閉じる


<<最初から読む

7 / 11ページ

分かれ道

26 分かれ道

一本道を進んでいくと、道が二手に分かれていた。

右の道は地獄行きと案内が出ていた。

左の道には案内はなかった。

男は左の道を選んだ。

地獄よりもっと悪かった。

それが新たな基準となった。


犬を介した再会について

27 犬を介した再会について

男は今でも小学生のときの苦い記憶を思い出すことがあった。

ある日、一緒に遊んでいた同級生のFが目の前で犬に咬まれたのだ。自分と同じくらい大きな体をした凶暴な野良犬だった。

男は怖くなって、泣きわめくFを見捨てて逃げたのだった。Fは腕に十針以上縫う大怪我をした。

後にも先にもあんなに怖い思いをしたことはなかった。

その一件のあと、男は例の野良犬以上にFの存在を恐れるようになった。Fと目が合うと、あのとき逃げたことを責められているような気がしたのだ。自分の意気地のなさを。

男は、残りの学校生活をFを避けるようにして過ごしたのだった。

それから二十年以上が経った今でも、男の心には当時のことが引っ掛かっていた。

ある日、男は一言謝りたいという抜き差しならない思いに駆られて衝動的にFを訪ねた。本当はずっとそうしたかったのだ。

今も実家で暮らしていたFは、突然の訪問に面食らい、いくらか警戒した様子で門扉越しに対応した。

それも最初だけのことだった。男が昔のことを謝りたいと言うと、相手の態度も心なし和らいだ。

ところが、門扉を開けて敷地に通してくれたかと思うと、Fは突然態度を翻した。敵意もあらわに男を罵りはじめたのだ。

卑怯者。根性なし。お前のせいで大怪我をした。お前のせいでおれは不具者だ。一生が台無しだ。

男はすっかり萎縮して批判されるままになった。どれだけ責められても当然の報いだと思った。

突然、Fが勝ち誇ったような笑い声をあげた。もしやと思って振り返ると、男の後ろに放し飼いの大型犬がいた。罠にはまったのだ。

大型犬は今にも咬みつきそうな様子で牙を剥き出しにして唸り、飼い主の命令を待ち構えていた。

「このときを何年も待っていたぞ。この傷の恨みを忘れるはずがないからな。そいつは羊を何頭も噛み殺したこともある凶暴なロットワイラーだ。今こそ復讐を果たしてやる。行け、ソルティ!」

Fは犬をけしかけてきた。

男はわっと目をつむり、飛びかかってきた犬を無我夢中で払いのけた。

宙を舞った犬は、庭の隅にあるDIY用具がまとめられた一角に突っ込んだ。板や工具が大きな音を立てて犬の上に崩れ落ちた。

犬はそれらを自ら押しのけて立ち上がったが、その胴体には芯材で使うような鉄の棒が二本突き刺さっていた。犬はなおも立ち向かってこようとしたが、もう脚が言うことを聞かなかった。

Fは犬に駆け寄り、歯軋りしながら男を振り返った。

「おれに何の恨みがあるんだ!」

男はうろたえて許しを乞うた。決してこんなことをするつもりではなかった。

Fは絶対に許さないとわめきながら殴りかかってきた。男は甘んじて殴られながら、ただひたすら頭を下げた。

Fは何度も殴った。途中からは角材を使って殴った。

次第に、男はいくらなんでもやりすぎだろうという気持ちになって、思わず一発殴り返した。

Fの歯が折れた。

Fは血相を変えて再び掴みかかってきた。

男は今度は受けて立った。二人は狭い庭先で上になり下になりの大乱闘を演じた。

そうこうしているうちに犬は死んでしまった。


オフィスサプライ

28 オフィスサプライ

昼食から戻ると、男はさっそく午後の仕事に取りかかった。書類がきちんと規定に沿っているかどうかを確認する単調な業務だった。

はかどりはじめた頃、デスクの隅に押しやるように置いてあった水色のテープカッターが男にもそもそ語りかけてきた。

「たまには埃くらい拭いてくれよ」

昔ながらの重量のある卓上型テープカッターだった。男はまさかと思って手を止め、辺りを見回した。こんなものが喋るはずがない。

同僚たちはそれぞれ自分の仕事に従事しており、誰も話しかけてきてなかった。でも、まさか。

男はそっと手を伸ばし、テープカッターの水色のボディを指先でつついてみた。反応はなかった。指の関節のところで軽く叩いても反応はなく、少し持ち上げて揺すってみても同じことだった。

「そうじゃねぇよ。掃除だよ、掃除」

男は驚いて声をあげそうになった。やはりこいつだったのだ。しかも、なんだか品の悪い感じだ。

男は少し腰を浮かせて重い台座を両手で掴むと、テープカッターを目の前に持ってきた。椅子に座り直して、そのどっしりとしたボディを改めてじっくり眺めた。

埃をかぶっていることはときどき目についていたが、掃除をしたことなど一度もなかった。

数年前の配置換えでこのデスクを使いはじめたときから置いてあったものだが、業務で使う機会がほとんどないせいもあり見て見ぬふりをしてきたのだ。

よし、一丁やるか。

男は軽く腕まくりをし、デスクの一番上の引き出しから使い捨てのお手拭きを取り出した。

男には、喫茶店やファミレスでもらったお手拭きを使わずに持ち帰って溜め込む癖があった。何ヵ月も放置して乾燥させてしまうのがいつものオチだったが、今こそ役に立つときが来たのだ。

