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第4章

 

 …翌朝ぼくは目覚めた。恐ろしいほどの孤独の中で。しかし空はよく晴れて、庭の緑がまぶしいほどだった。だんだんとぼくは、この家になじんで来ようとしていた。この田舎家で目覚めるのが当然であるかのごとく、別に不思議な気がしないばかりか、セルッカでのあのアパートでの目覚めが、段々と遠のいて行くようだった。ここはセルッカではなく、レビエなのだった。レビエは信じられないほど緑が多い。そして、緑が多いということが、こんなにも快いと感じられたのは、久し振りのことだった。ぼくはまだ、うつろに目を開けたまま、オディープでの快い朝のことを思った。それはかつて迎えたことのある一番幸せな朝だったのだ。朝はゆっくりと明けて行き、本当に静かで、何か大きなことが起こりそうな、期待にあふれた一日が子供のぼくの行手に待っていた。ぼくはそれを、手を伸ばしてつかみさえすればよかった。ママも、妹たちも、パパも、誰も止めやしない。ぼくが、伸び伸びと一日の活動を開始するのを、みんな遠まきに、暖かく見守ってくれていたのだ。そのような、何か期待に満ちた、胸踊るような目覚めだった。――あの目覚めを失ってから、何年が経ったろう。パパが死に、ママは行方不明。そして妹たちとも離散した。今は再び再会してリサがいるけれども、かつてのような楽しさはもう期待しようもない。ぼくはベッドに横たわりながら、時の過ぎるのを感じた。あのママの笑顔、パパの笑い、そして幼かった妹たちの笑い声は、どこへ行ってしまったのだろう? みんな過ぎて行く。そして、そのことを今感じているこのぼくさえも… ぼくは必死になって、時が過ぎるのに抵抗しようと試みた。そしてあの時代を、ママの姿を、もう一度取り戻そうと、眼前に思い浮かべようとした。それは、おぼろげな形となって、窓を見つめるぼくの目に、小さなしみのように、あるいは透明な形のように、浮かんで来ようとした。そしてついに見た。あれはママ。そして、あれはクリスチーヌ。彼女は、テーブルのそばに立って、こちらを見つめている… 次の瞬間、一陣の風と共に、その幻影は、どこかに消え去ってしまった。残されたのは、どこまでも澄み切った青い空と、白い雲。そうだ、ぼくは幸福をつかもう。あの白い雲をつかむように。そして、あの青空に住もう。そこでなら、もうママとも、クリスチーヌとも、引き離されはしないだろう…

 

 それから暫くして、ぼくは、食堂で、リサと食事をした。ぼくが焼きたてのトーストに手をつけているあいだ、リサは、向うのキッチンで、暖かいミルクをティーカップに注いでいた。ぼくは足を組み、くつろいだ様子で、窓の外の一見暖かそうな晴れた景色を見つめながら、それとなく、リサに話しかけた。

 “けさ、ぼくはクリスチーヌを二度見たよ。一度は夢の中で、もう一度は、朝起きてから、幻覚の中でさ。二度も見るなんて、ぼく、どうかしてるんじゃないかな”

 “よほど兄さんは、クリスチーヌに対する思い入れが激しいというわけよ”

 そう言いながら、リサは、二枚の皿に乗せたミルク茶碗を、こちらのテーブルに、そろそろと運んで来た。


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 “兄さんって、クリスチーヌのことが気になって仕方がないんでしょ。美人って聞いたものなんだから…”

 リサは坐るなり、ぼくを見てそう言った。

 “そうは思っちゃいないけど”と、ぼくは答えた、“だって、彼女のことはほとんど何も知らないんだもの。実際見たわけでもないしね。それなのに彼女は、夢の中でハッキリと現れた。幻覚の中でだってそうだ。本当にぼくは、どうかしてしまったのだろうか…”

