目次
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てきすとぽい杯について
てきすとぽい杯について
各夜のお題
第17回 募集要項
第17回 審査結果
入賞作品紹介
《大賞》
『百鬼夜行の客商売』 みお
《入賞》 ※得票順/シリーズ作品は並べて掲載
『ヘッセ』 犬子蓮木
『高速道路』 粟田柚香
『集合住宅』 粟田柚香
『シーサイド・ヒル』 大沢愛
『ルーインズ』 大沢愛
『スタティック』 大沢愛
『クリスタル・ムーン』 大沢愛
〈候補作品〉 ※得票順/シリーズ作品は並べて掲載
『The Friendly Ghost』 碧
『The Not-Friendly City』 碧
『創造主の箱庭』 kenrow
『生々しさ』 フィンディル
『幽霊アカウント』 muomuo
『男死病』 muomuo
『名無しの少年』 muomuo
『絆』 muomuo
『そうやって大人になっていく―丁稚安吉の場合』 志菜
『せやせや』 せせせ
『曲り角奇譚』 茶屋
『幽霊屋敷に住むものは』 永坂暖日
『便利な家』 ◆BNSK.80yf2
『助手席の彼女』 永坂暖日
『できごころ』 しゃん@にゃん革
『幽霊屋敷の浴室』 山田佳江
『桜屋敷』 茶屋
『幽霊の生業』 豆ヒヨコ
『幽霊船』 小伏史央
『幽霊屋敷の記憶』 三和すい
『記憶喪失になった俺が大学受験に挑むのだ』 ひこ・ひこたろう
『館長さん』 晴海まどか
『怪談は幽霊屋敷で』 松浦徹郎
『幽霊空き家』 永坂暖日
『九朗右衛門事件帳』 茶屋
『幽霊屋敷の一件』 碓氷穣
『歌声』 茶屋
『ぼくがいまよみたいしょうせつてきすとぽいばーじょん』 ひやとい
『歴史の勉強』 しゃん@にゃん革
『新幹線の中で』 ひこ・ひこたろう
『ぼくとお屋敷』 犬子蓮木
『紅白歌合戦の舞台に俺は立ったのだが』 ひこ・ひこたろう
『幽霊屋敷から出て来たのは古切手』 ひこ・ひこたろう
『大学祭』 ひやとい
『薔薇の香り』 げん@姐さん
『Haunted Horizon』 木野目理兵衛
〈集計外作品〉 ※投稿順
『柿のお供え』 高田@小説垢
『僕がオトコノコを止めた理由』 文才無い魔女
『変な旅』 鳥居三三
〈関連作品〉
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入賞作品紹介




《大賞1作品》
獲得☆4.250
『百鬼夜行の客商売』
http://text-poi.net/vote/61/11/
著:みお

吉原花街の片隅で、やる気もなさげに口上を述べるは、幽霊屋敷を営む座長。
男だてらに遊女も頬を赤らめる美丈夫だが、これで何千年と生きた妖怪である。
ほかに、艷な姿の轆轤首おんな、金眼に二本の角を持つ鬼の子、
血塗れた武士の顔を浮き上がらせる屋敷天井……と、本物の妖怪たちが出迎える
吉原でも屈指の異色歓楽スポット、今宵もひっそりと開店いたしております――
魅力的な妖怪たちが次々に登場する四夜連載の物語が、堂々の三連覇を達成しました!




 

《入賞3作品》
獲得☆4.143
『ヘッセ』
http://text-poi.net/vote/61/40/
著:犬子蓮木

今は誰も住んでいないお屋敷の、庭の隅、ちょっと大きな犬小屋に、ヘッセは住んでいる。
雌のシベリアンハスキー、触れるし何故か話もできるけれど、幽霊だという。
学校の帰り、ぼくは毎日ヘッセのお屋敷に遊びに行く。
ヘッセは人間が嫌いだと言うけれど、ぼくとは遊んでくれる。だけどある日――
幽霊犬ヘッセと、まだ幼いぼくとの不思議な交流を描いた、ちょっと切ない物語です。
獲得☆4.111
『集合住宅』
http://text-poi.net/vote/61/26/
著:粟田柚香

夜空の見える高速道路、長いトンネルの中で出会った老人は
ちょうどトンネルを抜けた所で、北斗七星に導かれるように姿を消した。
――星形にくり抜かれた、一枚の招待状を残して。
二夜連載の『高速道路』続編、僕はいよいよその招待に応じて老人の仲間たちの元へ。
「星々の幽霊屋敷」とは、そして老人やその仲間の正体とは……?
小粋な夢を見ているような連作、同じく高評価の『高速道路』と併せてお楽しみください! 
獲得☆4.100
『ルーインズ』
http://text-poi.net/vote/61/25/
著:大沢愛

当時、ミワとキョウコは16歳。高校女子バレー部に入部して一年が過ぎていた。
隣のコートで練習するバスケ部のシュウヘイと付き合い始めたミワ。
男子バスケ部の何人かと、付き合っては別れるを繰り返していたキョウコ。
ある時、ミワはシュウヘイと、姫ヶ丘の頂上近くにある廃ホテルまで
ドライブデートをする――それが、全ての始まりだった。
即興小説らしからぬ濃厚さを持つ四夜連作、物語が大きく動き始める第二話です。
シーサイド・ヒル』『スタティック』『クリスタル・ムーン』も併せてどうぞ!




