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経済記者ユキコのカラ売り論

「カラ売り…」





「おや、業界記者のユキコさんはまさかカラ売りをご存知ない?」

シャイロック2.0がわざとらしい大仰な身振りで言った。

もちろん知らぬわけはない。

 知らないどころか、その負の側面について綿密な取材をして雑誌に売り込み、かなり評判になった特集を連載したこともある。

インターネットによって一気に一般大衆に拡大した株取引で、巨額の資金をパソコンのクリック一つでゲームのように動かすようになったサラリーマンや主婦が、空売りのギャンブル性にのめり込んで全財産をふいにしたり、自分の財産だけならまだしも会社に金に手を付けたり闇金融に手を出したりなど、カラ売りは最近マスコミでも取り上げられる気とが増えている。



「いえ、十分に知っているつもりです。」

「そうかね。しかしその表情ではカラ売りが単なる射幸心を刺激する、君たちの国の娯楽の王様パチンコの確率変動の大当たりのようなものだと思っているね」

 その通りだった。

たくさんの取材をして感じたのは、機関投資家や株式相互持合いで企業の安定性を増加させようとしている会社の経営者層は別として、個人投資家で株の中身、つまり会社そのものの業績や将来性に関心をもつ人は稀ということだった。

 デイトレードという言葉が示すように、基本的には短期、極端な話デイ、一日で損益を確定させる投資スタイルが一般的な個人投資家の株取引である。その投資スタイルで会社そのものの価値を判断することは不可能だし、会社の将来性を真剣に考えることなど、かえって取引のタイミングを逃す邪魔なものでしかないというのも分かる話だった。彼らは例外なく派手な儲けにつながるカラ売り情報に敏感だ。

そしてユキコの考えでは、株価の下落を熱望するカラ売りは、シャイロック2.0のいう「将来の富の前払い」どころか他人の不幸を喜んで自分一人だけ大儲けするというタチの悪いギャンブルとしか思えなかったのだ。




「カラ売りは…シャイロックさんの「株式投資は全世界の富の前払い」を真似て言えば、あたしは「他人の不幸の前払い」だと思うんです」

ユキコは興味浮かそうに笑みを浮かべるシャイロックにそう言った。

通常の株取引は人間の経済活動の全てがそうであるように、安く買って高く売るものだ。500円で仕入れた品物を店頭で800円で売れば300円の儲けになる。 空売りとは簡単にいえばこれの逆で店に陳列する商品がないのに800円で品物を売ってしまう、カラの商品を売るのだ。

もちろん存在しない商品をうるのは詐欺だから、通常はそんなことは許されない。では株取引ではどうしてそういうことが可能になるのか。

それは仕入れた株の代金を将来に下落した価格で後払いする、というカラ売りの仕組みで可能になるのだ。

具体的にいえばこうだ。

今の相場で800円の株を500円で売るなら買い注文は殺到する。一万株の売買なら他よりも300万円も安いのだから当然だ。しかし仕入れた方が市場相場800円で仕入れたとするなら、そのまま売ってもトントンなのに、この場合売らんがために300万円の丸損となってしまう。

しかしながら、この株が仕入れの支払い期日である一ヶ月後に100円になってたとしよう。このケースの株の仕入れ代金は時価の800円ではなくこの将来の価格でよいのだ。そうすると、暴落時の未来に100円で仕入れたものを今500円で売ったことになるのだから、なんと架空の時間旅行にもかかわらず、現実に全体で400万円の儲けがでる。

こにように株の仕入れ代金の準備が決済日の価格でいいのだから、確実に値下がりする株の銘柄をもし何らかの方法で事前にキャッチできるとしたら、大規模なカラ売りをしかけることで100%確実な巨額の儲け話が可能になる。

タイムマシンで将来のボロ株を大量に買い付けて、現在に再びタイムマシンで戻ってきて、自分だけが見てきた未来の不幸は知らないふりをして株を売却すれば大儲けになるのは当たり前だ。

その代わり目論見はずれて株が暴騰し、支払日に1800円になっていたならば、その日1800円で株を買った上で借りた株を返さないといけない。今度は500円で売れていても焼け石に水で、闇金から金を借りてでも1300万を用意しないといけない。

だから空売りをした人間にとっては極端な話、その株を発行した会社の理想的な将来像とは企業が破産して関係者全員が不幸にどん底に突き落とされた状態だ。会社倒産状態こそが一番安く紙切れになった株を買って過去に借りた株を返せる状態だからだ。




