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第3章 アルベド侵入の機構

 こうした作品は文字通り作者に押しかけてきたものであって、彼の手はいわばそれに捕らえられて、ひとりでに筆が動きものを書いたにすぎず、彼の精神は、あれよあれよと目を丸くするだけだったのです。

 

 ユング『分析心理学と文芸作品の関係』


(1)アルベド侵入とは何か

湧かないイメージ

 

 次巻『アルベド侵入』では、アルベド侵入を、その軸ごとに、実例を交えながらじっくりと考察していくつもりなので、本章においては、そうした実例の基盤となる「アルベド侵入のメカニズム」について、やや抽象的なスタイルをもって語っていきたいと思う。


 もっとも、そのようなメカニズム(機構)を語るにも、読者にあっては、


「その前に“アルベド侵入”という言葉の規定こそ為すべきだ」


 という求めが先に立ってくるかもしれない。無理もない。なにしろ、これほど予備的な知識が用意されていない言葉もないのだから。


 たとえば「教育の段階」と言えば、何も教えられていなくとも、その言葉について、ある程度のイメージは浮かんでくる。この点では「自我の確立」も同じだろう。何となくではあるが、自我と言われれば何かしらのイメージは湧いてくる。


 それらに対して「アルベド侵入」という言葉には、読者にとって、イメージを浮かべるための機縁となるものがほとんど何もないと言っていい。


 それもそうだろう。語の中核となる「アルベド」については、本シリーズ全体をもって、やっと包括的に答えられるのだし、実際にアルベド侵入を体験している人など、ごく少数しかいないのだから。


 前の章においても、私はこのアルベド侵入の内容について、ほとんど何も話さなかった。せいぜいのところ、それが「天からの恵みと同義である」ということを示唆しただけだったのである。


 そういう訳だから、私はまずここに全体的、包摂的な「アルベド侵入」の観念を紹介しておこうと思う。


そして、その観念の紹介は、同時にメカニズムの紹介ともなるだろう。なぜなら、アルベド侵入自体が、静止した内容というよりは動きそのものであり、一つの機構(動きの仕組み=メカ平ズム)だからである。

 

 あまりにも簡単な説明になるとは思うが、それでも次巻『アルベド侵入』に取り組むための準備ぐらいにはなるのではないだろうか。

 

 


三つの視点

 

 アルベド侵入、その名称から明らかなのは、それが“侵入するもの”であること、まずはそれだけだろう。これが私たちにとって最初の、理解のための機縁である。

 

 ではまず、

 

 (a)どこに侵入するのか――それは形而界にである。

 

 (b)誰に対して侵入するのか――それは自我を確立したあと、他者と一体化を望んでいる主体に対してである。

 

 (c)何か侵入するのか――それはアルベドの内容である。

 

 端的に問い、端的に答えるならば、アルベド侵入とは、以上のような内容を持った現象ということになる。


 しかし、これだけの説明では、誰も何も納得することができまい。しかも、初めて聞く言葉すら(形而界という)ここでは無造作に用いられている。

 

 とすれば、ここで話が終わってしまったら、私は疑念ばかりを読者に残すことになるだろう。そこで次に、上述の内容を、読者の理解が得られる程度にまで詳しく展開していくことにする。

 

 


形而界について

 

 初めに形而界という言葉について説明しなければならない。


 この「形而界」というのは、これと異なる「形上界」と対比的に用いた私の造語であるが、形而界、形上界、のどちらにも“形”という文字が使われている。

 

 プラトンによれば、形とは「立体がそこで限られるところのもの(メノン)」であるとのことだが、ここで言う形とは“立体”そのものを指していると思ってほしい。


 そして、私たちは立体というものを「光と影によって構成されているもの」として認識する。陰影がなければ、球は円にしか見えない。光と影の要素から成っていなければ、私たちは立体を立体として認識することができないのである。


 形而界とは、かかる立体の原理によって秩序立てられた世界であるが、光と影という二元性は、それを根源にして、他のあらゆる二元性を派生させる。すなわち、自と他、真と偽、善と悪、というように(※)。


