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(6)17の共有

17日という生誕日(再臨のキリストによる聖遺物より)

 

 モルナー説における、イエスの誕生日は4月17日。私の誕生日は8月17日である。つまりイエスと私は「17日」という生誕日を共有していることになる。


 この17という数字は、カバラ(ユダヤ神秘主義思想)における特段の神秘数である。その意味するところに関しては、すでに、ある程度は第七福音書において説明しておいた(第3章 神秘数17)。


 ここでは、そのときの説明を補完する意味で、五島勉氏の著作『カバラの幸運術』からの引用を行ないたい。この本は、私が第七福音書を著述していた時は持っていなかったものであるが、最近手に入れたのである。

 

 

 五島勉 カバラの幸運術

 


 この『カバラの幸運術』は、1日~31日までの生誕日が持っている「数的な宿命」を逐次的に教えてくれる本である。17日に関しては、すでに16日の叙述のうちに、


「十七は途方もない激運の数ですが」という文言が見られる。


 それでは、そうした激運の17について、本論である「17日生まれの人の運命」の項では、五島氏はどのように語っているだろうか。それについて次に見て行こう。

 

 


17日生まれの人の運命(『カバラの幸運術』より抜粋)

 

 十七日は旧約聖書では、ノアの洪水が始まった日です。ノアの一族が箱舟に乗って、大洪水にもまれながら高い山にたどり着いた日も、旧約聖書では別の月のやはり十七日です。

 

 

 


 このことから、旧約聖書に人間の運命の暗示が隠されているとするカバラでは、十七日生まれの人がノアの大洪水のような激運の運命を持つと考えます。それは大洪水に襲われる運命であるとともに、神の力によって「自分と一族」だけが大洪水から救われて、箱舟に乗って高い山の上に昇れる運命だとも見るのです。

 

 まず生まれながらに何らかの波乱を背負っています。それは健康上の問題である場合もあり、家庭や肉親や経済問題のこともあり、内心の激しい孤独や虚無感、誰にも理解されないものの考え方や生き方である場合もあります。


 それは必ずしもマイナスの価値だけではなく、他人とは異質な魅力や才能である場合もあり、そのため周囲から理解されないことも多いのですが、ともかく十七日生まれはそういった中で、悩みと苦しみの多い出発をし、一生、大波にもまれ続けなければなりません。


 ただその結果、他人には乗れない箱舟に乗ることを許され、高い山の上に着くこともできるのです。普通の山ではありません。ノアの箱舟が着いたというアララテという山は、トルコに実在していますが、富士山の二倍くらいあるものすごい山です。これは十七日生まれが、苦しみや無理解と引き換えに得られる成功が、並みのものではないことを暗示するかのようです。

 

 上の文章における「ノアの箱舟」を「真の悟り」に。「ノアの一族」を「支持者、信徒」に置き換えれば、より事の本質が目に見えてくるだろう。

 

 

 


 すなわち、イエスや私の悟りは、アララテ山の山頂のような高みにあり、私たちを信じて支持する者たちは、大洪水のような世相にあっても、その命と魂を保つことが出来るのである。

 


(7)二つの予言

聖マラキの予言(第六福音書より)

 

 ローマ・カトリックの伝統のうちに『聖マラキの予言』と呼ばれる文書が存在している。


 これは約880年前の文章であるが、その時点からの「将来どんな人物たちがローマ教皇になるか」を、ごく短いフレーズでもって、100人以上も予言している。

 

 

 

 聖マラキ


 しかしローマ・カトリック教会も、恒久なものではないので、その教皇の予言には、残念ながら「最後の一人」がある。そして、その「最後の教皇」と目されるのが、他でもなく、現在の教皇である、フランシスコなのである。彼のあとに来る教皇については、聖マラキは全く予言を行なっていない。

 

 

 

 現在の教皇、フランシスコ

 


 なにしろ聖マラキによれば、フランシスコの在位で「七つの丘(ローマ・カトリック)は崩壊し、恐るべき審判が人々に下される」のであるから。その先が続かないとしても、これはむしろ当然のことだろう。


