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 “季節はもう知らぬ間に春になっておった”と老人はやがて、ポツリと話し始めた。

“あの猫が荒らした庭の花壇に植えてあったブルーベルの花も、いつのまにか咲き始めていた。ただあの猫が荒らしたところだけは、地面が剥き出しになったままで、花は咲かなかったがな。しかしわしは、リディアの悲しい気持だけはよく分かっていたつもりだ。リディアはあの猫を一番よく愛していたし、それが亡くなってからというもの、気の抜けたような生活をしていたのを、わしはじっと観察して来たからだ。――でも、春になる頃になって、リディアの閉ざされた心境も徐々に変化を見せるようになって来た。普段の、あの自然な子供らしさというものを、少しづつ取り戻して行ったのだ。彼女もやはり成長期にある子供で、老人みたいにいつまでもくよくよしているというわけには行かなかったのだ。春になる頃になって、うっかりしまったままになっていた猫の写真数枚が、思いがけず戸棚から見つかった。それは既に知られていた貴重な猫の写真に比べて、ずっと写真写りのいいもので、リディアに見せると、彼女は喜んで、それを自分の部屋に飾った。ある日こっそりとわしが、二階の彼女の部屋に入り込むと、猫の写真は、彼女の部屋でも一番いい場所である、机の上に飾ってあった。全部で6枚ほどが額に収められて飾ってあったが、見れば見るほど、まるで生きていたときそのままのようで、可愛いものばかりだった。そして、わしもそのときになって、こんなに可愛い猫なら、リディアにあれほど愛されたのも当然のことだ、と初めて猫の可愛さに気づいたものだった。しかしそれはもう、ただ写真に収まっているだけの、地上では形のないものとなってしまっていたのだ…”

 病室に腰掛けているぼくはふと、ベッドに横たえている老人から、窓の方に目を向けた。どんな猫かは知らないが、老人の口から語られた、白や褐色や黒の斑模様のそんな猫がママの子供時代にいたなんて、初めて知った話しだったが、そんな遠い時代に、ママの心に深く影響を落とした猫がいたことを、ぼくは思わずにはいられなかった。それは小さな命には違いなかったが、しかしママにとっては、何よりもかけがえのないものに違いなかったのだ。ぼくの目には知らぬ間に、窓の外のあの青空を背景に、野原を元気に飛び回っているその猫と、少女リディアとが互いにほたえ回っているそんな姿が目に浮かんで来るのだった…

 “リディアはしかし、もう猫のことはほとんど口にしなくなった”と、やがて老人は言った。“そのことは大切に胸の中にしまい込んで、未来を生きて行こうとしているようだった。彼女は一つの試練を乗り越え、しっかりと人生を歩んで行こうとしているかのようだった。わしは、そんな彼女を持った父親であることを誇りに思い、また彼女のことがいとしくて仕方がなかった…”

 

 春になって、リディアは再び普通の生活に戻った。最愛の猫がいなくなったからといって、歩みを止めるわけにはいかなかったのだ。そして猫が死んで初めて、リディアは気が付くのだった。


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これまで余りにも猫に夢中になり過ぎたおかげで、周りのことが余り見えていなかったことを。――でも、村には、猫が死んだ後も、素晴らしい物事がいっぱい残っていた。何よりも素晴らしい自然が周りにはあり、学校には、ボンバル先生や、親しい友だちがいた。とりわけ、広い世界のことを教えてくれるボンバル先生の授業には興味をそそられた。それに、音楽だって好きだし、本当はピアノが弾きたかったのだが、家が貧しくて買うことができなかった為に、リディアは、以前に一度、その音色を聞いて一遍に好きになってしまったフルートを、ちゅうちょなく選ぶことにした。しかしその楽器は、村ではただ、ボンバル先生の執務室にしかなかった。ボンバル先生の愛用の楽器だったわけだが、リディアは願い出て、ときどきボンバル先生の手ほどきを受けたのだった。猫の刺繍を絶ってから、リディアの情熱はその楽器に注がれ、その腕もメキメキと上達して行った。しかも、勉強にも力が入り、ボンバル先生がときどき実施するテストでも、他の子供に比べて、頭抜けた成績を示すようになった。それは、ボンバル先生にとっても、ひとつの驚異という他はなかった。家が貧しくて、家に帰れば、さっそく家の仕事を手伝わされているはずのリディアに、どうしてそんな成績を上げるだけの余裕があるのか、先生には理解できなかった。

 実際、リディア自身の成長の順調さとはうらはらに、リディアの家の方は以前に比べて余り芳しいとは言えなかった。その第一の原因は、なんと言っても、農業に不慣れなレオノールの素人仕事にあったが、それに輪をかけて、天災が、彼の仕事を行き詰まらせた。せっかく産まれた子牛も、飼料の不足から十分な乳牛に育つことができなかった。レオノールは、仕事の行き詰まりを決してリディアに口にしはしなかったが、父親の険しい顔の様子などから、リディアにはそれとなく分かっていた。

