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 秋も深まってきたせいか、頬にあたる風がひんやりと冷たかった。目に映る木々もすっかりと秋色に身を染めて、まもなくやってくる冬の気配をひりひりと感じさせた。竹下洋二は朝の低い太陽の日差しに目を刺されながら、出勤途中だった。ポストまで五メートルほどのところまでくると、洋二は背広の内ポケットから財布と封筒を取り出した。そもそも、財布と封筒を同じところに入れていたのが間違いだったのかもしれないし、その二つをまとめて取り出してしまったのがいけなかったのかもしれなかった。とにかく、洋二はその二つを手に持ったままポストの前まで来た。
 洋二は財布をぽんとポストの上に置くと、封筒の宛先を最後に確認した。洋二はそれをポストに放り込むと、駅へと歩いていった。
 道を曲がり、煙草の自動販売機を見つけると、煙草が残り少なくなっていることを思い出し、背広の内ポケットに手を突っ込んだ。財布がない。洋二は財布をポストの上に置いたままにしてしまったことを思い出し、急いで小走りに来た道を戻っていった。遠くにポストが見えると、一人の女がそれを拾い上げていた。
「すいませーん、それ僕のです」
 洋二が声をあげた瞬間に、その女は走り出していた。
「おいっ」
 洋二は元々体力がないうえに、そこまでの道を小走りで来ていたので、その女には追いつけずに、息を切らせながら中腰の姿勢で女の走っていった道を見つめていた。
「くそっ」
 洋二は辺りを見渡しながら、地団駄を踏むようにして悔しがった。その道は車道を挟んで百メートルほどのところに交番があったのだが、行ってみるとそこに警官がいる気配はなかった。洋二は交番の中に入って誰かいないかと声をかけてみたが、やはり中には誰もいないようだった。洋二は携帯電話を取り出すと、会社の上司に電話をした。
「あの、竹下です。どうもおはようございます」
 課長の内田はどこかの駅にいるらしく、電話の向こうで発車を知らせるメロディーが流れていた。
「悪いけど、今から電車に乗るところなんだよ。あとでいいかな」
「あの、今日、少し遅れますんで、よろしくお願いします」
「ああ、遅刻だな。分かった早めに来いよ」
 内田は急いでいたのか早々と電話を切ってしまった。洋二は交番の中にあるパイプ椅子に座ると、鞄をデスクの上に置いた。携帯電話で銀行やカード会社に電話をして、盗難にあったことを伝え全てを停止してもらった。
 十五分ほどすると、一人の警官が戻ってきて洋二の姿を見ると、驚いたような顔をして中に入ってきた。
「あれ、どうしました」
 洋二は財布を盗まれたことを警官に告げると、すぐに被害届けを出した。財布を盗んだ女の背格好などを聞かれると、たった三十分ほど前の出来事なのにほとんど憶えていなかった。遠くから後ろ姿しか見ていなかったので、ただ髪が肩より少し長めで、赤いセーターを着ていたということしか思い出せなかった。下はスカートではなかったことだけは分かるのだが、ジーンズだったような気もするし普通のパンツだったような気もした。
 警官は洋二の言った内容を紙に記入していきながら、次々と質問を続けていった。洋二は自分がきちんと答えられないことに、逆に自分が虚偽の供述をしているのではと警官に疑われるような気がして落ち着かなかった。一通りに作業が終わると、洋二は交番から出ていった。
 金も定期券もなく会社へ行くこともできずに、洋二はひとまず自分のアパートに戻ることにした。帰り道にあのポストのところを通りがかると、あの盗人の女のことを思い出していた。綺麗な黒髪をなびかせて走っていくあの後ろ姿は、多分なかなかの美人だったのではないかと思えた。美人が金に困っているなら少しは助けてやったのにと、そんなことを考えながらも、もしどこかであの女を見つけたならば、財布を盗んだことに付け込んで、体の関係を強要してやろうかとも考えながら、少しにやりとしてしまった。
 アパートに戻ると、洋二は床に転がっているあらゆるものをどかしながら、転がっている小銭を拾い集めていった。自分の家に小銭が転がっているのなら、それは世界中の約八パーセントの人間にしかできない裕福な生活をしているのだと、誰かに聞いたことを思い出していた。こんな豊かな場所でも人の財布を盗む奴がいることを知ったら、残りの九十二パーセントの人間はどう思うだろうかと、呆れる思いがした。どうにか電車に乗れるくらいの小銭を集めると、ポケットにそのまま詰め込んで再びアパートを出ていった。
