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無音剣 細波

 灯火一つない夜道を、須狩棚五郎(すかりたなごろう)は歩いていた。
 月のない夜である。昼前から空には濁った雲が立ち込め、日の光を遮っていた。すわや、一雨来るか、と思案していたが、空模様はそれ以上崩れる様子を見せず、棚五郎も普段どおり草履履きのまま、帰路に就くことができた。
 空はもちろん、足元も真っ暗闇である。棚五郎は提灯を手にしていない。番所で借りようかと思いはしたが、後で返しに行くのが煩わしく思えたので、そのまま来てしまったのである。
 毎日通う、勝手知ったる道である。目を瞑っていても、無事帰り着く腹積もりはあった。実際ここまで、一度も迷うことなく来ている。それがまた楽しくもあった。
「おや」
 短い疑問の声を上げて、棚五郎は立ち止まった。
 見上げる。先ほどまで黒一色であった空が、赤く輝いている。
「何処か、火事であろうか」
 そう思ったが、火焔の立ち昇り様とは、違うように見える。
 赤い輝きの中心を、白い光の帯が通り、棚五郎から見て左から右へと流れ、消えていった。そうして赤色の空も、僅かずつもとの闇へと戻っていった。
「いったい何だったのだ」
 棚五郎は暫く首を捻っていたが、そのうち、何事もなかったかのように家路を急ぎ始めた。

 翌日、作事組の部屋に出仕した棚五郎は、周囲がやけに慌しいことに気付いた。荷物を胸に抱えて部屋に入ると、やけに閑散としている。いつもなら数人は必ず詰めている同役たちが、一人もいない。代わりに、棚五郎の上役に当たる小頭三人が揃って、何事か話し合っていた。
 その中に沖南宗助(おきなむねすけ)の顔を認めて、声を掛けた。
「小頭」
「おう。今出仕か、棚五郎」
 棚五郎は一礼してから、荷物を空いていた文机に置いた。
「何かございましたか」
 うむ、と重苦しい返事をしてから、宗助は話し出した。
「昨夜のうち、勘定組の組屋敷に、何か落ちたという。それで今、見に行かせている」
「何かとは」
「わからぬ。それを確かめるためにも、見に行かせた」
「屋敷は、酷く壊れたのですか」
「そうだということだ」
 組屋敷が壊れたとなれば、普請方はもちろん、作事方も慌しくなる。一刻も早く被害の度合いを知る必要があった。
「某も見て参ります」
「それがよかろう」
 部屋を出ようとする棚五郎の背中に、声が掛かった。
「千々(ちち)は息災でおるか、棚五郎」
「は」
 二年前に娶った妻女の千々は、宗助の次女だ。棚五郎にとって宗助は義父ということになる。棚五郎の人柄を見込んだ宗助が、娘を棚五郎に娶わせた、ということに世間的にはなっている。だが、婚儀を整えたとき、千々はすでに齢二十五になっていた。嫁き遅れを体よく押し付けられたのだ、などと陰では言うものもおり、棚五郎自身もそうかと思うときもある。癇が強く、気性の荒い女だが、家内の作事は細やかで、行き届いている。何より胸乳が大きいことは、棚五郎も気に入っていた。
「苦労はさせておりますが」
 あやつにはそれくらいがよい、と笑って見せると、宗助は手を振った。
 一礼を返して、棚五郎は部屋を出た。