 

《特別賞》
《言葉の魔術師賞》
『シーサイド・ヒル』
http://text-poi.net/vote/61/16/
『ルーインズ』
http://text-poi.net/vote/61/25/
『スタティック』
http://text-poi.net/vote/61/32/
『クリスタル・ムーン』
http://text-poi.net/vote/61/46/
著:大沢愛

四連作の内の二作品が6,000超え、連作タイトルがしりとりで構成されるなど、
規格外の要素や工夫が盛り沢山のシリーズ作品でした。
『ルーインズ』は、第17回入賞とのダブル受賞となります! 
《碧一色賞》
『The Not-Friendly City』
http://text-poi.net/vote/61/39/
著:碧

全段落の書き出しにペンネーム頭文字「み」から始まる予測変換の語が使われた、
第四夜のお題を最大限に活用した作品でした。
《君こそ真のSF作家賞》
『幽霊船』
http://text-poi.net/vote/61/9/
著:小伏史央

お題「幽霊屋敷」とは相性の良くないSFジャンルで、「コンビニ。」など
追加のお題に振り回されつつも三夜連載を書ききった、本格SF作品でした。
《私たちにも出撃チャンスを賞》
『創造主の箱庭』
http://text-poi.net/vote/61/19/
著:kenrow

書きかけの小説を多数抱えた、全創作者の胸に突き刺さる、メタコメディ作品でした。
あなたはこの幽霊たちの声を無視して○娘たちと戯れられるか……? 
《愛のいじり小説ただいま開催中賞》
『できごころ』
http://text-poi.net/vote/54/9/
著:しゃん@にゃん革

これぞいじり小説の見本、というような、完成度の高いいじり小説でした。

※ 第17回てきすとぽい杯に並行して、しゃん@にゃん革さん主催の
【一発逆転! 上半期ベストを狙え! 愛のいじり小説大賞】
が開催されていました。現在は終了しております。





――受賞された皆さま、おめでとうございます!
素晴らしい作品をありがとうございました。

(次のページから、作品が始まります。)

『百鬼夜行の客商売』 みお

連載/第一、二、三、四夜エントリー
投稿時刻 : 2014.05.03 23:40
最終更新 : 2014.05.06 23:38
総文字数 : 15246字

獲得☆4.250


《大賞受賞作品》
百鬼夜行の客商売
みお


 寄っていらっしゃい、見てもいらっしゃい。耳に聞くより目で見るよりも、中に入るとなお面白い。蝶と遊ぶも楽しいが、今宵は百鬼夜行の百花繚乱。さぁさ、遊んでいらっしゃい……。

【一夜】

 遠目より見ると、まるで闇にぽかりと浮かんだような花の行灯がある。大きな門を行灯で彩る、そこは花の町、浮き世を離れた吉原である。その片隅で、一人の男が口上を上げている。
 それがまるで、棒読みの情けの無い口上なものだから、通りかかる酔客は馬鹿にした顔。連れの女も袂で口を押さえてくすりと笑う。
 しかし、彼が顔を上げると男は目を気まずく顔をそらし女は頬を染めた。
 彼の顔は、まるで花のように美しい。
「さぁさ……」
 幽霊のように手を上下に動かして、彼は相変わらず力なく口上を上げ続ける。
「春の今宵、出るは轆轤首にのっぺらぼう。この吉原で無残に殺された女の霊も……」
 そこで彼の顔に初めて、笑みが浮かんだ。
 ちょうど行灯がふぅと消えた瞬間である。闇に襲われ女が悲鳴を上げる。男が闇夜に乗じて女に触れようとして騒ぎ出す。
 だから、誰も彼の笑みを目にしていないはずだ。
 彼はいかにも楽しく、にぃと笑った。口から漏れた赤い舌先は、二本に分かれて宙を舐める。
「鬼も出るやもしれません、さぁさ。お寄りください、本物の幽霊もお目に見せましょう……」
 男の名を、誰もしらない。出自もしらない。
 ただ誰もが男の顔を、声を知っている。彼は吉原の片隅で幽霊屋敷を営む座長であった。

「あぁ……相変わらず、あにぃの口上は力が無ねえなあ」
 幽霊屋敷として作られた掘っ立て小屋の奥深く、少年が口を尖らせた。
「もっと上手くすりゃ、この幽霊屋敷は商売繁盛だってのに」
 隣に婀娜っぽく座る女は煙管を吸い込み、ゆっくりと息を吐く。
「まあそう言うんじゃないよ。あれで顔がいいのだから、綺麗な女が引っかかる。吉原の、活きの良い女が引っかかれば、ついでに連れの男も引っかかる。ここは肉欲の世界だからねえ。それに座長は、下手の横好き。ああいうのが好きだってんだから丁度いい。あたし等も楽だしね。それにお前さん、あんな風に一晩中働きたいかえ?」
「姐さん、そう言ったってもう一週間も客なんざ来ちゃいない」
「そうねえ」
 女は煙管の煙を目で追う。それは、古びた天井に吸い込まれる。天井が不意に、咳き込んだ。
「やめねえか、轆轤姐。煙は身体に悪い」
「身体っていったって、お前さんの身体なんざ、ただの木じゃないか」
 女の首がぬうと伸びる。首が小さな頭を乗せたまま、ゆらゆら揺らめく。天井には人の顔に似た染みが持ち上がる。それは憤怒の表情の、血まみれ武士の顔である。
 にらみ合う二人を止めたのは少年だ。
「姐さんそれは、客にとっときな」
 袖を引く彼の指は少年にしては大振りである。稚児の着物から漏れる手には、恐ろしいほど鋭い爪が光る。
 それは、薄暗い幽霊屋敷の中でも良くわかる。
「ほうら、1週間ぶりの獲物だ」
 少年の唇がぬるりと光り、隙間から鋭い歯が漏れた。かちかちと、その歯はいかにも嬉しげに鳴り響く。よくよく見れば、彼の額には不気味に尖る角が二本。瞳は、獣の如く黄金に輝く。
「本当だ」
 轆轤の女も言い争いをやめ、にこりと笑う。赤い舌が、艶やかな唇をべろりとなめた。
「ひさびさに、お腹いっぱいになれるかねえ」
「なるさ、なる。女の身体は柔らかいが脂が多い。男の身体は硬いが、いつまでもしゃぶっていられる。二人揃えば二度旨い」
 二人の目線の先。
 闇の帳の向こうにある小さな扉が、一週間ぶりに開いたのである。そこには、まだ年若い女と、太った男が立っていた。
 