 歩くたびに、じゃらじゃらと音を立てるポケットを押さえるようにして、駅まで歩いていった。切符を買ってようやくポケットを軽くすると、やっと会社に行けるなと思い、少し落ち着いていた。時間がずれたせいか、いつもなら混んでいて座ることのできない座席に座りながら、会社の連中にどう説明しようかと考えていた。
「ありゃー、そいつはやられたな」
 課長の内田が洋二の話を聞き終わると、煙草のヤニで黄色く染まった歯を剥き出しながら、他人の不幸ほど面白いものはないといった表情で、洋二の困った苦笑いの顔を見ていた。内田はすぐに自分の財布を取り出すと、五千円札を一枚抜き出した。
「まあ、これで今日のところは過ごしておけ。どうせ昼飯とか晩飯とか帰りの電車代もないんだろ」
 四十を過ぎて未だに独身のせいか、普段から気前が良く底抜けに明るい内田からは、仕事の帰りなどによく飲みに連れていってもらったりしていた。そのせいもあり、洋二は遠慮する素振りも見せずに素直にそれを受け取ると、そのままポケットに押し込んだ。
「あ、そうか。財布がねえからそうするしかないのか。もうすぐ給料日だから、それまでの辛抱だな」
 内田は再び笑うと、自分のデスクに向き直して仕事に戻る姿勢になった。洋二も自分のデスクに戻ると、しばらくパソコンの画面を見つめたまま、煙草を吸っていた。禁煙禁煙とやかましくなった世の中で、この会社はいまだにどこでも煙草が吸えた。
 仕事を終えて帰ろうとすると、内田が大声で自分のデスクから叫んできた。
「お前、明日のうちに銀行とか行ってこいよ。半休にしといてやるから、全部済んでから会社に来い」
 洋二はまだパソコンに向かっている内田に軽く頭を下げて応えると、鞄を持って会社を出た。
 洋二は夕食をラーメン屋で済ませると、またもやあのポストの前にさしかかってきた。何であんなところに財布を置いたままにしたしまったのかと、今更ながら後悔と自分への怒り念を抱きながら、まるで自分の間抜けさの象徴のようになってしまったポストを恨めしそうに睨みつけていた。街灯に照らされたそのポストは、ただそこに赤い光沢を際立たせながら立っているだけだった。 



 洋二はアパートに帰り上着を脱いでハンガーに掛けると、どかっとソファに座り込んだ。テレビを見る気にはなれずに音楽をかけた。曲が流れ出すのを確認してからキッチンで冷蔵庫を開けた時だった。家の電話が珍しく鳴り出した。ほとんど携帯電話を使っているので、家の電話が鳴るときといえば実家の母からの電話くらいだったので、そのつもりで受話器を取り上げた。
「あの、竹下洋二さんのお宅でしょうか」
 聞き慣れない女性の声に、それが母からの電話ではないことを知ると、そんなときは決まって同じ不安に駆られてしまう。もしかしたら実家の両親に何かあったのではないかと、つい身構えながら受話器を握り直してしまった。
「はい、そうですけれど。どちら様でしょうか」
「あの、その、今日、あの、財布を持っている者ですけれど。その、あの、お返ししたいと思いまして、あの、お電話させていただいたんですけど」
 洋二は思わず耳を疑ってしまった。眉間にしわを寄せながらその女の話を聞いていると、財布を盗んだ相手が、今から財布を返したいので会いたいという内容だった。女は最後に「申し訳ありませんでした」と言うと、電話を切った。
 その声は上品な落ち着きのある音色を持った楽器のように聞こえた。洋二はその声から、自分の財布を盗んだ相手と話をしているとは思えなかった。洋二は女の言葉を思い出しているうちに、あれはやはりなかなかの美人ではなかったかと思うと、これから会う窃盗の犯人につい妙な期待感を持ってしまった。
 女が待ち合わせにと言っていた喫茶店に入ると、中にはサラリーマン風の二人組みと若い女の二人組みがいた。その女の二人組みはどちらも洋二が期待しているような美人ではなかったので、この二人のどちらかだったら残念だなと、つい思ってしまった。しかし、その二人組みはどちらもカラーリングのされたショートカットだったので、これではないなとすぐに判断して安心したが、自分の不謹慎な考えに思わず心の中で苦笑していた。その他に老人が一人のテーブルと、五歳くらいの娘とその母親と見られる女の親子がいた。その母親の顔は洋二の位置からは確認できなかったが、まさかこの母親ではあるまいと思い、空いているテーブルに座ると、店員を呼んでコーヒーを注文した。
 二十分ほど経っても女が現れないので、洋二は不安になっていた。落ち着かない表情で店の入り口を見つめていると、時折若い女の二人組みがちらちらとこちらを見ていた。洋二が三本目の煙草に火をつけると、入り口のドアが開く音がした。洋二が思わず体を緊張させてその方向を見ると、髪は長いのだが、中年の太った女だった。さすがにあんなには太ってはいなかったなと心の中で呟き、笑みを浮かべてしまった。視線をずらすと笑みを浮かべた顔のまま、若い女の一人と目が合ってしまった。洋二は慌てて笑みを解くとコーヒーカップのコーヒーを口に含んだ。
