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プロローグ

 麗らかな春の日差しが、体育館の中にも射し込んでいた。パーテーションで仕切られた相談ブースごとに学生たちが列をなしている。明光学院大学が毎年行っている卒業生向けの相談会イベントに参加した学生たちの列だった。
 雇用管理分野の相談を担当する小林雄一郎のブースにも、起業を志望する学生たちを中心に集まっていた。相談者たちは、雇用に関する法律や従業員との接し方などについて質問をしていた。
 マネジメントやマーケティングなどの起業に役立つカリキュラムを多く取り揃えている明光学院大学は、他の大学と比べて、起業コースを選択する学生の割合が高かった。

 

 小林は、現在六十九歳、キャリア四十年のベテラン社会保険労務士だった。
 労務管理のエキスパートとして数多くの相談に接してきた小林だったが、七十歳の誕生日を機に、現役を退くつもりでいた。事務所の代表も十二年間彼のもとで修業を積んできた後輩の社会保険労務士に譲り、彼自身は、妻と二人で田舎に引っ越し、スローライフを楽しむ計画を立てていた。
 本来であれば六十五歳で引退しスローライフに入るという約束を妻と交わしていたのだが、延び延びになっていた。小林のことを信頼する顧問先の会社から「まだ辞めないでほしい」という声が多く寄せられていたからだ。
 今日の仕事も、彼の実績を高く評価した大学側から直々に指名されてのものだった。

 

 相談者の列は途絶えなかった。会場全体に熱気がみなぎる。
 そんな中、小林のブースに福元という男子学生がやって来た。
 起業志望の福元は、従業員を雇うときのルールについて質問をした。小林が、雇用に関する法律や労務管理のポイントについての説明をする。福元が、懸命にメモを取る。後ろに並んでいた学生たちも、思い思いに小林の話をメモしていた。
 一通りの説明が終わった。つかの間の静寂が、ブースの中を支配する。
 「他にお聞きしたいことはないですか?」と確認した小林に向かって、福元が問いかけた。
 「そういえば、以前、労働基本法という法律があったのですよね?」
 「ありましたよ」
 「雇用に関するルールについて、ものすごく細かく定められた法律みたいでしたが」
 「そうでしたね」
 「あの法律に代わるものが、先ほど教えていただいた雇用管理法なのですよね?」
 「そうですよ。いろいろとありましたが、今は雇用管理法という形で落ち着きましたね」
 「この雇用管理法は、小林先生が作られたんだってことをお聞きしたのですが」
 福元が、覗きこむような目をした。
 小林が、即座に否定する。
 「私が作ったなんてとんでもない。私は政治家ではありませんからね」
 「でも、先生が政府に掛けあって、今のような法律になったのではありませんでしたか?」
 「まぁ、たしかに私も掛けあったときのメンバーの一人でしたが」
 「もしよろしかったら、そのときのことを教えていただけませんか? ボクは、雇用管理の話にとても興味があります。雇用管理法のこともよく理解できましたが、このような法律ができた経緯も知りたいのです。過去からの経緯も知った上で、今の法律のことも理解しておきたいのです」
 福元の目は輝いていた。
 小林が、戸惑いの表情を浮かべる。
 「しかし、話せば長くなりますからね。後ろに並んでいる人もいますし……」
 小林の視線の先には、六人ほどの列ができていた。
 しかし列をなす学生たちからは、自分たちも話を聞いてみたいという声が上がった。
 小林は遠い目をした。紆余曲折だったが、今となっては良い思い出だ。
 (あのときのことを若い人たちに語り伝えておくのも悪くはないのかな……)心の中で呟いた小林は、「それじゃ、少し長くなるけどお話ししましょう。みなさん、もっとこちらに寄ってくれますか」と、学生たちを手招きした。
 列に並んでいた学生たちがブースに集まった。福元を中心にして固まる。
 「あれは、十年前のことだったかな……」昔を懐かしむ表情を浮かべた小林が、静かな口調で語り始めた。


第1章 虐げられた労働者たち

第1節 廃止

 

1.
 二〇××年九月十三日、霞が関にある経済産業省別館八二五会議室に、労働政策審議会の委員たちが顔を揃えた。入り口には労働基本法廃止についての検討会という貼り紙が貼られ、非公開の札がぶら下げられていた。
 労働政策審議会とは厚生労働省に対する諮問機関であり、法律に基づいた労働政策の在り方を議論し、政府に対して提言する役目を担っていた。公益代表委員、労働者代表委員、使用者代表委員がそれぞれ十名ずつ、合計三十名の委員で構成されている。
 企業の海外進出や海外からの労働移入が当たり前のような時代になり、グローバルな視点で労働政策の在り方を論議することが求められていた。そんな中、一番注目を浴びている議題が労働基本法廃止についてだった。
 近年、新興国の経済発展や技術力向上が目覚ましく、日本企業も国境を越えた市場間競争を余儀なくされていた。加えて、欧米諸国の構造改革も一段落し、競争に拍車をかけている。さらに、世界レベルでの経済連携の仕組みが構築され、海外からの労働力が日本国内に流れ込んでいた。
 それらのこともあって、産業界から、雇用規制の撤廃に関する要望が噴出していた。
 今や、技術力だけでは国際競争に打ち勝つことができず、徹底したコストコントロールが求められていた。雇用に関しても聖域扱いにすることはできなくなっている。企業の雇用に対する自由度を保てるような政策が必要だというのが使用者側の主張だった。
 その主張に対して、公益側も賛同の意思を示していた。
 インターネット技術が発展し新興国の教育水準が向上したことで、世界を股に掛けた事業展開や労働力確保が容易になった現在、国民の生計基盤を維持していくために、雇用の流動化を進める中で、労働者自らが能力を開発し、開発した能力を企業に売り込み、あるいは起業に役立てることのできる環境を整備することが必要だというのが彼らの論拠となっていた。そのために、保護する政策から意識改革を促す政策への転換を図ろうという主張を口にした。
 これら使用者側、公益側の主張に対して、労働者側の主張は二分されていた。
 このままだと、企業が自衛のために従業員の有期雇用化を進めることが予測でき、さらに雇用の主役がコストの安い海外からの労働力へ移行することで日本人の雇用機会が失われる懸念があるという主張がある一方で、労働者を保護する政策を撤廃してしまうと、労働条件が一段と悪化し、国民生活の貧困化につながるという根強い主張も存在していた。
 そのような構図の中で議論の進められた労働基本法廃止についての検討会も、今回で八回目を迎えた。 そろそろ労働政策審議会としての結論を出さなければならない。そのことを胸に、会長を務める隆盛大学大学院政策戦略研究科教授の山月が検討会の開始を告げた。
 労働政策審議会としての見解は、厚生労働省に対して労働基本法廃止に向けた提言を行っていくということで固まりつつあったのだが、一部の委員からの根強い反対意見もあるため、今日の検討会では、労働基本法が廃止となった場合の国民の不利益について最終的な検証を行うことが予定されていた。
 さっそく、反対派の筆頭格である日本技工産業労働組合連合会中央執行委員長の鳩村が発言に立った。
 日本技工産業労働組合連合会は金属加工産業の労働組合を束ねる上部組合として活動しており、その代表格である鳩村は、日本の金属加工産業を支えてきたベテランの技能工職人たちの行き場がなくなることを懸念していた。
 ただでさえロボット化が進んでおり、その上労働基本法が廃止になれば、賃金を始めとした彼らの労働条件が一斉に引き下げられる動きが広まることが目に見えている。ベテランの技能工職人は、潰しのきかない人間も多い。労働条件が引き下げられたからといって、今さら職を変わるわけにもいかず、泣き寝入りを余儀なくされる人間が多く出ることが予想される。
 それらの懸念を胸に、鳩村は発言した。
 「我々金属加工業界では、この道一本で来たベテラン技能工職人が多いのですよ。労働基本法が廃止になれば、給与水準の高い彼らの労働条件が引き下げられることは目に見えています。しかし、彼らはこの道一本でやってきた人間が大半であり、今さら他の道に進むわけにもいかず、泣き寝入りをせざるを得なくなる人間がたくさん出てきます。そうなると、彼らのやる気も下がり、我が国の基幹産業の一つである金属加工産業も廃れてしまいます。労働基本法廃止の議論が必要なことは理解できるのですが、実際に行動に移すのは時期尚早であると考えます」
 鳩村の意見に対して、使用者代表委員の真中が反論した。
 大手繊維メーカーの会長職を務める真中は、早くから雇用流動化の必要性を説いてきた人物でもあった。
 「たしかに、鳩村さんが指摘されますように、労働条件引き下げに動く企業は少なくないと思います。しかし、金属加工業界全体の維持発展を考えた場合、今ある技能工労働力がそのまま今後も必要となるのではないですか? ロボット化が進んでいるとは言っても人間の手でしかできない部分もあるわけですし、そういった固有の技術を若い技能工たちに伝承していかなければならないという課題もあるはずです。また、これらの固有の技術は、我が国の金属加工業界が発展していく過程で培われてきたものであり、海外からの労働力で補填される性質のものではありません。よって、一時的に労働条件が引き下げられる動きがあったとしても、結局は、必要としている会社に必要とされる技術を持つ技能工たちが再配置される結果になるのではないですか? 言わば、金属加工業界全体での適材配置ですよ。プロ野球でいうトレードみたいな形ですね。そうなれば、需要と供給のバランスの考えと同じで、全体的な労働条件も正常化してくるものと考えますが」
 「私も、真中さんの意見に賛成だな。企業側が労働条件の引き下げに動くということは、現在の労働条件が生産性に見合うコスト水準ではないということですよ。業界全体で適材配置が進んだ結果、生産性が向上すれば、労働条件も元に戻るものと考えてもよいのではないですか?」公益委員である光栄大学経営学部教授の戸部も発言した。
 戸部の発言に、何人かの委員が頷いた。
 周囲からの賛同を得られないもどかしさを表情に浮かべながら、鳩村が反論する。
 「そうは言いましても、業界全体での適材配置が実現するという保証は、どこにもないわけじゃないですか!」
 「しかし鳩村さん、それを言っては元も子もないのではないですか? ただでさえ、金属加工業界も世界レベルでの競争にさらされているわけです。今のままの高コスト構造を維持し続ければ、そのうち海外企業との価格競争に負けて自然淘汰されてしまうのではないですか? 言わば、座して死を待つだけの状態になりますよ。それよりかは、業界内での技能工労働力の流動化を促して再編を図って行くほうがよいのではないですか?」
 真中が、早口でまくし立てた。
 「鳩村さんのおっしゃられる懸念は、どの業界でも同じことなのですよ。とにかく今は、国全体でどう対処するかということを考えていかなければならない状況なのですから」労働者代表委員の口からも鳩村のことを諭す発言が飛び出した。
 その後も、白熱した議論が続けられた。大勢に押されるように、鳩村の発言のトーンが弱くなる。
 鳩村自身も、他の委員が主張することを頭では理解していのだが、自分の発言一つに何万人もの技能工職人の生活が掛かっているというプレッシャーから、妥協点を見い出せずにいた。
 最終的に、鳩村が労働基本法廃止を視野に入れた組合幹部との最終意見調整を行うという発言を行い、鳩村を巡る議論は終了した。

 

 鳩村に続いて、全国非正規雇用ユニオン会長の滝本が発言に立った。
 全国非正規雇用ユニオンは、パートタイマーや契約社員など非正規雇用者の処遇改善を目的として三年前に結成された全国組織であり、滝本は初代会長に就任した。滝本自身、シングルマザーという立場で非正規雇用の苦汁を味わってきたため、一人息子が巣立った現在、ユニオンの会長職として非正規雇用者の処遇改善に心血を注いでいた。
 滝本は、労働基本法廃止議論の中で、再三再四、非正規雇用者の雇い止めの問題を説いていた。
 労働基本法が廃止となり、企業側がコスト削減を見据えて自由な雇用政策を打ち出せる状態になった場合、真っ先に非正規雇用者の雇用が打ち切られるのではないかと危惧していた。もともと雇用の調整的な役目があることに加えて、満足な企業内教育を受けていないことも、非正規雇用者の立場を弱めている。
 そのような滝本の懸念に対して、他の委員たちは、労働基本法が廃止された場合、正規雇用者と非正規雇用者との垣根が無くなり、結果として非正規雇用者の雇用拡大につながるのではないかという見解を投げかけていた。この見解には、国内企業が世界間での競争に打ち勝ち、収益性が改善された場合、非正規雇用者に対する総体的な処遇改善が実現されるのではないかという考えも含まれていた。
 手元に置いたメモに視線を落としながら、滝本が発言を続ける。
 「前回みなさまから頂戴した見解を踏まえて、ユニオン内部で充分な議論を行いました。正規雇用者との垣根が無くなることで非正規雇用者の雇用が拡大するという考え方については、私どもも概ね理解をいたしました。ただ、非正規雇用者と申しましても、正規雇用職に就くことができなかったためにやむを得ず非正規雇用者になられた方や自らの考えで非正規雇用者になられた方、働ける時間が限られるなどご家庭の事情で非正規雇用者になられた方の三つのタイプがあります。最初の二つのタイプについてはみなさま方の見解が当てはまると思いますが、最後のタイプについては当てはまらないのではないかという意見が、ユニオン内で多く出されました」
 「つまり、雇用を打ち切られた主婦パートの方々などの行き場が無くなるのではないかということですか?」
 「ええ」
 「そんなことはないのではないですかねぇ。言い方は悪いですが、企業サイドにとってみれば、安い賃金で安定的な労働力を確保でき、しかも景気に応じた雇用調整も可能な従来型パート戦力を簡単には手放さないと思いますよ」
 「それに、主婦パートの方々の中にも、はなから正社員登用の道はないのだからとあきらめて現状の処遇に甘んじている方も結構いらっしゃるかと思いますが、企業内での労働力配置の再編が進むことで、主婦パートの方々の基幹従業員化への道も開けることになるのではないですか?」
 滝本の発言に対して、他の委員が見解を口にした。
 それらに対して、滝本が、一定の理解を示しつつも、各論的な懸念事項を口にする。
 滝本が口にした懸念事項に関して、全ての委員を巻き込んだ議論が展開された。
 その結果、中長期的な視点で考えた場合に非正規雇用者の地位向上につながるという見解に理解を示した滝本が、ユニオン内で最終意見調整を行うことを約束し、滝本を巡る議論は終了した。

 

 その後も、何人かの労働者代表委員が掲げた懸念事項に対して議論が行われた。
 いずれも、滝本のときと同様に各論的な懸念材料であり、それぞれの委員が、前回までの検討会での議論を踏まえた組合内部での意見調整を行った結果によるものであった。総論的には理解しあえるのだが各論ベースでの懸念が生じていた。
 発言したいずれの委員も、今回の議論を踏まえた組合内部での最終意見調整を行うことを約束し、すべての議論が終了した。

 

2.
 労働政策審議会としての見解がまとめられた。企業の国際競争力を高めるために労働基本法を廃止にする方向が望ましいという提言を厚生労働省に対して行うことになった。
 同時に、労働契約について定めた法律についても廃止するべきだという見解も併せ持った。
 ただし、労働者の安全衛生を確保するために定められた法律はそのまま存続させ、労働者に対して肉体的、精神的損害を与える行為や労働者の権利を侵害する行為について規制する根拠を明確にするべきだという見解も提言の中に盛り込まれることになった。
 そのような見解のもと提言書が作られ、労働政策審議会会長の山月を通じて山岡厚生労働大臣に手渡された。

 

 その年の十月八日、総理大臣官邸閣議室で、全国務大臣が一堂に会した定例閣議が催された。
 一週間前に臨時国会が閉幕し、今国会はこれで終了となったが、来年一月に開幕される通常国会へ向けて、内閣としての見解をまとめておかなければならない事案が山積していた。次の通常国会では、税制改革法案や防衛大綱を始めとして、野党とのせめぎ合いが生じることが予想されたからだ。
 大泉総理大臣が席に着き、閣議が始められた。大泉が、大臣たちの意見を聞きながら見解をまとめていく。
 テーマが労働基本法廃止に移った。労働政策審議会からの提言書は、すでに大泉総理大臣以下全閣僚の手に渡っている。山岡厚生労働大臣が、議論の口火を切った。
 「総理。労働基本法の件ですが、経済界からも散々突かれていましてね。次の通常国会会期中に廃止に関する法案を通して、早期に施行して欲しいという要望が強まっています」
 「そのようですね。昨日の経連団会長との会食の席でも、その話が出ましたよ。審議会の提言書も目を通させてもらいましたが、相当長いこと議論していたみたいですね」
 大泉が、目の前の提言書を手で叩いた。提言書は九十二ページからなり、製本された状態で配布されていた。
 チラッと提言書に目をやった山岡が、労働者側からの理解も得られていることを強調する。
 「ええ、一部の労働者代表委員からの根強い反対意見もあったようですが、総論賛成各論反対の世界だったみたいでして、最終的には、どの組合も理解してくれたと聞いております」
 「そうですか。私も次の通常国会内での廃止法案成立を目指したいと考えていますが、みなさん、どうですかな?」大泉が大臣たちの顔を見渡した。
 内閣総理大臣としての腹は決まっているのだが、国会審議中に野党から閣内不一致という揚げ足取りをされないためにも、どのような事案についても閣僚内での意思疎通を図っておきたいというのが大泉の考え方だった。
 大泉の呼びかけに、財務大臣の工藤が発言を求めた。
 「提言書の中で、労働基本法廃止に伴う国内総所得への影響として、短期的には微減で中長期的には増加に転じるとあるのですが、ちゃんとした根拠があるのですか?」
 ただでさえ財政強化が最重要課題として取り上げられている現在、税収減に直結するような政策は打ち出したくないというのが工藤の考え方だった。
 工藤の指摘に対して、山岡が言葉を返す。
 「審議会の見解は、経済学者が行ったシミュレーション結果を踏まえた上で作られたものです。労働基本法廃止後の離職率や企業の人件費への配分率、企業収益の回復率などを推定したシミュレーションを行ってもらったのですが、短期的には国内総所得が低下するものの影響は微減の範囲に収まり、中長期的には現状を上回る増加につながるという結論が出されております」
 「山岡大臣は、そのシミュレーションとやらについて、ちゃんとした説明を受けたのですか?」
 「もちろんです。詳細な説明をしてもらい、私自身も納得しました。シミュレーション資料は量の関係で今回の提言書には添付されておりませんが、私の手元にはあります。よろしければ、工藤大臣にも差し上げますが」
 「ぜひ頂きたいですね。それと、きちんとした説明もお願いします。ちなみに総理は、シミュレーションについて説明を受けておられるのですか?」
 「山岡大臣から、資料と説明はもらっていますし、私自身異論はありませんよ」
 「わかりました。まぁ、この部分の根拠がしっかりとしているのならば、私は反対するつもりはないのですがね」工藤財務大臣が質問の矛先を収めた。
 続いて、一之瀬国家公安委員会委員長が発言を求めた。
 「私は、一時的に離職者が急増する可能性に懸念を抱くのですがね。山岡大臣は、どの程度の離職者が、どの程度の期間発生するものと考えているのですか?」
 「私の見解、もちろん審議会や経済学者たちの見解を踏まえた上でのものですが、企業が抜本的な雇用政策を打ち出すことによって、最大三十%の労働者が一時的に離職するものと考えております。毎年行っている労働者意識調査の統計結果と照らし合わせてみても、最大離職率三十%というのは根拠のある数字だと考えています。離職期間についてですが、企業の活動を維持していくためには一定の労働力が必要であり、離職した労働者の大半が一年以内に新たな職に就くことができるものと考えています。また、ぜい肉をそぎ落とした企業の生産性が向上し、生産高が現行水準を上回るのに必要な期間が一年から三年という試算も出ていますので、結論から申しますと、三年後には今よりも失業率が改善された状態になるものと考えています」
 「ということは、治安悪化への影響も心配ないと考えてもよいというわけですね」
 「私は、そのように考えております」
 「雇用保険の財源のほうは大丈夫なのですか?」経済産業大臣の鶴岡が、山岡に対して質問を投げかけた。一時的に急増する失業給付を賄う財源が確保されているのかという質問だった。
 それに対して山岡が、失業給付総額の最大想定値を示した上で、現在の雇用保険の積立金で充分賄えることを説明した。積立金が潤沢であることについては、工藤財務大臣も口添えを行った。
 その後も、細かい部分を確認するためのやり取りが行われ、次の通常国会に労働基本法廃止に関する法案を提出することについての閣議決定がなされた。

 

 閣議決定されたことを受けて、厚生労働省主導のもと労働基本法廃止に関する法案が作成された。
 内容は労働政策審議会の提言に準拠したものであり、関係諸法令の取り扱いや労働者の心身の安全、権利の保護に関する法令根拠を明確にした法案も作成された。
 法案が、衆議院の厚生労働委員会に提出された。所属議員たちによる審議が行われる。
 ここでも国民生活に与える影響や国家の成長戦略の視点からさまざまな議論がなされたが、総論としての見解は一致し、最終的な法案内容がまとめられた。
 これにより、衆議院本会議で議論する体制が整った。

 

3.
 年が変わり、通常国会が開幕された。国会内での激論が繰り広げられる。
 前半は、税制改革や防衛に関する集中審議が行われた。与野党の主張が真っ向からぶつかり合う。
 その結果、税制改革や防衛に関するいくつかの法案が成立した。法案成立率は七十%ほどだったが、重要法案はすべて衆議院を通過しており、大泉首相は満足した。
 そして、労働基本法廃止に関する法案の審議に入った。
 山岡厚生労働大臣が、本会議場で法案内容の説明を行った。税収や失業率への影響に関しては、シミュレーションを行った経済学者の何名かが説明に立った。
 その後、与野党による審議の場に入る。
 さっそく、労働者層や低所得者層からの支持が厚い共明党が質問に立った。労働基本法の廃止は、今まで以上に所得格差の拡大を助長することにつながりかねないので反対だというのが共明党の主張だった。
 それに対して、大泉が、国家の成長戦略を実行する上で、雇用の分野を聖域扱いにするわけにはいかないという見解を口にした。山岡も、国内総生産が増えることで国民の所得水準が向上し、低所得者の割合が減るという見解を主張した。
 共明党とのやり取りは物別れに終わったが、政権与党としての主張はすべて出し切った。
 また別の野党から、本来労働者保護に関する政策責任を担うべき厚生労働省が労働者保護の法律廃止を掲げるのは矛盾しているのではないかという指摘がなされたが、それに対して山岡が、このまま国内企業の体力が低下し続ければ雇用の縮小や労働条件の悪化が進む一方であり、企業体力の回復を後押しする政策を打ち出すことで、中長期的な雇用の拡大、労働条件の向上という形で労働者側の利益を実現できるという見解を返した。
 その後も与野党間でのやり取りが行われたが、厚生労働省が策定した法案の内容を一部修正する形で、法案が衆議院で可決された。
 法案が参議院に送られた。
 参議院でも似たような審議が行われたが、最終的に可決し、労働基本法廃止に関する法律が成立した。
 廃止に関する法律は、その年の十二月一日から施行されることになり、官報に公布された。

 

 新聞各紙も、労働基本法廃止を大きく取り上げた。
 全紙が、総論では政府の見解に理解を示したものの、政府の対策が不充分だという指摘も行った。いずれも、企業の成長を促すための政策を具体的に示した上で、国民の理解を得るための充分な説明を行う必要があるという論調を打ち出した。
 マスコミの反応を重く受け止めた厚生労働省は、国民への周知活動に心血を注いだ。労働基本法廃止を周知するためのテレビCMを流すとともに、ホームページ上での告知やパンフレットの配布を行った。 企業向けの説明会を各地で行い、廃止後も事業主が順守しなければならないことの説明や、廃止後も極力雇用や労働条件の維持に努めることへの要請も行う。メールや電話での相談窓口も設けられた。
 そんな中、労働基本法廃止に関する法律の施行日を迎えた。

 

第2節 ノルマ地獄

 

1.
 「よし、そろそろ打ち合わせを……」本村が三人の部下に声をかけようとしたそのとき、「みなさん、臨時の朝礼をしますから、会議室に集まってください!」という声とともに、総務課長の北島が顔を覗かせた。始業時刻の三分前であり、本村が部下たちの一日の予定を確認しようとしていた矢先だった。
 「課長、臨時朝礼ってなんですかね?」
 「さぁ。ひょっとしたら、賞与の話とかじゃないのか?」
 「今年の冬の賞与、ヤバイんですかね?」
 「特に会社からはなにも聞いていないけどな」部下と言葉を交わした本村は、会議室に移動すべく席を立った。
 本村は、栄光産業株式会社という会社に勤務するサラリーマンだった。栄光産業はOA機器や通信機器、事務用品の販売を行う会社であり、本村はOA機器営業部第一課の課長を任されていた。
 突然の朝礼に対して、本村は、二日後に控えた冬の賞与支給日を前に社長からはっぱを掛けられるのではないかと感じていた。長引く不況の影響で会社の業績が芳しくないせいか、年々賞与の金額は減らされていた。
 本村には、高校一年生の娘と中学二年生の息子がいた。これから、ますますお金が必要になる。
 本村は、子どもたちを大学に行かせてあげたいと考えていた。できれば国立の大学に入って欲しいが、ダメな場合は私立に行かせるしかない。私立の大学に進学するとなると、入学金やらなんやらでかなりのお金が必要となる。
 「今回も全額貯金だな……」本村は、賞与の使い道を思い浮かべていた。

 

 会議室に全従業員が顔を揃えた。従業員たちと向き合うように、社長の手島と取締役管理部長の石川が席に着いている。
 「よし、みんな揃ったようだから、これから臨時朝礼を始めるぞ!」全員が揃ったことを確認した手島が、自慢の通る声で朝礼の開始を告げた。
 「相変わらず業績は厳しいが、なんとか去年並みの賞与を支給することにした」という言葉が手島の口から語られた。従業員たちの顔に安堵の表情が浮かぶ。
 本村も、内心ほっとした。ひょっとしたら、今年の冬は賞与を支給できないという話を聞かされるのではないかと思っていたからだ。
 今の時代、賞与が支給されない中小企業もそれなりにあるという話を本村は耳にしていた。栄光産業も中小企業だ。業績次第では、賞与が支給されなくなっても不思議ではないと本村は覚悟をしていた。
 賞与の話が終了した。しかし、臨時朝礼は終わりではなかった。
 一呼吸置いた手島が、発言を続けた。
 「ところで、みんなも知っていると思うが、今月の一日から労働基本法という法律が廃止になった」
 労働基本法廃止のことは本村も知っていた。一時、新聞でも騒がれていた。しかし、廃止されることが、自分たちにどのような影響を及ぼすのかということは本村自身充分理解していなかった。
 三人の部下たちからも、そのことに関する相談はない。みな、法律がどうのこうのということよりも、自分たちの目標をクリアーすることで頭が一杯だった。それに関しては本村も同じだった。
 栄光産業では、課ごとに目標数値が割り当てられ、その数値を個人単位に落とし込んだ個人目標が人事評価の対象とされていた。本村自身も、個人の目標数値を与えられていた。加えて、課の目標を達成させる責任もある。部下の成績が悪ければ、自分自身の成績を上げてでも課の数字を達成しなければならない。
 本村は、夜遅くまで残業する毎日を送っていた。
 手島が言葉を続けた。
 「我が社も、とにかく厳しい。みんな毎日頑張ってくれているが、これからも今まで以上に緊張感を持って仕事に臨んでもらいたいと思っている。ついては、労働基本法が廃止になったのを機に、我が社も労務管理のルールを変更することにした。まぁ、簡単に言うと、全員一律ではなく個別に雇用条件やルールを決めようという考え方だ。労働基本法は、法律で決められたルールの中でみんなの条件を決めることを要求した法律だったが、それが廃止されたんだから、今後は個別にルールを決めようと思う。そのほうが、みんなにとってもやりがいがあると思うがね」そう言うと手島は、目の前に居並ぶ従業員たちの顔を見回した。
 従業員たちの表情は変わらない。
 「詳しいことは石川君から説明してもらう」手島が席に座った。
 入れ替わりに、取締役管理部長の石川が席を立つ。
 従業員たちに一枚の紙が配られた。そこには、「労働基本法廃止に伴う労務管理事項の変更について」というタイトルとともに、変更内容が記されていた。
 石川が、無表情な顔で内容を読み上げる。
 そこには、雇用契約の変更と賃金体系の変更という二つの事柄が書かれていた。
 雇用契約に関しては、会社が個人ごとに契約条件を決めるという内容であり、所定の始業終業時刻や休日こそは今までと変わらないものの、有給休暇については個別に日数を決めるということだった。 成績の悪い社員の場合、有給休暇がないということもあり得るということだ。
 賃金については、来月分の給料から、家族手当や住宅手当などの諸手当をすべて廃止し個人ごとに決められる基本給に一本化するということだった。今まで一般社員には残業代が支給されていたが、来月からはそれもなくなる。
 さらに、月ごとにノルマが課せられ、ノルマに達しなかった月は、基本給からノルマに達しなかった分の金額を控除するというルールが発表された。ノルマをクリアーした人には、臨時のボーナスや休暇が与えられることもあるということだ。
 従業員たちの間に動揺が広がった。
 「なにか質問のある人はいますか?」石川が、従業員たちの顔を見回す。
 何人かの従業員が手を上げた。
 「ノルマに達しなかった月の給料控除は、具体的にどのように計算されるのですか?」
 「個人ごとに控除単価を設定して、控除単価×未達成割合×百の金額を控除する。たとえば、控除単価が二千円でノルマ達成率が九十%だった場合、二千円×十で二万円が控除されることになる」
 「毎月のノルマは、どうやって決めるんですか?」
 「それは、課ごとに、部長と課長で相談して決めてもらう」
 「新しい雇用契約は、いつごろ決めるんですか?」
 「これから一人一人と面談して決めていく」
 石川と従業員とのやり取りが続いた。
 本村も手を上げた。
 「就業規則はどうなるのですか?」
 「当然廃止だよ。これからは個人ごとに雇用契約条件を決めるんだから、就業規則なんて必要なくなるだろう!」
 「わかりました」本村は、浮かない表情を浮かべたまま返事をした。急激な変化に、頭が着いていかなかった。

 