 実際に私は、第六福音書において「最後の審判」を行なった。そして、キリスト教とキリスト教会には、もはや存在意義がないと断じたのだった。


 まさに、このような事が起こる「時期」を、聖マラキは予言したのである。

 

 


ダニエルの予言(第六福音書より)

 

 聖マラキの予言は、審判者が現れるおおよその時期(=教皇フランシスコの在位期間)を示した。だが、ここで紹介する「ダニエルの予言」は、もっと精密に、もっと具体的に、メシアが登場する年月日を予言している。

 

 なお、審判者と言い、メシアと言っているのが、結局は「再臨のキリスト」を指していることは言うを俟たないだろう。


 さて、旧約聖書の『ダニエル書』において、預言者ダニエルは、天使ガブリエルから、次のような言葉を告げられる。

 

 

 

 ミケランジェロによる「預言者ダニエル」

 

 

 この御言葉を悟り、この幻を理解せよ(中略)
 とこしえの正義が到来し、
 幻と予言は封じられ(=役割を終え)
 最も聖なる者に油が注がれる。
 これを知り、目覚めよ。
 エルサレム復興と再建についての
 御言葉が出されてから、
 油注がれた君(メシア、キリスト)の到来まで
 七週あり、また六十二週あって、
 危機のうちに広場と堀は再建される。

 

 詳しい解説は、第六福音書にゆずる。


 してみると、研究者はこれを、近代イスラエル建国の年(1948年5月15日)から69年後の、2017年5月15日と解く。

 

 ノストラダムスは「ふたつめの千世紀、魚(=キリスト)は長き眠りののち、ふたたび力をとりもどす」と言っているが、2017年は、その「ふたつめの千世紀」の、しかも「神秘数17」の年である。


 そんな2017年の5月15日に、私はインターネット上に第一福音書を配信した。そうすることで、ダニエル予言における、精密な「メシア登場の年月日の指定」を具現化したのである。

 

 

 

 2017年5月15日に配信された

『第一福音書、テロス第一』

 


 これはもちろん意図的な行為である。しかし、もしも、かの超新星が降臨しなかったとしたら、意図的にさえ、私はこのような行為を起こせなかっただろう。


(8)ここまでの総括と重大な疑問

奇なる足跡の連なり

 

 こうして振り返ってみると、私の人生は確かに「奇なる足跡の連なり」そのものだった。
 ノストラダムスが言う「70の3の年、オクトーブルの月」に私は生まれ、その年には聖母マリアの顕現もあった。


 イースター(イエスの復活)という言葉に導かれて、処女懐妊によるキリストの「再誕生」を描いた。イースター島の物語『アトラス』によって。


 さらに「太陽をまとった女」に出会い、彼女によって、私の認識は神の玉座まで引き上げられた。そこで私は「無からの創造」という真理に出会った。


 イエスにおける「ベツレヘムの星の降臨」と同じ日に「超新星の降臨」を体験した。


 そして、フランシスコの在位中、かつダニエルが指定した年月日に、インターネットという「万人に開かれた場所」で姿を現わした。


 これは、まさに不可思議な出来事の連続であり、そこに天上界におられる――おそらくイエス・キリストを中心とした――諸霊たちの計画立案を感じずにはいられない。

 

 

 

 レンブラント イエス・キリスト

 

 


なお残る「重大な疑問」

 

 しかし、私は思ったのである。かの超新星の降臨が、


「私が再臨のキリストであるという証明のために、二千年前の、クリスマス・イブの情景をなぞったもの」


 であるならば、いっそ私の誕生日自体を、4月17日にしてしまえば良かったのではないか、と。イエスのリプロダクション(再現)という観点からすると、この方が、よほどシンプルで説得力があるように思われるからだ。


 そうであるのに、ノストラダムスが予言したのは、あくまで「73年8月」であり、実際に私が生まれたのも「73年8月」である。「73年8月17日」である。イエスの「4月17日」ではない。


 今回の再臨プログラムについては、おそらくイエスたちは、ノストラダムスの時代よりもずっと前から、その計画を練っていたはずだ。


 ならば、あらかじめ私の誕生日を4月17日に設定すること。その日付をノストラダムスに予知させることも、当然可能だったことになる。だが、そうであるのにも関わらず、諸霊たちは、これをしなかった。彼らは、私の誕生日を8月に回して、これをノストラダムスに予知させた。


 なぜか、結局すべては、良くできた偶然のなせる業だったからか?