 勘定組組屋敷には人だかりができていた。棚五郎は声を掛けつつ人を掻き分け、前へと出た。
 長屋のように東西に連なった組屋敷。その中央辺りの屋根に、遠目にもわかるほどの大きな穴が開いている。ただ柱には傷がなかった様子で、屋敷自体はしっかりと立っていた。
 人群れの中に、知った顔を見つけた。
「きつね」
 呼ぶと、紋無しの黒羽織を纏った姿が振り向いた。
「これは須狩殿」
「久しいな、常喜郎。お役目か」
「そんなところでござる」
 盛田常喜郎(もるだつねきろう)は、棚五郎に軽く頭を下げた。幼少の頃、棚五郎が通っていた衿屋道場で、常喜郎とは一緒だった。入門は棚五郎の方が一年早く、歳も二つ上だった。棚五郎にとって、常喜郎は弟弟子に当たる。道場では、その名と面長の顔立ちから、きつねと呼ばれていた。
 棚五郎は、勉学の方はからっきしだったが、剣術は性に合った。稽古は面白く、厳しい修行も苦にならなかったので、腕は見る間に上がった。二十のときに父が亡くなり、家と今のお役目を引き継ぐ次第となって、道場を辞したが、そのときには師範代にまで昇っていた。
 常喜郎は、棚五郎より下の世代では最も筋がよく、棚五郎も何くれとなく可愛がっていた。
 特に棚五郎の心に残っているのが、藪稲荷でのやり取りだ。
 常喜郎が入門して、間もない頃のことであった。屋敷町の外れに、竹の生い茂った小山がある。その小山に、神社とも祠ともつかぬ、稲荷を祀った社があった。街の者はその場所を、藪稲荷と呼んでいた。
 道場へ向かう道すがら、その社の前で、常喜郎が何やら慌ただしくしているのを、棚五郎は認めたのだ。
「どうしたのだ」
 竹刀を担いだままの格好で、棚五郎は呼びかけた。常喜郎が振り返り、こちらも竹刀を担ぎ直して、小走りに寄ってきた。
「今、あの稲荷に、白い狐が」
 社を示しながら、そんなことを言った。棚五郎は一笑に付し、竹刀の柄を軽くぶつけた。
「馬鹿を言うな。このような藪に、狐はおらん。出るとすれば、あちらの隙羅山(ひまらやま)よ。それに、白い狐など、おるものか。あんなのは、黄表紙がつくりあげた化け物じゃ」
「ですが、本当に、見たのです」
 棚五郎は常喜郎の肩を掴んだ。
「盛田。お主、疲れておるのだ」
 常喜郎は、少し高い位置にある、棚五郎の目を見据えてきた。
「須狩殿は、幽霊や、化け物は、この世におらぬとお思いですか」
「それは、まあ、そうだろう」
「己の目で見ても、そう思われますか」
 棚五郎は答えなかった。いや、答えられなかった。常喜郎の背から、何やら妖しげな気配が立ち上っている。そのように、感じた。
「私は、やはりいると思います。きゃつらが我々の前に、姿をあらわさぬだけで。そして、我らが目にしたときには、きっと大変なことが起きましょう」
 参りましょう、と告げて常喜郎は背を向けた。棚五郎も慌ててその背を追った。
「やはり、憑かれておるのだ」
 その日から常喜郎の呼び名は、きつねになった。二人とも、まだ幼い頃のことだった。
 そんな常喜郎であったが、今は町同心の役目に就いている。時折道場にも顔を出していると聞いている。剣の道を断った己よりも、今では腕を上げたかもしれぬ、と棚五郎は思った。
「いったい何があったのだ」
「まだわかりませぬ。空から石のようなものが降ってきた、と言うのですが、肝心の石が、屋敷から見つかっておりませぬので」 「そういえば昨晩、空が赤く光って、白い筋が過ぎ去るのを見た」
「見ましたか、あれを。他にも幾人か、同じように申すものがおります」
 棚五郎は屋根に穴の開いた屋敷に目をやった。
「どこの御仁のお屋敷だ、あそこは」
「葛西甚八(かせいじんぱち)殿のお屋敷でござる。石はちょうど、葛西殿の寝所の真上に落ちてきたということなのですが、その葛西殿に怪我一つないというのが、また妙で」
「面妖なことじゃの」
「まことに」
 下っ引きらしい男が常喜郎に寄ってきて、何やら耳打ちをした。
「では須狩殿、拙者はこれにて」
「うむ。慌しいところを、邪魔をしたな」
 下っ引きについて屋敷へ向かう黒羽織の背中を見送ってから、棚五郎は踵を返した。

