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cock-a-doodle-doo!!

 時計の針は、だらり六時半を指している。 布団を並べて眠る妻はまだ目を閉じたまま、籠の中では微かに小鳥の囀りが聞こえていた。
 目覚まし時計が朝を告げるまであと三〇分。隣に眠る健やかな寝顔もあと三〇分。三〇分が経てば、寝ぼけ眼の君が私の肩を揺すり一日が始まる。
 雨戸の隙間から僅かな光が差し込み、私は薄暗い部屋の中で天井の木目を眺めている。細かな年輪に囲まれた節はバックベアードの目のようで、ジッと見つめていると眩暈がしてくる。私のその目に促されるようにして、目覚まし時計を解除した。
 妻に気づかれないようにそっと蒲団を抜け出すと、ブランケットで遮蔽された籠の中で小鳥が羽音をたてた。私は口元に人差し指を立てて、寝室を後にした。いつもならばスーツに袖を通すところであるが、デニムパンツにダッフルコートを羽織って、家を出た。
 立ち並ぶ住宅の間をすり抜けて、大通りに出ると、すでに多くの人たちが行き交っていた。車を運転する人、バスを待つ人、駅へ向かって歩く人。様々な人が様々な方向へ進んでいた。そして、それを傍観する私を含め、誰もが着実に、一方向の時間軸にそって流されていく。
 ポケットの中に百円玉と十円玉を見つけ、自動販売機で缶コーヒーを手に入れた。無表情を繕って、町の様子を眺めていると、一人の少年が私の視界に飛び込んできた。両肩に掛けたギターのソフトケースを垂直に持ち上げ、金属のアクセサリーをふんだんにちりばめた、金髪の若者。ライヴ後に夜通し騒いで、朝帰りといったところか。

「朝の光って超ウザイ」なんて、言い出しそうな不機嫌な横顔だ。
 私の生まれた一九七七年はセックスピストルズが、クラッシュが、ダムドが、トーキングヘッズが、テレビジョンが、エルビスコステロが、その他、多くのパンクスがデビューし、アンダーグラウンドシーンであったはずのパンクロックが、大衆化した年だ。
 だから私はパンクの申し子なのさ。
 なんてモンでもないけれど。私がロックンロールの虜になったのは、その二〇年以上も後のことで、バンドを始めたときには彼らはすでに伝説化されていた。当時のパンクを特集する記事は、いまだに多い。しかし、いい中年になった彼らに当時を振り返らせる企画は、あまり見栄えのいいものではない。一時の衝動だから輝くのであって、特にパンクのアイコン的存在であるセックスピストルズが、一九九六年以降、再結成を繰り返しているのには、正直閉口させられる。
「パンクはスタイルじゃない。アティチュードだ」などと言っていたのは、ジョーストラマーだったかな。パンクのもたらした文化は、今でも多くの若者を虜にしているけれど、結局、一つのスタイルとして定着してしまい、私の視界を通り過ぎたあの少年が、世界を揺るがすとは到底思えない。
「今の自由は俺達が勝ち取ったモノだろう」
 歳をとったジョンライドンは言っていた。あの言葉はあながち間違いではない。しかし、この日々の物足りなさも、先駆者達がもたらしたものなのだ。
 もう何をしたって二番煎じなのだから。

 物思いにふけたところで、私は河原に向かって歩き出した。河原までの道のりは、民家や小さな畑や商店が並ぶ退屈な道のりだ。煙草でも吸えばこの道のりを何とかやり過ごせそうだが、私は吸わない。学生時分に何度か試したけれど、咳が出るだけで、その快楽を享受することはなかった。憧れのようなものもあったけれど、薄っぺらな思いのために努力することが、私にとってはとても格好悪いことのように思えたのだ。そんな言い訳がましい理由で、煙草は吸わない。
 缶コーヒーを飲み終え、行き場の無くなった両手をコートのポケットに突っ込んだ。

