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      1

 前後に長い大学の講義室は、やはり高校の教室とは違う。もちろん、講義室の広さには大小あるし、高校の教室ほどの広さがある講義室もあれば、それよりも狭い講義室だってある。ただ、広さが画一ではないところは高校の教室とは明らかな違いだった。
 それだけではない。すべての講義室に、二人から三人掛けの長机が常備されている。広い講義室になれば、五人掛けの長机と長椅子が備え付けで設置されている。座る場所も自由で、電車のベンチシートみたいに端から半身分を空けて座ることだってできる。長机だから、隣に誰もいなければ、少し幅を取って使ったところで誰にも文句は言われない。
 山根美保(やまねみほ)が県立大学に入学して、新鮮だったのはそんなところだ。やはり、実際に使う物の違いは何よりも敏感に感じる。
 もちろん、大学の講義だって、そのすべてが新鮮だった。講義内容は高校の授業で聞いたことのない話ばかりだし、もちろん、教科書なんて存在しない。黒板はあるのに、その黒板には単語をあちらこちらに書かれるだけがほとんどで、高校までのように多色使いの板書はない。黒板の前に座ってひたすら喋り続ける先生もいて、どことなくやる気のなさを感じてしまうその先生には山根美保もあまり好感を持てなかった。
 そんな中で、パワーポイントを使って講義をする先生はありがたいと山根美保は心底思う。スライドショーのペースが早い先生には苛立つこともあるが、ひたすら喋り続ける先生に比べたらまだマシだろう。最高なのは、その日のパワーポイントで使うスライドを印刷して、講義の始まりと同時に配布する先生だ。そうした先生は、たいがい講義中の解説も丁寧であるし、学生の理解度をしっかりと推し量って講義を進める。時として、解説が丁寧になり過ぎてまどろっこしいと感じることもある。しかし、スライドに書かれていない解説をプリント余白部分に書き込む山根美保にとって、それはそれでいい時間稼ぎだった。
 大学という場所に来て山根美保が感じた新鮮さは、これまで山根美保が抱いていた学校と類される場所のイメージを払拭させた。
 残念ながら、高校までで何がいけないとか、大学からのどこがいいとか、そういうことを順番に挙げていくことはできない。山根美保に並々ならぬ期待が大学にあり、その期待どおりの事象が繰り広げられているというわけでもない。毎日が楽しいのだろうけれど、それを心底から感じているわけでも、その感情に心が満たされているわけでもない。
 何が山根美保の抱いたイメージを払拭させたのか、どこをどう見ても分からない。
 しかし、山根美保は何を躊躇うこともなく大学へ足を運び、講義に出る。もしかしたら、それが当然なのかもしれないが、もしかしたらと思うのは山根美保だからこそで、当たり前であることも山根美保には大切なことだった。
 講義が終わるブザーの音を聞いても、山根美保は先生の解説を配布されたプリントに書き入れていた。周辺が騒々しくなる中、山根美保は満足そうにプリントから顔を上げる。
「ねえ、この後、何かある?」
 山根美保の隣で講義を受けていた中川理奈(なかがわりな)が声を掛けてくる。この日、山根美保の講義は一限目から二限目を飛ばして四限目まで入っていた。只今の講義が四限目で、後は我が家に帰るだけである。山根美保はサークルもアルバイトもしていない。
「今日はもう帰るだけだよ。何かあった?」
「私さ、七時からバイトなんだけど、少しだけ付き合ってくれない?」
 県立大学の四限目が終わる時間は夕方の四時半だ。中川理奈のアルバイト先は繁華街にある居酒屋で、県立大学からは路線バスで数分のところだった。それまでの時間を潰すのに付き合ってほしいのだろう。
 山根美保は「この近くでだったらいいよ」と条件を付ける。すると、中川理奈は嬉しそうに礼を言って「それじゃあ、ジョン・カフェに行こう」と誘った。
 ジョン・カフェは、県立大学の近くにある古民家を改装して営業しているカフェだ。県立大学の学生だけではなく先生もよく利用する、人気の店だった。
 山根美保はすぐに誘いに乗り、荷物をまとめて講義室を後にする。講義棟を出ると、すでに陽は傾き、講義棟の影が長く伸びていた。
 県立大学の前にある丁字路の縦に長いほうの道をしばらく進み、途中の路地へ入ってしばらく行くと、目当てのジョン・カフェがある。白っぽい土壁と黒っぽい木製の柱のコントラストが古めかしく、それがまた周辺の住宅とは違って長い年月の息吹を感じさせている。店内は黒っぽい板張りの床に、同じ色調のアンティークらしいテーブルと椅子が並んでいて、喫茶店を思わせる内装だった。
 夕方であってもジョン・カフェには多くの客がいた。二人は入口からすぐの二人掛け用のテーブルに着き、揃ってアールグレイティーを注文した。
「アルバイトは大学に入ってからだっけ?」
 山根美保が聞くと、中川理奈は「うん」と頷き、指で勤務日数を数えた。
「ちょうど三ヶ月かな」
「そろそろ慣れた?」
「うん。そもそも向いているんだと思うよ」
 居酒屋では接客業を中心に担当していると聞いた。中川理奈が自分は接客業に向いているとさらりと言ってしまえることが、山根美保には羨ましくもある。
 やはり、今でも見ず知らずの人と接することには一歩退いてしまう。当然、何を始めるにしても初対面は付き物だ。そんなことを気にしていれば、いつまで経ってもアルバイトはできない。将来、仕事に就くことだってままならないだろう。それは分かっていても、まだ勇気を振り絞るまで気持ちが至っていない。
「美保はアルバイトを始める予定はないの?」
「私は――、考えていないわけでもないけど、まだそういう気持ちになれていない」
 中川理奈に核心に近いところを聞かれ、山根美保は思わず声が小さくなる。中川理奈はアールグレイティーを一口飲んで「そっか」と答える。
「美保は人見知りが強いからね。そう簡単には始められないよね」
 自分が人見知りであることは認める。そのことを中川理奈に打ち明けたことはなかったように思うが、中川理奈は分かってくれていると思うと、そのことだけでも安心できた。
「もちろん、アルバイトを始めないといけないとは思うんだけど、なかなか――」
「まあ、人には向き不向きがあるからさ。美保の場合、身近なところからアルバイトを始めるのがいいのかもしれないね」