 棚五郎の見立てどおり、作事方の勤めが忙しくなった。
「本日も、遅くなられるのですか」
 弁当の入った風呂敷包みを手渡しながら、千々がちくりとやる。帰りの遅い日が続くので、訝しがっているのだ。よもや、外に女ができたかなどと疑っているわけでもあるまいが、棚五郎としては、ただあるがままを弁明するほかはなかった。
 ここ数日、暑い日が続いている。屋敷を出ると、強い日差しが肌を刺し、月代に汗が滲んだ。
 千々にも困ったものだ、と歩きながら棚五郎は考える。とにかく、これはこうと決めてしまうのが好きで、そうした決まりごとを乱されるのを極端に嫌う。武家の女としては正しいのかもしれぬが、棚五郎には少々窮屈に思えるのだった。
 ならばきつく言い聞かせればよい、と思うのだが、上役の娘ということもあって、棚五郎はどこか遠慮してしまうところがある。そしていつものように、やれやれ、やはり某には分不相応な婚姻であったか、といったような思いに、ひとり行き着くのだった。
 そのようなことを考えているうちに、橋を越え、屋敷町へと出た。屋敷町は城のすぐ傍らだ。
 城へ向かう道を一本折れた先に、件の勘定組組屋敷がある。道は真っ直ぐで、顔を向ければ、目の先に組屋敷が見えた。
 人だかりができていた。石が落ちたという騒動からは、すでに十日が経っている。普請も始まったというし、今さら人が集まる理由はないはずだった。
 棚五郎は道を逸れ、人だかりへと近付いていった。
「寄るな。寄ると、斬られるぞ」
 下っ引きや同心たちの張り上げる声が聞こえた。
 人を掻き分け、前へ出た。葛西甚八の屋敷の前を、町同心や捕り手たちが囲んでいる。
 その中に、黒羽織を脱いで襷がけをしている常喜郎の姿を認めた。
「きつね、何があった」
 棚五郎を認めた常喜郎の顔に驚きが浮かんだ。
「須狩殿、どうしてここに」
「出仕する途中に、通りかかったのよ。斬り合いか」
「如何にも。葛西甚八殿が、家中の者を悉く斬殺したとの由。取り押さえようと、捕り手が踏み込んだのですが、皆、斬り伏せられ申した」
 屋敷の周囲に散っている血の跡は、どうやら斬られた捕り手たちのもののようだった。
「葛西甚八とは、それほどの遣い手か」
「剣術修行をしたという話は聞きませぬ。先代からの勘定方。剣よりは、学問に精を出されたのではないかと思われまするが」
「それは解せぬな」
「石が落ちたという件からこちら、おかしなことばかりでござる。ですが、目の前のことに当たらねば、仕方ありますまい」
 襷を掛け終えると、左手に剣を掴んだ。
「お主が行くのか」
「大刀を三本操る、奇妙な剣術を遣うそうな。これ以上、人死にを出すわけには」
「そうは言うがな、きつね」
「これも、お役目でござる。御免」
 それだけ言うと、常喜郎は小走りで、屋敷のうちへと消えた。
 棚五郎は、立ち去ることなく、そのままその場に立っていた。とはいえ、何もできることはない。無事、戻ってくれ。それだけを祈った。
 気詰まりになり、何となく庭を眺めた。作事方の屋敷とは比べ物にならぬ広さがある。庭の木は、桜と松が多いようだった。  どれほど時が過ぎただろう。棚五郎には、二刻ほども過ぎ去ったように感じられた。
 屋敷が騒がしくなった。開いたままの戸から、ひとりが転がり出てきた。
 常喜郎だった。右半身が、朱に染まっていた。
 同心や下っ引きたちを押し退け、走り寄った。
「きつね」
 常喜郎の息は荒かった。顔色が、青白くなっている。
 右肩から、斬り下げられている。深手だった。
「しっかりしろ。きつね」
 気を持たせるように、手を強く握る。目の光が、明らかに弱っていた。
「見ました、拙者は」
 常喜郎が口を開いた。
「あれは、葛西殿ではない。衣の下には、蛸脚の様なものが、蠢いておりました。それで、三本の剣を」