 ということは、すなわち形而界とは、これまで私たちが考察してきた世界のことなのである。

 

 もちろん、二元性が最も明確に現れるのは「自我の確立」の段階であるが、しかし、その部分だけが形而界だというのではない。混在的一者も、アルベドの寸前も、実はみな二元的な世界である形而界に属しているのである。


 混在的一者は、母と子が一者化しているので、自他二元に関わりがないと言う方があるかもしれない。

 

 しかし、それは主体が二元性を認識できないだけで、厳然たる事実としては、母と子は、紛れもなく“他人と自分”である。誰もこれを否定することはできない。

 

 そこには自他の二元性が確かに生じている。


 また、アルベド寸前の世界は、他ならぬそのアルベドの影響力によって、二元的な世界観がかなり崩れてくるものの、それでも完全に二元性から逃れている訳ではない。したがって、これもまた形而界に属しているのである。


 そういうことで、形而界とは、その下限を混在的一者に、上限をアルベド寸前に設定した世界ということができるだろう。簡単に言えば、アルベド自体を体験していない人は、形上界については知らず、形而界だけを知っているということになるのである。

 

※他に、主客、陰陽、男女、霊肉、などもある。

 

 


形上界とアルベド

 

 それに対し、形上界は、光と影ではなく、光だけで秩序づけられている。それは光一元の世界であり、もはや立体的には、二元的には認識できない世界である。それは相対の世界でも、また比量の世界でもなく、ひとえに絶対の世界なのである。


 アルベドは、この形上界と形而界の境界に存在しているが、性質的には形上界に属していると見るべきであろう。後述するが、そこでは空間的には無限により、時間的には永遠により、倫理的には救済により、すべての存在が一元的に総合されているのである。


 なお、一般的な哲学の用語を使うならば、形上界は形而上と、形而界は形而下と言い換えることができる。


 ただ、私は形而界の下にもう一つ「形失界」というものを設定しているので、従来の二分法的な用語(形而、上・下、の二つ)に従うことができなかったのである。つまり私としては「形上界、形而界、形失界」の三世界を設定したい訳だ。


 ただし形失界については、本シリーズで触れる必要はまったくないので、ここで堀り下げることも一切しない。それは『ルベド』や『ニグレド』でこそ究明されなければならない観念なのである。
 

 

 

(a)どこに・形而界に

 

 ここまで説明してやっと当初の問題に立ち返ることができる。すなわち、アルベド侵入とは「どこへ侵入するのか――それは形而界へである」ということらしいが、これは分かりやすく言えばどういうことになるのか、ということである。


 してみると、アルベドは、この形而界に侵入してくる、ということだから、それ自体は形而界に属していないことになる。もしアルベドが形而界に属しているならば、べつにそこに“侵入”するまでもないからだ。


 では、アルベドはどのような座標に存在しているのか。それは、すでに述べたように、形而界と形上界の境界である。形而界の天井部分であり、形上界の底辺である。アルベドの定位置は、ここ以外にはない。


 したがって、この定位置のことをアルベドの「テリトリー」と呼んでもいいだろう。つまり、そこはアルベドにとって固有の領域であり、ある種の縄張りなのである。


 そこで、このテリトリー以外の場所(形而界)にアルベドが進出する場合に、私はこれを「アルベド侵入」と呼ぶ。形而界に属する者にとっては、かかるアルベドの進出は、自分たちの領域への侵入に他ならないからだ。ということは、アルベド侵入は、


「アルベドが、そのテリトリーから形而界に進出すること」


 と定型化することができることになる。

 

 


(b)誰に・他者との一体化を望む主体に

 

 アルベド侵入とは「誰に対して侵入するものなのか――それは自我を確立したあと、他者と一体化を望んでいる主体に対してである」というのが二つ目の命題だった。


 前章で述べたように、アルベド侵入は、天からの恵みとして主体に与えられるものである。

 

