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第2章 アルベド侵入の起点

 前回の、

 

(1)分化の極みから一体化へ

 

 に引き続き、

 

(2)分化の必然と総合の必然

 

 と、

 

(3)自主性を超えて

 

 をお送りします。

 

 第2章は、今回で完結です。


(2)分化の必然と総合の必然

総合の前提

 

 改めて振り返ってみよう。


 混在的一者から発生した意識、その意識の分離性は、いまや自我という形で、まさに極限的なところまで発達した。

 

 かつての「母と子」のように、二つでありながら一つになっていた、そうした一者性から最も遠いところまで、主体はついに到達したのである。

 

 もはや主体は、己のうちに自我しか含んでいない。それ以外のもの、つまりすべての他者を自分の外側に排除しきったからである。自我と他者は完全に分離されたのだ。


 しかし、その分離は、単なる分離のための分離ではない。自己形成の過程はいまだ道半ばであり、かかる自己形成の過程とは「混在→分化→総合」の順で進んでいくからだ。

 

 すなわち、混在が分化のための前提であったように、分化もまた、それ自体が、のちの展開を引き寄せるための前提なのである。


 そして、その“のちの展開”というのが「総合」であるわけだ。この総合は、別れていたものを呼び集めて一つにするような作用と説明することができるだろう。


 しかし総合とは、さまざまな要素が雑然と混交されるような一体性ではない。他者と分離しきった自我がそれをやろうとするならば、それは意識性における退行でしかない。それは言わば、母なる始原的安寧のもとに帰っていく、というだけのことに過ぎない。


 これに反し、真の総合とは、さまざまの要素が、要素各自の特質によって在るべきところに配置され、相互に結びつきながら、整理された状態でもって、一つにまとまることを意味する。このような一体性こそが「総合」の名に値するのである。


 そして、そのような総合が行われるためには、前提としてどうしても、それぞれの要素の特質が明らかになるための分離過程が必要になる。つまり、いくつもの要素が区別されないまま混在していたのでは、その各々の特質が明らかになるなど、到底あり得ないのである。


 言うなれば、それらが混在的にまとまり合っていたとしたら、これはAの特質だと思ったところが、実際にはBの特質だった、ということが起こり得てしまう。明確な境界がないために、内容が淀むようにして錯綜してしまうのである。


 ゆえに、そうならないためには――一つひとつの要素の際立った特質が露になるためには――どうあっても「他者との分離」が必要なのである。

 

 


他者との一体化

 

 このように言えば「自我の確立」「二元性の実現」といった分化、分離性の極限が、まさにこの「一つひとつの要素の際立った特質が露になるため」にこそ必要だったことが分かるだろう。


 読者には、ここで個性には同じものがないという、あの「個性を独自スペースだと思っていい」という話を思い返してほしい。そこにはこう書かれている。


「個性は、人それぞれ誰もが異なったものとして持っている。もし各々に根本的な相違がなかったならば、すべての人間は一つに同化してしまうだろう。そして、相違があるということは、そこには間違いなく、各々特徴的な “何か” があるということである」


 この“何か”こそが――もちろん一言で言えば個性であるが――「露になった、その要素の際立った特質」である。


 つまり、自我の確立を果たすことによって、初めて主体は「総合へと続く道を歩くための通行手形」を入手することができるのである。少なくとも主体自身は、総合の場における己の居場所を見つけることができる。


 そして主体は確かにその通行手形を手に入れたし、新しい道は聞かれた。ゆえに自我にとって他者は、もはや“分離の対象”ではなくて“総合の対象”として見るべきものとなったのである(※)。言わば、それは一体化のパートナーとなったのである。


 もちろん、前節の例において、他人が「絶対に理解できないもの」から「それでもなお理解し合えると信じずにはいられないもの」となった経緯はこれに当たると言えよう。

 

 つまり他人が二元的他者から、一体化パートナーヘと変化したということである(第二巻では、この変化を“主体がアルベド侵入の起点に立った”と表現している)。


 繰り返し確認しておくが、自我の確立は、人間にとって究極の目的ではないのである。それはあくまでも大きな過程における一つの通過点にすぎない。

 