「ほう。なかなか面白いことをいうね。面白いだけではなくて空売りの本質を見事に言いあてているように聞こえなくもないが…」

「違うでしょうか」

カラ売りをさせようとしているシャイロックに対してユキコは自信を持って自分の考えを言ってみた。

堀木は何かを言いたそうだったが、シャイロックの次の言葉を待っていた。


「私はそうは思わない。それに私は君たちを仲間だと思っている。仲間にそんなひどいことをさせようとは思わないさ。利用しやすそうだからではないし、堀木社長の父上が以前から私が手に入れたいと思っていた特許の所有者だからだというだけではないのだよ。私は話をしているうちに堀木社長の人物に惚れたのだよ。君は何か自分では背負いきれないほどの大きな過去、そして密かに誓った自分の思いをしっかりと胸に秘めてこの船に乗ろうとしている。いや、はっきりいえば、その強い思いのために、あえて危険な私の申し出にホイホイと軽薄を装って乗ろうとしているね。そこはもしかするとユキコさんも気がついていないしれしれないが、大した役者だと思うね。君が抱えているもの、それが何なのかはまだ私にはわからないし、今聞いても君は答えてはくれないだろうし、私もそれを強制はできない。聞いてみたいとは思うが、それはもっと後の楽しみでいいんだ。もっと友情が深まってからでもね」

ユキコは意外な展開に目を見張った。

さっき堀木くんがシャイロックに対して言ってた、あいつは単なる金の亡者じゃない、というのと同じことをシャイロックも堀木くんに対して感じている?



「カラ売りはね、美学だよ。債権取引の…」

シャイロックは静かに、しかし貫禄たっぷりに微笑みながら堀木に言った。

「お聞かせ願えますか。その美学を」

「もちろんだとも」




シャイロックは古い友人でももてなすように、棚から再びブランデーを取ってグラスに注ぎ、堀木の手に取らせたのだった。


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最終更新日 : 2012-01-05 05:21:30

アンジェラの影

「ユキコさんはさっき将来の不幸と言ったね」

シャイロック2.0はユキコにもブランデーグラスを渡した。

ユキコはさっきとは違った気分でそれを受け取った。もちろんいきなり仲間だと言われても実感がわかないが、少なくとも堀木はシャイロック2.0に対して由紀子が見えていない何かを感じている。

その何かを知りたいと思った。

それはまたシャイロックへの興味だけでなく、堀木への思いだったかもしれない。知りたい。あなたが何を感じて、何を抱えているのか。あたしより先にシャイロックが見抜いたあなたの何かを知りたい。ユキコは堀木を切ない思いで見た。

「はい。もし失礼だとお感じになったら謝ります」

ユキコのこの言葉にシャイロックは首を振った。その目には堀木に対してのようなビジネスを越えた打ち解けたものが混じっているようにも見えた。

「君は知ってるかな。アメリカは先進国で唯一、全国民に加入義務が課されている医療保険制度がない。医療をまともに受けられない貧困層の存在はあまり日本のマスコミは取り上げないね。一方で金持ちだけが受けられる先進治療技術は世界最先端だ。これはアメリカの凋落がどれだけ声高に喧伝されようとも動かし用のない事実だしそう簡単に将来もそれが崩れることはないだろう。」

ユキコはシャイロック2.0の話の意図がわからずただ頷いた。

「私は毎年二億ドルをそうした貧困層の医療補助活動団体に寄付している。」

シャイロックはそう言ってパソコンのモニタの特許トレーディングのソフトを閉じて見せた。デスクトップにはシャイロックと女の子が写っている。

ユキコと堀木はデスクトップの壁紙を覗き込んだ。ブロンドの中学生くらいの女の子がホールのピザを片手にもって大口を開けて今にも食いつきそうにしてる。その横で少女に肩に手を回して幸せそうに笑っているのはシャイロックだ。シャイロックはずいぶんと若い。まだ三十台後半くらいに見える。

