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ポチに願いを

 部屋の片隅にポチがいる。

 可哀想に、夫に何度も何度も蹴飛ばされたものだから、もうずいぶん前から動けなくなっている。

 夫は、こんなもの早く捨ててしまえと、折に触れ怒鳴り散らすが、私にはそんなこと到底できない。

 仕事中毒だかなんだか、毎日帰りの遅い夫を待って、ポチと一緒に過ごした時間は、私にとって宝石のように大切な時間だったのだ。中身は無機そのものの機械に過ぎないのだが、どんな生き物より、私には愛しい存在だった。

 ねえ、ポチ。

 同意を求めても、ワンとも言わない。以前なら、頭を撫でられに、トコトコすり寄ってきたのに、ピクリともしない。

 「あんな人、消えてしまえばいいのにね」

 思っていることが、つい声に出てしまう。

 神様にお願いしてみようかな。それとも、星のほうがいいか。

 そういえば「星に願いを」なんて歌があったっけ。星に願いをかけたら、なんでも叶うという、オメデタイ歌。

 願うだけでなんでも叶うなら、誰れ~も苦労しないわよね、ねえポチ。

 それともポチにお願いしたら叶うかしらね。星にじゃなくて、ポチに願いを、だわ。しょうもないオヤジギャグそのものね~。

 でも、試しにやってみる。

 「ポチお願い。目障りなあの人、夫を消してしまって!」

 ん、なんかポチの目が光って、頷いたみたい。願いをきいてくれたのかしら。

 でも気のせいだわ。

 玄関のドアがギコギコ開く音がするもの。夫と同じように、この家のドアは老朽化して錆ついている。おまけに夫の頭と同じように、塗装もハゲちょろけだ。

 あのドアの閉め方は夫のもの。ドアに恨みでもあるような、バシンとひっぱたくような閉め方。 「ただいま」とも言わず、脱いだ上着を私に投げつける。機嫌が悪いという空気が、上着のまわりにまとわりついている。いつもいつも不機嫌なのだ。

 私は、夫の顔を見るのもいやだから、というだけじゃなく、そうしなければならないから、下を向いたまま、上着を抱え、夫の後ろをついていく。

 夫が歩きながら脱いでゆくズボン、ネクタイ、ワイシャツ、シャツ、パンツを順々に拾い上げる。

 

 そう夫は、帰宅すると廊下でパンツまで脱いでしまうのだ。夫の”あんなもの”なんて見るのもおぞましいから、着替えが終わるまで、ずっと私は下を向いているというわけ。

 だが、ついふっと夫のいるほうを見てしまった。なにかいつもと違う雰囲気を感じたのだ。

 そこに夫の姿はなかった。

「なに変な顔してるんだ、風呂入るぞ」

 私は口をポカンと開けたまま、声のしたほうを見つめる。

「おかしなやつだな。沸いてるんだろ」

 私は慌てて虚空に向かって何度も頷いた。万が一お風呂ができてなかったら、それこそ大暴れされるに決まっているのだ。なにもないところから、いきなりパンチがとんできたら、避けられっこない。

 風呂場のドアを開く音がし、しまる音がし、浴槽からお湯をかける音がし、浴槽に入る音がし、ザバザバとお湯があふれる音がし、満足そうな意味不明の喜悦の叫び声があがり、調子はずれの鼻唄まできこえてきた。

 その間、夫の姿はチラッとも見えない。私の目がどうかしてしまったのかしら。

 まさかポチが……。

 腰が抜けてしまったみたいになった私は、這いつくばってポチのそばまで戻った。

「ポチ!ポチ!たいへんよ、あの人が消えてしまったわ」

 ポチが笑ったみたい。

「ホントに、ポチ、私のお願いをきいてくれたの?」

 ポチがまた頷いたみたい。

「でもねポチ。あの人を消してしまってというのは、こんなふうに見えなくしてしまってということじゃないの。これじゃ不気味なだけだわ」

 ポチが首を傾げたような気がする。

 「消してしまって、というのはこの世から消してしまって、ってことなの」

 ここまで口に出してしまってから、慌てて口を押さえた。

 私ってなんてことを!