 冷たい空気の中で、無表情を繕うことに息苦しくなってきた頃、ようやく河原の土手にたどり着いた。
 この町で暮らすことを決めた理由の一つは、川に近いということだった。その割には、河原に足を運んだことなど数えるほどしかない。それでも、生活の中には、やはり河原に足を運んでしまうシチュエーションというものがあって、それがちょうどこの時なのだ。
 だんだんと昇っていく太陽に照らされる川面は、まだ眠たそうに瞬いている。川の流れに身をまかせ――、川の流れのように――、そんなスタイルが昔から日本人は好きだ。でも、きっと、日本人だけではない。川を題材にした歌など、世界には無数に存在しているのだろう。この世で絶対的なものとは、秒速およそ三〇万キロメートルという光の速度だけであり、時間も空間もその相対として存在しているということらしいが、この緩やかな川の流れを眺めていると、これこそが絶対的なもののように思えてくる。だからこそ、ヒトは川を求め、川を歌うのだろう。
 小難しい顔して、川に向かって眉間にしわを寄せていたところ、突如現れた人影に見事に驚かされた。土手に上ってきたのはさっきのパンク少年だった。
「あ――」
 私は思わず声をあげた。少年かと思っていたその若者が、実は少女だったからだ。目にはブルーのカラーコンタクトレンズを入れていて、透き通るような金髪と、その白い肌から、北欧系の神秘的な雰囲気がただよっていた。
「きれいだね」
 なんて言えるはずもない。きれいなものを目にしても、きれいだと口にすることなど、最近では、滅多に無い。対象がヒトとなればなおさらだ。でも、それができれば、もう少し鮮やかな生活が送れるような気がする。
 随分と長い時間、彼女に見とれてしまっていたようだ。彼女はすれ違いざま、眉間にしわを寄せた。
「何この人、きもい」
 そんな彼女の表情が痛い。
 朝の河原には、早くから犬を連れて散歩する人や、等間隔に並ぶ釣り人の姿が見受けられる。ここでは絶対的な川の流れに合わせた、ゆったりとした時間が流れていた。
 しかし、私が求めているのは、河原のゆったりした時間でも、大通りのせわしない時間でもなかい。この辺では一番遠くまでが見渡せるこの土手の上から、単調な日々を抜け出す糸口を探している。
 もし、彼女に声をかけていたなら――。

 不意に、静寂をかき消す金属音が響き渡り、顔を上げた。鉄橋を渡る列車が、軽快なリズムを刻んでいた。

 私の生まれ故郷にも、同じように川を横切る鉄橋がかかっていた。まだ小学生の頃、夏休みの宿題として、その鉄橋を通り過ぎる、オレンジ色の列車を写生しようとしたことがあった。子どもながらにも、動いている列車を描くことが困難だと判断し、カメラを持って河原に出向いた。写真を撮ってから、それを絵にしようと考えたのだ。

 結局、その写真は絵にならなかった。私は画用紙一面に河原の芝生だけを描いたのだ。その際、緑色だけは使わないようにした。完成したその絵は、担任の先生から「いつまでも見ていたい絵です」などと、絵としては一〇〇点満点のコメントを頂いた。

 しかし、それはとても作為的な絵だった。決して私の感性が優れていたわけではないのだ。そもそも、私は絵がうまく描けなかった。はじめに写真に収めようと考えたのもそのためだ。それでも、鉄橋を渡る列車を上手に描く技術は無かった。人より秀でたことをするためには、人のしないことをするしかない。そのことを幼いながらに知っていたのだ。そして、どんなことをすると大人が喜ぶのかも知っていた。
 先生の評価は手放しで喜べなかったけど、罪悪感もなかった。嘘つきでもいい。だって、人を感動させることをやってのけたのだからね。
 本気でバンドに目覚めたのは随分遅かった。なにせ、もう大学3年生になった頃だ。満足に演れるようになった時にはもう大学生活も終わりの頃だった。私たちは、好んでセックスピストルズやラモーンズ何かを演奏した。それしかできなかったというのも、ひとつの大きな理由だ。演奏したと言い切れるものでもない。
 私はとにかく大声張り上げ、ギターの弦がブチ切れるまで引っ掻いた。メンバーは3人。それ以上はいらねえ。俺達最高!
 しかし、結局、ライブハウスに立つこともなく、卒業とともに解散。
 私は、だんだん遠くなるパンク少女の背中を見送り、そんな昔話を断片的に思い出した。
 私はいつでもギターを抱えている。