 吉原にある幽霊屋敷の噂を、男はちらりと聞いたことがある。
 それはひどく美しい男が座長を務める見世物小屋だ。中には轆轤首だの鬼の子だの、猫又だのそんな化け物が揃うという。もちろん作りものではあろうが、余興にはよい。と噂に聞いた。
 特に、つれない女を連れ込んで、闇夜に乗じて遊ぶのに良いと聞く。
 そのような、げすな遊びも吉原の楽しみだ。商人であり、非道な遊びも散々楽しんできた男にとって、これは彼の思い出の一つに加わるはずであった。
 いくら誘っても乗ってこない、金を払ってもはね除ける、生意気な遊女を連れ出し無理矢理幽霊屋敷に押し込んだのは新月の夜。
 月のない夜、噂通りの綺麗な男に案内されて辿りついたそこは想像以上の闇であった。
「恐くないよ」
 震える女をよしよしと宥めすかし、闇へ闇へと誘い込む。幽霊屋敷といってもほんの小さな家を改装したもので、あっという間に壁に辿りつく。そこに女を押し込んで、
「なんだ幽霊など出るわけもない。ならば私が幽霊となろうか」
 囁き耳に噛みつき、悲鳴を上げる女の襟元を掴もうとした。
「旦那。そんな子より、あたしと遊ばないかえ?」
 手は滑り、代わりに掴んだのは冷たい首筋。それは、ひどく……そう、恐ろしく長い。
 闇に浮かぶ白い膚がぬるりと光った。そして蛇のように男の身体をぐるりと取り巻く。悲鳴を上げるその口さえ、首の下。長い長い首の先を男は見た。そこには、行灯をくわえてにぃと笑う女の小顔。
 その目は、猫のごとくぎらりと輝く。それが男の見た最期の風景である。

「ん。お待ちよ。女もいたよ」
 轆轤の女が赤い唇の端を拭って、顔を上げた。
 その横でなにやら赤い肉を咀嚼する少年もまた慌てて顔を持ち上げる。
「ああ、女もいたか。いやしかし」
 床に転がるなにかを必死に喰らう二人の背後に、するりと立つのは遊女である。彼女は美しい着物を纏うが、顔は純朴である。田舎娘のそれである。
 遊女は化け物を見ても顔色一つ変えず、しずと頭を下げる。
「有難うございました……そこな座長さんのお陰で、私の恨みが果たせました」
 女は語る。
「私はこの男に手込めにされて殺された女の妹です……と言いましても、遊女として売られて知り合った娘と、姉妹の契りをしたのでございます」
 行灯が音を立てた。それに合わせて女の髪がほろりと解ける。その首筋に、細い文字が刻まれている。それは女の名だ。固い契りを、女はここに隠している。
「姉が死んだ後、私も後を追い死にました。でも悔しくて、悔しくて気がつけば……」
 見れば彼女の身体は、透けている。女は美しい笑顔を、部屋の奥に向けた。
 そこには、先ほどからにこにこと嬉しそうに微笑む座長が立っているのである。
 このような闇夜でも、座長の顔は蕩けるように美しい。その顔に見つめられ、幽霊女は頬を染めた。
「幽霊の身であっても、ここにお願いをすれば恨みを晴らせると……そう聞いて。伺いました。これでもう後悔はありません」
 女の身体はすう、と光に溶けた。この闇の中、まるでそれは菩薩のように輝いて鬼と轆轤は眉を寄せた。
「座長、そういうことかい」
 ずい。と最初に声を上げたのは轆轤女である。
「力もなく口上を上げてたのは、そもそもやる気などなかったんだね。幽霊の頼み事を聞くために、人間を誘うことなんざ一欠片も考えちゃいなかったんだ」
 鬼の子も、座長に寄った。座長は困ったように微笑んで、行灯に化ける。轆轤がそれを掴むと、続いてウナギと姿を変えて彼女の手からぬるりと逃げる。
「だって。ただ人を食うだけじゃつまらんでしょう。我らが生まれて何年……何千年経つのか。たまにはこのように、思いを残した幽霊の恨みを果たしてあげれば、我らの功徳もあがるというもの」
「化け物が何が功徳だ。本当なら男と女の両方を食えたところを、座長のせいで男しかくえやしない」
「太った男で食べ甲斐があったでしょう」
「座長みたいに何千年もいきた年寄りじゃないんだよ、あたしたちは。一週間もおまんま食い上げじゃ、干からびて死んじまうってんだ」
 ぎゃあぎゃあと囲まれ怒鳴られる座長は、招き猫に化け、そのあとようやく人の姿に戻った。
「……感謝もされるし、良いと思ったのですけどねえ……格好良いじゃないですか。たまにはこんな趣向も……」
「こちとら、あんたの遊びで付き合ってるんじゃないんだよ。さっさと働いてきな」
 轆轤の腹がぐうと鳴り、鬼の腹もくうと鳴った。それを見て、笑うのは腹を持たない木の天井ばかり。
 さんざん責められ座長は力なく小屋の外へ。
「じゃあ今夜頑張ってなんとか人の子を誘い込みますから……」
 五人は食べないと気が済まない。そういって大騒ぎをする声を背に受けて、座長は小屋の外に出る。
 外はまだまだ宴もたけなわ。美しい女と太った男。どれも美味しそうな人間どもが、あっちへこっちへ大騒ぎ。
 ぬるりと膚を滑る春の湿度を感じながら、座長はゆっくりと手を叩きはじめた。

 寄っていらっしゃい、見てもいらっしゃい。耳に聞くより目で見るよりも、中に入るとなお面白い。蝶と遊ぶも楽しいが、今宵は百鬼夜行の百花繚乱。さぁさ、遊んでいらっしゃい……。