2.
 個人ごとの雇用契約条件を決めるための面談が行われた。
 一人一人社長室に呼ばれ、条件が言い渡された。契約書のようなものはない。本村は、自分自身に言い渡された条件を持参したノートに控えた。
 新しい基本給は、今まで家族手当や住宅手当などを含めて毎月支給されていた金額よりも若干少ない金額だった。通勤手当は、今まで通りの金額が支給される。
 有給休暇は、現在残っている日数をいったんリセットした上で、新たな日数を与えるということが言い渡された。勤続二十年になる本村は、今まで毎年二十日間ずつ新しい有給休暇が発生していたのだが、新たに与えられる日数は八日間ということになった。
 個人の成績や会社の業績が良くなれば基本給や有給休暇の見直しを行うということを、社長の手島は口にした。

 

 本村の部下たちも戸惑いの表情を浮かべていた。三人とも、新しい基本給は、額面上は今までの基本給と諸手当を合わせた金額よりも高かったのだが、残業代が支給されなくなる分、総額では目減りすることになった。
 ノルマを達成できない月は基本給を減らされるわけであり、部下たちの口からは、来月から給料が減ることが確定したかのような悲痛な言葉が漏れ広がった。
 そんな部下たちに対して、本村は「頑張ろうよ」と励ましの言葉をかけるしか手立てはなかった。

 

 すべての従業員に、翌月のノルマが言い渡された。
 本村の課も、部長と本村との協議により全員のノルマが決定された。部長自身もノルマを背負った。これからも月ごとに部長との間でノルマ決定会議をしなければならないのかと思うと、本村は憂鬱な気分になった。
 本村は、ノルマを三人の部下に通知した。
 ノルマを告げられた部下たちは、悲痛な表情を浮かべた。
 ノルマ数値は、単純に一年間の目標を十二等分したものではなく、年間の目標を必ず達成するために、現在までの未達成部分の数値を残りの月数で割ったものを基準としていた。よって、達成ペースの遅い従業員ほど過酷なノルマを背負うことになる。年々従業員に与えられる目標数値は引き上げられており、過酷さを増していた。
 「そんなの、絶対に無理ですよ!」、「無茶苦茶ですよ!」不満を口にする部下たちを前に、本村は「自分も支援するから、あきらめずに頑張ってくれ」と励まし続けた。

 

 ノルマを追いかける毎日が始まった。
 部下に対して「支援する」という言葉を口にした本村だったが、とても支援する余裕などなかった。本村自身が過酷なノルマを背負っており、達成できなければ給料を減らされてしまうからだ。
 ただでさえ余裕のない生活だ。本村は、自分の小遣いを減らすことを家族に宣言した。妻も、パートの時間を増やすと言ってくれたが、それにも限度があるだろう。
 営業訪問先へのアポイントを取った本村は、悲壮な表情を浮かべながら会社を出た。

 

 部下たちの顔からも笑顔が失われていった。
 今まで以上に遅い時間まで残業する毎日だったが、全員が月のノルマをクリアーすることができなかった。このことは、次の給料で控除が生じるとともに、翌月のノルマがより過酷になることを意味している。
 部下たちの追い詰められた表情を目の当たりにした本村は、上司である部長に対して、賃金体系の見直しを行うよう会社に掛けあってくれと頼み込んだ。このままでは、全員が潰れてしまうという危機感を抱いたからだ。
 しかし、部長の口から出てきた言葉は、「そんなことを考える暇があったら、もっと頑張れ!」だ
った。
 社長の手島も取締役管理部長の石川も、今の賃金体系を維持すれば、たとえ個人の成績が悪くても会社を維持するのに必要な利益は確保できるという確信を抱いており、今さら賃金体系を見直すつもりはないようだ。賃金体系は変わらないのだから、部下がノルマを達成できるようにフォローをしてあげるしかないというのが部長の考え方だった。
 本村は、失望感にかられながら部長のもとを後にした。

 

3.
 四月を迎えた。
 新しく個人ごとの年間目標数値が設定され、十二等分した数値が最初の月のノルマに決められた。
 今までは、四月に入ってすぐに部全体で決起のための飲み会を行っていたが、今回はそれもやらないことになった。時間がもったいないというのが表向きの理由だったが、部長の懐が厳しくなったことが真の理由のようだった。
 会社公認の飲み会ではないため、いつもは課長たちが多少の負担をした後の残りの金額を部長のポケットマネーで賄っていた。しかし、賃金体系が変更されてからは、部長の給料にも毎月のように控除が発生していた。
 門出の季節であり、街は希望に満ちあふれた若者たちが桜の咲き誇る通りを闊歩する明るい雰囲気に包まれていたが、栄光産業は暗い雰囲気で覆われていた。営業に出かけるときの「行ってきます」の声も、送り出す側の「行ってらっしゃい」の声も、日増しに小さくなる。
 本村も、疲れ切ったような表情を浮かべていた。

 

 そんな中、本村を震撼させるような出来事が起こった。
 ある日、営業先から戻った本村のもとに二人の部下がやってきた。要件を促した本村の前に、二通の封書が差し出された。退職願だった。
 「ちょっと待て。君たち、なんでなんだ?」動揺する本村に対して、二人の部下が口を揃えて、これ以上この会社にはついていけないという言葉を口にした。今の賃金体系は、どう頑張っても給料が減らされる仕組みであり、希望が持てないというのが二人の共通の理由だった。
 「しかし、会社を辞めてどうするんだ? 生活するためには、働かなければならないだろう?」
 「これから探します」
 「どの会社に行っても一緒だぞ! 楽してカネを稼げるところなんてない」
 「楽してカネを稼げるところがあるなどとは思ってもいません。ただ、やったらやった分評価してもらえる会社はあると思っています」
 「だから、うちの会社も、やったらやった分評価されるじゃないか。結果を出せば、次の年の基本給も増えるんだし、有給休暇だって増えるわけだし」
 「でも、ノルマを達成できない月は給料控除されるのに、達成した月はプラスされていないじゃないですか! それに、目標数値も、現実に即さない数値を一方的に押し付けてくるだけだし……。要は、会社に利益が残ればいいっていう考え方なんですよね?」
 このような言葉で部下から問い詰められた本村には、返す言葉がなかった。本村自身も、そのように感じていたからだ。しかし、家族との生活を支えていくためには、疑問に目をつむって頑張るしかなかった。
 本村は、退職願を突きつけた二人の部下を引き留めることができなかった。

 

 退職した二人の後を追うように、ただ一人残っていた部下も退職願を突きつけてきた。本村は懸命に慰留したが、願いは届かず、最後の部下も会社を去って行った。
 本村以外の課でも退職者が相次いだ。さまざまな理由を口にして辞めていくのだが、本質部分では、全員が賃金体系への不満だった。
 会社も新規の募集を行い何人かの新人が入社してきたが、大半の人間が短期間のうちに辞めていった。 誰もが自分のことで精一杯であり、新人のことをフォローする人間がいなかったからだ。
 新人であってもノルマは課せられるのだが、慣れないうちは数字を上げられない。数字が上がらなければ賃金控除が発生する。
 フォローできる人間のいない会社の状況を悟った新人の多くは、早々と去って行った。

 

 本村の下に部下がいなくなった。
 新しく部下が付くまでは、本村一人で課の目標数値を達成しなければならなかった。人数が減ったことによる目標数値の見直しは行われたが、常に会社に一定の利益を残すことが前提となっているため、一人あたりの目標数値は以前より増えることになった。
 苦しい毎日が続いた。世の中の景気も好転しない。今の目標は、明らかに自分の能力を超えた数値だった。
 できることなら、本村も今の会社を辞めたかった。しかし、すでに四十三歳になった。ここで辞めても、再就職に苦戦することは火を見るよりも明らかだ。まだまだ、子どもたちにも金が掛かる。
 妻もパートの時間を増やしてくれており、自身の小遣いやレジャーなどに使うお金を削ってでも、なんとか今の会社に踏み止まり頑張るしかなかった。

 

 しかし、踏み止まろうとする本村の心をくじけさせるような出来事が起こった。会社が、本村との間で交わした雇用契約条件を守らない事態が発生した。
 本村は、四月からの雇用契約で、新たに十日間の有給休暇を与えられた。今まで残っていた日数をリセットすることが条件だが、業務に支障のない範囲で自由に使用することができ、当日の始業時刻までに申請すれば有給休暇を取得できるという条件になっていた。
 あるとき、本村は風邪を引いた。三十九度の熱があり、体もだるい。
 とても営業に回れる体調ではないと考えた本村は、朝一番に会社に電話を入れた。総務課に電話を回してもらい、風邪を引いたため有給休暇を使うということを告げる。
 しかし、総務課から帰ってきた言葉はノーだった。驚いた本村は、理由を確認した。
 それに対して、電話を代わった取締役管理部長の石川が、「ノルマ未達成の続く社員には有給休暇を与えられない」という言葉を返してきた。
 本村は、業務に支障がなければ自由に使用できるはずだったということを問い質した。始業時刻前に申請したことも付け加えた。
 しかし、電話の向こうの石川は、「そんな約束をしたかなぁ」などと恍けた返事を返してきた。それだけではなく、今から出てくれば遅刻扱いにはしないが、このまま休んだ場合は一日分の給料を控除するという言葉を口にした。
 雇用契約は書面で交わしたわけではなく、あくまでも口約束だった。ここで反論を続けても水掛け論になるばかりだ。
 あきらめた本村は、電話を切り、会社に向かうべくスーツに着替えた。食欲もなく、身体も重い。
 心配する家族に向かって「大丈夫だよ」と空元気な言葉を口にした本村は、最寄りの駅に急いだ。重い体を引きずるように小走りに歩く。あまりにも出社する時間が遅くなると、遅刻分の賃金控除をするなどと言われかねないからだ。
 通勤ラッシュのピークは過ぎていたもののそれなりに混雑した車両に乗り込んだ本村は、人混みに身を委ねながら、心の中で「労働基本法を復活させて欲しい!」と声を張り上げた。

 

第3節 会社都合の契約解除

 

1.
 新山裕未は、人いきれでむんむんする地下鉄に揺られながら、つい今しがた食事を共にして別れたばかりの木山紀子、水元亜矢との会話を思い返していた。
 木山と水元は、新山の大学時代の同級生で親友だった。大学を卒業してから十年が経ち、それぞれが違う道を歩んでいる。
 木山は、三年前に結婚し、今は幸せな奥様に収まっていた。子どもはいないが旦那との相性が良く、いまだに新婚気分から抜け出せずにいた。
 水元は、グラフィックデザイナーとしての道を歩んでいた。広告会社に就職した水元は、そこでデザイナーとしての経験を積み、二年前に独立した。斬新なデザイン力が評価されたことで出版会社や広告会社からの仕事の依頼が増え、毎日が充実しているということだった。
 新山自身はというと、平凡なOL生活を送っていたが、典型的な男尊女卑の会社であり、毎日が雑用業務の繰り返しだった。
 それでも、入社して三年ほどの間は職場の華としてチヤホヤされていたのだが、新山よりも若い女子社員が増えてくると、職場の男性たちの関心は若い方に移り、気がつくと新山は見向きもされない存在になっていた。
 そんな新山は、二十八歳の誕生日を迎える直前に会社を退職した。このままでは、一生つまらない人生を歩んでいかなくてはならなくなるような気がしたからだ。
 退職と同時に、付き合っていた彼氏とも別れた。三年越しの交際だったが、自分の一生を託すような男性とは思えなかった。
 「今までの人生をリセットして今後の自分を見つけるために、新しい仕事を探してみよう」そう決意したのだが、現実は甘くなかった。女性であっても責任のある仕事を任せてくれそうな会社に就職しようと考え仕事探しを始めたが、なかなか思うような先が見つからない。そもそも、正社員として雇ってくれる会社が少なかった。
 「とりあえず、どこかに就職しなきゃ」気持ちの焦り始めた新山は、とある人材会社に再就職した。
 総務部への配属であり、新山は総務から経理まで幅広い業務を任されることになった。とはいっても契約社員の身分であり、上には新山よりも年上の女性正社員が二人いた。

 

 木山、水元と食事をしながらの会話は弾んだ。
 三人は、月に一度ほど集まって食事をしていた。三人三様の生活環境であり、それぞれの身の回りの出来事や思いなどを口にしながら会話をする。
 今回も、木山の旦那の話に始まり、水元と契約を結んでいる出版会社の担当者の話、新山の先輩女性社員の話へと話題が変化していった。
 そして、最後に交わした話題が、労働基本法の廃止についてだった。
 新山は、総務の仕事を行うにあたって、労働基本法のことを一通り理解した。自分たちのような弱い立場の人間が法律で保護されていたことも初めて知った。しかし、その労働基本法も、十二月から廃止になる。
 新山は、労働基本法の廃止には反対だった。どう考えても、自分たちのように底辺で働く人間にとって有利に働くとは思えなかったからだ。
 周辺の新興国が力をつけてきた中で、企業の国際競争力を高めるために雇用規制を取り除いて行かなければならないという考え方は理解できるが、現実問題、一人一人の生活が良くならなければ国自体が豊かにならないのではないだろうか。
 政治家たちの主張は、「国が豊かになれば、国民生活も豊かになる。そのために、雇う側と雇われる側が力を合わせて乗り越えていけるような新たな枠組みを作る必要がある」ということだが、それは「自分たちのような弱者を犠牲にすることで成り立つ枠組みではないのか」と考えていた。
 新山は、その考えを、木山と水元の前でぶちまけた。
 二人も、新山の考えに理解を示した。木山も、旦那と二人で労働基本法の話をしたことがあるということだった。
 しかし、二人と新山との間には、どこか温度差があった。木山も水元も、どこかに雇われている身分ではない。一般論としての労働基本法廃止が及ぼす雇われる側への影響を知ってはいるものの、身に染みて考えたことなどないのだろう。
 最後は、新山一人が熱く思いを語り、二人が聞き役に徹する形で会話を終えた。

 

2.
 そんな中、十二月十五日を迎えた。新山の契約更新の日だった。
 契約社員である新山は、一年ごとの契約更新を繰り返していた。今回で五回目の更新になる。
 前日に総務部長に呼ばれた新山は、引き続き契約を更新することを告げられた。しかし、今までのときとは様相が異なっていた。雇用契約書がなかったのだ。
 不審に思った新山は、総務部長に対して「雇用契約書はないのか?」と訊ねた。
 それに対して、総務部長が、労働基本法が廃止されたことを受けて今後は雇用契約書を作らないことにしたということを口にする。
 雇用契約書がない代わりに、口頭で新たな雇用契約内容が説明された。
 出勤日数や労働時間などは変わりなかったが、賃金が変わった。時給は据え置かれるが、残業時間に対する割増賃金が支給されないことになった。事務仕事とはいえ残業もある。実質的な賃下げだった。
 業務内容に関しては、これからは総務部以外の仕事をやってもらうこともあるということが言われた。今までは雇用契約書に書かれた総務部の業務が新山の仕事だったが、これからはそれに限定されないというのが会社の主張だった。
 さらに、契約期間を設けないということが言われた。今までのような一年ごとの契約更新は行わないということだ。
 新山は、一瞬自分が正社員に昇格したのではないかという錯覚に陥った。しかし、賃金は時給制のままだ。正社員になったのなら、月給制に変わるはずだ。
 新山は、総務部長に対して、契約期間を設けない理由を訊ねた。
 それに対する総務部長の答えは、「雇用契約書がないのだから契約期間も設けない」ということだった。雇用契約書がないのだから、今までのような一年ごとの契約更新を行う必要はないのではないかというのが会社の考え方のようだ。
 契約期間が設けられないということに安堵した新山は、そこに大きな落とし穴があることに気づかないまま、新たな契約内容に合意した。

 

 その日から、新山の仕事が大きく変化した。今までやったことのない仕事が頻繁に回ってくるようになった。
 新山の会社は人材会社であり、人材派遣や人材紹介が主な事業だった。仕事を探している求職者と面談し、自社の人材として登録する。同時に、人を探している求人企業を開拓し、登録者の中から求人要件に見合う人材を見つけて求人企業に提案する。話が上手くまとまれば、手数料や紹介料が会社に入る。
 そのために、営業マンたちが、日夜求職者との面談や求人企業との交渉業務に臨んでいた。そのような業務の一部が、新山のもとに回ってくるようになった。
 回されてくるのは、求職者への連絡や求人企業へのアポ取り、資料作成などの補助業務だった。ときには、求職者面談に立ち会うこともあった。
 そのため、新山の残業時間が増えた。求職者面談の立会いに関しては、週末に行われることもある。
 いくら残業や休日出勤をしても通常の時給で計算された賃金しか支払われなかったが、新山は、自分は会社から必要とされているのではないかと感じていた。
 いろいろな業務を経験する中で、いつかは正社員として登用されるのではないだろうか。契約更新のときに、契約期間を設けず業務内容も特定しないと言われたのは、そのことを含みにしているからなのだろうと新山は解釈した。
 主体的な仕事をやりたいという思いで前の会社を辞めたわけであり、やっと自分にも追い風が吹いてきたようだと新山は感じていた。

 

 そんな新山だったが、やがて自分自身の大きな勘違いに気づかされるときがやってきた。
 三月も半分ほどが経過し、日中も春めいた日差しが照りつけるようになったある日、新山は総務部長に呼ばれた。
 その日は、営業から回ってくる仕事もなく、定時で帰れそうな雰囲気だった。終業時刻の十分前となり、帰りに銀座に立ち寄りウインドウショッピングでもしようかと考えていた矢先のことだった。
 新山は、総務部長とともに会議室に入った。総務部長が、席に着くように言う。
 訝しげな表情で席に着いた新山に向かって、総務部長が口を開いた。
 「新山君は、入社して五年目になるのかな?」
 「はい」
 「いろいろと会社のために頑張ってくれたと感謝していますよ」
 「……」
 「みんな頑張ってくれているんだが、我々の業界も厳しくてね。新しい業者がどんどん参入してくるし。営業が頑張ってなんとかお客様をつなぎ止めてくれてはいるんだが、単価は下げられるし、正直言って厳しい状況ですよ」
 「はぁ」
 会社が厳しい状況にあることは新山も感じていた。営業が愚痴をこぼす姿を何度も目にしていたからだ。
 「しかし、その話を私にして、なにになるんだろう?」新山は、総務部長が自分を呼んだ意図がわからずにいた。
 総務部長が話を続ける。
 「そのこともあってだね、社長からリストラの指示が出されたんだよ。人件費を減らせという指示がね。それで、大変申し訳ないんだが、新山君には今月一杯で辞めてもらいたいんだ」
 「今月一杯、ですか?」
 新山は、自分の耳を疑った。仕事の幅も広がり、いずれは正社員への道が開けるものだと考えていたからだ。
 新山は、総務部長の目に視線を合わせた。慌てたように視線をそらせた総務部長が「そうだ」と返事をする。
 「でも、解雇する場合は、三十日前の予告が必要なのでは……」
 「それは、労働基本法があったときの話だろう? 今はないんだ。だから、いつ解雇しようと会社の自由なんだ」
 「……」
 「今月末までの給料はちゃんと払うよ。振込日は、来月の二十五日になるがね」
 「そうですか……」
 新山は、前回の契約更新のときに会社が契約期間を設けなかった理由に気がついた。いつでも好きなときに解雇できる状況で雇用契約を結んでおきたかったのだ。
 雇用契約書が作られていないにしても、契約期間を設けて双方が合意してしまえば、会社が契約期間中に解雇しようとしたときに新山が納得しなかった場合、面倒なことが発生する可能性がある。しかし、現実は契約期間が設定されていないのだから、いつでも契約を解除できる。
 労働基本法がある時代は、合理的な理由に基づく解雇や解雇を行う場合の事前予告などのルールが会社に課せられていたのだが、今はそのようなルールもない。
 労働基本法の廃止に伴う実質的な被害が自分の身に降りかかったことを、新山は悟った。

 

3.
 人材会社を解雇された新山は、ハローワークの紹介で、とある建設会社の事務員として再就職した。
 そこでも雇用契約書は作られなかった。もっともその会社は、労働基本法がある時代から雇用契約書は作っておらず、就業規則すらない状態だった。
 新山の新たな社会人生活がスタートした。
 ここでも、今までの経験を買われて、経理業務も含めた事務業務全般を任された。新山も、すぐに会社のルールを覚え、事務員としての仕事をこなしていった。ときに残業になることもあったが、幸いにして残業時間の割増賃金はきちんと支払われた。
 残業代は支払われたが、別のことが新山を戸惑わせた。
 今度の会社では、午前十二時から午後一時までの一時間が休憩時間という扱いになっていた。しかし、休憩時間中も外部からの電話が頻繁に入り、オフィスにいる人間が電話対応を行わなければならなかった。その業務を、事務職の女性社員が対応することが慣例となっていた。
 電話対応業務を負わされた新山は、休憩時間とはいえ自由に休むことのできない毎日が続いた。持参した弁当を食べている最中に電話が鳴る。そのたびに、口の中のものを流し込み、電話を取る。要件を確認し、現場に出ている現場監督や営業の携帯電話に連絡を入れる。
 このような作業が日々繰り返された。しかも、この仕事に対して賃金は支給されない。
 社長にそのことを相談しようと考えたが、あきらめた。相談したところで、改善されるとは思わなかったからだ。労働基本法が廃止になったことで、休憩時間に仕事をした分の賃金を支払わなければならないという根拠は存在しなくなっていた。

 

 文句を言わず仕事をこなしていた新山だったが、あるとき感情を表にするような事態が発生した。
 その日は、朝一番に作業員たちが現場に出かけ、営業も全員が早くから出払っていた。新山以外のもう一人の女性事務員も休んでおり、朝から、事務所にいるのは社長と新山の二人だけとなった。
 二人きりになったのを見計らって、社長が新山のもとにやってきた。開いている隣の席に座った社長が、話しかけてくる。
 「新山ちゃん。今晩、美味しい寿司を食べに行こうよ。店を予約しておいたからさ」
 「えっ? そんなこと、急に言われても困ります」
 「そんな固いこと言わなくてもいいだろう。どうせ、予定ないんだろう?」
 社長は、これまでも、たびたび新山に対して二人きりの食事や酒を誘ってきた。もう一人の女性事務員が言うには、社長は女癖が悪いことで有名だということだ。そのことを聞いていた新山は、なにかと理由をつけては社長の誘いを断っていた。しかし、社長もあきらめずにしつこく誘ってくる。
 一度でも誘いに乗ったら最後だと考えていた新山は、今回も適当な理由をつけて断ることにした。
 「すみません。今晩、予定があるんですけど」
 「予定って、どんな予定だよ?」
 「友達と食事に行く約束をしているんです」
 「ほんとうなのか? いつもオレが誘うときは用事があるって言っているけど、君は、まっすぐ家に帰ることはないのかね?」
 「偶然です。私だって独身女性ですから、いろいろとあるんです」
 「別に、オレに対して遠慮する必要はないんだよ」
 「そうじゃありません」
 「じゃぁ、付き合いなさいよ」
 「ですから、今晩は予定があるんです」
 「じゃぁ、いつなら空いているのかね? 君が空いているときに合わせるよ」
 「そんな、いつと言われましても……」
 「なぁ新山君、悪いことは言わない。付き合ってくれたら、給料を上げてやるよ」
 最初は軽くいなしていたのだが、あまりにもしつこく身勝手な社長の言い草に対して腹の立ってきた新山は、反論の言葉を口にした。
 「社長、それってセクハラですよ」
 「セクハラ? なにがセクハラなんだ!」
 「ですから、嫌がる女性社員を無理やり食事に誘ったりする行為のことをセクハラと言うんです」
 「きっ、君、誰に向かってものを言っているのかわかっているのかね?」
 「……」
 「不愉快だ! わかった、もういい。君は、今日限りでクビだ! さっさと私物をまとめて帰りなさい!」
 突然の解雇宣言に、新山は唖然とした。
 そんな新山に向かって、再び社長が「君は、今日限りでクビだと言っているんだ! わかったら、さっさと私物をまとめて出て行ってくれ!」と大声を張り上げた。

 

 突然会社を解雇された新山は、私物を整理し、自宅に戻った。持ち帰った私物を部屋に投げ出し、ベッドの上にあおむけになる。
 新山は、悔しい気持ちで一杯だった。
 「私って、なんなのだろう……」世の中のすべてから否定されているのではないかという思いが胸の中で広がった。文句を言わず一生懸命働いても、会社側の勝手な都合で雇用契約を打ち切られる。
 新山は、ここ半年間に起ったことを思い返した。
 人材会社で五回目の契約更新を済ませた。会社の要望で、総務業務とは関係のない仕事も手伝った。 プライベートの予定をキャンセルして、週末の求職者との面談に立ち会ったこともある。
 それなのに、業績不振を理由にして、いきなり解雇された。
 その後再就職した建設会社でも、社長のセクハラを拒否したことを理由に突然解雇された。自分にはなんの落ち度もない。
 新山は、それもこれも労働基本法が廃止となったことによる影響だと考えていた。
 以前は、解雇をする場合は、三十日前の予告か手当の支給が必要だった。そもそも、解雇するためにはちゃんとした理由が必要だったはずだ。
 人材会社のときの解雇理由にも納得がいかなかったが、今回の解雇理由は酷すぎる。私が被害者なのに、なぜ解雇されなければならないのだろうか。
 新山の胸の中に熱い思いが込み上げてきた。「胸の中の思いを誰かにぶちまけてみたい!」そのような衝動に駆られた新山の目に、机の上に置かれたパソコンが止まった。
 「そうだ。ブログに書いてやろう……」新山は、一年前にブログを開設した。週に一度くらいのペースでブログを更新していた。街で見つけた美味しい店や好きなアーチストの歌のことなど、思い思いの言葉をブログに綴っていた。
 時々、知らない人からのメールも届いた。それがきっかけでメル友になった人もいる。
 「私と同じような思いをしている人、たくさんいるんだろな……」新山は、自分と同じように、労働基本法が廃止されたことで辛い思いをしている人がたくさんいるのではないかと思った。その人たちに呼びかけて思いを共有できれば、気も楽になるのではないだろうか。もしかしたら、労働基本法を復活させようという声が世の中に広がっていくかもしれない。
 弱者である自分たちが声を張り上げ、世の中に労働基本法復活を呼びかける声が広がっていくシーンを頭の中で想像した新山は、パソコンを立ち上げた。ブログを開く。ブログに、セクハラを拒んだことを理由に解雇されたことや労働基本法は必要だという自分の考えを綴った。
 新山は、働く人間の権利として労働基本法のような法律があるのだとは考えていなかった。もう少し高い次元で解釈するべきだと考えていた。
 いろいろと書きたいことはあったのだが、いっぺんに書いてもまとまりが無くなり、またブログを覗いた人にも伝わりにくいと考えた新山は、毎日少しずつ、労働基本法が廃止になってから自分の身に起ったことや、それに対する自分の考えを書き溜めていくことにした。


第2章 共闘

第1節 大量離職

 

1.
 東京大田区にある株式会社中山部品工業の社長室に、社長の中山昭二と妻で取締役を務める洋子の姿があった。来客用のテーブルに向き合った二人の表情は険しい。
 中山部品工業は、三十年前に中山の父親が起こした会社であり、車の軸受部品やシャフトなどの自動車部品を製造していた。立場的には三次請けだが、品質の良いことが評価されたことで取引先の数も増え、従業員三十人を抱える町工場にまで成長した。
 しかし最近は、欧米市場における自動車販売の不振や新興国企業との競争激化による自動車産業全体の業績低迷のあおりを受けて、取引先から次々と厳しい要求を付きつけられていた。取引先が、下請け業者の再編をちらつかせながら、納入価格の引き下げや納期の短縮などを要求してくる。
 中でも、一番中山の頭を悩ませていたのは、決済の手形化や支払期日の延長だった。今まで現金で支払いをしてくれていたところが手形に変わり、さらには現金化までの期日が長くなった。そうなると、当然のことながら会社の資金繰りが苦しくなる。取引条件の変更とは関係なく、銀行への返済や従業員の給料など、毎月決まった時期に支払いが生じるからだ。
 その支払いは、今まで毎月決まった時期に現金が入ってくることで賄われていたのだが、そのバランスが崩壊してしまった。
 中山と妻は頭を抱えていた。二人で今後の対策を協議したが、良い考えが思い浮かばない。
 「銀行さんに頭を下げて、返済を待ってもらおうか」中山の考えは、銀行への返済を一時猶予してもらい、今の難局を乗り切るというものだった。このような状態がどのくらい続くのかは読めなかったが、業界全体の業績が上向きになれば取引条件も正常化するはずだ。それまでの期間銀行の返済を猶予してもらうことができれば、なんとかなるのではないかと考えていた。
 しかし、妻の考えは違っていた。銀行との間の良好な関係を保ち続けることが重要であり、返済猶予は避けるべきだという考えを口にした。今後も事業を続けていくのであれば、原材料の仕入や新しい設備の購入などでまとまった資金が必要になるときがあり、そのときに銀行の協力を得られなくなると困るというのが理由だった。それだけではなく、妻の本音には、銀行が自分たちの会社に見切りをつけて担保権を行使することで、自分たちが家を追われることを心配する部分もあるように見受けられた。
 「じゃぁ、他にどのような方法があるんだよ? 出ていくほうは変わらないのに入ってくるほうが減ってしまうんだから、破たんするのは目に見えているぞ!」
 中山が、自分の考えを否定した妻に向かって、他に良い考えがあるのかどうかを問い質した。
 それに対して、妻が考えを口にする。
 「違う方法で、出ていくほうを減らせばいいんじゃない?」
 「どうやって? 経費削減も散々やってきたし、オレたちの給料も減らしたじゃないか!」
 「従業員さんたちにも協力をお願いしましょうよ」
 「従業員の給料を減らせと言うのか?」
 「減らせとは言ってないわ。ただ、会社の資金繰りの状況に合わせて、給料を支給する時期を流動的にしてもらえるだけでも、だいぶん助かるわ」
 「そんな勝手なことができるのかよ?」
 「十二月から労働基本法が廃止になるでしょ。今まではあの法律があったから毎月決まった日に給料を支給しなければならなかったけど、これからは、それをしなくてもよくなるのよ」
 「しかし、従業員たちにも生活があるだろう。給料の支給日をその都度変えたら、従業員も困るんじゃないのか?」
 「でも、今は会社自体が苦しいのよ。ここを乗り越えなきゃ、従業員さんだって職を失うわけだし……。ちゃんと話せば、みんなわかってくれるわよ」
 「うーん」
 中山は思い悩んだ。妻の言い分も理解できる。中山のところのような小さな会社は、銀行の協力がなかったらやっていけない。下手に返済猶予を申し出て銀行から睨まれたら元も子もない。それならば、従業員に頭を下げて協力してもらうほうが理にかなっているのかもしれない。
 中山は、しぶしぶ妻の考えに同意した。
 「それだけでいけるのか?」
 「他にも見直すところがあると思うわ」
 「どんなところだよ」
 中山と妻との間で、人件費の見直しに関する協議が行われた。人件費以外の経費は徹底した見直しを行っており、残すところは人件費しかなかった。そこだけは触れたくはなかったのだが、今は危機的な状況であり、背に腹は代えられない。
 こうして、中山と妻との間で、今後の対策がまとめられた。リストラは行わない代わりに、人件費の抜本的な見直しを行うという内容だった。
 給料支給日の不定期化に加えて、残業時の割増賃金のカット、有給休暇使用日の賃金減額が打ち出された。また当面の期間、女性社員の昇給は凍結し、賞与も女性社員を中心にして支給額を減らすという方針が立てられた。女性社員は全員既婚者であり、夫の収入があるため、理解してもらえるだろうと考えたからだ。
 当然のことながら、自分たち二人の給料についても、再度の見直しを行うことにした。生活に必要な最低限度のお金と、銀行との約束で毎月積立てている中山名義の定期預金への積立金を確保できるだけの金額までに引き下げることを決意した。