「娘だ」

「可愛いですね。シャイロックさんも毛がフサフサしてます。」

ユキコはブランデーを渡してくれた時のシャイロックの親しみのこもった目に甘えて、少しだけ冗談を言ってみた。

シャイロックが声を立てて笑った。

「そりゃそうだ。もうこの写真は四十年近くも前のものだからな」

シャイロックは自分の見事なスキンヘッドをペタペタと叩きながら言った。


「じゃあ、お嬢さんももう結婚されてお子さんもいらっしゃるんでしょうね」

堀木もユキコの好きなあの人懐っこい笑顔でそう言った。

「うむ。生きていればな」

堀木はすぐに謝ろうと口を開きかけたがシャイロックがその必要はないと静かに首を振った。

「十分な医療を受けさせてやることができずにね。助かるはずの命だったのにみすみす死なすことになってしまった。」

それであのアメリカの医療の話をしたのか。ユキコと堀木は目で頷き合った。

「当時私は投資銀行を退職して自分の裁量で投資活動を行っていた。収入は銀行時代の十倍ほどはあっただろう。しかしなれない先物取引で全財産をなくしてね。妻とは離婚して娘と二人毎日食べていくにも困るような日々だったよ。このピザはアンジェラの14歳の誕生日のご馳走だよ」

シャイロックは娘に語りかけるようにディスプレイを眺めてそう言った。

「破産するまではね、娘はボストンの医療施設にいた。それこそ一日の医療費が日本円で三十万くらいするところさ。手術も決まっていた。費用は約二億円。破綻前の私なら何の問題もない金額だ」

シャイロックはディスプレイにそっと触れた。アンジェラの頭を撫でるように。

「追い出されたよ。うちの病院も余裕がないから高額のベッドを無償で提供することは不可能だと病院から言われてね。手術も当然取りやめになった。」

堀木と由紀子は無言で頷いた。

「まあ当然さ。私は破綻で首になるまでは株式公開をしているその会社の会計コンサルタントでもあったからね。私自身が院長に対して医療費を払えない患者は即刻見放すように口を酸っぱくして経営アドバイスをしてきたんだ。その対象が自分になっただけで、それ自体には何の恨みもない。自分の仕事の失敗が悔やまれるだけだ。」

シャイロックはそこで深呼吸をした。

「許せないのは、医療費の水増し請求やらなんやかんやらの不正経理の実態を事細かく知る私の口を封じようとしたことだよ」

「え!口を封じるってまさか」

ユキコは思わず叫んだ。

「そう。何度か殺されかかったよ。車に跳ね飛ばされそうになったし拳銃でも打たれた。いつハドソン川に浮かんでもおかしくない毎日だったね。しかし今死ぬわけにはいかない。殺される前に奴らの息を止めないと、娘の新しい医者を探すどころじゃなくなってしまう」

「でもどうやって」

堀木が身をのりだしてシャイロックに尋ねた。



「カラ売りだよ」

シャイロックはグラスにブランデーを注ぎ足しながら静かに言った。


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最終更新日 : 2012-01-05 05:22:32

明かされるカラ売りの美学~空と君の間に

「警察行って身の安全を保証してもらうとかは考えなかったんですか」

堀木が憤懣やる方ないと言った感じで問いかける。

病気のアンジェラを金が払えないという理由で追い出した挙句、秘密を共有していたシャイロックの命まで狙おうとした病院の経営者に堀木は本気で憤っていた。

ビジネスマンとしてこういう直情径行がよいのかどうかわからない。でもユキコはシャイロックの存在は予想に反して堀木のあの、世界との冷たい距離感をとかしてくれるのではないかと思い始めた。

「もちろん保護を依頼したさ。しかし証拠がない。警察は君の国でもそうだと思うが犯罪の捜査はしてもボディガードはしてはくれない。そして私はボディーガードを雇う金はなく、向こうはヒットマンをいくらでも雇う金があった。ま、簡単にいうとそういうことさ」

「なんてこった」

堀木はアメリカの映画でよくある、ガッデム!という動作でスイートルームに壁を激しく叩いた。

その少し芝居がかった動作にシャイロックは満更でもなく頷いてそうだろ、ひどい話さ、といった顔をする。

「そこで奴らを破産させることにしたのさ」

「カラ売りですね」

ユキコが相槌をうつ。

「その通り。カラ売りは元々特殊な投機テクニックなどではない。要するに評価されすぎている株がどういう理由で評価されすぎているのかをきちんと明らかにしながら、市場を巻き込んで売りのトレンドを誘導して、本来あるべき適性価格に近づけて行くことさ。正しくは。分かるかね」

シャイロックはさっき自分に対して果敢にも「カラ売り不幸待望説」を披露したユキコに紳士的にこう言った。

「それは分かります。シャイロックさんがどんどん悪徳企業の株価を下げさせていって、紙くず同然のところまで追い込んでやれば自動的に倒産ですものね。その病院みたいにとんでもない会社はむしろ倒産して当然だと思います!だからシャイロックさんはどんどん空売りすべきです!」

