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第1章

 

 翌朝、空がとても晴れているせいか、室内はもう明るくなっていて、とても爽やかな目覚めだった。目が覚めて、室内を見渡したとき、とても不思議な夢を二つ、たて続けに見ていたことを思い出した。どうしてこんな夢になったのか分からないが、自分の心の中を覗く思いだった。

 

 …昼休み、カフェーの女にぼくの友人がいろいろと色目を使って、しきりと何か話しかけていた。その娘が可愛いのは知っているがもううんざりだった。そのとき何気なくポケットに手をつっ込むと、ゲーム用のコインが数枚入っているのに気がつき、残りの時間はわずかしかなかったが、それで遊んでやれと思った。友だちにそのことを言うと、しぶしぶぼくに同意してくれた。支払いを済ませ、ぼくたちはそのカフェーを後にした。

 問題はどこのゲーム場かということだったが、該当しそうなのがいくつかあってどれがそうなのか分からず、仕方なく、そこでコインを買い取った。きっちり一致したのでここがそうだと分かり、ぼくは中に入って行った。見張りの若い男が、そんなぼくたちを見つめていた。

 中は暗く、ゲーム台が置かれていたが、どれもこれも電気が切られて休止中だった。ときどき、電源の入っているのもあったが、その台は、使い方の分からない全く新しそうな台だった。もっと奥に行けばあるだろうと、さらに奥へ進むと、不思議とそこは細長いテーブルと椅子だけになっていて、ところどころ、お互い向き合うようにして、それも小学生ぐらいの男の子や女の子が数人かたまり合って、楽しそうに何かしゃべっていた。よく見ると、ゲーム台はその隅の方に押しやられた恰好で一列に並んでいたが、これもまだ電源が切られていて作動はしていなかった。どこかに動いているのがあるだろうと、さらに奥へ進んだが、また子供たちのペチャクチャしゃべっている姿に出会ったものの、置かれている台はすべて電源が切られていて、動いていないことが分かった。

 一体これはどういうわけだ、インチキじゃないか、とぼくは腹立たしくなって、思った。これじゃ前のコインも、今度新しく買ったコインも全く無駄になってしまう…

 そのとき、ぼくの友人が、部屋の奥にこの謎を解く光景を目にしたことを告げた。友人に言われるまま、ぼくもそちらに目をやった。そこは薄暗い中にも非常出口となっておりそこに子供たちが手に何かみやげのようなものをぶら下げて、一団となって帰って行く姿が目に入って来た。

 そうか、それで分かったぞ、とぼくは思った。きっとここで何か催し物があったのだ。そう言えば、暗くてよくは分からないが、後ろの壁のあたりが、何かステージのようにもなっていて、そこから音楽が今も流れている。子供たちはそれをたった今見終え、みんな帰って行くところだったのに違いないのだ。

 それでぼくは友人に尋ねた。


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 “おい、何かお祭りに関係のあるような日でも近づいているのかい?”

 すると、友人は見事に答えてくれた。きょうが*月*日で、***の日の前日であることを。

 これで一切の謎が解けたのだった。ぼくは、ガラ~ンとしたステージや、もうまばらとなった子供たちのテーブルや、そしてコーナーを取り巻くように並んでいる電源の切れたゲーム台を見渡した後、戻ることにした。

 別の方向にやって来ると、そこはやたらと賑やかなのに気がついた。その理由は、そこに食堂街のようなものが並んでいるからだった。ゲーム場の中にこんなものがあったなんて、ぼくは何も知らなかった。中の賑わいや、人々の歓談の様子を目にして、ぼくはふと思った。今度はここへ昼食を取りに来よう。訳のわからない、玉と針金で出来ただけのようなゲーム台だけが、この暗いゲーム場の中で電源が入り、光っていた。しかしそれを相手に遊んでいる人の姿はどこにも見られなかった…

 

