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第3章 イエスの罪

 前回の、

 

(3)アカ・イエスの過誤

(4)努力と報い

 

 に引き続き、

 

(5)ブドウ園の譬え

(6)旧約と新約の経済理念

 

 をお送りします。

 


(5)ブドウ園の譬え

ぶどう園の労働者たち

 

 ところが、聖書に書き残されているイエスの言葉は、神の国のあり方として「努力しても報われない」「努力しても報われる」世界観を呈示する。その中でも、とくに際立っている一例が「ぶどう園の労働者たち」の譬えである。イエスは言う。


 天の国は次のようにたとえられる。


 ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。


 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、


「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」


 と言った。それで、その人たちは出かけて行った。


 主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。


 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、


「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」


 と尋ねると、彼らは、


「誰も雇ってくれないのです」と言った。主人は彼らに、


「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言った。


 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、

 

「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と言った。


 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。


 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。


「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」


 主人はその一人に答えた。


「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」


 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。


                         『マタイによる福音書』第20章より

 

 

怠け者の天国

 

 イエスが、この譬えに込めた真意は分からない。ただ、この「ぶどう園の労働者たち」の譬えを率直に読めば、ここには「努力しても報われない」「努力しなくても報われる」世界観が、ありありと現出している。それについては間違いがない。


 最初に雇われた労働者たちなど、さぞかしガッカリしたことだろう。そして彼らは、もうこのブドウ園では働きたくないと思うだろうし、たとえ働いたとしても、午後五時からしか働かないだろう。


 なぜなら、朝から働いても報われない代わりに、夕方から働いても報われるからである。


 しかも、このように考えるのは、なにも最初に雇われた労働者たちに限ったことではない。このブドウ園の賃金システムを知ってしまった者は、誰だって午後五時からしか働かなくなる。そう、誰だって同じ報酬しか受け取れないならば、なるべく手を抜いておきたいからである。


 そうすると、必然的に「全労働者の総合実務時間」は、きわめて短くなる。となれば――ブドウ園の仕事を収穫作業に限定するならば――普通に考えて予想される収穫高の、十分の一も収穫できなくなるだろう。


 これは、一日で済むはずだった仕事が、何日にも延長されることを意味する。


 つまり、多くのブドウは、木に吊るされたままの状態で残り、その本来の旨味は日ごとに薄まっていく。むろん、そんなブドウを、高い値段で買う者などはいない。ブドウは日々廉価になっていき、そのぶん、ブドウ園の収益は格段に落ち込んでいくはずだ。


 そうだとすれば、イエスの倫理が呼び込むのは、経済活動の低迷に他ならないことになる。それが、イエスが是とする「神の国の労働倫理」の必然的帰結である。結局、怠け者の天国は、経済的には貧しいものとならざるを得ないということだ。

 

 


働くのが嫌いなキリギリス型芸術家

 

 これはどういうことなのだろう。イエス自身がプロレタリアートだから、このような「怠け者の天国」を肯定してしまったのだろうか。


 キリギリス型の芸術家が、ただ食うためだけのアルバイト(家業の"大工"仕事)に従事している情景を思い浮かべると、私などは「そうかもしれない」と言いたくなる。


 というのも、そうした状況下にあっては、キリギリス型の芸術家は、


「なんで、こんな事(=仕事)をしなくちゃいけないんだ!」


 とか、


「もう、こんな事していたくない!」


 という気持ちを湧出せざるを得なくなるからだ。


 もしも実際に、こうした気持ちがあったとすれば、である。それは少なくとも、イエスの労働に対する考え方を歪ませる、その「潜在的な要因」にはなり得ただろう。つまり「労働を軽くみる」とか「労働を侮蔑的にみる」といったような。

 

 


共産主義の淵源であるイエス

 

 いや、そうではなく「ぶどう園の労働者たち」の譬えには、もっと深い、別の真理が隠されているのだ、と言う人もあるかも分からない。事実そうなのかもしれない。そうでないと断言することは、私にも出来ない。


 しかし確実に言えることは、「ぶどう園の労働者たち」の譬えのような考え方が、間違いなく、のちの共産主義思想の淵源にはなったであろう事である。共産主義を支持した者たちの心には、新約聖書を通して、「努力してもしなくても、報酬は一律にすべき」という考えが流れ込んでいるように見える。


 そして、共産主義者に対して、それが「自分たちの思想を肯定的に見るための後ろ盾」として機能したことも容易に想像できる。


 なにしろ、神の子である、偉大なるイエス・キリストが、まさに共産主義の真髄を語っているのである。そうであれば、のちに続く者たちにも"はりあい"や"やる気"が出てくることだろう。


 これは、意図したか意図しなかったかに関わらず、イエスの罪だろう。昨今の共産主義の隆盛、その共産主義の貧しさを悪とすればである。

 

 

 


(6)旧約と新約の経済理念

旧約聖書とイエスの不整合

 

 イエスは、自分のことを律法(旧約聖書)の完成者だと語った。

 

 私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためにである(マタイ)。

 

 しかし、実際には、イエスの教えは、律法の内容と、かなりの不整合を起こしている。その理由は、律法の教えが「自我の確立」の座標に集中しているのに対して、イエスの教えがアルベドの座標に集中しているからである。


 イエスが、その教説においてもルベディアンであったならば、こうした不整合は起こらなかったはずだ。


 それは、私の第二、第三福音書(「ヘルメスの杖」)を読めば明らかだろう。そこには明確な「ルベドの教え」が説かれているが、そのルベドの教えの中では、自我の確立(座標5)とアルベド(座標9)は、完全に有機的なつながりを保っているからだ。


