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あるひき逃げ事犯

 男がその老女を轢いたのは、日が変わろうかという夜中であった。

 場所は都内練馬区谷原の目白通り。

 老女が何の用でそんな時間にそんなところを歩いていたのかは、今となってはわからない。

 ただ、歩行者信号が赤にもかかわらず、ひょこひょこと横断歩道を渡る老女に気づいたときは、すでに手遅れであった。

 乗っていたのが車高の高い四駆だったので、老女ははねとばされず、車の下に巻き込まれた。大きな物に乗り上げたような激しい振動のあと、ようやくブレーキペダルを踏みつけた。

 しばらくは、ハンドルから顔を上げられなかった。

 やがて、おそるおそるミラーで確認すると、はるか後方に、何やらボロボロになっている「もの」が見えた。

 アクセルを踏み込んで、発進した。

 救助とか自首とか、そんな考えはまったく浮かばなかった。

 男は埼玉県川越市の自宅に戻ると、頭から布団をかぶって、潜り込んだ。

 やっちまった。やっちまった。

 身体の震えが止まらない。

 捕まるのかな。でも誰にも見られていないし。

 いろんな最悪のパターンが、頭の中をぐるぐる回る。

 だから、その音に気づくのが少し遅れた。

 カリカリ……

 畳の上を、何かがこすれるような、かすかな音。

 ゴキブリとか、そんな虫のたぐい……いや、もっと大きな何か。

 猫。犬。ネズミ。

 違う。だったら、こんな引きずるようなこすれるような音は立てない。

 音は、ゆっくりゆっくりと自分がいる方に近づいてくる。

 カリカリという音が、布団をかぶっている自分のすぐそばまで近づいて、ふいに途絶えた。

 いなくなったのか、と一瞬安心した。

 いや違う。布団の中に、入ってきているのだ。

 そう気づくのと、何かに手首をつかまれたのが、同時であった。

 絶叫を上げて布団から飛び出し、部屋の隅に背中を押しつけて、うずくまる。

 歯の根が合わなかった。

 いくらがっちりと口を閉じようとしても、いつまでも歯がカチカチと音を立て続けた。

 今、自分の手首をつかんだのは、手だ。

 それも、細い、しわっぽい、年寄りの手だ。

 たぶん、自分が轢いた老女の。

 もう一度絶叫して、部屋を飛び出した。

「……という話なんですが。ちょっとした怪談話ですね」

 ひき逃げ事犯の取り調べを終えた若い警察官は、上司である中年警察官に笑いながら言った。

 が、タバコをふかしながら若い警察官の話を聞いていた中年の警察官の表情は硬かった。

「そいつ……自分を襲ったのが、ガイシャの手だって言ったのか」

「ええまあ。本人がそう言っているだけで、もちろん証拠なんてあるはずもないですが」

「おまえ、ガイシャの御遺体を見たか?」

「いいえ?」

「四駆の車体下部に巻き込まれてな……かなりひどい有様だったんだ。全身ズタボロだったが、……シャフトか何かに巻き込まれたんだろうな、右手の手首から先が、引きちぎられたようになって、なくなっていたんだ」

 若い警察官は一瞬ぎょっとした顔になり、すぐに笑った。

「勘弁してくださいよー。自分、そういう話に弱いんですよー。第一、事故現場は練馬の目白通りで、あいつの自宅は埼玉の川越ですよ? 手首が何十キロも先まで、追っかけて行ったとでも言うんですか?」

「車を調べた鑑識が言っていたんだがな」

 若い警察官の言葉には直接答えず、中年の警察官は言った。

「自宅前に停めてあったあいつの四駆の下にな、ガイシャの右手首が落ちていたんだとさ」

「……ちょ。そんな、ばか」

「鑑識が言うには、轢かれて引きちぎられた手首が、車体のどこかに引っかかったんだろうってさ。それが、家まで帰ってきて車を停めたときに、落ちたんだろう、と」

 若い警察官は言葉を失っていた。

 ありえない話ではない。

 だが、本当にありえるのか。

「ま、そういうこともあるって話さ。そうしとけ。俺らにはそれ以上、どうしようもないんだから」

 中年警察官は、タバコをもみ消した。


この本の内容は以上です。


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