※自我である主体にとって対象があるとすれば、それは自我以外のもの、すなわち他者である。


(3)自主性を超えて

他者への関心

 

 主体にとって、総合のための第一歩となるのが「他者への関心」である。

 

 言い換えれば、自我(自、真、善)から排斥してしまった他者(他、偽、悪)を、再び自らのうちに取り込もうとする意欲ということになるだろう。この意欲によって、二元的他者は一体化パートナーとして主体の目に映るようになる。


 しかし、その一体化が混在的に一つになることではないのは当然である。主体が求めるべき一体性は混在ではなく総合であり、いまさら自分独自の特質を、混在的な曖昧さのなかに放棄する訳にはいかない。退行する訳にはいかないのである。


 こうした主体にとって最も大切になるのが、他者に関心を示すにしても、また実際に他者を取り込むにしても、そのとき、なおも自我の独自性(確立)を保たせることである。


 たとえば同一化の場合は、他人と一体になるために、その交換条件として、自分独自の意見を犠牲にせざるを得なかった。独自性を放棄しなければ、他人の意見と同化することなど、決してできなかったからである。


 だが、自我を確立し、退行することを是としない主体は、もはやそのようなことを望んではならない。他者と一体化するにしても、個性を、合理性を、良識を、一切犠牲にすることなく守らなければならないのである。


 個性を犠牲にして他人を受け入れてはならない。合理性を犠牲にして非合理を受け入れてはならない。良識を犠牲にして悪徳を受け入れてはならない。そういうことである。


 とすれば主体は「自我をそのままに、自分の心の領域を、他者と共存できるほどまでに拡大する」しかない(※)。これしか、主体にとって、他者との一体化を実現するための方途はない。だが、人間にそのようなことができるのだろうか。


 というのも、自我の確立とは、人間にとって「究極的な自主性を必要とするもの」であり、ならばまた、それは同時に人間にとって「自主的に行えることの上限」でもあるからだ。

 

 とすれば、これ以上のことを、どうやって人間が行えるというのか。自我の確立の先にある「自我を犠牲にすることなく他者と一体化する」という過程を、どうして人間が行えるのか。

 

※もっと正確には、テーゼとアンチテーゼを包括できるジンテーゼとしての許容力を持つということである。べつに空間的な広さを望んでいるのではない。

 

 


望むことの可能

 

 率直に解答を導くとすれば、人間の自主性は、いま望まれている「自我を犠牲にすることのない、他者との一体化」を実現することはできない。これは自我の性質を考える限り、認めざるを得ないことであって、誰にとっても動かせない事実である。


 では、主体には何かできるのか。手も足も出せない望みに対して、何をどうすればいいのか。いな、何もできない。それはすでに結論づけられている。


 ところが、何もできないと思っていながら、実は主体は、すでに何事かを為し遂げているのである。すなわち「望んでいるのに何もできない」という文章のなかには、すでに主体が為したところのものが含まれているのだ。

 

 お分かりいただけるだろうか。そう、主体はすでに「望んでいる」のである。彼は望むことをしているのである。


 逆に言えば、主体にできることは、いまや「望むこと」だけである。それ以外には何もできない。なに一つできないのである。しかし、このただ一つ主体に残された“することができる行為”が、この分化と総合の挟間では大きな役割を果たすことになる。


 なぜなら、世界には主体の望みに感応し、これを叶えるための力が存在しているからだ。それは確かに存在するのであって、ただ主体の自我のうちには、それは属していないというだけの話なのである。では、それは一体どこに存する力なのだろう。


 誤解を恐れずに言おう、それは“天”にである。ゆえに、その力は、言うなれば“天からの恵み”である。この天からの恵みだけが、主体が望むものを実現できる力を持っているのである。


 そして私は、かかる“天”のことを「アルベド」と、そして“天からの恵み”のことを「アルベド侵入」と呼んでいる。したがって「アルベドが侵入する」ということは「天が恵みを垂れる」という文章に等しいのである。

 

 


天命を待つ

 