 山根美保は強く頷きたい気持ちだったが、ぐっと顎を引いたところで止めた。
 中川理奈と出会って、まだ数ヶ月。中川理奈は洞察力が優れているのか、山根美保の性格や人柄をぴたりと見抜くところがある。人見知りを分かってくれていることと同様に、中川理奈のそうした目利きは安心できる。しかし、つい身構えてしまうほどの警戒心を同時に抱いてしまう。
 本当に安心し切って信じてもいいのだろうか。
 そんな疑心暗鬼は、山根美保が付き合いを始めたばかりの相手なら誰にでも抱くことだった。
 二人が注文したアールグレイティーはもうなくなっていた。アールグレイティーを飲みながらどうでもいい話をしている間に、アルバイトの話はどこかにいった。ジョン・カフェにいた先客も少しずついなくなり、気が付くと、店内は静まっている。山根美保と中川理奈以外には、カウンター席の一番奥で文庫本を読んでいる男性と、カウンター席の後ろの席で書き物をしている女性しかいなかった。
「私、そろそろ行くね」
 中川理奈が言ったのは六時前だった。二人は揃って席を立ち、ジョン・カフェを後にする。外はもう薄暗くなっていた。
「美保って、実家暮らしだっけ?」
 二人でジョン・カフェを出てから、中川理奈に聞かれる。山根美保は「ううん」と答えて、少しの間を置いてから付け加える。
「友達と、ルームシェア」
 付け加えた途端、中川理奈は案の定、目を丸くして「ルームシェア?」と聞き返してきた。山根美保が頷くと、中川理奈は言葉を探すようにしてから「意外」と呟いた。
「どうして?」
 中川理奈は腕を組んでしばらく考えていた。そして、首をかしげながら答えた。
「意外という言い方も違うのかな。なんて言うか、想像していない状態だったから」
 中川理奈がどんな想像をしていたのか、それは教えてくれなかった。
 やがて、二人は停留所に着く。この停留所を通る路線バスが繁華街まで行く。
「付き合ってくれて、ありがとう。またルームシェアのこと、聞かせて。ちょっと興味ある」
 中川理奈は別れ際に言って、停車した路線バスに乗り込んだ。
 山根美保は走り去る路線バスを見送りながら、ゆっくりとその先にある駅へ向かった。
 心臓が高鳴っている。一人になるまで、山根美保は気が付かなかった。
 山根美保は駅の階段を一段ずつ踏みながら、高鳴る鼓動を静めようとしていた。


      2

 駅から出てすぐ目の前のスーパーは、この辺りでも安値で知られている。安い分、食材の質がいかほどの物かは疑わしいが、食材の質に頓着しない山根美保にはありがたい。だから、山根美保はいつも食材の買い出しに、この駅前のスーパーを利用する。
 山根美保は食材を見ながら、昨日の夕食がなんだったかを思い出す。なるべく、同じ料理が続かないようにしたい。決して多くはない実家からの仕送りに頼っている分、どうしても金銭的に制限が生まれるが、大事なことだ。食材を見ているうちに、昨日は肉料理だったと思い出す。それなら、今日は魚料理にしよう。山根美保は鮮魚売り場へ行き、その中から一番安い白身魚の切り身を取った。
 後は冷蔵庫に余った野菜でサラダを作ればいい。山根美保は冷蔵庫にどんな野菜が余っていただろうかと考えながら、野菜売り場を歩いていた。
 すると、誰かから名前を呼ばれた。山根美保が振り返ると、海谷夏凛(うみたにかりん)が手に買い物籠をぶら下げて立っていた。
「夕食の買い出し?」
「うん。夏凛は?」
「ちょっと小腹が空いたなと思って――」
「これから夕食だよ。ちょっと我慢したら?」
 海谷夏凛は少し口を尖らせている。山根美保が笑うと、海谷夏凛は何も言わずに買い物籠を戻しに行った。
「ねえ、冷蔵庫の野菜って何があった?」
 戻ってきた海谷夏凛に聞く。海谷夏凛はレタスとトマトときゅうりがあったと答えた。
 それだけあれば十分だった。山根美保はメインになる白身魚の切り身をレジに持っていった。
「今日は魚をどうするの?」
 スーパーの外で待っていた海谷夏凛に聞かれる。
「バターで焼く」
 山根美保は迷わず答えた。
「ムニエル?」
「小麦粉、あった?」
 海谷夏凛は首をかしげる。山根美保は「なかったらないでいいよ」と言う。
 暗い夜道を二人並んで歩く。向かうは二人で暮らす、我が家、だ。
 駅から徒歩八分とチラシには書いてあった。十分以内で駅まで行けるなら申し分ない。山根美保と海谷夏凛は即決で、その賃貸アパートを借りることにした。
 築年数のかなり経った2DKの我が家は、決して女子大生二人が暮らすような物件ではない。しかし、二人はそれでもかまわなかった。正確には、かまわないと強がれるぐらいに二人の意思が強かった。
 高校三年、二人が志望校を決めたとき、互いに第一志望の大学へ入学が決まれば一緒に暮らそうと、二人は話し合っていた。山根美保はいろいろと悩んで、最後は県立大学を第一志望にして合格した。海谷夏凛は、大学進学という進路を決めるまでに両親と一悶着あった。高校時代、祖母の家で暮らしていた海谷夏凛を、両親は連れ戻そうと考えていた。そのために大学進学は両親の暮らす家から通える大学を選ぶことが条件になり、海谷夏凛はそれに強く反発した。海谷夏凛と両親の意見はなかなか交差しなかったが、最後は海谷夏凛の祖母の後押しがあり、海谷夏凛は行きたい大学への進学を許された。しかし、海谷夏凛は「仕方なしって感じだったよ」と両親のことを言う。
「だから私、誰も文句が言えない大学へ行く」
 そう言って、海谷夏凛はS学院大学を第一志望に選んだ。S学院大学は全国でも名の通った大学で、海谷夏凛が言うのには「私の両親が勧めた大学より断然、知名度から何まで申し分ない」大学だった。
 山根美保も、海谷夏凛がS学院大学を受験すると聞いたとき、思わず耳を疑った。何回も聞き直しても、海谷夏凛の口からはS学院大学と名前が出る。その本気さに、山根美保は頭の下がる思いだった。正直、山根美保には高嶺の花だ。浪人生活を送っても合格できる気がしない。それに対して、海谷夏凛なら合格できそうな気がした。もちろん、そのために誰にも負けない努力を重ねたに違いない。しかし、それと同時に、山根美保は海谷夏凛なら余裕があっただろうと想像した。海谷夏凛からS学院大学に合格したことを知らされたとき、海谷夏凛は淡々としていた。それが嬉しさの裏返しなのか、本当に余裕だったのか、山根美保には分からなかった。