 

 次の日、中山は、定時後に全従業員を会議室に集めた。従業員に向かって、妻と二人で立てた今後の方針を伝える。会社の状況を包み隠さず話した上で、頭を下げ、協力を訴えた。リストラをしたくないことや、自分たちの給料もギリギリまで下げたことも説明した。
 給料支給日の不定期化については、複数の従業員から異論が出た。ローンの支払いなど一定期日の支払いを抱えている従業員であり、中山は「どうしても困るという場合は個別に相談に応じる」という返答を行い、その場を切り抜けた。
 また、女性社員だけに昇給停止や賞与の下げ幅拡大を行うのはおかしいという声も上がったが、当の女性社員たちが協力するという言葉を口にし、その場は収まった。
 中山は、何度も何度も従業員たちに頭を下げた。

 

2.
 そんな中、十二月を迎えた。
 同業者たちによる忘年会が行われ、中山も出席した。
 同業者たちの話題は、やはり自動車業界の動向だった。業界全体の業績低迷に関しては、どの同業者たちも影響を受けていた。中山と同じように、取引先から価格の引き下げや支払の手形化、支払期日の延長を求められた同業者が多かった。どの同業者も、取引先には逆らえず、泣く泣く要求を飲んでいた。
 みな口を揃えて「経営努力で乗り越えてみせる!」と口にしたものの、やせ我慢であることは互いに認識していた。
 労働基本法が廃止になったことも話題に上った。これをきっかけに労務管理のやり方を変えた同業者もいた。
 「なにか変えたのか?」と聞かれた中山は、会社の資金繰りに合わせて給料支給日を不定期化にしたことを同業者たちに話した。取引先からの理不尽な要求による資金繰りへの影響は同業者たちの共通の悩みであり、理解される話だろうと考えたからだ。
 しかし、その他の人件費見直し策については口にしなかった。後ろめたい気持ちを引きずっていたからだ。

 

 十二月二十五日がやってきた。
 中山の会社は、今まで毎月二十五日に給料を支給していた。父親の代からある就業規則にも、そのことが謳われていた。
 妻と相談した中山は、給料の支給を先延ばしすることにした。主要取引先からの入金が大幅に遅れることになり、会社の資金繰りが苦しかった。年内には支給してあげたいと思っていたが、それもできそうにない。
 中山は、次の給料支給は正月を明けてからになるということを従業員たちに伝えた。

 

 正月が明けた。
 相変わらず会社の資金繰りは苦しく、十二月分の給料が支給されたのは年末年始の休みを終えてから十日後だった。
 中山は、十二月末まで働いた分の給料を支給した。妻は十二月の給料締日までの分を支給することを主張したが、中山が反対した。給料支給日の概念を無くしたのだから給料締日というルールも無くすべきだというのが中山の主張だった。
 中山は、「払えるときに払える分を払ってあげるようにしよう」という考えを口にした。そのことに妻も同意し、これからの給料は「払えるときに払える分を払う」という考えに基づいて支給することにした。
 その後も、不定期な給料支給の状態が続いた。一カ月に二度給料を支給した月もあれば、一カ月半もの間給料が支給されないこともあった。従業員たちの間に戸惑いが広がった。
 何人かの従業員が、個別の相談を持ちかけてきた。ローンの支払いに関してだった。
 個別に抱える事情に対して真摯に耳を傾けた中山は、すべての相談者に対して前払いを受けずに対応できないかという相談を持ちかけた。できることならば、特定の人だけに給料の前払いを行うようなことはしたくなかった。経理上の管理が面倒になることを避けたいことも理由の一つだが、特定の従業員を優遇することで社内に軋轢が生じることが怖かったことが最大の理由だった。ほんとうは相談をしたいのに、なにも言わずに頑張っている従業員もいたからだ。
 中山に説得された形となった従業員たちは、「なんとかやり繰りしてみます」という言葉を口にし、中山のもとを後にした。

 

 四月を迎えた。
 季節の変わり目とともに、自動車業界にも明るい兆しが見え始めた。欧米の景気回復を受けて、業界全体の生産高が増え始めた。
 その影響を受けて、会社の資金繰りも危機的な状況から脱した。主要取引先から、まとまったお金が入金されたからだ。今まで一方的に引き延ばされてきた支払期日も、このまま業績が回復すれば元通りにしてくれるということであり、中山も妻もほっと胸をなでおろした。
 「そうなったら、従業員の給料も、前みたいに毎月二十五日の支給に戻そうか」中山と妻との間で、このような会話も交わされた。
 しかし、喜んだのもつかの間、衝撃的な出来事が中山を襲った。
 ある日、定時終了後に六人の従業員が社長室にやってきた。材料を部品に加工する部門の職人たちであり、いずれもベテランや中堅に位置する人間だった。
 全員が固い表情を浮かべている。
 「どうしました?」声をかけた中山に向かって、六人を代表したベテランの職人が口を開いた。
 「社長。申し訳ないんですが、会社を辞めさせていただきます」職人の手には退職願が握られていた。他の五人も退職願を携えている。
 驚いた中山は、訳を問い質した。
 「辞めるって、なんでいきなり……」
 「いきなりではありませんよ。私たちもどうしようかとずっと悩んでいましたが、やはりこのような状態が続くのは具合が悪いと思い、辞めることにしました」
 「このような状態って?」
 「給料の支払いが不定期な状態のことですよ。私たちにも生活がありますし、いつ入ってくるのかがわからない状態が続くのは具合が悪いんです」
 「だからそれは、今後ずっとというつもりではなくて、会社の状況が良くなったら元に戻すつもりでいるんですよ」
 「じゃぁ、具体的に、いつ戻るんですか?」
 「いつとは断言できないが……」
 中山は言いよどんだ。経営の状況が良くなってきているのは確かなのだが、まだ予断を許さない状況でもあったからだ。
 中山の表情を見た職人が、確信を深めたような表情を浮かべながら言葉を重ねた。
 「そうですよね。だったら私たちも困るんで、ちゃんと毎月給料を払ってくれるところに転職するんですよ」
 「そんな、いきなり六人も退職されたら困りますよ。あなたたちがいなくなったら、加工部門は回って行かない。考え直してもらえませんか?」
 加工部門には、現在十六人の職人が在籍していた。
 キャリア豊富なベテランが五人、中堅どころが六人、これから伸びていってほしい若手が五人という構成だった。ベテランが経験を必要とする作業をこなしながら若手を育て、中堅どころがベテランの仕事をサポートする。
 中山は、現在の加工部門はバランスのとれた構成だと常々感じていた。丁寧な仕事ができるのも納期をきっちり守れるのも、ベテランと中堅の連携があってのことだからだ。
 さらに、若手が成長することで、新たな従業員を雇うことが可能になる。そうなれば、会社の規模も大きくなり、自動車メーカーの下にある一次請けの部品メーカーから直接受注することも可能になるかもしれない。
 中山の頭の中で、先々への夢が膨らんでいた。それなのに、ここで要となる六人に辞められたら、すべてがダメになる。
 中山は、祈るような気持ちで目の前の六人に哀願した。
 しかし、職人たちの反応は冷ややかだった。
 「社長、もう遅いですよ。僕たちは決めたんです」
 「わかった。来月から、給料は毎月二十五日払いに戻すから」
 「そういうことじゃないんですよ。なんと言えばいいのか……、この会社に対して希望を持てなくなったんですよ」
 「給料支給日のことだけじゃなくて、残業したときの割増賃金だって払ってくれなくなったじゃないですか! 納期に間に合わせるために僕たちは必死に残業してきましたが、努力を踏みにじられている思いがしましたよ。正直に言って、会社に対して信頼が持てないんです」
 職人たちは、次々と会社に対する不信感を口にした。
 その後も、中山は必死な説得を続けたが、六人の気持ちを覆すことはできなかった。
 一週間後、六人は会社を去って行った。

 

3.
 六人が去ったことにより、中山の会社は苦境に陥った。ベテランと中堅がいっぺんに抜けたことで、若手をサポートする体制が取れなくなり、部品加工を行う仕事のスピードが極端に落ちた。
 人数が減ったことで、当然のことながら一日に対応できる仕事の量も減った。不良品が増え、納期遅れが生じる。取引先からのクレームが増え始めた。
 さらに、追い打ちをかけるように、検査部門に所属する女性社員二人が退職を申し出てきた。加工時に付着した屑や傷のついた部品を取り除くための検査を行う部門であり、繊細な作業のため女性社員を配置していた。その部門に所属する五人のうちの二人が退職を申し出てきたのだ。
 中山は説得に乗り出した。
 検査は目視で行い経験がものをいうため、新しく人を雇ってもすぐには仕事にならない。出荷前の検査は必須であり、ここで二人に辞められてしまうと、ただでさえ遅れがちな納期がますます遅れることになる。
 中山は、二人に退職理由を聞いた。
 「どういう理由なのですか?」
 「有給休暇のことです」
 「有給休暇?」
 「ええ。去年の十二月から、有給休暇を取った日の給料が半分になったじゃないですか。私たち、子どもの面倒や親の介護で、どうしてもそれなりの休みを取らなければならないんです」
 二人のうちの一人は、小学校入学前の子どもを二人抱えており、保育所に預けていた。子どもが急に熱を出したときなどは、仕事を休んで病院に連れて行かなければならなかった。
 もう一人も老親を介護する身であり、周囲に頼めないときは仕事を休んで面倒を見なければならない。
 二人とも、毎年有給休暇をすべて使い果たしていた。
 「有給休暇を使った日の給料が半分になっちゃったんで、私たちの生活にも影響が出ています。これからもますますお金が必要になりますし、いろいろと考えたんですけど、ちゃんと給料を払ってくれる会社に転職したほうがいいのかなと……」
 「わかりました。それじゃ、有給休暇を使用したときの給料を元に戻せば残ってもらえますか?」
 「でも、私たちだけってわけにはいかないから。やるなら全員の分を元に戻す必要があるのではないですか? そうなると、会社も厳しいのではないですか?」
 「いや、そこはなんとかしますよ」
 中山は、必死に説得を続けた。
 その日は、もう一度考えてみるということで話は収まったのだが、結局二人とも退職することになった。どうやら、家族からも転職を勧められていたようだ。
 同業者の間でも、経験豊富な検査要員は重宝されていた。
 二人の口ぶりから、すでに転職先の目途が立っていることが窺えた。

 

 検査部門に所属していた二人の退職により、中山の会社はますます苦境に陥った。
 先に退職した加工部門の六人の穴埋めに新しく何人かの人間を雇い入れたが、仕事の処理能力は回復しなかった。新人を育てる体制が作れなかったからだ。納期に間に合わせるために、検査部門にスピードアップを求める。そのことが、不良品の出荷につながり、返品やクレームを招く。
 そしてついに、主要取引先の一つから取引の停止を言い渡された。父親の代から取引をしていた取引先であり、製造の体制が整うまでの間取引を停止したいという申し出だった。中山には、言い返す言葉がなかった。
 さらに、配送部門に所属する二人のドライバーが退職を申し出てきた。理由は、どちらとも一身上の都合ということだが、二人の態度から給料支給の見直しに対する不満を抱えていることが窺えた。
 中山は、自社で賄えない配送業務の外部委託を余儀なくされた。

 

 三十人いた従業員が短期間の間に十人減り、二十人体制となった。
 しかし、人数が減ったからといって仕事を断るわけにはいかなかった。一度断れば、他社に仕事を持って行かれるだけだからだ。今の体制を維持しながら、来る仕事をこなしていかなければならない。これ以上の人材流出を防ぎながら、少しずつでも利益を稼ぎ、一人二人と従業員を増やしていくしかないと中山は考えていた。
 人が足りない分、中山自身も現場に入り、加工や検査の仕事や新人の教育などを手伝った。二人いる営業の従業員も、時間が空いているときは作業を手伝った。
 中山は、残った従業員一人一人に声をかけ、「一日でも早く元通りになるよう懸命に努力するから、一緒に付いてきて欲しい」と思いの丈をぶつけた。
 その思いが通じたのか、これ以上の退職者が出ることはなかった。

 

 ある日、一日の仕事を終えた中山は、自宅のリビングで一人グラスを傾けていた。先ほどまで妻も一緒だったが、疲れたということで妻は先に寝室に引き取った。
 グラスに新しい酒と氷を継ぎ足した中山は、ここ半年余りの出来事を思い返した。
 妻と資金繰り対策について話し合ったときのことを思い浮かべる。あのとき、中山は銀行への返済猶予を口にし、妻は給料支給の見直しを口にした。考え抜いた末に妻の意見を取り入れたが、あのときの判断は間違えだったと中山は後悔していた。
 「ほんとうに安易な判断だった……」悔やんでも悔やみきれない思いが、中山の胸の中に広がった。
 あのときの判断の誤りにより、十人の貴重な従業員を失ってしまった。残った従業員はなんとかこのまま残ってくれそうな雰囲気だが、それにしても大きな代償だった。
 今も、来た仕事に対応するので精一杯な状態だ。仕事の処理能力も格段に落ちており、今の仕事をこなしているだけでは利益が出ない。もっと処理能力を向上させ、仕事の量を増やしていかなければならない。取引停止を言い渡された主要取引先に対しても、以前のような体制が整ったことを説明した上で、取引を再開してもらえるように働きかけたい。
 中山は、あの世に逝った父親に対して、申し訳ない気持ちで一杯になった。
 父親は、八年前に、ひき逃げによる交通事故の被害に遭い急逝した。犯人は、いまだに捕まっていない。そのとき以来、中山が社長に就任し、今の体制を築いてきた。
 もともと父親の起こした会社を継ぐつもりでいた中山は、大学を卒業後、すぐに父親の会社に就職した。父親の方針で、加工から検査、梱包、営業などすべての仕事を体験した。
 父親は、中山に向かって「とにかく従業員を大切にしろ」と教えた。仕事に精通し能力の高い従業員がいてくれるからこそ、受注した仕事をこなしていくことができ、それが取引先からの信用につながるのであり、そのことを身に染みて感じていた父親は、何度も何度も中山に対して諭した。
 それなのに、中山は父親の教えに逆らって、従業員を虐げるような判断をしてしまった。辞めていった人間の中には、父親が社長を務めていたころからの従業員も多くいた。彼らも、きっと寂しい思いをしていたのだろう。
 「親父、済まない!」中山は、胸の中で亡き父親に詫びた。手にしたグラスをあおる。苦い酒が喉を通り、胃の腑にしみこんだ。
 「ふぅー!」と大きく息をした中山は、グラスを置いた。
 そのとき、中山の脳裏に、あることが思い浮かんだ。去年の十二月に廃止になった労働基本法のことだった。
 中山は、労働基本法が廃止になるという報道に内心喜んだ。原材料のコストや経費コストはなんとかやり繰りができるが、人件費だけはやり繰りすることができなかったからだ。その原因は、労働基本法にあった。雇用に関するルールが設けられていることに対しても鬱陶しいと感じることがあった。
 しかし、今から思えば、労働基本法を守ってきたことが従業員を大切にすることにつながっていたのだ。
 「そういうことだったのか……」皮肉な巡り合わせだった。足かせとなっていた労働基本法が廃止となったことを受けて、自由な雇用対策を打ち出した。その結果、従業員を大切にする気持ちが置き去りになり、そのことが大量の人材流出につながり、自分自身の首を絞めることになった。
 「オレは、なんて浅はかな人間なんだろう……」中山は、自分のことを卑下した。それとともに、今後労働基本法が復活したら、自分は従業員のことを大切にするために進んで法を守るだろうとも思った。 同じようなことを感じている中小企業の経営者もいるのではないだろうか。
 そんな中山の胸の中に、ある感情が突き上げてきた。
 「労働基本法よ、復活してくれ!」

 

第2節 同士との出会い

 

1.
 それからしばらくして、中山は、地元の商工会議所が主催するセミナーに参加した。「従業員を大切にする経営」というタイトルであり、小林雄一郎という社会保険労務士が講師を務めるセミナーだった。
 小林は、従業員を大切にした経営を行うことが会社の発展にもつながるのだという持論を解説した。そのような経営に取り組み成功を収めた会社の事例も、いくつか紹介された。中山は、感銘を受けた言葉や紹介された事例の中で自分のところでもやれそうだと感じた内容をノートに書き移した。
 セミナーが終了した。受講者たちが、ぞろぞろと会場を後にする。
 中山は、壇上の小林のもとに歩み寄り、名刺を差し出した。小林も名刺を返してきた。
 名刺交換をし終えた中山は、日ごろから抱えていた悩みを口にした。小林の話に感銘を受け、相談してみたいと考えたからだ。
 「先生のお考えをお伺いしたいことがあるのですが、お時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
 「構いませんよ」
 「実は私、従業員二十人ちょっとの会社を経営しているのですが、従業員と心を通わせる自信が持てないことで悩んでいるのですよ」
 中山は、今現在置かれている状況を打ち明けた。
 労働基本法の廃止を受けて給料支給の見直しを行ったところ一度に大量の退職者を出したこと、これ以上の退職者が出るのを防ぐために残った従業員とのコミュニケーションを図るために努力をしていること、しかしながら自分の気持ちが従業員に伝わっているのかどうかの自信を持てず悩んでいることを説明した。自分自身が、大学を出た後すぐに父親が経営する会社に入社し、そのときから次期社長と従業員という関係で接し続けてきたことも口にした。
 黙って話に耳を傾けていた小林が口を開いた。
 「なるほど。これは、親の会社を継ぐ立場にいる人たちが共通して抱えている悩みですね。同じような立場の人たちと、今のような話をされたことはないのですか?」
 「もちろんありますよ。みんないろいろな取り組みをしているみたいですが、従業員とのコミュニケーションに自信を持てているという話は聞かれません」
 「ちなみに、他の方は、どのような取り組みをなさっているのですか?」
 「従業員と一緒に食事や飲みに行ったりですとか、手紙を書いたりですとか……」
 中山は、会合などで一緒になった同業者から聞いた話を口にした。その中のいくつかについては、実際に真似をしたこともある。
 小さく頷きながら耳を傾けていた小林が、中山自身の取り組みについて問うてきた。
 「中山さん自身は、どのような取り組みをされてきたのですか?」
 「そうですね。やはり食事に誘ったりですとか、定期的に朝礼を開いて私の本音をぶつけたりですとか、個別の面談をしたりですとか、そういったことをやってきました」
 「一緒に食事をしたときや面談をしたときなどに、意識的に従業員さんの話を聞くようにされていましたか?」
 「もちろんです。私が一方的にしゃべったのでは、なんのための場かわかりませんからね」
 「そうですね。それで、従業員さんは、あなたに対して、いろいろとしゃべってくるのですか?」
 「ええ、まぁ……」
 「しかし、コミュニケーションが取れているようには思えないと?」
 「はい。なにか従業員のほうが、私に対して本音をしゃべっていないように感じてしまうのですよ。私との間にバリアを張っているような、そういう感じがして仕方がないんですよ」
 中山は、胸の中で抱き続けてきた違和感を口にした。
 「なるほど」と頷いた小林が、問いかけを続ける。
 「あなたのほうから従業員さんに対して話しかけるときに、従業員さんの目線に立って話をされていますか?」
 「ええ、そうしているつもりです。しかし、私自身が一従業員として働いた経験がなく、そういった立場の人たちが経営者に対して抱く感覚がわからないために、ほんとうに従業員目線で話ができているのかどうか自信を持てずにいるのですよ」
 「そういうことですか……。そうかといって、従業員さんに向かって、自分は従業員目線で話をしていますかなんてことを聞くわけにもいきませんしね。そこが、一番の悩みなわけですね?」
 「そうなんです」
 「それでしたら中山さん、他の会社の従業員的な立場の方と個人的な付き合いをしてみればよいのではないですか?」
 「他の会社の従業員ですか? 同業者の会社の従業員ってことですか?」
 「別に同業者でなくてもよいのではないですか? 要は、雇われる立場の人間であればよいのですから」
 「なるほど。じゃぁ、私の学生時代の友人で経営者でない人間がいますから、彼らの話を聞いてみればよいわけですか」
 「それでもよいかもしれませんが、学生時代の友人だと、あなたのことをよく知っておられるので、どうしてもあなた目線で雇われる側の感覚を伝えようとするでしょうね。それだと、ほんとうの解決にはならないかもしれません」
 「それでしたら、どうすればよいのでしょうか?」
 「たとえば今の時代、インターネットやSNSなどを通じて面識のない人と簡単に交流が持てる時代です。それらを通じて知り合った人たちが、共通するテーマで話し合ったりすることもよくある話です。そのような形で、あなたと全く利害関係のない人と交流を図るのもよいのではないですか?」
 「利害関係のない人と、ですか?」
 「要は、今までのあなたのことを全く知らない人と話ができればよいのですよ。インターネット上でキーワードを入力すれば、そのテーマに関してなんらかの活動を行っている人や持論を持つ人のサイトがたくさん出てきますよ。ですから、あなた自身が興味のあるテーマで検索をしてみて、ネットを通じた知り合いを作って、そうして知り合った方々に対して経営者に対してどのような感覚を抱いているのか聞いてみてもよいのではないですか? そうすれば、あなたの悩みが解決できるかもしれませんよ」
 「おっしゃる通りかもしれませんね」
 中山には、小林の話が理解できた。
 自分のことをよく知っている人間に聞いても、自分に合わせた答え方しかしてこないだろう。中山としては、雇われる側の人間が経営者に対してどのような感覚を抱いているものなのかを知りたいのだが、帰ってくる言葉は、どのようにしたら彼と従業員が打ち解けて話せるかという方法論ような話になってしまうことが予想される。
 そのことを考えた場合、自分のことをよく知らない人間を通じて雇われる立場の人間が抱いている感覚を理解することが、今の悩みを解決する一番の近道だ。
 頭の中が整理でき気持ちのすっきりした中山は、小林に対して丁重に礼を述べ、セミナー会場を後にした。

 

2.
 小林から助言を受けた中山は、さっそく他人との交流にチャレンジしてみることにした。
 若い人たちの間でフェイスブックやツイッターを介した交流が盛んだという話は聞いていたが、そのようなツールは使ったことがなかった。今からそのようなことを一から覚えて他人との交流を図ることが億劫に感じた中山は、インターネットを介した交流を試みることにした。
 パソコンを前にして、どのようなキーワードで検索したらよいのかを思案する。ためしに、趣味のゴルフや応援しているジャイアンツに関連したキーワードで検索してみることにした。
 インターネット上に、関連キーワードに関する解説や情報が掲載されたサイトが表示された。同好会のサイトや個人のサイトも表示される。
 「なにか違うな……」中山は、自分が求めていることとは根本的に違うことに気がついた。中山は、雇われる立場の人間が雇われるということについてどのような考え方や価値観、感覚を抱いているものなのかを知りたかった。このような趣味に関するキーワード検索では、雇われることに関する主張には行き当たらない。
 「ということは、ずばり、雇用に関連するキーワードで検索してみれば良いわけか……」そう考えた中山は、労働基本法に関連するキーワードで検索してみることにした。労働基本法というキーワードを入力し、検索ボタンをクリックしてみる。
 しかし、表示されるのは、行政や専門家たちのPRサイトばかりだった。
 「雇われる側の目線で考えなきゃ」そう感じた中山は、「労働基本法廃止、反対」というキーワードで再検索した。
 今度は、個人のサイトがたくさん表示された。中山は、表示されたサイトに一つ一つ目を通した。労働基本法廃止に対する個人の持論を展開したサイトがたくさん表示される。
 サイト開設者のプロフィールにも目を通した。年代や性別はさまざまだが、いずれも雇われる側の人間だった。労働基本法復活を望む論調も共通している。
 しかし、なにか中山の中で違和感が生じた。それは、どのサイトも労働者側が手厚く保護されるのが当然であるという前提に立った持論展開だったからだ。
 中山も労働基本法の復活を望んでいることに関しては同じだが、労働者保護ありきの考え方ではなかった。労働者保護を強要する法律があるから雇う側が仕方なく守るというような次元の話ではなく、従業員を大切にした経営を行っている中で、必然的に労働者を保護する法律のことを守っているというような姿が望ましいという考えを持っていた。その場合、従業員側も権利意識だけで考えるのではなく、生活の保障と引き換えに、雇う側に己のアイデンティティを主張するような姿を見せるべきだという考えも併せ持っていた。
 中山は、ネット上のサイト閲覧を続けた。
 いくつものサイトを閲覧し目の疲れを感じ始めた矢先、中山の目にあるブログが止まった。契約社員の身分で働いていた女性のブログであり、労働基本法廃止後に、五年間勤めた人材会社やその後に再就職した建設会社を不合理な理由で解雇された経緯などが克明に記されていた。ドキュメンタリータッチな文章表現であり、中山は食い入るように目を通していった。
 ブログには、開設者自身の考えも記されていた。雇用の秩序を保つための労働者保護に関する法律は必要だが、それを個人の権利であると捉えることは反対だという考えだった。望ましいのは自分の幸せや成長と会社の幸せや成長が一致することであり、その形を追及するための秩序形成として労働基本法は必要ではなかったのかという考えも記されていた。
 労働基本法復活を望む人との意見交換をしてみたいという言葉も綴られている。
 中山は、新山裕未というブログの開設者に対してメールを送ってみることにした。

 

3.
 本村の一人体制は続いていた。
 退職者の続出に社長の手島も取締役管理部長の石川もさすがにまずいと感じたのか、営業マンの確保に本腰を入れ始めた。定期的に新規採用の営業マンが入社し、各課に配属された。
 本村のもとにも、一人の新入社員が配属された。大学を卒業して三年目の若い人間であり、労働基本法廃止後に労働条件が下げられたことに嫌気がさして転職をしたということだった。
 新入社員に対してもノルマは課せられ、ノルマ未達成分が基本給から控除される仕組みも適用される。
 本村は、懸命に教育した。しかし、教育も空しく、新入社員の成績はノルマを大幅に下回った。
 ノルマ未達成分が控除された基本給が新入社員に支給された。驚いた新入社員は、本村に説明を求めた。賃金控除の仕組みについては入社時に会社から説明を受けたはずだったが、よく理解していなかったようだ。
 本村は、賃金控除の仕組みについて説明をした。新入社員が、納得のいかない表情を浮かべる。
 入社してすぐには結果が出ないのが当たり前であり、いきなり賃金控除されるのはおかしいというのが新入社員の主張だった。本村も気持ちは理解できたが、会社が決めたことであり、自分ではどうしてあげることもできない。
 「来月は、頑張ってノルマを達成しよう」と励ましの言葉をかけた本村だったが、新入社員は、その翌日、会社を去って行った。
 それ以来、本村の一人体制が続いていた。

 

 ある日、久しぶりに定時で退社した本村は、一人で馴染みのバーに立ち寄り酒を飲んだ。一人になりたいときに利用しているバーであり、すべてのメニューが五百円均一だった。客層も一人客が多い。カウンターで、客たちが思い思いにグラスを弄びながら、一人きりの世界に浸っていた。
 本村も、一人で静かに酒を飲んだ。BGMを聞きながら、頭の中でいろいろなことを思い浮かべてみる。
 三人の部下がいたときのことも思い浮かべてみた。彼らが一度に退職してからそんなに日が経っているわけではなかったが、本村は遠い昔のことのように感じていた。
 彼らは、今どうしているのだろうか。彼らなりに、ちゃんとやっているのだろうと本村は思った。
 自分はというと、家族のためにも今さら転職するわけにはいかないという理由で会社に残ったのだが、最近になって自分の考え方に変化が生じてきたことに本村は気がついていた。そこには、個人ごとに雇用契約条件が設定されノルマ未達成分が基本給から控除される今の人事制度を肯定する自分がいた。
 会社から人事制度を変えるという発表があったときは、本村も大いに戸惑った。給料が減らされる、労働条件が悪くなるということが頭に浮かんだからであり、戦々恐々とした毎日を過ごしていた。
 しかし、制度の適用を受けるうちに、会社に貢献した結果をきちんと評価してもらえる仕組みではないのかと思うようになった。結果を出すことで、会社に対して自分の存在を主張する。会社も、主張した従業員に対して評価という形で応え、その上で会社に一定の利益が残る。
 会社がいきなりこのような仕組みに変えたことに対して、最初は納得がいかなかったが、会社と従業員が共栄共存を図るためには、今のような仕組みも必要なのではないかと思うようになった。
 そうはいっても、なにもかもを会社が野放図に決めてしまうのは問題がある。雇われる側のほうが弱い立場であり、最低限の歯止めをかける仕組みも必要だ。
 それが労働基本法ではなかったのかと、本村は感じていた。

 

