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(3)第二のキリストを生まないために

「↑」をブロックする理由

 

 どうして教会は「事効」などという、情けない形式主義を採用したのだろうか。


 いくつかの理由が考えられるが、ここでは「第二のキリストを生まないために」という理由に、話を絞り込みたい。


 してみると、既に述べたように「人効」には悟りの要素があり、他方の「事効」には、悟りに結びつくものが全くない。だから当然、教会は「事効」のほうを採用しない訳にはいかなかった。


 なにしろ、もしも教義のなかに「↑」の要素を残しておけば、それは結局「信徒が悟りによって神に近づき、ついには『神=人間』のステージに達する」可能性をも、残すことになる。それは換言すれば「うまくいけば、第二のキリストが誕生する」ということだ。


 第二のキリスト――そんな者が現れたら、教会はどうなるだろう? 


 疑いようもなく教会は、それまでの「唯一無二にして絶対の立場」を失ってしまうだろう。そうして「教会」と「第二のキリスト」という形で、信徒のなかで、並列、相対化させられてしまうだろう。

 

 


一回性を死守する教会

 

 そもそも教会の論理では、神の受肉(神の人間化)は、イエスによって“ただ一度だけ”行われたことである。それゆえ信徒の救済は、イエスという個人か、イエスの死後、彼の権限を引き継いだところの「教会」によってしか、実行できない事になっている。


 そして言うまでもなく、いまやイエスは十字架にかかって死んでしまっている。となれば、救いを求める信徒は“絶対に”教会に頼らなければならない。教会以外の頼りどころは“絶対に”ない。そういうことになる。つまり、


「教会を守るためには、逆に、〔神の〕人間化と救済の業の一回性を精力的に強調し〔なければならない〕

 

 ユング『ヨブへの答え』より


 まさにその通りのことを、殉教者キプリアヌスは言っている。


「唯一の神が存在し、キリストは一つであり、一つの教会があり、主の言によって岩の上に建てられた唯一の椅子〔教皇座〕がある」


 したがって「教会の外に救済はない」と。

 

 藤代泰三『キリスト教史』より


 それだからこそ教会は「絶対無二の権力者」として、キリスト教徒から祭り上げられることになったのである。

 

 


教会が恐れる事態

 

 だというのに、「人効」を認めてしまったら――「↑」の力が「第二のキリスト」を作ってしまったら――教会以外の「救済権限の保持者」を作ってしまったとしたら――そのとき、教会はどうなってしまうだろう。


 もちろん、まずは先に見たような「教会」と「第二のキリスト」という形の、並列、相対化が起る。そして次に、おそらく信徒たちの耳目(信仰)は、第二のキリストのほうに、より熱く注がれることになるだろう。


 なぜなら、その第二のキリストの登場には、きっと教会がすでに失ってしまったところの「奇跡」が伴うはずだからだ。そもそも奇跡がイエス・キリストをつくり、奇跡がキリスト教をつくったのだ。第二のキリストの奇跡は、まさしく、その“原点”を思い出させてくれるだろう。


 こうなると教会は分が悪い。というより、そうなってしまえば、教会のレーゾンデートル(存在理由)などは、すぐさま霧散してしまう。それと一緒に、彼らの絶対権力など跡形もなく消え去ってしまうのである。すなわち、


「ここに元祖がいるのに、なぜ後継者が必要なのか」と。


 したがって「そんな事態を招いてはならない」というのが教会側の本音だろう。


 教会は、もう現実に、絶対的な権力を手にしてしまっているのだ。今さら、それを手放せるはずもない。

 

 


ドナートゥスの人効

 

