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「……いま、何て言ったんだ?」

 唐突な一言に驚いてティーカップから手を放しそうになってしまった。
 動揺する僕を尻目にかけるような表情で彼女は煙草の火を灰皿に落とす。そして一息つくとこちらをしっかり見据えてもう一度言った。

「だから、別れよう、って言ったのよ」

 聞き違いではなかった。

「何言ってんだよ!? 何を今更……冗談だろ!!? 冗談だよな!?」
「静かにしてよ。そういうところが嫌になったって言ってるの」

 じろりと僕を睨む彼女。
 少し声が大きすぎてしまったらしい。僕たちは店内の客たちの好奇の視線にさらされていた。
ジャズの流れる静かな日曜の午後に似つかわしくない声を出してしまったのは、僕の自業自得ではあった。
 それにしてもこの女、どうしてここまで動じないのか。

「本当に女々しいのね。そういう周りのことを考えない自己中心的なところが嫌になったって言ってるのに。あとは……飽きたっていうか。まあ、何でもいいわ。
私はもうあなたとやり直す気はないから」


 彼女と出会ったのは三年前のことだった。思えば、運命的な出会いだった。大学に入学した年の冬に、僕が学食に忘れていった携帯を学生課に届けてくれたのが彼女だった。
それがきっかけで知り合って、後からたまたま同じ授業をとっていたこともわかって、僕が入ったサークルにも彼女は入っていて、バイトの面接を受けてみればそこに彼女がいて……
友達からはストーカーなんじゃないかって笑われるほど、僕の行く先々に彼女がいたものだ。

 ――これは運命だ。お互いにそう感じるまでそう時間はかからなかった。
僕のほうから告白して、彼女も快諾してくれて……それからはずっと一緒だった。どんな時も一緒にいたよな。
誰からも羨ましがられるような仲睦まじいカップルだった。
 僕の進路も決まり、卒業後は結婚だね、って話になって……お互いの両親を紹介しあったのは先月のことだ。
喧嘩だってすることもなかったし、本当にいつまでも隣で笑い合えると思っていたのに……どうして……


 真っ赤に染まった空をバックに、高層ビルが街に暗い影を落とす。あまりに突然の出来事に呆然としながら、とぼとぼと夕焼けの街を歩き続ける。
ビルの隙間から顔を現した夕陽が僕を照らす。日陰の中を歩いていた僕は突然スポットライトを当てられたような気がして、惨めな気持ちに追い打ちを受けた。

 思わず路地裏を曲がり、日の当たらぬビルの間に逃げ込んでしまった。
 ――その人は、そこにいた。


「お若いの、辛気臭い顔をして……どうしたんだね?」

 最初、自分に声をかけられたのだと気づかなかった。が、この薄暗い路地裏には僕とその老人以外に人影など見当たらない。
汚い白髪をドレッドのように束ねていて、薄汚れた格好で地べたに座り込む男。目の前に風呂敷を広げ、そこに色々な品物を散りばめている。
長い髪の隙間から見え隠れする目が真っ直ぐにこちらを見つめる。

 一目見て関わりたくないと思った。どう見ても堅気の人間には思えない。浮浪者なのか、それとも酔っぱらいなのか。
しかしスルーするにはタイミングを逃してしまった。
彼から話しかけられたことに反応して振り向いてしまった以上、無言で立ち去るのは少し抵抗があった。

「ええ、ちょっと……」

 適当に言葉を濁し、そのまま通りすぎようとした。

「時間を戻したい……そうお思いかね?」

 あまりにも突拍子のない言葉。
時間を戻したいと思ったことはない、とは言わない。今だって戻せるものなら戻してみたいとは思う。
でも、それは僕の個人的な感情であるし、十秒前に初めて言葉を交わし、今後一生交わることなく別れていく人と話すような内容ではない。
 さらに付け加えるのならば、いきなり時間を戻したいかなどと聞いてくるような危ない人間と関わりたいとも思わないし、思えない。

 僕は彼の言葉に返事してしまったことを後悔し、そのまま無言で路地を通りすぎようとした。

「結婚まで考えていた彼女にふられて落ち込んでいるのだろう? 私は時間を売る人間だ。わからないことはない。私の話を聞いてみる価値はあると思うが」

 病んでいたのかもしれない。
あんな怪しい男の言葉を流せず、二度も三度も反応してしまうとは。


「ただいま」
 マンションの鍵を開け、誰もいない部屋になだれこむ。
上着も脱がず部屋の電気もつけずに寝室に行く。そのままベッドに横になり、思い切り伸びをする。

「はぁ……」

 左手には古めかしい錆びた腕時計がはめられている。

「こうやって他人の押しに弱いところも嫌われる原因なんだよな……」

 窓の外の夜景にわずかに照らされるだけの真っ暗なベッドの上で時計を見つめながらポツリと独り言を呟く。

 あの老人は時間を売っていると言った。
時間も土地と一緒で、所有者が存在する――それが老人の言い分だった。

 自分に所有権のある時間は自分の好きなだけ何度でもやり直すことが出来る。この時計があれば、時間を購入する権利が得られる。
時間は開始時刻から15分単位で購入出来るそうだ。

 例えば、2012年の5月21日の22時00分から15分間を購入したとする。
そうすれば僕はその時間の所有者として、納得いく結果が出るまで、何十回、何百回でも5月21日の22時から15分間をやり直すことが出来るわけだ。

 ただし、時間を購入するというのは相応のリスクもあり、15分間の時間を所有するためには1年間の寿命を対価として支払わなければならない。
複数の時間を購入して寿命を縮めるよりより、購入した時間を有効に使って満足な結果が出るまで、何度もやり直しながら色々試してみるといい。
 老人はそう言っていた。

 じゃあ、例えば僕がふられた昼過ぎまで戻って、何度もやり直しながら彼女の不満を解消出来れば、やり直せるかもしれない。

 ――馬鹿らしい、何あんな小汚い男の言うことを信用しているんだ。これだからふられるんだよな……

 

 でも……もし、本当だったら……

 僕は、時計のカレンダーを今日の午後2時にあわせた。


「……いま、何て言ったんだ?」

 唐突な一言に驚いてティーカップから手を放しそうになってしまった。
 動揺する僕を尻目にかけるような表情で彼女は煙草の火を灰皿に落とす。そして一息つくとこちらをしっかり見据えてもう一度言った。

「だから、別れよう、って言ったのよ」

 聞き違いではなかった。

『何言ってんだよ!? 何を今更……冗談だろ!!? 冗談だよな!?』

 ――そう言いかけたが、彼女は興奮しやすい僕のことが苦手だと言っていた。女々しい、とも……

「別れる……? どうして…?」

 心臓がバクバクと脈打っているが、動揺を悟られないように声を押し殺して言った。

「意外ね……もう少し驚くと思ったんだけど。でも、いいの。もう飽きちゃったから……」

「飽きた? 飽きたって何だよ。どういうところが?」

「どういうところも何も、前々から飽きてたから……ごめんね。やり直す気はないの」

 彼女は伝票を置き、立ち上がった。

「この数年間、本当に楽しかったわ。それは感謝してる。でも、私たちこれ以上進めないと思う。ありがとう、さようなら」

 そう言うと彼女は喫茶店の出口に向かって歩き出した。

 口をつけずに残されたアイスティーを見つめながら、僕は呆然としていた。



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