 しかし、形而界そのものは、混在的一者を底辺として、教育の段階、自我の確立の段階など、これまでに本書で扱ってきた領域のすべてを含んでいる。そして、そのすべての領域に人間の意識が分布しているのである。


 では、形而界に侵入するアルベドは、それらすべての意識に恵みを垂れるのだろうか。読者もお分かりのとおり、そのように問われたならば、答えは明白に「否」である。


 天からの恵み(アルベド侵入)は、それを与えなければ、もはや心の成長が促進されることがない人間にのみ与えられる。そして、そこまで至っていない者に対しては、己が自主性によって成長することを、あくまでも摂理は望むのである。


 確認しておくと、人間が己の自主性によって成長できるのは「自我の確立」の段階までである。

 

 そして、かかる「自我の確立」を果たしたあとに、主体が「他者との一体化」を望んだ場合、これを為し遂げる力は人間には備わっていない、というのが、前章「アルベド侵入の起点」の結論であった。


 ここに己の無能力をさらす主体の姿がある訳だが、しかし、この無能力のゆえにこそ、天は彼に対してその恵みを与えたまう。そして、その恩恵が、主体をして「他者との一体化」を為し遂げる際の活力となるのである。


 そうすると、アルベド侵入という現象を感得できる人間というのは、かなり数が限られてくることになる。なにしろ、自我を確立した人間などというのは、そうそういるものではないからである。

 

 


いかに少数か

 

 それに私は「アルベド侵入は天才のメカニズムでもある」と言った。だとしたら、アルベド侵入を実感によって理解するためには、その人間は「私は天才である」と確言できなければならないのである。


 だが、どれほどの数の人間が、そのような告白をすることができるだろうか。


 しかも、その告白は、思い上がった豪語ではなく、あくまでも謙虚の言葉でなければならない。本質的に天才とは、謙虚さを表す言葉だからである。


 なぜなら“天の才”とは、実質的に主体自身(自我)の才能とは別のものであり、いわば主体にとって“天から預けられた”ものに過ぎないからだ。これは当人には、実感として明白に分かることである。


 そして、かかる天の才によって何らかの名声を得たとしても、預けられたもので獲得した名声は、その才能の持ち主に返さなければ道理に反する。

 

 真の天才はこの道理をちゃんと弁えているので、周囲からは主体自身の功績にしか見えないものであっても、当人は、その内心において“天への返還”を行ってしまうのである。


 たとえば音楽界の天才であるバッハは、その楽譜の結びに、よく「ただ神にのみ栄光あれ」と書いたという。これなどは文字通りの“天への返還”と言えるだろう。


 そうして空手となった主体には、ただ名声の持ち主(天)に対する感嘆だけが残る。天よ、あなたは偉大です、と。そして、誰かに感嘆できるのは謙虚な人間だけである。傲慢な人間は自分自身に対してしか感嘆しない。


 そうしてみると、こうした本物の天才(謙虚の言葉としての天才)がそう多くはいないことは誰にでも予想がつくことであろう。

 

 そして、こうした少人数に比し、人類の大部分は、教育の段階における中期と後期を行ったり来たりし、そうして、この段階に属したままで生涯の終わりを迎えることになるのである。

 

 


(c)何が・アルベドの内容が

 

 三つ目の命題に移ろう。すなわち、アルベド侵入とは「何か侵入するものなのか――それはアルベドの内容である」ということの内容を展開していこうという訳だ。


 これまでに述べたことを総合すれば、アルベド侵入とは、アルベドの内容が形而界の、そこに住する少数の人間に侵入することである。


 そして、私たちはアルベド侵入の全体的な輪郭を掴むために、ここで僅かなりとも“アルベドの内容そのもの”に触れておかなければならない。決して詳しい考察が求められている訳ではないが、ある程度の内容把握は、この場においてもやはり必要であろう。


 それでは、詳しいことは、おそらく第四巻となる『存在の原理』に任せて(第三福音書、座標9にあたる)、ここではアルベドの内容についての簡単な説明を施すことにしよう。

 

