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1

 

  最初の電話は、無視しておいた。

 それというのも、深くよどんだ失意のあまり、タエはすべてのことが億劫になってしまい、人と話したくなかったからである。

  昼過ぎに、また電話が鳴った。

 今度はしつこい。

 このがらんとした大きな家の電話が鳴ったのは、三日ぶりのことであった。

 畦道の向こうに褐色の藁葺屋根の見える、忘れ去られたような家である。

 苔をびっしりと岩の表面に生やした青みがかった崖が背後に迫り、秋ともなると柿が黒い枝をゆったりとたわませ、屋根すれすれに赤あかとしたおびただしい実を結ぶ家。

 ひとりで住んでいるのは、秋津タエという六十九になる未亡人であった。

 この蒸し暑いのに、弱々しい風を送る古びた扇風機だけでしのいでいる。

 それでもやはり暑いので、彼女は裏の湧き水で作った氷をコップに入れて、それを口にほお張っていたのだが、さきほどから長椅子にもたれて寝込んでしまったところであった。

 数個の氷はずいぶん小さくとけてしまい、炭酸の泡のついたコップの中でささやかな音を響かせ、上下にずれていった。透明な氷の芯には、小さな放射状の冷たい火花が走っている。

 氷をほお張るという習慣は、最近のこと、つまり息子の洋介の死以来のことであった。固く冷たい氷を舌で包んでいると、自分の固く閉じた孤独を味わっているようで、歯に沁み入るようなせつない気持ちになる。

 ひっそりとした無音の家。崖の湧き水の流れる冷たい音が響いているので、少し慰められるけれど、酷暑の中ではこの重苦しい孤独と喪失感を、どうしていいのか分からない。 

 古くて暗い家屋の中には、息子の思い出がどの部屋にもいっぱいつまっているし、畳の匂いの中にすら、子供のころの洋介の匂いが混じっているような気がするのであった。 

 あのハモニカ。夏の夕方、小学校の頃の息子が縁側で鳴らした下手なハモニカの音が、昨夜も耳について離れなかった。

 昔のアルバムを見ながらうつらうつらしていたところに、電話が鳴った。

 タエは老眼鏡を外して手にしていた古びたアルバムを閉じ、玄関の暗がりの方へと這いだして、受話器を手に取った。

 

 ――もしもし、秋津さんのお宅でしょうか。わたくし、吉井と申します。はじめまして。このたびはまことに何と申し上げたらいいのか……。あの、わたし、洋介さんのことでご連絡さしあげました。お返ししたいものがあるのです。 

 

 タエは死んだ息子について女が話すのを、遠い世界から響いてくる別の言葉のようにうつろな気持ちで聞いていた。

 あの事故以来、もう何があったって息子は帰ってくるものか、という重苦しい諦めの気持ちがまず先にたち、揺れ易い心を堅く守ろうと身構えてしまう。

 女の声はまだ若く、よく通り、美しく、かつ性格の強い口ぶりだった。

 たぶん、世間というものに対しての立ち振る舞い方を心得た、鼻筋の通った女なのだろう。

 タエは勝手に電話の主を、そのような顔立ちとして連想した。

 年寄りのひとり暮らしで話相手もいなく、日がな一日過ごしていると天井の隅の暗がりを眺めているだけで、この時の流れの向こうに確実に死というものが待ちうけ、自分もやがて夫や息子と同じ薄ぼんやりとした世界にいくのだということが、いやおうなく納得させられる。

 親類がたまにたずねて来るだけで、あとは民生委員の米沢というひとのよい太った女が、唯一話し相手と言えばいえるだけで、玄関の明るいひかりを遮る暗い影があったかと思うと、それは一匹の腹を空かせた泥まみれの野良犬だったりする。 

 彼女はいま、かすれたような声しか出ない。

 ――返したいものとおっしゃいますと。

 ――ボトルです。……洋介さんの、期限切れのボトルです。

 ボトルの意味が老母にはよくわからず、二三のくどくどした説明を経たのち、ようやく息子が生前通っていた呑屋の「マダム」からの電話だと察した。

 彼女はマダムという人種と直に接したことはなかったので、なんとなく胸を半分まではだけて赤い口紅をべったりと塗ったテレビドラマに出てくるような恐ろしげな都会の女を連想した。

 むかし、もう何十年も前になるが、土地を売って一時的に小金の入った時の夫の浮気の相手も、派手な恰好をしたマダムという人種であった。

 そんなところに息子は通い詰めていたのだろうか。

 

 ――昨日で期限が切れましたが、まだお酒は半分以上残っておりまして。秋津さんにはわたし、いろいろとお世話になりました。じつはこのまま、秋津さんと親しくされていたお客様に飲んでいただいてもかまわないのですが、わたくし、それは何か違うような気がいたしまして……。毎日棚に置いてあるボトルを見ておりますと、やはりこれは洋介さんに飲んでいただきたいと。

 その口調には何か丁寧に感情を圧し殺したようなところがあり、それは決して息子を失った母親にとって、不快を感じさせるものではなかった。

 自分のものとは質が違うとはいえ、言葉の背後に硬い透明な悲しみのようなものが伺え、タエは相手に対して、安心できるものを覚えた。さらに女は、秋津洋介の人柄について、二三なつかしそうに触れた。

 ――わかりました。そういうことでしたら、お酒は皆さんで召し上がってください。

 