 “兄さんに現れた彼女って、やはり美人だった?”と、リサは興味深げに尋ねた。

 “いや、決まって体つきはほっそりしていて、美しいんだけど、残念ながら顔だけは、はっきりとは見られないんだ。せめて、写真の一つだけでもあればいいんだけどね”ぼくは残念そうに答えた。それから、ぼくはひとり言のように言い始めた、“こう言っちゃなんだが、きっと、お爺さんの話しを聞いて、余韻のようなものが、ぼくには取りついているのだろう。かつていたクリスチーヌがどんな人で、どのような姿をしていたのか、そんなことのすべてが、まるで余韻のように、ぼくを惹きつけるのさ。でも、考えてみれば空しいだけさ。だって、わずかな手がかり以外、もう彼女のことを知る手だては、何もないんだから。ねえ、もうクリスチーヌの話はこれくらいにしよう…”

 “そうね。それがよさそうね”そう言ってリサは、にっこりした。

 ぼくの向かいに坐っている、青いセータを着たリサは、けさはまた一段と可愛かった。

 窓からは心地よい風、テーブルの上の花が揺れている。この日もまた始まったのだ。リサはトーストをかじり、ぼくはミルクを飲む。暖かくていい味だし、花の匂いがプーンと鼻を突く。これぞ生きている証というものだ。ここに死者の分け入る余地はない。死者よ去れ。そして、幻覚よ、さようなら。ぼくは改めてリサを見る。彼女は、呼吸をし、食事をし、今を生きている。そんな彼女こそ、素敵と思うべきなのだ。実際彼女は素晴らしい。無邪気で、可愛くて。

 “ねえリサ、生きているって、いいことだね”と、ぼくは言った。

 “何よ、急に?”と、リサは、不思議な顔をして、ぼくを見るのだった。

 “だって、生きているからこそ、夢も見、感じることができるのさ。この素晴らしい朝を。御覧よ、庭の木が、あんなに美しいじゃないか”

 “兄さんって、この家に変わったことが、相当嬉しそうね”と、リサは、にっこりして言った。

 “そう、何もかもね”と、ぼくは言った、“ただ、リサにはまだ分かっていないんだ。ぼくのこの複雑な思いが…”

 最後のぼくの言葉は、リサは聞いてはいなかった。しかし別にかまうことではない。リサに、生きることの素晴らしさを伝え、自分も今、そう感じている限りは。そして、クリスチーヌには冥福を、ママには祝福を送ろう。そして、その他の諸々の生き物に、幸せのあらんことを。


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 “ところでね”と、ぼくはしばらくしてから言った、“ここは本当に星のきれいなところだ。ぼくはセルッカにいたとき、かねがね星のきれいなところに住みたいって思っていたけれど、それがここなんだ。星って、見れば見るほど不思議な魅力を発するからね。前など、星なんかゆっくり見ている暇もなかったけれど、これからは、ゆっくりした星の観察者になれそうだ”

 “昨日の晩、星を見たの?”と、リサは尋ねた。

 “いや、明け方さ”と、ぼくは答えた、“早くに目が覚めてしまってね、四時頃にこっそりと家の庭に出てみた。すると、空には満天の星で、すっかり圧倒されてしまった。オリオンも、シリウスも、プレアデスも、有名な星が目立たないくらいさ。ただ地上を見ると、周りは、とりわけ湖水の方が、無気味なくらい暗くて、静まり返っていた。それが少し薄気味悪かったけれどね。それに、空には、火星も、木星も、土星もある。――ぼくは、子供の頃、ママに望遠鏡をねだって観察した日のことを思い出してね、今、望遠鏡さえあればまた観察者に戻れる、と思ったものさ。宇宙って、本当に広くて、果しがないんだ。オリオンや、シリウスをじっと見つめていると、ぼくはその星へ、吸い込まれて行くみたいな、そんな気になってしまうんだ。人が純粋さに触れるって、恐らくそのときなんだろうね。その瞬間からぼくたちの空想は広がって、宇宙への冒険者になってしまうんだ…”