 しかし、「復活の奇跡」と「宗教的感化力」を含めればルベディアンであるイエスは、その教説においては、ほとんどアルベディアンの立場を貫いていた。


 そして、残念なことながら、アルベドの器は、ルベドの器よりも、明らかに小さい。そのため「律法の精神」の幾ばくかは、イエスの掌から、砂のように零れ落ちてしまっているのだ。この落ちてしまった分が、律法とイエスの教えとの不整合を生んでしまった。


 このように生じた不整合は、両者の経済倫理のなかに、最も色濃く表れている。それが私の見解である。


 すでに述べたように、イエスの経済倫理には、共産主義への傾斜が見られる。それに比べて、旧約(律法)の経済倫理は、最終的に「契約の遵守」に行きつく。


 神と人間の契約に関しては少しばかり話が変わってくるが、人間同士の契約に話を限れば、その内容はギブ・アンド・テイクである。そして、それは結局、お互いの公平な関係を保つことに行き着くだろう。

 

 


ブドウ園の主人が、旧約の倫理を持っていたら

 

 この点、イエスがその譬えで登場させた、ブドウ園の主人は、明らかに公平な人物ではない。


 もっと正確に言えば、労働者の側から見るかぎり、かのブドウ園の主人は、絶対に「公平な対応をしている」とは思えない。

 

 いくら主人から「最初に提示した賃金は支払っている」と言われても、労働者たちの心は、そこに大きな不公平を感じずにはいられないのだ。


 むろん、イエスにも言い分はあろう。アルベドの「無限・永遠」の中では、たしかに全ての魂は、そのどれもが平等に輝いているからだ。


 そこでは全ての魂が「永遠」を持っているので、有限的な時間の区切りのなかでこそ生まれる、各魂の「価値の差異」が、完全にこなれて均されてしまう。要するに、どんなに未熟な魂であっても、永遠の相のなかでは、みなアルベディアン足りうる、ということだ。


 アルベドにおいては、すべての魂は平等。ゆえに賃金も平等――それがイエスの経済倫理に反映されている。しかし、それは飽くまでも、高次な霊的世界における真実である。物質的な経済圏では、決して通用しない。


 そう、この低次な物質世界に最も相応しいのは、やはり低次な座標における「旧約の経済倫理」なのだ。


 ブドウ園の譬えで話を展開するならば、旧約の経済倫理は、おそらく労働時間と労働能力を考慮して、労働者の各々に、差異のある「公平な給与」を払うことだろう。


 具体的に言えば、朝から働いていた労働者は、きっと高給取りになれるだろうし、夕方から働いた労働者は、きっと薄給に甘んじることになるだろう、ということだ。つまり、労働者の各人によって、もらえる給与額が異なるということである。


 それによって、イエス的な平等性は崩れるが、旧約的な公平性は守られる。そして、公平であることは「努力すれば報われる」「努力しなければ報われない」という結論を導出する。

 

 


経済との相性

 

 ということは、経済的に発展するためには、イエス的倫理よりも、旧約的な倫理のほうが有効であるということだ。事実、ユダヤ資本やユダヤ人の富豪たちは、現在においても、世界経済に中枢に君臨している。


 もっとも、ユダヤ人たちが、自ら望んでその地位に就いたのかは分からない。キリスト教の狭窄的な教義が、ユダヤ人たちを金融業(高利貸し)の中に押し込んだのは、歴史上の事実だからだ。そして、その高利貸しとしての姿は、『ベニスの商人』のシャイロックよろしく、クリスチャンから「金本位」として侮蔑されたのである。


 しかし、その利子収入は、たしかにユダヤ資本の、もともとの財源となった。そして、その財源を使って資本主義経済の市場を創れば、そこはユダヤ人にとって適性発揮の場となった。


 彼らは結局、クリスチャンに押し込まれたフィールドで、目一杯に、自分たちの翼を広げたのであった。

 

 


プロテスタントの「旧約に還れ」

 

 キリスト教の圏内で話をするならば、プロテスタントの理念の一部が、確実に「旧約に還れ」だったことに注目すべきである。ここに近代以降のキリスト教と、旧約の経済倫理との強い結びつきがある。


 それは、ルターの段階では、まだ孵化していない卵程度のものだった。それがカルヴァンの段階になると、もう旧約的な勤労精神にまで育まれている。


 あとは、もうマックス・ウェーバーの言説に沿って考えればいいだろう。


 つまり、プロテスタントの禁欲的な倫理が、カルヴァンの二重予定説のパラドキシカルな受け取り方によって、やがて資本主義の精神へと引き継がれていくのだ。そして、その結果として、ワスプ(WASP=アングロサクソン系の、白人で、プロテスタント教徒であるアメリカ人)の経済的成功が訪れることになる。


 結局は、共産主義における貧しさの本尊としてのイエスがあり、資本主義における豊かさの本尊としての旧約聖書があるということである。


 それにしても不思議ではある。生前のイエスが繰り返し読んでいた本があるとすれば、その筆頭として挙げるべきは旧約聖書だっただろう。ならば彼は、そこから資本主義につながる公平性を学べたはずなのだ。


 しかしイエスは、それを学べなかった。それは確かに書かれていたのだが、イエスの性向と関心が、あまりにも別の方向性を目指していたからである。


 かかるイエスの性向とは、公平であるよりも、美しい自己犠牲な愛に惹かれる性質であり、イエスの関心とは、わき目もふれない程の「芸術性への忠節」である。

 

 


既刊作品のご案内

 次回は、

 

(7)右の羊と、左の山羊

(8)中道のゆえに右となる

 

 をお送りします。次回で「第3章 イエスの罪」は完結です。

 

 既刊作品の紹介をします。

 

 

 

 


奥付



【2018-04-20】最後の審判


http://p.booklog.jp/book/121479


著者 : 正道
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/seidou1717/profile


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