 やわらかく電話を切ろうとすると、女は哀願するような声でどうしても洋介に届けたいという。

 電話では不快でなくとも、来るというなら話は別だ。

 届けるも何も息子は四か月前に環状八号線で車の追突事故で死んでいるのだし、息子が生前関係のあったらしい女の声を聞きたくないような気もして、これ以上受け答えしていると、タエは何か激しく心を乱される思いがした。

 吉井という女は東京の世田谷でスナックを開いているそうで、茨城のこの町までは二時間ほどで来られるという。さいわい来週の水曜日は店も休みを取っているので、そちらに迷惑でなければぜひ伺いたいといった。

 ――それではお線香だけでも上げさせてください。

 そういわれては、仏のことであるだけに断るわけにもいかず、タエはあまり気のすすまない顔で女の来るのことを承諾した。

 ひっそりとした仏壇の前に座って、いいかげんなお経を唱えてから息子の名を呼び、

「お前は、なにをやっていたのかねえ」と寂しく笑った。

 

 息子の遺影はあまりいい写真がなく、公園でポロシャツを着て横向きに笑っている中途半端なものであった。

 人なつこそうな照れたような笑顔。二枚目ではないが、少なくとも人を安心させる顔ではある。

 鉦の音が鋭く澄んで響きわたり、その余韻は仄暗い部屋から部屋へとまっすぐに伸びて通じていくようであった。線香の香が紫色に立ちのぼり、宙で波紋のように乱れると、たわいなく風にかき消されていった。

「お客さんがくるんだってさ。ミイちゃんも、ちゃんとしなきゃ、だめだよう」

 暗い土の匂いのする家屋の隅でうずくまったまま動かない猫を、タエはしゃがんで両手で撫で、耳元に話しかけるようにいった。

 がっしりとした太い柱に囲まれた家の陰で、大きな老いた猫は持ち上げられ、目を細め、むくんだような顔をして撫でられるままになっていた。

 

 


2

   

 食事の用意をするのも自分のためなら、洗濯をするのも自分ひとりのため、これでは何を張り合いに生きていけばよいのだろう。

 かといって、生来人と接するのが苦手な性格から、同年代の踊りや俳句のグループにもまじわることができない。

 タエは人嫌いではなかったが、新しく知り合いをつくる心の強さにかけていた。

 それに、自分は世間知らずで、どこか軽率なところがあると以前から卑下していて、あまり人の集まる場所に近寄らず、ただただ月日の流れるに任せていた。

 

 運動をしなければいけないと思い、夫が作った盆栽の手入れや庭掃除をしてはみるものの、いびつでひねこびた芋虫のような松の木に愛情を感じることができず、すぐ疲れてしまって、二時間ともたないのであった。

 たまにテレビをつけても、もう自分の感覚とは違う世界のことを、違った人種が面白おかしく演じているだけで、これならばまだ目を閉じながらラジオの噂話を聞いていたほうが、気持ちが休まるというものだ。

  

 田をはるばる渡ってきた青い風が、がらんとした家屋に吹き込み、堅い柱を二三度めぐると、もうその荒涼とした底の深い寂しさが、そのまま自分の心のように思われてしまう。

 自分はこの朽ち果てる大きな家のように虚ろなのだ、とタエは思う。

 洋介はあまり東京から帰ってこない息子だったが、たまに帰ってくるときは必ず何かしかの土産物を抱え、畦道の向こうから不意に現れた。

 東京駅であわてて買ったようなお弁当や洋菓子、佃煮のたぐいだ。

 でも息子が現れた途端、風景は輝き、田の緑は内部の植物的な明るさを増し、用水路の水は、ふだんの倍も太陽のひかりを反射させたものであった。

 蛙やとんぼや蝉たちまでが、かつてここで育った王子様を出迎えるかのように騒がしくなった。

 水路にかかった石橋の上に立ち、息子が手をふると、タエは洗い物をやめにして濡れた手をエプロンで拭いながら、家の前の陽あたりのいい石垣の上に登って手をちぎれるように振りかえした。

 洋介はむかしよくこの石垣の隙間から、青緑いろにひかる蜥蜴を何匹も引きずり出しては石で打って殺し、血を滲ませ、魚屋を開いたようにして遊んでいたものだ。

 

 あの子はよく夕方になると縁側に立って、ハモニカを吹いていた。

 夫が戻ってこない夜も、その下手なハモニカの音でずいぶん慰められた記憶がある。

 そんななつかしい過去を思い出すたび現実にもどされ、もうあの息子はいないという辛い認識にぶちあたる。部屋を見ても庭を見ても、家の背後に迫った崖の上の柿の樹を見ても、それぞれ年の違う無数の息子の映像があちこちに浮かびあがり、笑い、飛び、両手を広げ、子供っぽい調子でハモニカを吹き鳴らし、そしてたちまちひとつの白い点となって仏壇の遺影の中に吸い込まれてしまう。

 残るのは、菱の実のように暗くて固い幻滅だ。

 

「まったく、なんて木に登るのがうまい子だったろう。子猿みたいだったからねえ。柿を取ってじいさんに食わせるんだといって、屋根から滑り落ちたときは、気が狂うほど心配したもんだよ。あのときも、徹夜の看病をさせられたっけ。ほんとうに洋介は手間のかかる子だった」