 帰宅し、自宅のパソコンを開いた本村は、労働基本法廃止について世間の人たちはどのように考えているのかを知ろうとネット検索を行った。
 ネット上に、労働基本法廃止に関する見解や主張を述べたサイトがたくさん表示された。
 専門家や企業経営者たちのサイトには労働基本法廃止を肯定する主張が多く見られたが、雇われる側の人間が立ち上げたサイトには反対意見で占められていた。労働者側が手厚く保護されるのが当然だという主張がネット上に乱立している。労働基本法の復活を望む声も多く書かれていた。
 ネット上での閲覧を続けていた本村の目に、とあるブログが留まった。新山裕未のブログだった。
 本村は、ブログに綴られた新山のドキュメンタリーを目で追った。その生々しい内容に、本村はショックを受けた。労働基本法が廃止になってから世間でさまざまな動きが起きていることは耳にしていたが、ブログに書かれてあるような一方的な解雇がまかり通っているとまでは思っていなかった。
 さらに本村は、新山が主張している、労働者保護の法律を個人の権利として捉えるのではなく、会社と従業員が共にハッピーになれる状況を実現していくための秩序形成として労働者保護の法律が存在すべきだという考えに共感を覚えた。
 それは、最低限の歯止めはかけつつも、会社と従業員が共栄共存を図るための仕組みを会社が中心となって展開すべきだという自分の考えとも一致していた。
 新山のブログには、労働基本法復活を望む人との意見交換をしてみたいという言葉も記されている。
 本村は、新山に対してメールを送ることにした。

 

4.
 新山は、就職活動をせずにいた。セクハラを受けた挙句一方的に解雇されたことへの心の傷が癒えていないこともあったが、慌てて就職活動に入るのではなく、今一度自分自身の生き方を見つめ直してみようと考えていた。
 新山も三十二歳になった。結婚をしていてもおかしくはない年齢だ。
 新山には、現在結婚を意識するような付き合いをしている男性はいなかった。結婚を考えるのであれば、真剣に相手を見つけなければならない。
 「結婚か……」新山には、今一つ結婚という二文字がピンとこなかった。木山紀子のような幸せ奥様の道を歩むのも悪くはないのだろうが、どちらかというと水元亜矢のようなキャリアウーマン的な道のほうが自分には合っているのではないかと感じていた。それも、ただビジネスの世界で働く一人の女性というのではなく、世の中の役に立てるような大きな仕事に自分が携わっている姿を追い求めていた。
 「世の中を良くするようなことに係ってみたい!」そのような思いもあって、ブログに労働基本法廃止後の自分の身の回りで起こったことを書き綴った。
 ブログは、ネットを介してたくさんの人に見てもらっているようだ。
 あれから、何通かのメールをもらった。いずれも契約社員という立場で働いている女性からであり、ひどい目にあった新山のことを同情視するような言葉を送ってきた。新山と同じような理由で会社から解雇された人もおり、同病相哀れむというような理由からメールを送ってきたようにも感じられた。
 新山もメールを返信したが、メールを送ってきた相手とは本質的に違うものを感じていた。
 自分のことが可哀そうだとか誰かにわかって欲しいという思いでブログに会社を解雇された経緯を綴ったのではない。権利意識だけで働いている雇われる側の人間にも問題はあるということも主張していたのだ。
 生きていくためには、なにかしら仕事をしなければならない。自分で事業をするのでなければ、どこかの会社に勤めることになる。どうせ働くのであれば、自分の幸せや成長と会社の幸せや成長が一致する方向を自分から見つけに行ったほうがよい。会社もそのような考えを持てれば、みんなが幸せになれるのではないかと考えていた。
 しかし、立場的に雇われる側のほうが弱いことも事実なため、一定の歯止めをかける仕組みとして、労働基本法のようなものがあってもよいと考えていた。
 ブログが多くの人に閲覧されていることは嬉しかったのだが、自分と同じような考え方をしている人と巡り合えないことに、新山は寂しさを感じていた。

 

 そんなあるとき、新山のもとに、同時期に二人の男性からメールが届いた。中山と本村からのメールだった。
 メールを開いた新山は驚いた。二人とも、自分の考えに共感してメールをくれていた。
 二人の立場が会社の社長と管理職者であることにも驚かされた。いずれも、新山とは違って雇用関係の上では強い立場の人間であり、新山自身、このような人たちは、労働基本法廃止をこれ幸いにしてやりたい放題なことをやろうとする人が大半なのではないかと考えていたからだ。
 二人からメールをもらった新山は、自分の考えに自信を持った。雇う側、雇われる側、そしてその中間に立つ立場の人間が共感できる考えなのであれば、必ずや世の中を良くすることにつながるはずだ。
 二人とも、労働基本法の復活を望んでいた。それも、権利の復活という尺度ではなく、会社と従業員が共にハッピーになれる状況を実現していくための秩序形成として必要だという考えも同じだった。
 新山の胸の中に、二人と、もっと語り合ってみたいという思いが湧いてきた。
 そのような思いを胸に、新山はメールを返信した。

 

 新山と中山、本村との間のメールのやり取りが続いた。
 中山と本村も、労働基本法が廃止になって以来、自分たちの身の回りで起こったことや、自分が今のような考えを持つようになった経緯などをメールに綴ってきた。
 二人も、新山を介して互いの存在を知り、三者間でのメール交換が展開された。それぞれが抱く考え方に対して、他の二人が意見をぶつける。お互い面識はないのだが、何年も前から言葉を交わし合っている友人のような感覚を新山は抱いていた。
 いつしか、三人の間で、会おうという会話が交わされるようになった。新山も、二人に会ってみたかった。

 

第3節 団結

 

1.
 中山と本村、新山の三人は会うことになった。
 梅雨が明け、雲一つない強い夏の日差しが降り注ぐ暑い一日だった。夜になっても気温は下がらず、湿った生暖かい空気が人々の周囲をまとわりつく。
 新山は、待ち合わせ場所に指定されたホテルの二十階にある展望レストランへ向かった。中山の名前で席が予約されているということだった。
 約束時間の夜七時ちょうどにレストランに着いた新山は、店員に中山の名前を告げた。店員に席へと案内される。
 案内された席には、すでに二人の男性が顔を揃えていた。中山と本村だった。
 「新山ですけど」名前を名乗った新山に対して、二人は同時に席から立ち上がり名前を名乗った。大柄で色の黒い男が中山で、色白でメガネを掛けた細面の男が本村だった。新山と二人が初対面の挨拶を交わす。
 「とりあえず座りましょうか」中山の一声で三人は席に着いた。
 ウエイトレスが注文を聞きに来る。
 中山と本村は洋風料理を、新山は和風料理を注文した。
 「ビールどうですか?」中山が、本村と新山に問いかけた。
 「いいですねぇ」
 「私もいただきます」
 「それじゃ、生ビールを三つ!」
 中山が、三人分のビールを注文する。注文を確認したウエイトレスが下がる。
 つかの間の時間、三人の間を沈黙が支配した。メールでは散々やり取りをした三人だったが、実際に会うのは今日が初めてであり、会話の口火を切るタイミングを互いに掴めずにいた。
 三人のもとに生ビールが運ばれてきた。
 「とりあえず乾杯しましょうか?」いち早くジョッキを手にした中山が、本村と新山の顔を等分に見ながら声をかけた。
 「そうですね」
 「乾杯!」
 三人が、冷えたビールをのどに流し込む。
 ジョッキを置いた本村が言葉を発した。
 「しかしこういうの、私は初めてですよ。ネットを介して知り合った人と実際に会うなんてことは」
 「私もです」中山と新山が、同時に言葉を返す。
 「社長業っていうのも大変なのでしょうね。雇われる側の考え方を勉強したいということでしたけど、正直言って、社長さんがそういうところで悩んでいるのを不思議に感じていましたよ」本村が中山に話しかけた。
 「私の場合は、大学を出てすぐに親父の会社に入りましたからね。私自身は特に意識していなかったんですけど、従業員さんのほうが次期社長という目で私のことを見ていましてね。ほんとうは、親父が生きている間に私のほうから溝を埋めるための行動を取るべきだったのでしょうけれど、それをやらないまま親父が死んでしまって、その後は社長業に追われていたものですから」
 「そういうことだったんですか。中山さんのお父様、急だったんですものね」二人の会話に、新山が口を挟んだ。
 「そうなんですよ」
 「しかし、新山さんもえらい目にあいましたね。もし、僕が今の会社からそのような目にあわされたら、徹底的に戦うだろうなぁ」本村が、新山のことに触れた。
 「私も、人材会社のときは戦ってやろうかと思いましたけど、契約更新のときに契約期間が設けられなかったことを正社員登用の可能性があるからだなんて勘違いしていた自分のことが馬鹿馬鹿しくなっちゃって、結局なにも言わずに辞めちゃいました。建設会社のときは、こんな人と争っても仕方がないと思いましたから、なにも言いませんでした」
 「それで正解ですよ。新山さんみたいなしっかりとした考えを持っている人は、そんなつまらないことに時間をかけずに、これからのことに時間を費やしていくべきですよ」
 「本村さんも大変な目にあいましたね。部下がいっぺんに退職しちゃって、大変だったでしょう?」新山は、本村のことを気遣う言葉を口にした。
 「そうですねぇ。なんだか、部下が辞めたのが自分の責任のような気がしちゃってね。自分がもっとフォローしてあげれば、部下もノルマを達成できたのかなと思ったりもしましたよ」
 「でも、本村さん自身もノルマがあったわけでしょ? 本村さんの収入で生活する家族もいるわけだし、自分のノルマを絶対に達成しなければなりませんからね。私が本村さんの立場でも、とてもじゃないけど部下のフォローなんてできなかったと思いますよ」中山も、本村のことをフォローする言葉を返した。
 「そういうものですかね……」本村が、感慨深げに呟く。
 事前のメールのやり取りを通じて、ある程度はお互いのことを認識していた三人の間で、次々と会話が繰り広げられた。
 そんな中、二杯目のジョッキが運ばれてきた。初対面の三人だったが、今ではすっかり打ち解け合い、会話が弾んでいた。中山は四十五歳、本村は四十三歳ということだが、歳の近い二人は旧知の知り合いであるかのような雰囲気で会話を交わしていた。
 新山も、一回りほど年上の二人に対して、歳の離れた兄のような感情を抱いた。
 「しかし、労働基本法が廃止になって早八カ月ですか」中山が、懐かしむような表情を浮かべた。
 「最初はどうなるものかと思っていましたが、どう表現したらよいのかわからないですけど、今は、もうすっかり慣れてしまったって感じですね」新山も、微妙な思いを表情を浮かべる。
 「慣れるしかないのかもしれませんけど、ストレスを感じながら働いている人も多いと思いますよ」 戦々恐々としている職場の雰囲気を思い浮かべながら、本村が口を挟んだ。
 「そうでしょうね。新山さんには失礼ですけど、いつクビを切られてもおかしくはない状態で働かなければならないわけですからね」中山が、チラッと新山に目をやりながら言葉を口にした。
 「実際に、ガラッと人事制度を変えた会社のほうが多いのですか?」新山は、中山に問いかけた。
 「そうですね。他の業界のことはよくわからないですけど、私のところの自動車業界の場合は、特になにも変えていない会社さんのほうが多いように思いますね。変えると面倒だっていうのもありますし、なにを変えたらよいのかがわからないから今のところなにも変えていないというところも多いみたいですね」
 「別に、無理して変える必要はないんですけどね」本村が頷く。
 「要は、会社が従業員のことをどのように思っているのかということではないですか? 大切にしていきたいのなら、これ幸いに労働条件を悪くしようなんてことはやらないでしょうし、どうでもいいと思っているのなら、これをチャンスとばかりに好き放題やるんでしょうね」
 「なんだか肩身が狭いな」会社側の姿勢次第だという新山の発言に、中山が顔をうつむけた。給料の支払いを巡って、一度に大量の従業員が辞めていったことを思い出したからだ。
 「あっ、ごめんなさい。別に、中山さんのことを責めているわけではなくて……」
 「いや、わかっています。ただ、私も従業員のことを大切にしていたつもりが、そうじゃなかったのかと思っちゃいましてね。今でも、なんで妻を説得して銀行さんに協力をお願いしに行かなかったのかなと後悔していますよ。たぶん、自分に勇気が足りなかったのだと思います」
 「そんな、自分のことを責めないほうがいいですよ。みんな、それぞれの立場で判断しなければならないわけですから。中山さんの奥様が言われることも当然ですよ。銀行のほうが立場が強いわけですし、銀行が融資を引き揚げるとか言い出したら、それこそ大変じゃないですか。それに、銀行に相談に行ったとしても、返済猶予の前に人件費の見直しをするように勧められたと思いますよ」
 「私も同感です」
 「そう言ってもらえて、少しは気持ちが楽になりました」
 二人の言葉を聞いた中山が、胸のつかえが取れたことを表すオーバーアクションな表情を見せた。
 その表情を目にした本村と新山は、笑い声を上げた。

 

 時間があっという間に経過した。気がつくと夜の十時であり、閉店の時刻となっていた。
 割り勘を主張する本村と新山の手を押しやって、中山が、食事代をカードで支払った。
 「今日は、私に払わせてください。お二人のおかげでものすごく気持ちが楽になりましたし、ほんとうに楽しい時間を過ごさせてもらえましたから」
 「すみません。それじゃ、お言葉に甘えてごちそうになります」
 「また、三人で会いませんか? こうやって知り合ったのもなにかの縁でしょうし、もしお二人が問題なかったら、また会いたいですね」本村が、三人の再会を提案した。
 「私も会いたいです」
 「私も同感だな」
 新山と中山も、会いたいという気持ちを口にする。
 三人の間で、近いうちに再会しようという約束が交わされた。

 

2.
 新山は、中山と本村とのことをブログに書くことにした。二人からメールをもらい三人で会うことになった経緯を簡単に記した後に、二人と交わした会話の内容をブログ上にまとめた。
 社長、管理職者、一般社員という立場の異なる三人が、会社と従業員が共にハッピーになれる状況を実現していくための秩序形成として労働基本法のような法律が存在していたのではないかということを語り合えたことに、新山は感激していた。
 法律というと、どうしても守るもの、守られるものという考えが先に立ってしまう。それだと、どうしても利害が相反する者同士が対立する構図ができ上がってしまう。しかし、その先にある本質的な部分をみんながわかりあっていれば、法律は縛るための道具ではなく、物事を良い方向に進めていく過程における一定の秩序を保つための存在であるという見方をすることができる。
 新山は、この考え方を、自分と同じような目に遭ってきた多くの雇用弱者の人たちにもわかってもらいたかった。そうなれば、働くことに生きがいを感じることができるはずだ。
 しかし、新山の思いも空しく、ブログの反応は否定的なものばかりだった。大半が、新山と同世代の人たちからの反応なのだが、「会社と従業員がわかりあえるはずなどない!」といったような反応ばかりが返ってきた。新山のことを誹謗中傷するような言葉も送られてきた。
 新山は、これ以上ブログに中山と本村とのことを書くのを止めることにした。

 

 その後就職活動を再開した新山は、パート社員として、とある会社の経理部門で働くことになった。
 以前勤めていた人材会社や建設会社とは違って規模の大きな会社であり、経理部門だけでも八人の人間が所属していた。新山と同じパート社員の身分で働く人間もいる。
 今回も雇用契約書は作ってもらえなかったが、大きな会社であるせいか、新山のような身分の従業員をあからさまに虐げるようなことはなかった。セクハラなどももちろんない。正社員との仕事の棲み分けもはっきりとしており、残業を命じられることもほとんどなかった。
 自分の人生を思いっきり見つめ直してみたいと考えていた新山は、人間の生き方や働き方などを説く市民講座に積極的に参加した。夕方からの講座が多く、残業がほとんどないことが新山に幸いした。僧侶や文化人、弁護士や引退した経営者など、著名人が講師を務める講座がいくつも開かれる。
 講座に参加するたびに感銘を受けた新山は、中山や本村たちと交わした自分の考え方が間違っていなかったということを確信した。どのような世界に身を置くにしても、自分の幸せや成長と周囲の幸せや成長が一致する方向を自分から見つけに行くべきだという考え方は間違っていない。
 労働基本法に対する見解をブログに書いたときには否定的な反応ばかりが返ってきたが、自分と同じような考えを持っている人もたくさんいるはずだ。同じような考えを持った人たちと協力して労働基本法の復活を国に呼びかけてみるのも面白いのではないかと新山は感じていた。

 

 その日も、新山は定時で退社した。今日は市民講座に参加する予定もなく、人と会う約束もない。
 新山は、秋物の服を物色しに街中へウインドウショッピングに繰り出すことにした。季節は夏だが、店頭には、すでに秋物の服が並んでいる。
 地下鉄を乗り継いで繁華街へと向かった。繁華街は、多くの若者でにぎわっていた。
 ゆっくりと街歩きをした新山は、ショッピングモールに足を踏み入れた。エスカレーターに乗り、婦人服売り場のフロアーで降りる。中央に量販店があり、その周囲を専門店が囲んでいた。
 順番に店を回り、陳列された商品を物色する。
 新山は、微妙な年ごろだった。二十代のときのような派手な服装からは卒業するつもりでいたが、そうかといってオバサンぽい服は着たくなかった。地味ではないが大人っぽく見えるデザインの服が欲しいのだが、思うように見つからない。
 フロアー内の店を回り終えた新山は、フードコートに移動した。ファストフードと野菜サラダ、ドリンクを注文する。
 注文したメニューを受け取りフードコート内の席に着いた新山は、頬杖をつきながら、自分が中途半端な年齢であることを実感していた。数年前まではすんなりと選ぶことのできた服が、今はすんなりとは選べない。
 「女の三十代って、中途半端な年齢なんだなぁ……」胸の中でそう呟いた新山は、もっと積極的にいろいろなことへチャレンジをしていかなければならないのではないかと自分に問いかけた。

 

 ショッピングモールを出た新山は駅に向かった。人混みに揉まれながら駅に向かう道を進む。
 そんな新山の目に、法被を着て襷をかけた一人の人間が、ハンドマイクを握り、民衆に向かって演説をしている姿が飛び込んできた。演説をする人間の周囲を同じ法被を着た人間が取り囲み、ビラのようなものを配布している。その周りには幟がはためいていた。幟には、共明党という文字が書かれていた。
 ハンドマイクから「労働基本法を復活させるべきである!」という声が鳴り響く。演説を見守る観衆の中から、ときおり拍手や歓声が沸き上がった。
 法被を着た一人の男性が新山に近づき、ビラを手渡した。「労働基本法復活の声を上げよう!」と題されたビラだった。男が、署名に協力してくれるよう求めてきた。男の背後にはテーブルと椅子が置かれ、署名用紙が拡げられていた。署名をしている人の姿も目に映る。
 新山も署名をすることにした。署名用紙に名前を記入する。
 「インターネット上でも署名活動を行っていますので、知り合いの方で労働基本法復活を望んでいる方がおられましたら、署名をするように勧めていただけませんか」男が、インターネット上での署名活動も行っていることを告げた。
 「ネット上の署名ですか?」
 「ええ。共明党のホームページを開いていただきましたら、トップページに署名のリンクがあります。ぜひ、ご覧になってみてください。署名だけではなくて、国民一人一人の意見を聞かせていただくためのページもありますので、ご意見がございましたら、ぜひお寄せください」
 「署名は、どのくらい集まっているのですか?」
 「正確な集計はしていませんが、思っていた以上にたくさんの方に署名いただいております。やはり、労働基本法廃止について疑問に思われている方が多いみたいですよ」
 「そうなんですか……」もう少し男の話を聞いてみたいと思った新山だったが、背後に署名を待つ人の気配を感じたため、その場を立ち去った。

 

 自宅に戻った新山は、共明党のホームページにアクセスした。男の言う通り、トップページに署名のリンクが張り付けられていた。昨日現在で、一万八千五百人の署名が集まったという集計結果も表示されている。
 さらに、アンケートと称して、労働基本法廃止後に受けた不利益や労働基本法復活に関する思いについて意見を記入するページも設けられていた。
 署名用紙に名前を記入したばかりだが、新山はネット署名も行うことにした。年代と性別を選び、署名欄にフルネームを記入し送信する。
 アンケートページも開いてみた。そこには、共明党の労働基本法復活に関する考え方が記されており、その下に、来訪者が自由に意見を記入するスペースが設けられていた。国民の声を幅広く聴いてみたいので、党の考え方とは異なる意見であっても記入してほしいというコメントも記されていた。
 新山は、ホームページの存在を中山と本村にも教えようと思った。できれば、三人の意見を集約したものをアンケートに書き込みたいと考えていた。
 「三人だけの共同声明か……」笑みを浮かべながら呟いた新山は、「また会いたいです」という言葉とともに、中山と本村に向けたメールを送信した。

 

3.
 新山がメールを送信してから五日後に三人は再会した。土曜日の夕方であり、中山も本村も私服姿でやって来た。
 新山が指定したイタリアンレストランのテーブルに、三人が顔を揃える。
 「では、再会を祝して乾杯!」
 「乾杯!」
 三人は、ビールで乾杯した。前回とは異なり、席に着いた途端に三人の会話が弾む。
 「中山さんも本村さんも、私服だからか、前回とは全然イメージが違いますね。スーツを着ていらしたときは、いかにもビジネスマンって感じでしたけど、今日は素敵なオジ様って感じかな」新山が悪戯っぽく笑みを浮かべた。
 「オジ様? お兄さんじゃだめなのかな?」中山が笑顔で返す。
 「どう見たってオジ様でしょう。お兄さんは、厚かましいんじゃないですか?」すかさず本村が突っ込みを入れる。
 「ごめんなさい。言い間違えました。オジ様じゃなくて、お兄さんです」新山も、笑いながら言葉を合わせた。
 「無理して言わなくてもいいんですよ」
 「無理じゃないです。ほんとうに、お二人とも若々しいというか、全然オジサンオーラが漂っていないですから」
 「そういう風に言われると嬉しいよなぁ。会社でも女の子からは全然相手にされないし、年齢的にも、もうオジサンなんだよなって諦めていたからね」本村が、しみじみとした口調で語った。
 「年齢じゃないですよ。歳いっていても、前向きな人生を歩んでいる人は若く見えるし、若くても希望のない奴は老けて見えるし……。要は、その人の生き方が現れているだけですよ」実年齢と見た目は比例しないというのが中山の持論だった。積極的な人生を歩んできた中山にとって、見た目よりも若いと言われることがなによりも嬉しい褒め言葉だった。
 「その人の生き方が見た目に現れるですか。それって、当たっていますよね。目指しているものや自信がある人の顔って、輝いて見えますものね」中山の言葉に、新山が共感する。
 「新山さんは、自分の生き方を見つめ直せたのですか?」中山が問いかけてきた。
 新山は、市民講座に参加していることをメールで二人に伝えていた。そのときに感銘を受けた言葉や考え方などもメールに記していた。
 「なにをしていくのかっていうのを具体的に決められたわけじゃないですけど、とにかく、いろいろなことに積極的にチャレンジしていく姿勢を持ち続けなければならないなとは考えています」
 「チャレンジか……。そうだよな。人間、いくつになってもチャレンジする精神が必要だよな。そうじゃないと、ただ流されるだけの人生になってしまうからね。そうなると、もっと歳いってから苦労するんだろうなぁ」
 「同感、同感」二人の言葉に、本村も大きく頷いた。
 「この三人で、何事かにチャレンジしてみますか?」中山が、二人に向かってチャレンジという言葉を口にした。
 「この三人で? なにができるのかな。なにか店を開くとか?」本村が小首をかしげる。
 「そういうのではなくて、もう少し大きい、社会的に意義のあるような……」中山が、身振りを交えながら考えを口にする。
 「それでしたら、労働基本法復活を国に呼びかけてみません?」二人のやり取りを目にしていた新山は問いかけた。
 「国に、呼びかけるですか?」中山と本村が聞き返す。
 「ええ。実はですね……」新山は、共明党のホームページのことを説明した。ネット署名とともに、国民の意見を聞くコーナーが設けられていることを二人に伝える。自分自身も、街中の署名に加えてネット上の署名にもサインしたことを口にした。
 「署名集めですか。しかし、なんでこの時期に署名集めなんだろう?」
 「解散総選挙を睨んでのことじゃないですか?」
 今、日本の政局は大きく揺れていた。
 大泉政権のもと、さまざまな構造改革に関する政策が打ち出されてきたが、目に見える効果は上がっていなかった。そのことに対して、野党側が厳しい追及を行い、国会内で論戦が繰り広げられていた。労働基本法廃止についても、共明党を中心とした一部の野党が愚策であったと厳しい追及を行っていた。
 大泉首相以下政権与党は、無駄な既得権益を排除し、国家の成長戦略に基づく構造改革が動き出したことが成果だと主張し続けた。
 与野党の主張は、どこまで行っても折り合わなかった。そんな中、大泉首相の口から、「国民の真意を問うべきである」という声が聞かれるようになった。
 憲法上の規定で、衆議院が解散された場合、四十日以内に衆議院総選挙を行わなくてはならない。大泉首相が衆議院解散のカードを切ることが現実味を帯びてきた今、各政党も選挙に向けた支持基盤固めに動いていた。
 「共明党は、もともと労働者を支持基盤にしてきた政党だから、労働基本法復活を表に出して、選挙の票を集めようとしているんじゃないですか?」
 「その方が、投票率もアップしますしね」
 「それで、新山さんは、共明党のホームページに自分の考えを投書したのですか?」
 「しようと思ったのですけど、どうせなら三人の意見をまとめて共同声明みたいな形で投書したらどうかなと思って。私たちって、立場が全然違うじゃないですか。社長と管理職者と一般社員の立場にいる私たちの連名で考えを主張できたら、インパクトがあるんじゃないかと思うんですけど」
 「たぶん、投書する人は何人もいると思うけど、おそらく労働者保護ありきの視点で投書してくる人のほうが圧倒的に多いだろうから、ボクたちのような考え方は目立つというか、新鮮に映るだろうな」
 「いずれにしても労働基本法復活を願うという点では同じなんだし、共明党としてもさまざまな層の有権者から労働基本法復活が望まれているということを前面に打ち出すことによって政策の主張にも説得力が出るから、ボクたちのような考え方が寄せられるのを歓迎するだろうな」
 「ということで、三人の共同声明を作りません?」
 新山の呼びかけに対して、すかさず二人が「いいねぇ、賛成!」と言葉を返した。
 「どうせなら、ネット上での投書じゃなくて、考えをまとめた書面を直接共明党に送り付けたらどうかな? 意見書みたいな形で」本村が、文書での提案を口にした。
 「郵送ですか?」
 「うん。ネットからの投書だと、その他大勢の意見の中に埋もれてしまうような気がしてね。単なる冷やかしじゃなくて真剣に思いを伝えたいんだし、そういう意味で直筆の署名のほうがいいのかなと思ったんだけど」
 「たしかに、そのほうが、真剣さが伝わりますよね」
 「でしょう?」
 「よし、じゃぁ、ボクたちの共同声明文を作りますか。問題は、どのような内容で主張をまとめていけばよいのかだけど」
 「労働基本法復活を望んでいるけれども労働者保護ありきではないということと、会社と従業員が共にハッピーになれる状況を実現していくための秩序形成としての機能を果たすべきだということをまとめていけばいいんじゃないですか?」本村の投げかけに対して、新山が心の中で温めていた持論を口にした。
 中山と本村も「うん、うん」と頷く。
 「具体的な文章を考えてみますか?」
 中山の言葉に、三人は互いの主張内容を確認しあい、文章として表現するときの内容について語り合った。三人の意見が混ざり合い、集約されていく。
 話しあいを終えるころには、テーブルの上の料理もすべて片付き、ビールの後に注文したワインのボトルも空になっていた。
 意見の大筋について考えを一致させた三人は、意見書としてまとめ上げるための手順を確認しあった。

 

 三人による意見書作りが進められた。新山が意見書の原案を作成し、中山と本村にメールで送付する。 何回かのメールのやり取りの後に、意見書が完成した。
 三人は、新山がプリントアウトした意見書に署名を行った。
 その後、意見書は、インターネット上での署名やアンケートを企画した共明党の政策企画調整本部に郵送された。


第3章 復活

第1節 政権交代

 

1.
 「おはようございます」朝出勤してきた小林雄一郎が、自分が代表を務める社会保険労務士事務所のドアを開けた瞬間に電話が鳴り響いた。
 すでに席に着いていた事務員の一人が電話に出る。小林宛ての電話だった。
 「先生。日洋電機工業の江川社長からお電話です」
 「はい。今出ます」
 事務員から電話を取り次がれた小林は、受話器を上げた。
 「はい、お電話代わりました。小林です」
 「ああ、先生、日洋電機の江川ですが……」受話器の向こうから独特のだみ声が響いてきた。
 日洋電機工業は二十年来の顧問先であり、社長の江川とは、年に数回はゴルフを共にする親しい仲だった。最近では、新しい賃金制度を作りたいという相談が小林のもとに寄せられていた。
 「先生。今日、午後から時間取れますかね?」
 「今日の午後ですか? 今日はですね、午後一時から四時までの間、商工会議所の専門相談が入っているんですよ。それが終わってからなら時間を作らせてもらいますけど」
 「そうですか。それなら、夕方の五時半ごろに先生の所に伺いますよ」
 商工会議所から小林の事務所までは四十分ほどの移動距離であり、専門相談を終えてからでも充分に間にあう。
 「新しい賃金制度なんですけどね。あれから私なりに考えてみたものがあるのですが、先生に見てもらって、問題なければ使っていこうかなと考えているんですよ」
 「そうですか。わかりました。詳しい話は、夕方お出でいただいたときに聞かせてもらいます」
 打ち合わせの要件を確認し電話を終えた小林は、溜まった仕事に取り掛かった。

 

