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          一


 例年にない寒さの続く日々であったが、特に二月はじめのその日は木枯らしが吹き、家から外へ出るのもためらわれた。

 

 松本恵介は六十五歳の誕生日を迎えた。そして、五十三歳から十二年間勤めた会社も今日が最後である。定年退職ということでもなかった。この二年間は、嘱託という立場で勤めて来た。豊富な人脈をもつ恵介は、営業先の開拓でいくつもの成果を挙げて来たが、不況の波はこの小さな、インターネット広告の会社にも遠慮なく押し寄せていた。望めば仕事は続けられたが、昨年の秋頃から何となく六十五歳をくぎりにしたい思いだけが大きくなり、以前勤めていた中堅広告会社の後輩であったこの会社のオーナー社長の田村に退職願を出していた。

 「松本先輩、遠慮なくいつまでも居て下さいよ。絶対年齢なんて関係ないですから。先輩はまだまだお若いですし………。」と、田村は言ってくれるのだが、

 「お気持ちはありがたい。感謝しかないよ。この会社は居心地もよくて楽しく仕事をさせていただいているが、このままだと、知らない間に気がつけば七十五歳だったとなると思う。贅沢をいうようだが、人生の残り時間も見えて来た今、一度ここらで踊り場に立って、自分を見つめ直し、考え直してみたいのだよ。」と恵介は応える。

 これが本音だった。

 

 思えば、地方の大学を出て何となく就職したのが東京にある中堅どころの広告代理店だった。

どちらかというと文筆家にでもなれたらという、淡いおもいをもっていた恵介は、そのくせ懸賞応募に出稿するとかその為の努力は何もやってこなかった。そして、たまたま内定を貰って入ったのがこの広告代理店だ。

それならコピーライターなどのクリエイターにという甘い考えでいたが、この会社はデザインや写真、コピーなどの仕事はアウトソーシングしていた。



 恵介はこの会社に二十二年間勤めたことになるが、最初の五年間はクライアント廻りの営業をやらされた。その後偶然が重なり、企画部門に移り、クライアントとクリエイターの間をプロデュースやディレクションをすることになった。

その仕事は恵介にとっては面白く、もともとその才能に恵まれていたのと、時代が高度成長期で仕事は選べるほどあり、やりがいを感じながら仕事に打ち込んでいった。とくにイベントプロデュースの仕事に魅力を感じていた。

 

 充分力もついたし、もっとやりたいようにやりたいとその会社から独立したのが、四十五歳の時だった。子供は二人いるが、そのとき息子は十七歳、娘は十四歳と生活費も一番かかる年代だったが、恵介は苦にもならなかった。

 

 恵介は独立してイベント会社を立ち上げた。最初は日の出の勢いだったが、平成七年一月十七日午前五時四十六分に起った阪神・淡路大震災の後はイベントどころではなく、恵介の会社の経営は日増しに厳しくなっていった。リストラして行き、自分一人になった四年後、自宅を売却すれば誰にも迷惑を掛けずに借金がチャラになるという見通しが立ったので、妻、息子、娘を集めて自宅売却の相談をした。全員恵介がやりたいようにやれば良いと言ってくれた。十五年間住み慣れた家を去り、借家に移った。時を同じにして、会社も休眠させた。

 

 さて、これから先どうしようかと思っているところへ、

 「松本先輩、よろしかったら手伝ってもらえませんか。」

と、声をかけてくれたのが、以前勤めていた広告代理店のときの部下で、四十歳で独立して三年目の田村だった。

 

 田村はこれからはインターネットの時代だと見越して、インターネットに特化した広告会社を立ち上げていたのだ。

 恵介はうれしかった。

「ありがとう。俺でも役に立てると云うなら、遠慮なくお世話になるよ。」

 

 そのとき、恵介は五十三歳だった。


 お別れ会は先週に行われた。恵介は3次会に付き合ってしこたま飲んだ。今日は終業時に、恵介のいた部署で最後のスピーチの機会をもらい、花束を贈呈された。ちょっと、恥ずかしさと寂しさを感じながら家路に付いた。

 翌朝、目が覚めた。平日だったが、もう出勤の準備をすることもない。まさに恵介が永年望んで来た夢が今実現したのだ。

 

 恵介には既に小学生だった頃から、「学校を休む」ことが快感だった。一九五四年だから八歳のころだ。あの人気漫画だった「赤胴鈴之助」の第一回を読んだのも、風邪を引いて大嫌いな注射をして大泣きした見返りに母親に買ってもらった「少年画報」に掲載されていたのだ。

 

 余談だが、「赤胴鈴之助」の生みの親は福井英一という漫画家で、それ以前、「冒険王」という雑誌で連載した柔道漫画「イガグリくん」を大ヒットさせた。しかし、福井は「赤胴鈴之助」の第一回目を描いて急逝する。それを引き継いだのが武内つなよしという当時新人の漫画家だ。まだ幼かった恵介は福井は「イガグリくん」、「赤胴鈴之助」は武内つなよしと思い込んでいたものだ。