 ここで教会の歴史に目を向けてみよう。


 まず「人効」とは「ミサの主催者の人格と霊性が、ミサの参加者に対する“救いの質”を左右する」という思想だった。


 これは宗教的には正論であるが、前節で見たような理由により、教会にとっては、異端思想に他ならない。異端思想とは、教会によって否定されるべき思想のことである。


 歴史的に眺めれば、この「人効」という異端思想を最初に主張したのは、四世紀はじめ頃に現れたドナートゥスだった。ドナートゥスは、


「聖職にある者といえども堕落した人物が授与する秘跡は有効でないとした。

 

 つまり、授与される秘跡が有効であるかどうかは、執行者が聖職者であるかどうかではなく、執行者がそれをなすにふさわしい人物であるかどうかによるとした」

 

 甚野尚志『中世の異端者たち』より

 

 ここに人効の原点がある。しかし、


「アウグスティヌスは、礼典の真の執行者はキリストであるから、教職者の人格は礼典の効力に影響を与えないといった(=事効の原点)

 

 この〔ドナートゥス派という〕分派は四世紀から五世紀にわたって北アフリカで盛んであったが、ローマ帝国の弾圧によってその勢力は弱まり、七世紀から八世紀にサラセン人によって滅ぼされた」


 藤代泰三『キリスト教史』より

 

 


グレゴリウス改革

 

 それから数百年後、ドナートゥスの主張を再び取り上げる者が現れる。しかも、今度はそれが教会のトップである「教皇」なのだから驚く。


 それこそグレゴリウス7世であり、彼は教皇として、腐敗した教会組織を批判する材料の一つとして「人効」を主張したのである。


 振り返ってみると――「事効」とは、「教会が与える資格を持ってさえいれば、そのミサ主催者のもと、自動的に信徒の救いは成立する」という内容である。


 むろんこの「資格」とは名目上のものでしかない。したがって、これを絶対の教義にしてしまえば「中身を問われない」聖職者たちは、自身のうちに、どんな人格を醸成しても差し支えないことになる。それこそ、どんなに醜い人格をつくっても、どんなに腐った人格をつくっても、である。


 もともとキリスト教の聖職者たちは、絶対的権力をもった特権階級なのだから、その腐敗ぶりにも歯止めがかからないことになる。そして、そのような醜く腐った人格は、当然彼らの「行いの面」にも現れてくる。それについて、インノケンティウス三世は次のような言葉を残している。


「彼らは貪欲の奴隷であり、贈物を喜び、名誉を求め、邪悪な者を贈物のゆえに正しいと宣告し、最も貧しい者からその権利を奪う」

 

 藤代泰三『キリスト教史』より


 まさに宗教的な惨状といっていい有様である。グレゴリウス七世は、この惨状を「人効」の教義によって是正しようとした。

 

 


内部が変わらず外部が変わる

 

 だが、それが大きく実を結んだと言えるかどうかは微妙なところである。すでに腐敗しきっている聖職者たちが、グレゴリウス7世から、


「その腐敗に歯止めをかけよ。ミサの主催者の人格と霊性が、ミサの参加者に対する“救いの質”を左右するのだから」


 と、人効の教義を教えられたところで、いまさら更生するのは難しい。


 しかも事効は、偉大なる教父アウグスティヌス以来の正統教義なのである。これを異端思想扱いされた「人効」で覆すのは困難を極める。

 

 逆に、聖職者たちにとって明らかなのは「グレゴリウス七世は、自分たちの敵だ」ということであろう。


 彼らとしては、さすがに教皇を異端者扱いすることは出来なかった。そうしたいのは山々だったろうが、相手は教会制度のトップである。そこまでは出来なかった。だが彼らが、グレゴリウス七世の言うことを素直に受け入れることは、なおさら「出来なかった」のである。


 むしろ、このようなグレゴリウスの改革は、教会の外部に「異端者集団」を作り上げた。つまり教会内部が変わらなかったため、教会の外部に、彼らの抵抗勢力が出来てきたのである。


 ただし、ここで言う異端者とは、単に「腐敗した教会にとって都合の悪い者」というふうに考えたほうがよい。異端と呼ばれたからといって、それだけで彼らが「宗教的な悪者」のイメージを持たれるのは、あまりにも気の毒だからである。