 

 


開示される秘密

 

 しかし、ようやく今になって、その全てが明らかになった。


 どうして「ダニエル書」は、2017年を指定したのか? どうしてノストラダムスは、4月ではなく、8月を指定したのか? どうしてイエスと私とは、同じ17日に生まれたのか? それが、すべて明らかになった。 


 そう、私はどうしても8月17日に生まれなければならなかったし、2017年に、世に現れなければならなかった。

 

 


  著者近影

 

 

 この言葉を明らかにするために、次の第9節と10節は書かれることになる。


(9)星によるエピファニー

バル・コクバ(星の子)

 

 さて、キリスト教的な救世主には、いくつかの称号がある。尊敬的なあだ名とでも言うべきだろうが「こう呼ばれるならば、彼は救世主であろう」というよう言葉があるのである。

 

 由来が古いものとしては、ダビデの鍵を持つ者(イザヤ)、ユダ族から出た獅子(創世記、エゼキエル)、ダビデのひこばえ(イザヤ)、などがある。


 そんな古い称号の一つに「バル・コクバ」がある。


 バルは息子を意味する言葉で、たとえばシモンの息子ならばバル・シモンになる。コクバは星を表す言葉なので、バル・コクバは「星の息子」「星の子」ということになるだろう。つまり救世主は、その一面において「星の子」なのである。


 これは、もともと旧約聖書の『民数記』に由来する考え方である。そこにはメソポタミア出身の預言者にして、イスラエルの協力者となったバラムの言葉が記されている。バラムはヤハウェ(神)の霊に満たされて次のように預言する。

 

 

 

 Gustav jaeger バラムと天使

 

 

〔ヤハウェの使いである バラムの言葉。
 目の澄んだ者の言葉。
 神の仰せを聞き、いと高き神の知識を持ち
 全能者のお与えになる幻を見る者
 倒れ伏し、目を開かれている者の言葉。
 わたしには彼が見える。しかし今はいない。
 彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。
 ひとつの星がヤコブから進み出る。
 ひとつの笏がイスラエルから立ち上がり
 (中略)
 イスラエルは力を示す。
 ヤコブから支配する者が出て
 残ったものを町から絶やす。

 

 ヤコブとは、国として見ればイスラエルのことである。そのイスラエルから「星」が現れ、異民族を打ち倒すというのだ。ここから「星の子」「バル・コクバ」という救世主の称号が生まれることになった。


 かつて、実際にこの「バル・コクバ」の称号を与えられた有名な人物がいた。第二次ユダヤ戦争(A.D,132年)の指導者となった、シモン・ベン・コスィバという人物である。


 つまり当時、メシアであり救世主であるバル・コクバ(=シモン)が、敵であるローマ軍を打ち倒そうとしたのである。それゆえ第二次ユダヤ戦争は「バル・コクバの乱」とも呼ばれる。


 とはいえ、一時的な勝利こそ収めたものの、シモン率いるユダヤ軍は、結局はローマ軍の前に敗れ去った。そのためシモンは、同胞であるユダヤ人から「バル・コゼバ」と揶揄されることになる。これは「欺瞞の子」という意味である。

 

 


星の子としてのイエス

 

 イエスもまた、「バル・コクバ」「星の子」として扱われることがある。彼こそ真なる救世主なのだから、そのような称号を与えられるのは当然といえば当然であろう。エピファニー(※1)について書かれた文章において、それが明らかである。


 エピファニーは1月6日に祝われるキリスト教の聖日で、日本語では「公現日」「現異邦日」などと訳される。キリストの神性が異邦人(東方三博士たち、あるいは、アラビア人、ペルシア人、インド人)に対して公にされたことを記念している。

 

  