「ロッケンロー!」

 私は驚いた。

 あまりに大きな自分の声に驚かされた。その声は、向こう岸の釣り人も顔を上げるほど響き渡った。一瞬の沈黙の後、急にこみ上げてくる恥ずかしさをかき消すように、パンク少女に背中を向けて駆けだした。
 彼女は不機嫌な顔で振り向いただろうか。それとも、朝一番のニワトリ程度にしか聞こえなかっただろうか。


六畳一間のハウスロッカー

 弾けないギターのネックを握り、ツルコケモモに吠えてみる。
 うらぁぁぁぁぁぁ!
 小さな赤い実がちょっと揺れた。いいんでないの。今日は、なんだかいけそうだ。ギターをスタンドに戻し、油にまみれユニフォームを詰め込んだバックパックを背負って、家を出た。
「1、2、3、」
 アパートの階段を駆け下り、自転車のスタンドを蹴り上げる。
「15、16、17、」
 前かごにバックパックを突っ込んで、サドルにまたがった。
「20秒ルール!」
 長時間地面に触れていると死んでしまうのだルール。
 ペダルを踏み込むと、車輪がキコキコ音を立てる。服にまみれた油を塗り込んでやりたいと毎度思う。自転車がスピードに乗ると、キコキコが正確なリズムを生み、脳味噌の中でオリジナルナンバーが流れ出す。
 ♪俺は下町少年 未だ大きな夢は見ないけんど
  廃屋の天辺で 見渡せる限りが 今僕の世界
  昨日川原の土手で 君を泣かせて 僕も家で泣いた
  だけど下町少年 いつか大きな夢が見れるから♪
 六畳一間のハウスロッカー。スリーコードが循環するこのナンバーは、まだ誰も聞いたことがない。
 加速して、加速して、キコキコがコキコキになったところで、急ブレーキ。ゴムタイヤが地面を削り、ブレーキの悲鳴が夜空に響いた。
「ガソリン満タン!」
「馬鹿言ってないで、早く、支度しろ」
 そりゃ、ないんでないの。
 弛んだ皮膚まで油がしみこんでいるおっさんに顔を背け、斜向かいのファミレスに目を向けた。ミニスカートの彼女は、今日もこっちに尻を向けてテーブルを磨いている。
 ガスボーイとウエイトレスの恋なら上手くいくだって?そんな馬鹿なこと言ってるから、旦那に自殺されるんだよ。あの子はこっちに気づきもしない。センスも将来も感じさせない小汚いおっさんと、無意味な会話を繰り返して、朝までやり過ごすのが関の山だ。
「おっさん、俺、一抜けた」
「馬鹿言ってないで、早くしろ」
 オリオンに向かって、俺は吠えてみる。
 うらぁぁぁぁぁぁ!
 三ツ星がちょっと揺れた。
「早くしろ」