 そして、その異端者集団の中心となったのが、いわゆる「カタリ派」である。彼らはグレゴリウス改革に勢いづけられ、教会の「外部から」教会のありかたを批判した。

 

 


人効のシンボル的存在

 

 カタリとは、ギリシア語の「純粋な」に由来する言葉である。そうした純粋なカタリ派には「完徳者」と呼ばれるリーダーたちが存在した。それは教会の聖職者たちとは比べ物にならないほどの宗教的熱心を持った人たちであった。


 禁欲生活によって高められた彼ら完徳者の精神は、ある意味「人効」のシンボルと言える。少なくともカタリ派では「宗教的な徳を持った者だけが、信徒たちの上に立てる」という人効的なスタイルが守られていたのである。


 教会のほうに目を向けてみれば、すでにグレゴリウス7世は世を去り、彼のグレゴリウス改革も過去のものとなっていた。


 そのため腐敗の本性が剝き出しになった聖職者にとって、カタリ派ぐらい目障りなものはない。そこでは、教会の事効的組織とは、まるきり逆の組織運営が「良好に」為されていたからだ。しかも、それに対して民衆の支持も集まってきているという。これでは聖職者としては、嫉妬せざるを得ない。


 教会は、この目障りな相手を撲滅させるためにアルビジョア十字軍を編成した。

 

 


アルビジョア十字軍

 

 そのアルビジョア十字軍は、アルビ地方(ここにカタリ派が多く存在した)に進軍し、そこで多くのカタリ派信者を殺戮した。この十字軍の兵士の数は三十万人と言われる。


「十字軍の兵士たちは大虐殺をおこなった。カタリ派であるかいなかを問わず、ペジエ(カタリ派の拠点の一つ)の全住民約三万人が殺害され、町は二日間燃え続けた」


「この虐殺のさい、異端とカトリックをどう見分けたらよいのかという問いにたいして、十字軍の指導者の一人(中略)は、『すべてを殺せ。神は神のものを知りたまう』と答えたという」

 

 甚野尚志『中世の異端者たち』より


 実に酸鼻を極めた情景が目に浮かんでくる。そして、この残酷なジェノサイド(大量虐殺)によって分かるのは、キリスト教会にとって「↑」が、どれほど危険であり、教会にとって、いかに邪魔なものであるかだ。


 そう、教会は「↓」を守るためならば、もしもイエスが見たなら、悲しみの涙を流すに違いない修羅場を、いくらでも現出させることが出来たのである。

 


(4)徹底された「↓」のベクトル

自由意志と奴隷意志

 

 このようなカトリックの腐敗は、プロテスタント陣営から反抗(プロテスト)を突きつけられることによって、かなり角を矯められることになる。ルターやカルヴァンの反対運動を「異端」と言って切り捨てるには、彼らのエネルギーが、あまりにも大きくなりすぎていたからである。


 ところが、もともと作為も悪意もなかった、プロテスタントの“純粋性”が、皮肉にも「キリスト教における『↓』のさらなる徹底」という事態を招くことになる。つまり事態は、さらにシリアスで徹底したものになったのである。


 ルターは『奴隷意志論』という著作を発表した。これは先んじて出版された、エラスムスの『自由意志論』に対抗したものである。

 

 


エラスムスとルターの論議

 

 エラスムスは、キリスト教的救済に――全面的にではないが――人間の意志も参画することを示した。つまり人間の意志には善なるものも含まれており、その善が、人間を「↑」の方向へと昇らせる。そしてそれが、ある程度「神からの救い」に接近させる、ということである。エラスムスは言う。

 

 私は〈自由意志〉を、そういう力によって、人間が、永遠の救いへと導くような事がらへ自分自身を適応させたり、あるいはそのようなものから身をひるがえしたりしうる、人間の意志と力と考えているのである。


