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 私の父は鳩の糞が原因で死んだ。
 しかし、原因と言い切ることに、私は少なからずためらいを覚える。

 事実は誰にも分からない。分かる唯一の人間は、それが原因であろうもののために死んでしまったのだ。解剖によって鳩を媒介とするウイルスが検出されたが、それが直接の死因、少なくとも引き金かどうかについては、とうとう確定することはできなかった。
 父は結果的には色々な症状の末に死んだが、カルテにおいては、鳩の糞を媒介としたウイルス感染による呼吸不全、という優れて虚飾のない一行で、まるく納められる形をとった。ウイルス感染によって呼吸不全を起こすのが自然なことなのか不自然なことなのか私は知らなかったが、ただ、一つの明確な病名のために亡くなる人は、案外少ないのかも知れないと暗に思った。
 無論、冷静にこういったことを考えられるようになったのは、それから二年も過ぎた今頃のことで、当時私は人並みに肉親の死を悼み、毎晩寝る前に、寝て起きたら全てが夢だったらいい、と本気で人間は思うことがあるのだ、と人事のように悟ったりなんかもしていた。

 また、肉親を亡くした多くの人がそうあるように、私は弱くなることができなかった。平常であれば見過ごしてしまうような指の小さな棘をうまく抜くことができず腕ごともいでしまうような、そんな乱暴さがとめどもなく溢れ出した。父が死んで暫く、私は職場の同僚とも昔馴染みの友ともまともに会話をせず、視界は古い映写機による映画のようにざらざらとしているか、もしくは薄靄がかかったように白々としていることが多かった。けれど、輪郭のない景色とは裏腹に、意識の中心はいっそ薄氷のように透明で濁りなく、面をなぜる風ひとつにも身を震わせるように敏感に、そして鋭利に研ぎ澄まされていた。
 そして、私がその意思と視界とを持って、取りも直さず行ったことと言えば、葬儀や保険や年金を初めとする諸々の手続き、ではなく、(それは弟が全てやってくれた)インターネットに向かい、或いは図書館に赴き、鳩の糞について調べることだった。
「落下してきた糞に運悪くあたって、それが口に入ってしまったんでしょうな」
 銀縁の丸眼鏡をかけた金髪の太った医師は、父が鳩を『さばく』ことがあったかと確認し、そんなことは断じてなかった、と母が反論すると、鳩を媒介とするウイルスが人間の体に入るには、糞尿か唾液か血液かでしか考えられないと言って、父の死の引き金を糞であろうと結論づけたのである。けれど、それがカルテに、医師のイニシアル入りのモンブランで書かれた時、『であろう』という言葉は何故か白文字になってしまい、あったはずなのに、見えなくなってしまったのだ。
 かくして、私の父の死因には、永久に鳩の糞がこびりついてしまったのである。
 よりによって鳩の糞!
 平和の象徴! の糞。
 私は図書館に向かう途中、度々怒りのあまり頭痛や眩暈を引き起こした。真夏の、クーラーの壊れた古いビートルの中で、それは暑さのせいであったのかも知れないけれど。
 私は車を止め、ハンドルに臥せって泣くこともあったが、何に対して泣いていたのか、未だにその理由を正直に言いたくはない。ただ、それが悲しみからというよりも、やはり行き場のない怒りから生まれたものだということは、素直に認めることができる。

 一体、世の中に何人、鳩の糞が原因で死んだ人間がいるというのだろう。私は鳩について、糞について、鳩の糞について、鳩を媒介とするウイルスについて、医学書を、(敬虔なクリスチャンだった父が聞いたら卒倒するであろう種の起源を説いた)ダーウィンを、高校生の掲示板を、主婦の手記を、あらゆるメディアをなめるように漁り続けた。誰かが癌腫瘍について、心不全について、私と同じ熱心さで調べているだろう時に、私は鳩の糞に全霊を傾けなければいけなかった。誰に頼まれた訳ではなかったが、父の死を知り、理解することが、私が父に近づ く、ただ一つの手段であるような気がされていた。そして、それは真実であったろうと思う。何故なら、死んだ者を前にして、それ以外にどんな方法がありえたというのだろう。父はもう煙草の銘柄にこだわらないし、私がワインしか飲みたがらなくても、したり顔で延々とスコッチウイスキーの魅力を語ったりはしないのだ。
 私は調査に時間と精魂とをかけた。けれど、如何せん鳩の糞は、害とか迷惑とかいう言葉を伴うケースを抜かして、人の興味を甚だ惹くものではなかった。私は私が求める答えを、その片鱗さえ掴むことができなかった。段々と私は、父に近づいているのか遠ざかっているのか、それさえ分からなくなっていた。答えが見つからなかったのだから、それは前進でも後退でもなかったのかも知れないが、父が死んだ瞬間から自分が一歩も動いていないと考えるのは、途轍もなく恐ろしかった。それに、何かに身をつぎ込んだ分だけの手応え(見返りと言ってもいい)なしに物事を行うには、私はまだ貪欲に若かったし、また、いくばくかの希望も捨ててはいなかった。だからこそ、答えが得られないもどかしさ、歯痒さというのは、私を大袈裟に袋小路に追いやり、いらつかせ、そして失望させた。私は日に日に、父どころか、私自身からも離れていっているような焦燥を感じた。
 こうなったのも、全ては鳩の糞のせいなのだ。
 私は、激しく鳩の糞を憎んだ。他に、憎むものがなかった。
 