 互いに第一志望の大学への進学が決まり、二人は一緒に暮らす家を探した。S学院大学は学部別にいくつかのキャンパスに分かれていて、海谷夏凛が進学する学部のキャンパスが県立大学から数駅のところにあった。二人は互いの大学を結んだ中間辺りの物件に的を絞り、古びた2DKの賃貸アパートを選んだ。
 家賃や光熱水費は二人で折半することにした。二人と言っても、山根美保の負担分は両親が出しているし、海谷夏凛の負担分は内緒で海谷夏凛の祖母が出している。
 S学院大学に合格した直後、海谷夏凛の両親は学費程度しか出さないと決めたらしい。そのことに海谷夏凛はしばらく膨れていたが、何度も自分自身に言い聞かせたようにやがては「仕方ないか」と受け入れた。名目上、海谷夏凛はアルバイトをして、自身の負担分を支払っている。しかし、実際は海谷夏凛の祖母が立て替えていて、海谷夏凛はアルバイトの給料から少しずつ返していた。
 そうして始まった二人の生活は、そのルールを海谷夏凛が決めた。それは、海谷夏凛が祖母の家で暮らすためのルールと似通っていた。つまり、家事を二人で分担する。朝食と昼食はそれぞれが自分の分を用意し、夕食の準備は週に三日ずつ担当する。週に一日は二人で協力して準備をすることにした。掃除は一週間に一度、二人の休みが重なったら二人でする。洗濯機は一台しかないため、洗濯は掃除をする日に必ず回し、その日から二、三日おきに洗濯をする。
 役割分担のルール以外に、小まめに連絡することをルールに入れた。これは、山根美保から提案したことだ。出掛けるとき、いつもより帰りが遅くなるとき、夕食がいらないときは互いに連絡をする。初め、海谷夏凛はそのルールの意味が理解できなかったようだが、隠し事をしないとまでは言わないまでも、その日、その時間に我が家にいるのかどうかぐらいは把握しておかないと困ると山根美保が説得して、ルールに加えた。
 しかし、二人はルームシェアを始めてからまだ数ヶ月だが、ルールに関して問題が起こることもなかった。それぞれ大学へ行き、それなりに交友関係も広がってはいるが、我が家で過ごすことが多い。休みの日だって遊びに行くことも少ないし、掃除や洗濯をして、のんびりと世間話をして、食事をする。
 まったく華やかさも色気もない生活だった。
 しかし、山根美保はそれで良かった。無理して大学生活を送らなくても、自然と大学生活が身に付いてくると信じていたからだ。そうして身に着いた大学生活は、山根美保の大学生活だ。それは自分自身に塗られた色で、自分の色、これから先の人生で必要になる色だ。
 我が家に着いた。一階と二階にそれぞれ五部屋ずつあり、二階へ上がる階段から四つ目の部屋が我が家である。二階建ての賃貸アパートは古びていて、セキュリティーも万全とは言えない。玄関の鍵も一つしかなく、郵便ポストもポストの口から手を入れたら簡単に中身が取り出せてしまう。壁も厚くはない。せめてもの救いは、窓が磨り硝子というところだ。
 荷物を持つ山根美保に代わって海谷夏凛が玄関を開ける。玄関を入ってすぐにダイニングキッチンがあり、その隣には水回り、ダイニングキッチンの奥には洋室と和室が一部屋ずつある。和室を海谷夏凛が使い、山根美保は洋室を使っている。
 山根美保は先に米を研いで炊飯器にセットした。自分の荷物を自室に片付けた後、夕食の準備を始める。準備と言ったって、白身魚の切り身をバターで焼くだけだ。そこに、サラダを添えるぐらいはしたい。海谷夏凛が教えたとおり、冷蔵庫にはレタスとトマトときゅうりがあった。それらをサラダっぽく盛り付ける。小麦粉はなかった。だから、白身魚の切り身はバターソテーにする。フライパンで焼いている間に海谷夏凛がダイニングキッチンに来て、ダイニングテーブルに腰を下ろした。
 二人で食卓を囲む。のんびりと世間話をしながら、互いの大学であったことを話す。そのどれもが取り留めのない話だ。その取り留めのない話から、二人は互いの大学生活を想像し、その想像を膨らませる。
「一回さ、お互いの大学へ遊びに行きたいね」
「お互い近くだものね。それぞれの学食を食べ比べてみたりしてさ」
「いいよね」
 海谷夏凛の提案に山根美保は嬉しくて、顔をくしゃくしゃとさせる。二人は、それぞれの学食にどんなメニューがあるのかを話し始めていた。そうしている間に食事も終えて、片付けをしたり風呂に入ったりする。その間ずっと、山根美保はS学院大学で過ごす海谷夏凛を想像する。その想像は時間が経つごとに膨らんでいた。


      3

 駅を出たときから、ここの街は違うと山根美保は感じていた。駅の大きさや駅舎の年季の入り具合は県立大学の最寄り駅と変わらないはずだ。停まる列車も変わらないのに、駅前の広場がこちらの駅では華やいで見えた。
 やはり、全国でも名の通った私立大学の最寄り駅だからだろうか。
 公立には出せない、なんとか力が私立にはあると山根美保は常々思う。それによって、大学と経営上は無縁であるはずの電鉄会社ですら魔法に掛かる。もしかしたら、魔法に掛かっているのは自分自身かもしれない。S学院大学というブランドによって、知らない間に色眼鏡を掛けているのかもしれない。その色眼鏡を外せるのは、S学院大学に入学した学生だけだろう。
 山根美保は隣に立つ海谷夏凛をちらりと見た。
「どうしたの?」
 聞かれたので、山根美保は咄嗟に「人が多いなって」と適当なことを言う。海谷夏凛は駅前の雑踏を見回して「言われてみればそうかもね」と呟いた。
 きっと、海谷夏凛には当たり前の風景なのだろう。すでに海谷夏凛は色眼鏡を外して、S学院大学へ通っているのかもしれない。しかし、海谷夏凛の淡々とした性格からして、端から色眼鏡は掛けていなかったとも言える。受験生だった昨年、海谷夏凛は目に見える数字から判断できる事実だけを見て、S学院大学の魔法には掛からなかった。それはそれで海谷夏凛らしい。
 二人は雑踏が流れていくのと同じ方向へ歩き始めた。と言っても、山根美保は海谷夏凛の先導なしではこの雑踏を歩くことができない。行き着く先は同じでも、自分が思ってもいない場所へ流れ着いてしまいそうで怖かった。
 それにしても、海谷夏凛はこの雑踏の中を毎日歩いているのだ。そこへ通う学生なのだから当然なのかもしれないが、山根美保にはそれがなんとも不思議でならない。
 駅から数分歩いた先の横断歩道で赤信号に掛かり、そこでようやく雑踏の流れが止まった。
「夏凛は、毎日こんなに人の多いところを歩くの?」
「そうでもないよ。講義前後の時間はどうしても多くなるけど、私は少し時間をずらすから」
「やっぱり、人が多いから?」