「わかった。もう喋るな」
「須狩殿。あの化け物を、どうか」
 常喜郎の手から、力が失われた。
「きつね。常喜郎。おい」
 いくら話しかけようとも、返事はなかった。常喜郎は、事切れていた。
 ゆっくりと手を離し、立ち上がった。刀の下げ緒を外し、それを使って、素早く襷を掛けた。草鞋を脱ぎ捨てると、戸へ向かい、歩き出した。
 留めるものは、誰もいなかった。
 戸に張り付き、様子を伺う。物音はしない。近くの木立から響く蝉の声が、耳障りだった。常なら蝉の季節も、もう終わりである。気候が不確かであれば、稲の実りにも響く。百姓たちは、今頃頭を抱えているだろう。
 もしや、この異常が化け物なぞを呼び寄せたのであろうか。そんな、詮無きことを考えた。
 中へ、一歩踏み込んだ。血の跡が、奥へと続いている。板間に上がり、摺り足で廊下を進んだ。でき得るならば、不意を打ちたい。そう考えた。
 なぜこのようなことをしているのか、と思った。常喜郎を斬ったほどの手練だ。棚五郎が勝てる目算は低い。真正面から立ち会えば、十中八九、斬られるだろう。
 剣の道は捨てたのではなかったか、と自問する。だが、現実には己はこうして、死地に身を投じている。そうしていながら、胸の内よりふつふつと沸き立ってくるものがあることを、棚五郎は否定し得なかった。
 家のために剣の道を捨て、家のために上役の娘を娶った。そのことに後悔はしていないはずであったし、また、生きていくというのはそういうものだろう、と思っているところもあった。
 だがそれでもやはり、己自身の決めた道を進みたい、という願望が、澱のように溜まっていたのか。そうしてそれは、いつか噴き出す機会を待っていたのか。
 ならば、それを破ったのは常喜郎の死に様であろう。
 棚五郎は足を止めた。肌に殺気が伝わる。襖一枚を挟んで向こう。いる。そう感じた。
 鯉口を切る。だが、抜かずにそのまま留めた。
 勝ち目があるとすれば一つだけ。
 衿屋道場で免許皆伝を受け、師範代まで進んだとき。棚五郎は道場主の衿屋五一郎(えりやごいちろう)から、秘伝の剣を伝授された。その剣を遣うしかない、と棚五郎は思い定めていた。
 その剣が、秘伝であるのは理由があった。衿屋の流派に居合いの剣はない。だがその剣は、鞘に収めて遣う居合いの術であった。
 そして、何よりのもう一つの理由は、その剣を遣ったが最後。遣い手は、二度と剣を振ることがかなわぬであろう、ということにあった。
 細波。秘剣には、そう名付けられた。
 棚五郎は腰を落とした。柄に右手を添え、まんじりともせず、襖を見つめていた。
 蝉の声が止んだ。
 棚五郎は抜き放った。
 襖が二つに割れ、床に倒れる。その向こう側に、刀を振り上げた、葛西甚八がいた。
 音が戻ってきた。同時に、葛西甚八の腹から、青黒い血が噴き出した。
 ざあああぁ、と細波が、刀を握る右腕に走った。右腕の骨が、粉々に砕けた証だった。
 腕の立つ剣客であればあるほど、相手の気配を読むことに長けている。ならば、気配よりも早く剣を抜き放ち、斬る。音を超える速さの抜刀術。それこそが、細波だった。
 棚五郎の刀が落ちた。痛みを感じ、左手で右腕を押さえる。
 その場に座り込み、柱にもたれた。
 さて、どうしたものか。棚五郎は呟いた。
 剣が遣えなくなったことは、気にならなかった。溜まっていた澱は、秘剣と共に、何処かへ消え去ったようだった。
 頭に浮かんだのは、千々の顔だった。
 すぐに、医者に運ばれることになるだろう。それから、いきさつを細々と尋ねられるはずだ。他にも、数々の面倒が待っているだろう。それを言えば、千々はいったいどのような顔をするであろうか。
 さて、どうしたものか。棚五郎はもう一度、呻くように呟いた。

