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テロス―完成と終末


   ギリシア語にテロスという言葉がある。
   目的、終焉、完成を意味する。
   キリスト教においては、
   この世の終わりは歴史の目的であり、
   終焉であり、完成であるのだ。

 

 

          佐藤優『新約聖書』解説より

 

 


第一部 宗教の完成と終末について

宗教の完成について

 

 宗教とは、煎じ詰めれば、神と人間との関わりについて語ったものである。そこでは、神と人間が、霊性を媒介にして浸透しあい、また、どれだけの程度、浸透し合えるのかについて、議論が尽くされている。


 そして、ある二者の浸透度が、もっとも高まった状態が"それそのものになる"事であることは、疑いを容れない。つまり神と人間の場合「神が人間になること」「人間が神になること」こそ、最も両者の浸透度が高まった状態だと言えるだろう。


 それはまた、宗教の意義が、それ以上ないところまで行き着いた姿であり、その先がないという意味で、宗教の完成を意味するものである。


 ギリシア語に、目的、終末、完成を意味する「テロス」という言葉があるが、上記の「神が人間になること」「人間が神になること」は、まさに宗教にとっての「テロス」なのである。

 

 


神の人間化、人間の神化

 

 宗教が完成している状態である「神=人間」と「人間=神」は、当然のことながら、同一のものを示している。しかし、その完成するまでの過程には、どうしても「ある二種類のベクトルが発生する」と言わざるを得ない。


 説明するまでもないかもしれないが、ベクトルとは「向かう方向と勢い」とか「大きさと向きをもった量」などと説明される言葉である。


 では、その二種類のベクトルとは何か。


 それは、神が人間になっていく過程である「神の人間化」と、人間が神になっていく過程である「人間の神化」である。


 この二つは、ストップモーションで並べれば――位置が特定されるだけなので――同じものであるが、モーション(動き)を持つベクトルとして見れば、決して同一のものではない。


 そしてまた、私たちの通念どおりに、「神は上にあり、人間は下にある」とすれば、「神の人間化」は下に向かったベクトルとなり、記号化すれば「↓」になる。逆に「人間の神化」の場合は上に向かったベクトルとなり、記号化すれば「↑」になるだろう。

 

 

 


現実化するベクトル

 

 これら二つのベクトルは、宗教のスタイルとしてリアライズ(現実化)する。


 まず「↓」は、現実の宗教としては"救済型宗教"となる。すなわち「神からの恩寵が、下方にいる人間たちに降ってくる」という形式の宗教だ。


 この形式を満たすため、神は、人間として生まれてくる事すらある。キリスト教で言うところの「受肉」である。人間を救済するために、文字通りの「神の人間化」が行われるということだ。


 したがって、救済型宗教においては、人間側は「神に近づくための努力をせよ」と命じられることはない。人に求められるのは、ひたすらに神を信じ、己の無力さを露わにすること。そして、神の恵みの前に、心身を投げ出すことだけだ。


 逆に「↑」は、現実の宗教としては"認識型宗教"となる。この認識とは霊的認識のことであり、平たく言ってしまえば「悟り」のことである。


 この認識型の宗教に集う人たちは、知識と霊現象によって悟りを高めていって、自身の意識をどこまでも上昇させようとする。そうやって上昇させることによって、神へと近づくわけだ。


 そのためには当然、不断の努力や修行が必要である。よって、もし恩寵が降りてくるのを待っている時間があるならば、彼らはその時間を、すべて努力と修行に回すことだろう。

 

 


「=」という完成形

 

 もっとも、「↓」であれ、「↑」であれ、その行きつく先、最終的な完成形は、いずれも「神=人間、人間=神」の状態である。

 

 ごく単純な記号として表せば、「↓」と「↑」の双方ともが、結局は「=」の状態を、自身のゴールにするということである。


 それだけではない。この「=」は、「↓」や「↑」が、その進展の過程にある間も、その完成理念として、各々のベクトルに、一種の「目的論的な影響」を与えることになる。つまり、ある種の影響力を用いて、「↓」と「↑」を、ともに「=」である自身に接近させるのである。

