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特別な一日

特別な一日

 

20××年12月のある暖かい冬の日、とある場所での会話――

 

 “ねえ、教えて。この写真に写っている可愛い男の子は誰なの? 女の子は? みんな今、どうしてる?”

 “バカねえ、もうその人たちはこの世にはいないのよ。その写真に写っている人たちはねえ、もう何十年も昔にみんな死んでしまって、あんたに会うことはできないの。最近亡くなったおばあさんがいたでしょう。こちらに写っている女の子はね、あのおばあさんのお母さんにあたる人だったの。つまり、あんたのひいおばあさんにあたる人っていうわけ”

 “でもママ、この子、まだ女の子じゃないの。とっても可愛いわ。黄色い服を着て、にっこりしてる。まるで、そこから出て来そうなみたい”

 “そうね、でも誰だってそんなときがあるのよ。そして、この女の子も。名前はリサといって、とっても早く死んでしまった、ということよ。そして、この男の子は、シレールといって、この女の子のお兄さんにあたる人ということよ。その人がどんな人生を歩んだかということは、実はママも、よくは知らないの”

 “ふ~ん、イレーネおばあさんがもっていた写真って、これ一枚きりなの? 他にはないの?”

 “そうね、随分昔の写真だから。最近整理していたら、たまたま出てきたのよ。どうもこれ一枚きりで、他にはないらしいわ”

 “つまんないな、それじゃどんな子かわかんないじゃないの。じゃママ、友達のところへ遊びに行って来る”

 “気をつけてね、ステリア”

 “うん、じゃあね…”

 ステリアと呼ばれた娘は、母親に見送られながら、冬の明るい陽射しの中を駆けて行った。

 娘が駆けて行く先には、新興住宅の新しい家並みが立ちはだかり、街角の真新しそうなコンビニエンス・ストアでは、若者の男女が、なにか楽しそうな会話をしながら、中に入って行こうとしている。

 ステリアの母親の目に映ったその光景は、ごく普通の日に目にする光景だった。

 こんな日は、他の日にもあり、他の日となんら変わることのない日であって、これといって特徴のない日々が、彼ら人々の上に、永遠に繰り返されていくことだろう…


1

第1章

 

 …この夏も静かに終わって行く。ある人にとっては、思い出の多かった夏。楽しかった夏の旅。そこでめぐり会った人や、ひとときの忘れられない思い出。こうして、ひと夏のドラマは終わり、今頃は、どこかの窓でその回想にふけっているのかも知れない。――しかし、ぼくにとって、この夏は、何もない夏だった。ただ静かに、普段と変わらずに夏は過ぎて行き、やがてこの夏も終わり、秋を迎えることになるだろう。そう、ぼくはもう既にそのときを待っているのだ。秋のあの樹木の輝き。そして何よりも澄んだあの青い空―― ぼくの胸は、その憧れに向けて、もういっぱいだ。秋は、ぼくの心を厳粛にし、そして遠い回想に向かわせる。ぼくの心は、もう既に迷っているのだ。ぼくの頭には、様々な昔の想いが眠りから覚めてその活動を開始し、一体、どこをどう整理し、何から手をつけたらいいものやら。それぐらい、様々な想い出や、想念にあふれ、もうそれだけでくたびれてしまいそうなのだ。そしてそのように、閉じ込められていた想念が眠りから覚め、心から解放されるのも、このような季節の変わり目だからということができよう。ぼくは、それらの思い出の中から、今回は、忘れられない犬との出会いについて、語ることにしようと思う。それを語るには、今が一番いい季節なのだ。

 

 それにしても、ぼくはあの犬のことは、胸の痛みを伴わずに思い出すことはできない。ぼくと共に人生の一時期を過ごしたあの犬は、今は灰となり、地の下で安らかに眠っているからだ。それとも天国で元気に駆け回り、ぼくが来るのを待っているのかも知れない。いずれにせよ、ぼくはあの犬が死んだとき、心ひそかに、いずれお前のことを思い出して書いてやるよと約束したのだった。なぜなら、あの犬こそは、数少ないぼくの友だちの中で、唯一友と言える友だちだったし、ぼくの人生のある時期を、ぼくの心の支えとなり、ときには、ぼくの相談相手、またときにはぼくのぐちの聞き手ともなって、ぼくを励まし続けてくれたかけがえのない存在となってくれたからだ。あの犬は、同時にリサにもなついたが、リサ以上に、ぼくにとって関係の深い存在だった。だから、その犬が死んだと知らされたとき、正直言って、ぼくのショックは大きかった。もうあの犬の元気な姿も、犬との心の交流もないのだなと思うと、目の前が急に真暗になったような、大きなものを失ったような気がした。そして無論悲しかった。あのときの、犬を失った深い悲しみは、他のものでは慰められないような大きな悲しみだった。それはもう二度と味わいたくないような悲しみだったし、事実、味わうことはなかった。そしていつしかあの犬のことは忘れ、それからもう何度目の夏が過ぎようとしているのだろう? そのことを思うと、単に悲しみとは言えない、むしろ恐ろしささえ感じるのだ。あの犬の生きた庭は、今も眼前に、あの雲の下、光を受けて残っている。又、あの犬の最期となった犬小舎も、もうめったに足を踏み入れることのない家の裏に、今もなお打ち捨てられているだろう。そのことを思うと、ぼくはもう一度、あの犬のことを考えずにはいられない。