(完)


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夜行剣 一番星

 日の強く照り付ける乳泉(ちちいずみ)街道を、樋留巳太郎(ひとめみたろう)は早足で歩いていた。
 深緑の季節は過ぎ、そろそろ秋にならんとしていたが、頭上より見下ろす日輪だけはいまだその威を弱めようとせず、笠のうちに汗を噴き出させる。遮るものない街道沿いは陽気を通り越して酷暑であった。
 その街道を、巳太郎は歩く。年寄りの二人連れ、荷物を抱えた町人風の男を追い抜き、先へ先へと足を向ける。二刀を提げる腰はふらつくことなく、歩みに澱みは見当たらない。
 乳泉街道は交通の要所である。北に隙羅山(ひまらやま)、南に赤谷(あこうだに)という難所に挟まれた峠道を藩を挙げての普請で道幅を広げ、均し、東西を結ぶ街道としたのである。
 奇妙な名には由来がある。古くより、この地には乳泉とよばれる大きな泉があった。その泉の水は飲めば女の胸乳が豊かになり、乳の出もよくなると言い伝えられており、街道が通る以前より多くの女人がこの地を訪れていた。今では泉の水量が減り、訪れる者も少なくなったが、地名にはかつての名残が見える。例えば、巳太郎が昨夜草鞋を脱いだ宿場は大乳町(おおちちまち)といい、これから向かう宿場は乳の里(ちちのさと)という。
 道程はちょうど半ばである。このままいけば夕前には乳の里につける、と巳太郎は思った。
 笠を上げ、汗を拭う。ふと、視界を黒いものがよぎった。
 僧形である。杖を突きつつ、よたよたと歩いている。笠から負っている葛篭まで黒ずくめであった。その僧が、道筋をやや外れ、草の茂る土手へと踏み入れる。土手の先はなだらかな坂である。
 巳太郎は足をはやめ、手を伸ばした。倒れ掛かった僧の左腕を掴み、引き起こす。
「大事ないか、御坊」
 僧の顔を見た。皺だらけの顔が巳太郎を見上げている。だが、その両眼は閉じられていた。
「これはこれは。ありがとう存じます」
 僧が両手を合わせ、一礼する。巳太郎は傍に転がっていた杖を拾い上げると、手に握らせた。
「御坊。目が利かぬのであれば、道の中ほどを歩かれよ。あぶなかろう」
「そのつもりでございましたが、この暑さのせいか、勘ばたらきが鈍っておるようでございますな。危ういところを、助けていただいたようでございます」
 もう一度礼をすると、僧は歩きはじめた。だがその歩みは右へ左へと、どうにもおぼつかない。
 巳太郎は隣に並んだ。
「御坊はどこまでいかれる」
「乳の里でございます」
「ならば拙者も道づれにしていただこう。御坊の歩みは、見ていてどうも心配でならぬ」
 改めて僧をしげしげと見る。齢三十になったばかりの巳太郎より一回りは上に見える。暑さと疲れのせいか歩みこそふらついてはいるが、足腰はしっかりしているように思えた。杖を突いているせいか、幾本もの柔らかい脚を動かして歩んでいるような。そのような感がある。まるで地をゆく蛸のようじゃな、と巳太郎は胸のうちでだけ思った。
 僧形と侍が並んで黙々と歩く。まわりからは、さぞ奇妙な取り合わせに見えただろう。何か話をしよう、と思うのだが、生来の口下手のためか、取っ掛かりが思いつかぬ。もとより無駄話は苦手な巳太郎であった。
 景色が橙に染まりかけてきた頃に、ようやく聞くべきことを思いついた。
「ときに御坊。名を何といわれる」
 僧は歩きながら首だけを巳太郎へ向けた。
「誠仁(せいじん)、と号しております」