 
【二夜】

 雨でも降り出しそうな、生ぬるい夜である。気の早い蚊が耳障りな音とともに飛んで、行灯に影を残す。轆轤がそれを白い指でつまんで、火に落とした。
 ちゅ。と可愛らしい音を立てて蚊の影は消えた。それだけで、部屋はまた静けさを取り戻す。
「今宵も暇だね」
「今日は幽霊屋敷もお休みだからね、余計暇だ」
 鬼子は、轆轤の煙管を横から浚って飲む。憎らしくその頭を小突いて取り返せば、鬼子はぷうと膨れ顔。
 幼くも見える少年だが、意外に年を経ていることを轆轤は知っている。そもそも、鬼だの妖怪だのに年はあってないような物。この幽霊屋敷を率いる座長なぞ、とうに付喪神の分類だ。だのに、輝くばかりに美しい。
 煙管からすう、と煙を吸い上げて轆轤は首を傾げる。
 今宵も暇な幽霊屋敷。闇の中で膝を抱えるのは轆轤と鬼と、天井に染みついた血まみれ武士のみ。
「そういや、座長は?」
「あにぃ? あいつは女衒の輩と飲みに出てるさ。吉原で上手くやってくには、そういう輩とも付き合いをしなくちゃいけないらしいぜ」
 女衒。と聞いて轆轤は眉を寄せた。つん、と鼻の奥にいやな香りが蘇る。皮膚がちりりと焼けた気もする。
「まあ」
「どうしたい、姐さん」
「あたしは、何が嫌いって女衒の野郎が一番嫌いさ。喰うのも嫌だ。おぞましい」
 轆轤は震える指を押さえるように、煙管を火鉢に放り込んだ。灰が闇に舞う。舞う灰が轆轤の指を汚した。
「あいつらはね、女をかっさらって、大金に換えるんだ。見目のいいのを浚って、金に換えて……ええ、おぞましい。あいつらは女を、金としか見ちゃいない。まだ、吉原で女を買う男の方がいくらかましだ」
「姐さん、ひどく辛辣だが過去になにかあったか」
 鬼子が、目を光らせた。歯がかちかちと鳴る。妖怪は基本的に、いつでも暇だ。このように幽霊屋敷に閉じこもり、たまに人を食うくらいしか余生を過ごさない妖怪達は特に、何をやることもない。
 野次馬、好奇心に下衆の勘ぐり。鬼子が興味津々膝をすすめてきたので、轆轤は首を長く伸ばしてあさってを向いて見せた。
「……さてね」
「そういや、おいら姐さんの過去を聞いたことがない。不思議な縁で結ばれたとはいえ、今じゃこの小さな部屋ん中で、同じ人間を喰う仲じゃねえか。どうだい姐さん。余興に過去話なぞ」
「女が長く生きてりゃあ、色んなことがあるさ。ほじくり返すような男は嫌われるよ」
 轆轤の記憶にある過去は、遙か遠くも遠く。もう、薄れて断片しか浮かばない。しかしその記憶では彼女は人であった。確かに、生きた人であった。
 まだ人であった轆轤に向かって、太った男が凶悪な手を伸ばした。笑顔のくせに、張り付くような笑みであった。
 故郷の父母は金を握り締めてべろりと舌をだした。その赤い赤い舌は、まるで蛇のよう。呆然と佇む轆轤は闇に押し込まれた。
 暴れて腕に当たり散った火鉢の灰を、噛み殺した悲鳴を、逃げようと駆け出した足を掴む太い手を、無理矢理に剥がされた着物を、力いっぱい締められた首の痛みを、殴られた痛みを、そして屈辱を。
 轆轤は時折夢に見る。
「……妖怪の道より、人の道のほうがいくらも恐い」
 そして同時に、思い出すのだ。冷たい骸の自らを、誰かが拾い上げたことを。「さぁいきましょう」拾い上げた男は伸びきった轆轤の首を撫でて、そういった。
「あなたは轆轤首になりましょうか」
 覗き込んだ顔は恐ろしく、美しい笑顔であった。