 ポチがなんだそういうことだったのかという顔をして、もう一度私に微笑みかけた。

 夫の鼻唄が、突然途絶えた。 


逆順

 息子が、

 「父の日のプレゼントはなにがいい?」

  ときくから、

 「そりゃ大きくて、丸くて、張りのあるのがいい」

 と答えてやった。

 息子は目を丸くして、マジマジと私を見つめた。

 「ママ、なに言ってんの!父の日だよ」

 「だからチチの日」

 私は自分の薄い胸を指差す。

 しばらく怪訝そうに、目をキョトンとしていた息子は、やがて、

 「ヒョウキンだなあ、ママは」

 と口をイッパイに開けて、無邪気に笑った。そんな笑顔に接すると、ほんとうにこの子の母親で良かったなあと思う。

 「チチはチチでも乳じゃなくて、お父さんの父だよ」

 そんなことわかってるわよ、と私も笑顔を返す。

 「お父さんと言っても、ママはシングルママだから、あなたにお父さんはいないのよ」

 息子は寂しそうに俯く。

 長い睫の影が、私の母性愛をくすぐる。この子のためならなんでもしてあげたい、と鼻の奥がツンとしてくる。

 「そうだ!」

 と両手を打ち鳴らした息子の顔が、パッと明るくなった。

 「父の日にはママに、お父さんをプレゼントしてあげよう~」

 やだこの子はなに言ってるのよう。思わず頬が熱くなる。

 「ママ、どんなお父さんがいい?」

 そりゃ、頭が良くて、ハンサムで、優しくて、背が高くて、お金があって、と言いかけて、慌てて首をふり、

 「あなたがいいと思うお父さんでいいわよ。あなたが大好きになりそうなお父さん」

 「ほんとにそれでいいの?」

 「いいのよ、それで。そしたら3人で仲良く暮らしましょうね」

 「うん、わかった。じゃ、ぼく探してくるね。ママが喜ぶような素敵なお父さんを探してくるね」

 息子は元気よく家を飛び出していった。

 気をつけて行くのよう、とその弾みに弾んでいる後姿を見送りながら、私は思う。

 5月5日の子供の日に、息子はこの家に現れた。

 それから1週間ほどあとの母の日に、息子へのプレゼントとして私は贈られてきた。

 今度は父の日の番だ。

 きっと、親子3人の、つつましいけど暖かい家庭ができるだろう。

 だが、とそこで私の微笑みは凍りつく。

 9月が来るのが怖い。

 9月の敬老の日に、意地の悪い姑が、ポンと贈りつけられてくるかもしれないのだ。

 了


息を止めて

 夫の息が止まった。といって、死んだわけではない。いわゆる睡眠時無呼吸と称するものだ。

 窓のカーテンをビリビリ震わすほどの、喉奥の蓋だか膜だかの激しい振動がピタリとやみ、そら怖ろしいほどの静寂が寝室を支配する。

 私は、1、2、3……と密かに胸の中で数え始める。このまま止まったままだったらどうしようという不安と、ままならままでいいという期待がちょっぴりで、胸がドキドキしてくる。

 でも、40ほど数えると、喉がひっくり返るような、鼻の粘膜が引き剥がされるような、クシャミを巻き戻したらこんな音かというような音があがり、静寂は破られる。

 苦しそうに顔を歪め、首を激しくふる姿に、よく首から上がもげないものだと思う。

 そして再び荒い寝息から、盛大な鼾の洪水。

 私は目を瞑り、ひたすら眠ることに努める。以前だったら眠れなくて苛々していたものだが、この頃はそんなこともなくなった。

 「あなた、寝てるとき時々、息が止まることがあるわよ。一度病院に行ったら」

 と、忠告してやったことがあるが、返ってきたのは、うるさそうなフンという笑い鼻と、ギョロッとした怖い目だけだった。

 それ以来私はもうそのことに触れないことにした。いつも不機嫌なのは熟睡できないせい、とわかっていても、そのとばっちりを受けるのはもうたくさんだった。

 それで夫の寿命が縮まっても、私の知ったことじゃない。

 また夫の息が止まった。

 私はもう一度数を数え始める。1、2、3……。胸を押さえ、息を詰めて念じる。そのまま、そのまま。11、12、13……。夫の息が止まっている間に私は眠ってしまうのだ。

