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〈世界の時計展〉は最終日を迎え、わたしと松さんはその夜も飲みに行き、修理工志願の子の話になった。スイスのメーカーの担当者がとてもよくしてくれたという。時計の修理工なんて地味な職に憧れる、その経緯がわからない。わたしのつぶやきに松さんは「立派な仕事ですよ。褒章を授与された人もいるんです」と返した。
「あの子は何年も修行に身を置くことになるでしょうね」
「え? もうスイス行っちゃうの?」
「中学校を卒業してからですよ」
「修行かあ、えらいな」
「本当に思ってるんですか、偉いと」
「うーん」
「僕は大学で仏教概論という講義を履修していたんですけど、担当だった女性教授、随分と高齢でしたが、彼女が言うには現世では誰しも修行の真っ最中ということらしく、半人前だから失敗もするし挫けることもあるけれど、それを素晴らしいと言うんです。この修行は最後まで清算されることがない、だからこそ取り組み甲斐があると」
「それって選択制?」
「そうですね、必修課目ではなかったです」
「じゃなくて、修行のほう。やりたい人だけ事前申告で参加するとかじゃないと、わたし困るんだけど」
「どうしてですか」
「修行とかきつそう。それよか、好きなことやりたいだけやるために生きてるんだよって言われたほうが、あるでしょ、生き甲斐」
「快楽主義者なんですか」

「光太郎でしょ、快楽主義は」
「俺は違う。俺のは、嫌なこと回避主義」
「なにそれ」
「良い方角を見んの、常に、常に! あたり一面、やなことしかないなんてないだろ。だいたいさ、俺思うんだけど、なんのために目ん玉ふたつあるんだって話。ほら、こうやって片方隠すだろ」言いながら光太郎はわたしの左目を掌で覆った。「見え方違うだろ。右目だけで見るのと左目だけで見るのと、ぜんぜん違うだろ? 両目開けて見るのも違うだろ? ぜんぶ間違いじゃないし、どれも完璧じゃない。やなことあったからってそいつばっか追っかける必要なんかないんだって、視界にほかのもんもあるだろ。二匹のウサギを追っかけると一匹も捕まんないかもしんないけど、一匹だけ追っかけたって捕まえられる保証もなし、二匹追っかけないことにゃ二匹捕まえるなんてそもそも無理なわけで」
「二羽」
「あ?」
「ウサギの数え方。一羽、二羽」
「だからさ、俺が言いたいことは、仲直りしよってこと」
 光太郎はわたしを抱いた。

「快楽主義者じゃないけど、でも、普通でしょそれが、普通に考えて人は楽しく生きたいもので、なのになんでわざわざ苦しむのを前提に、それで歩けとかって言わなくてもいいのに。上見んな、下見とけってことじゃん」
「でも現実に、人生はきついことを多く含みます」松さんは、文鎮でも置くみたいに重たく言った。
「そんなことない。人は、良かったことのほうを記憶しにくいだけなんです。やなことが多く感じるのは、そっちはしっかり覚えちゃうからで、それは、つまり、同じ間違いをできるだけ回避していくための本能で、そう、だから逆に、しあわせなことを忘れるのは何度でも新鮮に味わいたいから」
 言葉が切れると松さんのわたしをまじまじ見る目が至近距離にあって、やばい、と思ったわたしは身を退いた。
「馬鹿だって思ってるでしょ」
「思ってないですよ」
「子どものころ、よく言いましたよね、馬鹿って言うほうが馬鹿だって、あれって負け惜しみだと思ってたけど、でもほんとは、本当なんだって今は思える」
「僕は一回も言ったことありません。それに、馬鹿だなんて思ってないです」
「思っていいですよ、そしたらそのぶんだけ、マッケンジーが馬鹿になるから」
 はは、と彼は笑った。
「じゃあ、わたしそろそろ、彼が迎えに来るんで」
「彼?」
「あれ? 松さん、いま驚きました?」
「まあ、ちょっとは」
「なんですか、わたしに彼氏いるのが驚きですか」
「いえ、いや、でも、そうですね、昨日か今日、新しい彼氏ができたというのでなければ。それはそれで、僕みたいな人間には多少の驚きを感じる展開ですけど」
「なにそれ」
「恋人とは別れたって話してましたよね、一年も前に」