 ある日、掃除をしていると突然、ばりばりと枝の折れる大きな音がした。

 縁側から履物もはかずに飛び出してみると、柿の実があたりいちめんに赤くつぶれ、その真ん中で息子が目を白くして、仰向けに倒れていた。

 いそいで救急車を呼び、病院に運びこんだ。

 車の中で何度も息子は目を開け、照れたように笑い、また閉じた。

 洋介が八才くらいの事である。

 遅くなって生まれたひとりっ子のかわいさが、やわらかい動物的な感触となって彼女の腕や胸に甦ってくる。

 けれどもその記憶は、たちまち東京の環状八号線でトラックに追突されて、病院に運びこまれ、頭に締め付けるような包帯を巻かれ、鼻から残酷に固そうなチューブを差し込まれた三十三才の息子の、ミイラのような姿に変わってしまう。 

 今年の四月。出先から車で桜上水の電気工務店に戻るところであった。

 ――何と辛い夜だったことだろう。

 知っているかぎりのあらゆる神様、仏様に祈り、そのうちそんなにたくさんの神様に祈っていることじたいが不信心で罰を与えられるのではないかと不安になり、けっきょくは観音様一本に絞り込み、すがりつくように祈ったものの、明け方息子はあっけなくこときれてしまった。

「ご臨終でございます」

 と医師に言い渡されたとき、病院の窓から見える暗く底びかりする庭に濡れた朽葉が集められていて、その鉛色の葉のぴたぴたとした冷たいひかりが、たまらなく恐ろしかった。

 堆積した冷たい葉は、闇の底で黒びかりする蛭のように、洋介の生命を、四方八方から吸い尽くしていく、邪悪な蠢きのように見えたのだ。

 これがはじめから洋介の最後だと決められていたならば、あの蜥蜴とりや柿の実取りや、いろんな子供っぽいいたずらのすべては何だったのだろう。

 病院のすべての壁が静電気を帯びたようにぴりぴりと反撥し、ドライアイスのようによそよそしく思われた。

 骨盤の底から突き上げてくるような濃い悲哀のため脚腰が立たず、両足の関節は、まるでごしごしした骨だけで組み上がっているかのようにいうことをきかなかった。

 辛い夜、ああ、何て辛い夜……。

 独りで家にうずくまっているのであるから、何も連想しないことがいちばん楽なのに、タエは自分の心やイメージの動きを、押し込めることがどうしてもできない。

 こうしているあいだも夏草が怖ろしげに伸びあがり、沼の水面に垂直の影をなげかけ、彼女の底知れないほどの青い不安を尖らせてくれる。

 思い出の辛い掘り返しごっこ。

 もうその苦い反復は日々の遊びのようになっていた。

 過去の甘い温もりの豊かな記憶から、不意に現実にぶちあたる。

 その傷口をこするような痛み。

 むかしを思い出すたび、結局、最後は現実にもどらなければならないので、そのぶちあたった跡が、赤くただれた傷のように、じくじくと膿んでしまう。

 憂いの夏。

 彼女は長椅子に座り、弱くなった歯で、氷を噛む。

 透明な結晶の中に、銀の冷たい火花の走ったような模様が見える。

 コップの底で氷の崩れるささやかな音まで、彼女の心に響いてくる。

 暗く大きな家の底で、沁みるような孤独を抱いて、老いた母は氷をかじる。

 

 


3

        

「こんにちは。ごめんください」 

 白い陽が雑木林の木立を斜めに透かし、霞むような薄灰色に景色を照らして、今日もまた蒸し暑くなりそうな午前中だった。

 昨日の激しい夕立のため、雨水をすっかり吸い込んだ黒土は、しだいに昇ってゆく太陽に温められ、いたるところでゆらゆらと水蒸気を吐き出している。

 石垣の脇でうなだれていた幾つものひまわりが、あちらこちらでゆっくりと顔をあげた。

 十時半を少しまわったころ、客があった。

 思っていたよりすこし早かったので、タエはあわてる。

 あの電話の客だろうと思ってうかがうように小窓を覗いた。

 荷物を下げた若い女が、白い帽子の下で顔を影にしていた。

 曇ったままの鏡を拭いて、皺の多い顔を写し、薄くなった髪の毛をなでつけて、彼女は自分のいかにも田舎の老婆然としたみすぼらしさを、何とかごまかせないものかと思った。

 親類縁者ではない客など、息子の葬式以来ひさしぶりだし、だいいち「マダム」なんていう人種に、この大きなだけの暗い家はどう見られるだろうか。

 それに、トイレに立たれたら一大事だ。

 匂いはひどいし、もう少しちゃんと掃除をしておけばよかったのだ。 

 タエは奥の太い柱のところで伺うように息をひそめ、もう一度「ごめんください」が聞こえた瞬間に、出ていこうと決めた。

 猫が足元を左右にくぐりぬけ、しっぽをぴんと立てたので彼女はシィーッといって怖い顔をし、唇に指をあてた。

「ごめんください。秋津さーん。ごめんくださーい」

 いかにもいままで奥の井戸で洗い物でもやっていたかのように、タエは澄まして水を切り、手を拭い、

「はい。何か」

 といって顔をあげ、腰をかがめた。

 暗い入り口で逆光になった女は、ぺこんと頭を下げた。

「先日はとつぜん、失礼いたしました。わたくし、吉井友希子と申します」

 

