閉じる


202

第4章

 

 …翌朝は、さわやかな秋空が広がり、朝露に湿った草木や花々が、あの大空から射し込んで来る心地良い日光を、程よく浴びていた。庭に降り注ぐ秋の日射しが、なんとも言えず、さわやかで快かった。ぼくは、いつものように書斎にいて、本を読んでいた。掛け時計の針は、まだ九時にもなっていなかったろうか、ぼくはふと、けさ見た夢のことを思い出したりもしていた。そのときだった、

 “ただいま”と言う、静けさを破る一瞬の女の声で、ぼくが振り向いたのは。

 それは、部屋の中からではなく、外でしたので、ぼくは、とっさに窓の外を見やった。

 ちょうど、庭を囲む生垣の向こうに、確かに、彼女の姿を認められたのだ。

 リサは、半袖のしゃれたピンクの花柄模様のワンピースに、つばの広い帽子を斜めにかぶり、左手には大きなカバンを下げて、生垣越しに、こちらに向いて立っていた。その姿が、生垣の花や、葉の茂みによくマッチして、とても可憐だった。

 ぼくは、その姿を認めるなり、本を置いて、すぐ表へ飛んで行った。

 ぼくが表に飛び出したとき、彼女は、ちょうど荷物を脇に置いて、木の柵で出来た扉を手であけようとしているところだった。ぼくはすぐ、彼女のそばに歩み寄った。

 “やっと着いたわ”と、彼女は、にこやかな表情で、ぼくに向いて、言った、“荷物が多くてね、ここへ来るまでが大変”

 “何も歩いて来ることなんかなかったのに”と言って、ぼくは、まだ開いていない柵ごしに、まずは彼女の頬にキスをした、“音もなく、そこに現れるんだから、ぼくはビックリしたよ…”

 “やっぱりここへ来るのは、歩くのが一番よ”とリサは言った、“――でも、本当に久し振り。それなのに、ちっとも変わってはいないわね、ここへ来る途中の道も、この庭も…”

 ぼくは、柵の掛け金をはずして、彼女を庭の中に入れた。彼女は、中に一歩踏み出すなり、庭の様子を、生き生きした瞳で、眺め回した。

 “だってさ”と、ぼくは、彼女の持って来た大きなトランクを持ってやりながら言った、“お前が出て行ってから、まだ一年ちょっとしか経っていないんだから。そんなにすぐには変わらないさ”

 “一年ちょっとねえ…”と、リサは、少し感慨深げに、庭を眺めていた、“あっ、御免。荷物を持ってもらって”

 “いいさ、これぐらいのこと”と、ぼくは、嬉しそうに言った。そして、つくづく彼女の姿を眺めながら、ぼくは続けた、“お前、なかなかよく似合うね、その服…”

 “あっ、これ?”と、リサは初めて自分の服装に気づいたように、振り返って言った、“褒めていただいて、ありがとう。 仕事の関係で見つけた店で買ったのよ。着るのは今回が初めて。どう、似合うかしら?”


203

 “なかなかのものだよ”と、ぼくは彼女を見つめて言った、“お前の可愛いらしさが一層良く、引き立っているよ。――ともかく、よく帰って来てくれた。家の中も、以前とちっとも変わってないよ。さっ、家の中に入ろう…”

 そう言って、ぼくは、片方の手をそっと、彼女の腰に回した。

 リサは、ぼくに引き寄せられるようにして、黙ったまま、ぼくと一緒に家の中へと向かった。

 

 家の中は、外と違って光が射さず、ヒンヤリとしていた。

 “随分と重いね、この荷物。中に一体、何が入っているんだい?”と、ぼくは、トランクを持ちながら、リサに言った。

 “ほとんど衣類よ”と、リサは答えた、“――でも、兄さんへのおみやげも持って来ているの”

 リサは、そう言って、家の中を見回した。

 “本当。少しも変わってはいないわね。あたしの寝室もそのまま?”

 “うん、あの当時のままさ。行ってごらん”と、ぼくは答えた。

 リサは、つかつかと自分の部屋のドアに向かった。        

 ドアをあけると、中は、カーテンを閉めてあるせいか、真暗だった。リサは、窓のところに歩み寄り、サッとカーテンをあけてから、窓を押しあけた。急に、明るい光が、しめったリサの部屋に射し込んだ。窓から身を乗り出すようにして外の景色を見つめるそんなリサの後ろ姿を、ドアの陰から、ぼくはじっと見つめていた。可愛い花柄のドレスが体にピッタリした彼女の伸び切った背中や、よく引き締まった腰、衣服に包まれた可愛いお尻の部分から伸びている細い二本の足などを目にして、リサがこの家にやって来たのだ、という実感を、そのとき、はっきりと感じた。リサは、両足を交差させるようにしばらく動かせた後、急に振り向いて、自分の部屋を見た。そして、ぼくに言った、

 “何もかも昔のままね”