 それから十分ほど経っても女が現れる気配はなかった。洋二は空になったコーヒーカップを見つめながら、財布を盗まれた上にからかわれてしまっているのではないかと不安になっていた。不意に子連れの母親が洋二の横を通り過ぎて店の外に出ていった。母親のいたテーブルの方を見ると、子供が空になったグラスの中の氷をストローで突いていた。子供を置いてどこへ行ったのやらと思っていると、携帯電話がポケットの中で鳴りだした。洋二がそれを取り出すと、それが公衆電話からのものだとディスプレイを見て分かった。女にはすぐにお互いが分かるようにと、自分の携帯電話の番号を教えておいたので、ようやく近くまで来ているのだろうと安心した。洋二が通話ボタンを押して応えると、やはりあの女の声だった。
「あの、竹下さんですよね」
「あ、はい。あの僕はもう店の方に着いているので、お待ちしていますよ。店に入って正面のテーブルに一人で座っているので、すぐに分かると思います」
 女がしばらく黙っているので、電波が切れてしまったのかと携帯電話を耳から離して確認すると、ディスプレイにはまだ通話が続いていることを示すように通話時間が加算されていた。洋二はすぐに携帯電話を耳元に戻すと、女が話し出した。
「あの、私も、もうお店にいるんですよ。なかなかいらっしゃらないのでお電話させていただいたんですけど」
 洋二は驚いたように子供が座っているテーブルの方を見た。子供は氷をテーブルの上で滑らせて遊んでいた。
「あの、もしかして、お子さんをお連れの方ですか」
「あ、はい、そうです。あの、すぐに戻りますから、そちらの方で」
 女は電話を切ると、店に戻ってきた。やはりあの母親だった。洋二は吸いかけの煙草を灰皿で揉み消すと、どんな表情をすれば良いのか分からず、とりあえず笑顔を作ってその母親の方を見た。
「どうもすみません。気が付かないで」
 女はそう言ってから子供の方へ向かうと、その子供を連れて洋二のテーブルに二人で座った。女の服装はやはり赤いセーターに下はジーンズ姿だった。この背格好や服装を見て、どうして気が付かなかったのかと思ったが、まさか子連れで現れるとは夢にも思わなかった。女の歳は三十前後に見えたが、長い髪に薄い化粧をした顔はなかなかの美人だった。洋二は自分の勘が当たったことが嬉しかったが、反面なぜこんな美人があんなことをしてしまったのかと不思議だった。幼い娘は洋二の顔を見た後に母親の顔を見ると、退屈そうに持っていたストローを折り曲げたりしながら遊んでいた。
 女は茶色の古びたバッグを膝の上に置くと、中から洋二の財布を取り出してテーブルの上に置いた。
「これ、お返しします。どうもすみませんでした」
 子供の前でそれを受け取ることになんとなく、申し訳ないような気持ちになりながら、洋二はそれを手に取った。少し躊躇してから財布の中身を確認した。確かな金額は憶えていなかったが、少なくとも三万円は入っていたはずが、二千円しか入っていなかった。女の方を見ると、相手はうつむいて黙っていた。
「あの。どうも金額が少なくなっているようなんですけど。その、中身の方は」
 女は少しうつむいて黙ったままだったが、その姿勢のまま声を絞り出すようにして答えた」
「すみません。その、どうしてもお金が必要で、使ってしまいました。必ずいつかお返ししますので、どうもすみません」
 数秒間の沈黙があった。洋二はその沈黙に耐えかねるように、煙草を取り出して火をつけた。洋二は深く煙を吸い込むと思い切り吐き出した。
「うわあ、目が痛いよう」
 煙が目に入ったのか、娘が涙を流しながら目を小さな指でこすっていた。
「あ、ごめんなさい。これはどうも、すみません」
 洋二は及び腰のような形に立ち上がって、この娘にどうすれば良いのかと困っていた。母親はすぐにおしぼりで娘の目を拭きながら、「痛かった痛かった。でも、もう大丈夫だよ」と言って洋二の方を向くと、「ご心配なく」とでも言うように笑みを浮かべていた。
 その姿には母親の強さと優しさが見えていた。洋二は少し安心したが、そのとき初めて娘の声を聞いたと思った。それまでの間ずっと黙っていた娘から、子供らしい元気さのようなものを感じなかったことに、この親子がどんな生活を送ってきたのかを垣間見たような気がした。
「あの、お金のことはもうけっこうです。そちらにも何か余程の理由があってのことだと思います。あの、こういう風に話していると、とてもあんなことをいつもしているようには見えませんし、その、お子さんもおられるようなんで、ああいうことは今後してないであげてください」