「それもあるし、講義が終わってすぐに帰るのももったいない気がして。何をするわけでもないんだけどね」
 信号が青になり、再び雑踏が動きだす。山根美保も少し雑踏の流れに身体が慣れてきたのか、地に足の着く感じが分かってきた。
 そうなると、自然と視野が広がる。駅からS学院大学までの道中、駅前が華やいで見えた割には平凡な道のりだった。コンビニが一つあったのは見かけたが、後はマンションや住宅といった生活感が滲み出て、キラキラとしているとはどうしても言いがたい。県立大学周辺の商業ビルが並んでいるよりかはマシだと思うが、こうした生活感を肌で感じてしまうと掛けられた魔法も解けてしまう。
「結構、住宅街の中なんだね」
 海谷夏凛は「え?」と聞き返した。その反応に、山根美保は自分の見ている世界がまやかしではないかと思ってしまう。海谷夏凛は周囲を見て納得してから答えた。
「確かに、住宅が多いかな。この道は一番分かりやすい道なんだけど、実は中の道がいくつもあるの。そっちに入ると、カフェとか定食屋とか居酒屋とかたくさんあるよ」
 この住宅街はカモフラージュだったのか。山根美保は速くなる鼓動を悟られないように「そうなんだ」と訳ないように言う。
「学生に人気のお店とかあるの?」
 山根美保の頭にはジョン・カフェが浮かんでいる。海谷夏凛は少し考えてから「私もまだ詳しくないけど――」と前置きしてから、定食屋の名前を挙げた。カフェを答えないあたり海谷夏凛らしくもあるが、少し期待外れでもある。
 海谷夏凛を県立大学へ連れていくとき、ジョン・カフェへ連れていこう。そんな計画を立てているうちに、二人はS学院大学の正門に着いた。山根美保は思わず呆気に取られてしまう。S学院大学の正門はアーチ状の石造りの門だった。
 S学院大学の構内を歩くと、これぞ大学だと思える。各講義棟はクリーム色をしたコンクリート製の建物で、壁面はストライプに見える波形模様で装飾されていた。すべての建物がそれで統一されているかと思えば、黒っぽい濃淡のタイルで壁面が覆われた建物が目を引く。海谷夏凛に聞けば、それはラウンジと呼ばれる建物だった。
「何があるというわけでもないんだけど、机と椅子があって、たまにイベント会場になったりする場所」
 構内の奥へ目を向ければ煉瓦調の建物が見えた。それはS学院大学が管理するホールで、講演会から音楽系サークルのコンサートに使用できる。正門から奥へ奥へと進んでいくと、全面芝生の広場に出た。
「なんだか公園みたい」
 芝生には、ところどころ通路との境目にベンチが置かれている。そこに座って友達と語らうのだろうかと山根美保は想像を膨らませた。
「たまに、芝生の上で寝転がる人もいるし、レジャーシートを敷いている人もいるよ」
「なんだかピクニックみたい。友達同士、お弁当なんか広げてさ」
「そこが売店でお菓子やジュースが売っているから、それを広げている人は多いよ」
 海谷夏凛は芝生を取り囲むようにして建つ建物を指差した。二階建ての長屋みたいな建物で、学食や売店、カフェに飲食店が並んでいると言う。
 非常に充実している。同じコンクリート製の建物でも、装飾が凝られているかどうかで印象はがらりと変わる。古びた商業ビルのような建物をいつも見ている分、S学院大学の講義棟はたとえ講義であっても、それはお洒落な嗜みに思える。県立大学には学内ホールなんてなかった。コンサートをするなら学外会場を使わなくてはならないし、講演会は一番大きな講義室を使う。学食はどこも似たような物だろうけれど、カフェや飲食店の並びにあれば、高速道路のサービスエリアさながらの店揃えである。
 山根美保の心の奥に「いいなあ」という言葉が浮かぶ。しかし、山根美保はそれを心の奥底に沈めたまま「すごいなあ」と言い換えた。
「県立大学には、こういうところはないの?」
「ないよね。講義棟の距離が比較的に近くて、狭くはないんだけど、ここみたいに空間の余裕はないと思う。風景自体が殺風景だし、広場って言ったら正門を入ってすぐのところぐらいじゃないかな」
 海谷夏凛に応えるために、頭の中で比較を続ける。比較すればするほど、山根美保は自分で口にした殺風景という言葉を何度もなぞり、皮肉にも濃くしてしまっている。
 きっと、後で見返したら、そうして濃くなった殺風景に憎らしくも悔しさが表れるのだろう。そうなってほしくなくて、また、そうしないようにしても、山根美保はなかなか見捨てることはできなかった。
 二人で学食の入る長屋のような建物へ向かう。建物内にはいくつもの掲示板があり、サークル勧誘のチラシや講演会のチラシなどがびっしりと貼られていた。学食のスペースが一番広く取られているようだった。学食の隣にはラウンジのような場所があり、その隣からカフェや飲食店が並び、またラウンジのような場所を挟んで売店と続いている。売店は飲食販売の部分と書籍や雑貨販売の部分に分かれていて、書籍の売り場には専門書や新書だけでなく、文芸書の棚もしっかりと確保されていた。
 建物内を一通り見たところで、海谷夏凛はどこかで休憩しようと提案する。せっかくだから建物内のカフェへ行こうとなり、そこへ足を向けた。すると、カフェの隣に並ぶ飲食店から何人かの男子学生が出てきて、その中の一人が二人に向かって「よお」と声を掛けてきた。山根美保が咄嗟に身構えると、海谷夏凛は慣れた様子で「よお」と返事をした。
「モッチー、どうしたの?」
「夏凛こそどうしたんだよ? お隣は友達?」
 モッチーと呼ばれた男子学生は二人の目の前に立つ。ひょろりとした背丈のためか、思った以上に背が高く感じる。
「この子は同じ高校でクラスメイトだった子。別の大学に通っているんだけど、今日は一緒に来てもらったの」
 山根美保は会釈をしながら自己紹介する。モッチーと呼ばれた男子学生も倉持悠介(くらもちゆうすけ)という名前を教えてくれた。
 倉持悠介と海谷夏凛が立ち話を始める。その内容は、二人が一緒に受けている講義に関係することのようだった。それと、互いのサークルのことか、アルバイトのことか、どちらとも判別できない内容だった。
 知らない言葉がいくつも並び、山根美保は置いてきぼりを食らう。しかし、山根美保には不思議と、二人を中心とした数人での会話が見るに堪えうる光景に思えた。どう考えたって、自分には入っていけない世界なのだ。それなのに、目の前に映る光景は学園ドラマのワンシーンのように思えて、自分にはまったく関係ないのにいつか同じ場所、同じ舞台に立つのではないかという空想が自然と広がっていく。