 そうだ。一昨日の晩。やっぱり飲んでるとき、松さんは、わたしの手首を指さした。
「どうして着けてるんですか」
 電池を入れ換えても、時間を教えてくれない時計。文字盤に鳥籠のデザインがあしらわれ、長針の先にいる青色の鳥はもう何も追いかけない。ていうアクセサリー。
「好きだから」
「かわいいデザインですね」
「いいよ、合わせてくれなくて」
「本心です」
「いいですって、わかってんだから、心の中でどう思ってるかくらい」
「どう思ってるんですか」
「無駄。無意味。貧乏くさい」
「プレゼントですか」
「そうですよ、いけませんか」
「振られたんですか」
「いいえ、振ったんです、わたしから別れてあげたんです」
「ひとつ、アドバイスをいいですか」
「求めてません、ていうか、もう昔の話、一年も前に終わった話なんだから」
「お湯割りのほうがおいしいですよ」
「は?」
「ロックじゃなく、芋焼酎は、お湯割りがいちばんおいしい飲み方です」
「あのね、松さん、夏ですよ、もう終わるけど、まだ夏。わかる? 松、夏。鍋、食べないでしょ、松。セーター着ないでしょ、夏」
「関係ありません、時期なんて。いいから飲んでみましょう」
 勝手にボタンを押して、飛んできた店員にお湯割りふたつを頼む松。
 腹が立った。
 お湯割りにすると芋焼酎は踊るみたいに甘い香りを湧かせ、味もふくよかになった。まだわかんないです。そう言っておかわりした。二杯目はそこまでおいしいと感じられなくて、だけど普通においしくて、もう一回ロックを注文して飲み比べたけど、ロックに罪は無いけど、松さんの意見にわたしは染まった。
「地元ではみんなお湯割りで飲んでます」
「どこですか、マッケンジーの出身」
「鹿児島です」
「なんか鹿児島弁言って」
「いやです」
「聞きたい」
「飲み過ぎですよ」
「松が飲ませた」
「勧めただけです、飲ませてはいません」

 バスを降りたのは、わたしたちだけだった。真夜中近い時間。太陽が遠く離れたことを歓喜する蝉たちの大合唱。昔はこんな遅い時間に蝉は鳴かなかった、と母は毎年言う。きっと一生言い続けるんだろう。そういうのは悲しい。人生は超巨大な迷路競技で、歳をとるのはつまり、行き止まりをたくさん知ることにほかならない。若い時代には、歩いてきた道のりと、途中途中で気になったけど通り過ぎた分岐点と、そういうのが話題の中心だけど、どれも中途半端っていうか、未完の何かだ。ひきかえ行き止まりはしっかりしてる。これ! って形を獲得してるから、人にもわかってもらいやすい。わたしの行き止まり。光太郎と別れた。でもまだはっきりした形じゃない。松さんの手を握り、すごく細くて、だけど硬い、初めての感触で、わたしはもっと力を入れた。
「松さんは、彼女いるんですか」
「いますよ」
「あ、あれか、お好み焼き」
「遠距離恋愛なんです」
 言われて、わたしはふきだした。
「なんですか」
「ごめん、でもなんか、マッケンジーの口が『恋愛』とか言うのがおかしくて」
「すみません」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
「だいじょうぶじゃないですよ、もう一年も会ってないし」
「えーとね、松さん、それ終わってます」
「知ってます」
「知ってるんだ」
「僕も馬鹿じゃないので」
「じゃあ、彼女いない、って言いなさい」
「いやです」
「なーんで」
「言いたくないこともあります」
 道の先にシャッターの降りたスーパーが現れて、新しいマンション、金物屋、郵便局、古いマンションと続く。街灯は濃いオレンジ色で、あちこちくっきり見えるけど明るい印象じゃなく、単色で印刷された、誇張された立体感のある絵画みたいで、足がぐらついた。松さんにもたれかかり、だけどすぐ離れて、それでも手だけはつないだままにしておいたから掌のあいだはとっくに汗だくで、少し休憩しませんか、と訊ねると、松さんは、まだ遠いんですか、と訊き返してきた。遠い、とわたしは言って、小学校に彼を引きずり込んだ。