 そしてついにある日、家の仕事はリディアひとりに任せて、村の伐採場へ出稼ぎに行くと言って、レオノールは、家から出て行った。その為にリディアは、学校を休みがちにならざるを得なかった。

 レオノールは、家計が苦しくなったおり、リディアの登校と相前後して村の伐採場へ出掛けて行き、夕方遅く家に帰って来た。リディアはそのあいだ、残された家畜から、目を離すことができなかった。

 リディアは一度、村の伐採場まではるばると、レオノールに弁当を届けに行ったことがあった。

 その日はよく晴れた日で、リディアの歩いて行く長い沿道には、スミレやタンポポや、その他の可憐な花々が咲き乱れていた。村人たちはたいていもうリディアの知り合いであり、牛の世話をしている村人のひとりが、歩いて行くリディアに声を掛けた。

 “やあリディア、父さんは元気にしているかい?”

 “ええ、お父さんに弁当を届けに行くの。父さんったら、弁当を忘れたものだから”

 “そうかい、そう言や、お父さん、村の伐採場で働いているって話しだな”

 “ええ、一週間ほど前からね”とリディアは答えた。


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 “――でも、あの辺りは危ないから気をつけてな”

 “ええ大丈夫よ。これを届けたらすぐ帰るの”そう言うとリディアは、村人から別れて正面の、森林におおわれた山に向かって、真直ぐに歩みを始めた。

 やがて、彼女がやって来た村の集材所では、大勢の男たちが、山積みされた木材のあちこちに群らがって、たばこをふかしたり、弁当を食べたりして、昼の休憩時間を楽しんでいた。彼女がやって来ても、最初、そこにいた男の誰もが、彼女が誰で、どういう目的でやって来たのかが分からなかった。

 リディアはやって来るなり、最初に出会った男に、レオノールに会いたいことを告げた。

 “おーい、レオノール。お前の娘がやって来たぜ!”という叫び声が、この静かな山間いの場所に響き渡った。

 すると間もなくして、休憩している男たちの間から、あのレオノールが姿を現したのだった。他の男たちと変わらないみすぼらしい作業服を着ていたが、その特徴のある体つきや、濃い口髭から見て、ひと目で、それがレオノールだということが分かった。

 “リディアかい。どうしてお前、こんなところまでやって来たのだい?”と、レオノールは、リディアを見るなり言った。

 “だってお父さん、弁当を忘れたんだもの”と、リディアは、上目使いにレオノールを見上げながら言った。“ハイ、これ”

 レオノールは、リディアから弁当を受け取ると、感謝の気持を込めて言った。

 “ごめん、ごめん。これを届けてくれたんだね。実は、きょうは昼飯抜きだとあきらめていたところだったんだよ。でも本当に遠いところ、よくやって来てくれた。道をよく間違えなかったもんだね”

 “ええ、村の人に聞きもってやって来たの”と、リディアは、疲れた様子もなく答えた。

 “それじゃまあ、こっちへ行ってお休み”

 そう言ってレオノールは、男たちがジロジロと見守るなか、積材の空いたところへリディアを案内して、そこに坐らせた。

 リディアは、木材の上に腰掛けると、初めてやって来たこの作業場を、興味深げに眺めた。

 整然と、あるいは、無秩序に積み上げられた、まだ切り出したばかりの蓄材のところどころに男たちが群らがり、泥にまみれた集材用のトラクターが、材木のあいだに無造作に置かれてあった。リディアには、それらの男臭い世界が、自分を圧倒するような、何か大きな存在のように思われて来た。一言で言えば、リディアは、この乱暴な世界に興味を惹かれたのだ。

 レオノールは、リディアに話しかけるのでもなく、黙々と食事を始めたが、そこへ、ライオンのような髭を生やした初めて見る男が、レオノールに近付いて来た。

 “おいお前、こんなに可愛い娘がいたのか。わしにはひと言も言ってくれないで…”

 男はリディアをジロジロ見るなり言った。


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 リディアは、警戒するような、敵意に満ちたまなざしで、その男を見た。

 “何も尋ねなかったものだから…”と、レオノールは弁解した。“じゃ紹介するよ。これは、娘のリディア”それからレオノールはリディアの方に向いて、その男を紹介した。“リディア、この人はね、わたしを直接指導して下さっている、ライアンさんだ。年はわたしとほとんど変わらないんだが、何んでも相談にのってくれる、とってもいい人なんだよ…”

 それで、リディアは形式的にその男と握手をせざるを得なかったが、子供の本能と言うべきか、ひと目見ただけで、どうしてもその男を好きになる気にはなれなかった。

 男は、レオノールの横に坐ると、仕事上のことについて色々と話しかけた。その話しで分かったことは、レオノールはまだこの集材所で働いていて、危険な伐採作業には手をつけていないということだった。しかしもう間もなく、山奥の伐採所まで行って、その作業に携わることになるだろう…