 このように言うと、急に宗教臭くなったと思われるかもしれない。


 それはそれで構わないし、私自身、本書が哲学の範疇を越えて、神学に足を踏み入れていることは自覚している。


 しかし、実際には、私がアルベドと呼ぶものを、過去の人たちは“天”と呼ぶことが多かったというだけの話である。また私がアルベド侵入と呼ぶものを、過去の人たちは“天からの恵み”と呼ぶことが多かったというだけの話である。


 厳然たる事実は「人の心のなかには、人間の限界を超越したものが存在している」「その超越的存在は、人間に影響を与えることがある」という二つのことに過ぎない。


 そして、そのような天(超越的存在)からの恵みに浴した人々は、総じて人々から「天才」と呼ばれることが多かった。ゆえに「アルベド侵入」について書くということは、実は、天才のメカニズムについて書くということに等しいのである。


 もっとも、かかる天才のメカニズムについては次章で語ることになるので、ここでは「アルベド侵入の起点」についてのまとめだけを施しておこう。


 してみると、世には「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がある。また「求めよ、されば与えられん」というイエスの言葉もある。


 これらを私なりに結び付けてアレンジするとすれば、


「自主性を尽くして自我を確立せよ。これを実現できたならば、他者との総合的な一体化を望む(求める)べきである。そうすれば天からの恵みがお前に与えられるだろう。すなわち、お前にアルベド侵入が起こってくるだろう」ということになる。


 つまり、正当なる人間の望み――二元的他者を一体化のパートナーとして見、そのパートナーと一体化したいと望むこと――と、その望みを叶えるための方途が人間にないこと、まさしく、ここに「アルベド侵入」というものが起こってくる起点があるのである。


 だいたい、もしも主体の望みが自主性によって実現できるならば、わざわざアルベドの力が主体のもとに侵入するまでもないだろう。


補遺 第二福音書より 座標5,1 アルベド侵入の起点

心の中の客観

 

 私たちは、自分の心のことを"主観"と呼ぶことがある。それは「私だけの物の観方」ということだから、たしかに"私の心"に近い概念だ。


 だが私たちは客観性も持たなければならない。客観性を欠いた――それゆえ私情に流されることの多い――人間は、そのとき社会(=客観的世界)側から、


「あなたは社会的公平さを欠く」と批判され、ペナルティを与えられて、その場からアッサリと除外されるだけだからだ。


 もとより人間は、社会的な生き物である。だから私たちは、心を外側に向ける。そして、その「どうにも自分の思い通りにならない客観的な世界」から、それでもなお、そこで生きるための"共同体のルール"を学ぼうとするのである。


 ということは、簡単にまとめると「心の内側には主観があり、心の外側には客観的世界がある」。そして「客観的世界を知るためには、私たちは、心を、自分の外側に向けなければならない」ということになる。


 しかし、自我の確立を経て「アルベド侵入の起点」に立ったとき、そのような常識的な考えは、すぐに破られずにはおかれない。すなわち彼は、自分の"心の中に"自分の意志ではコントロールすることのできない「客観的な世界」が厳然と存在しているということを、そのとき思い知らされるのである。


 それは実に不思議なことだ。自分の心の中には"主観"だけがあると思っていたのに、実際には、そこに"客観"までもがある。心の外側にしかないと思っていた"客観"が、心の中にもある。そういう事になるからだ。これは一体どういうことだろうか。

 

 


自分が自分ではない感覚

 

 そのとき主体の身に降りかかってくるのは「自分がこうしたいから、こうする」という当然の行動形式ではなく、


「自分では思いもしなかったことが、たしかに自分の手によって為される」

 

 という不可解な行動形式である。


 それは"自分が自分でない"感覚をもたらす現象であり、もっと言えば"自分が、何者かに取り憑かれている"かのような感覚をもたらす現象である。それゆえ彼は、この時、


「どうして自分に、こんなことが出来たんだろう」
 と、狐につままれたような表情で、独りごちざるを得ない。


 もっとも、それまでの彼――アルベド侵入の起点に立つ前の、自我の確立から前の段階にいる主体――であっても、失敗やアウト・オブ・コントロールとしての「自分では思いもしなかった事をしてしまう」ことはあっただろう。