「ただいま皆さん」
 座長が部屋に戻ってきたのは、それから一刻ほどあとのことである。
 彼は着物をわざと着崩して、髪も緩く解いている。それが今の流行りであることを、轆轤は知っている。白い首筋を襟元から覗かせて、彼はいかにも女好きするような顔で微笑んで手を振る。
「いやですね。皆さん、こんな蒸し暑い部屋でじめじめと」
「あにぃが仕事を休んだせいでな。こちとら暇で死んでしまいそうだ。この際、普通の客でもいいから引き入れておくれよ。脅かして、きゃぁと言われるだけでも、ちょっとは気持ちがすっきりする」
「それもいいですが……ちょっと外に出ませんか。丁度、川沿いに旨い鰻を出す店がある。酒も上方の、樽で運んだいいのを揃えているらしい
 座長はにこにこと楽しげに、轆轤と鬼子の間に座る。鬼子の腹がぐうとなり、彼は今にもよだれをたらさんばかりの顔で座長に詰め寄った。
 脂の乗った鰻の味を思い出したのだろう。
「なんだい、あにぃよ。ひどくいい景気じゃないか」
「いやね、たまには人のように楽しみたいなぁ、なんておもいまして」
「金もないくせに」
「ありますよ」
 何事も無いように、彼は懐から紙入れを取り出す。それは、ずしりと重い。床に落とせば、闇に黄金が光る。
 ……庶民ならば、一年は軽く遊んで暮らせる大金である。
「どうしたの、こんな大金」
「あにぃ。とうとう、お金作れるようになったの?」
「聞くも野暮です。まあ……良い事をすれば、お金はころり、とね」
 座長はにこりと笑った。
「ああ、畜生。俺にも胃があれば付いて行く物を」
「天井が生意気を言うもんじゃねえや。無い指でもしゃぶってない」
 座長は何事もなく言うが、轆轤は目を細めて彼を見る。鬼子はすっかり楽しげに、天井の武士と言い合いなどをしている。
 轆轤は音もなく立ち上がり、座長の袖をひいた。
「ちょっといいかい、座長」
 しなだれるように、彼の胸元にそっと頬を寄せる。男にしては薄い胸だ。触れても、ぞっとするほどに冷たい。耳を押し当てても、鼓動は無い。
 それは轆轤も同じ事。
「……アア」
 鼻を寄せると、着物の奥底から旨そうな香りが漂う。
「血の香りだねぇ」
 それは、流れたばかりの血の香り。
「すでに、座長一人で楽しく食事をされてきたようだねぇ」
「……轆轤はいかにも、鼻が良い」
 座長の笑みは崩れない。この顔で彼は人を食うのだ。何人喰ってきたのかと鼻を動かせば、轆轤の胸にすとんと落ちるものがあった。
 今宵、座長の飲み相手は、誰だったか。
「太った男の香りだ。金の亡者の香りだ。一人二人じゃないねえ。女の涙の染みこんだ、醜い男の身体の香りだ。あぁ、そうか。ひどく食あたりのするものを、座長は一人でいただいたらしい」
「ええ、おかげで胸焼けが」
 胸をさすって、彼は手の平で小判を弄んだ。
「鰻は毒素を流すといいますから、さぞや効力があるでしょう。そしてこの金は……そうですね、浄財です。悪貨は浄財として生まれ変わるのです」
「かつて、あたしを轆轤にしたようにかい。座長」
 轆轤は彼の返事を待たずに、座長の腕に手を差し入れた。そして寄り添い、彼の肩に頭を寄せる。
「あたしは気分がいいから今宵は腕を組んであげようね。どうだい、冥利に尽きるだろう」
「はは。どうぞ鰻のように絡みつかないでくださいよ、姐さんの締め付けは少々手痛い」
「姐さん、座長。さぁいくよ。腹が減ってしかたねえや」
 鬼子の元気の良い声が響く中、行灯に散ったはずの蚊が不意に目の前を飛んでいく。
 それは、不気味な赤い目を持つ蚊となった。
(この部屋の中じゃぁ、仕方の無い話)
 何が起きても不思議では無い。それが吉原の片隅、幽霊屋敷のしきたりだ。そっと座長に寄り添い久々外に出てみれば、そこは花の行灯輝く夜の町。楽しげにさんざめく蝶たちの何人が、隠れて涙を流しているのだろう。と轆轤は思った。
「おや、雨ですねぇ。しかしたまには濡れて歩くも楽しいものです」
 頬を濡らした雨が大地に染みを作る。
 それを踏みしめ歩き、やがて彼ら小さな百鬼夜行の影は闇夜に紛れてかき消えた。
 残ったのは、本日休業の立て看板が揺れる小さな小屋のみである。


 
【三夜】

「奢りで喰う鰻ってのが、また旨いもんじゃねえか。なあ姐さん」
「あんたは少しがっつきすぎなのさ、ああみっともない」
 久しぶりの満腹感を味わって、鬼子は下品に口を鳴らした。
 座長が案内した鰻屋は、確かになかなかの味わいだった。大金をちらつかせたおかげか、一番いい席で酒や鰻のどんちゃん騒ぎ。轆轤など、気を抜けば首が伸びそうで鬼子が抑えるのに苦労したほど。
 元はドジョウの店だというが、いい仕入れ先を見つけたことで最近は鰻を旨く食わせる店になったという。
「本当はもっと生のほうが、おいらは好きだな」
 口を拭って鬼子は言う。本当ならば、生を頭から喰いたいところだ。無論、人の目の前でそれはできない。それどころか、見た目は少年であるために酒も飲めない。それが、少しばかり心残りであった。
「おや」
 幽霊屋敷の面々で、歩いて吉原に帰る途中。流れる川を見て彼は足を止める。
「なあ。あにぃ。この川には鰻は出ねえが、ドジョウはいると言う噂だね」
「らしいですねえ。でもおよしなさい。ドジョウだって素人じゃ捕まえるのは難しい。逃げられてしまいですよ」
 澄んだ川だ。この深夜、人ならば潜れまい。しかし、彼らにとって闇はむしろ光よりも有り難い。鬼子がそっと覗き込めば、川の中をゆったり泳ぐドジョウの姿が見えるのである。
 夜だ。眠っているのかもしれない。どちらにせよ、安心しきっている。
 鰻に比べると泥臭いが、頭から囓れば、足りない血の気を補えるはずだ。
「ちょいと潜ってみる。座長と姐さんは先に帰っておくれ、絶対戻るから」
 そういって腕をまくる鬼子を、座長が冷たい目でみた。常に優しげな彼の顔とは思えない、冷たい面持ちだ。漆黒の目に睨まれて、鬼子の膚が総毛立つ。足首が、ちくりと痛んだ。
「あにぃ、そんな目で見るのやめておくれよ。おいらをまだ信用できないかい。そりゃ昔は、逃げたこともあったかもしれねえが」
 轆轤はこんな時、知らんぷりだ。
 吉原に向かう酔客に卑猥な言葉をかけられて、わざとらしい嬌声で返している。
 鬼子は恐る恐る、裾をまくり上げる。現れた細い足には、赤い筋。それは、じゅくじゅくと、腫れ上がっている。
「こんなにされて、おいらがあそこから逃げられるか」
「まるで私を悪い男みたいに言わないでくださいよ」
 にこり。と、花が咲くように座長が笑った。
「私達は家族ではないですか……全く。子供の我が侭には困りますねえ。では、先に戻りましょうか」
 しかし、目の奥は笑っていない。その顔のまま、座長は轆轤の手を取り背を向ける。
「次の鐘が鳴るまでですよ。それ以上になるなら……」
 細い目が、鬼子を貫いた。
「知りませんからね」
「わかってらぃ」
 鬼子はやっと気を抜くように、長く息を吐き出した。
「……さ、足が痛む前にやっちまおう」
 ドジョウはまだ眠っている。そろり、と足を水に差し込む。手を伸ばす。爪をひり出す……と。
「おや」
 川縁に、女の姿を認めて鬼子は手を止める。
 それはまだ幼い少女だ。黒い髪がつやつやと美しい。膚は色黒だが、なかなか見目麗しい少女である。
 吉原の禿かとも思ったが、そうではない。それを証拠に、彼女は片目が潰れている。
「おいおい、お前怪我を」
 その傷は古いものだろう。まるで釘で射抜かれるような傷だ。そう、鰻やドジョウが目を打ち抜かれてさばかれる、その様によく似ていた。
「あなた、私が見えるの」
 少女は無事な目を見開き輝かせた。鬼子をすがるように駆け出してその手を掴んでくる。
 ぬるりと、冷たい手だ。
 ……人の温度では無い。
「助けて」
「アァお前さんはドジョウか」
 少女は手に、小さな刀を握っている。それはまだ新しい。握り慣れていないのか、ふるふると震える手だ。これでは人を刺すどころの話ではない。
 彼女の眼光は、鰻屋を睨み続けている。
 鬼子は彼女を川辺に座らせて、その手から刀を奪う。彼女は憂いに沈み、片目からぽろぽろ涙を落とした。
「どうした、喰われて化け物になったドジョウか? この店主を恨むのかい。でも弱い物が喰われるのは、世の習いじゃねえか。なあ、こんな物騒なものは閉まっておきな」
「喰われただけなら恨みもしません。この鰻屋は非道」
 彼女は静かに語った。少女に見えてその実、年は経ているのだろう。そうでなければ、人になど化けられぬ。
「私は、この川のずっとずっと上流に住むドジョウです。もう幾年も生きて人に化けることもできるようになりました」
 彼女は語る。美しい川に住むドジョウの女。一度は捕まり、喰われかけたが川に逃れて片目の負傷で済んだ。
 その後は美しい川で、仲間のドジョウと楽しく暮らしていた。そのはずだった。
「この店はドジョウを下流に追いやるために、上流に毒を流し込んだのです」
「なんだって」
「私を残してみな、死にました。私の幼い兄弟も、みな」
「……」
 事件の日。彼女は運良く人にばけ、町で遊んでいたという。土産などをもって里に戻れば仲間は皆、白い膚を見せて浮いている。
「それだけでも許せないのに、この店主はドジョウから手を引いて、鰻に……その方が大金を儲けられるとそういって」
 恐怖と驚きと悲しみで彼女は震えた。今もまだ怒りはとけないのだろう。指がぶるぶる震え続けている。
「ならば私達の兄弟はなぜ、皆、死なねばならなかったのです」
「……まあ、まちな」
 黙って彼女の話を聞くうちに、思い出したのは古い古い記憶である。