…私たちがそれによって判断するものである〔自由意志という〕魂の力は、…罪によっておぼろにされただけであって、消滅せしめられたのではない。

 

   金子晴勇『人間と歴史』より


 しかしルターは『奴隷意志論』によって、これをキッパリと否定する、


「人間の意志は、悪なるものしか志向できない。人間の意識は少しも上昇しない。ゆえに救いは100%、神からの恩寵によって行われるしかない」と。

 

 神の恩恵抜きの〈自由意志〉は、全く自由ではなく、むしろ単独では自己を善に向けえないのであるから、自らをかええないようにとらわれた悪の奴隷である、ということになる。

 

〈自由意志〉に何が帰せられるというのであろうか。いや無以外の何が〈自由意志〉に残されているのか。実際、何もないではないか。

 

   金子晴勇『人間と歴史』より   


 つまり、ルターの『奴隷意志論』こそは、人間がもともと持っている「↑」を、完全に排除し、ついに人間の意志を、奴隷の地位にまで貶めた記念碑的作品なのである。

 

 


神秘主義者の真理

 

 いや、それが真理である局面が、本物の宗教者に訪れることは、私も知っている。神秘体験がもたらされる、その時のことだ。私はこれを、第二福音書の座標8,9で「恩寵の原理」として叙述している。


 そのとき人は、罪の意識に覆い尽くされて、奴隷のように無力になりきる。そして、その哀れさ、無力さゆえにこそ、神からの抱擁(救済)を与えられることになるのだ。


 無力だからこそ愛しい嬰児を、母親が、その柔らかな胸のうちに抱きしめるように。外界で生きる力を持たない胎児を、母親の子宮が包み込まない訳にはいかないように。


 神秘体験者であるルターにとっては、その局面の真理が「ほかの何よりも大切なもの」として感じられたのだろう。だからこそ、


「人は、自分を無力な奴隷として感じ切った時にこそ、神の救済に出会えるのだ。これがまさにキリスト教の本質である。自分の経験上、これよりも確かで大事な真理はない。


 だから私に限らず、すべてのクリスチャンは『人間の意志が、何か善いことを志向できる』などとは、決して考えないほうがいいのだ」


 という結論に辿り着いたのである。

 

 


トリエント公会議という結実

 

 しかし宗教的に俯瞰してみれば、それは飽くまでも「特殊な局面における、特殊な真理」なのである。神秘主義者には分からないが、神秘主義以上の真理に到達すれば、それは明々白々なこととして分かることだ。


 なのに、その特殊なものを、あまねく「全人類、全人間性全体を貫く真理」であるとして、すべての人間と、すべての場面に当てはめてしまえば――世界と人間性は、どうしたって歪まされずにはおかれない。


 そして確かにキリスト教は歪んだ。すなわち、キリスト教の「↓」は、一切の「↑」を期待できない「精神的奴隷」や「精神的胎児」が対象となるほどにも徹底され、特異化されたのである。


 だって、奴隷や胎児に自由意志などあるはずもない。だから彼らにとっての自由は、神からの恵みだけに委ねられている。そこには、まさに徹底されつくして歪んだ「↓」がある。


 そして歴史的に見れば、ルターが辿り着いた結論である、この、


「人間の意志は、悪なるものしか志向できない。人間の意識は少しも上昇しない。ゆえに救いは100%、神からの恩寵によって行われるしかない」


 という思想は、プロテスタント勢力どころか、カトリックの教義にまで影響を及ぼした。


 というのも、反動宗教改革とも呼ばれる、カトリックの「トリエント公会議」において、ルターの教説が取り入れられたからである。そう「まさしくその通りである」と。


 つまり、仲が悪い姉弟と呼ばれる「カトリックとプロテスタント」は、こと「↓」の徹底という点では、仲良く、キリスト教世界の意思統一を為し遂げたのである。

 