男は開封したお手拭きを指でつまみあげると、もしやと思って一瞬それを見つめた。これも喋るかもしれないと思ったのだ。

残念ながら、お手拭きは喋らなかった。

それでも、男はこのときのために自分はお手拭きを集めていたのだと何か合点が行くところがあった。

男はテープカッターの拭き掃除をはじめた。いったんはじめてしまうと、もう隅々までやらないではいられなかった。

お手拭きはすぐに真っ黒になり、二袋目三袋目と開けなければならなかった。使用済みのものは足元のゴミ箱に捨てた。

リールを外して溝の部分を掃除することも忘れなかった。もちろん、リール自体の汚れもきれいに落とした。

男はお手拭きを惜しまず、ひたすら丹念に部品を磨いた。磨きながら、セロテープとテープカッターの単純で無駄のない構造に思いを馳せた。

これを考えた人間は天才に違いない。

結局十枚以上のお手拭きを使った。すべて終わったときには、テープカッターは新車のような輝きを放っていた。

男は満足げな表情でそれを愛でると、その文具が何か言うのではないかと思って少し待った。もしかしたら、お礼か何かを。

テープカッターは何も喋らなかった。

少し残念に思ったが、男はこれでいいのだと自分を納得させた。それからその文具をもとのデスクの隅に戻した。

ちょうど終業を知らせる音楽が流れた。男は爽やかな気分で職場をあとにした。


天地反転

29 天地反転

目を覚ますと、首から下が土に埋まっていた。おまけに天地が逆さまになっていた。

男は天を埋め尽くした地面の底に、頭を下にして突き刺さるようにして埋まっていたのだ。眼下には底なしの空が広がっていた。重力だけはもとのままだった。

男はついにこのときが来たと思った。長い間、予感だけはあったのだ。

見回すと、他にも大勢の人々が土から頭だけを出して下向きに垂れさがっていた。すべて予言通りだった。

男は予言を繰り返し唱えながら、時が満ちるのを待った。

風が地表をなで、近くに埋もれたものたちの髪がそれになびいた。男はある髪の長い女に視線を引きつけられた。

よく見ると、それは女ではなかった。マネキン人形だった。男ははっとなって他のものたちを見回した。みんなマネキン人形だった。騙されたのだ。

男は大声で助けを求めた。誰も来てくれないことは分かっていると思うと、声は余計に大きくなった。

そのとき、声の振動が伝わって近くの土が剥がれ落ちた。そこに埋まっていたマネキンが、土と一緒に眼下の無限の空間に落ちていった。

男はあっと口をつぐみ、マネキンが音もなく小さくなっていき、ついには見えなくなってしまうのを最後まで見送った。

男はもう声を出さなかった。

やがて、また別のところで土が剥がれ落ち、マネキンが一体こぼれ落ちていった。それも見えなくなったかと思うと、次だった。

男は脱出しようと体をもぞもぞ動かしたが、土が崩れそうになったのですぐにやめた。もはや時間の問題だったが、できることは何もなかった。


耳垢

30 耳垢

「ちょっとこっち来て」

男は心なし浮き立った声で女を呼んだ。見たこともないほど大きな耳垢が取れたのだ。

女が部屋の戸口のところに姿を現した。何か作業を中断してきたらしく、ゴム手袋をはめたままだった。やらなきゃと言っていた風呂場の排水溝の掃除かもしれない。

「耳垢、すげーでかいのが取れた」

男は耳垢の乗ったティッシュを手のひらに乗せ、得意気に女に見せた。

女は汚れがつかないように手のひらを外側に向けて腰に手を当て、すがめた目をちらりとティッシュに向けた。

「で?」女が言った。

で、と言われてもこれだけだった。でかい耳垢。男はもっとよく見てと言うように、手をもうひと押し前にやった。

女は感情のこもってない目でティッシュを一瞥すると、ものも言わずに行ってしまった。

男は、女のその態度にまた何か間違えてしまったらしいと気がついた。「捨てるから」男はあとを追うようにして言った。

しかし、一人になって改めて耳垢を前にすると、やはり捨てるには忍びないという気持ちが沸いた。それほどの大きさだった。

その日、男は耳垢の乗ったティッシュを机に広げたままにして布団に入った。

翌朝目が覚めると、男は真っ先に机のところに行った。ティッシュはそのまま置いてあったが、肝心の耳垢は消えてしまっていた。

男は焦って辺りを見回した。耳垢はどこにもなかった。這いつくばって床をしらみつぶしに探したが、見つかるのはゴミだけだった。

風に舞うとか虫に食べられるとかしてしまったのだろうか。男はしばらくくよくよ考えた。はっきりしたことは何も分からなかった。

午後になって、男はようやく女にあれは捨てたと報告した。


この本の内容は以上です。


読者登録

十佐間つくおさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について