 そのまま、そのまま。静寂のまま。私は更に息を詰めて念じる。そのままずっと静かに大人しくしていてね。21、22、23……。そう、そう、その調子。

 そうすると、甘美な睡魔が私を包み込み、喪服姿の、私ではないような美しい私が目に浮かび、夫の若い部下たちの熱い視線を感じ、やがて私は至福の眠りの底に落ちて行く。

 翌朝、夫は歯ブラシを口に突っ込んだまま、モゴモゴとまだ半分眠っているようなのんびりした声で言った。

 「お前も、寝てるとき、呼吸が止まるなあ」


ミキちゃん

 ミキちゃんは酒が入ると、妙に色っぽくなって、

 「ねえ、専務」

 なんて斜めはすかいに下から見上げられると、背中がぞくっとしてくる。

 「専務みたいな人と一緒になりたかったな」

 「おいおい、なに言いだす。そんなに飲んでないのに酔っ払っちゃったのか」

 「酔ってなんかいませんよ~。酔ってこんなこと言うもんですか」

 長い睫毛をしばたたかせて、口を尖らせる。透明感のある白い肌がほのかに染まり、そんな顔を近づけられると、私にはまったくその気はないのに、吸い寄せられそうになる。

 「じゃ、悪い冗談だ」

 「冗談なもんですか。専務が総務部の部長で、私が配属になったころから、ずっと専務のこと好きだったんだから」

 「バカなことを言うんじゃないの」

 「バカですよ~。私はどうせバカですよ~」

 盛大に身をよじらせる。私が呆れて黙っていると、

 「あ、また若い子みたいに拗ねてる、なんて思ってるんだ。似合わないですよ、どうせ。もう三十なんだから」

 「年の問題じゃない」

 「専務は還暦で、年の差は三十。問題ないですよねえ」

 言っていることがムチャクチャだ。

 「もういい加減に切り上げて、家に帰りなさい。明日君は結婚式を挙げる身だよ」

 ミキちゃん、大げさに天を仰いだ。

 「あ~、やだやだ。結婚なんかしたくない~」

 「なにを言ってるの。人も羨む美男美女のカップルのくせに」

 「玉の輿だか、逆玉だかしらないけど、どうせ政略結婚じゃないですか」

 「私は派閥など作らない」

 恨めしげな視線が私を突き刺す。どう言い繕っても、今度のミキちゃんの結婚が、私の地位を強化してくれるのは事実だ。だが、そんな計算だけで、私はこの話を進めたのではない。

 どうみても似合いのカップルで、私の家で開かれた見合いもどきの席から、気が合ったよう。その後の親密な付き合い方からいって、相思相愛だと思っていた。だから進めたのだ。

 ミキちゃんの私に対する思いはうすうす感じてはいたが、親子以上の年の差からいって、まさかまさかだったのだ。

 「専務、せめて今夜一晩だけでも、ダメですかあ」

 目にイッパイ涙を溜めて、迫ってくる。

 「ダメダメダメ」

 「ダメダメダメも好きのうち~」

 「ダメなものはダメ」

 「ダメなものはダメじゃない」

 まいったなあ。なんとしても、早くタクシーに押し込んで、家に帰してやらなくちゃ。

 

 明日私は結婚披露宴の主賓として、こんな挨拶をしなければならない立場なのだ。

  ーー新郎三木義彦君は我が社の次代を担うホープ中のホープでして、私が我が社初の女性重役に就任して以降も……

 

 

 

 

 

 