「なんだ、あっさりそういうか。さっきのあのご高説もあれはあれで一理あると思うがね」

「ありがとうございます。でもそういう市場から退場すべき企業にはどんどん空売りをすべきだと思いました」

シャイロックは拍子抜けしたように、しかし上機嫌に笑った。

「成功したんですね」

堀木がまるで手柄話をせがむように訊ねる。

「ああ、もちろんさ。実は今ではそういうカラ売りを投機ではなくきちっと財務諸表を分析して、ある指数が出た場合にはカラ売りトレンドを形成するというのはウォール街では一般的なのさ。その基礎を作ったのがこの私だ。名だたるファンドマネージャーに片っ端から声をかけて、評価され過ぎの企業にカラ売りをしかけて適性価格にする、場合によっては廃業に追い込むようなスキームを作ったんだ」




「シャイロックさんすごいです!」

ユキコが感嘆の声をあげた。

「単純なやっちゃな~、ユキコちゃんも…」

堀木は呆れ顔でそう言った。

「うるさいわね。あんたに言われたかないわよ」

「まあまあ、お二人ともオサエテオサエテ」

シャイロックが流暢な日本語で割って入ったのでスイートルームは爆笑の渦に包まれた。




「この部屋にきた時に君たちに言った同じ言葉をもう一度繰り返していいかな。」

笑い終わるとシャイロックは言った。

二人は頷く。











空と君の間!

埋め尽くせ!
人の信用という錯覚で!
錯覚はいつしか真実そのものの虚偽となる
錯覚は本物以上の真実となるのだ!
人の真実とかいうまやかしに騙されるのはもうやめろ

愛する人間をこれ以上傷つたままにするんじゃあない!
将来の富と現在の不幸の間を
誇り高き起業家精神をもって君が埋め尽くすのだ!








「まだあなたのことを全部信用したわけじゃありません。その言葉にもまだ頷けない不可解な部分がたくさんある。でも…」

堀木が静かにそう言った。今まで見た堀木の中で一番頼もしい姿だとユキコは思った。



「「愛する人間をこれ以上傷つたままにするんじゃあない!」ってアンジェラのことだったんですね。」

ユキコがシャイロックをまっすぐ見て言った。



「ああ。時に市場を恐怖のどん底に突き落とす極悪非道の悪名高きカラ売り屋シャイロック2.0はこうして誕生したのだ」


10
最終更新日 : 2012-01-05 05:24:06

スイートルームのクリスマスイブ

シャイロックの部屋での仕事の打ち合わせはその後数時間も続いた末に終わった。

 カラ売りは米国のシャイロック2.0の会社の人を使って堀木が指示を出す。

 その内容についてはおおまかなトレンドを定期的に堀木とシャイロックが打ち合わせ。細かい売り買いの注文は堀木がパソコンから行う。そしてなぜか全体会議にはユキコもオブザーバーとして参加することとなった。

 資金は来週中に五億円の転換社債の手続きが完了とのことで、資金は当面問題ない。

 そうだ。問題はない・・・。


 

いや、ユキコには大問題がひとつあって、それは長い打ち合わせで終電がなくなってしまったこと。タクシーで帰ろうとしたがものすごい行列でいつ乗れるのかまったくわからない。通りに出てみたのだが空車は一台も通らないのだ。

 もう一度ホテルに取って返してフロントに掛けあってみたのだが、他の日ならともかく今日はちょっと空車はホテルでもすぐには手配できないかもしれないとのことだった。


 そう。


 今日はITバブル真っ盛りのクリスマスイブ。

 終電は終わっても人々は夜を徹して都会の森のイブを楽しんでいる。ホテルに泊まろうにも、タクシー以上にホテルに空室はない。今日は男と女にとってそういう日なのだ。

 ユキコは困り果ててシャイロックに電話をした。

「堀木くんは先にチェックインしてるよ。年寄りにはもう男女のことはわかりませんが、まあいいじゃないですか。スイートルームのベッドは一つじゃないしさ」

 シャイロックは心配してくれてるんだかからかっているのだかわからない、ビミョーな日本語でそう言った。




 実はシャイロックとの打ち合わせが終わったあと、シャイロックは終電がないことを確認すると、その場でフロントに電話をして部屋の空きを確認してくれたのだった。クリスマスイブにこのホテルに空室などあるわけないと思ったのだが、あっさり一部屋だけとれた。シャイロックの部屋と同じ階のスイートだ。