 だが、それは心理学者のフロイトが、100年以上も前に立てた個人的無意識の学説によって説明できることであり、そこに不思議なことは何もないと言っていい。少なくとも、主体の能力の範囲内の出来事でしかない。


 それに対して「アルベド侵入の起点」から起こり始まる「心の中の客観によって引き起こされる、主体の与り知らぬ現象」は、「自分で行うことが"自分の能力限界を超え出て"優れた結果を出す」という摩訶不思議さを備えているのである。

 

 


アルベド侵入の起点というジレンマ

 

 自我の確立とは、人間が自主的に為しうる自己規定、認識、倫理の上限である。それゆえ主体は、いかなる自主的努力によっても、これ以上の意識のステージに登ることは出来ない。


 しかし、自我の確立段階において、人間は人間のままである。


 序章で述べたように、「ヘルメスの杖」は、いわば「人間の地平と、神の視座をむすぶ梯子」であり、すべての人間は、神の視座にいたるまで、この梯子を登りきる義務を負っている。

 

 だから、主体の成長の描写が、こんなところでストップする訳はないのだ。当然のように主体は、新しい意識のステージに向かって梯子を登ってゆく。


 そう、主体が「自我の確立」に到ったとしても、彼には、さらなる成長の過程が与えられなければならない。

 

 与えられなければならない......けれども、彼には、自主的に自分を成長させる手立てはない。その自主性の限界が「自我の確立」の段階だったのだから。


 これが「アルベド侵入の起点」となる状態である。


 それは一つのジレンマ(迷い)であり、アンチノミー(二律背反)である。

 

 


アルベド侵入という解決

 

 そして、このジレンマやアンチノミーを解決するものこそが「アルベド侵入」なのだ。

 

 このアルベド侵入こそが、「自主性の限界に立ったことで、成長の手足をもがれてしまった主体」のもとに"主体の内部から""内的客観として"力を与え、彼の成長にとっての助け舟を出してくれるのである。


 もしかしたら「侵入」という言葉に抵抗を感じる方もあるかもしれないが、私がこの言葉を使ったのは、アルベド侵入の具体的な現れが、いわゆるインスピレーション(霊感、閃き)であり、そのインスピレーションの原意が「吹き込まれたもの」、つまり主体にとっては、何者からの侵入に他ならないからなのである。


 では、何が主体の心(自我)に侵入してくるのだろう。その答えは「アルベド侵入」という言葉のうちに、すでに示されている。つまり主体の心に侵入してくるのは「アルベド」なのである。

 

 


テリトリーを持つアルベド

 

 アルベドそのものについては、座標9の節で、ある程度掘り下げる。ある程度、というのは、この『ヘルメスの杖』自体が、私の神学にとって、ダイジェスト版、簡略版の意味合いを持っているからである。


 だから、ここでは、もともと簡略にしか表現しないつもりのことを、さらに簡略して表現することになるが、そうした意図のもとにアルベドを言い表すと、それは「無限、永遠、救済」ということになる。


 無限、永遠、救済――それは多くの宗教にとっての奥義であり、ほとんど神そのものと言って差支えないものである。そして私が「アルベド侵入」と言うとき、それほどにも偉大なものが、主体の心へと侵入してくる事を意味しているのである。


 ただしアルベドは"そこでしか純粋に自分を保つことができない"テリトリー(縄張り)のようなものを持っている。座標9が、まさにそのテリトリーだ。このテリトリーにいない限り、アルベドはその純粋性を保てない。


 そして、アルベド侵入の受け手である主体は、当然、この座標9にはいない(=その座標に意識を定位していない)。だからアルベドは、アルベド侵入として働くときには、自分のテリトリーから出ていかざるを得ないのである。


 ということは、アルベド侵入としてのアルベドの内容は、その純粋性を低減していることになる。そのとき「無限、永遠、救済」は、もはや「無限的なもの、永遠的なもの、救済的なもの」に過ぎない、ということだ。


 たとえて言うと、アルベドが「本人」であるならば、アルベド侵入の後期ぐらいで「弟」、中期ぐらいで「子」。アルベド侵入の初期では「孫」ぐらいにしか、その血の濃さを残していないのである。


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