 母親は娘が落ち着いたのを確認すると、娘の頭を撫でながら黙って頷いていた。娘はテーブルを見つめたまま、ただ退屈そうに時間が過ぎるのを待っているようだった。
 この娘は母親のこんな姿を見るのに慣れているんだと、洋二はその姿にそう感じ取っていた。洋二はその後、警察に盗難届けを出しているが、すぐに取り下げることを約束してやった。母親はただ「すみません」とだけ言って、涙を流した。



 洋二がアパートに戻ってくると、もう九時を過ぎていた。シャワーを浴びて出てくると、急に疲れがでてきたようだった。ソファに座ったままぼんやりとしていると、あの親子のことが思い出された。世の中には不景気だのなんだのと、悪い話ばかりが溢れているが、自分の生活にはあまり接点のないものばかりのようだった。しかし、今日の出来事は頭をがしりと掴まれて、ぐいと現実を見せつけられたようだった。それにしても給料日前に三万円もなくなってしまったのは辛いなと思いながら、冷蔵庫からビールを取り出して飲んでいた。
 次の日は朝から停止していた金融機関などを廻っていた。一通り済ませると、警察に行かなければならなかった。洋二はどのように説明をすれば良いのかと考えていたが、単純に財布を盗まれたのは友人の悪戯に過ぎなかったのだとすることにした。
「変な悪戯はやめてもらいたいですな」
 警察の署員は面白い話を聞いたような顔で、笑ってすませてくれた。案外、被害届けが取り下げられたことを喜んでいるようでもあった。
 警察署を出ると、もう十一時を過ぎていた。洋二はこのまま外で昼食を済ませてから会社に行くことにした。
 その日はあまり仕事に身が入らず、内田や同僚から飲みに誘われたが、それも断ってすぐに帰宅することにした。帰りにどこかで夕食を済ませていこうかと思ったが、金もかかるし、たまには自分で料理でもしなくてはと思い、スーパーで買い物をして帰った。
 あのポストのところを通りがかると、昨夜の親子のことを思い出してしまうが、もう会うこともあるまいと、すぐに気持ちを切り替えた。
 アパートの階段を上っていくと、隣の住人の男が丁度階段を下りてくるところだった。洋二はさっと端に寄って挨拶をしようとしたのだが、男は階段から洋二には見えない通路の方を首を傾げながら見ていた。男が洋二の存在に気がつくと、「どうも」と挨拶をしながらも驚いたような表情と、何か意味を含んだような笑みを浮かべて洋二の横を通り過ぎていった。洋二の位置からは見えない通路の方向に、何かがあるのかと不思議に思いながら、洋二は階段を再び上っていった。洋二が階段を上りきって角を曲がると、洋二の部屋の前に誰かが座り込んでいた。それはすぐには誰か分からなかったが、女であることだけはその姿から知ることができた。
 女が洋二の気配に気づいて立ち上がると、女の体に隠れて見えなかったのだが、その奥に子供が座っているのが見えた。洋二はそれが昨夜の親子だと知ったが、なぜあの親子が突然に自分のアパートに部屋の前にいるのか、そのことに気持ちの悪さのようなものを感じていた。
「あの、すいません。お留守のようでしたので、ここで待たせていただきました」
 母親は昨日と同じ悲しみをたたえた表情で洋二の顔を見ると、娘の方に視線を向けた。娘は体を小さくして、サナギのような格好で眠っていた。洋二はスーパーのビニール袋をぶら下げたまま、通路で母親と話を続けるのもまずいなと思いながらも、この二人を部屋に入れることにも躊躇していた。そもそもなぜ、この母親が自分の家を知っているのかと思ったが、盗んだ財布の中身を見ていれば、そんなことは簡単に分かることだと一人納得していた。
「突然にこんな家まで来られて、困りますよ。まだ何か御用ですか」
 洋二は語気を強めて言ったが、その言葉が聞こえていないのか、母親は娘の体を揺すって起こしていた。娘は少しむずがりながらも、目をこすりながら自分で立ち上がった。
「んん、寒いよう」
 娘の声を聞いて、洋二は仕方なくポケットから部屋の鍵を取り出した。
「こんな場所で話もあれですから、とりあえず中に入ってください」
「すみません」
 母親は洋二が鍵を開けるのを黙って見ていた。洋二はドアを開けると、散らかった部屋を見て再びドアを閉めた。
「あの、少し待ってもらってもいいですか」
「あ、はい」
 母親は洋二に言われた通りにドアの外で待っていた。洋二は部屋を簡単に片付けると、テレビの横に積み上げられているアダルトDVDを抱えると、押入れの中に放り込んだ。最後に一通り部屋の中を確認してから、親子に中に入るように言った。親子をソファに座らせると、自分は床に座布団を敷いてテーブルを挟む形で二人の前に座った。
「あの、警察には今日もう行って、届けは取り下げてありますから」