 思ったより女はずっと若く、学生みたいに涼しげで、初対面の相手を真っすぐに見ることのできるよい表情をしていた。

 タエはまず、上から下までじっくりと睨み、固く握り締めていた拳をゆるめ、それから何だかすっかり拍子抜けしたような気がした。

 もっと肉感的でけばけばしく、神秘的に見せようとしてわざとらしく目を隈どった、よくいるような化粧の濃い玄人の女を予想していたからである。

 きっとあのひとのよい洋介を、厚化粧でだまくらかしたのだろう、そんなふうに母は決めつけていた。どうもある時期から息子のアパートの雰囲気が、がらりとかわったものだ。 

 けれども実際に目の前で聞く女の声も、電話とは大違いで、ただ印象として変わらないのは、はっきりとした物言いと、世間に対しての振る舞い方を心得ているといった、若く小気味良い自信がその口調に感じられることであった。

 彼女は日傘と白いブラウス、少し日に灼けた小麦色の丸い肩、それに荷物といった簡単な姿。

 女にしては眉が濃いのがいささか特徴的だったが、真っすぐ目を合わせて話してくる少女めいた顔立ちに、タエはなんとなく恥ずかしい好意をおぼえた。

 バーのマダムというよりは、これでは何年か前にレポート作成のため家に訪れて来た東京の農業大学の女子大生のようではないか。

 あるいは意外に育ちのよいお嬢様かも知れない。 

 タエは急に不安な雲が晴れたように、大袈裟な表情をして彼女を両手で手招きし、がらんとした家の中へ呼びこんだ。

 

 畳が奥まで鈍くひかり、あたりはしーんとして微かに線香臭く、陰鬱に控えた仏壇が黒光りしていた。

 二人で廊下を通るとき、襖を隔てた八畳の窓から覗いている緑が、金色の光の輪郭を帯びた葉の一枚一枚をはっきりと際立たせ、美しい印象を与えた。

 庭には夏の日差しが満ちていて、家の内部は、沈んで暗い。

 ひまわりの毛の生えた大きな葉の重なりに、大きなアゲハ蝶が戯れていた。

 チーン、と鉦が響いた。

 夏の芯を打つような沈鬱な音が、黒く古い柱にしみた。

 仏壇のある間で正座をし焼香をしている女の白い後ろ姿が、見事にすっきりと背筋の通っていることに、タエは妙な感銘を覚えた。

 娘を持ったことのない彼女は、後れ毛の見えるほっそりとした首すじあたりに、彼女の世代では決して得ることのできなかった、若い女の気品のようなものを感じた。

 こうなるとお尻の下で組まれた白い靴下が、柔らかく汚れているのまで慕わしい感じがする。

 気押されるような感じのままお茶を薦め、ふと若い人には冷たいものの方がいいと思うと今度は冷蔵庫の麦茶を薦め、会話が途切れるとそわそわと中腰になり、シケかかった煎餠を薦めた。

 女は姿勢よくソファに座り、出てくるものすべてに遠慮せず口をつけた。

 遠慮しないことに、驚いた。

 しかもそのことに、自分はちっとも不快を感じていないのに、二度驚いた。

 最後にタエは夏ミカンをふたつ、ガラスの皿に載せて持ち出した。

 彼女の手のひらに余るほどの大きさのミカンを取り出し、果物ナイフで切ろうとすると、力が入らず横にすべった。

 すまなそうな情けなそうな顔をしているタエから、娘は笑いながらミカンとナイフを奪い、片目をつぶって力を入れ、ざっくりときれいに割ってよこした。

 白い薄皮の部分と、細かい房のぎっしり詰まった肉の緻密な部分とが、皿の上で大きな鮮やかな切断面を見せていた。

 周囲に柑橘類の植物的な酸の匂いがいっぱいにたちこめる。

 あんなにほっそりとした腕のどこにそんな力が秘められてのだろうと、タエは目を見張った。

 砂糖をまぶし、酸っぱさに顔をしかめながら、ふたりは食べる。

 古い型の扇風機が、ひくい音をたててまわっていた。

 ――世田谷の千歳船橋の『サビーヌ』という店。

 彼女は雇われママに過ぎず、オーナーは別にいること、桜上水の電気工務店に務めていた洋介は、週に一度はかならず店に顔を出し、いつも同じ席に座り、素朴な家庭料理ふうのつまみを好み、比較的おとなしい客であったこと。他の客とのいさかいもなく、にこにこと隅のほうで話を聞く温和なタイプであったこと、悩み事を持ちかけると諄々と丁寧に説き聞かせ、それが厭味ではなかったことなどを、笑顔をまじえて語った。

 話に興が乗ると「洋ちゃん」という言葉が二度ほど混じった。

 ふたりは何度が感傷的になり、鼻や目を押え、涙ぐんだ。

 

 あのやんちゃ坊主が、そんなに落ち着いた人間に育ち、その朴訥さを愛され、ひょっとしたら周りから信頼されるような男にすらなっていたことに、母は感動を覚えた。それにしても、そんなにいい息子を――何と運命は残酷なことだろう。

 会話の途中で「そうだ、忘れていました」といって、女は何か鮮やかな包み紙につつまれた東京の和菓子を置いた。

 屋根の向こうに、行く夏を貪るようなかまびすしい蝉の声を聞き、しだいにお互いの気持ちはほぐれていった。

 どのくらい店に来ていたかと聞くと、

「そうですねえ、もう、三年ぐらいじゃないかしら。あたしがあの店に出てから二年ですから」といった。

「お店、大変でしょう」

 訳のわからないまま、遠慮がちに尋ねた。

「きっと嫌いじゃないんだと思います。男の人が酔っ払っても、そんなに嫌にならない。なかには無理やりお酒を飲まそうとする客や、誘おうとするお客さんもいますけど、酔っ払いのあしらい方知ってるから……」

