきなのである。

自分にとっての正当な認識を、不当な認識であると他者から非難されるのは、自分にとっての不当な認識を、他者から押し付けられることなのであって、もしも差別というものが、不当な認識に他ならないのであれば、差別であるという非難は、同意できない者にとって、それ自体が差別的認識に他ならないのであり、罪の種類、罪の重さは変わらないのである。

 

差別認定というのは、正義にもなれば、悪にもなる危険性を孕んでおり、それは暴力というものが、あるときは人助けとして、またあるときは犯罪として機能するのと変わらないのである。にもかかわらず、差別認定における暴力性、利己性は無視され、その正義的側面ばかりに目が行き、差別批判そのものへの批判は禁忌化される傾向にある。「差別なるもの」が正当なものともなれば不当なものともなり得るのと同じように、差別認定もまた、正当なものともなれば不当なものともなり得るわけであって、どちらがより正しいというものではない。その様な状況の中で、差別批判というものが加速化し、権威化することによって、社会に多大な損害をもたらす結果となるのであり、だからこそ、差別認定に関する論考が早急に提出される必要性があるのである。

 

 一般的な差別論においては、差別行為及び差別者、或いは被差別者について語ることが、差別問題の本質と見なされている。つまり、差別という行為、現象の形成過程であるとか、どの様な表現、思考が差別的なものであるとか、差別者の心理状態や動機であるとか、差別を生まれやすくする社会的、環境的な要因や歴史的変遷であるとか、これら差別として非難されている対象を分析し、理論化すること――もしくは、被差別者が、実際のところ何を思い、何を感じ、何を考えており、マイノリティが如何に追いやられ、圧迫され、押し付けられてきたかを語ること、そうして、これら差別というものを、如何なる方法で撤廃していくか、如何なる道筋を辿って壊滅させていくかを語ることが、差別を語ることとされてきたのである。

ここにあるのは、差別する側と、差別されている側、或いはそれを取り囲む社会という三つの立場であり、これらを分析することが、差別を語ることとして扱われてきた――なぜなら彼らにとって、差別問題の根源は、差別という行為であり、差別者という主体の存在であるということが、疑問を挟む余地のない前提として了解されているからである。つまり、差別というのは、主観的な感情とは無関係に、この世界に実態として現に存在しており、理論的に突き詰めることによって、その存在を客観的に掴むことが出来るものであるという暗黙の根源的理解が潜んでいるのであり、故に人は、「差別とは何か?」、という問いに答える際、ある具体的な行為や、表現や、制度や、思考法について語ったりするのである。

差別側と被差別側。差別撤廃思想が存在しなかったとき、両者の断絶の原因は被差別側にあると見做され、改善すべきは被差別者であると一方的に押し付けられてきたが、差別問題に対する世の関心が高まるに連れて、差別は差別者側の心理構造に問題があると、社会的に糾弾されるようになった。どうあれ、差別という問題は、基本的に、差別者と被差別者の関係として扱われてきたのであるが我々は、ここでもう一つの立場を登場させなければならない。即ち、差別認定側である。

差別の研究者達は、差別者及び被差別者、或いは両者を取り巻く社会について語ることを目的としたわけだが、それ以前に、なぜ彼はそれを差別だと感じたのか? なぜ彼には差別と映ったのか? といったような、差別認定者自身についての研究は一向に放置され続けているのである。

差別批判者は、それを差別と認識する自分自身の存在を忘れている。それが本当に差別であるかどうか、何が差別であって何が差別でないか、という問いに答えるには、なぜ自分はそれを差別と認識したのか、如何なる条件によって自分は何かを差別と感ずるのか、という認定者側の心理的メカニズムを解明しなければならないのである。

 

二十世紀の後期に至り、差別撤廃運動が盛んになってからというものの、人間が差別をする動機、社会的要因、歴史的経緯など、差別という行為及び差別者の心理については、至る所で研究され、理論化され、語られ続けてきたけども、逆に、差別を批判する側――ある集合体への意識や行為や扱いを「差別である」と判断、認識する側についての分析は疎かにされてきた。それは先程も述べたように、差別批判者にとって、差別というのは、常識的な感覚を持つ者になら明白な、客観的な、紛れもない事実として独立的に存在しており、認識する側の主観とは無関係に、それ単独で、差別として絶対的に存在していると考えるからである。しかし、我々は、差別の始まりは、差別認定、差別認定者であることを既に理解している。差別問題が発生する為には、まず何より、それを差別であると認識する者の存在がいなければならない。差別の歴史とは、差別認定の歴史なのである。

 

差別問題、というと、その差別を如何にして無くすか、何故その差別は起きたのか、が課題として取り沙汰されるが、しかし、差別問題における第一の問題は、その差別認定は正しいのか、という問いであろう。なぜなら、それは差別である、という主張が正に問題定義の始まりだからであり、ある行為や態度が存在している時点ではそれは差別ではなく、それを「差別だ」と糾弾する者の存在によって初めて「差別行為である可能性」が生まれるからである。

しかし、それが本当に差別であるかどうか、を分析したところで、我々は既に、「差別とは、差別と思うところのものである」という答えを見出してしまっているのだから、差別だという批判に対して、差別ではないという確固たる反証を挙げることも出来ない。よって我々がすべきことは、それが差別ではない「可能性」の論証であり、且つ何故それを差別と受け取ったのかという認定者の心理的構造を暴くことである。つまり、人はなぜ差別をするのか、ではなく、人はなぜそれを差別と感じたのか、であり、如何にして差別は生まれるか、ではなく、如何にして差別認定は生まれるか、これに答えることである。

 

差別論において、何が差別であるか、という問題をクリアしなければならないのに対して、差別認定論は、何が差別認定であるかという問いを立てる必要はない。なぜなら、差別という概念が飽くまで価値評価であり、形容に他ならないのに対して、差別認定は具体的な行為であり、客観的に指示可能なものだからである。

この、「差別」と「差別認定」の違い、認定論的差異を、我々は理解しなければならない。差別とは、「それを差別と思うところのもの」であり、差別認定とは、「それを差別と思うことそのもの」である。言い換えれば、差別の定義は、「ある集合体への不当な認識」であり、差別認定の定義は、「『ある集合体への不当な認識である』という認識」である。そうしてこれらの分析は、「差別は、差別批判者によって作られる」、という認定論的転回を原理とする(この様な呼称が必要なのは、これらの概念が、差別に関することのみならず、例えば『いじめ』であるとか、『性暴力』であるとか、『体罰』であるとか、『虐待』であるとか、『権力』であるとか、何を以てそれと言えるのか、という問いを持つ言語、即ち、主観的判断の客観化、価値評価の前提化、了解化を内包する全ての概念―認定言語―に該当するものだからである)。

 

差別認定論とは、いわば、差別論そのものの構造分析である。我々が今取り組むのは、差別の分析ではなく、差別論の分析であり、差別問題ではなく、差別論問題であり、差別認定問題なのである。

 差別批判者達が、差別なるもの或いは差別主義者なるものを分析するように、差別認定及び差別認定者を分析しなければならない。



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