 


宗教的完成を求めるエネルギー

 

 それゆえキリスト教は、今もって未完成のままでいる。「↓」と「↑」のバランスは、全く均整をとっておらず、そのスタイルは、大きく「↓」のほうに傾いている。親鸞以降の仏教と比べれば、それを「宗教的に大きく歪んでいる」と言うことも出来るだろう。


 だが、そのぶんキリスト教の「完成を求めるエネルギー」は巨大だ。そうした切実なエネルギーが、クリスチャンの無意識下には相当量蓄積されている。そして、そのエネルギーは、自分が解放される時が来るのを、今か今かと待ちわびている。


 以前に流行した『ダヴィンチ・コード』などは、そのエネルギーが、ほんの少しだけ漏れ出した一例と考えられるかもしれない。すなわち「教会によって隠された、人間としてのイエス」というテーマをはけ口にして、そこから「人間の神化」「↑」のエネルギーが溢れてしまったのである。


 あの程度の漏洩であっても、かの『ダヴィンチ・コード』は、見事なまでの世界的ブームとなりえた。となれば――推察するに――クリスチャンの無意識下にある「宗教的完成を求めるエネルギー」の巨大さには、きっと恐るべきものがあるのだろう。

 

 


予想される「完成と終末」

 

 しかし、その巨大なエネルギーを放出させるための通路、水路は、未だに全く建設も整備もされていない、というのがキリスト教の現状だ。


 そのため「宗教的完成を求めるエネルギー」は、早晩、反平和的に、決壊したダムのように溢れ出すことが予想される。つまり、そのエネルギーは、きわめてドラマティックに、ほとんど暴力的にキリスト教を「完成させる」ことになるのだ。


 最悪の場合、バチカンや、プロテスタントの教会が、襲撃されるような事もあるかもしれない。教えの歪曲に耐えられなくなった信徒たちによってである。


 いや、もちろん「誰かが水路をつくる」となれば、話は別だ。すなわち誰かが「↓」と「↑」の両方のベクトルを、完全に手に入れた状態で登場すればよい。そして彼が「歪んだベクトルの補正の仕方」を、クリスチャンたちに教えればよいのである。


 とはいえ、それですら大いにドラマティックにはなるであろう。明らかにそれは、教会が忌み嫌う「第二のキリスト」の登場を意味しているからである。


 しかも、教会に限定しなくとも、歴史上において、人々がすんなりと「本物の宗教家」を受け容れた試しはない。預言者も救世主も、常に無視と迫害を受けたのである。よって、そこには間違いなく、一波乱も二波乱もあるはずだ。


 少なくとも、その性質上、キリスト教には――仏教のところで見たような――あの淡く儚く、静かに炎が消えるような終末は、到底迎えることが出来ないのである。
 

 


第2章 グノーシス主義という「↑」

 キリストは、自己認識という道を経てはじめてたどりつける内的人間であり、「人間の中に内在している天界の王国」である。

 

 ユング『アイオーン』

  野田倬訳より


(1)キリスト教の「↓」に対する補償

キリスト教史の要約

 

 第1章で見てきたように、キリスト教は、その長い教会史のなかで「↓」の宗教スタイルを、ほとんど限界点まで徹底させていった。


 文章内容的には、ざっとキリスト教史を概観したに過ぎない。しかし、それでも、そのキリスト教会史という道路が、「↓」方向へ、いかに偏向的に舗装されていったかは、十分に伝わったことと思う。


 そこに描かれていたことを要約すれば――まず教会は、イエスの受肉を一回かぎりの事と強調することによって、正統後継者としての、唯一絶対的な「許しの権利」を持つようになった。


 そして、そのように「唯一にして絶対」であるため、カトリック教会は、競争相手を持たずに済んでしまった。競争や競合のないところには、堕落と腐敗が生じるのが世の道理である。