 “この地上にも色んなことがあるというのに?”と、リサは言った。

 “地球の旅人もいいけど、できるものなら、宇宙の旅人にもなりたい”と、ぼくは言った。“色んな宇宙の惑星へ行って、色んな宇宙の人と出会う。SFめいているけれど、もしできるなら、素晴らしいことじゃないか。どんな美しい景色、素晴らしい自然が、そこに待っているかも知れないしね。ぼくたちには測り知れないような世界が、そこに待っているかも知れない…”

 “でも、わたしはこの地球で十分よ”と、リサは言った、“この地球だけでも学ぶことはたくさんあるんですもの”

 “それはともかく、やがて西の空に光がさして、バラ色に染まる頃、段々と星は輝きを失って行った”と、ぼくはポツリと言った、“そして、最後の星が頑強にその光を保っている頃、この日の朝がやって来たんだ。鳥はさえずり、一日の夜明けを歓喜で迎える。だがぼくは、そのずっと前から起きていたのさ。光が闇にとって代わり、夜空の星が完全に姿を消してしまうまでね。――でも願わくば、もっともっと、いつまでも、星空が続いて欲しかった。そして、宇宙の夢想に、もっと浸っていたかった”

 

 “…でも今は朝だ。素晴らしい朝”と、ぼくは続けた、“太陽があのうろこ雲の後ろに隠れているよ。なんと淡い、いい光なんだろう。ねえ、生きるってなんだろう。たとえばそれは、あの柔らかな光を浴びた木の葉の輝きを見ることなんだ。そして、その陰に立っている素晴らしい美女と出会うことなんだ。例えばクリスチーヌのようなね。それは素晴らしいことだとは思わないかい?”


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 “わたしが、そのクリスチーヌでなくて御免ね”と、リサはポツリと言った。

 ぼくはそれでふと、リサの存在に気が付いた。

 “いやお前だって”と、ぼくは改めてリサを見つめながら言った、“なかなかのものだよ。お爺さんだって、褒めていたじゃないか。クリスチーヌの血を引いているって”

 “その点では兄さんも同じよ”とリサは言った、“兄さんもママの子だもの”

 “ぼくたちはお互いにクリスチーヌの子孫というわけか”と、ぼくは言った、“だからこそ、ぼくの血が騒ぐのかも知れない。クリスチーヌを、一目でもいいから見たいってね。 ――でも、何十年か昔の、レオノールが言っていた日には、あの庭にクリスチーヌがいたんだね。庭の様子は以前とは違うかも知れないけれど、その場所は確かにここだし、そんな日があったなんて信じられない。そんな風に考えると、人生ってなんだろうと考えてしまう。一抹の夢のようなものなのだろうか…”

 “生きているうちにいい人と巡り合い、その人と生活することよ”と、リサは言った。

 “お前とではダメなのかい?”と、ぼくは言った。

 “わたしは兄さんの妹よ。結婚するわけには行かないわ”と、リサは言った。

 “――でもぼくは、お前が好きなんだけどね”と、ぼくは言った、“結婚はしなくたって、ずっと一緒に暮らすことはできるさ”

 “今のところはね”と、リサは言った、“それよりも早く、そのミルクを飲んでしまいなさいよ。冷めてしまうわよ”

 ぼくはそれであわてて、冷めかけていたミルクを、一気に飲み干した。

 それからもう一度、ブルーのセータがよく似合う可愛いリサを見つめると、ぼくは、自分の夢や希望を語った。

 “ねえ、ぼくたちは、信じられないほどの金持になったんだ。まるで王様になったような気分さ。ぼくたちの未来には、洋々たる未来が待っている。本当の自由というものを手に入れることができたんだ。もう今までのように、生活の為にあくせくと働くこともなくなったしね。――ねえリサ、一生とは言わないまでも、今までには味わえなかったぜいたくというものを味わおうじゃないか。まだ行ったこともない町や村へ旅しようよ。そしておいしい料理を御馳走になろう。ぜいたくの中では何よりも旅が一番さ。知らない土地、知らない空気、あの青い空が早くもぼくたちを呼んでいるよ。知らない人々に会って経験を積めば、その経験は決して無駄にはならないって思うんだ。ねえリサ、それこそ素晴らしいことだとは思わないかい?”

