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上の階の住人

22 上の階の住人 

夜中だった。男は部屋の玄関ドアががちゃがちゃ鳴る音で目を覚ました。酔って帰宅した上の階の住人が、階を間違えてドアを開けようとしたのだ。

以前にも何度か同じことがあった。男は寝ぼけまなこで玄関へ行くと、階を間違えていることをドア越しに伝えた。

ドアノブを回そうとする音がやんだ。数秒の沈黙のあと、ドアの向こうの相手が玄関から離れていく足音が聞こえた。ず、ず、と引きずるような音だった。

数日後の夜中、またしても男は部屋のドアを開けようとする耳障りな音に眠りを妨げられた。

やはり上の階の住人だった。男は同じようにドア越しに対応した。また、ず、ず、と引きずるような足音が遠ざかるのが聞こえた。

同じことが何度か続いたあとだった。またしても部屋のドアを開けようとする音に起こされた男は、今度こそ面と向かって文句を言ってやろうと布団から飛び起きた。

勢い込んで玄関に向かい、鍵を開けてドアノブに手をかけた瞬間だった。男は唐突にあること思い出した。忘れていたことが信じられないくらい重大なことだった。

階を間違えているのはドアの向こうの相手ではなかった。男の方だったのだ。

ドアの向こうの相手こそ、実は今男がいる部屋の本当の住人だった。そして、男こそが上の階の部屋の住人だったのだ。

あんなに苦労して入れ替わったというのに忘れてしまうなんて――。男は自分の愚かさを呪った。

鍵を閉め直すにはもう遅かった。ドアは予想外の力強さで外から開け広げられた。男は抵抗を試みたが、無理やり廊下に引きずり出されてしまった。

すかさず、黒い影が入れ替わりに中に入り込んだ。ドアは男の目の前で閉ざされ、重い施錠音が廊下に響いた。

いくら叩いても反応はなかった。男はしばらく粘ったが、やがて諦めてドアに背を向けた。

階段をのぼる足取りは重かった。上の部屋に帰りたくなかったのだ。あの部屋には何か出るからだった。男は見るからにつらそうな様子で、壁に手をついてのぼっていった。

一段ずつゆっくりとのぼりながら、男は明日になったらまた部屋を替わってもらえないか交渉してみようと思った。たぶん夜中に。


追憶の殺人

23 追憶の殺人

ある夜、男は終電に近い私鉄の駅でホームの端をふらふら歩くスーツの中年男性を見かけた。かなり酔っているようだった。

電車が入って来ると、男は引き寄せられるようにしてその見ず知らずの相手に近づいていった。そして、何を思ったか、すれ違いざまに背中を肩で強く押したのだった。

中年はバランスを崩してあえなく線路に落下した。直後に急ブレーキの音が響いた。周囲に他に人はなく、男は振り返ることもなくその場を去った。

ほんの出来心だった。中年は轢死し、男は捕まることもなかった。

数年後、そのときのことはどちらかと言えばいい思い出として男の中で記憶されていた。なぜそんな風に記憶しているのか、自分でもよく分からないくらいだった。

あるとき、男は付き合いが深まりつつあった女と英国式庭園が見えるレストランに出かけた。ゆっくりできる窓際の席だった。結婚を申し込むつもりだった。

食事中、二人の間には常に笑いが絶えなかった。絶品のバジルソースのパスタに気をよくした男は、ふと数年前の駅での出来事について話しはじめた。
女は興味津々で話にうなずき、男も興に乗った。最後の部分まで話し終えると、二人で一緒に笑い合った。

男はプロポーズを切り出す前にいったんトイレに席を立った。用を足している間も上機嫌で、いい返事をもらえると確信していた。

席に戻ると女がいなくなっていた。彼女もトイレかと思い、男はエスプレッソのおかわりを注文した。自分のした話の余韻に浸りながら、男は一人にやけてそれを飲み干した。

三杯目を飲み終えたところで、男はようやく女がもう戻らないのだということに気がついた。男は四杯目を注文した。


高原デート

24 高原デート

初めてのデートで高原に牛を見に行ったときのことだった。男は自信満々で恋人に言った。

「好きな動物、当ててやろうか?」
「え?」女は不意打ちをくらったように言った。
「牛」
「違うけど」

会話はそれきり途絶えた。

二人は売店にソフトクリームを買いに行った。搾りたてのミルクで作った濃厚な一品だった。450円した。

男は遠くの牛を眺めながら、しばらく押し黙ってソフトクリームを舐めた。やがて、自ら沈黙を破った。

「分かった、羊だ」
「違うし。何決めつけてんの。バカじゃない」

その言い方にかちんときた男は、恋人の顔にソフトクリームを押しつけ、ぐりぐりした。相手の顔がべったりと、真っ白になった。

「お前、オペラ座の怪人みたいだぞ」

男は声をあげて笑うと、恋人を置き去りしてレンタカーで帰っていった。


火事

25 火事

ショッピングモールで買い物をしていたとき、男は突然腹を下した。お昼に食べたものが当たったのだ。

あわてて近くのトイレに駆け込むと、個室はすべて埋まっていた。空くのを待っている余裕はなかった。男は大急ぎでフロアの反対側にあるトイレに向かった。

「避難した方がいいな」

すれ違いざまに誰かが言うのが聞こえた。その言葉に続くようにして、他の買い物客たちがぞろぞろと出口に向かいはじめた。

火事だって。その中の誰かが言った。

男はちょうど人波に逆らうような格好になった。むしろ都合がよかった。これなら絶対にトイレは空いているはずだ。

「そっちはダメだ!」

誰かに呼び止められたが、構っている余裕などなかった。もう出かかっていたのだ。

男は脂汗をにじませながら、トイレマーク目指してテナントを突っ切って走った。

思った通り、トイレには誰もいなかった。男は便座に座ると同時に大量の便を放出した。際どいところでセーフだった。

ふおお、むう。

誰もいないと思うとつい声が出てしまった。少し間を置いて第二弾と第三弾が出ると、ようやく危機は去ったように感じた。

男は大きく息を漏らし、その場でぐったりとなった。

ふと見ると、備えつけのサイドボードに雑誌が読み捨てられていた。

何気なく手に取ると、男の好きなゴシップ記事満載の週刊誌だった。おまけに袋とじも未開封だった。男はほくほく顔でアイドルの密会記事から読みはじめた。

すぐに夢中になり、次に気がついたときにはもう手遅れだった。

翌日、男は焼け焦げた週刊誌を手にしたままの状態で消防隊員に発見された。袋とじは開けられていた。


分かれ道

26 分かれ道

一本道を進んでいくと、道が二手に分かれていた。

右の道は地獄行きと案内が出ていた。

左の道には案内はなかった。

男は左の道を選んだ。

地獄よりもっと悪かった。

それが新たな基準となった。



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