 かくして腐敗したカトリックは、その狭量な心性をもって「↑」を潰した。すなわち、「↑」の要素を見つければ、「第二のキリスト」を生まないために、これを「異端思想」と呼んで、無慈悲なまでに排斥したのだ。


 そして、そのカトリックに腐敗に対する「反抗」として登場したプロテスタントもまた、ルターの奴隷意志論によって「↓」の徹底に加担してしまった。


 そればかりか、プロテスタントの反抗を受けたカトリックの自己修復(対抗宗教改革)の際に、カトリックは、プロテスタントの徹底的な「↓」を、そのまま受け入れた。つまりキリスト教圏において、ついに「『↓』による完全一面化」が完遂されたのである。

 

 


「=」の働き

 

 キリスト教は、本当に、行き着くところまで行った――私の口からは、思わず、そんな嘆息の言葉が出てしまう。


 しかし「=」というエンテレケイア(完成理念形)は、仏教のときと同様、たしかにキリスト教にも働きかけていたのである。


 すなわち「=」は、キリスト教の偏向した「↓」が、なるべく自分の姿に近づくよう、何度も何度も「↑」のベクトルを補給していたのである。その補償作用を、教会が受容したかどうかは、また別の話であるけれども、たしかに「補償はされていた」のだ。


 第2~5章では、この「↑」の補償が、歴史的な現実のなかで、どのような具体像を持ったかについて詳らかにしたい。


(2)西洋に現れた仏教思想

グノーシス=霊的認識

 

「↑」による補償の第一の波が、グノーシス主義である。


 グノーシスとは、霊的な認識のことであり、分かりやすく言えば「悟り」のことである。その意味で、歴史的な観点を外せば、仏教はまさしくグノーシス主義に他ならない。逆に言えば、グノーシス主義は、西洋に現れた仏教的思想ということにもなるだろう。


 キリスト教の原始共同体が生まれた頃、グノーシス主義者たちは、プラトンやイエスの教えを再構築して、独自の「悟りの神話」を生みだしていった。

 

 一般的なグノーシス〔主義〕の場合、創造神/宇宙/世界は暗闇、人間も大部分が暗闇、ただし人間の内部の核心部分――「霊」「魂」「火花」「本来的自己」その他、呼び方はさまざま――だけが光り輝いており、この輝きは宇宙を超越したプレーローマ世界の輝きと同質である。

  

 この「光の粒子」が、自らの本質を「認識」(グノーシス)した上で、闇の世界を脱出してプレーローマ/至高神のもとに帰還すること、それが人間の救済である。

 

  筒井賢治『グノーシス・

  古代キリスト教の〈異端思想〉』より

 

 このようなグノーシス主義者たちの神話は、宗派によって、かなりそのディティール(細部)が異なっている。

 

 その違いに対する興味は尽きないが、この場でそれを紹介するのには無理がある。神話内容が、あまりにも巨大で複雑だからだ。それらを羅列していったら、とてもではないが、きりが無くなってしまうだろう。

 

 


自己肯定的な思想

 

 だいたい共通しているのは「この世は汚辱の世界だが、人間の心の奥底には、神性の欠片が潜んでいる。その欠片をグノーシス(霊的認識)によって覚醒させれば、人間は、神の世界に帰ることが出来る」ということである。


 神性の欠片は「人間内部の神的な本質」「種」「本来的自己」「火花」「真珠」などと呼ばれている。それが人間の心の奥底に隠されている。


 これは要するに、仏教の如来蔵思想と同じものだ。如来蔵思想とは「すべての人間は、如来(仏性)を胎児として心に宿している」という考え方である。


 そしてこれは「人間が、本質的に神と同じものを持っている」という点で、非常に自己肯定的な思想であると言えよう。


 それだけに、キリスト教の正統派における人間観とは、遠く異なっている。彼ら正統派は、人間をして「神の恵みに拠らなければ肯定されない存在」「悪く、無力なだけの存在」と規定するからだ。