 洋二はこの母親がそのことを確認しに来たんだろうと推察して、そのことを始めに伝えた。しかし、母親は洋二にそのことの礼を言うと、また下を向いたまま黙ってしまった。娘はテーブルの下に置いてあった鉄腕アトムの形をしたライターを見つけると手を伸ばした。母親がすぐに「危ない」と言って、娘の手を叩くと、娘は今にも泣き出しそうな顔になった。洋二はこんなところで泣き出されてはと、慌てて部屋の隅に放り投げてあった犬のぬいぐるみを娘に渡した。
「それ、あげるからね」
 娘はその犬のぬいぐるみを受け取ると、頭を撫でながら初めて笑顔を見せた。洋二は素直に可愛らしい娘だと思った。こんな幼い娘にあまり辛い思いはさせたくないものだと思いながらも、早く話を終わらせて帰ってもらいたいという気持ちの方が強かった。
「他に、何かまだお話するようなことでもあるでしょうか」
 洋二は話を出来るだけ早く切り上げようと、無駄な話はせずに、他に何か本題となるような話でもあるのかと母親に聞き直した。
「あの、実は泊まるところがなくて。頼れる人とか知り合いもいないものですから。どうもすみません。何でここに来てしまったのか私も分からないんですけど、どうしようもなくて」
 洋二は突然に母親の口から出たこの言葉に、驚きが始めにやってきたが、それはすぐに怒りへと変わった。
「そんなこと言われたって、こっちだって困るよ。そもそもあんたとは知り合いでも何でもないし、人の財布から金を盗んでおいて、さらに頼るところがないからって来られても、知ったこっちゃないよ」
 洋二は乱暴にライターをテーブルから取り上げると、煙草をくわえた。その姿に驚いたのか、娘はぬいぐるみを抱き締めながら、母親の方へ寄り添った。その姿を見て洋二は少し姿勢を正すようにして、今度は落ち着いた声で話した。
「あの、お金があれば二人がどこかに泊まるお金を貸してあげたりすることもできるんですけど。僕だってお金持ちじゃないし。昨日お金を盗られたせいで、僕もそんな余裕はないんですよ。申し訳ないですけど、そういうことです」
「あの、でしたら、娘だけでも一晩ここにおかせてもらえないでしょうか。私だけなら今夜はどうすることもできますし」
 洋二は母親の言葉を聞いて、この母親は娘をおいてどこかへ行ってしまうつもりなのではないか、またはその間にどこかで自分の体を売って金を得ようでもしているのではないかと思えた。とちらにしても、この親子にとって良い道とは思えなかった。



 ほんの数分だったろうか、洋二は頭を抱えるようにして悩んでいたが、この親子を救えるのはもはや自分しかいないのだと思い込むしかなかった。
「分かりました。今夜だけ。今夜だけ二人ともここに泊まってください」
「どうも、ごめんなさい。このお礼は必ずいつかさせてもらいます」
 母親は深く頭を下げて礼を言った。洋二が二人に夕食を済ませたのかと聞くと、二人とも今日は何も口にしていないということだった。二人に洋二の下手な料理を食べさせるわけにもいかないので、二人を連れて外に食事に行こうとすると、母親は材料があれば自分が作ると言ってくれた。丁度買い物をしてきたところだったし、持ち合わせの金もあまりなかったので、洋二は内心その方がありがたかった。母親はキッチンに行くと、買ってきたばかりのビニール袋に入ったままの材料と、冷蔵庫の中を確認してから料理を始めた。
 洋二はすることもないので、テレビのスイッチを入れようとリモコンを探した。娘は母親のそばをうろうろとしては母親に「あっちにいってなさい」と追い返されていた。娘が戻ってくるのを洋二が見ると、娘と目が合ってしまった。娘は立ったままその場で母親の方を振り向いたりしながらもじもじとしていた。洋二はソファの上に置いたままになっていたぬいぐるみを拾って、娘に渡すつもりでぽんと投げてやった。ところが、ぬいぐるみは娘の顔に当たると、そのまま床に落ちてしまった。洋二はしまったと思い、娘が泣き出すのではないかと思わず首をすぼめてその姿を見ていた。娘は驚いたような顔をしたかと思うと、笑顔になってぬいぐるみを掴むと、洋二に投げ返してきた。それは洋二のところまでは届かずに床に転がった。洋二はそれを拾い上げると、娘の近くに座り直してから再びそれを娘に投げた。それは再び娘の顔にぽんと当たって床に落ちた。
「ぎゃははは」
 娘はそれが面白いのか、急いでぬいぐるみを拾い上げると、同じように洋二に投げ返してきた。それが今度は洋二の胸に当たると、手を叩いて喜び始めていた。洋二はこの娘がこんなに元気良く笑うことができるのだと知って、安心したのと同時に、笑顔を見ることが不思議と嬉しく感じていた。洋二と娘はそれからしばらくその遊びを続けていた。母親が夕食の準備を済ませる頃には、娘は洋二にすっかりなついていた。