 シャイロックは別に意外そうでもなく、こういうホテルでは急なVIPのブッキング用に必ず部屋は用意してあるのだという。スイートを数カ月単位で借り切っているシャイロックがフロントを通せばそういう部屋はおさえられるらしい。

 



 シャイロックに聞いた部屋番号までたどり着いてチャイムを鳴らした。

 普通の一軒家のような落ち着いたチャイムの音がして、しばらくして堀木が「ようこそユキコ様」と執事のように言ってドアを開けた。


「なあ、すごいなあ。俺スイートルームに泊まるなんて初めてや」

 堀木が浮かれている。まだダブルベッドの上でトランポリンを始めないだけましだったけど、堀木のはしゃぎ様からするとそれも時間の問題のようにも思えた。

「クリスマスイブだったんやなあ。ここんとこ仕事のことで頭いっぱいでそんなこと全然気いつかへんかったなあ」



 ユキコはとりあえずコートと、仕事用の取材の資料がたくさん詰まった、ユキコの肩には少し大きめのトートバッグをソファに置いて部屋を見回した。
 すでに暖房は広い部屋に心地よく行き渡っていて、窓際にはクリスマス用に大きくて立派なツリーが飾ってある。




 堀木は今度は飾ってある大きな樅の木のオーナメントをいじって、すげーとかチョーかわいい!とか言ってさわいでいる。

 ユキコはもちろん堀木との突然のイブが嫌ではなかったのだけど、こんなに突然こういうシチェーションが訪れるとは思ってもみなかったので戸惑いを隠せなかった。

 どうせ今付き合っている人もいない。いればイブにライターの取材の仕事なんてしてないだろう。
 それに今まで男性と付き合ってきても、あまり長続きしなかったのは心のなかに堀木がいたからだと今日一日でそれを実感することができた。



 幸せなハプニングのはずなのだけど・・・




「ねえ。堀木くん、すこし落ち着こうよ。」

「あ!ごめ~ん、せやったな。シャワー先浴びてくる?」

「あのね・・・。そこにあるコーヒーでも入れてくれたらいいじゃない。それになんで「先」なのよ、シャワーが。なんかいきなり変なこと考えてないでしょうね」

「おっと、そっかごめんごめん。そういうつもりじゃなかたんだけどさあ♪」

 楽しそうにジングルベルの鼻歌を歌っている。


 もうすこし最低限のデリカシーというか、奇跡のような再会のクリスマスイブにふさわしい雰囲気が欲しかったな・・・

 ユキコはなんだか少し悲しくなってくる。


 ユキコはちょっと一息入れようと思って、さっき脱いだばかりのコートをと財布を持って部屋の外に出ようとした。コンビニでコンタクトレンズの洗浄液とケースを手に入れたい。



「ちょっとコンビニ行ってくるけど、なんか欲しい物ある?」

「え?コンビニ?明日の朝用の下着でも買いに行くの?」





 ユキコはベッドルームの扉を思いっきりばったーんと閉めるとコンビニを探しに行った。


11
最終更新日 : 2012-01-05 05:24:55

アスファルトに咲く花~ユキコの胸中

「ただいま」

「あ、おかえり」

 チャイムを鳴らすと堀木が開けてくれた。

 出かける前のようなはしゃいだ雰囲気はなかった。少しは反省したのかな。ユキコは思った。

「結局近くにコンビニがなくて新橋の方まで歩いたよ~。もうね~すごい人。」

堀木は有線放送のクリスマスソング特集を観ていた。

「あ、徳永さん大好き~」



「はい、どうぞ。コーヒー」

外から帰って体が冷え切っているところにこホットコーヒーが出てきた。堀木がポットでお湯を準備していてくれたらしい。ユキコの機嫌も少しずつ直ってきたようだった。

「もうさあ、いろんな難しい話出てきて疲れちゃったね」

「ああ、ほんまやな~。真剣勝負そのものだったしな。ユキコちゃんも疲れたやろ」

堀木は優しく微笑んだ。コーヒーの暖かさと一緒に、幸せな気分がユキコの心の中にも染み渡ってくる。

「どうしたの?出かける前と違って大人しくなってるぞ」

 堀木がテーブルの上のシャンパンクーラーを指さした。あの誰でも名前は知ってる高級シャンパンだ。

「シャイロックがさ、ユキコさん来たんだったらってことで、プレゼントしてくれたんだ。部屋に取りに行ったんだけど、ユキコちゃんもいなくて暇だからまたいろんなこと話しした」