 父は二十八歳の時、四歳年上の母と結婚した。妻の方が年上であることをとやかくいう者もあったけれど、父は、そもそも自分の乗っている車を媚びるように見る、声の高い、落ち着きのない女たちが好きではなかったし、軽薄な驕慢さは全く無価値である、と頑なに信じて疑わなかった。そして、当時の彼の周りには、そういう男や女がたくさんいた。その大量生産具合は、ゴシップだけを取り扱う、読み捨てられる週刊雑誌の様に、よく似ていたと言う。
 父と母が会ったのは、二人の共通の友人が催した復活祭のパーティでのことだった。ドレスコードなど勿論ない気軽なものだったが、葡萄色のワンピースをたおやかに着ていた母の姿は、父の理想に適うどころか、それをしのいで足りなかった。(父は結婚した後も、ことある毎にその美しさを誉めては、母を喜びではにかませた。)父は更に、母の口数の少なさが気に入った。代わりに、母ははしばみ色の瞳で多くのことを物語った。父は母を、繭糸のように、細く、少しずつ、けれどこの上ない上質さと繊細さでもって慈しみ、交際に長い時間をかけることにより、この人がこれからの自分の新しい時間を紡いでゆくのだと、確信するに至った。
 そう。父はそういうことを、私に打ち明ける人間だった。どれだけ父が母を愛しているのかを、どれだけ私を愛しているのかを。父は、愛の価値を、命の価値を、私が理解していないという前提で、幼い頃から私に教えた。そうすることが彼の義務であると信じ、それは死ぬまでやむことはなかった。

 恐らくは父の中で、最後まで私は、育て上げなければいけない哀れな孤児、のままだったのだろう。子供の時、父母と弟の肌の色と自分の肌の色が違うことを、私はまったく気にとめず育った。自分が養女であることは知っていたし、周りにそんな子は幾らでもいたから、それは特別なことでも何でもなかった。物心がついた後も、テレビでどれだけ人種に対する差別反対運動がなされようとも、それは自分とはどこか遠い世界のことで、だからこそ私は自分と同じ肌の色の人々に対 して、連帯感のようなものを持つことができなかった。無秩序に練り歩く人々の姿に自分を捨てた両親の顔を重ねることもあったが、それさえ長続きはしなかった。
 私は私の肌の色以前に、私自身が何者であるのかについて、ついぞ決着というものを持ったことがなかった。一体何が同じであれば、私は誰かと分かち合えたと思えるのか、私に見当はつかなかった。
 それはアイデンティティとは違った。私は、幼い頃より私を捕えて離さない問いの答えを、ただ知りたかっただけなのだ。知りたいのにそれを掴めぬもどかしさに、疲弊しきっていただけなのだ。私は何の故にここにいるのか。分からない。苦しい。消えてしまいたい。死にたいのではない。死は、存在していたものに与えられる。私はただ消えてしまいたい。存在しなかった頃に戻りたい。誰の記憶からも消え去ってしまいたい。私の生や死によって、誰かが喜び悲しむのを見たくない。消えたい。還りたい。還りたい……。
 そういった物思いに沈む時、私はもはや、体というものをうまく認識することができなかった。 
 果たして、父の死に方は、そんな私に対する懲戒に思えて仕方なかった。
 体がどうでもいいのなら、死に方だってどうだっていいはずだろう。あんたの親父は成熟した大人だったよ。立派だったよ。会社の社長って肩書きを持ってたな。 寄付もしてやった。自己啓発の本も何冊か出版した。休みには家族全員でピクニックに行って、日曜礼拝もかかさなかった。年老いて尚美しい妻と一人の養女と 一人の実子に見守られながら、鳩の糞のウイルスに侵されて亡くなったんだ。素晴らしい人生の幕切れじゃないか。