 日が落ちる前に乳の里にたどり着いた巳太郎は、誠仁と同じ旅籠に草鞋を脱いだ。
「これも何かの縁というもの。せめて一献」
 と誠仁がいうので、受けることにしたのだった。
 宿に決めたのは江入庵(えいりあん)という旅籠で、乳泉街道が通り、ここが宿場町になったときから商いを続けている、乳の里では老舗といっていい宿らしかった。
 だが老舗といえば聞こえはいいが、外壁や屋根には年月による傷みが目立ち、大風でも来れば倒れるのではないか、と巳太郎は心のうちで思った。
「ですが、拙僧にはこれくらいが相応でございます」
 同様の思いを抱いていたものか、巳太郎の杯を満たしつつ、誠仁がしみじみ漏らした。
 二人で六畳ほどの部屋を取り、宿賃は折半した。しかも、誠仁の目が利かぬと知った女将が気を回してくれ、一階の、一番奥の静かな部屋をあてがってくれた。裕福とは言いがたい巳太郎にとっても、正直ありがたい道連れであった。
「ところで。御坊は何ゆえ、そのような身体を推してまで旅をされておる。いや、立ち入ったことを聞くようですまぬが、ちと気になったのでな」
 自分の杯を空け、誠仁に注ぎ返しながら巳太郎が問う。誠仁は気を悪くしたふうでもなく、杯を受けた。
「正直な方ですな、樋留様は」
「よせ。世間でいうような美徳ではないぞ、正直というのは。現に拙者は、いつもそれで、損ばかりしておる。今もこうして、口を滑らせた」
 いえいえ、と顔の前で誠仁が手を振る。
「それは拙僧を含め、受ける側のものの心構えでございます。まっとうに生き、まっとうに語り、それが通ずるのであれば、それがまっとうな世の中というものでございましょう」
「そんなものか」
「そんなものでございます」
 誠仁が天井を眺めた。
「拙僧は乳泉に居を構えておったのですが、数年来、泉の水がめっきりと減りましてな。立ち寄る者も少なくなり、暮らしてゆくのが難しゅうなりました。それでこのたび、隙羅山に住む知己を頼もうと、重い腰を上げた次第でございますよ」
「左様か」
 隙羅山の麓へは、乳の里からは一里ほどである。隙羅山は古来より霊山としても崇められており、麓には神社仏閣の類が多い。おそらくそれらのうちの一つを訪ねるのだろう、と思った。
「樋留様はどうして旅を」
 今度は誠仁が問う。巳太郎は己で銚子を傾けた。
「逃げてきたのよ。拙者は」
 回りはじめた酒が身体を温め、舌を滑らかにしていた。
「拙者、城下の衿屋道場でな、師範代をしておったのよ。だが、次の道場主を決める話が持ち上がってな」
 ほう、と梟か何かの鳴き声がした。誠仁は静かに聞いている。
「拙者ともうひとり、覗木大介(のぞきだいすけ)というものが、道場主の座を争うことになった。拙者は門人の取りまとめなど得手ではあらぬゆえ、大介が道場主になればよいと思っておった」
 だがこやつが、融通の利かぬやつでな、と吐き捨てる。
「どうしても立会いの上、道場主を決めたいというのだ」
 誠仁が小さく頷いた。
「それで、立会われましたか」
「立会った」
「それで、お勝ちになられたのですな」
「勝ってしまった」
 大介とてそれなりの遣い手、上手く負けてやることなどできぬ、と、口の中でもごもごと言う。それでもやりようはあった、と思っている様子だった。剣客としての矜持が許さなかった部分も多分にあろう。
「勝ってすぐに、いかんと思った。この大介というやつは執念深いやつでな。きっと負けを認めぬであろうし、何やかやと難題を吹っかけては、拙者を引き摺り下ろそうとするであろう。そう信じて疑わなんだ。そのようなことが続けば、道場を継ぐ継がぬの問題ではなくなる。そうであろう」
「いかさま」
「それで、逃げて参った。揉め事が、持ち上がる前にな」
 誠仁が銚子を手にした。巳太郎の杯に、器用に注ぐ。
「先ほどから幾度も目にしておるが、すさまじいな、御坊は。まるで見えておるようじゃ」
 精進の賜物でございます、と誠仁が銚子を戻す。酒は、杯の際より少し下の辺りで留められていた。
「夜を、歩いているのでございますよ」
 拙僧は、夜を歩いているのでございます。そう繰り返した。
「日が出ておりましょうが、沈んでおりましょうが。灯りがありましょうが、なかりましょうが。拙僧はいつも、夜を歩いているのでございます。そうして、耳を澄ませ、鼻を利かせ、肌をはたらかせて、おのれのまわりを感じ、だいたいこういうものであろう、とおのれの認めたものの中でのみ、生きておるのでございます。それが本来どういうものかはわからない。ただおのれで形づくったものを判じて、歩いているのでございますよ」
「で、あろうな」
「ですが、目が明いておられても、夜ばかりを歩いておられる御仁は多うございますな。その、覗木大介様という方も、さしずめそのような御仁でいらっしゃいましょう」
「そう思うか」
「拙僧には。ですが、人の道行きというのは、そういうものであるのやもしれませぬ」
 巳太郎が銚子を手にする。空だった。女将を呼ぼうとしたが、誠仁が押し留めた。
「樋留様には、ご無理を申してお付き合いいただきました。明日も早うございます。今宵はこの辺りで」
 巳太郎は少々呑み足りなく思ったが、道理でもあるので切り上げることにした。そうして二人、相部屋で眠りについたのだった。