 それは仕事中、職場の中でのことだったかも知れない。素晴らしい一冊の写真入りの本がぼくの手元に届いた。ぼくは何気なく、パラパラとめくってみたが、それが最後、もうその本の虜になってしまった。それには、素晴らしい自然や、その自然の中の素晴らしい館などが、美しい写真やモデル入りでうたってあった。ブナ林の自然が渓流の泡立ちと共に美事だったし、立派な館の内部の光線の加減も目を奪うものがあった。しかしなんと言っても、その館の二階の手摺りのところでポーズをとっている一人のうら若い女のモデルが、ぼくの目を奪った。彼女のなめらかに、自然に垂れ下がるドレスはもちろんのこと、その表情には忘れ難いものがあった。――でも、これを買えばもう自分のものだとそのとき思ったものの、それが決して買うことのできない夢の中の本だとは、そのとき、気が付くはずもなかった…

 

 ぼくはベッドから起きて外を眺めた。いい空、いい空気、そして、いい眺めだった。向うの森の明るい樹木が、ぼくの気持を心地良くしてくれた。青い空にぽっかりと浮かぶ白い雲―― あの向うでは、セーラが今も元気でこのぼくを待っているのかも知れない…

 

 窓の外の眺めが美事な、明るい、清潔な二階のレストランで、気持良く朝食を取った後ぼくはさっそくママの学校へ行って見ることにした。清潔な白いテーブルクロスと、エンジの椅子が、何んとも良く調和していた。暖色のクリーム色の壁、気品のあるささやかなシャンデリア、そしてさりげなく窓辺に添えられた小さな花々――アネモネや、ゼラニウムや、その他の小花、閉じられた窓の外には、背の高いニレの樹が、すくっと伸びている。ぼくは食事を終え、ベージュの清潔な絨毯の上を、ゆっくりと歩いて出て行った。

 カウンターに来ると、例の娘が再び忙しそうに仕事をしていた。

 “もう食事は終わりまして?”と彼女は、ぼくを見るなり言った。


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 “ええ、早いですが、きょう立とうと思っています”とぼくは言った、“でも、その前にこの街の見納め、と言っちゃなんですが、ここの高等学校だけ見て帰ろうと思っています。荷造りができましたから、タクシーを呼んでもらえますか?”

 “そうですか。もっとゆっくりとしてくだすってもよかったですのに”と、彼女は、微笑みかけるようにぼくに言った。

 そしてすぐタクシーに電話をかける一方、手慣れた様子で、請求書に何か書き込んで行った。

 “夕べ、電話をされましたね。それも合わせて、※※**です”と言って彼女は、ぼくに請求書を見せた。

 支払いを済ますと、タクシーが来るまでのあいだ、しばらく、ロビーのソファーに腰を降ろして待った。簡素な木製のテーブルと椅子。花がいっぱい活けられた窓から射し込む光が、レースの白いカーテンを通して、柔かで、素敵だった。壁に掛けられた額も、趣味の良いものだった。

 しばらくしてタクシーが来たので、ぼくは立った。

 宿の彼女は、ぼくを見つめ、

 “良いお旅を”と、気持のいいあいさつを送ってくれた。 

 

