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鏡の暗部


 香奈江は重く感じる体をベッドから引き摺り出すと、カーテンを小指ほどの幅だけ開けた。雨音が聞こえていたような気がしていたが、外は雲がいくつかあるだけで青い空が太陽の光に染められていた。香奈江は再びベッドに横になると、一ヶ月前の忌々しい出来事を思い出していた。悪魔のような器具が香奈江の下肢を駆け巡り、子宮に宿っていたはずの我が子を粉々に砕いて奪い去ってしまった。香奈江が腹部をさすると、そこにあったはずの命はもう存在しないのだと感じられた。
 香奈江はトイレに行きたかったが、動くのがおっくうになって寝たままでいた。我慢ができなくなるとようやく体を起こして、ベッドから這い出た。朝食を取ろうかと思ったが、あまりにも食欲がないのを感じると、グラスに水道の水を注いでそれを飲んだ。昨日から何も食べていないはずが、水を飲み干すと吐き気がした。もうこのまま一生何も食べなくても平気なのかしら、と本気で思ってみたが、体中に感じる気怠さと鋼鉄のように重くなった頭を考えると、体に必要な栄養がなくなっているのだと知った。香奈江は洗面所で顔を洗うと、鏡に写る自分の顔を見て激しい嫌悪感に襲われた。まだ三十になったばかりだというのに、くまで黒く染まった眼球の下や青白く生気のない表情。なぜこんな人間が生きているのだろうと思った。可愛い私の子を殺した女。鏡に写る自分はそれだけだった。香奈江は左腕のパジャマの袖を捲ると、剃刀を手にした。肘から少し上のところには何度となく切り付けられた痕が残っていた。香奈江はその傷痕の上に剃刀を当てると、そこに力を加えていった。もっと深くもっと深く。香奈江は心の中でそう呟きながら、腕を伝って指先から滴る血を見つめていた。
 圭介はその晩にやってきた。この二日間ろくに電話もしてこなかったこの男は、ドアを開けると部屋に入ってくるやいなや香奈江を抱き締めた。そのまま香奈江をベッドに連れていくと、パジャマを脱がせた。腕に巻かれた包帯を見ると、すぐにそれを外した。
「またやったのか」
 圭介はまだ新しい傷痕にしゃぶりつくと、開いた傷口から溢れる血をすすった。ベッドの横に置いてある鏡には、ベッドの上で絡み合う二人が映っていた。それは圭介がベッドが映るようにと置いた大きな鏡だった。圭介はセックスをしている自分たちの姿を鏡で見ることによって、大きな興奮を得ているようだった。圭介は香奈江の傷口を、女性器を扱うようにして左右に開くと、血液が溢れだすその割れ目に指を這わせた。指先を血に染めると、その赤く染まった芋虫のような人差し指を、香奈江の乳首へと滑らせて、円を書くように指でなぞった。香奈江はぼんやりとした意識の中で、鋭いナイフで自分の腹を切り開き、その中に納まっている内臓の全ても、この男に差し出してしまいたいと思っていた。そのまま死んでしまえたら、どんなに心が満たされるだろうかと想像すると、恍惚の表情のまま圭介の首筋に腕を搦めた。香奈江の血で口の周りを赤く染めた顔を、圭介は怒りに満ちた表情で、香奈江の眼球を取り出そうとするような力を込めて、瞼を押さえ付けた。香奈江は瞼の裏に見える不思議な光を、必死に追い掛けていた。
 
 香奈江が差し出したコーヒーを、圭介は新聞からちらりと目を向けただけで手に取ると、ずるずると音をたてながらすすった。圭介はいつも夜にやってきて、翌朝にはすぐに帰っていく。丸一日をマンションで過ごすことは決してなかった。香奈江はトーストにバターを塗り付けながら、この男は自分をどう思っているのだろうかと考えていた。愛していないのは分かっていた。圭介にとって自分は歪んだ性欲を満たすための存在でしかないのだと知っていたし、そのために住むマンションも生活費も出してもらっている以上は何も言うことはなかった。香奈江はその生活に満足していたわけではなかったが、それが普通のように感じていた。もしくは疑問を抱くほどの思考力を失っていたのかもしれなかった。