 どうしてしまったのだろう。
 山根美保がぼんやりと考えていると、海谷夏凛たちの会話が一区切りついたようだ。海谷夏凛が「それじゃあ、私たちは行くね」と山根美保を促し、山根美保も「失礼します」と妙に畏まって会釈する。倉持悠介も同じように笑顔を浮かべて「またね」などと言っている。
 山根美保は海谷夏凛と一緒に正門まで戻ってきた。この後、二人はそれぞれの講義が予定されている。だから、山根美保はすぐに県立大学へ戻らないといけなかった。
「ちょっとしかいられなかったけど、また余裕のあるときに案内するね」
 海谷夏凛に言われ、山根美保は笑顔で応じる。今度は県立大学を案内するなんて言葉が口から出掛かって、寸でのところで呑み込んだ。山根美保は海谷夏凛に手を振って別れた。
 別れてからも、山根美保の気持ちは冷めなかった。この熱源がどういった種類の物なのか、山根美保は始め、分からなかった。
 県立大学に着き、構内を歩く。見慣れた風景のはずなのに、ここが大学であるなんて意識しないと思えない。しかし、それも時間の問題で、意識していたことがやがては無意識になる。けれども、山根美保は中川理奈と会って、初めて決定的な違いを感じた。それは言葉に表すことのできない、オリジナル製品の模倣品のような、それでいて製品自体はオリジナルと遜色ない、よく見れば違うといった程度の物だった。
「ねえ、美保、ちょっと聞いてよ。昨日ね、バイト先の先輩がちょっとムカついたんだよ」
 中川理奈の話に耳を傾けながら、山根美保はそうかと気が付く。
 私は少し、憧れてしまったのだ。
 憧れは憧れでしかない。それはあくまでも空想みたいな物だから、そんなことを思いながら現実的な中川理奈の言葉に山根美保は同調し、頷き続けていた。


      4

 山根美保は自分の身体が熱を持っていることに気が付くと、ダイニングキッチンへ向かった。今朝のうちに淹れた麦茶を冷蔵庫から出し、コップに注いで一息に飲み干す。まだ正午過ぎだと言うのに、麦茶はピッチャー容器の半分まで減っていた。
 山根美保は薬缶で湯を沸かし始めた。そのとき、キッチンの正面にある小窓を開けようかどうか迷った。しかし、小窓には目隠しになる物がない。セキュリティーのことを考えると、やはり開けられなかった。
 代わりに海谷夏凛が使っている和室のほうへ目を向ける。襖は閉ざされていた。あの襖を開けて和室の窓を開けたら、いくらか熱気も抜けるだろうか。山根美保は自室の窓とドアを開け放っている。風の通りを考えたらそうするのが良いと思うのだが、何分、他人の部屋だ。勝手に入るのはいくら親友でも許されないだろう。
 山根美保は少し前に中川理奈に言った言葉を思い出していた。
 中川理奈は、どういうわけか山根美保と海谷夏凛のルームシェアに興味を持っている。大学が夏休みに入る前、いつものジョン・カフェで話をしていたときだった。
「ルームシェアって、どんな感じなの?」
 聞かれても山根美保には上手く答えられなかった。楽しいわけではないし、気まずくもない。余所余所しいところもないと言えるが、そうでもない気がする。
「どうって聞かれても、どう言ったらいいのかな」
 海谷夏凛が返答に悩んでいると、中川理奈は言葉を変えて聞いてきた。
「誰かと一緒に住んでいるんだから、実家と似たような感じ?」
「それとは全然違うかな。実家は親がいろいろしてくれるけど、全部、自分たちでしないといけないから」
「当番とか決めているの?」
 山根美保は二人で決めた役割分担を簡単に話した。ついでに、山根美保から提案したルールも付け加える。小まめに連絡するというルールは、中川理奈もすぐに理解してくれた。
「やっぱり、赤の他人だけど一緒に暮らしているんだものね。でも、家族じゃないからその辺りの線引きって難しくない?」
 言われてみれば、難しい。しかし、今のところは二人の間で何もトラブルは起きていない。山根美保は、それまでの関係が良かったから何も危惧しなかったのかもしれないと思った。山根美保にとって、今のルールは何も窮屈なことはない。だから、山根美保は自分が気を遣ったことはないように思ったが、もしかしたら、海谷夏凛は気を遣っているかもしれない。
「難しいかもしれないけど、仮に何かしらトラブルが起こったら、互いに腹を割って話し合わないといけないよね」
 今まで、そういうことをしてきただろうか。山根美保は中川理奈に言いながら、これまでの二人の関係を思い返してみる。
 すべてではなかったかもしれない。しかし、少しはお互い、腹を割って話してきたのではないだろうか。
「でもさ、いくら親友でも、家族以外には見せられない部分って、どうしてもあるじゃない。そこはどうするの?」
「それは、最大限配慮しないといけないよね」
 山根美保は珍しく即答した。
「家族にだってさ、家族全体が共有している部分と、自分だけのプライベートな部分とに別れているでしょう? それと同じだよ。私たちはお互いに自分の部屋があるんだけど、その部屋には許可なく入らないのが暗黙のルールだよ」
 言ってから、山根美保はふと不思議に思った。洗濯は二人分をまとめてするから、お互いの服や下着を見て知っている。それなのに、部屋のことは知らない。
 考えてみれば、不思議だ。山根美保は部屋の戸を開け放っていることが多いけれども、海谷夏凛は襖を閉じていることがほとんどだ。見られたくないのかもしれないし、そもそも、見せられているのを我慢しているのかもしれない。
 今まで、海谷夏凛から不満を聞いたことはない。そんな海谷夏凛に、山根美保は甘えていやしないだろうか。海谷夏凛が山根美保と同じ高校に通うことになったのは、産まれ育った町での人間関係に疲れたからだ。幼稚園からずっと同じ友達付き合いで、お互いの腹の底を探り合い、自分に我慢という蓋をし続けた結果だった。
 山根美保は海谷夏凛がいつか爆発してしまうのではないかと心配になる。どうしてその危険性に今の今まで気が付かなかったのか。山根美保は一人、心を引き下ろすようなずっしりとした重さを胸に感じた。
 中川理奈と話したときに感じた心の重さは、今もここに残っている。
 山根美保は湯の沸いた薬缶を水の張った盥に浸けた。蛇口から少しだけ水を出し、薬缶の胴体に当てる。蛇口から出た水は盥に張った水へ流れて、ちょろちょろと断続的に音がする。その音を聞きながら、また水の流れを見つめながら、山根美保は改めて海谷夏凛のことを思った。