 

 


補償のメカニズム

 

 少しわかりづらいかもしれないが、これは、ユング派の深層心理学における、


「心の完成理念(自己)に導くため、一面化した意識に対し、心の深層から、"意識とは反対の構え"が昇ってきて働きかける」


 という補償のメカニズムと同じことである()。この「補償」とは、ある偏向を補って、全体的なバランスを回復することを意味している。擬人的に言うと、「=」にとっては、「↓」と「↑」のどちらもが立派な偏向なので、何としても、そのまま放置しておく訳にはいかないのである。


 したがって、「↓」には、その補償として「↑」が働きかける。


 逆に「↑」には、その補償として「↓」が働きかける。


 その働きかけは、言わば、「偏向を補償せよ」という、「=」親分(完成理念)からの密命を受けて現れたものである。そのような「正反対の補償」を受ければ、どちらのベクトルも「=」に近づくことが出来るからだ。


「さあ、接近の材料(補償)は与えたぞ。お前たちは、それを使って私のところまで近づいてこい」


 と「=」親分は、偏向した「↓」と「↑」に語りかけているのである。

 

 

 

 

 

 ユング心理学では次のように説明されている。

 

 あらゆる一面性は、遅かれ早かれ無意識の方から、一面性に逆らう抵抗として現れてくる補償を求める。補償は〔それを受けた者を〕正常な範囲の中へとどめることが出来る。


 しかし〔皮肉なことに〕精神的に均衡のとれていない人間は、自分自身の無意識に逆らい、そのためにその補償的意味を受け入れることを拒絶してしまうであろう。


 そうすることによって、彼は自分の一面性を致命的なまでにも強化することになり、換言すれば、彼は自分の無意識が治癒的意図を持って現れてくるのを見逃してしまうことになるであろう。


 その結果、無意識の側からの圧力が増大し、その内容はいっそう歪められた形で現れ、それを聞いたり、見たりできる方法は、ますます奇妙になってくる。

 

 Ⅽ・A・マイヤー

『ユング心理学概説1・無意識の現れ』
 河合俊雄・森谷寛之訳より

 

 


二通りの「完成と終末」

 

 ただし、ベクトルが進展している途中で、そのような補償作用が働くと――たしかにバランスが整って、宗教としての完成度は上がるのであるが――ベクトルとしては、方向性が相殺されて力が衰える、ということが起こる。


 その衰退の帰結としての、宗教史からの消失。これも一つの「完成と終末」の形ではあろうが、およそドラマティックであるのとは、正反対の意味における「完成と終末」であろう。


 それに対して、補償作用を意識化できなかったり、補償作用を意図的に拒否したケースも存在する。こうした場合、その宗教は、内容的に一面化するも、未完成状態として、ベクトルとしての強さを、ずっと保持することが出来る。未完成であることが、若さや活気と密接であるように。


 ただし、その一面化は「偏向、歪み、醜さ、罪過」とも結びつき、その宗教に属する人たちに、多くのストレスを投げかけることになる。そして、そのストレスのゆえにこそ、人々に「補償による平衡」を渇仰させることになるのだ。


 誰だって、アンバランスが生みだす苦しみからは逃れたい。たとえ、その苦しみが"無意識的なもの"であってもだ。

 

 


大規模な転換

 

 そのため、このケースにおいて生じる補償は、きわめて性急にしてドラマティックなものになり、かつ、とても大きな変化をもたらすことになる。極端に一面化している意識にとっては、いかなる変化も――たとえ、それが自然の摂理に則った変化であっても――きわめて大規模な転換であるからだ。


 そのとき、まず意識的な「すでに慣習化している未完成状態を続けたい」という気持ちと、深層意識から湧き上がる「早くその未完成状態から逃れたい」という気持ちがぶつかり、激しい緊張状態をつくり出す。