  休む大義名分を得たときに、無上の喜びを感じていた恵介のこれまた最良の友が漫画であったのだ。

 この「赤胴鈴之助」とともに連載開始を体験したのが「鉄人28号」であった。恵介の記憶では同じ時期だったのだが、調べてみると「鉄人28号」は「赤胴鈴之助」より二年遅れてスタートしている。横山光輝が作者である。

 その後何年間かは覚束ないが、恵介は太平洋戦争後安価な漫画供給システムとして定着していた、「貸本漫画」文化の恩恵を被った一人だ。

 

 その日は一日何もせず、大好きな珈琲を楽しんだり、年老いた飼い犬の散歩をさせたり、音楽を聴いたりして過ごした。その飼い犬は雌で「チル」という名だった。当年とって十六歳、よくここまで生きてくれたものだ。もう家族そのものといっていい。今や、ほとんど歩くことも出来ない。介護状態だった。


 恵介の生家は皆犬や猫が好きでよく飼っていた。やれプードルだボーダーコリーだシャム猫だという嗜好はなくて、この世で唯一無二の「雑種」がいいという考えだった。このこだわりの方が逆に少々へ理屈っぽいのだが、恵介もその要素を受け継いでいた。

 どちらかというと犬党なのか猫の扱い方がわからないのか、猫は定着せず、すぐに居なくなるか早く死んでしまったりした。そのかわり「ジョン」という名の茶色い毛の中型雄犬が居て、確か七年ほど飼っていたが、ある日鎖を千切って居なくなってしまった。野犬の収容施設等を兄達があたったが見つからなかった。

 しばらくして、同じ茶色の毛をした雄犬がやって来た。行方不明の「ジョン」とも血がつながっていると云う。その犬も「ジョン」と呼ばれることになった。

 「ジョン」という名は、当時のハリウッドの人気スター、ジョン・ウエインからとったらしい。ジョン・ウエインは恵介の亡き父がゲーリー・クーパーと共にファンであったからだ。この「ジョン二世」は恵介が大学生になっても生きていたから、十年以上は生きていたのだろう。


          二


 翌日は地元の異業種交流会で知り合った恵介より少し若い友人が脱サラして蕎麦屋をはじめるにあたってレセプションをやるというので、出かけていった。

 名刺は個人の名刺を作っていたので、それを持参した。今まではこの個人名刺を使う場合にも、会社の名刺に添えてというかたちで手渡していた。その日差し出すのはこの個人の名刺のみだ。

 「はじめまして松本です。宜しくお願いします。」というしかない。名前の前の肩書きがないのだ。

 

 恵介は自分って誰なんだろうと蕎麦をすすりながら少し思った。そして少し戸惑っている自分を感じた。しかし、ここちよい酔いと次第に周りと打ち解けていく会話にそのことも忘れ去ってしまった。

 

 そうこうしているうちに十日ほどが茫漠と過ぎていった。週末のある日、携帯電話のディスプレイに懐かしい人の名前が点滅していた。昔、中堅広告会社に勤めていたころ、よく仕事を一緒にしていたイベント関係の会社の社長をしている前田からだった。

 

 「松本さん、ご無沙汰しています。M興産の西本さんが昨夜遅く、お亡くなりになりましたよ。」「えっ、冗談でしょ?そんな馬鹿な。」

 「冗談なんか云いませんよ。今朝西本さんの娘さんが電話して来て、父が昨夜十一時過ぎに徒歩で帰宅途中にうしろから来たタクシーにはねられて、病院に運ばれましたが、頭を強く打っていて私がかけつけた時はもう意識不明で、それから二時間ほどして息をひきとりましたと、泣く泣く話してくれたものだから、すぐに、飛んでいったのですよ。」

 

 「・・・・・」

 

 「西本さんは昨夜遅くまで酒を飲んでいたらしく、結構酔っていたらしいのです。」

 

 恵介は大急ぎで出かけていき、今は永遠に眠り続ける西本の前で冥福を祈ると共に、声に出さずに感謝の言葉をささげた。西本は恵介が中堅広告会社に勤めていたころの直属の上司で、恵介が退社した後もいろいろ相談に乗ってもらったり、顧客を紹介してもらったりずいぶんお世話になったものだ。それは、西本がM興産の宣伝部長に移ってからも変わらなかった。

 

 西本の死は人間の生の無常さとはかなさを恵介にあらためて考えさせる契機となった。西本なら「アディオス!向こうで待ってるぜ!また、飲もう!」とニッコリ微笑みながら手を振って言うに違いないとは思うが、恵介は言い知れぬ寂寥感に包まれた。



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