 “ああ、いつでもお前が帰って来れるようにと、そのままにしてあるんだ”と、ぼくは答えた、“衣裳箪笥の中もそのままだよ、見てごらん”

 そう言われて、リサは、造り付けの箪笥に歩み寄り、扉をさっとあけた。中には、彼女が出て行く以前に着ていたドレスが、そのままの姿でハンガーに掛かっていた。それを、リサは、大きな瞳で、じっと見つめた。

 “ときどき風を通してもいるし、中には、今でも着れる服があるだろう”

 とぼくは、そんなリサを眺めながら、言った。

 “そうね、気に入ったのがあれば着てみるわ”と、リサは、ひとつひとつ手に取りながら、言った。

 そうして、全部のドレスを、確かめた後、リサは振り向いた。


204

 “ベッドも、テーブルも、カーテンも、壁紙も、何もかも昔のまま”とリサは、部屋を見回しながら、ため息をつくように言った、“まるで昔に返ったみたい”

 ぼくは、リサのその様子を見て、にっこりとした。

 “みんな、お前の為さ”と、ぼくは言った、“お前がいつでも帰って来れるようにって、ちゃんと保存してあるんだ。お前が出て行ったからと言って、変えたところなど、一つもない…”

 “なんだか、あたしの為にそうまでしてもらって、気の毒みたい…”と、リサは、ポツリと言った、“――でも、このように昔のままの部屋を見ていると、ほっとすると同時に、何となく、怖いような気もして来るわ”

 “一体、この部屋のどこが?”と、ぼくは尋ねた。

 “いいえ、この部屋に以前住んでいたのが、あたしのようでもあるし、あたしでないような気もするからよ”と、リサはそれとなく、言った、“…でも嬉しいわ。昔のまんま残っているなんて。本当に、ここにいるとくつろいだ気持になってくるわ。壁の色といい、家具の匂いといい、あのときのままね。ありがとう、こんなに大事にしてもらって、兄さん”

 リサは、そう言って、ぼくを見つめた。

 “そうそう、その紙包みの中にね”と言って、リサは、部屋の中に運んで来た大きなバッグを指さした、“兄さんへのプレゼントが入っているの”

 “これかい?”と言って、ぼくは、彼女のバッグから大きな紙包みを取り出した。さわったところ、かなり重そうだった、“さっそくあけさせてもらうよ”と言って、ぼくは、すぐ包装紙を破りにかかった。

 やがて、中から現れたのは、陶器で出来た犬の置き物だった。

 “気に入るかしら?”と、リサは、心配そうにそれを見て言った、“メロランスの目抜き通りの店で見つけたものなの”

 “いや、なかなかいいよ”と、ぼくは、その置き物を手に取り、くるくる眺め回しながら言った、“なんてたって、可愛いリサからの贈り物なんだ。さっそく、居間のマントルピースの上にでも飾らせてもらうよ”

 “気に入ってもらってよかったわ”と、リサは、晴れやかに言った、“それから、毛糸で編んだセータもトランクの中にあるの。あとで見せるわ。それも気に入ってもらえるといいんだけど”

 “ぼくの為に編んでくれたのかい?”と、ぼくは驚いて言った。

 “そうよ、毎晩、寝る前にね”と、リサは答えた、“…でも毎日が忙しくて、結構日数を食ってしまったわ”

 “そうかい、ありがとう”と、ぼくは言った、“じゃそれも、さっそく着させてもらうことにするよ”

 そう言って、ぼくは、リサが部屋の真ん中に立っている姿を見た。彼女は、旅の疲れのせいで、ベッドに腰掛けるなりしてくつろぎたそうな様子だった。


205

 “おっと、少し長居をしたようだね”と、ぼくはそのことに気がついて言った、“じゃ、ぼくは居間に行っているからね、お茶の準備でもしておくから、ちょっとしたらおいでよ”

 そう言って、部屋の外に出た。

 “ええ、そうするわ”と、リサは、くつろいだ表情になって、言った。

 “じゃ”と言って、ぼくは、彼女の部屋のドアをバタンと閉めた。

 

 このようにして、彼女の一年半ぶりの帰郷は実現し、この沈み切った我が家にも、再び活気のともし火が戻ったのだった。

 ぼくが居間で、お茶の用意をし、休憩していると、ドアの陰からリサが現れた。服装は、彼女が帰って来たときそのままで、変わらなかった。

 “本当に静かね、この一帯は”とリサは、来るなり、感心するように言った、“物音ひとつしない。都会にいるのと大違いね”

 “ああ、ときおり、カラスの鳴き声などが聞こえる以外はね”と、ぼくは言った。

 リサはやって来て、ぼくの横のソファーに腰掛けた。

 “この部屋も変わっていないわね”とリサは、ソファーに坐るなり、つくづくと部屋を見回しながら、言った、“あっあれ、あたしの買って来た置物?”