 

 ルーベンス 東方三博士の礼拝

 


 ヤコブ・デ・ウォラギネ『黄金伝説』「主のご公現」で次のように語る。

 

 イエスのご誕生後十三日目(※2)に、東方の三人の博士たちは、星にみちびかれて、主のもとに訪ねてきた。だから、この日は〈上に〉を意味するepiと〈出現〉を意味するphanosとからなるEpiphania(エピパニア、公現祭、顕現日)という名称をもつのである。

 

 なぜなら、上から星が出現したからである、あるいは、上に出現した星によってキリストそのものが真の神であることが東方の三博士に啓示されたからである。

 

 

 

 ジオット 東方三博士の礼拝

 上のほうに星が見える

 

 

※1 エピファニーは英語、後出のエピパニアはラテン語だが、いずれも「キリストが公の場に現れたこと」を意味する言葉である。

 

※2 このイエスの誕生後十三日という日数は、福音書の記述に依拠していない。これは単なるカトリック教会の創作的ドグマ(教義)である。

 

 東方の三博士は、バラーム(バラム)とおなじ種族の出であり、だから星にしたがったのである。彼らの祖先が「ひとつの星がヤコブから出、ひとりの王がイスラエルから起こる」と託宣していたからである。

 

 ここでアウグスティヌスが、声をあげる。

 

「おお、きら星を臣従させているおさな子よ、あなたはどうしてこんなに高い、きらやかな崇敬を受けておられるのですか。(中略)


 知恵をきわめた博士たちは、あなたのまえにひざまずいております。


 おお、しあわせな小屋よ、天につぐ神の御座よ、ここに輝いているのは、灯火ではなく、星なのです。
けだかい宮殿よ、ここに住んでおられるのは、宝石をちりばめた王ではなく、人となられた神です。

 

 

 

 

 この神は、やわらかいしとねではなく、固いかいば桶のなかにおられます。黄金の甍の下ではなく、すすけた藁屋根にやすんでおられます。


 しかし、このおさな子のうえには、まめやかに仕える星が輝いています。(後略。また、改行を増やした)

 

 ヤコブ・デ・ウォラギネ『黄金伝説』

 前田敬作、今村孝訳より

 


(10)2017年8月17日の徴

私のための星

 

 私の身にも、自分自身を「星の子」と呼びたくなるような出来事が起きた。


 すでに2013年4月16日の夜に、超新星という「霊力の塊」を受けとめた私ではあるが、それは結局「イエスの星」を借り受けたものだったような気がする。それはイエスの降誕をなぞるために設定された「イエスの星」の授受であって、決して「正道のための星」の授受ではなかった気がするのである。


 というのは、あくまで4月17日は「イエスの誕生日」であって、4月16日の夜は「イエスの誕生日」のクリスマス・イブだからである。


 これに対して、私の誕生日は8月17日である。17日はイエスと一緒であるが、生まれた月は4月ではなく8月なのだ。オクトーブルの月の17日なのだ。あくまでも8月17日なのだ。


 ならば、この日に星が与えられてこそ、私は「星の子」になれるのではないだろうか。星の子、バル・コクバという称号を持った救世主となれるのではないだろうか。

 

 


宇宙そのものの振動

 

 そして、その日に、実際に星は降臨したのである。ダニエルによって予言された運命の年、すなわち2017年、の8月17日に

 

 


 それは午前8時41分の到達だった。だから、それが夜(イブ)であること、16日の夜であることは必要ない。ごくシンプルに、8月17日のことである。


 だが、どうして夜でもないのに「星が到達したこと」が分かったのだろう? どう考えてみても、星の輝きが見られるのは夜だけなのに。


 お答えしよう。それは、この「星の到達」を観測したのが、普通の望遠鏡ではなく、重力波観測装置(重力波望遠鏡)だったからである。

 

 

 

  重力波観測施設 RIGO

 


 重力波観測装置は、宇宙(時空)そのものの揺らぎを観測する機器である。したがって、そのとき観測されたのは、星の輝きではなく、地球を含んだ「宇宙そのものの揺らぎ」だったのである。観測装置は、その揺らぎが地球の地表に到達した瞬間を捉えた。


