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居間では夫と娘がテレビのクイズ番組を見ている。
私は一人、台所で洗い物だ。

中学生の娘が、あまりにもクイズの答えが分からないので、夫がもっと本を読めとたしなめている。
そう言う夫も、本と言えばビジネス関連の本しか読まないのだが。

公団住宅の我が家の書棚は貧弱だ。親子三人で三段のカラーボックスを二つ、本棚として使っている。中身も寂しく、娘の漫画と子供の頃読み聞かせた絵本と児童書、そして夫のビジネス書、私の料理本程度しか入っていない。
小説はほとんど無い。時折、市の図書館で借りて読むくらいだ。週四日パートで働いて家事をこなしていたら、本をゆっくり読む時間なんて無いのだもの。

大人になって働くようになったら、好きなだけ本を買って読めると思っていたのに、結婚した途端に趣味も本も私の日常からするするとこぼれて消えていった。
その代わり手に入れたものも沢山有るし、今の生活に不満も無いけれど、この殺風景なカラーボックスの本棚を見るたびに、自分の中の大切なものをおざなりにしてきた事に気付かされて、胸の奥がチクリと痛くなり、妙な焦燥感にイライラするのだ。

数年前までは実家に帰れば、私が学生時代に溜め込んだ本が山ほど有ったのだが、兄夫婦が実家に同居を決めた時、母が場所ふさぎだからと全て処分してしまった。

娘が台所の私に、クイズの答えを聞いてきたが、湯沸かし器の音にかき消されて良く聞こえなかった。
「え?なんて言ったの?」
「もう!お母さんも、もっと本を読めば」
娘がむくれた口ぶりで言い捨てると、またテレビに向き直った。

思わずカチンと来る。
私がこの子くらいの時には、週に二、三冊は学校の図書館から借りた本を読んでいたのだ。
デュマ、ニーチェ、筒井康隆、ハインライン、ヘッセ、モンゴメリー、夢中になった作家は数知れず。

夫と娘がテレビの前でけたたましく笑っている。

私の本、もう取り戻せないんだろうな。
水道のコックを閉め、手を拭いて台所の灯りを消した。

パートの仕事は朝十時から午後三時までだ。
家の近くの小さな会社で、簡単な事務をしている。面倒なことや時間のかかる仕事は社員さんがやるので、私がやるのは本当に雑用と言ってもいいような簡単な内容だ。高校生のバイトでも務まるんじゃないだろうか。

短大を卒業して三年ほど一般企業でOLをし、寿退社した後すぐに娘が生まれ、その後長い間専業主婦だった私には、今更世間の荒波に揉まれて正社員のポストを手に入れようなどという向上心は無い。それに、IT化し続けスピードと効率を要求される能力主義には付いて行けそうにないので、これでいいや、とも思っている。

今日は一日、伝票整理と顧客データの入力で終わった。
簡単で誰でも出来る仕事だから、当然時給も安い。それでも自分の銀行口座に月に一度印字される給料の数字を見ると、家計の足しだから無駄使い出来ないと思いつつも気分が高揚する。
扶養範囲を超えないように、労働時間を計算しつつ働くのは妙なものだけど。

三時丁度に仕事を終え、帰宅途中に天気も良いのでデパートの物産展に寄ってみた。
たまにこういう所に寄って、名産品のお菓子などを買うのがささやかな楽しみなのだ。
金沢の物産展は女性客で大賑わいだった。
会場内は人いきれと暖房でひどく暑く、厚い冬物のコートを着ている為、首筋や顔から汗が吹き出してくる。色々な食べ物の匂いと、飛び交う客引きの声が混然一体となって、いつもの事ながらお祭りのようだ。暑さと人ごみに堪らなくなり、人の流れに逆行して化粧室に逃げ込んだ。

まったく、暑いったらないわ。
首に巻いたマフラーを取りバッグにしまい、化粧室の鏡に映った自分の顔を見てギョッとした。
頬と鼻の頭のファウンデーションがはげて、顔の色がまだらになっている。なんて疲れた顔をしているんだろう…。

誰もいない化粧室でため息をつき、バッグから化粧道具を出してファウンデーションを塗り直した。これと言って疲れるような事をしているわけでもないのに、どうしてこんなに疲れた顔をしているんだろう。ああ、老けただけなんだろうか。まだ四十にもなっていないのにな。

大袈裟かもしれないが、こんな気分の時考える事がある。
自分は何の為に生きているんだろう。人生に目的を持って生きている人って、一体どれくらいいるんだろう、と。

鏡の中の火照った頬の赤みを見つめていると、化粧室に年配の女性の二人連れが入って来たので、私は手早くルージュを引いて化粧道具をしまい化粧室から出た。
何だかもう物産展の賑わいの中に戻る気がしない。

エスカレーターで一階下に降りると、そこは宝飾品と家具のフロアーだ。
先程の喧騒とは別世界の静かで落ち着いた空間で、落ち着いた年代の男女の店員が背筋をしゃんと伸ばして、来るかもしれない客の為に穏やかな微笑を浮かべて立っている。
暗めの照明の下、宝飾カウンターでは若い男女の客がペアの指輪を選んでいるが、他に客はいないようだ。

こういう所の店員さんて、退屈じゃないのかしら。
先程の頬の火照りを冷ます為にも、この静かな空間をブラブラしてみたくなった。
縁の無い場所だけど、あのにこやかなマネキンの様な店員さん達は、私がただ見ているだけだからって邪険に扱う事もないでしょう。

宝飾カウンターは、流石に冷やかしで眺める気にはならないので、奥の方にある家具売り場に行ってみる。
豪華な輸入家具や絨毯が並んでいるフロアーも、今の私の生活には全く縁のない場所ではあるけれど、宝石よりはまだ身近に感じられるわ。