 それは貧しい村であった。
 明日食うものも困るほどの、村であった。
 しかし村はまるで一つの家族のように仲が良く、飢饉の際も手を取り助けあった。
 ある日。少年は親の言いつけで山の奥まで清水を取りに出る。朝に出て、昼には戻れるはずであった。幼い妹が風邪を引き込んだのだ。それにはこの水が一番効く。
 妹の喜ぶ顔を見たいがあまり、駆けてもどった少年の目に映ったのは惨状であった。
 生臭い血の香りであった。
 見た事もない浪人たちが村で暴れているのである。約束の年貢米より少なかったとそういって、暴れる男の顔はまるで鬼のよう。
 刀をふるい、逃げ惑う農夫を切った。新婚の若い娘は浚われた。そこで少年は目を丸くする。自宅は、どうだ。まだ幼い妹は、父は、母は。
 必死に駆けつけた彼がみたものは、今まさに鋭い刃に貫かれた妹の姿である。妹を庇って両断された父母の遺骸である。
 彼女は兄の姿を見たのか、小さく微笑んだ。そして、その黒い瞳から命が消えた。
 そこより先の記憶は薄い。ただ立ち向かった気はする。刀を奪い、幾人かは斬った。夕陽に晒され伸びた自分の影がまるで鬼のようであった、と少年は思い出す。
 しかし多勢に無勢。あっさりと押さえ込まれ、足首をきりおとされた。火が付いたように、熱くなり激痛が走り、そして意識が薄れる。
 最期にみた風景は、浪人の上げる悲鳴であった。何者かが闇に乗じて訪れたのである。それは霞のようでもあったし、炎のようでもあった。
 それは咀嚼音をたてながら、浪人を吸い込んでいく。吐き出されたのは、臓物か骨か。
 あっという間のできごとだった。霧はやがて人となり、少年の側に寄る。
 もう、脈も止まりかけている少年に逃げることなどできやしない。
 男はそっと少年の足に触れた。それだけで痛みが和らぐ。
「酷いことだ。ねえ、一緒においでなさい」
 男は血に濡れた唇で、にぃと笑う。
「あなたは良い鬼になれそうですね」
 微笑んだその顔は、この場に似つかわしくない美しい顔だった。

「おいらがやる」

「は?」
「まあ、そこにいろ。ドジョウごときが人を食えるかよ」
 鬼子は立ち上がり、肩をならした。ドジョウを食うより、人の方が余程旨いことを鬼子は知っている。
 ……あの鰻屋の味がなくなるのは残念だが。
「ちぃっと、待ってな。恨み果たしてやらぁ」
 そして風のように駆け出した。店に滑り込み、行灯をふうと吹き消す。
 光が消える瞬間、少女は見たであろう。店の中に浮かんだ少年の影を。それは、二本の立派な角を持っている。