 巳太郎が目を覚ますと、誠仁はいなかった。床を上げに来た女将に聞くと、日が昇る前に出立したということだった。
 そのような気はしていた。巳太郎とて剣客である。たとえ眠っていても、身の回りの気配は、敏感に察知している。巳太郎がちょうど深く眠りに落ちた頃、誠仁が布団から起き上がるのを、肉体とは別のところで察知していた。
 立ち去る前。皺だらけの手が巳太郎の瞼に触れたような。そのような気配があった。
 巳太郎はひとり出立した。
 宿場町を抜け、再び街道を早足で歩く。日が沈む前に、次の宿場へ着きたかった。
 誠仁はどうしたであろうか。無事、旅を終え、新たな居に腰を落ち着けられたであろうか。また道を踏み外し、崖に落ちて怪我などしなかったであろうか。考えても詮なきことである。だが、考えずにはいられなかった。また、歩くことと考えること以外に、巳太郎のすることはなかったのである。
 気がつけば、日が沈みかけていた。
「まずいな」
 巳太郎は小さく愚痴た。もっと早く宿場を出ればよかったのであるが、早く着きたいのと同様のわけで、そうもいかぬ。
 巳太郎は、夜目が利かぬのだ。
 子どもの頃には、見えていたような覚えがある。が、いつの間にやら、夜闇が、ほんとうの黒一色に見えるようになっていた。ぼやけてでも多少なりとも見えるなら歩きようもあったが、それすらなくては、いくら剣の修練を積んでいる巳太郎といえど、どうすることもできぬのであった。
 日没はまだ半ばほどであるというのに、すでに、道筋は朧にしか見えぬようになってきている。到底、宿場町まではたどり着けそうになかった。
 日が完全に沈むと同時に、足を止めた。
 目をつけていた、手近の木の根元に腰を下ろす。町の通用門まではおそらくあと一里ほどであろう。ほとんどの旅人は、ここまで来れば日が沈もうが何があろうがもう一がんばりするところであろう。それでも巳太郎は、ここで野宿することに決めた。己の夜目の危うさがどれほどのものか、巳太郎自身が一番よくわかっていたのだ。
 ふと、気配を感じた。いや。気配などという生易しいものではない。それは違いなく、殺気であった。
 荷物はそのままに、ゆっくり立ち上がる。右手は、刀の柄に添える。
 来たか。そう思った。もしも大介が性根から腐り果てていれば、ある。そう思っていた。
 そして。それだけはないはずだ、と。そう、信じてもいた。
 刺客。数は、三つ。
 覗木大介は、すべてを闇に葬ることにしたのだ。
 そこまでして夜を歩くか、大介。自分の見えるものだけ。見たいものだけ、見ようとするのか。
 気配の中に、巳太郎と同程度の遣い手のものはない。それは、大介自身が出てきていないということでもある。暗殺すら、己の取りまきの者たちに任す。そこに大介の闇の深さを見た思いがした。
 大介は巳太郎が夜目の利かぬのを知っている。おそらく刺客たちにも、それは伝わっているのだろう。尋常に立ち合えば、相手にもならぬ連中である。