ぼんおどり

 疲れた。ひどく疲れた。腹が減り、喉が渇き、唾液も固まった。嗚呼、それはそれはもうひどいひどい有様だ。汗と熱に塗れた体を地下鉄のシートに沈め、両足を投げ出し、頭を垂れる。俺は、今、乗客マナー最低位に位置する。
 誰かが俺の足につまずいた。そして、声を荒らげている。嗚呼、五月蠅い。俺はレールを削る金属音に聴覚を集中させ、罵声をシャットアウトする。すると、硬質の鋭い感触が脳天を打った。
「たっ!」
 脳天が開栓されシャンパンが吹き上がる。貧相な想像力とともに顔を上げると、小人のような爺さんが杖を振り上げて、何やら喚き散らしていた。
「○×☆●スペペペペっ!」
 おいおい、通訳はおらんのか。辺りを見回せば、誰もが目を反らせていた。唯一、俺に視線を向けていたのは指をくわえた餓鬼だった。でっぷりとした体を揺らしながら、じっとこちらを見つめている。肉に埋もれたつぶらな瞳は実際のところ何が写っているのか定かでない。首は定位置のまま固定され、関節が機能しなくなっているようにも見える。
「醜い餓鬼だな」と、俺は呟いた。
 隣の母親であろう女は、携帯電話の操作に余念がない。餓鬼に爺さんの通訳を頼むわけもいかず、俺は途方に暮れた。ここが異国ならば、言葉の通じぬ相手には、ひとまず笑顔の一つも浮かべればいいだろうが、あの形相から察するに、笑顔を浮かべたところで火に油だ。
 爺さんの目的はおそらくこの座席であろうと察せられる。プライオリティー・シートと記された三人掛けの特別席。そのド真ん中で足を広げて占領している俺が気に入らないのだろう。しかし、どうだ爺さん。この俺とあんたとで、どちらのプライオリティーが高いと思う?
 俺は、たった今、世界を救ってきたところなのだ。申し訳ないが詳細を語ることはできない。何故なら最高機密だからね。というわけで、俺と爺さんではどう考えてもヒトとしてのプライオリティーが雲泥なわけよ。そして、俺はひどく疲れている。何故って、繰り返すようだが――実際、繰り返すのであるが、俺は、たった今、世界を救ってきたところなのだ。残念ながら、この席を爺さんに譲る理由はない。
 とはいえ、脳天をかち割られ、「○×☆●スペペペペっ!」などと喚かれ、それでもジッと座っているのもどうだろう。真っ先に浮かんできたのは、延髄辺りに手刀を振り下ろして、永遠に黙らせてしまうという手段であった。しかし、こんなところで面倒を起こすわけにもかない。なぜならなぜなら、最高機密の世界救済を終えたばかりなのだから。
 嗚呼、俺は残りの人生を、話したくとも話せない最高機密に縛られながら
生きていかなくてはならないのか。いっそのこと、誰も寄せ付けぬほどの猟奇じみた踊りをしながら、アヴァンギャルドに余生を送るほうがいいのかもしれない。我ながらナイっスな思いつきだ。
「スペペペペっ!」
 俺は、突如、爺さんに共鳴するように、喉を振るわせた。そして、貧弱な両肩を掴んで立ち上がる。俺は2メーターを超える巨漢なのだ。小人の爺さんなど軽々持ち上げることができる。そのまま回れ右の動作で旋回し、爺さんをプライオリティー・シートに沈めた。
 爺さんは呆気にとられ、阿呆面で俺を見上げた。なかなかナイっスな表情だ。その表情が絶えないよう、俺は追い打ちをかけた。斜め四十五度に天を臨んでは、奇妙に立ちつくし、視線の先にひょいと両手を突き出した。続いて、顎を引いて首をぐるりと旋回し、反対の天を臨む。そして、やはりひょいと両手を突き出した。そいつを左右交互に繰り返し、いつまでも反復運動を続けた。爺さんへのプライベヴェートダンスだ。
 爺さんを発狂寸前まで追い込んだところで、列車が駅に滑り込む。そこで、俺は旋回し、なおも反復運動を繰り返しながら、ホームへ下りていった。
 今日は大晦日だ。


くすぶりという名のぜんまい

 美津濃は定期的にイライラしている。女みたいなヤツだ。
 月一の定期ライヴが近づくとそうなのだ。ローリングソバットという名のお笑いコンビを組んでおり、気が弱いわりに、担当はツッコミである。