 やがて、昼休みの終わりを告げる笛の音で、男たちはめいめい立ち上がり、働く準備にかかった。レオノールも立ち上がり、リディアの頭を可愛げになでてやりながら、安全なところまで彼女を連れて行くと、優しく送り返してやるのだった。

 しかしリディアは、すぐには帰らず、その場に立って、男たちの、とりわけ、レオノールの働く様を見送った。彼らは、トラクターによって運ばれて来る木材を、クレーンによって次々と、手際よく巻立てをして行った。その大仕掛けな、クレーンのワイヤーに吊り上げられて行く木材の姿が、リディアを圧倒した。また別のところでは、山積みされた木材が、やって来たトラックに積み込まれ、それは、さらにふもとの、あのリトイアの駅まで運ばれて行くのだった。

 リディアは、レオノールが、ワイヤーにしっかりと木材を結びつける作業をしているのを見つめながら、嬉しいような、ほっとした気持になって、帰途につくのだった…

 

 ある日の放課後、リディアは、週に一度のフルートのレッスンを、ボンバル先生の部屋で受けていた。よく空の晴れた、さわやかな日だった。窓の外の樹木や草の輝きが素晴らしく、光と影の織りなすその様は美しかった。半分あけ放された窓からは心地良い風が吹き込み、リディアを心身ともうっとりさせた。ボンバル先生はソファーに深々と腰を降ろし、フルートを持って立つリディアを見つめていた。

 “さあ、もう一度吹いてみなさい”と、先生は言った。

 リディアは、吹口を唇に当てて、フルートを横に構えると、表情豊かに、力強く吹き始めた。

 それはバッハの曲だったが、吹いているうちに、この部屋の静けさや、窓の外の風景の美しさとあいまって、うっとりするような、幸せな気持がいや増してくるのだった。

 先生は、それでいいとばかり目を閉じて、リディアの演奏を、以前のように制止する様子もなかった。


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 そうしてわずかな時が流れたとき、ふっと窓に目をやると、驚いたことに、窓の外でリディアの演奏に目を向けている、同級生の男の子の顔が三つほどあるのに気が付いた。彼らは、物を言わないが、ニヤニヤした顔で、リディア自身を見つめている。だからと言ってリディアは演奏を止めるわけには行かなかった。しかしそのときだった、リディアの心の中に突然、窓に顔をくっつけてこちらを見つめているあの子のような、男の兄弟が欲しい、と思ったのは。どちらかと言えば、弟がいい。弟がいれば、自分のあの寂しい家もどんなにか潤うことだろう。

 やがて、演奏が終わるや、三人の男の子たちは、ワーッと笑い声を立てながら、我先に窓から離れ、向う側に駆けて行った。

 その音で、先生はハッと目を覚ました。そして、去って行く男の子には目もくれずに、リディアの方を見た。

 “なかなかよかったよ、リディア”と先生は言った。“でも、週に一度しか、練習時間がないって、惜しいな”

 “これでも、お父さんに無理を言って、やっとやらせてもらっているんです”と、リディアは答えた。

 “そう言えば、君のお父さんは、もう家の仕事は殆どしていないそうだね”

 “ええ、牛がかなり減りましたから”とリディアは答えた。“でも、何頭かはいるんです。その世話は全部わたしに任せきりですの”

 “でも、女の君じゃ、少し荷が重すぎやしないか”と、ボンバル先生は言った。“こう言っちゃなんだが、君の家には男手がいるんじゃないかい。あの家を君ひとりに任せるなんて、ヒド過ぎるよ…”

 “そう言ってもらうの、嬉しいわ”と、リディアは素直に答えた。“でも今のところはなんとかやっているんです。そりゃ確かに、足りないところはいくらでもありますけれど…”

 先生は、もうそのことに関してはそれ以上何も言わず、ただにっこりするだけだった。

 “リディア、きょうの演奏はなかなか素晴らしかったよ。自信を持っていい”と、先生はほめてくれた。“時々は家で練習することもあるのかい?”

 “ええ、仕事のあいまに少しばかり…”と、リディアは答えた。

 

 その日はそれで帰ったが、実際リディアにとって、フルートを吹くのが一番楽しいときだった。

 家の仕事はほとんど一人に任され、友達と遊ぶことのない孤独の時間が続いたが、それでも、ほんの少しばかり手が空いたときなど、リディアは自分の部屋に駆け込み、よくフルートを吹いた。二階の窓から自分の家の庭を見下ろし、風の吹くままにフルートを吹いた。フルートを吹いているあいだだけ、リディアを、現実の世界から引き放し、うっとりするような、夢見る世界に連れて行ってくれるのだった。



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