「あんた、でもまだ若いだろうに」

「大学をやめて、演劇をやっていたんです。お金のぜんぜんない劇団で、みんなアルバイトで稽古場を借りたり、衣装を作ったりしていたんです。劇団ザジというところ。学生さんだったら知っている人もいるかも知れないけど。わたし、新宿でそのころから飲屋のバイトを手伝っていたりして、そのままずるずるとお店に出てるのが、当たり前みたいになっちゃって。これでもカクテルの作り方とかけっこう、ちゃんとしてるんですよ。洋介さんもたまに、マティーニなんて頼んじゃって」

 友希子はおかしそうにくすくすと笑った。

「女優さんねえ」

「そんなたいしたもんじゃ、ウフフ……。でも主役は二度くらいやったことがありますあんまり上手じゃなくって、演出家と看板女優のヒトに叱られたけど」

 友希子はひとりで笑ったり、顔を赤らめたりしながら語り続けた。

「できてるんです、そのふたり」

 と彼女が声をひそめて言い、ほう、とタエは感心した。 

 

 不意に仄暗い欄間から、こぼれるような黄色いものが飛び込んできた。

 その小さな生き物は宙でヒラヒラと踊るように天井を行き来し、金色の粉をふきながらしばらく暗い部屋の片隅で上下していた。

「ここは、アゲハの通り道になっているのよ。裏山に山椒があるし」

「へーえ。うまく、出られるかしら」

 友希子は立ち上がり、掛軸の脇の竹の筒に差してあったウチワを見つけると、それで黄色い蝶をふわりふわりと壁際におびきよせ、八畳の部屋に開いた大きな窓から、大切そうに外へ逃がしてやった。

 まるで蝶と女とは、あらかじめ申し合わせたように、戯れているかのようであった。

 いたずらっぽく笑い、ウチワを持ってこちらに戻る彼女を見ながら、何て思いがけないことをする娘だろうと、タエは思った。

「これ、洋介さんのボトル。ジャックダニエルが半分ぐらい残っています」

 白い包みを解くと黒いラベルの四角い酒の壜が現れた。老母は眉をひそめ、顔を近づけ、子犬がはじめて毛虫でも見るかのような奇妙な表情をしながら、申し訳なさそうにうなずいた。「こんな立派なものを飲んでたのかい、生意気に」

「あのう」と彼女は家の奥を覗き、

「せっかくだから、洋介さんのお部屋、見せていただけないでしょうか。もしご迷惑でなければ」

「ええ」

 唐突な客の申し出に母親は驚いたものの、それでも息子の思い出を共有できる相手が現れたことに心が浮き立ち、一点を見つめたまま、素早く二三度頷いた。

 

 


4

 

 他人を入れ、家の部屋をひとつひとつ案内するという行為は、不思議なことであった。ふだん無自覚に見過ごしたところを、初めて見るような目で、見直さなければならない。

 二人は、観光地の建物でも巡るように、それぞれに新鮮な驚きをもって、部屋を巡っていった。

「これが洋介の勉強部屋」

 小柄なからだをいっぱいに使い、大袈裟な身振りでタエは説明する。

 女はうなずき、「勉強部屋」と小さく繰り返す。

「こっちが、子供のころの部屋」

 すると女も黙ってうなずく。天井の木目、柱の引っ掻き傷、床につけられた小さな自動車の絵。

 生み、育て、そしていま自分の知らないところで死を迎えた息子の部屋。

 母にとってそれは、記憶の走馬灯が巡っていくようでもあった。

「いま、ここに出てんのはね、あの子が高校から大学にかけて使った机。スチール製の新しいやつを買ってやるっていったんだけど、いとこに貰ったこの机がいいといってそのままなの。こちらに帰ってきたときは、ここで手紙を書いたり本を読んだり、居眠りしたりしてました」

 友希子という娘は笑い出し、その感触を確かめるかのように机に触れ、くすんだ天井を見上げ、そして窓枠を指で撫でた。

 壁に小さな落書きがあると顔を近づけてほほ笑み、ひとつひとつの印に、何らかの繊細な表情を浮かべた。

「あの」と老母はいった「何だったら、あの子が小さいときに乗っていた木馬も、みてみるかい?」

 友希子は、目を丸く見開き、驚いたような顔をしながらも「ええ」と答えた。

 

 あれはどこの押し入れだったかしら、と老母は実際的な表情に移り、顎にひとさし指を当てて考えこみ、押し入れの奥でガラクタと一緒に突っ込まれていることを、思い出した。

 埃まみれになったタエが抱えてきたのは、小さな黄色い木馬で、弓形の脚の枠があり、子供が乗ると前後に揺れるのであった。

 大きな黒い目。そして色褪せたたてがみ。

「まったく、彫刻刀でいろんな傷をつけてるんですよ。ほら、ここなんかこんなに深く。何度いっても聞きやしない」

 まるで息子がいま隣の部屋で、こっそりとこちらを伺っており、懲らしめのためわざと聞かせているかのような口ぶりだった。

 友希子はゆっくりと、木馬を揺らした。

「そうだ。虫の標本もあったっけ」

 母親はせっかく遠方から訪れて来た客を、できるだけ楽しませなければならないと心得、この家に残っている洋介の思い出を、可能なかぎり提供しようという使命に燃えた。 

 何だか息子が有名な偉人になったような、そして自分はその生家の案内人を務めているような、誇らしい気がした。

「クワガタだの、カブトだの、ずいぶんいろんなものをねえ。珍しい蝶なんかも集めてさ、学校の理科室に飾られたこともあったのよ」

 もう何十年も出していない息子の作った埃だらけの標本ケースを、納屋の奥から引っ張り出した。

 そう、あの子は几帳面なところがあったんだ、と母は思う。

 とっても几帳面な一面が。

 けれども箱と箱のあいだには蛛が巣を張り、そのほとんどは虫に食われ、ピンだけが鈍くひかり、かんじんの蝶々や甲虫じたいは、枯葉のようにちりぢりになっていた。「この玉虫なんて、ほんとうに宝石みたいだったんだけどねえ」