 “旅へ行くのはいいけれど、お爺さんはどうするの?”と、リサは冷静に尋ねた。

 “そうか。お爺さんか”と、ぼくは現実に引き戻されて、落胆したように言った、“お爺さんのことを忘れていた。きょうもまた、見舞いに行かなくっちゃならなかったんだね。 ――でもお爺さんの容体がどうなるかは分からないけれど、もう少し暖かくなって、春になれば、そのうちきっと行こうよ。お前と二人っきりで”


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 “ええ、いいわ”と、リサも微笑んで答えた。

 “それでこそぼくの妹だ”と、ぼくは言った。“ああその日が来るのが待ちどおしいなあ。――だってぼくは長いこと旅なんてやったことがないもの。セルッカでの生活なんて、まるで牢獄同然だったものね。でもぼくは、セルッカにいた頃から、いつか旅をしてみたいとは思っていたのさ。あいにく暇と金がなかったからね。生活も最低だったから、夢のまた夢だったのさ。旅ができるなんて! でもその夢を、とうとうつかむことができたんだ。ねえ、こんな幸せな気持って、お前には分からないだろう?”

 “わたしだって同じよ”と、リサもにっこりして答えた。“だって兄さんとずっと、一緒だったじゃない”

 “お前には確かに苦労をかけた”と、ぼくは言った、“でもやっと、その苦労が報われる日がやって来たのさ。これからは何をするのも自由なんだ。旅は、なんと言っても列車の旅がいいね。車窓から移り行く風景を眺めながら、ふと車内を見れば一流の料理が並べられているなんて、最高じゃないか。今までは映画でしか味わえなかったものが、これからは本当に味わえるんだ…”

 “兄さんの夢って、相変わらずスゴイわね”と、リサは笑いながら言った。

 “そうさ、夢は大きければ大きいほどいいものさ”と、ぼくは言った、“素敵ないいおうちを手に入れたんだから、後は世界を手に入れる番さ。それも素晴らしい世界をね”

 それからぼくは、つや光した丸テーブルを前にして、椅子に背をもたせかけた。ブルーのセータを着た、髪の毛のきれいな、可愛いらしいリサも、藤を編んだ篭に積まれたオレンジやリンゴなどの果物も、テーブルの隅に置かれた鉢植の黄色い花も、そして、窓の外に広がる樹木や空の美しい景色も、何もかも素晴らしかった。こんなに気分の良い朝を迎えたのは、本当に久し振りのことだった。セルッカにいたときの朝は、毎朝が憂欝で、起きづらかったのだ。

 やがてリサは立ち上がり、再びエプロンを身につけると、隣のキッチンで後片付けを始めた。ぼくは、今しばらくテーブルに坐ったまま、そんな彼女の後ろ姿を見、それから背伸びをして深呼吸をすると、もう一度、幸せを呼びかけるような、素晴らしい窓の外を眺めた…

 

 ぼくたちが再び病院へやって来たのは、十時頃だった。

 レオノールは目を覚まして、ベッドに横たえたまま、ボンヤリと窓の外を眺めているところだった。

 ぼくたちが入って来ると、老人は振り向いた。

 “やあ来たのかい? もう来るかと待っていたところなんだよ”と、老人は言った。

  ぼくたちも軽く挨拶をした。

  リサは、途中の花屋で買って来た鉢植のゼラニウムの花を、他の飾り物が置かれている窓のさんに置いた。



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