 しかし、機が熟していれば、結局勝つのは、深層意識のほうである。つまり補償作用が優勢とならざるを得ない。


 そのとき、緊張状態の極みで、堤防が決壊するようにして「補償作用」が屹立する。そして、社会的な混乱を巻き起こしたあと、急転直下で「補償による平衡」が生じるのだ。要するに「=」の現出だ。


 これこそまさに、ドラマティックな「宗教の完成」と「宗教の終末」と言えるだろう。これを悲劇と思うか、幸福と思うかは、一にかかって、我々の感性の問題である。

 


第二部 仏教の完成と終末について

 われわれ西洋の伝統では、人間というものは限りなく小さなものであって、神の恩寵がすべてである。これに対して東洋では、人間は本来神なのであり、そして〔そのことの認識によって〕みずからを救済するのである。

 

  ユング『東洋的瞑想の心理学』

  湯浅泰雄・黒木幹夫訳より

 


第1章 「↑」の典型的宗教 

具体的な宗教名

 

 第一部においては、宗教の完成と終末に関して、つとめて簡明で抽象的な論述を試みた。

 

 しかし、この第二部以降では、それとは逆に、より具体的な論述スタイルによって、しかし内容については「第一部と全く同じこと」を語ってみたい。


 そして、そのように具体的に語るならば、第一部でただ「宗教」と呼んだものにも、また具象的な名前を与えなければならない。


 むろん、最終的には、それは「キリスト教」になるだろう。なにしろ本書のサブ・タイトルが『キリスト教の完成と終末』なのだから。これが本書の心臓たる「第三部」となる。


 だがその前に「仏教」の完成と終末について「第二部」として触れておきたい。


 なぜなら仏教こそは「↑」の典型的な宗教であり、そのコントラストによって、キリスト教の「↓」の内容を、鮮明に浮き上がらせてくれるはずだからである。

 

 


仏教は佛教

 

 仏教の仏という文字は、旧字だと「佛」と書く。そして弗というのは「無」のことである。


 ただし、この無は決して、虚しいだけの「虚無」のことではない。むしろ、どんな名前も付けられ無い、どのようにも特定でき無い、そうした究極の全体性を意味していると言えよう。つまり無とは、存在そのもの、神的なる「存在そのもの」ということだ。


 その無に人べんが付いて「佛」になる訳だが、人べんとは、そのまま「人」のことである。したがって「佛」という文字は、それ自体が「人間と神的なものの合体」を意味しているのである。人間と神が、完全に浸透し合っていると言ってもよい。


 しかも、字体が「佛」から「仏」に変わっても、未だに人べんが健在であること。すなわち、神的なものが、今もって「かつて自分が人間であったこと」を忘れていないことが素晴らしい。


 仏教にあっては、その立教から現代に至るまで「神は、人間と隔絶した存在ではない」のである。言いかえれば、その歴史を一貫して「人間は神になることが出来る」のだ。その「神になった人間」こそが「仏」に他ならないからだ。そうして仏になるために、僧は不断の修行を行うことになる。


 つまり仏教とは、人間が修行によって悟り、その悟りの上昇力によって、神的なものに近づいてゆく「人間の神化」を具現化した宗教なのである。

 

 


悟りと救済

 

 とくに原始仏教は「悟りの宗教」そのものだったと言えるだろう。


 その頃の仏教徒たちは、かならず出家してから修行に入り、禁欲的な環境のなかで悟って、それにより開祖である仏陀に近づこうとした。

 

 出家とは、家庭や俗世間を離れることを言う。もちろんゴータマ(のちの仏陀)自身もまた、出家して修行したのであり、その成果としての悟りを開いて、仏陀となったのである。


 このようなスタイルの仏教は、のちにタイやミャンマー、スリランカなどに伝わり、それらの国々では、現代においても、その修行の原型をかなり留めている。これをもって南伝仏教と呼ぶことがある。