 圭介と香奈江が知り合ったのは、インターネット上の自殺志願者のサイトだった。圭介は自殺志願者ではなかったが、雑誌の記事でそんなサイトがあることを知って、興味本位で見ていた。圭介は香奈江が一緒に自殺をする人間を探していることを知り、即座にメールを送った。
 香奈江と圭介が初めて会ったのは、圭介が指定したホテルの一室だった。圭介は楽に死ねる薬があるから一緒に自殺をしようと言って、香奈江を呼び出していた。この男は自分を四十五歳だと言っていたが、それよりも少し若く見えた。きれいに黒く染められた髪が、そう見せていたのかもしれなかった。香奈江は圭介に始めて会ったときに、すぐに自殺をするつもりなどないことに気が付いていた。香奈江は圭介を信じたふりをして、隙を見て圭介を殺して自分も死んでしまうつもりだった。ところが圭介は香奈江の腕にある無数のリストカットの痕を見つけると、その腕を掴んで傷痕にキスをしてくれた。香奈江は驚いて腕を引いたが、圭介はすぐにその腕を手繰り寄せると、飢えた子供のように傷痕にしゃぶりついた。香奈江はその光景を見ながら、不思議な恍惚感に浸っていた。圭介は香奈江の体にある傷痕を一つずつ探し始めると、その全てに異常なまでの愛撫をした。香奈江は、最初は圭介に愛されているのだと錯覚した。しかし、圭介が愛していたのは香奈江自身ではなく、香奈江の傷痕だった。新しい傷痕ほど圭介は深い興奮を得ていた。
 それ以来、香奈江と圭介は週に一度は会うような関係になっていた。圭介は香奈江に会うたびに新しい傷跡を探した。そして、その傷が深ければ深いほどに、圭介は情熱的な愛撫をした。香奈江はその度に傷口を広げ、圭介の舌が、皮膚のその深くに潜り込もうとする寄生虫のようにえぐる痛みを、唇を噛み締めながら、自分は愛されているのだと思うことで快感へと浄化していった。三ヵ月後には、圭介は新しいマンションと生活に必要な全てを用意して、香奈江をそこに住まわせた。
 香奈江にとって、新しい住居となったマンションは、輝かしい未来を迎える新生活の場所ではなかった。始めの数日は、圭介が自分を妻として迎えるつもりなのだろうかと、考えてみることもあった。しかし、圭介の香奈江に対する態度は、以前のそれとは何ら変わるものではなかった。圭介に妻と子供がいることを知ったのも、その頃だった。香奈江は自分が圭介の愛人になっていたことを理解したときには、もうすでに遅かった。香奈江は仕事を辞め、圭介の援助なしには生活をしていくことはできなくなっていた。
 
 圭介は週に何度かマンションを訪れ、たった一つの目的を遂げると去っていった。優しい言葉をかけてくれたりもするが、それは一つの行動を促す合言葉のようなものでしかなかった。香奈江はそのたびに、圭介の愛情の目的を、腕や足、ときには乳房にも刻んでいった。もはや剃刀の刃も、煙草の火や、熱く熱せられたスプーンも、香奈江には痛みといった苦痛を生み出す道具にはならなかった。剃刀を持ったときの底知れぬ不安感。そして、その薄く光る刃が皮膚の内側に隠れた、すばらしく赤く濡れた内部を見せると、例えようのない安心感と、全てを忘れさせてくれる解放感を与えてくれた。乾き始めた血のざらつきに、唇をあててその感触を味わうと、圭介がなぜ傷を愛するのかが理解できるように思えた。その瞬間だけ、二人にしか理解しえない愛の形を、自分たちは形成しているのだと、誰とも共有することのない充足感に浸ることができた。
 圭介が去った後の孤独な時間が、香奈江は嫌いだった。テレビを見たり、音楽を聞いたりしながら、早く時が過ぎて欲しいと願うだけだった。そうして夜になるまでの時間を、ただ時計の針を眺めながら、遅すぎる時間の流れに苛立ちながら過ごしていく。