2

もうはるか過去に滑り落ちて行ってしまったあの犬の生涯とは何だったのだろう? 時は、まるで何もなかったように、庭に花を咲かせ、よく茂った木の葉は風に揺れているのだ。だが何年も昔には、確かに、同じ庭の香りを鼻でかぎ、元気いっぱいに走りまわっていたあの犬がいたのだった。ぼくはそのことを決して忘れることはできない…

 

 あの犬が初めてぼくの家にやって来たのも、ちょうど今のように季節の移り目の頃だった。正確にはもう少し後で、九月の二十九日と、当時のぼくの日記には記されている。だから秋たけなわといったときで、一年中で一番季節のいいときだったのだろう。その日に、ぼくとの最初の出会いとなったあの犬は、ぼくの家にやって来た。天気は晴れていて、ちょうど外では秋の日ざしが感じられるような家の中だった。玄関のドアがノックされ、リサが一匹のシェパードの子犬を大事そうに抱えて姿を現した。やがて、その犬はリサの手から離れると、既に板で囲いをしてある玄関の狭い範囲内を、初めて見る物の不安と、遠い所から連れられて来た悲しみのせいか、まだしっかりとできていない足でうろうろと歩き始めた。ぼくが可愛さの余り触れようとすると歯を向き、小さいながらも意地を見せ、手をつけられないようにも思われた。そのときの情景は、当時のぼくの日記にこう書いてある。

 「かわいそうなセーレン、十二時過ぎにリサに連れられてやって来たとき、大きな箱に入れられて暑かったのかハアハアしていたけれど、すぐそこから解放されると今度は家の中をそこらじゅう悲しそうな声と共に歩きまわったのだ。これからここで住むことも知らずに。でも急にお父さんやお母さん、それに兄弟たちがいなくなったことには気がついていたろう。いや、そのためにセーレンは、こうして動きまわったのだ…」

 

 セーレンというのが、ぼくたちがこの犬につけた名前だった。この犬がいずれ来ることは、リサから聞いて知っていたし、犬用の小さな小舎も既に作って用意してあった。リサは、勤め先の知り合いから、最近シェパードの子犬が合計六匹も生まれたので、そのうちの一匹を譲り受けることになったのだが、そのうちの四匹がメス、残り二匹がオスで、そのオスの一匹が、この日、リサに連れられてはるばると我が家へとやって来たのだった。誕生日は八月の十一日ということだったから、まだ生まれてから一ヶ月と少ししか経っていないというほんの赤ん坊の状態だった。しかし、いっぱしの魂は備えているようで、親・兄弟とからもぎ放されて、たった一匹となってやって来たこの子犬の悲しい気持ちは、そのときのぼくにもよく分かるのだった。ぼくたちはじっと、その悲しい子犬が、家の中をうろうろ歩き回る姿を見守った。ときにはいたずらっ気を出して、ぼくは、その頼りげない足に指を掛けてやったのだが、するとその子犬は、ぼくの指に足が引っかかってポテンとその場に倒れ込むのだった。その姿が何とも言えず可愛いく、ぼくもリサも笑顔を見せて喜び合った。しかし、犬にとってはただですら悲しいのに、そのうえいじめられているとしか感じられなかっただろう。


3

ぼくは、犬の能力を試すために高いところから飛び降ろさせたり、ちょっとしたことを試みさせたりしたが、この悲しい犬にとっては、それどころではなかったはずだ。やがて子犬は、部屋のあちこちをうろうろしたあげく、もうすっかりあきらめたのか、玄関の片隅の冷たい床の上で、用意してあった犬小屋には見向きもせずしゃがみ込み、おとなしくなってしまった。ぼくたちはじっとそんな子犬を見つめた。ぼくが触れようとすると歯を向けて警戒する子犬、しかしうろついているときにはその背中に触れて可愛い感触を既に味わったその子犬、その子犬は、ぼくの家の住人となることを観念したわけではないが、永い旅と新しい事態に疲れ、訳の分からない悲しみにじっとひたっているようだった。ぼくたちは、しばらくそっとしておいてやることに決めた。