5

 五つになるまでわたしたち家族は栃木の奥まった土地に住んでて、まだ新しい住宅街は周りを畑に囲まれてた。荒れ地に降り立った住宅街型UFOみたいな場所。少し離れたところに葬儀場があって、白と灰色のきれいな建物だった。
 母に質問したことがある。どうして命あるものが死んで、命のないものが死なないのか。五つだった。あるいは四つ。母もそのときのことは覚えていて、なにも答えられずにいた理由を「あんたが怖かった」と説明するけど、その問いの答えは簡単で、命が消えることが死ぬことだから。
 霊柩車が出発する前に鳥籠から白い鳩を何羽か解き放つことがあった。鳩たちは集団で上空を目指し、地上で目を細める人たちに見せつけるように、まだ低い位置でぐるりと円を描いてから、もう一段高いところ目指して羽ばたいた。霊柩車がクラクションを響かせると人々の目線はそちらに引っ張られる。鳩たちはいつのまにか空からいなくなる。
 ジョン・ウーの映画で鳩が舞うたびに光太郎はくすくす笑った。わたしは目を逸らした。
 どうってことない。どうってことない。
 そんなやり方、どこまで通用したっけ?
 ある時点まではどんなしくじりも別の何かに変えてこれた。悔しくて頑張るとか、同じ間違いは犯さないとか。
 いくつになっても「どうってことない」とつぶやき、だけどそれが指し示す方角は太陽みたいにじりじり移動して、そのうち暗くなって何も見えなくなる。
 彼がもういないことも、どうってことないんだっけ。わたし、いま、いくつだっけ。

 深夜の小学校を照らす月は薄い雲に隠れてもやもやした輪郭で、明るいのは明るいけど校庭に影はない。むしろぜんぶ影。ライトは熟睡、校舎も息を潜めるみたいに真っ暗。
「ここで頭打ったんです」
 木造アスレチックに松さんを導いて、自分の工作を褒めてほしがる子どもみたいに紹介した。ずいぶん縮んでしまったアスレチックに登って、座った。松さんも隣に来た。わたしはその場に寝転がった。薄雲は天にべったり張り付いたみたいに動かない。生温い風が、わたしを撫でていく。
「僕も横になっていいですか」
「許可なんていらないよお」
 変な声。仰向けになると変な声。松さんは音もたてず横になる。わたしは体の向きを変えて、彼にキスした。あー、やっちゃった。どこかに適当な理由が浮いてないかと目を動かしたけどなんにもない。松さんは松さんで驚いたふうですらなくて、あれ? とわたしは思った。いま、キスしたかな、それともこれからするのかな。わからなくて、唇を押しつけた。不器用にパラパラ漫画をめくるときみたいに、いくつかの場面が飛び飛びに見えては消え、彼から離れた。
 わたしは立ち上がり、「もう一回打てば戻るかも」と言った。
「どうしたんですか」松さんが上半身を起こしてわたしを見上げた。
「このロープにもう一回座ってみます。そして頭打ちます!」
「なに言ってるんですか、そんな、危ないですよ」言いながら、松さんも立ち上がった。わたしは丸太の上へ、太いロープを掴んで踏み出した。
「危ないですよ、やめてください」
「平気平気」
「頭打ってどうなるんですか」
「元に戻るんです。ここで頭打ったあのときに戻って、まともな頭でやりなおすー」
「待って」
 松さんに手をつかまれ、足場の確かなところへ引き戻された。
「頭を打つのは本当に、本当に危ないんです。見た目にわからなくても、取り返しのつかない事態に陥ることだってあるんです」
「そんな、大袈裟ですよ」
「大袈裟じゃありません、地獄ですよ、そういう人を僕は知ってる。だから、そんな」
「松さんともここでお別れです。わたし、子どもに戻るんで。ちょっとさびしいけど、もしかしてまた二十年後とかにこうして会うかもしれないですよね。今度はもっとシャンとした女になってるんで、どうか惚れてやってください」
「ちょっと酔ってるだけですよ、すこし醒まして」
「えー、素面ですよ。だから、ね、もう離してください」
 振り解こうとすると、松さんは全部の力を一点に集中するように、わたしを握る手に強く力を込めた。
「いったいたいたいたい」
 いくら喚いても、松さんは離そうとしなかった。痛いってば! 離してよ! どれだけ言っても聞き入れてもらえなくて、わたしはとうとう叫んだ。
 光太郎!
 あ、と思った。景色が、水飛沫みたいにパンと跳ねあがった。体が軽かった。光太郎の顔が浮かんで、だけどそれは頭の後ろ、目には見えないところに浮かんでるのが感じられるだけで、体の向きがぐるんと変わっても光太郎の顔は夜中の太陽みたいに隠れっぱなしで、どこかを強く引っ張られる感じがして、その先に松さんが壊れちゃいそうな表情でいるのが見えて、おかしくて、わたしは笑った。笑いながら、松さんといっしょに落ちた。

「時計の修理工になるんです」
 はやくあの子が修理工になって、世界中の時計という時計を直してくれないかな。そしたらきっと、わたしも直してもらえる。長く大変な修行期間を乗り越えて大人になったあの男の子は、こう訊くだろう。どこまで戻しますか?
 あれは、いつだったろう。わたしが頭を打ったのは。

ー了ー

この本の内容は以上です。


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