「あら、麻衣ちゃん。遊んでもらって良かったわね」
 母親が出来上がった肉じゃがをテーブルに置くと、笑みを浮かべて娘の姿を見ていた。この時に洋二は初めて娘の名前を知った。「ああ、麻衣ちゃんていうのかい。今はいくつなの」
 麻衣は掌を洋二に向かって突き出した。
「私、五つ」
 洋二はそれを見てから、母親の方を見た。
「そういえば、まだ名前とか、何もそちらのことを知らないんですよね」
「はい、準備が終わったら、色々とお話させてもらいます」
 母親はそう言って再びキッチンに戻ると、食事の準備を続けた。テーブルの上には洋二の母親のいる実家に帰らなければ、食べられないようなものが並んでいた。味噌汁とご飯が並んでいるのを見ると、こんなまともな食事をするのは何ヶ月ぶりだったかと思い出していた。
「あの、お口に合うか分かりませんけど」
 母親が娘をテーブルの前に座らせてから自分もその横に座ると、洋二も茶碗を持って食事を始めた。肉じゃがを口にすると、あまりの美味さに感動してしまいそうになった。何だか全員が家族になったような錯覚を起こしそうだったが、考えてみるとまだ名前も知らない女性と、その子供とこうして食事をしている自分の不思議さを思った。
「これ、すごく美味しいです」
 洋二がそう言いながら箸で肉じゃがをつまみ上げると、口に放り込んだ。
「すいません、こんなことまでさせてもらって。明日にはすぐに出ていきますから」
「いえ、そんなことはもういいんです。あの、まだ名前とかも知らないんですよね。それに何で娘さんとこんなことをしているのか、とか、聞いてもいいですかね」
「まだ、名前も申し上げてなかったんですね。すいません。私は岩野、岩野多佳子といいます。それと娘は、さっき話してましたね。麻衣です」
 食事を済ませた後、洋二は多佳子から様々なことを聞いた。年齢が三十歳であることや、千葉からやってきたこと。それに麻衣の父親である夫が三年前に他界してしまっていることなど、かなり苦しい生活をしながらここまでやってきたのだという。親戚がこの近辺にいるので頼るつもりだったのだが、追い返されてしまったらしい。なぜそのようなことになってしまったのかについては語らなかったが、時折黙り込んで、何かを押し殺しながら話す姿に、洋二はなぜか美しいと感じてしまった。
 洋二はそういった話を聞いて、同情することはできたが、自分でどうにかしてやろうというところまでは思えなかった。明日になればここを出ていき、自分たちでどうにかしてもらうしかなかった。そのため、話を聞きながらも、必要以上に同情しているような表情は見せないようにした。多佳子もそれを感じ取っていたのか、聞かれたこと以上のことは語らなかった。二人が話をしている間に、麻衣はソファの上で寝てしまっていた。
「あの、お風呂が実は壊れていて使えないんですよ。シャワーだけは使えますから、使ってください。それとベッドと布団がありますから、麻衣ちゃんと多佳子さんはそちらで寝てください」
「竹下さんはどちらで寝られるんですか」
 洋二は麻衣が寝ているソファを指差して笑った。
「いえ、それは悪いです。麻衣はもう寝てしまっていますから、何か掛けてあげてこのまま寝かせておいてください。私は布団をお借りします。ですからベッドでお休みになってください」
 洋二はうーんと唸って頭を掻いていたが、既に寝てしまっている麻衣を動かすこともないだろうと思い、毛布と掛け布団を持ってきてやった。その時に、麻衣が寝言で何かを言ったが、あまりに小さな声なので分からなかった。
 多佳子がシャワーを浴びている音がバスルームから聞こえてくると、洋二はなんだかそわそわと、用もないのに何度も冷蔵庫を開けてはまた閉めていた。あの美しい多佳子が自分のすぐそばで裸でシャワーを浴びている姿が何度か頭をよぎった。多佳子が洋二の貸してやったパジャマを着て出てくると、やはり大きすぎたのか手がすっぽりとかくれてしまい、裾を引き摺りながら現れた。
「やはり大きかったですか。すいません他になくて」
 そう言いながらも、洋二はその姿に思わず何かが熱くなるのを感じていた。それを必死に表情に出すまいとしながら自分もバスルームに入っていった。冷たい水を頭から勢いよくかぶると、ぶるっと体が震えた。冷やせ冷やせと心の中で叫びながら、そのままじっとしていた。
 洋二はついいつもの癖で、パンツ一枚の姿で出てしまった。多佳子が洋二に気がついて振り向くと、洋二はしまったとばかりに慌てて寝室に飛び込んでいった。すぐにTシャツにジャージをはいて戻っていった。
「あの、僕は明日も仕事がありますんで、六時には起きます。僕が仕事に出る時に一緒に出てもらえればと思うんですけど」