 1枚600円のチケットを売りつけられ、何度かライヴには足を運んでいる。典型的な笑いが、典型的な笑いを誘い、典型的な笑い声が響きわたる。そんな典型的なお笑いライヴだ。素人ながらも、ある程度の固定ファンを抱えており、場の雰囲気も悪くない。
 それにしても、お笑いライヴは、音楽に比べると非常にチケット代が安い。舞台に上がる側も、たいして金を積む必要が無いようだ。10組くらいが5分程度の舞台をこなすイベントになるのだから、1組あたりの金額は高が知れているだろう。

 そんなお手頃感がありがたい反面、見るものに苦痛を伴うことがある。値段と質は比例するのだ。見なきゃいいじゃんと言われれば、それまでであるが、1人の持ち時間は5分程度である。ローリングソバットを見に来たといっても、その5分のために600円を払うのは、少々勿体ない。そんな貧乏根性で、つい最後まで見てしまうものだから、多くの場合、首筋に妙な脂汗が浮かび、そして、ライヴが終わる頃には、魂が抜かれて、廃人寸前にまで追い込まれている。舞台上の皆様が、手抜きなどという高度なテクニックを駆使している訳ではない。それでいて、俺達サイコーという輩ばかりだから閉口させられる。
 一度だけ、打ち上げに参加したことがある。美津濃の友人ということで、ファンの女の子に随分とちやほやされ、悪い気はしなかった。酒が入ると良く口が回る。ただそれだけなのに、「面白~い」などと言われれば、そこいらの自称サイコー芸人よりも、俺のほうが格段にキレると勘違いさせられた。
 そして、それは、まだ暑い季節のころ、俺はマモルヤマモリと名乗り、初舞台を踏むことになった。
「HEY、YO、チェケラッチョ、メーン」
 ヒップホップ調のBGMを受けて、訳の分からない奇声を発しながら舞台袖から現れた。そして、中央に置かれたデスクに座り、ラジオのDJ風にヘッドホンをつけた。
「さて、今週もはじまりました。マモルヤマモリの今夜もトゥナイト」
 ウインク一つでサイドスローに客席を指さすと、俺の顔から血の気が引いた。
 絶対に笑いません。
 そんなオーラが客席から押し寄せてくる。ハコの中は常連芸人と観客の連携から成り立っている。新顔の初舞台は、若奥様の公園デビューに近いのだ。
 念のため用意しておいたサングラスを、ポケットから取り出した。そして、気を取り直し、デスクの上から一枚の紙を拾いあげた。
「えぇ、最初のお便りです。ペンネーム山本博司」
 ペンネームじゃないよ。
「最近、新宿で気になる木星人カップルがいるんです」
 気になるよ。
「彼女が木星語で言うんです」
 分かるのかよ。
「新宿ってガス臭いわよね」
 木星程じゃないよ。
 心の中で己にツッコミを入れる。想定していた4回の爆笑は、1度たりとも起こらなかった。俺は気が遠くなり、サングラスの陰で目を閉じていた。
「リクエスト曲は、オジー・オズボーンとランディ・ローズで、『ふたりの愛ランド』をお願いします」
 理解されないだろうと諦めてた最後のオチで、ようやく一人の馬鹿そうな男の笑い声が聞こえた。顔面蒼白。あと2センチ鼻が高ければ、駅前留学の英会話講師ができただろう。全部で5通のお便りを用意していたが、