 しかし、インド、中国、日本へと伝播が連なる北伝仏教には、明確に「=」というエンテレケイアからの補償が働いた。つまり原始仏教の「↑」が、「=」に近づくために「↓」の影響を受けたということだ。


第2章 「↓」という補償を受けた仏教

大乗仏教の成立

 

「↓」の影響――その第一の波は、インドにおける大乗仏教の成立であった。それには、伝説的な名僧である竜樹菩薩(ナーガールジュナ)の働きに負うところが多い。


 とはいえ、すでに竜樹以前にも、無名の僧たちによって、


「出家した修行者だけが、悟りによって救われる(仏に近づく)というのは、仏の願いとしては、ちょっと了見が狭いのではないか」


 という疑問が呈されていた。その疑問に答えを出すために、大乗経典が作られた形だ。


 大乗の教えは、出家をしていない在家信者(世俗の家庭人)にも乗車を許された「大きな乗り物」である。換言すれば、在家信者に「僧である私たちと一緒に、君たちも仏のもとに行こう」と呼びかける、寛容な救済の教えなのである。


 そこでは「在家信者では、厳しい修行にも戒律にも耐えられない」ということが前提となっている。これは確かに、事実に即していることだろう。出家者たちが捨てた「家」、つまり「家庭と俗生活」を営むためには、ある意味、遊興も破戒も致し方なかったからだ。


 そして、そうした俗世にまみれた在家信者を救うためには、どうしてもプロの修行者、すなわち悟りたる者たちの助力が必要だった。そのため、ここでは、


「すでに高みにある者たちが、世俗の次元に降りてくる」


 という「↓」のベクトルが発生せざるを得ない。こうして、その「↓」が、原始仏教の「↑」を、最初に補償するものとなったのである。

 

 


天台宗における「久遠実成の仏陀」

 

 仏教は、インドから中国へと伝播していく。


 その中国仏教では、浄土宗と天台宗が名高いが、天台宗のほうは、大乗経典の『法華経』を中心においた宗派である。一般に「↓」のベクトルが働くと、


「多くの迷える民衆を救済するためには、どうしても巨大な力が必要になる」


 という要請が生じる。これによって神的なるもの(ここでは仏)は、いきおい超人的、超越的なものになる。その点で『法華経』における「久遠実成の仏陀」などは、まさにその典型例であろう。


 そもそもゴータマ・ブッダ(仏陀)は、インドのカピラヴァストゥに生まれて、35歳で悟りを開いた実在の人物である。


 しかし、久遠実成の仏陀は、そのゴータマとはかなり異なる。すなわち、久遠実成の仏陀とは、ゴータマの実相(背景にある本質)として霊界に鎮座する「久遠の過去から悟りを開いている不変の仏」のことなのである。


 それは言わば、生まれもしなければ死にもしない、ただただ巨大な「救済のための霊的エネルギー」である。


 そう、仏教徒として仏陀を崇めているとはいえ、天台宗の本尊は、もはや人間としてのゴータマではなく、こちらの久遠仏になっているのだ。


 そこでは、この偉大なる久遠仏によって、すべての信徒の救済が約束されている。これをして法華一乗という。

 

 


浄土宗の阿弥陀仏

 

 浄土宗における阿弥陀如来も同様である。


 もともと大乗仏教徒の文学的創作によって生まれた阿弥陀仏は、別名を「無量寿仏、無量光仏」という。ゆえに彼は、永遠(無量寿)と無限(無量光)の体現者であると言ってよいだろう。しかし、この超越的な阿弥陀仏は、


「けれども私は、苦しんでいる人々が全て救われないかぎり、本当の意味における“仏”には、決してなりません。仏になる前の段階に留まります」


 という、非常に自己犠牲的な誓いを立てている。つまり阿弥陀仏の慈しみは、自分を犠牲にしてまでも、衆生の苦しみに向かって伸びていくのである。これもまた、上から下へと向かっていく恵みであり、まさしく「↓」の展開だと言えるだろう。