 多佳子は、「はい」とだけ言って麻衣の方をずっと見ていた。
「僕はもう寝ますんで」
 洋二はそう言ってから寝室に入ると、ベッドに潜り込んだ。当然のことながら、なかなか寝付くことができなかった。昨日からのことを思い出し、麻衣や多佳子の姿が何度も閉じたまぶたの裏に浮かんでは消えていった。やがてその姿はぼやけて暗闇の中に消えていこうとしていた。眠りにつく寸前に、布団を寝室から出しておくことを忘れていたなと思っていた。麻衣の寝ているソファの横に、布団を動かしておけばよかったと思っていたが、もはや睡魔の方が意識よりも勝っていた。すぐにあらゆる思考は暗闇の中に落ちていった。
 何かが自分の腕を掴んでいるのに気がついたのは、その腕を掴んでいる人間が自分のベッドの中に入ろうとしてきた時だった。洋二はまどろみの中でそれが多佳子だと思った。洋二がうっすらと目を開くと、暗闇の中でその人間はすでに体をベッドの中に滑り込ませていた。この女め、体で恩を返そうというつもりなのかと思いながらも、洋二はそんなことを期待していた。美しい多佳子の姿を思うと、体が熱くなるのを感じていた。洋二が体をひねらせてから、その人間の肩を掴むと、柔らかい温もりが伝わってきた。それはとても小さい、大人の女にしてはあまりにも小さすぎる肩だった。
 洋二は凄まじいスピードでまどろみから覚めると、それは麻衣だった。麻衣が小さな声で「寒い寒い」と言うと、洋二の肩を枕のようにして頭を乗せると、そのまま寝てしまった。洋二はそれから動くことができずに、結局朝までそのまま眠ることができなかった。
 洋二が動かすことのできる右腕を伸ばして、目覚まし時計を掴むと、四時になっていた。視線を移すと、ベッドの横に用意されていた布団に多佳子は寝ていた。
 洋二はゆっくりと自分の肩と枕を入れ替えて麻衣を寝かせると、自分はベッドから出ていき洗面所へ向かった。鏡を見ると寝不足のせいか目が真っ赤に充血していた。ずっと同じ姿勢で寝ていたせいか、背中が痛かった。蛇口をひねり顔を洗うと、ソファに座って煙草をくわえた。ゆっくりと煙草を一本吸い終えると、そのままソファに横になり、床に落ちていた毛布をかぶるとそのまま眠ってしまった。



 誰かが自分の体を揺さぶるのを感じて目が覚めた。はっとして起き上がると、多佳子と麻衣が自分の顔を見て笑っていた。味噌汁の匂いがしてテーブルを見ると、朝食が用意されていた。
「なんだか麻衣がベッドを横取りしてしまったようで、どうもすいません。ぐっすり眠っていたようなので、勝手に朝食の準備なんかさせていただいたんですけど」
 洋二は覚めきらない頭でしばらくテーブルを見つめていたが、すぐに多佳子の方に向き直った。
「あ、いえ。すいません、今、何時ですか」
「今は六時を少し過ぎたところですけど。起こすのが遅かったですか」
 洋二は危うく寝坊をしたのかと思っていたが、まだそんな時間なのかと安心した。洋二は立ち上がって洗面所に向かうと、鏡を見た。そこには笑って自分を見つめている男が映っていた。
「何で笑ってんだ、俺は」
 洋二は勢いよく水を出すと、蛇口の下に頭を突っ込んだ。顔を洗って服を着替えると、三人で朝食を食べた。
「麻衣、きちんと謝っておきなさい」
 麻衣は口の中にご飯が入ったまま、洋二の方を向いた。
「うおめんなはい」
 多佳子が麻衣の頭をぱちんと叩いた。
「食べながらじゃないの」
 麻衣は自分の頭を撫でながら、口に入っていたものを飲み込むと、また洋二の方を向いた。
「ごめんなさい」
「まあいいよ。あれだけのベッドを独り占めしたんだから、ぐっすり眠れただろう」
 麻衣は笑っていた。食事が終わると麻衣は洋二の膝の上に乗ってきて、洋二の胸を叩いた。洋二が麻衣の額をぽんと叩くと、麻衣はバランスを失って倒れそうになった。洋二が腕を掴んで麻衣を引き戻すと、麻衣は「きゃはは」と笑って同じことを繰り返していた。多佳子は食器をキッチンに持っていくとそれらを洗っていた。
 そろそろ出勤の時間になっていた。洋二が出かける準備を始めると、多佳子と麻衣も出る準備をしていた。洋二はこれでこの親子と会うことはもうないだろうと考えていた。
「これからどうするんですか」
 洋二は多佳子にそれを聞くべきかどうか悩んでいたが、ついに聞いてしまった。多佳子は動じる様子もなく、洋二の顔を笑顔で見つめた。
「そうですね、どうにかやっていきますよ」
 その表情には女としての、そして母親としての凄味のようなものが表れていた。洋二はこの母親なら大丈夫だろうと思っていた。他人の財布を盗んでおいて、されに盗んだ相手の家に押しかけるくらいだから。そして、この母親の子である娘なら、どうにかやっていけるだろう。