「ちっ。怯えさせたか」
 はち切れそうな腹を抱えて戻れば、川辺にはもう誰も居ない。
 小さな店の惨状など誰も気付かないのか、吉原へ向かう客がへらへらと歩くばかりである。
 あのドジョウの化身はもういない。
「しゃあねえ」
 血に濡れた口を拭って、鬼子は駆け出す。そろそろ、座長がしびれを切らす頃。足に付けられたまるで切り傷のような跡が、じゅくじゅくと誘うように傷むのである。

「ただいま」
 今や自宅ともなった幽霊屋敷に駆け込むと、轆轤が文字通り首を長くして待っていた。
「遅いねえ。今宵、幽霊屋敷を開くんだってサ」
「あにいの、また我が侭かい」
 表から、座長の下手な口上が聞こえてくる。今宵は酔客が多い。客も引っ張りやすいのだろう。鰻を食ってやる気になったのかもしれない。
 しかし鬼子はどうにもやる気が起きない。それは、この膨れあがった腹のせいだ。
「正直、おいらもう腹いっぱいで……」
「おや、あんた」
 轆轤が延ばした首で鬼子に顔を近づける。彼女の白粉臭い鼻が、幾度がうごめく。
「恋でも、したのかい? えらく艶っぽい」
「冗談いうねぃ」
「冗談さね」
 吐き捨てるように轆轤はいう。見つめて笑いあい、そしてやがて二人の顔は商売用のそれへと変わる。いや、商売用なのか。はたまた本体か。
 天井からは、血まみれ武士の不気味な笑顔。
「さぁさ、幽霊屋敷の開幕だ」
 闇の奥。戸が開くのを見て、三人はゆっくりと顔をそちらに向けた。


 
【四夜】

 見ず知らずの男に声をかけるなど、はしたない。そんな真似をするな。彼女は父や母からそう聞かされて育ってきた。
 特に人に化けているときに男に声をかければ、どんな目に遭わされるか分かったものじゃありませんよ……と。
「あ……あの」
 幾度も迷い彷徨って、それでも勇気が出ずに何度も川で顔を洗った。なんとか勇気を振り絞り、道を行くその男に声を掛けることができたのは、もうすっかり夜も更けた頃である。
「あの……」
「おや、なんでしょう?」
 男は洒落た着物を身につけて、行灯を持ってゆらゆらと歩く。長身だが威圧感のない男である。振り返った顔は、驚くほどに美しく彼女は思わず赤面する。
 白い膚に切れ長だが優しげな瞳。唇は赤く、まるで絵に描いたような美しさ。できるだけ顔を見ないように俯いて、彼女は必死に声を上げる。
「そちらに、あの……そちらのお店に、男の子いますか、あ……わ……私の名前は」
 人は名を持つものだ。彼女はそんな当たり前のことに今更気付く。慌てて周囲を見渡せば、目に入ったのは「吉原」の文字。
「よ……吉と申します。そちらの男の子に、以前助けていただいて。それで、怪我のお薬を。水草なのですが、これを傷口に当てると、とてもよく効くの」
 男は優しげな顔立ちで吉を見つめる。しどろもどろになりながら、彼女は必死に水草を持つ手を差し出した。
「足に怪我を……していたから」
「ええ、ええ。うちの幽霊屋敷には、確かに男の子が一人。いつからこんな可愛いお友達が出来たのでしょうねえ。隅におけない」
 男は目を細めて、その草を受け取った。
「でもね、女の子がこんなところを歩くもんじゃありません。変な人間に捕まってしまいますよ……特にあなたのような、まだ若い子はね。ほら、腕にヒレが見えていますよ、ドジョウのお嬢さん」
 最後は囁くような声だが、吉の身を震わせるには十分である。恐怖に突き上げられるように、彼女は逃げ出した。
 男はにこやかに逃げる吉を見つめている。彼を取りまく闇は、一段と深いように思われた。

 ドジョウの化身である吉が、どうしてもかの少年に会いたい。と決意したのは三日前のことである。
 吉には恨みを持つ男があった。それは吉の家族を殺した男である。
 ドジョウの仇討ちなど聞いた事もない。しかし、家族を殺された恨みに人もドジョウもないだろう。殺してくれようと挑んだ彼女の代わりに、見知らぬ少年が仇を討ってくれた。
 どのように罪を降したのかは分からないが、ただ彼が仇人を食い殺したことだけは確かである。
 その時はあまりの恐怖に逃げ出したが、礼も言っていないことに気がついた。
 かの少年はどこの子かも分からない。ただ出会ったのは吉原の近くである。息を潜め水にも潜り、出会いを待った。
 それから、二度ほど見かけた。綺麗な女や、男と共に呑気に歩く姿を見た。
 彼らは親子には見えない。しかし、家族のようであった。
 礼を言うために幾度も声をかけようとしたが、そのたびに挫けた。今日になって、ようやく家族らしき男に声を掛けることができたが、それでも吉にとっては必死のことである。
(またやっちゃった……)
 噂によると彼らは吉原の中で幽霊屋敷を開いているらしい。一度そこへ向かい、今度こそ礼をきちんと言わなくては、と吉は思う。
(今度。じゃだめ。今じゃなきゃ)
 だから彼女は勇気を振り絞って、吉原の中を覗くことにした。