 埃だらけのガラスケースのなかで、ばらばらになった小さな紫や金緑色の羽を見ながら、申し訳なさそうに母はいった。

 いつか息子の記憶も歳月の中で人々から忘れさられ、こうなってしまうのかと思うと、たまらない気がした。

「木登りが得意でねえ、あの子は」と、彼女は話を続けた。

 思い出を語りつづけることにより、洋介の記憶がぬくもりを持ち、息を吹き返すかのようであった。

「裏の山の大きな樹はほとんど登ったんじゃないかしら」

 タエが古い黴臭いベッドに腰をかけると、

「わたしも、木登りは好きでした」

 といって、友希子も腰をかけ、両手の甲をスカートの膝の間にはさんだ。

「家の庭にいちばん好きな木があって、その木にジェームスって名前つけてたんです。変でしょう? いまだに何の木だか知らないんだけど、まっすぐできれいで灰色で威厳のある木でした。頼れる庭のボスって感じ。きっとジェームス・ボンドとかジェームス・スチュアートとか、子供の頃に見ていた映画の影響だと思うけど。

 母がね、凄い映画ファンで、昔のアメリカ映画を覚えてしまったんです。その木はね、何だか中年の渋くてかっこいい男のヒトみたいな、そんなイメージの木だったんです。賢くて、何でも知っていて、庭のリーダーみたいで、すんごく頼れる感じ。うちの父とは、似ても似つかないけど」 

「そうだねえ」

 とタエは、突然ひらめいたように、感に堪えたような表情で、皺だらけの両手をパチンと打った。

「そういう木は、あるもんだねえ。あんた上手いことをいう。うん、あるもんだ」

 

「わたし、小学生の頃、注意散漫で、よく窓の外ばかり見ている生徒だったから、先生にしょっちゅう叱られちゃって。それで恥ずかしくて泣いて帰ってくると、それでジェームスに登って、梢のてっぺんまで登って、泣きながら、いろんなことを話したりして甘えてたんです」

「女の子なのに。ご両親は心配したろう」

「ええ。下の方で、必死になって捜してました」くすくすっと娘は笑った。「捜せ、捜せって、もっと捜せって、私は呟いていた」

 何だかタエも急にうれしくなり、ポンと肩でも軽く叩いてやらなければ気がすまないような気分になった。

「一度、枝の股のところで眠っちゃって」

「あら、大変だ」

 タエはくるりと娘の方を向いた。

 すると娘も、そうなんですといわんばかりに、眉をしかめた。

「何十分居眠りしたかわからないんです。だって登ったときは明るかったのに、目がさめたときは、西の空が夕焼け空になっていたんだもの」

「よく落ちずに済んだねえ」

「ジェームスが、守ってくれたの……。寒くなったのと、鴉の声で目が覚めたんです。馬鹿ばかしいけど、何かそんなふうに考えるのって、ステキじゃないですか。樹って、柔らかくて、温かくて、体温があるんです」

 

(いい娘さんじゃないか)と、横顔を見詰めながらタエは思った。

(きれいだし。もう少し何とかすれば、本物の女優さんになってたかも知れないねえ。洋介も案外、幸せ者だったのかも知れない。それに、この娘が言うように、ほんとうにハンサムで優しい男みたいな樹というものは、あるもんさ。あたしも若い頃、まったく、同じことを考えたことがある。何の木だったか忘れたけど、確か、お寺の後ろの林に生えていた……) 

 不意に、タエは中腰になり、若い娘の膝をたたいた。

「アルバム見るかい」

 そして相手が返事をする間もなく、暗い奥の部屋の桐のタンスの中に入れられた何冊もの古いアルバムを、いそいそと取り出した。

 あれもこれもと出しているうち、だんだん抱え切れない量になり、数冊が落下して開いてしまった。

 友希子は大股にやってきて、四冊ほどを抱えてくれた。

 縁側の隣の明るい部屋のソファに、座る。

「運動会だよ、これは。駆けっ子が速かったんだけどね、あの子、もっと速い子がいてねえ」

「まあ」

 ふたりは熱心にアルバムを覗きこむ。

「学年で一番の子が同じクラスにいたから、洋介はいつも二番。悔しくてねえ、あたしも。だからおにぎりも、特別な焼肉入りのやつを作ってやったんだ。スタミナつくように。あたしのおにぎり、おいしいんだよ」

「これはお父さん?」

「そう、浮気者。ちょっと土地を削って金が入ったもんで、この頃遊び歩いてねえ。ほら何かキザったらしい写り方してるだろう。罰が当たって、肝臓悪くして、早死にしちゃったよ。フン」