 


アルベドの内容の概述

 

 空間軸におけるアルベドとは「無限」である。無限とは「人類すべての個性が一つのものとして総合されている状態」であり、これと合一する主体は「すべてでありながら単一の存在」としての感覚を持つことになる。


 時間軸におけるアルベドとは「永遠」である。永遠とは「すべての時間が現在という一点の自己展開として成立している状態」であり、これと合一する主体は「過去と未来を自らのうちに包含する普遍者」としての感覚を持つ。


 空間軸と時間軸が組み合わさることによって、時空(=世界)が現出する。この世界(無限にして永遠)は存在そのものであり、ゆえに汎神(存在そのものである神)である。

 

 そして、かかる汎神の形態(※)をして、私は「放射的直線」と呼んでいる。放射的直線は、幅が無限、長さが永遠である直線である。


 この汎神の行為――ただし永遠に動かざる行為――として、倫理軸におけるアルベド、すなわち「救済」が導かれる。救済とは「人類すべての個性が、自ら(アルベド)のうちに合一することを永遠に待ち続けること」である。


 そこでは人間としての主体が、アルベドによって救われているのと同時に――アルベドと合一している以上――アルベドそのものでもある主体が、いまだ形而界にあって救いを待っている、あらゆる個性を救ってもいるのである。

 

 ここに「救済される救済者」という古来からのモチーフが現れている。


 もっとも「待ち続ける」と言っても、それは救済が、はるか先の未来でのみ実現することを意味する訳ではない。

 

 無限と永遠によって、すべての個性を包含し、すべての時間を包含している汎神(=これと合一している主体でもある)にとっては、自らのうちで、すでに救済が完了しているのである。


 それは「いつか」ではなく「すでに」である。救済が遠い未来でしか実現されないものであったとしても、その遠い未来を、永遠は“すでに持っている”からである。


 そして、この救済の内容自体は「無限によって孤独から逃れ、永遠によって死への恐怖から逃れること。またすべての罪悪感から許されること」である。

 

※もちろん立体としての形態ではない。比喩的なものとして解されたい。

 

 


(a)~(c)の総括

 

 アルベド自体の内容(c)とは、右に列挙したようなものである。

 

 こうした内容が、形而界と形上界の境界という、アルベドのテリトリーを満たしているのであるが、

 

 それが形而界に進出(a)し、

 

 自我の確立後に他者との一体化を望む主体に受容される(b)とき、

 

 これをもって「アルベド侵入」と言うのである。

 


補遺 第二福音書から 座標6 アルベド侵入の初期

内なるアルベド侵入、外なるカリスマ的影響力

 

「分化から総合へ」のところで書いたことだが、アルベドは女性原理のマックス状態であり、それゆえ、いわばアルベドからの使者である「アルベド侵入」もまた、基本的に、女性原理の「結びつけること」を責務としている。


 そして、自我の確立によって分化(他要素との分離)した主体は、アルベド侵入によって総合(分化した要素の結びつき)への階段を上ることになる。他方、主体の、その内的営為は、そのまま外部展開をもして、彼の周囲にも大きな影響を与えることになる。


 というのも、アルベド侵入は、一種の"神からの恩寵(カリスマ)"であり、その恩寵を受けている主体は、外部の人間から見ると"カリスマ的人物"として目に映るのである。


 カリスマ的人物となった主体は、その影響力(指導力)によって、人々(自我を確立している人間たち)を自分に引き寄せ――引き寄せることで結びつけ――彼らを総合への道筋へと導くことになる。まさに主体内部のアルベド侵入が、主体外部において"カリスマ的影響"として展開されるのである。


 そして、そのカリスマ的影響を、主体の周囲にいる自我確立者が受けたとすれば、そこには、また新規のアルベド侵入が生じる可能性が出てくる。つまり、彼(他者)が受けたカリスマ的影響力という"外なるもの"が、その彼の心のなかで"内部展開"され、ついには彼にとっての、アルベド侵入となる"可能性がある"のである。