 この点において、グノーシス主義者たちの主張は、本当にすばらしい。たとえ欠片ほどであっても、胎児的であっても、彼らは「人間の本性は神に似ている」と言うのだから。


 そうであれば、可能性としては、人間の認識は、もしかしたら、神の次元にまで上昇するかもしれない。そう考えるのがごく自然である。


 とすると、ここには、とてつもなく力強い「↑」が現れているのではないだろうか。

 

 


二柱の神を設定する

 

 ただし、グノーシス主義の思想には、かなり大きな疵(きず)もある。


 彼らグノーシス主義者たちは、この世界(現世)を汚辱の世界だと認識していた。これも仏教と同通している感覚である。


 しかしグノーシス主義の場合、その汚辱の理由が問題なのである。すなわち彼らは、


「この世は邪神が創造したものだから、汚辱に満ちているのだ」


 と考えたのである。


 その一方で、グノーシス主義者たちは、「イエスは、善き神の子である」とする。

 

 普通に聖書を読めば、イエスが父と呼んだ神は、旧約の神、この現世を創った創造主(=グノーシス主義者のいう邪神)になるのにも関わらず。


 ここにグノーシス主義の、問題山積のオリジナリティーがある。


 とどのつまり、グノーシス主義者たちは、二柱の神を設定したのである。


 一柱は、至高神であるプロパトール。こちらが、イエスが「父」と呼んだ神である。


 そして、もう一柱が、


「自分の出生の前提を知ることなく、その狭い世界観ゆえに、自分を至高の存在であると思い込んでいる低次の神」であるところの、創造神デミウルゴスである。

 

 


小馬鹿扱いされる創造神

 

 グノーシス神話の設定上、デミウルゴスは、本当のところでは、至高神プロパトールの、創造物の創造物の創造物の創造物ぐらいの神である。神の切れ端といったところか。


 けれども、見識が低いので、デミウルゴスは、こういった系譜を全く理解していない。それで自分を、独立した創造神だと思っている。身の程を知らず偉ぶっている、裸の王様そのものと言えよう。


 グノーシス主義者たちは、このようなデミウルゴスを、かなり小馬鹿扱いしている。

 

 その〔デミウルゴスと呼ばれる〕獣(=造物神)は目を開いた。彼は大いなる無窮の物質を見た。そして高慢になって、言った、


「私こそが神である。私の他には何者も存在しない」と。


 彼はこう言った時に、万物に対して罪を犯したのである。

 

 さて、権威の高みから〔プロパトールのものと思われる〕ある声が到来して、こう告げた、「お前は誤っている、サマエールよ」と。――「サマエール」とはすなわち、盲目の神という意味である。

 

   『アルコーンの本質』からの引用 

    大貫隆訳著『グノーシスの神話』より

 

 デミウルゴスは、具体的に言えば旧約聖書の創造主のことである。ヤハウェとも呼ばれるこの神は、聖書の中で何度も、デミウルゴスと同様に、


「私こそが神である。私の他に、いかなる神も崇めてはならない」

 

 と言っている。先の文章からすれば、グノーシス主義者たちにとって、この言葉は、ヤハウェが盲目の神であることを自白しているに等しい。


 ゆえにグノーシス主義者たちは、この世界は、盲目の邪神が創った欠陥品であるとする。そう、欠陥品だからこそ、この世は汚辱に溢れているのだ。

 

 


相補的な真理

 

 しかし、私はこのような考えを取らない。神は一つである。


 譬えて言うなら、私は「イエスの父」と「旧約のヤハウェ」は、一なる神の肢体の、いわば「胸にあたる部分」と「臍にあたる部分」を指し示しているに過ぎない、と考えているのである。