「――似てるわ。彼に」

 彼という言い方に、老母はどきりとした。

 別のアルバムを開くたびに、老母と若い女性客は、何かしら発見して笑い転げた。

「あら、かッわいい」

 友希子は口もとに両手を当てて、声をあげた。

 四歳くらいの洋介が、新聞紙で兜を作ってもらって頭にかぶせられ、竹の棒をにぎりしめこちらを見ている。

 兜以外は裸で、何も身につけていない。まんまるのおなかの下には、幼いつぼみのような小さな突起がのぞいている。

 あっけない息子の最後。

 いったい何のために、あれらの日々があったのだろう。

  冷たい麦茶をふたりで啜りながら、あのやんちゃ坊主がまだその辺で網を抱え、虫捕りをしてかけまわっているような気がした。 

 母親はしだいに物悲しくなり、そわそわと視線をあたりにさまよわせた。

 扇風機だけなので、部屋の中は暑い。

 なんだかあの下手なとぎれとぎれのハモニカが、縁側の向こうから聞こえるようであった。

 

 

 


5

       

  墓地に行くには畦道を右に折れ、雑木林を過ぎて小高い山を越さなければならない。 そこはまた小学校に通じる道でもあり、思い出の多い風景でもあった。

 タエは、おなかがすくだろうといって、あり合わせのもので急いでおにぎりを作った。 

 女はそのまま縁側で、静かにアルバムをめくっていた。

 昼食など街道沿いのラーメン屋で食べてもよかったのだが、どうしても息子の好きだったおにぎりを、この娘にも食べさせたかったのである。

 竹藪に囲まれたココア色の小道を進み、汗をぬぐいながら蝉の声を頭から浴びるように聞いた。

  夏休みのためか、校庭にはほとんど子供は少なく、サッカーをやっている数人の男子生徒のみが、黄色いユニフォームで斑のボールを追っていた。

 職員室脇の駐車場に置いてある自動車のボンネットが、日差しにあぶられ、銀色に輝いている。

 小さなひっそりとした神社の裏を通り、ブランコやシーソーのある誰もいない公園を過ぎ、むかし洋介がクワガタやカブトを採りに行った櫟林に入った。

「この辺の子たちは、こうやって、枝にたかっている虫をおとすんだ。こうやって」

 小柄なタエは、樹の幹を、何度も足で蹴る恰好をしてみせた。

 

 赤松に囲まれた坂道を通り過ぎると、灰緑色の大谷石の石畳の向こうに、蹲ったような古い寺が見えた。 

 墓地は、裏手の山にあり、明るい温かな斜面に位置している。

 ところどころ親族たちの人影がまばらに見え、植え込みのあちこちから線香の青紫の煙りが立ちのぼり、一定の高さに立ちのぼったあと、同じ方向へと吹き流されてゆく。

 線香の匂いは、あたりの岩の湿った窪みにまで染み込んでいた。

 本堂のそばには、大きなしだれ桜が年輪を重ね、夏の温和な空を背景として、灰色の長く凄まじい枝をおびただしく垂らしていた。

 その太いいびつな幹の節々には、緑青色のかさぶためいた苔を貝殻のように生やしている。

 見上げると、ずいぶん高いところにも、ノキシノブの新しい葉をつんつんと吹き出させていた。

 木陰では石に溜まった水が暗くゆれていた。

 薮蚊が二三匹、透明にすんだ空気の中をふらふらと飛んでいく。

 本堂の脇の小さな池には、浮き草がかわいい葉を鮮明にひろげていた。

 物憂い暑さでぐったりとした風景の中、花と水を持ち、明るい土の斜面へと進んでゆく。

 疲れたような芝草が、灰褐色の葉を、沈められた石に添わせるようにしていた。タエが墓の前にしゃがむと、女もしゃがんだ。

 

 水をかける。

 黒灰色の石材の表面が、濡れて黒く輝く部分と乾いた灰いろの部分とに、鮮やかに分けられた。

 墓地の上の方の木立が、熱風でざわざわと揺れている。

 油蝉が高い梢で、意地汚く夏を惜しむかのようにじりじりと鳴いている。

 墓地を吹きぬける風のため、線香に火がなかなかつかず、ついたかと思うと、大量の薄青い煙を、周囲にもうもうとまき散らした。

 

 焼香が済むと、女は持っていた白い包みを開き、黒っぽいウイスキーの壜を取り出した。そしてまっすぐ前を向き合掌すると、すっと立ち上がり、壜を両手で包むようにして中の酒を、墓石にかけた。

 金褐色の光る液体が、直方体の石の角をゆるやかに這い降りてゆく。

 酒の匂いが、あたりいっぱいにたちこめた。

 娘の一連のからだの動きは、何か洗練された神儀のようであった。

 感傷的でなく、きりりとした品位があり、あたかも昔からそんな作法があり、それに則っているかのようでもあった。 

 少し残した酒を、もってきた小さな器に注ぎ、女と母親は墓の前で静かに口をつけた。 

 ふたりは、合掌したままそれぞれの言葉をつぶやき、墓地のてっぺんの梢ではあいかわらず夏を貪婪に貪る蝉たちが、呆けたように鳴き続けていた。

 