「そっか。うん。途中からさ、なんか男同士のツーカーみたいな雰囲気あったよね」

「そっかな」

「うん、そうだったよ。すごくかっこ良かったし、なんだか羨ましかったよ」

「へえ」





 堀木はユキコかなにか話したがっている様子を感じとって、ナイフでシャンパンのキャップに切れ目を入れて乾杯の用意をした。

「いやあ、やっぱさ。マスコミって女性は限界あるわ。こんなこと言っちゃ頑張っている女性記者の人に怒られちゃうけどね。」

 ユキコはソファに沈んだずっしりと重たい自分のトートバックを一瞥した。取材にたくさんの資料を持ち運ぶのは半人前の記者の証拠だといつも先輩から言われている。

 確かに日本で最大部数を誇る新聞社の社会部の記者だったユキコの父親も、外出する時は会社で支給される小型の手帳とボイスレコーダーしか身につけていなかった。事件記者として新聞協会賞を何度も受賞したことのある父親はユキコがマスコミの世界にはいるのには反対だった。いや、反対というよりはむしろ、戯言としか考えていなかった。

 女には無理。

 女性が反発するその言葉をユキコの父は何度も使った。なぜ無理かは説明もしてくれなかった。ただ、「お前は社会部の記者になったら刑事と同じように張り込みをしたり、暴力団の事務所に組長に会いに行ったりできるのか」ということは何度か言われた。必要であればそういうこともする、とムキになって言い返したものだが、今になってわかることが少しだけある。

 ジャーナリストが、取材対象から一歩距離を置いて客観的で公正な記事を書くのはもちろんだ。しかしそれは記事を実際に文章にする段階であって、取材の過程においては時には捜査一課の刑事のような、時にはマル暴の捜査四課の刑事と同じような視点を持たねばならない。そしてある程度は行動もだ。その中で取材源の刑事たちや容疑者たちとの信頼関係も生まれ、他社では取れないスクープが自分の周りに集まるようになるのだ。

 ユキコが身を投じたのは社会部ではなく経済関連だったが、父の言っていた認めたくない事実はやはり感じざるを得ない。トートバッグの中身の重さは、その重みの分だけユキコが取材対象先から重きをおかれていれていない証左であるように感じることも最近多くなってきた。

 そして今日それを痛切に感じた。

 たぶんいろんな知識の量では、堀木よりも自分のほうがトートバックの重さの分だけ勝っていただろう。でも、そうじゃない。堀木は完全にシャイロックの信用を勝ち得ていた。



「いいよね。すごいと思う。お互い警戒しながら、お互いの腹の中も探りながら、でもお互いの利益になるところや、お金だけじゃない信頼関係の接点になりそうなところを短い時間ですごい勢いで確かめあって形にしていってた」

堀木はさあどうかなといった表情で優しく微笑んだ。

「とりあえず奇跡の再会に乾杯しよ」

 堀木が栓を抜くか?とシャンパンを渡そうとしたが、ユキコは内心のたくさんの思いと裏腹にうまく言葉が出てこず、これだけしゃべっただけで少し疲れてしまい、そっと首をふった。



 ポン、という乾いた大きな音がユキコ胸に響いた。



 不思議な成長の仕方をしたね、堀木くん。

 人懐っこさにちょっと拗ねたところが加わって、大人の世界を自分なりにちゃんと横切って、そしてまたぐるっと回ってここに戻ってきている。軽薄なふりして自分の懐に入り込もうとしてるって、あのシャイロックがそう評価してたね。あたしもそう思う。すごいよ。


 素敵になったよ、とっても。


「どないしたん。泣いとんのか」


 なんの涙だかわからない。

 再会の喜びと、仕事の疲れと、自分の能力のこと・・・。そして堀木くんが素敵になったこと。自分にはとてもかなわないこと・・・。でも、だからこそ余計に好きになったこと。




 

 堀木は昼間のためらいのある態度とは違い、ユキコのシャンパングラスをとりあげてテーブルに置くと、その手をとって引き寄せ自分の胸に強く抱きしめた。

 二人はまっすぐに見つめ合った。

 堀木はユキコの頬の涙を指でそっと拭いて優しく唇を重ねた。


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最終更新日 : 2012-01-05 05:25:45


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