 香奈江はシャワーを浴びると、裸のまま寝室にある鏡の前に立った。自分の背後には、圭介と香奈江の過ごしたはずの温度を失ったベッドが、鏡の中で薄暗いベッドライトの光に照らされていた。
「酷い体」
 香奈江は自分の裸体を見てそう呟くと、じんじんと疼く左腕にある剃刀の痕に指をあてた。まだ圭介の舌の感触が残るその赤い裂け目は、まるで不気味な生物の口のように薄く開いて、呪いの言葉でも吐き出しそうに思えた。香奈江は視線を鏡に戻すと、ベッドのさらに奥にある暗闇に、何かが潜んでいるように感じられた。
「私の赤ちゃん。どんな子になったのかしら」
 香奈江は鏡の中の自分にそう問い掛けた。香奈江は腹部をさすると、自分が妊娠していることを知った日のことを思い出していた。喜びも悲しみもなく、ただの事実としてしか受け取ることはなかった。圭介は当然のように中絶の話をして、香奈江もそれに何ら疑問を抱くことはなかった。
 医師の手によって、自分の胎内にあるもう一つの命が奪われるとき、香奈江は不思議な感覚を覚えていた。まるで生まれて初めて痛みを知ったように思えた。どんなに鋭利な刃物も、どんなに熱く熱せられた金属でも感じることのなかった痛みを、香奈江は感じていた。それは単純な痛みではなく、不安と悲しみを伴う、精神をえぐるような痛みだった。香奈江は、そのときに初めて圭介に涙を見せた。圭介はその香奈江の姿を見て、戸惑ったようにしていたが、黙ったまま香奈江の手を握ると目的の分からない笑顔を見せた。香奈江はその圭介の顔を見て、まるで正気に戻ったように痛みも悲しみも忘れ、初めて怒りの感情を圭介に抱いた。しかし、その怒りの感情はすぐに消え、自分は今、圭介が最も愛することのできる傷痕を手に入れたのだと思った。
 香奈江は鏡の前から立ち去ると、服を着てからキッチンへと向かった。冷蔵庫の中から飲みかけのワインのボトルを取り出すと、グラスに注いだ。冷たいワインが喉を通り過ぎていくと、飲み干したばかりのワインが、指先の血管にまでしみ込んでいくように感じられた。窓の外は低く落ちた太陽が、青かった空と灰色の街を粘つくような赤に染めようとしていた。香奈江はグラスを置いてソファーに横になると、そのまま沼地に溶け込んでいくような睡魔に、必死にあらがうようにしながら虚空を見つめた。やがて重くなった目蓋を閉じると、そのまま眠った。
 翌朝、香奈江は目が覚めると、ついさっき見ていた夢の内容を思い出していた。いつものように腕に剃刀を深く埋め込んでいくと、恐ろしいほどの量の血液が流れ出した。夢の中の香奈江は、驚いて急いで傷口にガーゼを当てるが、血の流れは止まらなかった。いつまでも止まらずに流れ続ける血液に、香奈江は恐怖を覚えた。いつもなら止まるのに。そう思い続ける香奈江の頭には死の一文字がよぎっていた。腕をガーゼで押さえたまま、寝室のベッドに横になると、鏡が見えた。鏡には、窓から入ってくる光に照らされた室内が映し出されていた。しかし自分が横たわっているはずのベッドの上だけは、真っ暗な空間が広がっていた。香奈江は、嫌な夢を見たと思った。
 シャワーを浴びてから服を着ると、香奈江は簡単な化粧をして部屋を出た。エレベーターに貼られた鏡に映る自分の顔を見ると、髪が伸びてきたように感じた。美容院にでも行こうかしらと思いながら髪をいじっていると、エレベーターの扉が開いた。香奈江は携帯電話をバッグから取り出すと、美容院に電話をして予約を入れた。マンションを出ると、強い日差しに頭がくらくらするように思えた。風のない夏の日差しは、体力のない香奈江には痛いほどに突きささった。バス停のベンチに座ると、間もなく一人の老婆が香奈江の横に座った。
「暑いですねえ」