 帰りは寺の反対側の小道を通った。

 向こうの丘に開発された住宅街が遠望でき、見晴らしがよい。

 しかしタエにとっては疲れる道でもあった。

 それに、飲みなれない酒が効いたのか、くらくらと眩暈がし、砂利道でよろけた。

「お母さん、だいじょうぶ」

 あわてて手をさし出した女の口から、そんな言葉がもれた。

 相手も意識したのか、ハンケチで首すじを拭いながら暑いですね、何て暑いんだろうと、空を見た。

 両側を、灰色の櫟の緑で囲まれ明るいトンネルのようになった砂利道は、左右の轍のところがタイヤの跡で削られて、真ん中が高くなっており、歩くには不便であった。

 疲弊した植物が、あたりにぐったりと長い葉を下げている。

 小石の丸い粒々の上には金色の木漏れ日が触れ、風のそよぎとともに微妙な青い陰影を投げかけていた。

 疲れのためにタエは言葉が出てこなかったが、無言であることがそのまま充実であるかのような、ひさしぶりの山歩きであった。

 トウガラシのような紅色のしっぽをした赤トンボが、白い道の真ん中をすいすいと飛び、透明な羽をきらきらさせて、すっと櫟の葉の向こうに消えていった。

 枝葉のあいだの空は澄み切り、幾つかの綿状の雲が、遠い丘陵の建物の上に浮かんでいた。その向こうには、柔らかく幼いような色をした青空があった。

 

「東京の生まれかい」

「いえ。北海道です」

「ああ、寒いとこ……」

 女は、優しく、笑った。

 片手の指をそわせて軽く髪をかき上げ、涼しげな目をして、微風を楽しむように、遠くを眺めた。

 自分でも、なぜこんな会話しかできないのだろうと、タエはもどかしく思った。

 つまらない学のない田舎の老婆だと、自分を恥じた。

 ときどき急傾斜のところでは、手を引かれながら、段のある道を歩いていった。

「いろんなお客がいて、大変でしょう」

「ええ。でも、わたし、人間が好きですから」

 女は顔をあげ、上目遣いをして確信するように、そういった。

 タエの物事の視点の中には、人間というものを、好きとか嫌いとかの対象にするような発想はなかった。

 それは余裕の産物のようにも聞こえるし、苦労なく育った若い者の考え方のような気もする。

 しかしこの目鼻立ちの整った二十代の娘の口から、直にそういわれると、それはいかにもすがすがしく聞こえた。

 もし洋介が生きていて、こんな嫁を連れてきて、自分と一緒に住んだらどうだろう、一瞬タエはそんな考えを思い浮かべ、それをほとんど不快に思っていないことに気づいて、自分でもうろたえた。

 

「このへんで休みましょうか」

「ええ」

 見晴らしのよい高台に出て、日差しで熱を持った石を避け、木陰のひんやりとした鈍色の岩に、ふたりは座った。

 また赤トンボが空中でふるえるように静止し、物珍しげにふたりを観察したあと、サッと風の向こうへ流れていった。

 明るく霞んだ風景の中に、工事中の河川敷や小さな住宅地や、一列になって自転車をこいでゆく子供達が見えていた。

 おにぎりと水筒を出した。

 水筒には、裏の崖の冷たい湧き水が、たっぷりと詰め込まれている。

 ピクニックみたいといって、女は笑った。

 あの子の父親が帰ってこなかったときは、日曜日なんかよくこうして洋介とふたりでピクニックに行ったんだよといって、タエも笑った。

 赤トンボが岩の上にとまり、透明な影を落としていた。

 

「おいしい」と娘はおにぎりを食べながらいった。

「そうかい。シャケの入ったやつが、あの子は好きだったんだ。卵焼きもねえ」

 不意に喉の奥が、絞られるように、痛くなった。

 鋭い酢のような悲哀がもちあがり、タエは咳込み、からだを前に倒した。

 嗚咽がこみあげ、風景が見えなくなった。

 喪失したもの、息子が生きていたならば起こったかもしれない数々のこと、会話のある新しい生活、夕暮れの赤い田んぼに響いているハモニカの音。

 暗い大きな家の底で、氷を噛みしめる日々。

 これから続くであろう、永い孤独な暮らし。

 そんなものが咳込むタエの頭の中を、めまぐるしく廻った。

 長いこと彼女は、小さなからだを震わせていた。

「おいしい。お母さんのおにぎり、おいしいわ」

 娘は、老いた母の背中を撫でながら、何度も耳元でそう繰り返した。

  

 白い布で包まれた空の黒いボトルは、母親に手渡された。

 ラベルには、酔った上機嫌さで書きなぐったのか、マジックインキで乱暴に「洋介」と書き込まれていた。

 その踊った黒い文字は、息子そのもののように思われ、その重みすら尊い気がした。 

 そして、ただ一本の酒を、大事に抱えて東京から訪ねてきた女に、何か敬意のようなものをタエは感じた。

 死んでいった者への気持ちの整理のために、この二人で、どうしても遂行しなければならなかったひそやかな儀式のようにも思われた。

 別れる時間が来た。

 青あおとした夏草のそこかしこは、すでに黄色く色づき、秋を待つ風景のたたずまいがあった。 

 女は白い日傘を開け、明るく淋しげな畦道の途中で、何度か黙礼した。

 ゆるやかな電線の張った田圃に、青くて細い影が見える。

 老母はそのたびに両手を膝に重ねながら、ふかぶかと頭を下げた。

 遠くまで続く白い道が、風景の中に霞んでいる。

 柔らかい青空に、羊のような雲がいくつも並んで浮かんでいた。

 この娘とは、もう永遠に会うこともないだろうと思うと、解放されたような気持ちもあり、また寂しくもあった。

 赤トンボの群れが、長い透明なすじのように流れていった。

 二人のあいだに横たわる田園のふかく柔らかな緑の広がりを、夏の終わりの風が、爽々と吹き渡っていった。

                                   (了)



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