 巳太郎と大介の付き合いは長い。道場の入門は、同期であった。そのときの入門者は二人だけであった。方や五百石を越える大身、こちらは貧乏侍という身分の違いはあれど、自然、仲はよくなり、互いに切磋琢磨し、技を磨きあった。あの頃のふたりは、確かに友であったのだ。
 どこで道が分かたれたのか。おそらく、大介が覗木家を継げぬことが決まった日からであろう。
 大介には病弱な兄がいた。十五までは生きられぬであろうといわれ、覗木家では大介が家を継ぐものとして長らく扱ってきた。だがその兄が十五まで生き延び、その年を境に病状が落ち着いたことで、すべてが変わってきたのだ。
 大介がそれまで纏っていた余裕のようなものが、失われた。他人を、信用せぬようになった。あの頃から、大介にとって巳太郎は、競い合う友ではなく、道場を継ぐための障壁になったのだ。
 鞘を払い、下段に構える。気配は探れるが、間合いがわからぬ。敵の打ち込みを待ち、返すより他手はない。
 木を背にする。闇の中に光が一つ、瞬いている。ああ、星が出ている。そう思った。
 それは突然だった。巳太郎の両眼を、光が襲った。それは濁流のようであり、束になった波紋は、視界から暗闇を押し流していった。
 上段に構え、突っ込んでくる姿が見えた。
 足下から刃が閃く。すれ違いざま、胴を薙いだ。眼前にもう一人。刀身を回し、突き形のまま、喉笛を斬り裂いた。
 一間ほど離れて、もう一人。仲間が斬られたのがわかったのか、背を見せ、逃げようとしていた。
 脇差を投げ放った。過たず、その背を貫いた。
 三つの人影が、地に倒れ伏す。巳太郎にはそれが、はっきりと見えていた。
 辺りを見回す。色さえないが、すべてがはっきりと、見えていた。
 血を拭い、刀を納める。何が起こったのか、己にもわからぬ。だが、窮地を脱したことだけは、わかった。
 空を見る。いくつもの星が見える。それらが味方してくれたと。そうとしか、思えなかった。眠る巳太郎目に触れる誠仁の姿が、満天に浮かんだように思えた。
 己で来い。繋がっているであろう闇に向かって、巳太郎は呼びかける。
 己で来い、大介。俺たちで、決着をつけるのだ。もう、それしかないのだ。
 きびすを返した。
 深い暗闇の街道を、侍がひとり、歩いてゆく。

(完)

 
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奥付



隠し剣 無月抄


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著者 : 緑乃帝國
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/chabayashi/profile
ウェブサイト:馬車馬堂 御茶林研究所


発行所 : ブクログのパブー(http://p.booklog.jp/
運営会社:株式会社paperboy&co.


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販売価格100円(税込)

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