 老婆の言葉を無視して道路を眺めていると、老婆は怪訝な顔をして香奈江から目を背けた。よく見れば、こんな暑い日に長袖のシャツを着て、額に汗を流している香奈江の姿は異様にも思えた。香奈江は腕にある無数の傷痕のせいで、夏でも長袖の服しか着なかった。ノースリーブで陽に焼けた肌をさらしている女たちを見ると、香奈江は羨ましく思えた。いつまでも来ないバスに苛立ちを感じながら、香奈江はハンカチで汗を拭い、湿って肌に貼り付くシャツを、指で摘んでぱたぱたと風を入れてはバスが来る方向を眺めた。遠くに近づいてくるバスを見つけると、香奈江は立ち上がってバッグから財布を取り出した。
 冷房の効いたバスの車内は、まるで天国のように思えた。香奈江は一番後ろの座席に座ると、すっかり汗を吸い込んでびしょびしょになったハンカチをバッグにしまった。五分もすると、汗で湿ったシャツが肌に冷たく感じるようになっていた。香奈江はこんな日に外出を試みた自分にうんざりした。夏は香奈江にとって一番忌ましい季節だった。今となっては、かつて自分が高校生の頃に水泳部にいたことも不可解なことのように思えた。もはや自分は水着など着ることなどは死ぬまでないだろう。
 
 香奈江はバスを降りると、そのまま喫茶店に入った。冷房の効いた店内は暑さに弱い香奈江にとっては、最適の場所だった。日差しの入ってくる窓側を避けて、壁際のテーブルに座ると、アイスコーヒーに喉を鳴らした。軽い食事をしながら店内の時計を見ると、美容院の予約の時間まではあと一時間ほどあった。香奈江はどうやって時間を潰そうかと考えていた。
 食事を済ませてアイスコーヒーを飲み干すと、香奈江は店を出ていった。近くの書店に足を運ぶと、心理学の本を探した。今朝見た夢の内容を知りたかった。夢判断の本をいくつか見つけると、香奈江はその一つを手に取った。しかしその内容は香奈江の満足のいくものではなかった。他の数冊のものも見てみたが、香奈江はそれらを棚に戻すと店内をぶらぶらと歩き始めた。平積みにされた新刊の小説をいくつか手に取っては、すぐにそれを元の場所に戻した。そんな作業を十五分ほど繰り返していたが、ついに飽きて書店を出ていった。
 香奈江はまだ少し早いが、美容院に向かうことにした。強い日差しを避けるようにして、日陰を探しては香奈江はその下に逃げ込んだ。美容院に入ると、受付の女が無表情のまま壁を見つめていた。香奈江の存在に気付くと、すぐに機械のように笑顔を作って予約の確認をしてきた。香奈江は自分の予約を告げると、待合席に案内された。雑誌をめくりながら店内を眺めてみると、それほど混んでいないようだった。香奈江は予約の時間よりも早く来たにもかかわらず、ほとんど待たされずに済み、担当の美容師がやってきた。
「今日はどのように」
 三十前後と思われるその男の美容師は、椅子に座ったままの香奈江に視線を合わせるように跪いた姿勢で、自信に満ちた表情を見せながら香奈江の返事を待っていた。香奈江は思いきり短くして欲しいと告げると、美容師は何か察したような表情を見せてから返事をした。香奈江は美容師が自分が失恋でもしたのかと、妙な勘繰りをしているのを感じた。香奈江は気にすることもなく渡された雑誌に視線を落とした。ばさばさと切り落とされていく自分の髪を見ると、まるで何かの儀式をしているように思えた。髪を宝のように大切にする女たちがいるが、香奈江にとっては髪など何の意味も持たない、無駄なものにしか思えなかった。
 女はどうして爪や髪など、意味もないものに「おしゃれ」などという理由で価値を見いだすのだろう。香奈江は爪も伸ばさず、マニキュアなどは大学生の頃には使わなくなっていた。髪も染めたりパーマをかけたりはしたことがなかった。それでも学生の頃はもてたと言っていいだろう。元々スタイルは良かったし、学生の頃にモデルの仕事を頼まれたこともあった。ボールペンを借りただけで、男は嬉しそうな表情を見せては、それをきっかけに香奈江に近付こうと試みてきた。香奈江はそういった男たちの何人かと交際をしてみたが、一緒にいて心から楽しく思える相手は一人もいなかった。男だけでなく、女友達と一緒にいても楽しく感じることは少なかった。嫉妬深く、潜在的な競争意識の強い女たち。未発達で脆い精神を隠すための虚栄心と、性欲の固まりのような男たち。香奈江は自分以外の人間をこの二種類でしか見ていなかった。それは、幼い頃に自分と母に暴力を繰り返した果てに女と消えた父親と、それ以来アルコールに溺れながらも夜の仕事をして自分を育ててきた母を見て過ごしてきたせいかもしれなかった。