 そのときの事態を知る為に、再び当時の日記に耳を傾けよう…

 「…まずセーレンが、この家に引きとられて来たのだけど、あしたにはセーレンの兄さん(あるいは弟?)が他の人に引きとられて行くのだそうだ。そして、そのうちには姉妹たちも両親から、いや兄弟達からまで引き離されて別々の家へ引きとられて行くのだろう。かわいそうなセーレン、そしてまたセーレンの兄弟達、いや両親ももちろん涙を流していることだろう。…でもまだ(誕生してから)二ヶ月もたっていないというのに、大きくなって一人前のシェパードらしくも見える。体長は50センチもあるのだ。でも、やはりまだほんの赤んぼうなのだ。なんといってもこの世の光を見てから一ヶ月と少ししかたっていないのだから。だからセーレンのその顔はあどけなくかわいらしいし、歩くのだってまだまだぎこちなさそうだ。もちろん何もなければ普通に歩くことはできる。でもちょっと前足をひっかけたりしてやると、バタンと倒れてしまうのだ。30センチぐらいの高さの居間からテラスへ飛ぶときだって少しばかりためらいがちだし。セーレンはやがて動きまわるのをやめてしまった。家の中をだいたい見てしまってもうあきたからと言うより、悲しみに耐えているんだ。そしてそんなときぼくがするように、セーレンも横になって目を閉じてしまった。もう悲しいことは忘れてしまいたいと言っているかのように。

 そのうちセーレンはすっかりおとなしくなってしまった。腹が減ったときにはいろいろねだるようにしてまた動きまわったときもあったけれど、今ではもう玄関の、犬小屋がそこに置いてあるにもかかわらず、タイル張りの方がいいらしく見えて、そこで横になって、ひとりぼんやりしている。かわいそうなセーレン、その幼い心には何か知らないけれど楽しくなれないようなつまらない気持があるのだ。“ぼくのお父さんやお母さんはどこへ行ってしまったんだろう? それに、ぼくの兄さんや姉さんたちは?”セーレンは言葉にはならないけれど、そんなことを感じているに違いない。そして奇妙そうにぼくたちを見つめる。なでてやっても、その奇妙そうな目つきは変わらないのだ。そのうちに慣れてくれればいいが…」

 

 ともかく以上のようにして、寂しい村のぼくたちの家に、リサによってはるばるとセーレンは運ばれて来て、ぼくたちの一員としての生活の第一歩を踏み出したのだった。出だしとしてはちょうどいい秋の日ざしで、セーレン自身の心はともかく、ぼくたちの心に何か晴々したものを与えてくれたのだった。


4

ぼくは、ドアの閉まった薄暗い玄関の片隅にうずくまっているセーレンをつくづくと眺めながら、思った。“お前は、思っていたように単純な動物なんぞじゃなく、我々人間が感じるような結構複雑な魂を持っているようだ。ただそれを言葉でうまく言い表せないだけで、お前が感じている中身は、我々人間と同じものなんだ。そうとは、お前が来るまで気がつかなかった。これからはせめて、友達として付き合ってくれよな、可愛いセーレン…”

 それからぼくたちは、犬をしばらくそっとしておく為にも、ぼくたちの居間へと引き上げて行ったのだった。居間のソファーにしばらくいると、ときおり吠えていた悲しい声も、やがて消え、静かな静寂にとって代わった。セーレンは眠りについたのだ。

 セーレンが初めて来た遠いあの日のこと、ぼくは、あの日のことをもうはっきりとは覚えていない…

 しかし、あの日には、リサがいたし、心は爽やかで、空が晴れていたのは確かだった。ぼくたちのあいだに、未来はぼう漠としながら、光に満ちていたし、そのようなひとときがすみやかに滑り去ろうとは思うはずもなかった。ぼくたちは、この犬の登場によって、きずなが一層、確かなものとなった。ぼくたちは居間のソファーに座って、過ぎ行く秋の日ざしを眺めていた。

 そのとき、既にセーラがいないということは、一つの心に空けられた穴だった。しかし、家にやって来た一匹の子犬は、彼女の穴のいくらかを埋めてくれることだろう。そんな、期待にも似た満ち足りた気持ちで、ぼくたちは、この日の午後を過ごすことができた。秋の葉は色鮮やかで申し分なく、そんなぼくたちの心を歓迎するかのように、秋の日ざしを浴びて、庭に残っていた。

 “あしたから、犬の世話をしなくちゃならないわね”

 とソファーに座っていたリサが、何んとはなしに口を開いた。

“それは大丈夫さ。食事もやるし、散歩にも連れて行ってあげるから。犬との散歩には、この辺はもって来いの場所なんだ。まずは庭からだね…”

 そう言って、ぼくたちは家の庭を眺めた。

 庭には、リサが植えた秋の花が咲いていた。

“でも、せっかく植えた花を踏ませないように気をつけてね”

 とリサは、少し心配顔をして、言った。

“大丈夫。子犬なんだから…”

 とぼくは、リサの心配を笑いながら、答えた。

 それから、やわらかい日ざしを浴びた、まだ犬によって踏みにじられていない庭を、ぼくたちはじっと見つめた…

 

 その日の午後は、なんとはなしに過ぎて行ったのだと思う。ちょうどこの日のように空は晴れて、しかも賑やかで、楽しいふんいきに満ちた午後だった。



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