チーク材かオーク材か分からないが、デコラティブな濃い茶色の艶やかな家具が目を引いた。猫足の家具はよっぽど家が素敵じゃないと収まりが悪いわよね。コーディネイトも難しいし。

小ぶりで素敵なライティングデスクが気に入り、ちょっと覗き込んで値札を確認してみたら、私のパート代の五ヶ月分もしたので、ああ、そんなものよね、と残念な納得をした。
ウチの家具は、組み立て家具か、輸入物は輸入物だけど、東南アジアあたりからの輸入物だもの。

私がシゲシゲ家具を覗き込んでいても、数メートル先のカウンターで書類整理に忙しい年配の女性店員は、下を向いたままこちらには見向きもしない。
どうせ何も買わないだろうと放っておかれているんだろうけど、その方が気兼ねなく眺められて有り難いわ。

落ち着いた空間に、豪華な家具調度品。まるで美術館で芸術作品を見ているみたい。眼福、眼福。
ちょっと前まで、化粧室で軽い絶望感に沈んでいた気持ちが、徐々に軽く明るくなってきた。

ダークな色合いの高級家具の次に並んでいるのは、白で統一された、もう少しカジュアルな形の木製家具だった。
白は汚れが目立つけど、部屋が広く見えるからいいのよね。他の家具とも合わせやすいし収まりがいい。カップボードやチェストと一緒に、自分の背丈と同じくらいの高さの書棚が並んでいた。

白い塗装で、ガラスの観音開きの扉。下の方には引き出しが二つ付いており、書棚の上も飾り棚として使えるように、飾り縁と美しくウェーブを付けた背板が付いている。扉の取っ手や金具類は、アンティーク調に仕上げた渋い色の金属製だ。

あら、可愛い。
ガラスの扉が付いた書棚は少女の頃からの憧れだった。
実家で使っていたのは、書棚と言うより単なるスチール棚で、量さえ収まればいいだけの無骨なシロモノだった。
そして今は三段カラーボックスだもの。
こんな可愛い書棚は、若い女性の一人暮らしか新婚家庭なら似合うかもね。洋書とか並べたい感じ。

値段を見ると、先程の高級家具よりは大分安く、パート代の二ヶ月半分くらいで買える値段だった。
買えないわけじゃないけれど、私の本棚じゃなくてウチの本棚って事になるんだもんねぇ。漫画しか読まない娘に買うには勿体無いしな。

ふと腕時計を見ると、もう四時を過ぎていた。そろそろ帰って夕飯の支度をしないと。私は家具売り場を後にして地下一階の食品売り場に下り、いくらか食材を買って帰宅した。

五時前には家に着いたが、ドアを開けてくれた帰宅部の娘は、お母さん遅いー!と開口一番文句を言った。

「仕方ないでしょ、仕事の後に買い物してきたんだから。あんた、中学生にもなってまだ一人で留守番出来ないの?」
「一人で居ると、誰か来た時困るんだもん。さっきも薬の勧誘の人が来たよ」
「薬の勧誘?」
「なんか、家に置いて下さいとか何とか」
「ああ、置き薬の勧誘」

「なんか、そんなの。お母さんいないから分かりませんって断った」
「そう。チェーンかけてた?」
「かけてた。営業の電話とかも来るし嫌になっちゃう」
「ナンバーディスプレイ見て、知らない番号なら出なくていいのよ」
「電話鳴るとびっくりするもん」

帰宅すると、いつも娘がまとわりついて機関銃のように話しかけてくる。十四歳は危険な年頃とは言うが、この子は少し子供っぽい。この後夫が帰ってくると、今度は私にすげなく当たり、夫にまとわりついてあれこれお喋りを聞かせるのだ。娘と夫は、性格が似ている。ちょっとアゴを付き出して勢い良く話す動作も似ている。

着替えて台所に行くと、娘は居間のソファに寝転がって漫画を読んでいた。
その娘の足がブラブラしている所に、例の黒い三段ボックスが二つ並んでいる。漫画やアニメが好きなら、本も好きになって良さそうなものなのにと思うが、彼女が本を読むのは、学校の課題で読書感想文を書かなければならない時くらいだ。どうしてなのかしらねぇ。コバルトでもいいから読めばいいのに。

夕食の支度をしていると、夫がただいまと声を掛け帰ってきた。公務員で事務職の夫は、判で捺したように同じ時間に帰宅する、今時珍しい勤め人だ。彼も時間が有る時はテレビを見ているか、自分のパソコンでネットを見ているようで、本を読むことは稀だ。時々アマゾンからビジネス関連の本を買って読んでいるが、新聞もメインの記事だけ読んで、連載されている小説などは一度も読んだことがないらしい。

夫とは、お互い学生の頃からの付き合いで、その当時に何度か彼の部屋に遊びに行ったが、部屋にはこれと言った本棚らしきものは無く、勉強用の机の上に無造作に専門書が積まれているだけだった。どんな本を読んでいるか知りたくて楽しみにして行ったのに、何にも無くがっかりした覚えがある。

理系だからかしらねぇ。娘も父親に似たのかしら。でもあの子、理系が得意ってわけでもないのよねぇ。
ピーラーでじゃがいもの皮を剥き、芽をえぐりだしながら考える。今日のメインはホワイトシチューなのだ。料理の手順と、本好きのDNAについて交互に考えながら手を動かす。

本を読むとか読まないとか、何でこんな事に拘っているのかしら、私。どうだっていい事だろうに。
今日の午後、デパートの化粧室で感じた小さな刺の様な絶望感が、またチラチラと頭の隅から湧き上がり、次第に小さな塊になって喉の奥に下りて来た。


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