「ここで一旦CM」

 と、言い残し、2分で退場。芸人としての初舞台はみごとに撃沈された。

 舞台袖で、美津濃が、項垂れた俺の肩を叩いた。
「やるなぁ。初めてとは思えないよ。結構面白かった」
 ウケの悪さが面白かったのだろう。俺は無言でその場をやり過ごし、舞台裏を通り抜けた。用もないのに便所に入り、便座に腰を下ろした。ベニヤ板の薄いドアの向こうから、調子のいいやりとりと笑い声が響く。
「どぅもぉ、ローリングソバットですぅ」
「最近ねぇ、僕、ペット飼い始めたんですよ」
「へぇ、何を飼っているんですか?」
「シャコ」
 俺は笑いをこらえてむせ返った。ちょっと面白れぇじゃねぇかよ。
「シャコって、寿司ネタじゃないですか」
「いやいや。そんな高級なもんじゃなくて、ウチのなんかは雑種ですよ。ハハハ」
 ハハハ、美津濃の作り笑いと俺の空笑いが重なった。ハハハ、惨めだ。ハハハ、舐めんな。ハハハ、ざけんな。俺はレバーをひねって便所から抜け出した。舞台袖では、一方は学ランに水泳帽、もう一方は上半身裸の黒タイツがスタンバイしている。ハハハ、舐めんな。ハハハ、ざけんな。こんな低能な奴らと一緒にすんな。
「辞めさせてもらうわ」
 何故か最後だけ関西弁で締めくくり、満足顔のローリングソバットが小走りに帰ってきた。
「おっし、行こか」
 水泳帽と黒タイツが入れ替わりに飛び出していく。
「やんのか、このヤロォォォゥ!」
 二人の叫び声に、男のファンたちが黒い歓声で応える。俺は愕然とした。フラフラとハコの外に出て、繁華街の臭い夜風にあたる。背後から晴れやかな美津濃の声がかけられた。
「まぁ、俺らには馴染みの客がいるからな。結局、顔馴染みになるまで、心を開いてくれない訳よ。初対面のヤツの話に大口開けて笑わんだろ、フツウ」
 なまぬるい空気。繁華街のネオン。生ゴミの臭い。雑踏。そんな情景にぴったりな、精一杯の強がりがこぼれ落ちた。
「まぁ、なんつうか、こんなとこかってのが分かったよ」
「こんなとこだよ。打ち上げ行くよな。初舞台だろ」
「わりぃ、ちょっとパスだ」
 俺は美津濃に目も合わせず、夜の繁華街を歩きだした。
 笑いをとれるヤツ。いかしたバイクにまたがっているヤツ。気の利いたシルバーアクセサリーをつけているヤツ。いかれたタトゥー。女連れの腑抜け。携帯を握るスーツ姿。俺を横切る全てが格好良く見えた。惨めだ。俺は格好良くなりてえんだ。単純にそうだ。阿呆みたいか。悪いか。でも、それが俺の理想なんだ。
 俺はまだゼンマイを巻き続けている。解き放つ機会を探りながら、くすぶりという名のゼンマイを巻き続けている。