 小林は、顧問先を多く抱えていた。彼の誠実な人柄が、顧問先の紹介による新たな顧問先の獲得という連鎖反応を引き起こし、今や三人の事務員と一人の社会保険労務士を雇い入れるまでの事務所に成長していた。
 彼の下で就く社会保険労務士は二年前に資格を取得したばかりの新米社会保険労務士であり、資格取得と同時に小林の事務所で働くことになった。誠実な人柄であり、小林は、いずれは自分の跡を継がせようと考えていた。
 小林も、あと二年で還暦を迎える。頭の中では、六十五歳で現役を引退し、その後妻と二人でスローライフを送るという青写真があり、それまでの間に後継者を育てようと考えていた。
 そんな小林のもとに、最近になって、従来にはあまり見られなかった労務コンサルティング的な相談が多く寄せられるようになった。
 労働基本法廃止を受けて、世の中の企業が一斉に雇用管理のやり方を変えてきた。今までありとあらゆるルールで縛られていたのが、鎖を解き放たれたからだ。
 小林の顧問先企業にも、さまざまな変化が生じていた。残業代を計算しなくなった会社、有給休暇制度を改めた会社、雇用契約書を作るのを止めた会社、就業規則を廃止した会社など、各社さまざまな対応だった。規制が撤廃された後の雇用管理政策は会社の自由であり、小林は、従業員に対する説明や制度を変えた後の事務処理についての相談に乗っていた。
 しかし、最近になって、制度を変えたことによる弊害があちらこちらで出始めた。その中でも、想定外の人材流出に頭を悩ます会社が増えていた。最初は、「どの会社も制度を変えてくるだろうから、制度を変えることが即人材流出にはつながらないだろう」、「従業員も会社が苦しいことはわかっているはずであり、協力してほしいという呼びかけに応えてくれるだろう」といったような考えで高をくくっていたのだが、必ずしも従業員の反応は会社側が思っていたような内容ではなかった。
 不安が不安を呼び、その結果、退職を考える従業員が数多く発生した。その中には、会社が重宝したい層の従業員も含まれていた。
 このような状況に慌てた会社は、さまざまな策を講じて、基幹従業員の流出防止や一度に大量の従業員が退職することを防ぐための手立てを打ち始めた。
 競争に打ち勝つためにも、会社にとって適正な人件費支出を維持したい。そのため、今さら労働基本法があった時代の雇用管理の形には戻したくないのだが、今の事業を支えるための最低限の人員や絶対に必要な人材は囲っておきたい。
 そのための相談が、小林のもとにも多く寄せられるようになった。従業員の心をつなぎ止めるための評価方法や賃金制度作りといったような相談が、小林のもとに舞い込んできた。
 そのような相談に対して、小林は懇切丁寧に対応した。
 今や小林は、書類の作成や手続きなど従来担ってきた業務の大半をもう一人の社会保険労務士に任せ、最近増えてきた労務コンサルティング的な仕事に専念するようになっていた。

 

 午前中の時間は、あっという間に経過した。時計の針は昼の十二時を指している。
 「そろそろ行かないと……」小林は、慌てて机の上を片付けた。パソコンの電源を切り、散乱したファイルや書類を所定の位置に戻す。
 午後一時までに商工会議所へ行かなくてはならない。ぐずぐずしていると、昼食を食べる時間が無くなってしまう。
 「先生、もう出られますか?」
 「うん」
 「○○株式会社のこの書類、先生のハンコを使わせていただきたいのですが」
 「これですか? いいですよ、押してもらっても」
 「○○株式会社の○○部長が、○○の件で先生からの返事待ちだったと思うんですけど」
 「ああ、あの件ね。わかっています。商工会議所から戻ったら連絡を入れますから」
 あたふたとスタッフとのやり取りを済ませた小林は、事務所を飛び出した。駅に向かって小走りに歩き出す。八月も終わりだったが、灼熱の太陽が路面を照らしていた。たちまちのうちに、小林の額に汗がにじみ出てきた。昼食を食べに駅の方向へと向かうサラリーマンやOLたちも、額や首筋の汗を拭っている。
 人波を縫うようにして駅にたどり着いた小林は、立ち食いそば屋の券売機で天ぷらそばと稲荷寿司の食券を買い、店内に入った。時計を気にしながらそばをすする。
 流し込むように天ぷらそばと稲荷寿司を胃の中に収めた小林は、駅の改札に向かった。胃の中が重い。急激にモノを入れたため、胃が驚いているのだろう。
 「いかん。もう若くないんだから、もっと落ち着いて食べなければ……」小林は、懲りない反省の弁を胸の中で呟いた。

 

2.
 商工会議所に到着した小林に、職員が今日の相談予約の申込み状況を告げた。今日は、三件の相談予約が入っていた。最初の相談は、午後一時からだった。
 時計の針が午後一時を指し、最初の相談者が小林の前に現れた。初対面の挨拶を済ませた小林は、相談内容を把握するために、相談者の話に耳を傾けた。

 

 二件目の相談が終了した。三件目の相談は午後三時からであり、多少の間がある。小林は、立て続けに入った二件の相談の報告書作成に取り組んだ。
 そして、午後三時を迎えた。三件目の相談者が小林の前に現れた。
 「中山部品工業の中山と申します。あの節は、大変お世話になりまして」
 「えぇっと、中山さん……」目の前に座った大柄で色の黒い男の顔を見やりながら、小林は記憶をまさぐった。
 そんな小林に向かって、中山が、セミナーを通じて出会ったときのことを口にした。
 「商工会議所が主催した、従業員を大切にする経営セミナーでご相談させていただいた中山です。セミナーが終わった後に、先生に、従業員の心を知るためにはどうすればよいのか相談に乗っていただきました」
 「あぁ、あのときの中山さんでしたか。いや、失礼しました。どうでしたか? あれから」
 「先生にアドバイスいただいた通り、インターネットを通じて、利害関係がない人との交流を作らせてもらいました」
 中山は、新山のブログを通じて本村、新山と知り合いになり、三人で会うようになった経緯を小林に聞かせた。二人とも、労働基本法の存在意義について中山と同じような考え方を持っており、共明党に対して意見書を送ったことも口にした。
 「ほぉ、それはまた……」共明党に対する意見書の話を聞いた小林が、目を丸くする。
 「お恥ずかしい限りなのですが、なにかしなきゃという気持ちになりましてね。いろいろとありましたが、やはり労働基本法は存在したほうがよいのではないかという考えに行きつきました。ただ、同じ労働基本法容認派でも、私のような考え方は少数派だと思いますので、メッセージをきちんと伝えるためにも、あえてネット投稿ではなく紙の意見書にしたのですよ」
 「それで良かったのではないですか。直筆署名付きの意見書を送ることで、送られた側も注目するでしょうしね」
 「解散総選挙になった場合、共明党は労働基本法復活を争点の一つにすると思いますが、そのときもいろいろな切り口で国民の声を拾っておいたほうが良いのでしょうからね」
 「おっしゃる通りでしょうね」
 「小林先生は、労働基本法に関して、どのような考えをお持ちなのでしょうか? 復活を望んでおられるのですか?」
 「そうですね。私は、以前の労働基本法とは形を変えた内容で復活すればよいのではないかと考えています。最近、私の事務所にも、労働基本法廃止の影響による相談が増えているのですよ。規制が無くなったことを受けて、どの会社さんもなにかしらの制度変更に着手したのですが、それが原因で想定以上の人材が流出してしまうのではないかという懸念が生じていましてね。会社の体力に合った支出を維持しながら、必要な従業員には残ってもらえるような雇用管理上の制度を作りたいという相談が増えています。やはり、規制がゼロになると歯止めが利かなくなることによる弊害が生じてしまいますが、そうかといって、これからの時代、従来のような形の規制を掛け続けるのも企業の競争力を低下させるという弊害を生むと思うのですよ。ですから、これからの時代に合った歯止めを掛ける新しい仕組みができればよいのではないかと考えますね」
 「全く同感ですね。そういう話であれば、従業員とも対等に話し合えると思います」
 「ところで、中山さんは、従業員の心とやらを理解されたのですか?」
 「ええ。先ほどお話ししたインターネットを通じて知り合った二人との交流で、見えなかったものがいろいろと見えてきました」
 中山は、本村、新山との交流を図る中で、管理職者や一般社員という立場の人間が、経営者のことをどのような目で見ているものなのかということを感じ取ることができたことを小林に語った。新山から聞かされた、若い人の中に、労働基本法に関して労働者保護ありきという考え方を持つ人間が多いということも口にする。
 それに対して、小林も丁寧に見解を返していった。
 相談開始から三十分が経過した。専門相談の時間は午後四時までであり、残り三十分しかない。
 時計の針を目で追った小林は、中山から、今日の相談内容を聞き出すことにした。
 「ところで中山さん、今日は、どのようなご相談でしたっけ?」
 「実は、私のところも、これ以上の人材流出を防ぐために賃金制度を変えようと思いましてね」そう言うと、中山は自分の思いを語った。
 労働基本法廃止後に賃金制度の抜本的な見直しを行ったところ、短期間に十人の従業員が退職した話は、小林に対してすでに話してあった。
 あれから毎月決まった日に給料を払うようにしているが、残業時の割増賃金を払わないことや有給休暇を取得した日の給料補償を半分にするやり方は変えていなかった。
 中山のところのような弱小企業にとって、労働時間に応じた給料を払い続けるのは、会社の首を絞めることと同じだ。売上と労働時間は、必ずしも比例しない。時間をかけたからといって、受注単価が上がるわけでもない。コストを一定に保ちながら、売上を上げていくための努力をしていくより他、生き残る道はないと中山は考えていた。
 中山は労働基本法の復活賛成派だった。しかしながら、労働基本法が復活するということは、以前のように残業代をきちんと計算し、有給休暇の日も全額給料を補償しなければならなくなる。
 そこに、中山はジレンマを感じていた。
 労働基本法の復活と、人件費も含めたコストを一定に保つこととは相容れない。しかし、早く今後の考え方を従業員に対して示さないと、不安から辞めていく人間が出てくることが心配だった。
 黙って中山の話を聞いていた小林が、口を開いた。
 「難しい問題ですね。労働基本法の復活を見越した賃金制度の改定ですか……」
 「そうです」
 「労働基本法があった時代でも、管理職者は残業代支給の対象外だったわけですから、まずは管理職者に対して会社の業績で決まる賃金制度を取り入れてみてはどうですか?」そう提案した小林は、過去に別の会社から相談を受けて係ったことのある賃金制度の仕組みを思い浮かべながら、提案した内容のイメージをわかりやすく説明した。
 説明を受ける中山が、時折質問を挟みながらメモを取る。
 「そうすれば管理職者の分はコストを一定に保てますし、管理職者が意識を変えれば、いずれは一般社員のコストも適正な範囲内に収まっていきますよ」
 「なるほど」
 「今後労働基本法が復活するのかどうかはわかりませんが、先ほど説明した管理職者向けの制度が機能すれば、たとえ労働基本法が復活したとしても、一般社員の方に対してもコストを安定化させるためのなにかしらの制度は作れるはずです」
 「先生のおっしゃる通りですね」中山も満足げに頷いた。
 そうこうするうちに、あっという間に残りの三十分が経過した。商工会議所の職員が、専門相談の終了を告げる。
 「先生、また相談に乗っていただいてもよろしいですか?」
 「どうぞ、いつでもいらしてください」
 「ありがとうございます。それでは、今日先生からアドバイスいただいた内容に基づいて、私なりに考えてみます。考えがまとまったら、また先生の話を伺いにまいります」
 中山は、小林に向かって深々と頭を下げた。

 

3.
 九月に入ってすぐのこと、日本国内に激震が走った。大泉首相が、衆議院の解散を宣言した。
 衆議院解散総選挙は、十月七日に実施されることになった。街中が、選挙ムード一色になる。
 労働基本法の復活も、選挙の争点になった。大泉首相率いる民友党や連立を組んでいた政党は、こぞって労働基本法復活に反対の姿勢を取った。それに対して、共明党を中心とした労働者団体や市民団体を支持基盤に持つ政党が、労働基本法復活を高々と打ち出す。
 外交政策や福祉問題など他にも大きな政策の論点は存在したが、労働基本法を巡っては、既存政党の主張が真っ二つに分かれた。
 中山と本村、新山も、メールでのやり取りを通じて、各政党の主張内容に対して意見を交わした。
 労働基本法に関しては、復活を主張する政党間でも根柢の考え方は異なっていた。弱者救済が政治家としての使命だという視点で主張を行う政党もあれば、労使一体となった経済成長を推進していくために必要だという視点から主張を行う政党もあった。
 しかし、いずれの政党も、復活させた後の日本がどのように変わっていくのかについての構想は曖昧なままだった。
 その部分について、三人は白熱した議論を戦わせていた。

 

 十月七日がやってきた。
 衆議院解散総選挙の投票日であり、今回の選挙は即日投開票が予定されていた。テレビ番組も選挙一色になる。マスコミが実施した出口調査からも、投票率が格段に高まることが想定された。労働基本法の復活が争点の一つとなっており、普段は政治に対して関心のない若年層も投票に行く気になったことが投票率を高める原因となっていた。
 テレビ局が、こぞって選挙速報を打ち出した。
 大泉首相率いる民友党が確実に議席を獲得する一方で、共明党も議席を伸ばしていた。その一方で、他の政党の議席が伸び悩む。時間を追うごとに、民友党と共明党の一騎打ちの様相を呈していた。
 中山は、悩んだ末に共明党に票を入れた。労働基本法の復活が前提になるのはもちろんであったが、共明党が一番国民の意見を反映してくれそうな気がしたからだ。
 今回、共明党が選挙に勝ったとしても、即刻労働基本法が復活するわけではない。国会内で充分な議論がなされ、その上で復活するかどうかが決定する。そのときに、政府が国民の声を充分に吸い上げてくれることが重要だと中山は考えていた。
 本村や新山の考えも同じだった。

 

 選挙が終了した。
 今回の選挙で、衆議院内の勢力図が大きく変化した。民友党も前回議席を維持したが、それ以上に共明党が議席を獲得した。野党第二党の位置にあった共明党が、いきなり与党の位置に躍り出た。
 特別国会が召集され、大泉首相以下内閣が総辞職する。
 引き続き首相指名選挙が行われ、共明党総裁の藤井秀一郎が次期首相に選出された。組閣も決定し、藤井首相による所信表明演説が行われる。その中で、藤井首相は、来年中の労働基本法復活のための法律の成立を目指したいという考えを明らかにした。そのことに関して、国民の意見を広く拾うために、素案作成段階から国民に対する周知活動を行っていくということについても触れた。

 

 厚生労働省内部でも、労働基本法復活に関して、識者を交えた懇談会が頻繁に開催された。法案に関することであり、本来であれば労働政策審議会のような諮問機関に諮った上で内容を固めていくべきなのだが、一年前に施行された労働基本法廃止に関する法律自体が今の労働政策審議会の提言に基づいた内容であり、再度同じメンバーで審議することに異論が生じていた。
 さまざまな分野の識者を集め、日本の経済成長予測や国際的な労働力移入問題などを考慮しながら、望ましい法案内容についての検討が重ねられた。
 そんな中、厚生労働省が、労働基本法復活のための法案作成に向けた基本見解を発表した。今年も、残すところあと十日ほどに迫った慌ただしい時期だった。
 厚生労働省の見解は、以前の労働基本法に準じた内容での復活を目指すというものだった。ただし、経済界から寄せられた要望にも考慮して、残業や休日出勤をしたときに支払われる割増賃金の割増率や従業員に与える有給休暇の日数についての見直しを検討することも盛り込まれていた。
 来年一月に開会する通常国会の会期中に法案を提出したい考えでいるということだが、党の方針でもある国民の声を広く拾うということを充分に実行した上で法案を固めたいという見解も正式に発表された。国民の意見を拾う方法については、はっきりとしたことが決まり次第、周知に向けた発表を行うということだった。

 

 マスコミも、厚生労働省の発表を大々的に取り上げた。厚生労働省との懇談会に参加した識者たちのコメントも取り上げられる。どの識者も、口を揃えて、来年中の労働基本法復活に向けて、政府の並々ならぬ決意が感じられたというコメントを発表した。
 今回共明党が選挙に圧勝したのも、労働基本法復活を前面に打ち出したことにより労働者層から厚い支持を受けたからであり、政府の姿勢が強いのも当然のことだった。
 労働政策審議会の委員たちの中にも、手のひらを返したように労働基本法の復活が望まれるというコメントを寄せる者が現れた。労働者代表委員のメンバーだった。廃止に関する議論のときは、今後の国家成長を促すためには企業の競争力を強化することが不可欠であり、そのために企業の雇用政策の自由度を高めるための施策が必要だという見解に理解を示していたのだが、労働基本法廃止後に世の中で起こったことを冷静に振り返ったときに、その当時の見解が誤りだったことに気づいたという主張を口にした。国民が疲弊してしまったら元も子もないという論法を掲げた。
 これら各方面からの反応を受けて、世論にも、早い時期に労働基本法を復活させるべきだという論調が広がり始めた。

 

 世論の広がりが企業を動揺させた。
 その雰囲気を察した企業向けのコンサルタント会社が、さらに企業側の不安を煽りたてるような行動に出た。あたかも労働基本法の復活が決まったかのような言い方で、復活に備えた企業防衛策に関するセミナーやコンサルティングサービスを前面に打ち出した。
 企業側も、その流れに踊らされた。
 毎日のように、コンサルタント会社主催のセミナーが開催された。マイクを握ったコンサルタントが、労働基本法は間違いなく復活するだろうということを強調しながら、今ならやれる企業防衛策について力説する。セミナー参加者からの質問も飛び交い、どの会場も熱気に満ちあふれていた。
 これら世論の高まりを受けて、厚生労働省も、法案の第一次案作成に全力を挙げた。

 

第2節 企業防衛策

 

1.
 栄光産業株式会社社長の手島と取締役管理部長の石川も、コンサルタント会社主催のセミナーに参加していた。
 セミナー終了後会社に戻った二人は、社長室に籠り、コンサルタントからの提言を書き留めた資料を前にして話し合いを行った。
 「石川君。労働基本法が復活すると、うちにとって、なにが一番リスクだと思うかね?」
 「やはり、自由に解雇できなくなることでしょう。うちはモノを売ってナンボの会社ですから、結果を出せない社員が一人でもいると困ります。利益は生まないのに、雇っている間は賃金を支払い続けなければなりませんので」
 今まで何度も二人の間で交わされてきた考え方を石川が口にした。手島が満足そうに頷く。
 「同感だな。今日のセミナーでも、採用を積極的に行いながら使えない社員を早めに解雇していって労働基本法が復活した時点で使える社員だけが残っている状態にする対応も考えなければならないという話があったけど、うちも、そのように動いていく必要があるんだろうな」
 「おっしゃる通りだと思います」
 「問題は、使える使えないを、どうやって見極めるかだが……」
 「それは社長、今でもノルマ制を敷いているのですから、そこに残すか残さないかの基準を設ければよいのではないですか?」
 「たとえば、どのような基準だ?」
 手島が、石川に強い視線を向けた。
 眩しいものを見たときのように瞬きをした石川が、策を口にする。
 「二カ月連続でノルマ未達成だった場合、あるいは二カ月分合計したノルマの達成率が九十%未満であった場合は、その時点で辞めてもらうとかいうのはいかがですか? 労働基本法が復活するとしても一年かそこいらは先の話でしょうから、使える社員を選別するための時間は充分ありますよ。さらに、こういった基準をクリアーし続ける奴は、我が社にとって使える人間だと判断してもよいものと思います」
 「うむ……。そうかもしれないな。君の言う路線で行ってみるか。ちなみに、君のところの管理部の人間はどうするのかね? 全員、使える人間なのかね?」
 「そこもメスを入れなきゃならんでしょうな。おそらく、パート化を進めていくことになると思います」
 「わかった。ところで、残業代対策はどうするかね? どうやら、一日八時間を超えたら残業代を払わなければならないっていう決まりが復活しそうな雰囲気だが」
 「そこは社長、管理職を上手に利用すればよいのではないですか? 管理職は残業代を払わなくてもよいことになっていますから、管理職の数を増やせばよいのですよ」
 「増やすといっても、必ず部下は付けなければならないんだろう? 今だって、部下が多くて三人、中には一人も部下がいない課長もいるのに、管理職の数を増やすといっても限度があるのではないのかね?」
 「別に、部下は正社員でなくてもよいのですよ。課長の下にパート社員一人でもいいじゃないですか。
残業代を無くすことに関しては、管理職を増やすことと引き換えに一般社員には残業をさせない方向で話を進めなければほんとうの解決にはならないわけですから、思い切って正社員の数を減らしてパート社員を増やすことを検討してもよいと思うのです」
 「なるほどな」
 「とにかく社長、早急に対策を立てて、実行に移していきましょう」
 「わかった。やり方は君に任せるよ」
 手島と石川との間で、労働基本法復活に備えた対策を打つことが決められた。

 

 翌日、本村を含めた営業本部に所属する九人の課長が会議室に集められた。取締役管理部長の石川を囲むように、九人が席に着く。
 九人の顔を一通り見渡した石川が、口を開いた。
 「忙しいところご苦労さん。ところで、君たちに集まってもらったのは、部下の時間管理について協力してもらいたいことがあるからなんだよ」
 「……」
 「我が社はだな、総体的に社員の労働時間が長い。しかし、長時間労働は健康に良くないし、仕事の効率も落ちる。社長も私も、前々からそのことを危惧していた。それでだね、次のノルマ査定月から、一般社員は全員毎日定時で帰らせるようにしようと思うんだよ。これは決定事項だ。ついては、君たち課長に、部下の定時帰宅を徹底してもらいたいんだ。お客様の都合でどうしてもという場合は定時後の勤務も認めるが、それ以外は一般社員の定時後勤務は認めない」
 「ノルマはどうなるんですか?」一人の課長が質問した。
 「ノルマ?」
 「労働時間が減るのですから、その分、ノルマは減らされるのでしょうか?」
 「馬鹿言っちゃいかんよ。労働時間を減らした分みんなのノルマを減らしたら、たちまち我が社は赤字になるじゃないか。とりあえず見直しは掛けるけど、そう大きくは変わらないと思っていてくれ」
 「しかし管理部長、今だってノルマを達成できない人間がかなりいるんです。それなのに労働時間を減らしたら、ノルマを達成できない人間がもっと増えるのではないですか?」
 「時間があるから数字が上がるわけではないだろう。要らないところに時間をかけずに効率よく仕事をすれば、ノルマは達成できるはずだ。それを指導するのが君たちの役目じゃないか!」
 「そうですが……」
 「あのぉ」遠慮がちに本村が手を上げた。
 「なんだね?」石川の視線が本村に注がれた。
 「今の話は、新人にも適用されるのでしょうか? 新人は仕事に慣れていないため、多少猶予いただいたほうがよいと思うのですが」
 現在、本村の下には一人の新人が付いていた。本村は新人を育てるために、仕事に慣れさせながら営業技術を教え込んでいくつもりでいた。そのため、上司の部長に対して、最初の二、三カ月はノルマを下げてもらえるように相談するつもりでいた。
 しかし、その思いは会社には通じなかった。にべのない表情で、石川が言葉を返す。
 「新人と言ったって、中途採用で入社してきた人間だろう? いわゆる即戦力だ。だから、新人であっても特別扱いはしない」
 「そうですか……」本村は不満だったが反論はしなかった。言っても無駄な雰囲気が漂っていた。

 

 突然の定時帰宅命令に、部下たちの間に戸惑いが広がった。
 部下たちは、ノルマを達成するために汲々としていた。定時まではフルに客先への営業訪問に時間を割き、定時後に帰社した後に事務処理の仕事をこなす。数字を上げるために営業エリアを拡大した者も多く、営業先から帰社するまでの移動時間も長時間化していた。
 それなのに、定時までにすべての仕事を終わらせろという指令だった。石川曰くノルマの見直しを行ったということだが、実際は、今までとほとんど変わらない数字が部下たちの肩に重くのしかかっていた。このままではノルマを達成できないと考え、朝早く出社して仕事をする者も現れたが、石川に見つかり咎められた。
 ノルマ未達成者が続出した。
 本村も、新しく入社してきた部下の教育をする余裕が無くなった。部下は定時以降の勤務ができないため、教育に費やす時間が惜しかった。課のノルマを達成できなければ、自分の給料が減らされてしまう。
 本村は、営業に必要な顧客情報や商品知識を詰め込みで教えた上で、新人の部下を営業の舞台に送り出した。

 

 一般社員の残業が禁止されてから二カ月が経過した。
 本村の奮闘で課のノルマはギリギリ達成できたが、新しく本村の下に配置された部下は、いずれの月もノルマを達成できなかった。
 二回目のノルマ査定期間が終了した日の翌日、その部下は、能力不足という理由で解雇された。
 解雇と入れ替わりに、新しい部下が本村のもとに配属された。営業経験者だった。
 その部下は、初出社の日の午前中に顧客情報や商品知識について学び、午後から営業の舞台に飛び出していった。

 

 最近の本村は疲れていた。部下の労働時間が減らされた分、課のノルマを達成するために自分が頑張らなければならない。毎日のように帰宅時間が深夜になり、慢性的な寝不足感に襲われていた。
 あるとき、本村は会社帰りに、同じ部内の課長と酒を飲んだ。その日は、珍しく立て続けに仕事が取れたため早めに家に帰ろうとしたのだが、「軽く一杯やらないか?」と誘われ、付きあうことにした。
 会社を出た二人は、駅前の立ち飲み屋に入った。惣菜とカップ酒を注文する。
 舐めるように酒を口にした相手の課長が、本村に語りかけてきた。
 「なぁ、本村。一般社員の定時帰宅って、会社の陰謀だってことを知っていたか?」
 「陰謀?」
 「そうだよ。社員の健康だとか仕事の効率だとか綺麗ごとを言っているけど、あれは、労働基本法が復活したときのための会社の防衛策なんだぜ」その課長は、会社が残業代を逃れるために、一般社員の残業をゼロにし、その分のしわ寄せを残業代を払わなくてもよい管理職者に負担させる考えでいることや、労働基本法が復活すると自由に解雇できなくなるため今のうちに採用と解雇を繰り返しながら社員をふるいにかけていることを口にした。
 「なんで、君がそんなことを知っているんだよ?」
 「北島から聞いたんだ。社長と石川さんが話し合って決めたんだってよ」
 北島とは、石川の下にいる総務課長のことだった。
 本村は、憤りを感じた。
 「なんて身勝手な奴らなんだ!」
 「仕方がないよ。会社も、生き延びるために必死なんだろうからさ。労働基本法が復活するなんて話がなければ、こんなことにはならなかったんだろうけど……。前に、よく社長がぼやいていたもんな。いくら利益を出しても残業代で食われるってさ」
 「まだ、労働基本法が復活するって決まったわけじゃないんだろう?」
 「でも、新聞とかを見ていると、どうやら本決まりらしいぜ」
 「本決まりか……」ため息をつきながら、本村は、頭の中に中山と新山の姿を思い浮かべた。
 ここ最近は忙しくて連絡を取っていなかったが、あの二人は労働基本法復活のことをどう考えているのだろうか。本村は、従来型の内容で復活することには違和感を覚えていた。現に、そのような話が世間に広がったために企業が防衛策を施している。
 「彼らと会いたいな……」本村は、無性に二人と会いたくなった。

 

2.
 新山は、ブログを更新するためにパソコンに向かっていた。
 今でも、二日に一度ほどの割合でブログを更新していた。日常での出来事や感銘を受けたことなど、思い思いの言葉をブログ上に綴る。
 中山と本村との三人で労働基本法復活に関する意見書を作成し、共明党に送ったことについても書き込んだ。
 意見書に対して、共明党からの反応はなかったが、インターネット上からの反応はあった。
 以前、中山や本村と交わした会話の内容を書き込んだときに否定的な反応がたくさん返ってきたことに懲りて、労働者保護ありきではないという視点で意見書を作成したということには触れなかったが、新山のような一般の女性が政府に対して意見をしたということがインパクトを与えたのか、今までにない数のメールが新山の下に届いた。
 メールの大半は、労働基本法復活の話が出始めてから会社の態度が変わったという内容だった。中でも、正社員からパート社員への雇用形態変更を言い渡されたという話や解雇される人が増えたという話が多かった。
 新山は、送られてくるメールを読みながら、労働基本法復活を見越して企業側がなんらかの手を打ち始めているのだろうと感じていた。

 

 そしてついに、労働基本法復活の機運が高まってきたことによる影響が、新山自身にも及んだ。
 あるとき、出勤してきた新山たち従業員に対して、始業時刻の変更についてというタイトルが付けられたアンケート用紙が配られた。アンケートには、現在の午前九時の始業時刻を今年の十月から早めたいということが書かれており、示された何通りかの変更後の始業時刻案の中から対応可能な時刻に丸をしろという指示もされていた。
 新山は、終業時刻が早まるのは歓迎だった。そのほうが、仕事が終わったあとにいろいろな活動ができる。
 しかし、社内には反対意見のほうが多かった。新山の周囲にも、突然の方針に戸惑いの色を隠せない従業員が多くいた。
 その日の昼休み、新山は経理部門の人間と連れ立ってランチを食べに行った。いつもはコンビニで買った弁当を社内で女性社員たちと一緒に食べていたが、今日は経理部門のベテラン男性社員が新山たち女性社員をランチに誘ってきた。
 男性二人と女性五人のグループで食事処に向かう。
 七人の間に、今朝配られたアンケートの話題が広がった。
 女性社員の一人が、食事を誘ってきたベテラン男性社員に対して会社の意図を質問した。それに対して、ベテラン男性社員が、思ってもみなかった言葉を口にした。
 「たぶんね、労働基本法対策だと思うよ」
 「労働基本法対策ですか?」
 「うん。あの法律が復活すると、残業代やらなんやらをきっちりと計算して払わなければならなくなるだろう? たぶんオレが思うにはだけどね、深夜の割増賃金対策だと思うんだよ。オレたちの仕事は、月末や決算期になると深夜に及ぶことがあたり前になるだろう? パートさんは基本的にはないけど、オレたち正社員はしょっちゅうだからな」
 「深夜って、何時からのことですか?」
 「夜の十時以降のことだよ。前の労働基本法では、夜の十時以降は、割増賃金を支払わなければならなかったんだ」
 「そうなんですか」
 「それでさぁ、始業時刻を前倒ししちゃえば、割増賃金の負担が軽くなるってわけだよ」
 「それじゃ、かなり前倒しするつもりなんですかね?」
 「どうしよう。朝六時出社とかになったら。絶対に無理よ」
 「六時はないんじゃない? そんな時間に来られる人、ほとんどいないもの。早くても七時とか」
 「七時もきついな。せめて八時くらいにしてほしいな」
 「いずれにしても、十月から変わるんでしょ?」
 「もう決まっているみたいな感じだしね」
 「これ以外にも、なにか変化が起こるのかな?」
 「オレは、残業代の見直し策も打ってくるような気がするな」ベテラン男性社員が口にした。
 「残業代の見直し策ってなんだろう?」女性社員たちが不安げな表情を浮かべる。
 その日のランチは、これから起こる変化を推理する話題で持ちきりとなった。