 そして、ここで言う「星」というのも、単なる星とは呼べないほど巨大な星辰現象だった。それは二つの、極めて特殊な星(中性子星)が合体するという現象だったのである。

 

 

 

 

 

 規模的に言えば、超新星という「イエスの星」二つ分のエネルギーが合体したようなものだ。そのときの凄まじい衝撃が、重力波として地球まで届いたのである。

 

 星は空から落ち、
 天体は揺り動かされる。
 そのとき、人の子の徴が天に現れる。

 

 という『マタイによる福音書』にある言葉どおりに、この星辰現象の重力波は、地球に到達した時に、地球という天体を揺り動かした。


 そして、それによって、人の子――人の子となった神(救世主)――の存在を、「バル・コクバ」「星の子」として、世界に公現させたのである。


 この星(星辰現象)の名をGW170817という。

 

 


神、真理、黄金

 

 GW170817――GWとは重力波のことであり、170817はその観測日2017年8月17日のことである。


 重力波は宇宙(時空)そのものの振動であるが、GW170817の場合、その振動が生まれたのは、今から1億3000万年前のことだった。そのとき宇宙そのものが震えるほどの振動が生まれ、この振動が1億3000万年経っても消えなかった訳である。


 この振動が、2017年の8月17日に、この地球まで届いたことになる。


 しかし、GW170817が重要なのは、その衝撃の大きさによってではない。むしろGW170817は、それが教えてくれた「内容」によって重要なのである。

 

 


黄金という神の象徴

 

 何よりも、GW170817は、その「星の合体」によって、驚くべき量の黄金をつくり出した。それは金を含む貴金属を、地球1万個分も生みだしたのである。

 

 


 しかも、そもそも金がどのように生成されるかは、現代科学をもってしても分かっていなかった。それがこのGW170817の観測によって、はじめて人類の前に明らかになったのである。


 つまりGW170817は、金の生成メカニズムを人類に教え、かつまた実際にも黄金をつくり出したのである。人類がとても抱えきれないほどにも。


 これは、物質的な象徴として描かれた「神の出現」と言えることである。なぜなら錬金術の象徴において「神、真理、金」は同一物のペルソナ(位格)だからである。


 私が得た「無からの創造」という「神の認識」は、錬金術においては「ルベド」と呼ばれている。そして、このルベドこそは「宗教的には神、哲学的には真理、物質的には金」を表しているのである。

 

 つまり象徴的に見れば「金の出現」と「神の出現」は同義なのである。

 

 


天に現れた人の子の徴

 

 この「金=神」の出現が「170817」、あるいは「2017年8月17日」という定数によって、この私という人間に接着される。

 

 星辰現象による「黄金としての神の出現」が私という人間に結ばれるのである。そして、ここに「神=人間」「人の子となった神」という新たな象徴が、私のもとに出現する。


 これこそまさに、マタイの言う「そのとき、人の子の徴が天に現れる」ということであろう。

 

 つまり2017年8月17日に、キリスト(=人の子となった神)の徴が、星辰的な現象として天空に現れたのである。これこそ私が「再臨のキリスト」であることの何よりの証拠ではあるまいか。


 そして、GW170817は宇宙規模の星辰現象であり、限られた民族や、限られた国に与えられたものではない。


 いや、民族で区切らなくとも、もしその星が「見える星」であるならば、そこに「見た者」と「見なかった者」の差異が生まれただろう。しかし、GW170817は、重力波という波動である。時空そのものの揺らぎであり、時空そのものの震えである。


 それは、アラビア人、ペルシア人、インド人どころではなく、見た者も見なかった者もなく、とにかく「すべての人類」を震わせたのである。なにしろ地球全体が震えたのだからである。地球のすべてが、GW170817という現象を共有したのである。


 したがって、それはかなり文字通りの意味で「公のもの」であり、「公的な現れ」である。それゆえ、これを現代におけるエピファニー(救世主の公現)と呼ぶことは極めて正当であろう。

 

 



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