緊急停車

「線路内に、人が立ち入ったという情報がありましたので、しばらくこの電車は現在位置に緊急停車いたします」

 またかよ。

 このところ毎日のように、どこかの路線で電車が停まる。

 あとちょっとで次の駅に着くというのに。駅にはこの間つかまえた新しい彼女が待っているのだ。

 またアナウンス。

 「どうやら人ではなく、幽霊のようです」

 ん?なんだこの車掌。

 停車している電車のなかで、乗客が退屈しないように、一人芸でもはじめようってのか。

「今朝ほどこの先の踏切で、人身事故がありまして、そのとき死亡した方の幽霊のようです」

 おいおいシャレにならないぞ。

 「お客様のなかに、江崎謙一郎という方はいらっしゃいませんでしょうか」

 俺の名前だ。

 だが、同姓同名、字違いということもある。

 「××市にお住まいの、江崎謙一郎様です」

  いよいよ俺だ。

 「いらっしゃいましたら、至急車掌室までお出でください。幽霊がお会いしたいと言っています」

 なにバカなことを。幽霊に知り合いなどいないぞ。

 「是非ともいらしてください。そうしないと電車発車できません。お願いいたします」

 困ったなあ。みんなにジロジロ見られながら、最後尾の車両に行くなんて、赤っ恥はかきたくない。

 「是非と……、あ、江崎さまですか。よくいらしてくださいました。どうぞどうぞ」

 ほえ~。同姓同名で同じ市に住むやつがいるのか。なにはともあれ、ホッとだな。

 「えっ?違う?この方ではないのですか。こんな年寄りじゃなくて、もっと若くてイケメンですって?あのお客様、お名前を。こりゃご丁寧にご名刺を。は、イザキケンイチロウ。は、は、なんとも。お客様、イザキじゃなくて、エザキでございます。だからエザキだろうって。あの、お客様、お客様はイザキ、お呼びしているのはエザキ。イじゃなくてエなんでございます。だから同じだろうって、あのお客様は東北のほうのお生まれで……」

 こんなときに下手な漫才やってんじゃないよ。みんな、爆笑じゃなくて、失笑じゃないか。

 車掌、しばらくマイクの前でゴシャゴシャやってたと思うと、

 「失礼いたしました。改めてお呼び出しいたします。イじゃなくて、エのほうのエザキ様、どうぞいらしてください。幽霊さんが怒っています」

 幽霊に「さん」つけてやがる。よっぽど怖いんだ。

 「若くて、イケメンで、女ったらしのエザキ様、どうかどうか……」

 ときたら、やっぱり俺だなあ。こりゃ行かなくちゃならないなあ。

 そこまで思ってから、はたと気づいた。いつも気づくのが遅いのが、俺の欠点だ。

 幽霊のやつ、あいつかもしれない。

 2週間ほど前に捨てた女だ。

 車掌が、幽霊を男とも女とも言わないから、わからなかったのだ。

 別れ際女は、電車に飛び込んで死んでやる、などとほざいていた。

 やれるものならやってみろ、と俺は啖呵を切って、プイっと後ろ向いてカッコよく去っていったのだが、ホントにやっちまったんだ。

 そうとなったら、車掌室に行くなんてとんでもない。

 シカとシカと、知らん顔を決め込もう。

 周りの連中、誰も、俺がそのエザキだなんて、わかりゃしないんだ。

 「エザキ様、江崎さま、いらっしゃいませんか!」

 いらっしゃません、いらっしゃいません。俺は目をつぶって、寝たふりをした。

 「エザキさま~!わっ、幽霊さん、そんな怖い目で睨まないでくださいな。絶対に乗っているはずだ。来ないのはおまえのアナウンスが下手なせいだ。そんな、そんな、ムチャクチャ言わないで。エザキさま~!エザキ!」

 うるさいなあ、あんまり叫ぶと喉がつぶれるぞ。

 「エザキさ……、えっ、あと3分で来なかったら、私を呪い殺す。そんなそんな、私だって家に帰れば、女房一人に、子どもが3人もいるんですから…エザキさま~、お願いお願いお願い~!」

 知らない知らない知らない~。

「来て来て来て、来てくださ~い、エザキさ~ん」

 泣いてやがる。

 それにしても暑い。車掌のやつ、逆上して冷房を切ったな。酸素不足だ。息苦しいぞ。

 

「たいへんお待たせいたしました。安全が確認されしだいまもなく電車発車いたします。江崎様はとうとう現れませんでしたが、いまさっき幽霊さん急に、もう用件はすんだと言って、ニコニコしながら消えていきました。なにがなんだかわかりませんが、ともあれこの電車まもなく……、ん?なんだって?……まったく~、今日は仏滅かあ、13日の金曜日かあ……、あっ、タイヘン失礼いたしました。いま、車内に急病人が発生したという知らせが入りました。次の駅で搬送いたしますので、重ね重ねご迷惑をおかけいたしますが、この電車、次の駅でしばらく停車いたします……えっ?急病じゃなくて、重病……、もう息をしていない…………」



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