 

 ベテラン男性社員が口にした残業代の見直し策の実施が現実のものとなった。会社が、第二弾の労働基本法対策を打ってきた。
 ある日、定時終了後にパート社員全員が会議室に集められた。
 集まったパート社員に対して資料が配られる。資料の一枚目には、『パート社員の正社員登用と勤務時間の見直しについて』というタイトルが記されていた。
 パート社員たちと向かいあうように、総務部長を始めとした総務部門の人間が席に着いた。総務部長が、一つ咳ばらいをした後に口を開く。
 「本日はですね、十月からパート社員の勤務体系の見直しを行いたいと思っていまして、そのことをお伝えするために集まってもらいました。詳しいことは資料に書かせてもらっていますが、とりあえず概略を私から説明させてもらいます」そう言うと、総務部長は説明を始めた。
 話は、パート社員を、始業時刻から終業時刻までの勤務の人間と終業時刻からその日の業務終了までの勤務の人間に振り分けたいという内容だった。当然のことながら、後者の場合は、その日の労働時間は不確定になる。不公平感を無くすために、ローテーション制にするということだった。
 同時に、若干の正社員登用枠を設けるということも総務部長は口にした。しかしその言葉は、パート社員たちの不安を治める役には立たなかった。
 質疑応答の時間になり、パート社員たちからの質問が飛び交った。
 「ローテーションは、どのようにして決めるのですか?」
 「終業時刻からスタートの日は、平均して何時間くらい働けるのですか?」
 「正社員登用の枠って何人くらいなんですか?」
 次々と来る質問に対して、総務部長が一つ一つ丁寧に答える。
 新山も質問に立った。
 「あの、そもそも会社は、なんでこのようなことをしようと考えたのですか?」
 新山の質問に、総務部長の言葉が止まった。総務部門の人間たちの間に気まずい空気が広がる。
 しばらくの後、総務部長が口を開いた。
 「まあ、正直に言いますとね、残業代コストを適正化するための対策です。うちはパートさんにはあまり残業をさせていませんが、正社員の残業が多いですからね。それは健康上も良くないですし、パートさんの勤務時間帯を分けることで、正社員の残業を少なくすることができますのでね」
 「それって、労働基本法対策ですか?」
 「……まあ、そう解釈してもらっても構いませんよ」
 「やっぱり……」新山は心の中で呟いた。
 ブログ来訪者からもらうメールなどで労働基本法対策が横行し始めているということは感じていたが、ついに自分のところにも火の粉が飛んできた。
 新山は、パート社員の勤務体系が大幅に変更されることがどうこうということよりも、先手必勝のような感覚で規制に対して手を打つ動きが活発化していることが悲しかった。そこには、労働基本法復活の動きを、どのように会社と従業員とのハッピーストーリーに結び付けるかといったような発想は一切存在しない。
 労働基本法が復活することに対しては賛成だが、内容は以前のものを根本的に見直す必要があるのではないかと新山は感じていた。

 

3.
 中山は、社会保険労務士の小林の力も借りながら、管理職者を対象とした会社の業績で決まる賃金制度を作り上げた。我ながら、良い制度であると感じていた。この制度を取り入れたならば、管理職者に関しては、会社の業績に比例した賃金支出を実現できる。
 小林からは、この制度を取り入れるのであれば、対象となる管理職者に対して会社の情報を極力開示した上で権限を与えることが必要だという助言も受けていた。この助言に対しては異論がない。
 中山は、会社と従業員が、仕事を通じて共にハッピーになれることが理想だと考えていた。
 彼にとってのハッピーは、会社の業績が良くなり、会社が大きくなることだ。
 従業員も、それぞれ目指すものがあるはずだが、そのために収入アップは必要だろう。それを自分のヤル気と努力で実現できるのであれば、従業員にとって幸せなのではないだろうか。
 中山は、そう考えていた。
 労働基本法廃止のときは、自分自身も踊らされて、その結果貴重な人材を失った。しかし、そのおかげで、会社と従業員が仕事を通じて共にハッピーになることを真剣に考えるようになった。いずれ労働基本法が復活しそうな雲行きだが、今回のことは、そのことを見越した上で、みんながハッピーになれるためにはどうしたらよいのかを考えた末での結論だった。
 中山には、管理職者の理解を得られる自信があった。

 

 しかし、世の中には中山のような前向きな捉え方をしていない会社のほうが多かった。
 あるとき中山は、自動車業界の経営者が集まる会合に参加した。
 定刻通りに会合は終了し、場所を変えて懇親会が開かれた。三月に入ったというのに、季節外れの寒波が首都圏を襲っていた。小雪が舞い、突き刺すような寒風が道行く人の体に吹き付ける。参加者たちは、身体を縮こませながら宴席に着いた。
 会場内に料理とお酒が運ばれてきた。短い乾杯の挨拶の後、参加者たちは、グラスを手に自由に席を移動した。
 中山のもとに一人の男がやってきて、隣に座った。自動車部品工場を経営する浜村だった。自分と同じ二代目社長で歳も一つ違いの浜村に対して、中山は親しみを覚えていた。
 二人の間で会話が弾んだ。浜村と会話をするときは、いつも業界内の情報交換から始まり、政治経済のホットな話題からスポーツやバラエティ系の話題へと移り変わっていた。
 今日も、業界情報から政治経済へと話が進んだ。しかし、スポーツやバラエティ系の話には進まなかった。浜村が、労働基本法対策の話題を口にしてきたからだ。
 「なあ。中山さんのところは、なにか労働基本法対策をしたの?」
 「少しだけね」中山は浜村に対して、管理職者向けの新しい賃金制度を作ったことを口にした。まだ管理職者たちとは話をしていないが、必ずわかってもらえるはずだという自信を持っていた。
 浜村が、感心したような表情で話に聞き入る。
 「浜村さんのところは、なにかやったの?」一通り話し終えた中山は、浜村に問いかけた。
 「中山さんのところみたいな前向きな話じゃないけど、一つだけね」
 「なにをしたの?」
 「何人かの正社員の人に、パートになってもらえないかという相談を持ちかけたんだ。労働基本法が復活して残業代をきっちり払わなければならなくなったら、一気に人件費が増えるだろう? やっとこさなんとか食べていけるだけの水準に人件費を持っていったのに、また前みたいな決まりが出来たら、うちはいっぺんに苦しくなるからね」
 「そうなのか……。それで、話を持ちかけた社員さんは、納得してくれそうなのか?」
 「まだお互い合意はしていないけど。でも、労働基本法が復活するんだったら、そうしないとうちはやっていけないから、最悪折り合わなかったら辞めてもらって、新しくパートの人を雇うよ」
 「仕方がないんだろうな……」
 中山は、以前自分が取った行動を思い返していた。リストラをしない代わりに給料支払いの仕組みを大幅に変えたところ、一度に十人もの従業員が辞めていった。
 もしあのとき従業員が一人も辞めていなかったら、もしかしたら今頃は浜村と同じような対策を考えていたかもしれないと思った中山の背筋に、寒気が通り過ぎた。
 浜村が話を続ける。
 「それと、頭が痛いのは有給休暇だよ。正直に言って、有給休暇をたくさん使われるのって、しんどくないか?」
 「まぁな」
 「パートにしたらさぁ、有給休暇の日数は減るんだよ。そういう意味でも、一部の正社員をパート化しようと考えたんだ」
 「そうか、有給休暇も復活するんだなぁ」中山は、有給休暇を使ったときに支払う給料を減額したときのことを思い返していた。そのことが原因で、一部の優秀な女性社員が退職してしまった。中山にとって苦い思い出だった。
 しかし、今の中山には、従業員の有給休暇を苦に思う気持ちなど微塵もない。みんなの心が一つになれるのであれば、有給休暇を使われることなど小さなことだ。
 中山は、一人頷いた。
 そのとき、そばにいた参加者が二人の会話に割り込んできた。
 「私のところも、有給休暇対策を考えていますよ」
 「どんな対策ですか?」浜村が聞き返す。
 「大きな声じゃ言えませんがね。労働基本法が復活するのなら、復活前に給料の引き下げをしておこうかと思うんですよ。うちの従業員は、じゃんじゃん有給休暇を使う奴ばかりでしてね。まぁ、権利ですからダメとは言えないわけですが、それなら最初から有給休暇を使われる分給料を下げておけば、結果有給休暇を使われても、働かない分の給料を控除したことと同じになるでしょ」
 「なるほどねぇ」浜村が、感心したような表情を浮かべた。
 中山も作り笑顔で対応したが、胸の中でくだらない話だと一蹴した。人件費のことだけを考えればその男の言うことにも一理あるが、それは会社の利益だけを一方的に追及する考えであり、従業員の理解を得られるとはとうてい思えない。本村や新山と議論した、従業員保護ありきの考えだけでは良くならないということの裏返しであり、規制対策のために従業員に対して不利益なことを押し付けるだけではなんの解決にもならないだろう。
 中山の胸の中に、空しい思いが広がった。

 

 宴会が終了した。
 二次会に誘われたが、中山は断った。小雪のちらつく中、駅に向かって歩みを進める。
 中山の脳裏に、本村と新山の顔が思い浮かんできた。あの二人とは、メールのやり取りはしているが、昨年の十二月に会ったきりだ。
 中山は、無性に二人に会いたくなった。
 共明党に出した意見書も、あれからなんの返事も返ってきていない。
 「このまま梨の礫で終わってしまうのも釈然としないな。共明党も国民の意見を聞く気があると言っているし、労働基本法の復活に関して、再度三人で意見をぶつけてみてもよいかもしれないな」そう考えた中山は、社会保険労務士の小林を二人に紹介することを思い立った。
 小林も、労働基本法を復活させることに対しては賛成だが、内容は抜本的に見直す必要があるという考えを口にしている。
 中山は、小林と本村、新山の三人に連絡を取ることにした。

 

第3節 理想の追求

 

1.
 中山の呼びかけで、小林を含めた四人が集まることになった。場所は、中山が本村、新山と初めて顔を合わせたときのホテルの展望レストランだった。
 小林と本村、新山は、初対面の挨拶を交わした。中山を通じて、小林が労働基本法復活に関して自分たちと同じような考えを持っていることを聞かされていた本村と新山は、親しみのこもった目で小林のことを迎え入れた。
 テーブルに料理と酒が運ばれ、四人は会話を楽しんだ。中山は、三人が知り合ったきっかけや共明党に意見書を送付したことについて改めて小林に説明した。小林も、楽しそうに中山の話に聞き入った。
 「そのような出会いって、素敵ですね。お三方は縁があったのですよ。私も、こうして仲間に入れていただいたのも縁だと思いますので、どうか今後ともよろしくお願いします」小林の飾らない言葉に対して、本村と新山も「よろしくお願いします」と言葉を返した。
 「ところで、本村さんと新山さんは、社会保険労務士って知っていましたか?」中山が本村と新山に問いかける。
 「名前は知っていますよ。人事労務の専門家ですよね?」
 「私の会社にも社会保険労務士の先生が出入りしていますよ。人が入ったり辞めたりしたときの手続きとかをされておられるのですよね?」
 本村と新山も、社会保険労務士の存在は知っていた。
 小林が、二人に向かって社会保険労務士の仕事内容を説明する。労働基本法が廃止されて以来、労務コンサルティング的な相談が増えてきたことも口にした。
 「へぇ、そういうこともされておられるのですか」
 「社長さんたちに指導するなんて、すごいですね!」
 二人が、労務コンサルティングという言葉に反応する。
 「指導というと偉そうに聞こえてしまいますが、悩みをお聞きして、一緒に考えて、その上で意見を差し上げるだけのことですよ」小林が謙遜した。
 「中山さんも、小林先生のコンサルティングを受けたんですよね?」
 「はい、もう何度も何度も指導していただきました!」
 中山の指導という言葉を強調した言葉に、四人の間に笑いが広がった。

 

 四人による会話が弾んだ。小林と本村、新山が初対面の挨拶を交わしあってからほんの一時間ほどしか時間は経過していなかったが、すでに四人は旧知の仲のように打ち解けていた。お互いの身の回りの出来事や仕事上の話などを気軽に口にしあっていた。
 最初に注文した料理が無くなり、四人は追加の料理を注文した。それぞれが酒も口にする。
 話のタイミングを見計らった中山が、この場に小林を連れてきたことの趣旨を口にした。
 「ところで、あれから共明党からはなにも返事が返ってきてないんだけど、労働基本法を復活させるって宣言したんだから、もう一度ボクたちで意見してみたらどうかなと思っているんですよ。なんだか今の流れを見ていると、ほとんど前の内容と変わらない状態で復活しそうな感じだけど、でもそれってよくないよねってボクたち三人で何回も話し合ったでしょう。だから、本村さんや新山さんが協力してくれるのなら、ボクは、もう一度共明党に働きかけてみたいと思っているんですよ。そして、働きかけを行うんだったら専門家の力も借りたほうがよいのかなと思って、小林先生を紹介したんです」
 その言葉に、本村と新山が賛同したことを示すように頷く。
 「ボクも気にはなっていたんですよ。三人で真剣に考えて意見書を作ったのに、返事が返ってこないっからって、そのままほったらかしにしておくのはどうなのかなとね」
 「私も、ずっと気になっていました。労働基本法が以前の内容で復活するっていう話が広まり出してから、企業側が防衛策と称していろいろなことをやっているという話を耳にしますし。現に、私の会社でもとんでもないことが起こりました」新山は、会社が突然始業時刻を早めることやパート社員の勤務体系を変えると宣言したことを語った。
 本村も、会社が採用と解雇を頻繁に繰り返していることを口にする。
 中山も、同業者から聞いた正社員のパートへの切り替えや有給休暇対策のために賃金を減額しようとする動きがあることを三人に語った。
 「このまま行くと、このような動きが全国で加速していくと思うんですよ。だからそうならないように、国に対して、会社と従業員が共栄共存していけるような内容で復活させるように働きかけるべきですよ」中山が、再び三人に呼びかける。
 そのことついて、新山が小林に意見を求めた。
 「私も、みなさんと同じ意見ですね。私も仕事柄いろいろな会社さんの対応を目にしていますけど、先ほどみなさんがおっしゃったような後ろ向きな対応を始めている会社がたくさんあります。やっぱり、以前の内容に準じて労働基本法を復活させるのはよくないですね」
 「国に働きかけるとしてですけど、具体的にどうしていったらいいのですか?」本村が、国に対する働きかけ方について小林に問いかけた。
 「法律というのは、何段階もの過程を経て作られているのですよ」
 小林の説明によると、法律は、各省庁が第一次案を作成し、関係省庁との調整を経てまとまった原案を国が形式について審査し、その後閣議決定を経て国会審議に回され、そこで可決されれば成立するということだった。
 「閣議決定段階に入ってしまうと我々一般人が意見するのは難しくなりますから、意見するとしたら、その前段階ですね。一番よいのは、関係省庁が原案を作成している段階で意見をすることだと思いますよ」
 「ということは、労働基本法の場合、厚生労働省が原案を作るはずですが、その原案が固まりきる前を狙えばよいのですね」
 「ちなみに、労働基本法の法案作りって、現在どの程度まで進んでいるのですか?」
 新山が、小林に確認した。
 記憶を引きずり出すように視線を上に向けた小林が、言葉を返す。
 「たしか、この間社会保険労務士会を通じて第一次案の内容が固まったという連絡が来ていました。これから関係省庁との調整に入るのでしょうから、原案が出来上がるまで、あと一、二カ月位じゃないですかね」
 「あんまり時間がないですね」
 本村がため息をついた。
 「国民の意見を拾う窓口って、公表されていますか?」
 中山が、小林に向かって確認する。
 「正式な発表はないですけど、政策企画調整本部が窓口になるみたいですよ」
 「ボクたちが意見書を送った先だ」
 「省庁がまとめた原案が国の審査を経た上で閣議決定に回されるっていうことですけど、省庁がまとめた原案を大臣クラスがごろっと覆すってことはあるのですか?」
 「内容にもよりますけど、基本的に覆されることはないでしょうね。もともと法案を出す省庁のトップは大臣が務めているわけですし、省庁レベルでの調整も済んでいるわけですからね」
 「ということは、原案を作る省庁に私たちの主張が聞いてもらえればいいのですね」
 「小林先生は、私たちの主張が受け入れられると思いますか?」
 「充分可能性はあると思っていますよ。現実問題、以前の内容で労働基本法が復活しそうだという話が広がり出してから世の中でどのようなことが起こっているのかを説明すれば、理解してもらえますよ。企業の競争力をつけるために時代に即さない規制は無くすべきだという考え方は共明党も同じですし、労働者の利益になるような政策も心掛けているはずですからね」
 「ということは、これからやるべきことは、ボクたちが考える労働基本法復活の形というものをはっきりさせた上で、それに対する周りの人たちの意見を聴きながら見解をまとめていくことなんだな」
 中山の言葉に、本村、新山、小林が一斉に頷いた。

 

2.
 「そもそも、従来型の労働基本法が復活してしまうと、どのような弊害が生まれるのですかね?」本村が三人に問いかけた。
 「そりゃ、今世の中で起きていることを見れば明らかじゃないですか? 近い将来コストが増えたり自由に解雇できなくなることを嫌って、今のうちにクビを切ったり賃金を下げたり正社員をパート化したりする会社が多いじゃないですか!」中山が、声を大きくした。
 「つまり、企業が雇用に対して消極的になってしまうってことよね」新山が頷く。
 「雇用に関する規制が復活することはリスクが増えることだと考えるだろうからね」
 「でも、それって企業側だけの論理でしょ。国に意見するんだったら、労働者側にも不利益があるってことを言わないと聞いてもらえないんじゃないかしら。なんせ、共明党は労働者寄りの政党だし」
 「たしかにそうだな」
 「小林先生はどう思われますか? このまま従来型の労働基本法が復活してしまうと、労働者側には、どのような不利益が生じますかね?」中山が、小林に視線を向けた。
 「そうですね、確実に言えることは、所得が下がるでしょうね。今でも起こっていますが、従来型の内容で復活させるっていうアナウンスをしてしまうと、復活までの間に人件費コストを最小化させようという動きが加速します。でも、一度下げた賃金は簡単には上がりませんから、従来型の労働基本法を復活させることで、労働者側の平均所得は間違いなく下がるでしょうね」
 「なるほど」
 「それもあるでしょうけれども、ボクは、もっと大きな不利益があると思っていますよ」本村が発言に力を込めた。
 三人の視線が本村に集まる。
 「ボクは、働きがいが奪われると思っているんですよ。従来型の内容で復活すると、解雇しづらくなるから企業側が雇用することに消極的になる。そうなると、雇われる側もいったん職を失うと再就職しづらくなるから安定を図ろうとする。そんな風になってくると、個人の個性や考え方に基づいた働き方をすることができなくなりますよね? 企業側は必要最小限の雇用で済ませようと必死になるし、雇われる側もクビを切られないように汲々とするだろうから」
 「私、本村さんが言われていること、よくわかります。これからますます厳しい時代になって行くわけですから、企業側もリスクを避けることに一生懸命になるでしょうし、そうなると試しに雇ってみようなんていうのも無くなってきちゃいますものね」
 新山が、本村の意見を後押しした。小林も中山も頷く。
 「ということは、どういう形で労働基本法を復活するのが一番よいのかな?」
 中山の問いかけに、三人が考え込んだ。中山も、頭の中で考えを巡らせた。
 ややあって、小林が口を開いた。
 「根本的な話としては、一律に雇用ルールの規制を設けるというところがまずいんだと思いますよ。一律の規制をかけようとするから、雇う側も雇用全体で手を打とうとするわけだし、そうなることが雇われる側全体に影響を及ぼすわけだから。一昔前のみんなで中流を目指そうという時代だったら、一律の規制を設けてみんなの雇用や最低限の雇用条件を守ろうという考え方は合っていたと思うんですけど、世界を相手に戦っていく時代では、独自のカラーを打ち出して独自のやり方でやって行かなければならないですから、一律の規制はそぐわないと思いますけどね」
 「そうですよね。そこが、根本的な部分かもしれませんね」
 「そうなると、どういう形に変えていくのが望ましいのでしょうかね?」
 「一律じゃないんだったら個人ごとってことになるのですから、ちゃんとした雇用契約を交わして、それが守られるようにしていけばよいのではないですか?」
 「つまり、雇用契約に関するルールをきっちり作ればいいってことですか?」
 「ええ」
 「でもそれって、以前そんな法律ありませんでしたっけ? たしか、労働基本法が廃止になったときにセットで廃止になった法律があったような気がするのですが」新山が小首をかしげた。
 すかさず、小林が法律名を口にする。
 「雇用契約法じゃないですか?」
 「そうそう、そんなような名前の法律です」
 「たしかにあったのですけどね。ただあれは概念的な話だけで罰則もなくて、言ってみれば企業側にこういうことに気をつけて雇用契約を交わしてくださいよ、というだけのものでした。私が言っているのは、雇用契約書をベースにして一人一人の雇用ルールを決めた上で、企業側がそれを守っていくための基本的な規制を作ったらどうかなということなのです」小林の眼に力がこもった。
 大きく頷いた中山が、すかさず言葉を返す。
 「つまり、雇用ルール全般に関して一律に規制する的な内容は止めて、雇用契約に関して必ず守るべきことをルール化した内容に特化して、労働基本法を復活したらいいんじゃないかということですね」
 「そういうことです」
 一律からの脱却を主張する小林の発想を、三人は、それぞれの頭の中で解釈した。
 「そういうことなんだろうね……」、「私も、その方向がいいと思うな」小林の考えに同調した本村と新山が呟く。
 こうして、労働基本法を復活させるのであれば、雇用契約ルールに特化した内容で復活させるのが望ましいという見解が、四人の間でまとまった。
 「それじゃ、我々で一律からの脱却タイプの内容を考えて、国に意見しますか!」中山が、全員の顔を見回した。
 「でも、この考え方って、世間の人たちに通用するのかしら?」
 新山の発言に、三人は顔を見合わせた。
 中山が、発言の真意を問う。
 「通用するとは?」
 「私たちは最初から労働者保護ありきではいけないという考え方で議論してきましたけど、世の中にはそうじゃない考え方の人のほうが多いわけでしょ? 中山さんや本村さんと議論したときの話をブログに乗せたときにも、否定的な意見ばかり返ってきましたし」
 新山は、意に反して否定的な意見が数多く寄せられたときのことを思い返していた。今さらながらに、悲しい思いが胸中に込み上げてきた。
 新山の発言に対して、小林がフォローの言葉を口にする。
 「そのときは、ただ労働者保護ありきではいけないという考えを示しただけだからではないですか?雇用契約ルールに特化した内容で復活させることで、会社側と労働者側双方にメリットが生じますよ
ということをきちんと伝えれば、理解する人もたくさんいると思いますけどね」
 「メリットというのは、会社側にとってみれば積極的な雇用が行えるってことで、労働者側にとってみれば働きがいを得られやすくなることと雇用機会そのものが増えるということですよね?」
 「そういうことになりますね」
 「国に意見する内容をまとめるために、みんなで周りの人の意見を聞いてみましょうか?」
 「そうする必要があると思いますね」
 四人が協力して、世の中の人間が雇用契約ルールに特化した内容で労働基本法を復活させるということをどのように受け止めるのかを調べることになった。
 小林は顧問先企業の人間や社会保険労務士仲間に対して、中山は同業者仲間に対して、本村は同僚に対して、新山はブログを通じて接触できる不特定多数の人間に対して、それぞれ意見を聞いてみることになった。さまざまな立場の人間から意見を集めることを意識した分担だった。
 それをやった上で国に対する意見内容をまとめていくということで、四人の考えが一致した。

 

3.
 世の中の人間の意見を集めるための行動が進められた。
 小林は、顧問先企業の経営者や社会保険労務士仲間に四人の考えをぶつけ、意見を聴いた。
 経営者たちの反応は、一部の人間からは雇用契約を管理するのが大変だという声が聞かれたものの、概ね好意的な意見が寄せられた。事前の予想通り、雇用全般に関する一律の規制が経営の足を引っ張っているというのが経営者たちの共通した見解だった。
 社会保険労務士仲間からの反応は真っ二つに割れた。時代に即した規制の在り方という視点で理解を示す者もいれば、格差の拡大を招くことを懸念するという視点で否定的な見解を示す者もいた。
 中山の同業者からは、四人の考えを否定する意見は一切聞かれなかった。雇用契約の管理ということに関してイメージが湧かないという同業者が何人かいたものの、雇用全般に関して一律に規制を設けることは止めてほしいというのが共通した意見だった。
 本村の同僚からは、好意的な見解は返ってこなかった。
 雇用全般に関する一律の規制が働きがいを奪うという考え方に対して理解を示す者はいたものの、口を揃えて会社にとって都合の良い雇用契約が一方的に作られるだけだという意見を口にした。自己主張をすれば雇ってもらえなくなる、会社側が雇用契約の内容を守るとは思えないという意見も寄せられた。 同僚たちには、以前義務として雇用契約書が存在していた時代に、会社側から一方的に条件を提示され、蓋を開けてみると条件通りの処遇が与えられなかったときのイメージが強く残っていた。
 新山のブログにもたくさんの意見が寄せられた。若者からの意見が大半で、好意的な意見が多かった。個人ごとの契約ですべての条件が決まり雇用機会も拡大することより、世の中に自分のことをアピールするチャンスが広がるはずだという主張に共感を持たれた。雇用契約の中で決めるべき内容についての意見を寄せてくる人間もいた。
 しかしながら、好意的な意見を寄せてきた人間の大半が、会社側が雇用契約の内容をちゃんと守るかどうかがポイントだと主張した。

 

 四人が、集まった意見を持ち寄った。経営者や管理職者、若年労働者、専門家など、立場の異なる人たちから意見が集まったことに四人が感嘆する。
 集めた意見を整理した四人は、どのような内容で国に意見するかということについての議論を行った。
 否定的な意見の根拠は、会社と対等な立場で雇用契約を結ぶことが難しいということと処遇の格差が拡大するということに集約され、懸念する材料として、会社側が雇用契約内容をちゃんと守るのかということと雇用契約の管理が大変だということが挙げられていた。
 「対等な立場で雇用契約を結ぶことが難しいということに関してだけど、会社が提示した契約内容に納得できないのだったら、その会社は諦めて他の会社を当たれば済む話なんじゃないのかな」中山が考えを口にした。
 「そういうケースは問題ないんだろうけれども、自分に合った会社に働けるとなったときに、自分のほうから契約条件をあれこれ言うと雇ってもらえなくなるっていうケースが問題なんでしょ?」
 「でも、会社からしてみれば、ほんとうに欲しい人材だったら条件を主張されても話し合いに応じるはずだし、逆に話し合いに応じてくれない会社なら、そもそも働きがいが得られないのじゃないかしら。要するに、この話は個人の姿勢の問題だと思うけど」
 本村と新山も、自らの考えをぶつけた。
 「おっしゃる通りでしょうね。対等な立場で契約ができるかどうかについては、法律の規制によって実現される話とは違いますからね」
 小林の発言により、対等な立場で契約を結ぶということに関しては、個人の判断に任せるしかないという考えが四人の間でまとまった。
 「そのことよりも、処遇格差拡大のほうが問題ね。小林先生、これって所得格差のことですよね?」
 「そういう意味です」
 「これに関しては、お金に関するルールを作ればいいんじゃないかしら」
 新山の意見に三人が賛成した。
 「会社側が、雇用契約書の内容をちゃんと守るかどうかっていうところが一番肝心ですね」本村が言葉をつなげた。
 新山が「そうそう」と頷く。
 二人とも労働者側の立場にいる人間たちから意見を集めており、多くの人が口にした懸念材料だったことを思い出した。
 「たしかに、雇われる側から見れば、それが一番心配だろうなぁ」中山も、二人の言葉に同調した。
 「この話に関しては、前の労働基本法でも決められていましたけど、書面の雇用契約書の作成を企業側に義務付けるというところから入らなければなりませんね」と小林が口にし、それに対して、本村と新山が「守らない会社に対しては、法律で罰則を与えることが必要ですね」、「契約書なんだから、当事者双方の署名と押印も義務付けたらどうかしら」と意見を口にする。
 さらに、中山が意見を重ねた。
 「守らない会社を取り締まるんだったら、守ってもらえなかった労働者が相談するための機関を設ける必要があるのではないですか? そこに権限を持たせて、守らなかった会社に罰則を与えるという形がいいと思いますけどね」
 「賛成です!」新山が声を上げた。
 「それだったら、一人一人の雇用契約書を、違反を取り締まる機関に提出することを義務付けたらどうですかね? たしか、以前就業規則の作成が義務付けられていたときも、どこでしたっけ? どこかの機関に提出しなければならなかったですよね?」
 「労働基準監督署です」中山の確認に小林が答える。
 「そうそう。だから、それと同じように、雇用契約書も全員分を提出することを義務付ければよいのではないですか? そうすれば、雇用契約の管理が大変だという心配も解消されると思いますけど」
 「しかし、一人一人の雇用契約書を提出するなんて、現実問題大変じゃないですか? 就業規則の場合は一つの会社に一つだけだから問題ないけど、雇用契約書は人数分ですからね。従業員数の多い会社は大変ですよ」
 「今の時代は電子データというのがあるじゃないですか。いちいちコピーして持っていかなくても、専用メールで送ればいいだけですよ。クラウド技術を応用すれば、国が運営するネットワークを利用して、会社や個人が、その都度雇用契約書を確認することも可能ですよ」
 小林が、電子媒体で管理を行えば手間はかからないという意見を口にした。
 「その場合、雇用契約書に当事者の署名押印をするというのは、どうなるのかしら?」
 「電子署名という機能がありますよ。あるいは、契約書をスキャンしたデータを提出するのでもいいですし」
 四人による話し合いが続けられた。全員の中で、雇用契約ルールに特化した法律に関する統一したイメージが出来上がる。
 国に対して意見するために、四人のイメージを反映した労働基本法案を作ってみることになった。法律問題に詳しい小林が原案を作り、全員で調整することにした。