 二人が同じ高校に通えたのは、海谷夏凛の人付き合いの難しさからだ。山根美保ほどではないにしても、海谷夏凛は決して人付き合いが上手い人ではない。そんな海谷夏凛が自分と一緒に暮らしている。我慢をさせているところもあるだろう。それとも、実は心を許してくれているのだろうか。山根美保としては後者であることを信じたかったし、むしろ一緒に暮らし始めてからそれ以外の可能性を考えたことはなかった。だが、ここに来て、そんなふうに心が揺らぐのは、山根美保の気持ちの弱さでもある。
 山根美保は溜息を一つついた。
 どうしてそんなことを考えてしまうのだろう。そんな考えが憂鬱にさせてしまうと分かっているのに、それを止められないでいる。当然、無神経でいることは良くないことだ。しかし、神経質でいることが必ずしも良いこととは限らない。
 山根美保は蛇口の栓を閉じ、麦茶のパックを入れた別のピッチャー容器に薬缶の湯冷ましを注いだ。もみあげや耳の後ろを汗が伝う。その汗が顎を伝っていて、山根美保は手首でその汗をぬぐう。新しい麦茶を冷蔵庫に入れがてら、前の麦茶を取り出してもう一杯、飲んだ。
 冷たい液体が喉から腹の辺りへ落ちていく。その冷たさを感じたところで、体全体が冷えるわけでもない。山根美保は自室へ戻りながら、自室のエアコンへ目を向けた。風の通りが叶わないのなら、せめてエアコンでも入れたいところだ。しかし、必ずしも貯金に余裕があるわけではないし、エアコンをどんどんと使うのも憚られた。大学の図書館へ行こうかと思っても、窓から射し込む燦々と降り注ぐ陽射しが外へ出ることへの恐ろしさを強調していた。
 山根美保は微かに吹き込む風を求めながら、スマートフォンを手に取る。中川理奈から『美保の住んでいる家に遊びに行けそう?』とLINEが来ていた。そう言えば、中川理奈から家へ遊びに行きたいと頼まれていたことを思い出す。初めて頼まれたとき、山根美保は一人で住んでいないことを理由にはっきりと返事をしなかった。それでも食い下がる中川理奈に「確認してみないとね」と山根美保は口走った。それを中川理奈が覚えているとは思いも寄らなかった。
 山根美保はぼんやりと部屋の中空を眺める。友達の家へ遊びに行くという発想は、いつの間にか頭に浮かぶこともなかった。友達の家へ行くなり、家へ招くなり、小学生の間はそんなことをしてどんな遊びをしただろうか。遠い記憶を辿っても、それは具体化されていないイメージ図でしかなくて、実際の自分の記憶とは思えなかった。
 ジョン・カフェで中川理奈から家に行きたいと言われたとき、山根美保は「家に来て、何をするの?」と聞いた。中川理奈は少し考えてから、言葉を探すようにして答えた。
「何をするわけでもないよ。講義終わりにジョン・カフェでお茶するみたいなことと一緒だよ」
 その答えは至極当然のことだった。大学生にもなって、友達の家で遊ぶわけでもない。そんなことは分かっているから、中川理奈の答えの意味も分かる。しかし、それで家を訪ねるのもおかしな気がした。
 結局、自分はまだ大人ではないのかもしれない。
 山根美保は中川理奈とのやりとりを思い出して、そう思う。
 中川理奈の言うことはすべて歳相応のことだ。その言葉がすんなりと分からないのは、歳相応との比較で自分が幼いということだろう。もしかしたら、S学院大学へ行ったときに羨ましく感じたのもそれに近いかもしれない。県立大学との違いを垣間見て、そこに現れる差を埋めることに憧れる。憧れは憧れであっても、憧れに近付きたいという成長途上の感情は自らの幼さをはっきりと示しているように思う。
 山根美保は自らの幼さと大人と呼ばれる立ち姿との距離を測ろうとする。きっと、このLINEの返事一つで、その距離を縮めることだってできるはずだ。しかし、その返事が分からない。山根美保は、やっぱり自分はまだ幼いと思う。
 仕方がなく、山根美保は『まだ無理かも』と中川理奈に返事を送った。それでいいのかは分からなくても、その言葉しか思い付かなかった。中川理奈からの返事は、親指を立ててウインクしているキャラクターのスタンプだった。
 山根美保が返事を出してすぐに呼び鈴が鳴った。山根美保が玄関を開けると、見覚えのある男性が立っている。
「あ、すみません。あの――、え?」
 男性はしどろもどろだが、きっと目的は海谷夏凛に会いに来たのだろう。
「夏凛なら、留守ですけれど?」
「あ、そうですか。おかしいなあ、行き違ったのかな」
 照れや困惑を誤魔化すように、倉持悠介は頭をかいていた。


      5

 あれはいったい、なんだったのだろう。
 昼間の明るさが過ぎ去って、気が付いたら電気を点けなければ薄暗い部屋で、山根美保はぼんやりと考えていた。
 部屋の照度が下がると、自らをざわめかせた物が心の底に沈殿していくのが分かる。どういう材質の物がそこに溜まっているのか分からないが、なんとなくもろもろとした澱がある。どうにも触りたくない。触ってしまったら、きっと再び心に充満してしまって、心がざわめくだろう。
 だから、山根美保は薄暗くなった部屋で、その薄暗さの中に見える澱を静かに見つめていた。
 倉持悠介が二人の我が家に来たのは二回だった。
 一回目は夏の暑い盛りの時期で、山根美保がエアコンを入れようか逡巡していたときだった。
 呼び鈴が鳴って玄関を開けると、倉持悠介が困惑した様子でそこにいた。その様子だけで、山根美保は倉持悠介が海谷夏凛に会いに来たと察した。海谷夏凛からは何も聞かされていなかったから、どういう約束をしたのかは分からないが、とりあえず山根美保は海谷夏凛が留守であることを伝えた。すると、倉持悠介は「行き違ったのかな」と頭をかく。どうして、そんな態度を取るのだろう。山根美保は頭をかく倉持悠介の表情を窺いつつ、何を言えばいいのかと考えた。
「約束、していたんですか?」
「え?」
 倉持悠介は頭をかいていた手を止めると、山根美保を見つめた。自分が訪ねてくることは知られていることだと思い込んでいたようだ。山根美保はさっと視線を逸らしてから言った。
「別に、たいしたことではないんです。ただ、訪ねてくることを知っていたら、夏凛だって外出しないだろうから」
「いや、まあ、約束と言うほどでもないんだけどね――」
 口と手が連動しているように、倉持悠介はまた頭をかいている。どういう経緯で、ここに来たのだろう。玄関席で根掘り葉掘り聞くのもあれなので、山根美保は倉持悠介を我が家へ上げることにした。