 

 


感動を与えられ、感動を与える

 

 カリスマ性は、もちろん、アルベド侵入の、初期、中期、後期、という段階を登るほどに、その影響力を増していく。そして、政治、芸術、学問、宗教、といった各分野で、そのカリスマ性を波及させていくのである。


 もう少し具体的に言うならば、このカリスマ性とは、要するに「感動」である。


 内なるアルベド侵入としては「神からの恩寵として、自分を超える力を与えられるさいの感動」であり、外なるカリスマ的影響力としては「接する人々に、彼が"孤独を癒す感動"を与える力」である。


 そう、彼は、ほとんど離散している(=契約関係でのみ、かろうじて結びついている)自我保持者たちの寂しさや虚しさを、自身が与える感動によって解消する。そして、その偉業によって、多くの人たちから「天才」と讃えられることになるのである。


 そこで私は「アルベド侵入」の初期、中期、後期、の説明の中で、まず主体内部で起こる「主体にとって感動的に思える、恩寵的な出来事」を描写し、その次に、その恩寵が外部展開をしたときの「カリスマ的影響力の事例」を紹介していこうと思う。


 そのさい、なるべく読者が直接触れることが出来る"感動"を紹介したいので、私は、既存の芸術作品に言及することが多くなるだろう。そういった作品ならば、本やディスク、画集等を購入してもらえさえすれば、読者の眼前に実例を差し出すことも可能だからだ。


 そして、実際に、その芸術作品によって、読者の中に"感動"が生じたならば、私にとっても非常に嬉しいことである。

 

 


柔らかい心の自我確立者

 

 では本題に入るとしよう。まずは主体内部の恩寵的体験について――


 自我を確立した主体が、その心を「度を超した自己肯定」「狭量でガチガチの合理性」「他人を責めるのに多くのエネルギーを使うような良識」などに偏執させない場合、主体にアルベド侵入が恵まれることになる。


 皮肉であるが、自我の確立は――アルベド侵入が起こる前提であるにも関わらず――上記のそうした、ある意味で"お堅い人間"を作らずにいられない。しかし、アルベド侵入に恵まれることを望むならば、大切なのは、柔らかい心を失わないことである。


 契約を超えた他人への優しい眼差し、非合理的なものへの関心、悪なるものが決して自分のうちから消えさることはないという自覚、そうしたものが"柔らかい心"の材料となる。


 そんな"柔らかい心を持っている"自我の確立者が、自分の仕事を果たしているとき、フッと心と体が軽くなり、妙に仕事がスムーズに進んでいくことがある。


 仕事といっても、計算的なデスクワークや、単調な肉体労働を指しているのではない。


 いや、そういう仕事でも起こり得るのかもしれないが、ここで言う仕事とは、大体において、その人にとって天来の才能を発揮できる、いわゆる天職を指しているのである。それはむしろ、スポーツや趣味、学問や社会貢献でも構わない。


 そうした天職に励んでいるとき「心身が軽くなって、仕事が不思議なぐらいはかどる」。しかも「そのときの仕事のクオリティが、普段の自分からは想像もつかないぐらい高い」。そういうことが起こることがある。

 

 


他人事な感覚

 

 そうした場面で主体が感じるのは、


「どうして自分に、こんなことが出来たんだろう」「これは自分がやったことなのか」「なぜ自分が、この勝負で勝てたんだろう」


 といった"他人事な感覚"である。


 まるで自分が自分でないような感じであり、かつ、自分よりも"優れた者"に意識が取って代わられたような感じである。


 ただし、その感覚はいつでも過去形でしか言い表せず、現在進行形では、むしろ心が静かで、眼前のものが非常に明晰に、クリアーに見えることも多い。


 つまり、そのとき"集中している"と言われれば、たしかに、ものすごく集中しているのだ。集中が途切れていれば、目の前のものは、逆に、ぼやけて見えるのだから。そして、集中と個性(=自我=自分が自分であるという意識)は切り離すことが出来ないものである。