 “ああ、さっそく飾らせてもらっているよ”と、ぼくは言って、マントルピースの上の彼女の買って来た犬の置物を見た。

 “――でも、本当に久し振りね、こうして、この居間に、兄さんといるのは”と、リサは、ため息をつくように言った、“一年半振りなんて、とっても思えない。ここにいたのが、ついきのうのことのようにさえ思えるわ”

 “そうかい?”と、ぼくは言った、“でもぼくにとっちゃ、やっぱりお前は一年半ぶりのお客さ。この日が来るまで随分と長かった…”

 “あら、御免なさい、なかなか来れなくて”と、リサは、詫びるように言った。

 “何も詫びなくてもいいさ”と、ぼくは、にっこりして言った、“ぼくだってここにずっと暮らしていたわけじゃなかったんだからね。留守にしていた日も、結構多かった…”

 “じゃそんなとき、誰もいなくて、さぞかし淋しかったでしょうね”とリサは言った。

 “仕方がないさ、ぼくしか住んでいないんだもの”と、ぼくは言った、“ぼくが旅に出かければ、この家は誰もいなくなる、それは当たり前のことさ”

 リサは、自分に何か言われているように感じているのか、黙って聞いていた。

 “――でも、今は二人がこの家にいる。お前がこの家に来てくれて、嬉しいよ”と、ぼくは、正面からリサを見つめて言った、“あっ、お茶が冷めるよ、早く飲まないと”

 “ありがとう”と言って、リサは、ぼくの沸かした紅茶を口に運んだ。

 

 “それでどうなんだ? 久し振りに帰って来た感想は”と、しばらくして、ぼくは尋ねた。


206

 “まるで夢のようね”と、リサはにっこりと微笑んで答えた、“まだ帰って来たんだという実感がそんなに沸かないわ。だって、ついきのうまで、都会の雑踏の中にいたんですもの。ここは、そこに比べて本当に静かね。まるで別世界に来たみたい。――でもやっぱり、ここに来てよかった。ほっとする感じよ”

 “夜汽車は疲れたかい?”と、ぼくは尋ねた。

 “ううん、別に”とリサは答えた、“出発が急だったからせわしなかったけれど、乗ってしまえば後はゆっくりできたわ”

 “――でも、久し振りに帰って来るって気持はどうだった?”と、ぼくはなおも尋ねた。

 “そうね…”と、リサは、考え込むように目を上に向けながら、少し間を置いてから、言った、“ちょうど一年半前に向かったのと逆の方向に帰るんだから、感慨もひとしおだったわ。まず最初に思ったのは、あの家はどうなっているだろう? と考えたわ。久し振りだし、家のイメージがすぐには思い浮かばなかったの。ともかくなつかしいっていう感じなの。――それから、あの家を出発した日のことも思ったわ。ちょうど一年半前の夜、兄さんに見送られながらあの家を出たんだって。あのとき、寂しくなるという気持と都会への期待の気持とが入り混じって複雑な気持だったけど、今回もそれと似た複雑な気持がしたわ。だって、よくよく考えてみると、あたしって、どちらか一方に全面的によりかかれない存在だっていうことに気づいたんだもの。あたしって、一見賑やかに見えそうだけど、田舎に帰りたいって思うような寂しい面も持っているのよ。その点、兄さんと同じね…”

 “そう。そんなことを思ったのか”と、ぼくは、感心したように言った、“じゃ、帰って来るのが寂しいって思ったのかい?”

 “いいえ、そればっかりじゃないわ”と、リサは、持ち前の陽気さで否定した、“だって、汽車の中ですぐお友だちが出来たもの。あたしがひとりで雑誌を読んでいると、三人連れの男の人が声を掛けてくれたわ。他に、近くに二人連れの女の人がいて、その人らと結構楽しく、ワイワイガヤガヤとやっていたもの。その男の人ら、学生だったけど、とっても陽気で楽しかったわ。女の人らは、片方の実家へ遊びに行く途中で、みんな寄って楽しくしゃべっていたわ。学生って、その人ら、文学部の専攻なんだけど、とっても面白いわね。文学の話しなんてそっちのけで、まったく女の子を口説くことしか考えていないんだもの。専らよく行く居酒屋の話しや、どの子が可愛いかったとか、どんなタイプの男が気に入るのだとか、そんな話しばっかりよ。でも、そんな話しの中で、ちょっぴり文学の一節が出て来るところなんか、やっぱり文学部の学生なのね。話し出したら止まらないところもあるけど、結構面白かったわ…”

 “…で、その人たちとどこで別れたの?”と、ぼくは尋ねた。

 “女の人らとは手前のN……駅で。学生たちとは、ドシアンで別れたわ。あの人たち、さらに、S……まで行くって言っていたもの。今回は、文学とは何んの関係もなく、登山が目的だっていうことなの”とリサは答えた、“…でもドシアンで別れるときになって急に住所を教えてくれ。必ず便りをよこすからって言ったわ。あの人たち、気があったのかしら?”



読者登録

sylaireさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について