 山根美保が玄関を大きく開けて促すと、倉持悠介は遠慮も見せずに入ってきた。やはり、約束していたのだろう。そんなそぶりは微塵も見せなかったのにと、今朝の海谷夏凛の様子を思い出しながら山根美保は冷蔵庫の麦茶をコップに注いだ。
「暑くてすみません。電気代を浮かせようと考えていたら、つい――」
 首回りをフェイスタオルで拭いている倉持悠介に謝ると、倉持悠介は「お気になさらず」と言いながら、コップの麦茶を一息に飲み干した。余程喉が渇いていたのだろう、山根美保は「もう一杯、飲みます?」と聞く。
「お願いします」
 突き出されたコップに改めて麦茶を注ぐと、倉持悠介はコップ半分の量を飲んだ。
 遠慮のない人だ。
 その印象は、良くも悪くも山根美保の気持ちを倉持悠介に向けて逸らさない。山根美保の眼差しが倉持悠介に向けられているのも気にせず、倉持悠介はダイニングキッチンを見回していた。
 麦茶を冷蔵庫へ戻しながら海谷夏凛にこの状況をLINEする。海谷夏凛からの返事はすぐには届かなかった。だから、仕方なく山根美保は倉持悠介の前に座って、海谷夏凛が戻るまで相手をすることにした。
 しかし、相手をしたとは言っても、山根美保は自分が何を話したのか覚えていない。倉持悠介の話ですら入ってこなかった。話の内容よりも、ぎこちない空気が漂う中で何かを話したという状況しか覚えていない。
 山根美保にとっては地獄とも言える時間だった。いくら待っても海谷夏凛が帰ってきたり、LINEに返事があったりすることもない。いい加減、山根美保も辛くなってきたとき、倉持悠介のスマートフォンに電話が掛かってきた。倉持悠介は山根美保に背を向けて電話に出る。その口からは「ああ、夏凛」と発せられた。倉持悠介は海谷夏凛と電話越しに会話し、何度か謝りながら電話を切った。
「夏凛からですか?」
「うん。どうやら、行き違いだったみたい」
「そうですか」
 倉持悠介は「お邪魔しました」と軽く挨拶をして、我が家を後にした。
 二回目は、それから一ヶ月近くが経った一週間前だった。
 その日も山根美保は我が家にいて、海谷夏凛は留守だった。呼び鈴が鳴り、玄関を開けたら倉持悠介がいた。また海谷夏凛から何も聞かされていなかったから、山根美保は思わず怯んだ。それでも、山根美保は「今日も夏凛は留守ですよ」と表情を緩めて言う。そこには少しばかりの呆れが含まれていた。しかし、倉持悠介は困惑することもなく言った。
「それは知っている。今日は別な用事でここに来たんだ」
 山根美保の顔から余裕が消えた。海谷夏凛がいないと分かっていて、用事がある。それは、自分に対してであることは明白だった。
「なんですか?」
 山根美保が恐る恐る尋ねても、倉持悠介はすぐには答えない。二人は玄関先で佇み、時間だけが過ぎる。山根美保は倉持悠介の様子を探り、倉持悠介は何かのタイミングを計るようだ。
「とりあえず、どうぞ中へ」
 倉持悠介を我が家へ上げ、前と同じようにダイニングキッチンへ通す。テーブルに着いた倉持悠介は両手を膝に乗せたまま、汗をかいているのにその汗をぬぐうこともしなかった。山根美保が「どうぞ」と冷えた麦茶を出しても、前みたいに遠慮なく飲むこともしない。その様子のおかしさに、山根美保は困惑した。とりあえず倉持悠介の前に座り、黙ったままの倉持悠介に水を向けてみる。
「夏凛が留守だって知っていたのなら、今日は私に用事があったんですよね?」
 倉持悠介は喉の奥を鳴らすように「うん」と頷いた。
「何かありましたか?」
「夏凛から君のことをよく聞かされていた。そのうちに、君のことが気になるようになった」
 倉持悠介はそばに置かれた冷えた麦茶を一口飲んだ。その緊張が山根美保にも伝わってくる。山根美保は空気に染められて一緒に緊張したが、緊張だけではなく、どうにかして逃げないといけないと身構えた。山根美保の頭には、海谷夏凛の顔が浮かんでいる。
「良かったら今度、二人で食事へ行きませんか?」
 まっすぐに見つめられ、山根美保は俯いてその眼差しを避ける。こんなこと、あってはならないことなのだ。山根美保はそう自分を戒める。
 ――その言葉は、私ではなくて夏凛へ言うべきなのに。
「ダメですか?」
 倉持悠介は身を乗り出してきた。その圧に押されないよう、山根美保は上手く言葉が出るように何度か深呼吸をして、タイミングを計った。
「それは、私ではなくて夏凛に言うべきだと思います」
「どうして?」
「どうしてって――」
「夏凛とは確かに仲がいい。だけど、仲がいいだけだ」
 山根美保は視線を上げた。倉持悠介は変わらず、まっすぐと山根美保のことを見つめている。
「本当に、それだけだ」
 二人の関係がどういう状態にあるのか、それはそれとしても、目に見えないところも気にしないといけない。倉持悠介が事実を口にしても、海谷夏凛はどうなのだろう。前は海谷夏凛に用事があって、ここにまで来た人なのだ。それでなくても、前にS学院大学へ行ったときに目にした二人の様子も、仲が良いと言えばそうでも、果たしてそれだけだろうか。
「でも、やっぱり――」
 山根美保が答えに渋ると、倉持悠介はポケットを弄り始めた。やがて一枚の小さな紙切れを取り出すと、ペンを貸してくれるように頼んできた。山根美保がペンを差し出すと、小さな紙切れに数字を書いて、それを借りたペンと一緒に山根美保に差し出した。
「いつでもいいから返事をしてほしい。心配なら、夏凛に確認してくれてもかまわないよ」
 山根美保は断り切れず、その小さな紙切れを受け取った。
 あれはいったい、なんだったのか。あれからずっと考えていても、山根美保は答えが出せないでいた。
 山根美保はじっと倉持悠介から渡された小さな紙切れを見つめる。そこに書かれた『090』から始まる電話番号に掛ければ、倉持悠介に繋がる。この番号に掛けたら、海谷夏凛との関係が引き返せない物になる。そんな気が、山根美保にはしてならなかった。
 しかし、仮に後ろ暗いところがあったとして、あれだけはっきりと、またまっすぐと言えるだろうか。
 そうした思いが山根美保の気持ちに余裕を持たせている。倉持悠介の前ではどうしたって拒否できたのに、一人になって部屋の照度が下がった途端、別な考えが生まれる。これが冷静になるということなのかもしれない。そうなって生まれたのだろう別な考えでは、そこまで深刻に受け止めることではないと山根美保に思わせている。
 玄関が開く音がする。続けて海谷夏凛の声が聞こえて、同時にビニール袋の擦れる音がする。