 

 後日、小林の事務所で、小林が作成した原案を前にして四人が意見を戦わせた。周囲の人間たちから寄せられた反対意見や懸念材料が解消される内容であることを確認しあう。
 その結果、四人のイメージに沿った労働基本法案が完成した。
 その後、四人は、国に対して意見をぶつけるための段取りについて話し合った。
 今回は、直接国に対して意見をぶつけ、議論の場を求めるつもりでいた。小林からの情報によると、厚生労働省が作成した第一次案の関係省庁との調整も大詰めを迎えているということだった。ぐずぐずしている余裕などない。
 四人の間で、国に対して意見をぶつけるための計画が立てられた。


第4章 道すじ

第1節 交渉

 

1.
 四人は、共明党の政策企画調整本部に連絡を取ることにした。四人を代表して中山が電話を入れ、労働基本法復活に関する意見書を選挙前に送ったことを伝えた上で、直接意見を聞いてほしいとお願いをした。
 その願いは受け入れられ、三日後の午後六時に、四人は政策企画調整本部に乗り込むことになった。

 

 三日後の午後六時がやってきた。
 四人は、政策企画調整本部内の会議室に通された。
 政策企画調整本部側からは、副本部長の田山と職員の新井が応対した。
 政策企画調整本部は、政策の実行に関して、関係者との調整や要望事項への対応、意見聴取などの業務を行うために共明党が独自に設けた調整機関であり、『国民の声と共に歩む政治』を標榜する共明党ならではの対応だった。メールや電話による陳情や意見の受付、対応も一括して行っており、数は少ないものの今回のように直接面談した上で話を聞くケースもあった。
 双方の自己紹介を終え、意見具申が始められた。
 小林が、労働基本法復活の在り方について検討した経緯を説明した上で、四人で考えた雇用契約ルールに特化した労働基本法案を提案した。さまざまな立場の人間から意見を集めたことや、否定的な意見があったことについても包み隠さず説明した。
 説明用に作成された資料に目を通しながら黙って小林の説明を聞いていた田山と新井が顔を上げた。
 田山が口を開く。
 「今回ご提案いただいた内容に関しては、よく理解できました。選挙前のときにいただいていたご意見の根拠を明らかにして、内容を肉付した上でのご提案ですね」
 「以前送らせていただいた意見書の内容は、その後ご検討いただけたのでしょうか?」中山が、気になっていたことを口にした。本村と新山も同じ気持ちだった。
 中山の質問に対して、田山が誠意のある返事を口にする。
 「お返事を差し上げることが出来なくて申し訳なかったのですが、国民のみなさま方からの貴重な意見の一つとして頂戴しました」
 「共明党さんとしては、いかがなのでしょうか? 私たちの意見を、政府として検討していただくことは可能なのでしょうか?」
 「もちろん、検討に値する意見だと考えております。党本部にも報告させていただきましたが、理解を示された党員も大勢いました」
 「労働基本法復活法案は、現在厚生労働省内で原案作りがなされているようですが、私たちの意見は反映していただけているのでしょうか?」
 「ええ。もちろん厚生労働省のほうにも報告させていただいております。インターネット上のアンケートやメール、電話などでいただいた意見も、すべて情報として提供しております」
 「もう、原案は出来上がったのですか?」
 「いえ、まだ出来上がったという報告は受けていませんが、もうそろそろじゃないですか?」
 「マスコミの報道などを見ていると、原案は従来型の労働基本法に準じた内容であるように書かれていますが、実際はどうなのですか?」
 「原案が出来上がっていませんからはっきりとしたことは言えませんが、我々もそのように聞いております」
 「原案が完成したら、国の審査があって、それから閣議決定されるのですよね?」
 「ええ。内閣法制局というところが、形式要件を審査します」
 「今回させていただいた私たちの提案内容を、厚生労働省側に伝えていただくわけにはいかないでしょうか? 今回の提案は、個人的な思い付きではなくて、さまざまな立場の人たちの意見を聞いた上でまとめたものです。現在世の中で起こっていることを見ても、従来型の内容で労働基本法を復活させるのはよくないものと確信しています。なんとか、共明党さんのほうから厚生労働省に掛けあっていただけないでしょうか?」
 「お願いします!」
 四人は、田山と新井に対して頭を下げた。
 頭を下げられた二人が、戸惑いながら言葉を口にする。
 「わかりました。必ず伝えます」
 「私どもも、みなさまのおっしゃることはよく理解できます。政策企画調整本部にはたくさんの方から意見が寄せられますが、おっしゃられたように、従来型の労働基本法が復活しそうだという報道が流れてから、働く人が会社から不利益になるような仕打ちを受けたという話もいただいておりますし、あなた方と同じような主張を送ってこられる方もおられます」
 好意的な言葉を耳にした四人は、ほっと胸をなでおろした。
 その後、小林が、二人に対して実務的な確認を行った。
 「急かすようで恐縮なのですが、関係省庁との調整も大詰めを迎えていると聞いておりますので、早日お願いできないでしょうか」
 「もちろん、そのつもりでおります」
 「結果は、どのようにして教えていただけるのでしょうか?」
 「私どものほうからご連絡差し上げますよ。どちらにご連絡差し上げたらよろしいのですか?」
 連絡先を聞かれた四人は、小林の事務所を連絡先に指定した。

 

 一週間後、小林の事務所に政策企画調整本部の新井から電話が入った。
 厚生労働省に四人の提案を伝えた上で検討をお願いしたところ、厚生労働省としては従来型の内容に準じた法案を提出することで方針を固めているということであり、意見としては尊重するが検討の中に組み入れることはできないという回答が得られたということを新井は口にした。
 報告を受けた小林が粘り強く交渉する。厚生労働省の人間と直接会って話がしたいということをお願いした。
 小林の要望に対して、新井が、電話口で困惑したような素振りを覗わせながらも、直接交渉する場を作れるように善処することを約束した。
 誠意のある対応に感謝の言葉を口にした小林は、新井との電話を終えた。

 

 その数時間後、小林のもとに新井から電話がかかってきた。
 厚生労働省に掛けあった結果、労働条件政策担当の審議官が直接会って話を聞いてくれることになったという連絡だった。新井が、国民の意見を広く聞くという政権与党としての方針を盾に、厚生労働省に強く働きかけてくれたことが窺えた。
 厚生労働省が指定してきた日時を確認した小林は、中山、本村、新山に連絡を取り、新井からの連絡内容を伝えた上で、厚生労働省との交渉に臨むメンバー構成について協議を行った。
 協議の結果、四人全員が交渉の場に参加することになった。
 指定された日時は平日の昼間であり、その時間に対応しようとすると本村と新山は会社を休まなければならなかった。労働基本法があった時代であれば有給休暇を使うことでその日の給料は全額補償されたが、今はそのような補償はない。ノルマが重くのしかかる本村にとっては、まさに血のにじむような時間だった。
 血のにじむような時間という意味では中山も同じだ。ギリギリの人数で日々の受注をこなしており、日中に中山が抜けるのは大変なことだった。
 四人ともさまざまな事情があったが、この機会を逃したらもう二度とチャンスは巡ってこないだろうという思いから、厚生労働省への交渉の場に出席することにした。

 

2.
 厚生労働省に乗り込んだ四人は、会議室に案内された。ロの字型に配備された机に、厚生労働省の人間と四人が向き合った。
 厚生労働省側からは、審議官の竹下を中心とした三人の人間が出席した。厚生労働省側の机の上にはボイスレコーダーが置かれていた。
 簡単なあいさつの後に、竹下が、話し合いの口火を切った。
 「共明党の政策企画調整本部に提出いただいた提案書の内容については、私どもも目を通させていただきました。さまざまな立場の人たちから意見を聴いた上で内容を考えていただいたようでして、大変興味深く拝見しました。それで本日は、提案いただいた内容について、私どもと話をしたいということでしたね?」
 「ええ、そうです。ぜひ、最終的な法案内容を固める前に、私たちの提案を検討していただけたらと思いまして」四人を代表して小林が話し合いの目的を口にした。四人の間で、小林が中心となって意見することが決められていた。
 「……」
 「政策企画調整本部の新井さんからは、私たちの提案内容を法案検討の中に組み入れることはできないという回答があったと連絡をいただいたのですが、そこのところを、もう一度お願いできないかと思いまして」
 「なるほど」
 「法案を検討されている過程で、従来型の内容に準じた労働基本法を復活させるのはよくないという見解は生まれなかったのですか?」
 「もちろんありましたよ。いろいろな意見を精査した上で、最終的に、従来型に準じた内容の法案を提出しようという方針になったのですよ」
 「しかし、従来型の労働基本法が復活しそうだという話が広まり出してから、働く人間が不利益を受けるような事案があちらこちらで発生しているということは、厚生労働省さんの耳にも入っておりますよね? マスコミも、連日報道していますし」
 「ええ。そのような話は、私どもも認識しております」
 「それなのに、従来型の内容でよろしいのでしょうか? 私たちの提案にも書かせていただきましたが、従来型の内容で復活すると、間違いなく雇う側も雇われる側も、今よりも不利益をこうむることになるものと考えております」
 「もう少し時間をかけて、慎重に審議することはできないのでしょうか?」中山も口をはさむ。
 「しかし、早期に復活させるというのが政府の方針ですからねぇ」竹下が戸惑いの表情を浮かべた。
 「復活させるべきだという考えは私たちも同じです。ただ、内容については、以前と今とでは時代背景が異なりますので、今の時代に即した内容に形を変えたほうがよいのではないでしょうか?」
 「おっしゃる通りかもしれませんが、厚生労働省としては方針を固めていますのでね」竹下が、すでに方針は固まっているのだという言葉を繰り返した。
 納得のいかない四人は、正論を武器に反論した。
 「しかし、厚生労働省の役目は、健全な雇用環境を確保することにあるのですよね。今の世の中の反応を見てもわかりますように、企業側は明らかに雇用全般に関する一律の規制が設けられることを嫌っていますし、規制を設けられた企業側が雇用に対して消極的になることは、労働者側にとっても雇用のパイが縮小して所得の減少につながるという、悪循環に陥ることになるのではないですか? そのような政策を厚生労働省が推進するのは、国民からの理解を得られないのではないかと思いますけど」
 新山の直線的な追求に、厚生労働省側の一人が、むっとしたような表情を浮かべながら言葉を返した。
 「そんなことはわかっていますよ。だから、従来型の労働基本法を復活させた後は知らん顔というつもりではなくて、企業側が積極的な雇用に打って出られるような政策も展開するつもりでいますよ」
 「もちろんそうされるとは思っておりますけど、それでしたら、復活法案そのものを企業側が積極的な雇用に打って出られるような内容にされたらいかがでしょうか?」
 「一旦締め付けた後に緩和する政策を展開するよりも、始めから締め付けにならない政策を打たれたほうが、国民も理解すると思うのですが」
 中山と本村の反論に、厚生労働省側の人間は押し黙った。
 ややあって、審議官の竹下が口を開いた。
 「たしかに、あなた方がおっしゃることにも一理あります。ただですね、この際はっきりと申し上げておきますが、従来型の内容で復活させるというのは、厚生労働大臣の強い意向でもあるのです。ですから、我々厚生労働省としましてもトップの意向を無視するわけにはいきませんから、従来型の内容に準じた原案を提出する方針を固めたのですよ」
 現厚生労働大臣の東野は、某大手企業の労働組合委員長を務めた後に国政に打って出た異色の経歴の持ち主であり、今でも国内の主要労働組合との結びつきが強いことが取り沙汰されていた。そのため、労働組合側の要望が政策にも反映されているのだろう。今回の労働基本法復活に関する法案作りについても、労働者保護の姿勢を強く打ち出す労働組合側の要望に配慮した形であることが窺えた。
 東野の意向でもあるということを聞かされた四人は、言葉に詰まった。つかの間の沈黙の後に、中山が言葉を発した。
 「それでしたら、大臣と直接話をする場を作らせていただくわけにはいかないでしょうか? 国民の生活にも大きく影響する話ですし、ぜひ直接大臣に伝えたいのですが」
 「それはちょっと……、難しいかもしれませんね」
 「なぜでしょうか? 大臣自らが民間人の要望を聞いているシーンを目にすることもありますが」
 「大臣が民間人と直接会わないと申しているのではないのですよ。ただ今の時期は大臣も多忙ですし、それに先ほど申し上げました通り、労働基本法に関しては大臣の意向ははっきりしていますのでね」
 「それでは、せめて私たちの提案内容を、直接大臣に見ていただくように取り計らっていただけないでしょうか。その上で、大臣が直接話を聞いてみたいと思っていただけるようでしたら、直接意見を申し上げたいのですが」
 「大臣に伝えるのはやぶさかではありませんがね。ただ、伝えたところで、大臣の考えは変わらないと思いますよ」
 竹下審議官以下厚生労働省側の三人の顔からは、今一つ乗り気でない表情が窺えた。
 東野の意向が労働組合側への配慮からきているものだと察した小林は、竹下の顔に強い視線を当てながら、ある提案を行った。
 「竹下審議官。大臣に話を聞いていただけるように、私たちは署名を集めます。私たちの考えに賛同する労働者たちの署名を、一人でも多く集めてみます。そして、それを大臣に提出させていただきます。
ですから、そのために一定の猶予時間をいただきたいのですが」
 「猶予時間ですか?」
 「もう間がなく厚生労働省としての原案が完成するものとお聞きしております。完成後は内閣法制局の審査を経た上で閣議に付せられるわけですが、審査に送るタイミングを少しだけ遅らせていただくことはできないでしょうか?」
 「それについては、私の一存ではなんとも申し上げられませんね」
 「承知しております。そこでお願いなのですが、私たちがこれから署名集めに入るということを大臣に伝えていただいた上で、私たちの提案書を見てもらえるように取り計らっていただけないでしょうか。その際、署名集めのための猶予時間をいただけるように大臣に伝えていただけるとありがたいのですが」
 「伝えるのは伝えますが、大臣が時間の猶予を認めてくれるという保証はどこにもありませんよ」
 「わかっておりますが、ほんの少しの可能性にも賭けてみたいのです」
 小林は、正面に居並ぶ三人に深々と頭を下げた。つられるように、中山、本村、新山も頭を下げる。
 「わかりました。私からも、時間の猶予をいただけるように大臣に話してみます。結果が出ましたら、私のほうから連絡差し上げます」
 竹下が、四人の要望に対して協力することを約束し、その日の話し合いを終えた。

 

3.
 厚生労働省を後にした四人は、小林の事務所で今後の対策を練ることにした。一刻の猶予も許されない状況であり、厚生労働省の返答を待ってから対策を練るのでは遅いと判断した。
 事務員が入れてくれたお茶でのどを潤した四人は協議に入った。小林は、三人に対して、独断で署名集めを口にしたことを詫びた。
 「さっきは、私の独断で署名集めを口にしてしまって、申し訳ありませんでした。ただ、ああでも言わないと、話が前に進まないような気がしたので」
 小林の言葉に対して、三人が理解していることを口にする。
 「ああいう風に機転を利かせてもらって感謝していますよ。あのまま、ただ大臣に伝えてくださいというだけで終わっていたら、大臣が私たちの提案を真剣に見てくれることはないと思いますよ」
 「その場合、従来型の内容で労働基本法が復活しちゃう可能性が極めて高いんでしょうね」
 「そうでしょうね。ただ、現実問題、どうやって署名を集めればいいんですかね?」
 「問題はそこですね」
 本村が発した疑問に対して、小林が思案する表情を浮かべた。額には、太くくっきりとした皺が浮かび上がっていた。他の三人は、小林の答えを待った。
 やがて、小林が口を開いた。
 「猶予時間が与えられるのか与えられないのか、与えられるとしてもどの程度の時間が与えられるのかはわかりませんが、半年一年みたいな時間が与えられることはないでしょう。それに、私たち四人で全国を回って署名集めをするわけにもいきませんし。そんな限られた中で署名集めをするのであれば、身近な人たちから集めるしかないと思うのです」
 「……」
 「厚生労働大臣は、労働者からの反発を食らうことを避けたいのだと思います。ですから、今日私が口にしましたように、労働者側の人間に特化した署名集めが必要になると思います。それとですね、今回は集まった署名人数よりも、賛同してくれた労働者の割合のほうが重要になってくる思うのですよ。署名人数自体が少なくても、全体の八十%の人が賛同してくれた署名だったら、多くの労働者から賛同を得られるということについて説得力のある材料になると思うのですが」
 「なるほど。ただ千人の署名が集まりましたというだけだと千人しか賛同しなかったのかみたいに見られるけど、千二百人の中の千人が賛同してくれましたっていう話だったら、大方の人が賛同してくれているという風に見ることが出来るもんな」
 中山が、感心したような口ぶりで相槌を打った。
 「じゃぁ、署名集めをするときに、対象者が何人いて、その中で署名してくれた人が何人いたということも記録しておかなければならないわけね」
 小林の意図するところをいち早く飲み込んだ新山が、記録について口にした。
 「そういうことですね」
 「署名集めは、具体的に、どこを対象としてやればよいのですかね?」不安そうな表情で本村が訊ねる。頭の中で、署名集めを行うときのイメージが浮かび上がらなかった。
 「身近に働いている人たちでいいのではないですか? 四人全員でやれば、そこそこの人数を対象にすることができますよ」
 「たとえば、小林先生だったら、顧問先企業の社員さんに対してやることができますよね」
 「それだけじゃなくて、同業者や交流のある専門家にも声をかけて、その方々の顧問先企業にも展開しようと考えています」
 「中山さんはどうするの?」
 「そうだな。ボクは、自分のところの社員と、あと同業者の社員かな。新山さんと本村さんはどうする?」
 「私は、自分の会社の人たちと、あとインターネット上でも呼びかけてみます。以前ブログに載せたときに、若い人たちから好意的な意見もたくさん寄せられましたし」
 「ボクも、同僚と、あと友達にも声かけてみようかな。ただ、同僚は、前に意見を聞いたときに反対意見のほうが圧倒的に多かったから、やめておいたほうがいいかな」
 「とりあえず、もう一度声をかけてみたらどうですか? 私たちに都合の良いところだけで署名集めをするのもどうかと思いますし」
 「わかった。もう一度チャレンジしてみますよ」本村が頷いた。
 身近な範囲で署名活動を展開することについて、四人の気持ちが固まった。
 その後、署名内容についての協議に移った。通常の署名であれば、直筆でフルネームのみを記入してもらう形が一般的だが、今回は厚生労働大臣の気持ちを動かすために、幅広い層の労働者からの理解が得られていることを示す必要があった。そのことを胸に協議した四人は、署名協力者に対して、フルネームに加えて、性別と年代、管理職者か非管理職者かについても記入してもらうことを決めた。
 さらに中山が、ある心配を口にした。
 「署名をお願いする場合は、当然だろうけれど、ボクたちが掲げる雇用契約ルールに特化した内容で労働基本法を復活させたほうがよいという考えの根拠と厚生労働省に提出した提案の内容を説明する必要があるんだよね?」
 「当然ですね」
 「小林先生みたいに上手く説明する自信はないなぁ」
 「上手く説明する必要なんてないですよ。要は、心がこもっていればよいのですよ。厚生労働省の人たちに噛みついたように、気迫で押し切ればいいんですよ」
 「そんなにボク、噛みつきましたっけ?」
 「一番気合が入っていたのは間違いないですね」
 「厚生労働省の人も怯えていましたもんね」
 「ほんとうですかぁ?」中山が、おどけたように首をかしげた。
 それを見た三人の間に笑いが生じた。
 和やかな雰囲気の中にも、自分一人で大勢の人に対して考えを伝えなければならないということについて、中山も本村も新山も、身が引き締まる思いを感じていた。

 

 数日後、小林のもとに、厚生労働省の竹下審議官から連絡が入った。
 あれから竹下審議官自身が、東野厚生労働大臣に対して、小林たち四人の提案内容を伝えた上で署名集めをするための猶予を与えてほしいという要望を伝えたところ、法案の原案が出来上がった後、半月程度の時間なら猶予を与えても構わないという返事が返ってきたということだった。
 現在、関係省庁との間の詰めが最終段階を迎えている状況であり、あと一週間程度でけりがつく模様であるため、実質三週間程度の猶予が与えられることになった。
 関係省庁との調整が終了した後に法案の原案を修正するとなると再度の調整段階が生じる可能性が大きいのにも拘らず、大臣が時間の猶予を認めたということは、言い方を変えれば、大臣が提案内容に興味を示したということが言えるのではないかと竹下は語った。
 連絡を受けた小林も身震いした。おそらく日本の歴史上、省庁が民間人の意見を取り上げて、一度まとめあげた法案の原案を修正したなどという例はないだろう。それだけ、自分たちのやろうとしていることが途轍もないことだということが言えた。六十年近く生きてきた小林の人生の中でも、このような思いを感じた経験はなかった。
 竹下との電話を終え、何回か深呼吸を繰り返した小林は、他の三人に吉報を伝えるために受話器を上げた。

 

第2節 署名集め

 

1.
 厚生労働大臣に提出するための署名活動が開始された。小林、中山、本村、新山の四人は、自分たちの主張をまとめたビラと署名用紙を手に、一人でも多くの署名を集めようと奔走した。
 小林は、事務所のすべての顧問先企業に対して、事情を詳しく説明した上で従業員にビラを配った。 可能な限り、一人一人の従業員と話をして署名を集める。何社かの顧問先では、社長の好意で全従業員を集め、主張内容を説明した上で署名用紙を回覧した。
 顧問先企業の従業員たちからの反応は、概ね好意的だった。従来型の規制だらけの労働基本法を復活させてしまうと、会社が雇用に消極的になり、その結果働く側も能力に磨きをかけながらチャレンジしていく機会が失われてしまうという主張に理解を示す者が多かった。中でも、若い従業員たちは進んで署名を行った。
 初めはうさん臭そうな表情を浮かべながら小林の話を聞いていた年配の従業員たちも、若い従業員たちの盛り上がりを見ているうちに、最後は署名用紙を手にしていた。従来型の労働基本法が復活することで会社が雇用に対して消極的になることが、我が身に対しても影響を与えるということを実感したのだろう。
 すべての顧問先企業での説明を終えた小林のもとに、たくさんの署名が集まった。
 さらに小林は、同業者や異業種の専門家たちに対しても協力を求めた。
 小林は、日ごろからたくさんの専門家たちとの間でネットワークを築いていた。顧問先企業からは、ありとあらゆる相談が寄せられる。その中には、小林の専門外のこともたくさん含まれていた。そんなとき、小林はネットワークを利用して、その道のプロの協力を得ていた。ギブ&テイクの世界であり、小林も他の専門家に対して協力していた。そのような関係があったせいか、協力を依頼された専門家たちは協力を惜しまなかった。
 同業者の中には小林たちの主張に対して反対意見を口にする者もいたが、最終的には企業のためにも従業員のためにもなる話だということを理解し、協力を申し出てくれた。小林たちの主張通りに労働基本法が復活することが、自分たちの仕事を広げていくことにもつながるという打算もあった。

 

 中山は、自分の会社の従業員から署名集めを始めた。朝礼と称して全従業員を集めた中山は、ビラを配り、趣旨を説明した。
 中山が労働基本法の復活に関して仲間とともに活動していることを、従業員たちは知っていた。
 そして、全従業員二十四人分の署名が集まった。
 その後、中山は同業者たちに声をかけた。同業者はみな経営者であり、中山たちの主張に反対する者はいなかった。
 協力を申し出てくれた同業者の社内にもビラと署名用紙が配られた。中山は、可能な限り同業者の会社に出向いて説明を行った。たどたどしい口調で、一人一人の労働条件を契約化した上で会社が契約内容を守ることを義務付ける方向にもっていくことが望ましいのだという主張を、同業者の従業員たちに対して力説した。
 唐突な話に、最初は怪訝な表情を浮かべる者が多かったが、最終的には大半の人間が署名に協力してくれた。中山が口にした、国に掛けあったという話に興味を覚えた人間が多かった。
 まじめに勤めていれば必ず自分たちの雇用が守られる時代ではなくなったということを、従業員たちは肌身に感じていた。企業の業績が良くならなければ、新たな雇用は生まれてこない。リストラが繰り返されてきた様を目の当たりにしてきた従業員たちの頭の中に、終身雇用という文字は存在しなかった。
 雇用全般に関する一律的な規制を課すことで、会社と従業員たちとの間にせめぎ合いが生じる可能性もある。そのような部分にも踏み込んだ中山の話に、多くの従業員が理解を示した。

 

 新山は、社内の同僚たちに対して個別に声をかけていった。パート社員の身分であり、社内で大々的に署名活動を行うわけにはいかなかった。日ごろ接している同僚たちに声をかけ、趣旨を説明した上で署名をお願いした。
 突然の署名依頼に、同僚たちは一様に怪訝な表情を浮かべた。新山は、自分自身が小林や中山、本村と活動していることを周囲には話していなかった。
 今さら話すのも変だと思った新山は、知人から協力を要請されて署名活動を行っているということにした。知人が主張する考えに共感を覚え署名に協力することにしたという説明を口にし、自分たちの主張内容を相手に伝えた。
 新山の説明に賛同した同僚が、他部署の人間にも声をかけてくれた。
 こうして、新山が勤務する会社の中で、密かに署名の輪が広がって行った。
 署名用紙が回っていることは会社の知るところとなったが、企業側にとっても都合の良い主張内容だったため、会社も見て見ぬふりをした。
 さらに新山は、インターネットを介した署名活動も展開した。ブログ上に署名活動を行っていることを書き、協力してくれる人は申し出てほしいというお願いをする。
 ブログに掲載してから何日間かは反応がなかったが、やがて新山のもとに協力を申し出るメールが届き始めた。中には、自らが作成した署名ファイルに何人かの仲間の名前を記入してメールで送ってくる協力者も現れた。
 新山は、送られてきたメールの本文と署名ファイルをプリントアウトし、一つにまとめた。顔の見えない協力者だったが、自分たちの考えが多くの人に支持されていることを実感した。

 

 本村も、同僚たちに声をかけていた。
 以前、自分たちの主張をまとめるにあたって議論をしたときは、同僚たちからは好意的な声は聞かれなかった。雇用ルールに関する規制が無くなれば、今まで以上に会社が好き放題なことをするだけだという思いが強かったからだ。そのときは、本村と同僚たちとの議論がかみ合うことはなかった。
 そのときの印象が強く頭の中に残っており踏み出すことを躊躇した本村だったが、意を決して話を切り出した。何人かの同僚を集め、署名集めを行っていることを口にする。
 最初は、同僚たちの反応は冷ややかだった。「まだそんなことを続けているのか!」といったような声が、同僚たちの口を突いて出た。
 そんな同僚たちを前にして、本村は、企業が雇用に対する消極姿勢を示すことが自分たちに対しても大きなダメージを与えるという考えを説いた。このまま行けば、労働基本法復活前に、給料の引き下げなど企業防衛の動きが加速する可能性が高いということも口にした。
 本村の懸命な主張に対して、何人かの同僚が署名への協力を申し出てくれた。数は少なかったものの、本村は手ごたえを感じていた。以前議論をしたときは、全くと言ってよいほど相手にされなかった。しかし今は、何人かの同僚に自分たちの考えが伝わった。同僚たちも、心のどこかで今の世の中に対する危機感を覚えていたのだろう。
 同僚からの署名活動を終えた本村は、友人たちにも署名の協力を求めることにした。自分たちの主張を説明した上で、署名を集めてもらえるようお願いをする。
 何人かの友人が協力を申し出てくれた。
 友人を介して、何枚かの署名用紙が本村の手元に集まった。
 署名用紙に書かれた見ず知らずの人間の名前を目で追いながら、本村は、自分たちの活動が世の中に必要とされていることへの自信を深めていった。

 