 この阿弥陀仏の「↓」に対して、人間の側の「↑」は、ほとんど要求されない。浄土宗の信徒たちは、ただ阿弥陀仏からの救いを信じればいい。そして、その「信じていること」を、サインを送るように、阿弥陀仏に告げ知らせればよいのだ。


 そのサインこそが「南無阿弥陀仏」という念仏であり、このあたりの事情を、中国の善導という高僧は、


「口に念仏を唱えれば、極楽に迎え入れられる。それは阿弥陀仏の誓いによって決定している」という形で表現している。

 

 


善導とヨハネの共通性

 

 こうなると、仏教と言っても、キリスト教の「信じれば救われる」信仰スタイルと、ほとんど実質が変わらなくなる。たとえば『ヨハネによる福音書』には、次のようなくだりがある。

 

「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」


 と言うと、イエスは答えて言われた。


「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」

 

 読んで如くのとおり、善導が言っていることと、ヨハネが言っていることは、ほぼ同じである。それだけ原始仏教の「↑」に対して、補償の「↓」の波及が進んだことを思い知らされる。


 むしろ中国における状況は、仏教が仏教たりうるために、逆に「↑」の助力を必要とするほどだった。それを担うのが、達磨大師から始まる「禅」の流れである。座禅を組んで精神集中を行う姿は、まさに原始仏教の修行スタイルを彷彿とさせる。

 

 


日本の仏教

 

 蘇我馬子や聖徳太子による「朝鮮半島からの受容」によって、日本の仏教が本格的に始まる。ただし、その仏教は長らく、一部の宗教的エリートのものだった。そのため奈良仏教の頃までは、かなり「↑」の色合いが濃い。宗教的雰囲気としては、おそらく南伝仏教のそれに似ていたのではないだろうか。


 しかし、平城京における奈良仏教界は、政治的にも大きな力を持つようになった。この政治的影響力を排したいと願う桓武天皇によって、平安京への遷都が執り行われる。


 その平安京で花開いたのが、最澄による天台宗と、空海による真言宗だった。二人とも中国に渡り、そこから「奈良仏教とは異質の仏教」を持って帰ってきた。

 

 


最澄と空海

 

 最澄が持って帰った天台宗は、中国仏教の項で述べたように、『法華経』を根本経典とする宗派である。すなわち、法華一乗による万民救済を謳う、濃厚な「↓」タイプの宗教だ。そのため必然的に、奈良仏教の「↑」との間に、論争が引き起こされた。


 とはいえ、もともと「↑」を基調にして成立したのが仏教なのだ。ゆえに、その正統性を論じるにあたって、最澄が徳一(奈良仏教代表)を論破することなど、出来るはずもなかった。この敗戦により最澄は心身ともに衰弱していく。


 しかし皮肉にも、心労のすえに最澄が亡くなると、その直後に、天台宗の社会的地位が定まることになる。そして、その本拠地である比叡山延暦寺は、その後の日本仏教における「↓」の発展の本拠地ともなった。


 一方の空海は、中国から密教を持って帰ってきた。密教の内容は、かなり神秘主義的なものだが、「↓」の代表的宗教であるキリスト教もまた神秘主義的である。


 さらに中国において「浄土宗が廃れたかわりに密教が盛んになった」という継承の歴史があったことを鑑みれば、そこに「↓」の伝統が息づいていることが分かるだろう。


 また空海は、景教(中国に伝わったキリスト教)の影響も受けている。なにしろ、中国で洗礼を受けた上に「遍照金剛」という洗礼名まで与えられているのだ。


 既述したように、キリスト教は「↓」の代名詞のような宗教である。したがって、空海が日本に持ち帰った「↓」には、かなり純粋なベクトルが込められているのかもしれない。

 



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