 山根美保は出迎えて、海谷夏凛が買ってきた物を仕分け、食材を二人で冷蔵庫へ入れた。海谷夏凛はあの日を境にしても、いつもと変わらなかった。これだけいつもと変わらないのだから、あのことは本当になんでもないことだ。
 だから、山根美保は海谷夏凛の前で、倉持悠介のことを話題にできた。
「夏凛さ、倉持さんと仲がいいんだよね?」
「そうだよ」
「倉持さんとはどんな感じなの?」
「どんな感じって、まあ、友達みたいな感じかな」
「実はさ――」
「うん」
「私、倉持さんから食事に誘われた」
「え?」
 空気が静かになった気配がして、山根美保は海谷夏凛へ視線を向ける。海谷夏凛は目を見開いていて、顔が強張っていた。
 山根美保はそれでようやく気が付いた。やっぱり、ダメなことなのだ。思えば、倉持悠介とどんな感じなのかを聞いたとき、どことなく歯切れが悪かったではなかったか。それが意味することに、気が付くのが遅すぎた。
 しかし、もう遅い。
 海谷夏凛は眉間に皺を寄せて、山根美保を見つめながら捲し立てた。
「どういうことなの? どうしてモッチーが美保と食事に行くのよ。そもそも、どうして二人が連絡取り合えているの? 二人が会ったのって二回ぐらいでしょう? しかも、その一回は大学で会ったときだし、あのときは連絡先なんて交換できなかったよね」
「倉持さんが、急に家に来て――」
「あの行き違ったとか言っていたとき?」
「ううん。その後に、もう一回」
 海谷夏凛は唖然として、山根美保からゆっくりと視線を逸らした。そして、呆れるように頭をかいた。
「どういうことなのよ。もう意味が分からないよね」
 震えるのを堪えながら絞り出した声を聞き、山根美保は終始肩をすぼめるしかできなかった。
 それ以降、海谷夏凛はぴりぴりとしていた。それが我が家の中の空気を張り詰めた物にさせ、山根美保も不要な多言をしないように努めた。おかげで、海谷夏凛とまともに話をすることもできなかった。海谷夏凛の声色が怒っているように感じて、普段の連絡事項ですら恐る恐るでしか伝えることができなかった。
 そんな状態が数日続き、山根美保は海谷夏凛と話をしようと決めた。どんな言葉を掛けても火に油を注ぐような結果になることは想像できた。しかし、これ以上、このままでいるのは今後の二人にとっても良くないことだ。山根美保は倉持悠介と食事へは行かないと決め、電話番号の書かれたあの小さな紙切れも捨てた。それがどんなに愚かなことでも、海谷夏凛とこじれること以上に愚かなことはない。
 山根美保は海谷夏凛が帰宅するのを待っていた。海谷夏凛は夕食を外で済ましているようで、帰りが遅くなるとの連絡もあった。山根美保は眠くなるのを堪えながら待ち続け、ようやく海谷夏凛が帰ってきたのは日付の変わる頃だった。
 海谷夏凛は直接、自室へ入ったようだ。その気配を物音で感じ、山根美保は五つ数えてから自室を静かに出た。しっかりと閉じられた襖の前に立ち、呼吸を整えてから声を掛ける。自室から返事があり、山根美保は「入ってもいい?」と確認する。もしかしたら、そんなことを聞くのは初めてだったかもしれない。海谷夏凛から「どうぞ」と返事はあった。しかし、そこには戸惑いの色が少し滲んでいた。
 海谷夏凛は顔に薄らと紅が射し、まだ着替えていなかった。内見のときに入って以来の部屋には布団が敷かれ、奥に衣装ケースがあり、その手前に小さな座卓があった。座卓にはノートパソコンが置かれている。案外、狭い部屋だった。
「どうかした?」
 改めて水を向けられて、山根美保はこの部屋に来た理由に立ち返る。しかし、こうして改まると決意したことでもすんなりと口から出てこない。山根美保は海谷夏凛の前に腰を下ろした。
「あの、倉持さんのことなんだけど――」
 話を切り出した途端、海谷夏凛は呆れた表情で何度か頷いた。まだ引きずっているのだ。今日はそれを確実に断ち切らなくてはいけない。
「何も言い訳はしないし、何も言うことはできない。だけど、私は夏凛のことを何より大切にしたい。ただ、それだけ」
 海谷夏凛は真顔で山根美保を見つめた。山根美保は危うく視線を逸らしそうになったが、逸らさなかった。逸らしてしまったら、すべてが嘘になる気がした。
 しばらく二人で見つめ合う。やがて、海谷夏凛が俯いて「うん」と言った。それはとても小さな声で、海谷夏凛には似つかわしくないほどの声だった。
「私だって、美保のことを何より大切にしたい。だから、こんなふうに拗ねているのは良くないと思う。だけど、だけどね。私――」
 話しているうちに海谷夏凛の声は震え、目が潤んでくる。そして、目から涙が落ちて、海谷夏凛は鼻を啜った。
「やっぱり好きだったんだ」
 そうなのだ。考えたら分かることなのだ。それなのに、どうしてあんなことをしてしまったのだろう。
 山根美保は反省する。海谷夏凛は手の甲で鼻を押さえ続けている。そんな海谷夏凛に、そっと箱に入ったティッシュを差し出した。
「私、ちょっと美保が羨ましい」
「そんな――」
 ――羨ましいのは、私のほうだよ。
 言おうとして、言葉が詰まる。だから、山根美保は海谷夏凛を抱き締めた。海谷夏凛もゆっくりと腕を背中に回して、山根美保を離さない。
「美保は、私にはない物をたくさん持っている。だから、モッチーは美保に魅かれたんだよ。そんなことぐらい分かるよ。私なんかは努力しないとそれが出せないけど、美保は自然とそれができている。本当に羨ましいよ。頭だっていいし、優しいし、かわいいし、いつも私のことを気に掛けてくれて――。そんな人、そう滅多にいないよ。本当、羨ましいよ」
 海谷夏凛はくぐもった涙声で何度も「羨ましい」と言う。それをすぐ近くで聞きながら、山根美保はそのすべてを海谷夏凛に返す。
 互いに互いが羨ましくて、だから、大切で――。
 そんな思いを言葉にできないもどかしさがある。山根美保は自分の気持ちを形にする方法を探るように、強く、また強く、海谷夏凛を抱き締める。
「どうしたの?」
 気が付いたら、海谷夏凛はいつもの海谷夏凛だった。
「分からない。だけど――」
「苦しいよ」
 苦笑交じりの声はどこか優しい笑みを帯びている。山根美保は甘えるように海谷夏凛を抱き締め続けた。
「もう、美保ったら」
 されるがままの海谷夏凛の優しさを、山根美保はなおも抱き締めた。



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