2.
 署名活動を開始してから半月が経過した。
 四人は、集めた署名を手に小林の事務所に顔を揃えた。署名活動をやれる先はまだ残っていたが、四人は、現段階で集まった署名を厚生労働大臣に提出することにした。
 もうすでに厚生労働省による法案の原案は出来上がっている。小林が入手した情報によると、やはり原案は、以前の労働基本法とほとんど変わらない内容だということだった。ぐずぐずしていると、内閣法制局の審査を経た上で閣議に回されてしまう。そうなってからだと、手の打ちようが無くなる。
 四人が集めた署名は、全部で二千人分近くあった。内訳も、性別や年代、役職に偏ることなく、幅広い層からの署名を得ることができた。四人の考えに賛同し署名に協力してくれた人の割合も百%に近い。
 積み重ねられた署名用紙を目にした本村が、「申し訳ないなぁ」と呟いた。
 中山が、「なにが?」と聞き返す。
 「みんなたくさん集めてくれたのに、ボクだけ数が少なくて、申し訳ないなと思って……」本村は、自分だけ集めた署名の数が少ないことを申し訳なく感じていた。
 小林や中山は、同業者などの協力も得ながら、たくさんの署名を集めていた。新山も、インターネットを介して集めた署名も合わせれば、それなりの数を集めている。しかし本村の場合は、同僚の一部と何人かの友人を通じて集めた署名だけだった。
 本村は、再び三人に向かって「申し訳ない」という言葉を口にした。
 それに対して、三人は、本村の努力をねぎらう言葉を口にした。
 「本村さんがやれる範囲で一生懸命集めたんだから、いいじゃないですか」
 「それに、最初はこぞって反対意見を口にしていた同僚の中の何人かが署名してくれたわけじゃないですか。それって、本村さんの熱意が伝わったからだと思いますわ」
 「数は少なくても、管理職の方からの署名が多く含まれていますので助かりますよ。今回の署名活動は、私たちの考えがあらゆる層の労働者から理解されるということをアピールするためのものなのですから」
 三人のねぎらいの言葉を耳にした本村が、はにかんだような表情を浮かべた。
 「さて、これからどうしましょうかね?」中山が、小林に視線を向けながら、三人に対してこれからやるべきことの確認を求めた。
 「集めた署名を厚生労働大臣のもとに送るだけではなくて、それをもとに大臣と直接話をすることが目的ですからね」新山も、小林の顔を見やりながら、署名集めの目的を口にした。
 本村も、小林の顔に視線を当てた。
 三人の視線が集まったことに対して苦笑いを浮かべた小林が口を開いた。
 「直接大臣とは連絡は取れないでしょうから、この間話を聞いていただいた竹下審議官に署名をお渡しして、いったん大臣に見ていただいた上で、私たちが大臣と話をさせてもらう時間を作ってもらえるようにお願いするのがいいでしょうね」
 「大臣は、私たちと直接話をしてくれますかね?」
 「前にも言いましたけど、大臣は労働組合の出身ですから、とにかく労働者側の意見を気にしています。片や閣僚ですから、経済界の声も無視するわけにはいきません。経済界からは、現に従来型の労働基本法を復活させることを疑問視する声が上がっていますから、労働者側の中にも疑問視する人がたくさんいるのだということがわかれば、大臣も考え直そうという気になると思いますけどね」
 「でも、今回集めた署名は、たった二千人分ですよ。こんな量で、大臣の心を動かせるのかなぁ」
 「たしかに人数は多いとは言えないですけど、老若男女、役職者、非役職者まんべんなく署名が集まっていますし、私たちの考えに賛同して署名に協力してくれた人の割合も百%に近いんです。そう考えると、説得力のある結果だと思いますよ」
 「まぁ、とにかく我々は精一杯のことをやったんです。自信を持って、この結果を大臣に突き付けましょうよ」
 中山が発した言葉に、本村と新山が頷いた。
 今回の署名集めは、できる限りのことを行った結果だった。
 小林も、頼めるだけの同業者や異業種の専門家たちに協力を要請した。社会保険労務士事務所所長としての業務を滞らせることなく、空いた時間で署名活動に走り回った。
 それは、中山も同様だった。
 自らの雇用政策の失敗で短期間に十人の従業員が退職して以来、人数的にぎりぎりの状態が続いていた。あれから何人かの従業員を補充したが、熟練度が低く、社長といえども貴重な労働力だった。そんな状況の中で、時間を割いて署名活動を行った。
 本村も新山も、従業員の身分であり、気を配りながら社内での署名活動を行った。
 特に新山の場合は、前々から労働基本法に関する活動を行っていることを周囲が知らなかったため、唐突感が否めなかった。そんな中、一から主張内容を説明して署名にこぎつけた。
 本村も、一度は総スカンを食った相手からの署名集めであり、苦労を味わった。
 加えて二人は、ブログや友人を通じで、集められるだけの署名を集めた。
 四人にとって、悔いの残らない署名活動だった。

 

 四人は、集めた署名の取りまとめ方について話し合った。ただ漠然と署名を渡しただけでは、大臣の心に響かないかもしれない。大臣の心に訴えるためには、見せ方も重要だと四人は考えていた。
 署名は、一冊のファイルに綴じて提出するということは前もって決めてあった。綴じるためのファイルもすでに準備され、四人の目の前に置かれている。
 四人は、ファイルにタイトルを付けることにした。
 もしかしたら、大臣以外の人間も署名を見るかもしれない。そのときに、雇用契約ルールに特化した法案作成に賛成する署名であることが一目でわかったほうが、見る者の心に訴えることができる。
 話し合いの結果、「雇用契約ルールに特化した内容での労働基本法復活の要望に関する署名(労働者編)」というタイトルを付けることにした。
 さらに、本村の提案で、署名活動を行った期間や署名者の属性に関する構成比率、署名への協力割合を記した目次を付けることが決められた。
 今回の署名活動は、立場に関係なく、労働者たちが総体的に四人の考えに賛同しているということを訴えかけることがポイントとなる。現に、集まった署名は、性別や年代、役職などに関して偏りがない。 署名に協力してくれた人の割合も百%に近い。
 これらの結果に加えて、短期間の間に限定された地域だけで二千人分もの署名が集まったという事実を合わせることで、多くの労働者から賛同を得られる話だという印象を与えることができる。
 さっそく、四人は作業に取り掛かった。
 署名用紙には、署名者の名前と性別、年代、管理職者であるか非管理職者であるかが記入されている。 四人は、手分けして署名者の属性ごとに、集計や署名に協力してくれた人の割合の算出を行った。
 完成した目次が、ファイルの一ページ目に綴じられる。
 署名ファイルは、小林の手から竹下審議官に手渡されることになった。

 

3.
 三人から竹下審議官との交渉を任された小林は、竹下からもらった名刺の連絡先に電話を入れた。 電話に出た竹下に対して、集めた署名を手渡したいことを告げる。
 竹下も、署名集めのことを気にかけてくれていた。
 竹下との間で会う日時を約束した小林は、後日厚生労働省に出向いた。そのまま審議官室に通される。
 竹下は、笑顔で小林のことを迎えた。
 「まぁ、お座りください」貴重な時間を割いてくれたことに対して礼を述べた小林に向かって、竹下が来客用のソファーに座るよう勧めた。
 ソファーに腰を下ろした小林は、目の前のテーブルに署名ファイルを置いた。竹下がファイルを手に取り、中身をぱらぱらとめくる。
 「短期間の間に、よくこれだけの署名を集められましたね」
 「ええ。私たちも必死ですから」
 「大変だったのではないですか?」
 「そうですね、みんな仕事の合間を縫っての活動でしたからね。私の場合は、仕事柄たくさんの会社と接することができますから集めやすかったですけど、他の三人はそういうわけにはいかないので、それなりに苦労したみたいですよ」
 「そうでしょうなぁ。たしか、お二人ほど従業員の身分の方がおられましたですよね。その方たちは、特に大変だったでしょうね。社内で大々的に署名活動をするわけにもいかんでしょうからね」
 竹下は、本村と新山の顔を思い浮かべていた。
 最初に小林たち四人の提案を目にしたときは非現実的な考え方のように感じた竹下だったが、実際に四人と会い、その中でも本村や新山と話をしたときに、提案内容にも一理あると考えるようになった。本村と新山の意見は従業員としての目線で考えた内容であり、聞く側にとっても説得力があった。
 二人のことに触れた竹下に対して、小林は、自分以外の三人が署名集めに苦労した実話を語った。
 小林の話に何度も頷いた竹下が、署名の中身について触れた。
 「短期間にこれだけの数を集めたことも凄いことですが、実に幅広い層からの署名が集まりましたね。協力してくれた人の割合も百%に近いですし。なかなか説得力がありますよ」
 「ありがとうございます。実際のところどのような結果が出るのかわからなかったのですが、こうやって偏りのない結果が出てほっとしました。私たちとしましては、あらゆる層の労働者からも理解される話なのだということを言いたいわけですから」
 「そうでしょうね。そういった意味でも、今回の署名集めは大成功という感じですね」竹下も、小林の話に調子を合わせた。
 「ところで、竹下審議官に折り入ってお願いがあるのですが、この署名を大臣にご覧いただいた上で、私たちと大臣とが直接話ができるように取り計らっていただきたいのです」
 「もちろん、いただいた署名は直接大臣の手元に届けます。あなた方からいただいた提案書も大臣にお渡ししておりますし。私のほうから、大臣に直接話をする時間を作っていただけるように意見することもやぶさかではありません。ただですね小林さん、これだけは肝に銘じておいていただきたいのですが、国が法案の作成に関して、関係省庁との調整を終えた原案を再度練り直すなんてことは、基本的にはないことなのですよ。原案を修正すれば、関係省庁との再度の調整が必要になることも出てきますし。ですから、たとえ大臣が、あなた方と直接話をする時間を作ってくれた上であなた方の話に理解を示してくれたとしても、原案の練り直しを命じられるという保証はないのですよ」
 「審議官がおっしゃられることは、よく理解しております。原案を確定させるために厚生労働省も相当な時間をかけてきたわけですし、関係省庁との調整というのも大変な作業であるとお察ししております。ただ、ここまで来た以上は、やれることはすべてやらなければならないと考えているまでです」
 小林は、固い決意の籠った眼差しを竹下に向けた。
 小林の眼差しを正面から受け止めた竹下が、小さく頷く。
 「あなた方のその思いは、重々理解しております」
 「実はある筋から、一週間ほど前に関係省庁との最終調整が終了したということを聞いておるのですが、大臣はどのようなお考えでおられるのでしょうか? 私たちの署名を見てから今後の行動を決めようと考えておられるのでしょうか?」
 「そう考えていただいても問題ありませんよ。この間の電話でもお伝えしましたが、最終の調整が終了してから半月程度は猶予時間を与えても構わないという言葉は、大臣自らが口にしたのですから」
 「それを聞いて安心しました」
 大臣の考えが変わっていないことを確認した小林が、安堵の表情を浮かべた。竹下の顔からも笑みがこぼれる。
 「それで、これからどのような段取りで話を進めていけるのでしょうか?」
 「そうですね。まず、今日の小林さんとの話が終了したら、すぐに署名を大臣のもとに届けます。今日は、大臣は終日省内にいらっしゃいますから。そして、大臣の意向を確認した上で、面談の日時を決めさせてもらいます。ご理解いただきたいのですが、大臣は多忙な方ですから、面談日時は大臣の都合に合わせてもらいたいのですよ」
 「もちろんです。会っていただけるのであれば、すべてに最優先で駆けつけます」
 「四人での面談を希望されておられますか?」
 「ええ、できればそうお願いしたいのですが」
 「まぁ、四人くらいなら構わないでしょう。ただ先ほども言いましたように大臣は多忙な身ですから、そうたくさんの時間を取るわけにはいきません。ですからあなた方も、主張される内容を整理された上で面談に臨まれたほうがよろしいですね。できれば、特定の誰かが代表して話をするような形のほうがよいと思います」
 「わかりました」
 「それでは、大臣の意向を確認した上で、今日か明日にでも私のほうから小林さんにご連絡します。ひょっとしたら、大臣が署名を見終えた段階で会うか会わないかを決めるとおっしゃる可能性もありますが、その場合も連絡を入れさせていただきます」
 「お忙しいところ、お手数をおかけして申し訳ありませんが、どうかよろしくお願いします」協力を引き受けてくれた竹下審議官に対して、小林は深々と頭を下げた。

 

 その日の夕方、竹下から小林のもとに連絡が入った。
 署名ファイルを手にした厚生労働大臣が、その場で中身に目を通し、直接小林たち四人の話を聞いてみたいと言ったという連絡だった。
 電話で、竹下が面談の日時を指定した。
 連絡を受けた小林は、即座に中山、本村、新山の三人と連絡を取り、話を伝えた。三人も、喜びの声を上げた。

 

第3節 新法成立

 

1.
 「あなた、昨日はあまり眠れなかったみたいね」本村の妻が、眠い目をこすりながらダイニングテーブルに着いた本村に向かって声をかけた。
 「あんまりな」本村がボソッと返事をする。
 ダイニングテーブルの上には、すでに家族四人分の朝食が並べられていた。皿の上で出来立てのベーコンエッグが湯気を立てており、周りに添えられた野菜が中央の黄身を引き立てるようなコントラストを演出していた。
 妻が、焼けたトーストを、先にテーブルに着いていた高校二年の娘と中学三年の息子の前に置いた。
 「お父さん、緊張して眠れなかったんじゃないの?」
 「ねぇ、ねぇ、ひょっとしてテレビに映るのかな?」
 トーストの表面にマーガリンやジャムを塗りながら、子どもたちが語りかけてくる。
 「テレビになんか映らないよ」笑いながら言葉を返した本村だが、表情は固かった。
 今日の午前十時から、厚生労働大臣との面談が予定されていた。労働基本法復活に関する本村たち四人の提案を、厚生労働大臣が直接聞いてくれることになった。
 本村たちに与えられた時間は一時間だった。事前の打ち合わせで、大臣に必ず伝えなければならないことや要望したいことの優先順位について、四人の間で確認し合った。大臣からの質問の受け答えについても、基本的には小林が代表して行うことも決めていた。
 食事を済ませた本村は、いつもより念入りに洗顔や整髪を行い、新調したスーツに体を通した。
 会社には、前もって休暇願を提出していた。今日は、いったん小林の事務所に集まり、四人で揃って厚生労働省へ行く段取りになっている。
 「じゃ、行ってくるよ」身支度を済ませた本村は、家族に声をかけた。
 「パパ、頑張ってね」見送りの声に手を上げて答えた本村は、顔の表情を引き締めた。

 

 小林の事務所に集まった四人の顔は一様に強張っていた。いつもは口数の多い中山も今日は大人しい。小林の顔にも緊張の色が濃く浮かんでいた。
 発言すべき内容は決まっている。今さら後戻りはできない。ここまで来たら前に進むだけだ。
 そのように四人の心は一致しているのだが、いざ出陣となると緊張感にさいなまれた。
 四人は、無言で事務所の事務員が入れてくれたコーヒーをすすった。
 やがて、四人のコーヒーカップが空になった。互いに顔を見合わせる。
 「そろそろ行きましょうか」小林の声に、四人は腰を上げた。

 

 面談は、厚生労働大臣室の中で行われた。
 広い部屋の中央に緑色のテーブルカバーが敷かれたテーブルが置かれ、その周りを重厚なソファーが取り囲む。
 小林と中山、本村、新山の四人は、テーブルの片側のソファーに並んで腰を下ろした。反対側には、厚生労働大臣の東野を真ん中にして竹下審議官と政策担当の企画官の三人が腰を下ろした。カメラや記者の姿などはなく、完全非公開の面談だった。
 小林が、多忙なスケジュールの中で時間を割いてくれたことへの礼を述べた後に、自分を含めた四人の紹介を行った。小林から紹介を受けた中山と本村、新山の三人が、順番に、簡単な自己紹介を行う。一人一人の挨拶に対して、厚生労働大臣の東野も笑顔で言葉を返した。
 初対面の挨拶が終了した。
 引き続いて、話の本題に入る。
 「本日は、いただいておりますご提案内容について、大臣の方からもいろいろと質問したいことがお有りになるようですので、大臣からの質問に対してはこの場でお答えいただき、また大臣に対する質問や要望がございましたら、この場で頂戴いたします」竹下が、四人に向かって面談の趣旨を告げた。
 その場に緊張が走る。
 四人の緊張を解きほぐすように、東野が口を開いた。
 「いただいた提案書と署名、拝見しましたよ。あなた方が言われるように、我が国の今後を考えたときに、労働者保護政策ありきではいかんなとは私も考えています。二十カ国間の経済連携協定も締結されたことですし、これからの雇用政策は、グローバル視点で考えていかなければならないのは間違いないですからね」
 「はい」
 「署名結果を見させていただいて、立場に関係なく大勢の労働者の方々が、あなた方の考えに一定の理解を示しているということもわかりました」
 「ありがとうございます。実は、あれからさらに署名が集まりまして、本日お持ちしました」
 小林が、追加で集まった署名を綴ったファイルを厚生労働大臣の前に置いた。二百人分の署名だった。 東野が、追加の署名が綴られたファイルをめくる。
 「これも民意なのでしょうかね……」
 「はい?」
 「私たちも政策を立てるにあたって、今世の中で起こっていることに関して充分な情報収集を行っているつもりではありますが、せっかくですから、今日この場であなた方にお聞きしたいことがあります。提案書の中で、私たちが以前の内容に準じた労働基本法を復活させたいという方針を表明した後に、世の中で解雇や賃金引き下げといったようなことが横行しているということが書かれていますが、実際のところ、どのようなことが起こっているのですか?」
 東野の問いかけに対して、四人は、順番に自分たちの身の回りや身近で起こったことを話した。一つ一つの説明に東野が頷き、竹下審議官と企画官がメモを取る。
 四人の説明が終わった。
 「こういうことを言うと叱られるかもしれませんが、私たちの耳に入ってくる話は労働組合からの情報が多いのでね。街中の中小企業の実態とは、少し温度差があるようですね。よくわかりました。あともう一つお聞きしたいのですが、以前の労働基本法があった時代に、企業の消極的な雇用姿勢が労働者たちの働きがいやチャレンジの機会を奪っていたというような指摘もされていますが、それについてもお聞かせいただけますか?」
 再度の問いかけに対して、四人は口々に己の見解や現場の実態を説明した。
 ここでも、一部の大企業と街中の中小企業との温度差が浮き彫りになった。大企業では労働者にキャリアを積ませるための社内異動を行うことは容易だが、中小企業で働く労働者の場合、キャリアを積みたいのであれば会社を辞めざるを得なくなることが多い。
 しかし、一度辞めてしまうと思うように再就職できないのが実態だった。企業は、労働基本法による規制が雇用のリスクになることがあるため、雇うことに関して慎重な姿勢を示していた。そのことを頭で理解している労働者たちの口から自己アピールの言葉が消えていき、成長の芽が摘まれていた。
 そのことを、四人は訴えたかった。
 東野は、四人の説明に、熱心に耳を傾けた。四人も、好感触な雰囲気を感じ取っていた。
 「なるほど、よくわかりました。たしかに、あなた方の主張内容のほうが、今後の時代に即しているのかもしれない」東野が語りかける。
 四人は、顔を見合わせた。そして、四人を代表した小林が東野に問いかけた。
 「それでは大臣。私たちの提案内容を考慮いただいた上で、労働基本法復活法案に関する原案の見直しを行っていただけるのでしょうか?」
 小林からの問いかけに対して、東野が、言葉を探すような表情を浮かべる。
 つかの間の時間、厚生労働大臣室を静寂が支配した。
 四人は、東野の返事を、かたずをのんで見守った。

 

2.
 やがて東野が口を開いた。
 「私個人の見解としては見直しを検討してもよいと考えていますが、厚生労働大臣としては、この場で見直しを考えると発言することはできません」
 「えっ?」
 「たしかに、あなた方のおっしゃられることが世の中の実態だと思います。しかし国の政策ですから、偏った見解だけで決めるわけにはいきません。しかるべきやり方というものがあるのですよ」
 「……」
 「雇用に関する政策ですから、経営者や識者、そして労働組合の意見なども幅広く反映させなければなりません。幸い、厚生労働省内には労働政策審議会という立派な諮問機関があるのですから、そこの委員たちも理解を示すのであれば、厚生労働大臣として原案見直しの指示は出せますよ」
 「具体的には、どうすればよろしいのでしょうか?」
 「一度、あなた方で労働政策審議会の委員たちにこの提案をぶつけてみてください。そこで委員の方々と討議していただいて、概ね賛同を得られるのであれば見直しを指示しましょう。それまでの間、原案を保留扱いにすることは約束します」
 「ありがとうございます」
 「それでは、段取りなどは、竹下審議官たちと相談してください」
 「わかりました」
 約束の一時間が経過し、面談は終了した。

 

 大臣との面談が行われてから一週間後、厚生労働省内の専用第二十二会議室で、労働政策審議会が開催された。
 公益代表、使用者代表、労働者代表の委員が十名ずつ、合計三十名の委員が顔を揃えた。
 その中に、小林と新山、竹下審議官の三人が、臨時の委員として同席した。
 今日の議題は、労働基本法復活法案に関する原案見直しの是非についてであり、小林たち四人の提案内容を検証した上で是非を決めるという委員会の目的について、事前に三十名の委員たちは知らされていた。
 会長を務める隆盛大学大学院政策戦略研究科教授の山月の合図で、委員会が開始された。
 まず、従来型の労働基本法を復活させることの弊害について検証が行われた。
 四人の主張は、厚生労働省に対しても散々発言してきた通り、世の中に対して従来型の内容で復活するというアナウンスを行うことが解雇や賃金引き下げといったような企業防衛策の横行を生み出すということに加えて、従来型の内容で復活させることが企業の消極的な雇用姿勢を生み出し、そのことが労働者の働きがいや雇用機会そのものを失わせることにつながるというものだった。
 この見解については、一部の使用者側委員から異論が生じたものの、実際に世の中で企業防衛策が横行していることや圧倒的に数の多い中小企業の雇用環境を考えたときに、弊害として捉えるべきだという見解で一致した。
 続いて、四人が提案した雇用契約ルールに特化した労働基本法復活法案内容について検証が行われた。
 四人が提案した内容は、一人一人の労働条件を契約化して、それを企業と本人、監督行政の三者が管理することで企業側の順守を促すという内容だった。賃金に関しては共通の契約ルールを作り、会社が自由に解雇できる代わりに、解雇するときは契約で決めた解決金を支払うということも盛り込んでいた。
 この内容について、さっそく労働者代表委員の一人から、監督行政が個人ごとの契約内容を掌握することは困難ではないかという意見が飛んだ。
 それに対して小林が、電子データでの提出、保管形式を取れば管理可能であるという考えをぶつけた。 企業側が契約を守らなかったときの対応のために監督行政による管理が必要なのだという考えも口にする。
 小林の回答に対して、質問した委員が理解したという言葉を口にした。
 さらに別の労働者代表委員が、契約に関する全員共通のルールは、賃金以外の項目についても必要なのではないかという意見を口にした。
 それに対して小林が、規制が多いことが現在の弊害を生んでおり、本来は規制を無くすことが望ましいが、賃金に関しては生活をしていく上で欠かせないものであるため、例外的に一律規制をかけるべきだという意見を述べた。
 これに関しては、複数の委員を巻き込んだ議論が展開されたが、最終的には小林が示した意見を支持する方向でまとまった。
 使用者側の委員からも、意見が飛び出した。解雇する場合の解決金を契約化する必要性はないのではないかという意見だった。
 それに対しては、新山が意見を返した。
 企業側の雇用の積極性を促すために解雇の自由度を確保することは必要だが、片や労働者側にも生活基盤の確保という問題があり、その両面をカバーするために、予め契約化した解決金で対応することが望ましいと考えていることを口にした。
 このことに関しても、最終的に新山が示した意見を支持する方向でまとまった。
 さらに、公益側の委員からも質問が飛び出した。企業側に契約内容を守らせるために、どのような仕組みが必要だと考えているかという質問だった。
 それに対して小林が、以前の労働基本法のときの発想と同じように違反企業に対する罰則を設けた上で監督行政に権限を持たせることに加えて、労働者の相談窓口を充実させることが望ましいという意見を示した。
 小林が示した意見に対して、複数の委員を巻き込んだ議論が展開された。権限内容や罰則、労働者のための相談窓口設置について、具体的な意見が交差する。多少の時間を要したものの、最終的には複数の具体案でまとまった。
 その後も、三十名の委員たちに小林と新山が加わった議論が展開され、労働政策審議会として四人の提案を支持するという方向で話がまとまった。
 今後については、もう一度この件に関して労働政策審議会を開催し、審議会としての正式見解をまとめた上で、厚生労働大臣に対して提言するということになった。次の労働政策審議会には四人のメンバーは参加しないが、四人の提案内容を踏まえた上での見解をまとめるということを会長の山月が宣言し、その日の審議会は終了した。

 

 数日後、労働政策審議会が開催された。
 その日の議題は、雇用契約ルールに特化した労働基本法復活法案に関する最終見解調整だった。小林と新山を交えて検証を行ったときの内容を踏まえた上で、審議会として推奨する法案の骨子がまとめられた。
 まとめられた骨子は、従来型の労働基本法を復活させることにより生じる課題の指摘や、雇用契約ルールに特化した内容で復活させることが望ましいという審議会としての見解を添えた上で、厚生労働大臣のもとに送られた。

 

3.
 九十日間の国会会期延長が決定された。税制改革や防衛政策を中心とした重要法案が山積みとなっていた。加えて、労働基本法の復活法案も提出されていた。
 藤井首相としては、今国会中に労働基本法の復活に関する法律を成立させるつもりでいた。復活法案に関しては、労働政策審議会の提言を受けて、厚生労働省が作成した原案の見直しが行われた。国会に提出された法案は、ほぼ四人の主張に沿った内容となった。
 労働基本法の復活法案について国会での審議が行われた。もとかといえば、民友党を中心とした前の政権与党が企業の雇用政策の自由度を確保することを目的として労働基本法の廃止を決定したのだが、復活法案も企業の雇用政策の自由度確保に配慮された内容であったことで、国会での審議はスムーズに進行した。総論賛成のもと、各論部分について審議が展開される。
 多少のせめぎ合いはあったものの、与野党双方が歩み寄り、法案が衆議院を通過した。
 参議院でも、紛糾することなくスムーズに審議が進められた。
 そして、延長国会会期内に、労働基本法の復活に関する法律が成立した。労働基本法という法律名を改め、雇用管理法という法律名になった。
 法律の施行は翌年の四月一日からと決まり、厚生労働省は法律の周知に奔走した。

 

 雇用管理法の成立を受けて、世の中の動きも一変した。
 個別の雇用契約を守ることに重点が置かれた法律が成立したことを受けて、解雇や賃金引き下げなど企業側の防衛の動きは治まった。それとともに、労使双方を対象とした雇用契約書の交わし方や労働者を対象とした会社への自己アピールの仕方などのセミナーが多く開かれるようになった。
 世の中のあちらこちらで、個を尊重しながら、会社と労働者が互いにアピールしあう風潮が広まり始めた。

 

 例年以上に残暑が厳しかった九月が終わり、十月を迎えた。朝晩もめっきりと涼しくなり、過ごしやすい日々が続いていた。日が暮れる時間も早くなる。
 そんな十月のとある夜のこと、ホテルの二十階にある展望レストランに、小林と中山、本村、新山の四人が顔を揃えた。中山と本村、新山の三人が始めて顔を合わせ、そして中山が本村と新山に対して小林を紹介したときのレストランだった。
 四人で集まるのは、労働政策審議会に対して意見をするときに全員で集まったとき以来だった。もう、かれこれ四カ月近くが経過していた。
 その間、世の中は急速に変化した。四人が望むような内容で労働基本法に代わる雇用管理法が成立し、新しい働き方が世の中に広がりつつあった。
 テーブルに並べられた料理を味わいながら、四人は感慨にふけっていた。
 「あっという間の半年ちょっとでしたね」中山が、昔を懐かしむような表情を浮かべながら呟いた。
 中山の呼びかけで四人が初めて顔を合わせたのが今年の三月のことであり、そこから四人による戦いが始まった。
 「逆に言えば、まだ半年ちょっとなんだよなぁ」本村が言葉を返す。
 本村にとっても、中身の濃い半年間だった。会社から押し付けられたノルマに追われ続けた毎日ではあったが、働くこととはどういうことなのかということを考えさせられた半年間でもあった。本村自身、今までの人生の中で、最も充実した半年間だったと感じていた。
 「でも小林先生、すっかり有名になっちゃいましたよね」新山が口にした。
 雇用管理法が民間人からの提案を政府が吸収した上で作られたというニュースが報じられ、マスコミが四人に対して取材を申し込んできた。
 本村や新山は雇われの身であり、名前や顔を出すには抵抗があった。中山も取材には消極的であり、四人を代表して小林がマスコミとの窓口に立った。そのこともあり、小林の名が世間に知れ渡ることになった。
 「あれから、お客さんがたくさん増えたんじゃないですか?」中山が、茶化したように小林に言葉を投げかけた。
 「いえいえ、そんなことはないですよ」
 「でも、なにかと恩恵があったのではないですか?」
 「そうですね、セミナーの仕事が増えましたね」
 「やっぱり恩恵があったんだ!」
 「その分、ちゃんとみなさんにも還元しますから。今日は、私の奢りです」
 「遠慮なくご馳走になります。あっ、すみません、ビールお代わり!」本村のタイミングのよいお代わりコールに、その場に笑いがあふれた。テーブルの上が、和やかな雰囲気になる。
 「これからは雇用管理法の時代になるんだけど、本村さんや新山さんは、これからどういう働き方をするのかな?」中山が、本村と新山に問いかけた。
 二人が顔を見合わせる。
 「そうだな。ボクは、もっと会社に対して強気に自己アピールをしていこうと思っている。幸い、きついノルマを与え続けられたことで、営業の仕事には自信がついたし、別の会社に転職してもやっていけるだろうという自信もついたんだ。だから、アピールすることは怖くない」
 「へぇ、それはよかった。新山さんはどうなんだろう? 新山さんも、このままいい男性(ひと)を見つけて家庭に入るなんて雰囲気じゃないもんな」
 「それって、どういう意味ですか? 聞きようによってはセクハラ発言ですけど」新山は、笑いながら言葉を返した。
 それに対して、発言者の中山が「そういう意味で言ったんじゃなくて、新山さんは仕事のできる女性(ひと)だから、これからも社会でいろいろと活躍していくんだろうなっていう意味で言ったんですよ」
 「ありがとうございます」新山は、照れながら答えた。
 小林と本村も、微笑ましそうな表情を浮かべながら、二人のやり取りを眺めていた。
 四人の間で、とりとめのない会話が繰り広げられた。四人の酒が進む。
 ウエイトレスが、空いた料理の皿を片付けに来た。四人が、一斉に新たな酒を注文する。
 そのとき、小林が、おもむろに語りかけた。
 「そう言えば、お三方の出会いって、新山さんのブログから始まったのですよね?」
 小林の言葉に、中山と本村、新山が遠い目をした。インターネットで偶然新山のブログを見つけた中山と本村がメールを送り、そこから出会いは始まった。
 もっとも、中山がインターネットに興味を持ったのは、従業員の立場で働く人間の気持ちが知りたいと相談した中山に対して小林がインターネットでの交流を勧めたからであり、さらに時を同じくして本村がメールを送らなければ、三人で会おうという話にはならなかった。しかし現実は、三人が出会うきっかけを小林が作り、その中に小林が交わり、四人で一つの大きな仕事を成し遂げた。
 不思議な縁というものの存在を、四人は感じていた。

 

 新山は、厚生労働省への働きかけを終えて以来、ブログの更新をしていなかった。もう、知らない人からメールが来ることもなかった。
 今から思えば、この大きな仕事を成し遂げるためにブログを開設したのではないかと思えていた。
 「ほんとうに、今までのことってなんだったんだろうなぁ……」新山は、ワイングラスを弄びながら感慨にふけった。
 そのとき、思いにふける新山の心を呼び起こすような言葉が、中山の口から発せられた。
 「よくわからないけど、私たちは縁があったんですよ。人間は、縁を大切にしていかなければならないと思う。だから、私たちの縁に乾杯しましょうよ!」中山が、グラスを突き出した。
 「乾杯!」小林と本村もグラスを突き出す。
 「ほんとうに、この人たちと一緒にいると心が落ち着くな。今後ともお付き合いさせてもらおうかしら……」三人の表情に目をやりながら胸の中で呟いた新山も、グラスを突き出した。



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