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この砂糖が溶けたら帰ろう――。

 店内に閉店を告げる柱時計の音が鳴り響いています。その重厚さと、BGMのボサノヴァの軽快さが混ざり合って、不整合な音世界を作り出しています。

 女の斜め向かいの席に座っていたもう一組の客が、会計に向かいました。ぎぃとイスを引く音。テーブルの上に残された氷水入りのグラス。表面はまだ結露しているのでしょう、宝石のような無数の反射が艶々輝いています。

「今日はありがとうございました」

「ではまた」

 すりガラスの入り口で挨拶を交わす二着のスーツを、ウェイターが深々とお辞儀をして見送っています。

 女はふと目線を落として、ティーカップに触れました。掌にほのかなあたたかさが伝わってきます。そして目をつむり、ぼんやりと考えています。この砂糖が溶けたら帰ろう――。

 いつの間にかBGMはボサノヴァからフォルクローレ調の曲にかわっていました。先程のウェイターがゆったりとテーブルに近付いてきて、

「お客様。恐れ入りますが、もうじき――」

と、言い終える前に女に制されました。女はマスターを顎でしゃくりました。マスターはカウンターの奥で陳列棚の隙間の闇を見つめています。

 女の心中を察したのでしょう、ウェイターは軽く会釈してまたゆったりとカウンターに戻ると、マスターに耳打ちしました。マスターのうなずくのが女にも確かめられました。

 女は金のスプーンでダージリンをかき混ぜました。そこにテーブルランプの下の陶器から、摘み出した角砂糖を二、三足しました。

 角砂糖のかどが優しく崩れて、ダージリンの底に積もります。そうかと思うと、次の瞬間にはスプーンのひと掻きによってさっと舞い上がり、やがて消えていきます。それはまるで外の粉雪のようでした。女は睫毛をかすめたあの軽やかさと冷たさを思い出しました。

 白熱灯の光はほの暗く、店内の壁のあちこちにかけられたリトグラフの周りには、寡黙な影が潜んでいます。女の席のすぐ横にあるのはマグリットでした。画面の中で黒い山高帽を被った男たちが、何やら立ち話をしています。その身体は奇妙に背景の森にはまり込み、謎めいた違和感が見るものの解釈を拒みます。女は急に、画面の男たちが自分の噂をしているような錯覚に襲われました。驚いて柱時計に目を移しましたが、文字盤の数字がくねって次々と枯葉に変わり、床に落ちていくところでした。

 女はぐっとダージリンを飲み干し、頭を振りました。ようやく落ち着きを取り戻せたのは、食道と胃に冷えた液体の現実味を感じたからでした。女はすばやくポットからカップ半杯分くらい注いで、また角砂糖を二、三足しました。

この砂糖が溶けたら、帰ろう――。

 ポットをスタンドに戻します。その下の、ガラス製のキャンドルホルダーの中央では小さな炎が揺れています。とりとめのないその動きの作り出す陰影が、儚い夢のように女の指先を撫でていきます。

 失う時ほど欲してしまうのはなぜなのでしょう?

ティーカップから立ち上る湯気に乗って、聴き覚えのある曲が流れてきました。ピアソラの”Mumuki”です。ヨーヨー・マによるカバー・アルバムの解説を思い出します。「彼は自分の飼っている犬と奥さんラウラ・エスカラーダを同じ名で呼んだ。どちらを先にムムーキと名付けたのか、ピアソラ本人は笑って答えなかった」音楽に合わせてスプーンの動きに緩急がつけられます。そのティーカップに当たる音が、時に激しく時に囁き合うように音楽と共鳴します。曲はどこまでも深く深く沈みこんでいきます。この小宇宙の下降の中において、砂糖だけが奔放に上方へと泳いでいきます。

カウンターにマスターの姿が見当たりません。ウェイターもいません。いつしか女は、女だけの、出口のない時間の中に取り残されていました。山高帽の男たちが歩き出します。店先では朝日を浴びた裸の梢が粉雪を掴み、落とし、また掴もうとしています。女はテーブルランプの下の陶器に手を伸ばしました。

この砂糖が溶けたら、帰ろう――。

 


この本の内容は以上です。


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