 郊外ののどかな道をしばらく走った後、やがて、静かなたたずまいの街の中にさしかかって来た。古びた石造りの家々が並ぶ表通りを走って行くと、やがて街の活気が感じ取られるところへとやって来た。小型トラックや乗用車が走り、野良犬や自転車に乗った人、歩行者などが、行く手を横切って行った。商店が並び、やがて、ちょっとした広場の賑やかな露店市が姿を現し、そこは人々で特に賑わっていた。ぼくたちが昔、野菜や果物やあひるなど、心細い商品を並べて売ったのも、この広場でだったのだ。そこから転がり込むのが唯一の現金収入で、セーラやリサが売っているのをいとおしんで買ってくれたおばさんたちも結構いたようだった。ぼくはなつかしさのせいで車を止め、そこで買物をすることに決めた。様々なものが売られている露店市。しかし、ぼくたちの頃に比べて随分と店の数も増え、客の数も増えているように感じられたのが驚きだった。ぼくは様々な店の中からひとつを選び、おいしそうなイチゴを買った。これはセーラヘのおみやげなのだ。店のおばさんが、あいそうよくぼくに包みを渡してくれた。ぼくは、そのおばさんの顔を見て、急になつかしさが込み上げて来た。昔、ぼくの母が過ごし、ぼくたちも過ごしたことのあるリトイアの街とも、もうお別れなのだ。本当は、もう少し長くいたい気もした。しかし、ぼくが捜し求めていたのは、今のリトイアではなく、ぼくたちがいた頃の、死者たちがまだ生きていた頃の、もはや、巡り合いたくとも、巡り合うことが不可能な、あの頃のリトイアだったのだ。ぼくはただ、活気づいた、見知らぬ露店市の人々の中にあって、寂しさだけを味わった。世代が変わり、ここにぼくたちが昔いたことを知っている人は、どこにいるだろう?


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 ――ぼくは、あの頃の、恐ろしく貧しかったときのことを、ふと思い出した。街は、このように明るくも、暖かくもなく、一面が銀世界だった。幸い、雪は止んで、空は晴れていたが、ぼくたちは、サビーノの村から、このリトイアまでの遠い道のりを、その日に採れた野菜をいっぱい積んだ荷車を引いて行ったのだった。氷のように冷たい金属を押すぼくの手は、冷たくなって、もう感覚はなかった。朝が早いからといって、眠いとも言ってはいられなかった。爺さんは、ぼくたちの押す力が足りないと怒鳴ったし、ときには、むちが飛ぶこともあった。そうして、苦労して運んだあげく、売れるのはわずかだった。――しかし、あのときほど、世界が美しく、魅力的に見えたことはなかった。逆境に陥れば陥るほど、世界や、このリトイアの街が美しく感じられて来た。ほっとひと息をつき、通りも、家々の軒や屋根も、何もかも雪におおわれて真白になっているその様を見て、ぼくは、世界は、なんと美しく、魅力に輝いているのだろうと思った。そのときには、寒さも忘れ、自分の貧しい逆境のことも忘れて、ただ街の静かな白さや、軒のあいだから見える空の青さに、吸い込まれるように見とれるだけだった…

 

 …そのようにして段々と、タクシーは、昔、ママが通ったことのある高等学校に近づきつつあった。ぼくが初めて見ることになるママの高等学校――それを想像するだけでも自然ぼくの心は色めき立って来た。ママの青春時代のすべてを語りかけるであろう、ママの高等学校。そこでママはどのような青春時代を過ごしたのか、その香りだけでも早く嗅ぎたい、とぼくはそう思った。日射しは明るく、空にはすがすがしい白い雲が浮かんでいて、そこを訪れるには絶好の日和だった。――やがて、街の少しはずれたところに、深々とした色濃い森が見えて来た。それを目にしたとたん、ぼくは早くも、ママの香りを、ママの青春時代を嗅ぐ思いがした。少し前に、小さな学校を目にし、ここがそうなのかと心をときめかせたが、それが小学校で間違いだと分かったときには、むしろほっとした気になったものだった。ママの通った学校は、もっといい学校でなければならない、と思ったからだった。伝統校でもあり、名門でもあったのだから、もっとどっしりして、重々しい感じがしていなくてはならない。タクシーは、その森に向かって、一直線に突っ走って行った。やがて、交差点を森の方に向かうと、そこにはきれいな広い道が出来ていて、両側にはまばゆいばかりの森が広がっていた。それからしばらくしてからだった、車が、森の中に姿を現した、どっしりとした建物の前に、ゆっくりと停車したのは…

 