 かりに神の肢体を「人体」として想像してみる。そうすれば、当然、胸の位置と、臍の位置では、その高さが違っている。また、その性質も違っている。


 まず胸であるが、母親の胸からは、愛児が吸うための甘く豊かな乳が湧出する。それは優しさ、柔らかさといった印象を与える部位である。


 他方、骨で囲まれていない臍まわりには、その引きしまったウエストを保つため「筋トレを続ける強い意志」が不可欠となる。妥協と惰性は、ウエストを醜くたるませるばかりだからだ。よって、それは厳しい印象を与える部位であろう。


 つまり同じ肢体の中にあっても、その部位によって、印象や求められるものがガラリと変わってくるのである。


 これは単なる比喩ではない。


「神の救いに与るには、汝らは子供のごとくあらねばならない」と説くイエスの教えは、霊的な母性愛そのものであるし、ヤハウェの戒めを守るためには「強い意志」が必要になる。


 一柱の神は、これらの「部位によって異なる教え」を説くために、イエスとモーセを必要とした。あるいは、イエスの時代とモーセの時代を必要とした、のである。


 だから私は、それをニ柱の神のごとく、別々の名前で呼ぶことは、単に、要りもしない混乱を引き起こすだけの事だと考えているのだ。そしてグノーシス主義者は、まさにその混乱を生みだした。

 

 端的に言えば、一柱の神のもとで段階論を説くべきだったものを、グノーシス主義者たちは、二柱の神による対立論を立ててしまったのである。

 

 


教会が受容すべきだった「↑」

 

 上記のような問題があるので、私はグノーシス主義を、手放しで評価する者ではない。

 

 旧約聖書をも、自分たちの正典に含めたキリスト教会もまた、二柱の神を設定したグノーシス主義者たちを異端と呼ばない訳にはいかなかった。その点の事情も理解できる。


 しかし、それでも言いたいのは、


「グノーシス主義には、間違いなく、色濃い『↑』の要素が含まれていた」ということである。そこには確かに、キリスト教の「↓」を補償するものがあったのだ。


 実際、近年ではグノーシス主義的な福音書なども発見されており、紀元二世紀頃には、キリスト教は、宗教として「↑」でもあったし、「↓」でもあったことが分かっている。


 中でも、次に掲げる『真理の福音』の一節などは、まさしくキリスト教会が受容すべき、典型的な「↑」の思想ではなかろうか。

 

 もし彼が呼ばれるなら、彼は聞き、彼を呼んでいる者(=神)へと向きを変え、彼のもとに昇って行く。

 

 そして、彼はどのようにして自分が呼ばれたかを知る。認識を得て、彼は自分を呼んだ者の意志を行い、彼の意に添うことを欲し、安息を受ける。


 一人一人の名がその人に帰される。このように認識するであろう者は、自分がどこから来て、どこへ行くのかを知る。彼は、酔いしれていて、酔いから醒めた者のように、自己を知るのである。

 

  大貫隆訳著『グノーシスの神話』より

 

 


学ぶべき相手を敵と呼ぶ

 

 しかし三世紀頃、教会が「正典(新約聖書)に、どんな文章を含めるか」を決めた段階で、こうしたグノーシス主義的な文書は、すべて除外されてしまった。


 教会側にとっては、グノーシス主義者たちは、もはや完全に「忌まわしい敵」になってしまっていた。とてもではないが、彼らから、何かを学べるような空気ではない。


 その憎悪感情の一例として、『ヨハネの黙示録』の一節を掲げておこう。


 グノーシス主義者たちの一部は、『黙示録』を書いたヨハネが存命のころ「ニコライ派」と呼ばれていた。そのニコライ派に対して、ヨハネは次のように言う。


「あなたのところにもニコライ派の教えを奉ずるものたちがいる。だから悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口と剣でその者どもと戦おう」


 一見して疑う余地のないケンカ腰、あからさまな対決姿勢である。そして、ケンカの相手から何かを学ぶということは――よほどの人格者でなきかぎり――あり得ないだろう。



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