 香奈江は幼い頃から一人でいることが好きだった。いや、一人でいるときにしか、心から安心できる時間はなかったのかもしれなかった。
 香奈江は鏡に映る自分の新しい姿に満足した。すっかり短くなった髪に、頭が軽くなったように感じた。香奈江は美容師に促されて立ち上がると、もっとよく見ようと鏡に近付いた。すると、鏡の角に暗闇の部分があるのを見つけた。香奈江はすぐに視線を鏡から離すと、再び鏡の方を見た。暗闇になっていた部分ははっきりと背後の景色が映し出されていた。香奈江の様子を不思議そうに見ていた美容師に気付くと、香奈江は美容師に笑顔を作って見せた。美容師の安心したような表情を見て、香奈江はため息をつきたくなる思いだった。
 マンションに戻ると、香奈江の体を大きな疲労感が包んでいた。汗ばんだシャツを脱ぎ捨てると、下着姿のままソファに横たわった。喉が渇いていたが、キッチンまで行くのも面倒なくらいに体が重くなっていた。粘ついた口内をどうにか潤そうと、唾液を出そうとしても、さらに喉の渇きが増すだけだった。エアコンの動いていない室内は、じっとりとした空気に満ち溢れ、カーテンの隙間から洩れる光に目を細めながら、香奈江はゆっくりと体を起こした。エアコンのスイッチを入れると、喉の渇きに耐えきれず、キッチンへと歩いていった。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、グラスに注いで喘ぐように飲み干した。壁に掛けられた時計を見ると、間もなく五時になろうとしていた。今夜は圭介は来ないはずだった。香奈江はシャワーを浴びると、宅配のピザ屋に電話をした。
 
 食べきれずに残ったピザを冷蔵庫に入れると、香奈江はエアコンの風の音しかしない室内で、ソファに埋もれるようにしながら目を閉じた。じっとしていると、まだ新しい腕の疵が疼くのを感じた。じんじんと腕を駆け巡る血液の脈動を感じながら、ただ何も考えずに時が過ぎていくのを待った。
 知らぬ間に眠ってしまったのだと思っていた。香奈江はソファから体を起こすと、テーブルの上に置かれたままになっているグラスを掴んだ。半分ほど残っていたウーロン茶を飲み干すと、時計を見て驚いた。まだ目を閉じてから十分も経っていなかった。恐ろしく長い夢を見ていたような気がしていたが、まるでまばたきをしただけのような気分もしていた。近付いて時計をよく見ると、秒針が七時の辺りでびくびくと動くだけで、そこから進んでいなかった。電池が切れたのかしら。香奈江はそう思いながら、まるでそこから這い上がろうとしても先へ進むことのできない虫のような秒針を眺めていた。
 ほら、そこから這い上がってみなさいよ。
 香奈江は確実に一秒一秒を刻みながらも、決して先へ進むことのない秒針の動きを楽しむように眺めていた。もはや実際の時間が何時なのかはどうでもよいことだった。必死に這い上がろうとする秒針が、エネルギーを失って活動を止める瞬間を香奈江は見届けたいと思った。八時十五分。時計はまるでその時間に閉じこめられたように、そこから動くことはなかった。ただ秒針だけが意味のない小刻みな運動を続けていた。まだしばらくは秒針は止まらないだろうと思い、香奈江は時計から視線を外すと、立ち上がってキッチンへ向かった。やかんに水道の水を注ぐと、それを火にかけてからソファへと戻っていった。まるで重労働でもしてきたようにソファに沈み込むと、再び目を閉じて時が過ぎるのを待った。いや、香奈江の中では時は止まったまま動いてはいなかった。永遠に進まない時間の中に自分はいるのだと思うと、香奈江は不思議なまでの安心感と解放感に包まれていた。香奈江は今までに何度過去に戻りたいと思っただろうか。しかし、今から先に時間が進まないのなら、それは過去に戻るのと同じくらいの価値があるように思えた。