 ぼくは、こんなところなら、リサとでも一緒に来ればよかったと後悔した。落ち着いた造りの校舎もさることながら、ぼくの目を見張らせたのは、その校舎の周りに広がる森や運動場などの素晴らしい環境だった。立派な体育館があり、裏に回れば、校庭の他、立派なアンツーカで出来た陸上競技場もあった。それらが、美しい森と、静かな環境の中に、人気もなく、本当に、ポツンポツンと存在しているのだった。でも、高校生らしい競技者が、そこここに見られた。彼らの表情は日焼けして黒く、このよく晴れた青い空の下で、いかにも伸び伸びと青春を謳歌しているようだった。


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ぼくは、タクシーを待たせたまま、ゆっくりと一つ一つ見て回った。校庭の芝生の上では、数組の男女が、遠くの的に向かって、アーチェリーの練習をしているのが印象的だった。先輩の見守るなか、それぞれ男女が組となって、距離の違う的に向かって、見事な矢を射っていた。そう言えばぼくのママも、高校時代、アーチェリーのクラブに所属していた、というのを聞いたことがあった。とするなら、ママもその青春時代、ここで、このように、この美しい校庭の芝生の上で、アーチェリーの練習をしていたのかも知れない… そう思うと、何か、言い知れぬ感慨が、ぼくの胸に込み上げて来るのを感じた。現在、そこにいる彼らの顔は若々しく、昔、ぼくのママが活躍していた時代があったことなど何も知らぬかのように、ただ黙々と、熱心に練習に励んでいた。しかし何十年かの昔には、確かにママが、この学校に通い、彼らのように、アーチェリーを楽しんでいた時代があったはずなのだ。そのように――ここには至るところ、ママの香り、ママの匂いが感じられて、なつかしかった。こんなところに、ママがいたのか、という驚きと共に、ママの青春時代の感動が、ぼくの胸にも伝わって来るような気がした。こんないいところなら、こんないいところで青春時代を過ごすことができたのなら、ママの青春時代は、きっと幸せに満ちたものだったに違いない…

 この明るい日射し、素晴らしい体育館、そしてアンツーカと芝生とがまぶしい陸上競技場などを、ぼくは、心行くまで立ち尽くしたまま見つめた。ぼくの青春時代にはなかった素晴らしい生活が、ここには存在した。ママがその頃の生活をまるで夢見るように語ったのも、無理はないとぼくは思った。競技場や校庭のそこここに植えられている樹木の手入れやその他の作業にたずさわる掃除夫の一団が、日陰のベンチに腰掛けて、のんびりとたばこを吸っていた。高校生たちの勇ましいかけ声が、陸上競技場の方から、ぼくの耳に聞こえて来た。ぼくは、ママが学んだ教室へ行くよりも、この広い外にこそ、ママの青春時代があったことを感じた。ここで、その素晴らしい青春の数年間を過ごしたママが、流れ流れて、メロランスから、ぼくたちの故郷あのオディープまでやって来たことを思うと、考えてみれば不思議だった。ママは、ここを去ってからその後一度もこの地に足を踏み入れた形跡はない。しかしその息子であるこのぼくが、ママの代わりに、ここを訪れたのだ…

 

 ぼくは、練習に励んでいるアーチェリーの高校生たちや、陸上競技場にいる選手たちの姿に名残惜しいものを感じながら、そこを去ることにした。本当なら、もっと長い時間いて、詳細にこの地を探索したい気持もあったのだが、列車の都合上、そう長くいるわけにも行かなかった。ママがミロンとデートを重ねたという、小川の道や、夢見る青春時代を過ごしたかも知れない森の中、あるいは、きっと買物などを楽しんだはずの近くの商店など、まだ未知な場所で訪れてみたいところはいっぱいあったのだが、すべて次の機会に回された。しかし、高校生たちが元気いっぱい活動をしている姿を見ることができただけでも、ぼくは幸せだった。それだけでも、ママの高校時代の生活がどんなものだったのか、その一端をかいま見させてくれたのだから…



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