 ある日、私は自分の全裸を鏡に映し、両手で隈なくそれに触った。つぶさに。慎重に。真剣に。クロッキーをする画家の指の如く私は自分の体を触り、そうして今触っているのは確かに自分の体なのだと、鏡を見ては確認した。

 体。
 存在する、手に触れられる、自分の体を認識すること。
 何故に、この体を持って産まれ出でたか。
 私は目を閉じた。そしてもう一度、今度はデッサンをするように時間をかけて体に触れた。骨格を捉え、脂肪の奥行きを測り、突如、関節と皮膚呼吸のメカニズムの精確さに驚嘆した。
 しかし、私の指は色を感じることはなかった。私は目を開けた。鏡の中の目が私を見ていた。誰かの目を通さなければ、私は自分の姿を見つめることができないのだと思った。

 実に、父が死んだことを契機として、私は初めて肌の色を、自分のひとつの特徴と認識するに至ったのだった。

「ねえ、私の肌の色ってどう思う?」
 私は、幾人かの知り合いにそう訊くようになった。当時付き合っていた白人の男は、私の手を取ってキスをしながら、焦がしバターのようでとてもおいしそうだと言った。正直、この男とは早々に別れて正解だったと思っている。語学留学で来ていた日本の青年は、私が訊いた途端に頬を強張らせ、その後なぜだか目を潤ませて、結局答えてはくれなかった。聞き取れなかったのね、可哀想なことをした、と私は思い、後に中国人の友人にその話をしたら、彼女は腹を抱えて笑い出 し、笑った理由を結局教えてはくれなかった。東洋人は、時に、本当によく分からない。(これは差別なのだろうか?)肌の色の同じ友人に訊くと、白人が黒人を虐げた本当の理由は、その美しさに嫉妬したからだって言うぜ、と言った。この男は時に途轍もなく馬鹿だ、と私は思った。私は黒人の肌のことを訊いたのではなく、私の肌のことを訊いたのだ。一般論で意見を述べ、したり顔で主旨を哲学にすり替えようとする会話が、私は好きではなかった。重ねるなら、会話は好きではなかったが、私はこの友人が嫌いではなかった。ありがとう、と私は言って、彼の頬にキスをした。彼は私の頬にキスを返し、そうして真剣な顔をして、 私の肩を掴んで言った。
「お父さんは残念だったな。あの人は本当にすごい人だったよ。ほら、犬の尻尾やら耳やらをちょんぎってる奴らがいたろう。そっちの方が売れるとか何とか言って。お前らの耳をちょんぎられたいのか、ってお父さん新聞に投書したろ。あれが原因で、グループの黒人の奴らに暫く嫌がらせされてたな。黒人差別主義者の白人がとか言われてさ。後になってさ、お前の存在知って、そいつら嫌がらせ止めただろ。でもお父さん許さなかったな。許さなかったんだよ。また新聞に投書 したな。『耳をちぎられた犬も尻尾をちぎられた犬も美しくない。それを美しいとする認識がはびこっていることに、私は深い絶望を見る』だったかな。いや、 感動したよ。日常の美にあれほど敏感な人って、なかなかいなかった」
 まったくロココを愛し、バロックを嫌悪する男の意見らしかった。だからあなたって好きよ、と私は言った。好きなことをなりふり構わず話している時の男の顔が、私は好きだった。そして、この男は時に途轍もなく賢い、と私は思った。
 私の肌の色ってどう思う、と私が最後に聞いた相手は弟だった。私たちは互いに成人を過ぎていたが、二つ年下の弟を、私は自他共に認めるほど溺愛していた。弟は読んでいた本から顔をあげると、ううん、と言ったように首を傾げた。
「その質問はさ、漠然とし過ぎていると思うな。小説ならともかく、現実には質問者の意図が分からないと、答える方だって困っちゃうよ」
 弟よ、と私は思った。
「じゃあ何て訊けばいいのよ」
「うん。じゃあさ、姉さんは、僕の肌の色をどう思うの」
 私はそう言われて、弟の肌を改めて凝視した。
「スノウ・クォーツのようだと思うわ」
 弟は本を机の上に置き、それから少し肩を竦めて苦笑いした。弟がもし私の恋人だったのなら、弟は私と結婚しなくて正解だったと、そう思ったに違いない。


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