小3

 昼休みの回旋塔で、俺が飛び上がり、ミツヤが飛び上がり、昼休みの時間を刻んでいた。
「モトコさんだったよな?やっぱ、付き合ったりとかするんだろ?」
 あいつはまだ興奮気味だった。昨日、近所の女子大生に惚れていることを白状したのだ。
「阿呆か。知らないよ。それに、別にモトコさんは――」
 ミツヤはいつも気楽そうに見えてうらやましい。運動音痴だったり、性格が暗かったり、俺はいつもたくさんのコンプレックスを抱えている。そんな俺をモトコさんが好きになる訳ないだろう。いつもの笑顔だって、別に俺にだけ見せるものじゃないんだ。
 溜息を一つ、すると、急に目の前のミツヤが一回り大きな振り子にすり替わり、俺の体が空高く伸び上がった。
 しまった。5年のテツヤさんだ。
 見下ろせば、地面に尻餅をついたミツヤが、眉を情けなく垂らしてこちらを見ている。そして、テツヤさんは俺を宙吊りにし、悪意に満ちた満面の笑みを浮かべていた。一方の手を、回旋塔の傘の縁に、そして、もう一方を柱に掛けた。
「必殺、UFO回し!」
 俺はすぐに手を離して、ここから脱出すべきだった。しかし、足元を見下ろすと、すでに地面が随分と遠い。躊躇しているうちに、体が浮きあがっていた。テツヤさんが柱を軸に回旋塔を回し始めたのだ。
「お、おい、やめろ」
「やめてくださいと言え」
 どんどん加速して、両足が頭と平行になるまで持ち上がる。やばい、下手に手を離せば隣のジャングルジムに激突だ。テツヤさんの笑い声が響く。ヤメテクダサイ。声を出そうにも、口を開けるとたちまち言葉が風に飛ばされる。自然と涙があふれ出た。
 また傷だらけになって帰るのか。また言い訳を考えなきゃならないのか。吹き飛ばされる恐怖より、テツヤさんに対する怒りより、そんなことばかりが頭を過ぎる。
 今日はモトコさんと顔を合わせたくないな。
 俺は両手を滑らせ、体が空中に放り出された。皆が俺を見上げている。中には笑っている奴もいる。顔をクシャクシャにしているのはミツヤか。あいつ、根っからいい奴なんだよな。時間がゆっくり回る。そんなことってあるんだな。どうやら、うまくジャングルジムは避けられたみたい。フワリと着地できそうな気がする。
 足が地面に接した瞬間、時間が急に速回しになった。俺はそのまま後ろに一回転。肩に、頭に、両膝に、立て続けに痛みが走った。そして、うつ伏せのまま、砂利の校庭を滑り、やがて止まった。跳ね上がった砂利がパラパラと降り注がれ、遠くでテツヤさんの高笑いが響いた。
 しばらくうつ伏したまま、歯を食いしばっていると、周囲をたくさんのヒトの気配が取り囲んだ。みんな俺の情けない顔が見たいのだろう。痛いか?そうでもない。悔しいか?そうでもないんだ。とにかく、どっかに行ってくれ。早くしないと、先生が来ちゃうだろ。その前にみんな消えてくれよ。頼むから。
 僅かに顔を上げると、人垣に一人分の隙間が見えた。みんなが消えない気ならば、俺が消えるだけだ。とっさに両手をついて、地面を蹴った。でも、だめだった。踏み込んだ左足の膝が思いのほか痛くて、またすぐに倒れこんでしまった。人垣がざわめき、俺と一緒にちょっとだけ前進した。
「おい、どうした?」
 この声はウエシバ先生。よりによって担任だ。人垣が割れて、先生の入り口が開いた。
「なにがあった?」
 先生は俺の肩に手をまわして抱き起こす。火照った顔を隠すように俺は前髪を垂らした。
「大丈夫です」と、言いかけた寸前、甲高い声が響いた。
「五年生の猪口テツヤですぅ」
 俺は舌打ちした。この声はクラスで一番の出しゃばり女子だ。これじゃ、まるでいじめられっ子じゃないか。俺はますます顔を赤くした。
「ちょっとふざけてただけですよ。へへへ、またやっちゃった」
 俺は声を振りしぼって、おどけてみせた。
「本当か?」
 先生の声が耳元で響く。続いてミツヤの声が近づいてきた。

「本当です。先生。ちょっとふざけてたんですよ」
 あいつは分かっている。認めたら負け。イジメなんてのはその時点で決まるんだ。俺はイジメられっ子なんかじゃない。
 先生のため息が吹きかかる。
「しょうがない奴だな。じゃぁミツヤ、こいつを保健室に連れてって」
 ミツヤは先生に呼ばれて、俺の腕を引き上げた。
「やられたな」
「へへ」
「女子ってサイアク。分かってないよな」
「マジ、分かってない」
 昼休み終了のチャイムが響く。このまま重症な振りをして、午後はベッドで過ごすとしよう。
 膝のすり傷から血がにじむ。実際はたいした怪我でもないんだ。それでも、俺はミツヤの肩に腕を回して、足を引きずってみたりする。

 俺は超人デスマッチで、極悪超人にやられた哀れなヒーロー。死の淵から這い上がった俺は、テツヤさんにハイパーキックをぶちかます。

 いつの日か、きっと。



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