 香奈江は粉末のインスタントコーヒーが入ったカップに熱湯を注ぐと、スプーンで中身をかき混ぜた。カップの中で渦を描くコーヒーがその運動を止めると、香奈江は満足したようにそれを持ち上げてソファへと向かった。時計に視線を向けると、相変わらず秒針はびくびくと弱々しい動きを続けていた。
 香奈江は空になったコーヒーカップをテーブルに置くと、立ち上がってトイレに向かった。用を済ませてトイレを出ると、手を洗いながら鏡に映る自分の姿を見ていた。
 私はずっとこのままなんだわ。だってこれからもう一秒も時間は進まないんだもの。
 香奈江は笑みを作って鏡の中の自分に微笑みかかけた。こんなことなら髪を切ることもなかったわね。そんなことを考えながら、香奈江は鏡に映る短くなった自分の髪を指でいじっていた。その時、鏡の隅にぽっかりと暗闇となった部分を香奈江は見つけた。髪をいじっていた指の動きは止まり、香奈江はその暗闇に取り憑かれた。そのまま動くこともできずに、香奈江はその暗闇が広がっていくのを見つめていた。忘れていた腕の疵が脈打つのを感じると、香奈江は暗闇から視線を外した。知らぬ間に右手には剃刀が握られていた。香奈江はそれを左腕に差し込むと、次々に腕に切り込みを入れていった。より深く、より長く。香奈江は上腕から手首にいたるまで、腕にレリーフを刻むように剃刀を差し込んでいった。もはや流れ出る血液によって、腕が完全に赤く染められると、香奈江は剃刀の刃を置いた。一番古い傷痕はどれだったのかしら。香奈江は自分がいつからこんなことを始めたのか分からなくなっていた。大学を卒業する頃には、もう長袖の服しか着れなくなっていた。
 二年生の夏には海に行っていたわ。赤い水着を着ていたんだもの。
 香奈江は視線を鏡に戻すと、自分の周りは全て暗闇に包まれていた。
 香奈江は血塗れになったシャツを見ながら、洗濯をして血が落ちるのかしらと考えていた。床に血を滴らせながらソファに戻ると、コーヒーカップを持ち上げた。空の中身を見て、新しくコーヒーを作らなければと思い、香奈江は立ち上がろうとした。不意に時計が視界に入ると、秒針は十二時の位置からゆっくりと下へ向かおうとしていた。知らぬ間に秒針は平常の動きを取り戻し、長針は二十分の位置に近付いていた。どうして時計が普通に動いているのか、香奈江には分からなかった。ただ、秒針が進むと同時に薄れゆく意識の中で、香奈江ははっきりと決して時間が止まらないことを悟っていた。ぬるりとした血液の感触を味わいながらソファに横になると、左腕を肩から手首にかけて指で撫でてみた。もこもことした山脈のような傷口を指先に感じながら、この腕を愛撫する圭介の舌を想像した。きっと今までにないほどに愛してくれるわ。香奈江は、鏡の中にしかなかった暗闇が、目の前に迫っているのを見ていた。自分は死ぬのだろうか。それとも乾いた血のざらつきを感じながら、朝日と共に目覚めるのだろうか。いずれにしても、香奈江にとってはどうでもよいことだった。死体となった自分こそ、圭介は心から愛してくれるだろう。その肉体の全てが傷痕となったような死体ならば、圭介は自分の全てを愛してくれるはずだと信じた。
 こんなことなら、やはり髪を切るんじゃなかったわ。そんなことを考えながら、香奈江は迫りくる暗闇が、自分を包んでいくのを眺めていた。



奥付



鏡の暗部


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著者 : N.O
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