 アパートを出ると、すぐ目の前がずっと空き地になっていたのだが、その雑草で埋め尽くされているところに、麻衣は駆けていった。草むらに体を埋めると、「わあ」と言って飛び出してきた。
「遊んでないで、さあ行くわよ」
 多佳子は麻衣の手を引こうとするとすぐに「ひゃあ」と言って飛びのいた。
「虫、虫が付いてるわよ」
 洋二がそばに近づくと、胸にとげの沢山付いた小さな茶色の物体がいくつか付いていた。
「ああ、オナモミですよ。植物の実です。虫ではありませんよ」
 洋二は麻衣のセーターから、オナモミの実を一つずつ取ってやると、麻衣も自分でそれを摘んだ。麻衣がそれをぽいと投げると、洋二のしていたマフラーにくっついた。麻衣は嬉しそうな顔をすると、また一つオナモミの実を摘んで洋二に投げた。洋二がそれをうまくかわすと、マフラーに付いていた実を取って麻衣に投げた。それが再び麻衣の胸元に付くと、麻衣は体を揺すってそれを落とそうとしたが、オナモミの実はいくら体を揺すっても落ちなかった。洋二はそれを取ってやると、草むらに放った。
「さあ、行きましょうか」
 洋二は麻衣の手を引いて、多佳子の方を向いた。三人は何も言わず、黙ったまま駅へと向かう道を歩いていた。あの全ての始まりであるポストを通りかかると、多佳子もちらりとそちらの方を見たようだった。洋二はこれを見て多佳子は何を思っているんだろうと考えていた。聞いてみたい気もしたが、黙ったまま通り過ぎていった。駅前まで来ると、多佳子は立ち止まった。
「それではここで」
 麻衣は洋二のそばにいたが、何かを察すると離れて多佳子のそばへ行った。
「あの、それでは」
 洋二は何か言いたいことが山のようにあったような気がしていたが、何も言えないまま、それが最後の言葉になった。多佳子は深く頭を下げると、麻衣にも頭を下げさせた。すぐに体の向きを変えると、二人はそのまま歩き始めた。洋二は二人の後ろ姿を、その場で立ちすくんだまま見つめていた。一度だけ麻衣が振り返って洋二の姿を見たが、立ち止まることなく消えていった。洋二は二人が見えなくなると、駅の中に入っていった。 

 電車の中はいつもと変わらず、人に溢れていた。洋二は気づかぬうちに、ここにいるはずのない多佳子と麻衣の姿を探していた。改札口でも、車内でも、女性や子供の姿を見つけると、つい気になってしまった。
「おう、どうした、顔色が悪いぞ。まだ財布のこと気にしてんのか」
 会社に着くと、相変わらず陽気な声で内田は洋二に挨拶をしてきた。
「いえ、それは大丈夫です。少し寝不足なもんで」
「寝不足だと、女でもできたんじゃねえだろうな」
 内田は笑いながらその場を去っていった。洋二は女と聞いて多佳子のことを思い出していた。その日は仕事をしていても、何か集中ができなかった。一日が恐ろしく長く感じた。
 残業を終えて会社を出ると、八時を過ぎていた。帰り道も洋二は多佳子と麻衣の姿を探していた。夕食をとるためにレストランに入ると、洋二の横のテーブルには三人の親子連れが笑いながら食事をしていた。幼い娘と母親が、父親の話に笑っていた。洋二はいつか自分が家族を持つ日のことを想像したが、想像の中の妻と娘には多佳子と麻衣の姿があった。あの家族のように洋二の話を笑いながら聞く二人の姿が頭に浮かんだ。洋二はふと、多佳子と麻衣が今夜も自分のアパートで待っているような気がした。洋二は食事を途中でやめると、レストランを出ていった。
 今にも走り出したい気持ちを抑えながら、早い歩調でアパートに向かっていった。アパートが見えると、洋二はもはや走り出していた。階段を駆け上がると角を曲がった。そこには昨夜と同じように二人が座っていた。先に麻衣が洋二のことに気が付くと、立ち上がって洋二のところに走ってきた。そして、洋二の足に抱きついてきた。洋二はその麻衣の頭を撫でてやった。
「寒かったろう。さあ中に入ろう」
 多佳子の方を見ると、もうすでに立ち上がっていた。その顔は涙に濡れていた。洋二は何も言わずに鍵を開けると、二人を中に入れた。中に入ると、麻衣は「あれ、あれ」と言いながら洋二の肩の方を指差した。洋二が自分の肩を見ると、そこには何もなかったが、手で肩から背中の方を探ると、ちくりとした感触があった。それを摘んでみると、オナモミの実だった。
「知らぬ間に付いていたんでしょう。ずっと付けたままだったのかしら」
 多佳子は赤い目で笑った。洋二はまるでお前たち親子みたいだよ、と言ってやりたかった。洋二はその実を見つめながら、この実から芽を出してみたいと思った。

終 


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