 ただ、ふと気づいてみれば――その事態が過去形になったとき――かの時の自分が、いつもの自分ではないような気がするのである。


 どうして、そのような感覚に襲われるのか。


 仮に、人格的に表現するならば、そのとき主体は、アルベド侵入(その初期だから、アルベドの孫的存在)に憑依され、ある程度、人格交代させられているのである。この人格交代が、主体には"意識の変化"として感じられる。


 意識の占有率で言えば、主がアルベド侵入であり、従が主体の自我である。明らかに強制性がある。だからこそ、この現象にはアルベド"侵入"という表記が相応しい。侵入という言葉には、まさしく強制性があるからだ。


 ただし、この段階における主体の実感としては"人格"交代などという具体性は寸毫もなく、もっとずっと抽象的な「何かすぐれた、ぼんやりした力」が、自分のところに来ている、といった感じしかしない。

 

 


アルベド侵入の初期の例

 

 この段階をよく示しているのが、いわゆる「禅の悟り」ではないだろうか。


 とくに道元が開いた曹洞宗では、その自力本願によって、徹底的に"自分"が追及され、ついに自我の確立を果たすことになる。禅定へのひたすらな集中(只管打座)と、何事も他人任せにしない自主性が、それを成就させる。


 しかし、この宗派にとって最も大切な悟りは、自我の確立ではなく、その自我の確立を果たしたあとに訪れる、因果の流れを断ち切るような"不思議な瞬間"なのである。


 つまり、自我を確立した修行者だからこそ味わえる、身心脱落の瞬間(心と体が軽くなり、自我が主従の従に回る場面)に、その悟りが現れるのだ。自我の確立以上の真理である、アルベド侵入の悟りが。まさに"因果性を超えているので、合理的には、人に説明することが出来ない"「不立文字」の悟りが。


 これら、身心脱落や不立文字は、紛れもない禅の用語である。ここにはアルベド侵入の匂いが立ち込めている。

 

 


ブラームスの音楽(カリスマ的影響力の事例)

 

 アルベド侵入の外部展開である、カリスマ的影響力の事例として、ブラームスの音楽を挙げておこう。もちろんアルベド侵入の"初期"の事例である。


 ドイツの三大Bの一人に数えられる(あと二人は、バッハとベートーヴェン)ブラームスの音楽は、一音一音を揺るがさない、楽譜の隅々にまで自己意志を浸透させた、非常に自我的なものである。あまつさえ彼は、
「音楽としての魅力を求めることよりも、まずは楽曲の完成度を高めることを優先するべきだ」といった事を言っているから、きっと、かなりガチガチの自我確立者なのだろう。


 ところが、そのような"お堅い"音楽の途中で、急にブワッと"憧れ"の感情が侵入してくることがある。あるとき驚くほど切ない、美しい旋律が溢れてくるのだ。

 

 この瞬間がブラームス・ファンにはたまらないのだが、このような旋律について、ブラームス自身の告白をつむいだ、実に興味ぶかい文章がある。

 

 美しい主題は「一瞬のひらめき」として訪れ、時には紙に書きとめる間もなく「すぐに消えてしまう」とブラームスは語っている。


「私の音楽の中でいつまでも生き残る主題はどれもそのようにして生まれたものだ」


 ブラームス『弦楽五重奏曲、第1、2番』ジュリアード弦楽四重奏団(ソニークラシカル)、ライナーノーツより

 

 一瞬のひらめき、インスピレーションは、まさにアルベド侵入の"具体的現象"である。ならば、その美しい憧れの旋律は、実際にアルベド侵入によって生まれたものだろう。


 また、音楽の構造そのものが、自我の確立とアルベド侵入との関係を示す、いいモデルになっているのだから、ブラームスが、この段階(アルベド侵入の初期)で仕事をしているのは間違いないだろうと思う。

 


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著者 : 正道
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