 少女の姿では入ることもかなわない、それが吉原だ。彼女は思案の上、ドジョウの姿に戻る。
 ぬるりとした身体は黒く、水に潜ればまず人には見つからない。吉原に注ぐ川の流れに乗り、辿りついたは華の町。
 白粉の香りと赤い光に目を回しながら、川をいけば、下手な文字で「幽霊屋敷」書かれた小屋を見つけた。
 人の身に化け直し、そうっと覗こうとすると木陰に人を見た。
(……!)
 それは見知らぬ男である。少年でもなければ、先の男でもない。人相も悪い彼らは、小屋をそうっとのぞき込みながら、何やら囁きあっている。
 それがあまりにも異様な空気なので、吉は息を潜めて近づいた。
「どうする」
 男達は語る。それは短い言葉だが吉にも理解できる。男達は、小屋に火を付けようとしてる。
(た……助けなきゃ)
 足音もなく潜み近づくのはお手の物だ。背まで近づいても、男達は気付かない。ぐっと息を飲む。震える手を伸ばすと、それはドジョウのヒレとなる。水に濡れたそれを、男達の背に、打ち付けようと。した。
「お嬢さんが手を汚すことは、ありません」
 影が揺れた。それはまるで小屋の壁からするりと抜けたようであった。例えるのならば黒い霧だ。黒い影だ。それはぬるりと現れ、男達の上を包む。
 思わずへたり込む吉の前で、男達は声もなく、消えた。
 残ったものは、小さな血だまり。そして、口を拭うかの優美な男だけであった。
「あらまぁ、腰が抜けてしまいましたか」
 彼は優しげにそういって、手を差し出した。驚くほどに白い手である。
「……あ、あなたは、いったい何者なのです」
「私は長く生きて忘れてしまった」
「この、幽霊屋敷は……」
 男は優しく吉を抱き上げた。近くで見れば、心が蕩けそうに美しい顔をしている。
「あの子達は皆、可哀想な子なのですよ」
 いきましょう。と彼は言った。そして吉を抱き上げたままの格好で、吉原の出口へと向かう。
 賑やかな嬌声と明るい光の町だ。しかし、そのせいか、そこにある影や闇はいっそう深い。
「長く生きる間に私は色々なものを見てきました。例えば、あなたのように、人に化けるものや幽霊も。知っていますか人もドジョウも、恨みを残して逝くと、たちの悪い物になる」
 吉は思い出した。あの少年が仇を討ってくれた時、確かに影に角を見た。高い笑い声も聞こえた。人を殺すことを楽しむ声であった。
 しかし吉に対する彼は、どうしたって純真であった。
 誰にも救われず闇に飲まれれば、あの子は恐らく鬼となった。
「あなたが、あの男の子を救ったの?」
「救うなんてそんな大げさなこと」
 彼は笑った。彼もまた大いなる闇を背負っている。しかし、ぎりぎりのところで足を留めている。そんな気がした。
「側に留めることができればと、そう思っただけです。長く生きる間に、哀れと言う言葉を知ったのです。誰も、自ら狂った世界に進みたくはないでしょう。ただ、恨みがそうさせるのならば哀れです」
 吉を地面に下ろしながら彼は語った。吉は自分の手を眺めて、思い出した。かつて仇を討とうと誓った時、吉もまた狂っていた。この手に刀を持って、相手を殺すことばかり考えていた。
「誰だって、一人で生きるのは寂しいでしょう」
 男は微笑んだ。吉の胸がぐっと、いたむ。寂しい。その言葉が吉の胸に刺さった。
 化け物である以上、寂しいなどという感情を抱いては駄目だとそう思っていた。
 しかし、寂しいとそう言ってもいいのだ。待つ人の無い川へ戻り、一人で泳いだとき、頭上に見える月を眺めて湧き上がる感情を、寂しいという言葉で語って良いのである。
「私……知ってます。そういうもの。私の住んでいた川のフチに小さなお堂があるの」
 男の手は冷たいが、不思議と恐くない。近づきがたいが、恐くは無い。それを、吉は知っている。
「観音様というのです」
「アァ、うれしい事を」
 男は呵々と笑い、吉の頭を撫でる。
「でも、そろそろさようならですねえ」
「え」
「長くここに居すぎました。幽霊屋敷は閉店ですね。そろそろ、周囲に目を付けられはじめた」
 男は言う。先ほど小屋に火を付けようと企んだ男達は、けして珍しい客ではないと。吉原の一角で商売を営む以上、色々と金がかかる。それも大金だ。
「もちろん決められた額は納めていますけどね。私達のような異端を見ると、ああして強請がでるのです。もちろん今のように……」
 彼の目がすっと細くなる。それは蛇のようにも見えた。
「食べることもしますけど、やり過ぎるとやはり目立つ。それに、私一人じゃ食べきれない。小屋の子たちには、こんな汚い物を食べさせたくありませんし」
 だからもう、ここに長居はできないと彼は言う。
「鬼子……あなたが男の子と呼ぶ子のことですが、彼への御礼は私からしておきましょう。すぐに別れるのに、あわせるのは酷ですから」
「どこへ……どこへいくのです」
「さて。いずこなりとも」
 さようなら。男はいって吉原の出口から吉の背を押す。二三歩たたらを踏んで、吉は耐えた。去ろうとする男の手を掴む。男は驚いたように目を見開いた。
「待って。なら私が……あなたをお助けします」
 
 吉が男を連れていったのは、川の上流だ。その水底には美しい石がいくつも散っている。ここは昔から人々の信仰の地である。
 美しい石は、人々が投げ込んだものである。美しい川に潜り、一つ掴んだ吉はそれにフウ。と息を吹きかける。
 ……と、そこに現れたのは小判である。
「なんと」
 男が目を丸める。吉の差し出した小判をあちこちから眺めて、そしてため息を付いた。
「驚いた」
「私には人に化ける他にこの技を持っています。と言ってもこれまで何の役にも立ちませんでしたが」
 これが何枚あれば良いのか吉には分からない。ただ百枚必要というのなら百回でも息を吹きかけよう。と思う。
 息が絶えるまで吹きかけてもいい。それが彼らを救う事となるのであれば。
「これがあれば、助かります。貴方になんと御礼を言いましょう」
「御礼なんて。ただ」
 真面目に頭を下げる男の手を握り、吉は震える声で呟いた。
「私をあなたの仲間に、入れてください」

「まあまあ、皆さんもうお眠りですか」
 座長がのんびりとした声で幽霊小屋に戻ってきたのは、明け方のことである。
 すっかり眠り込んでいた鬼子は轆轤に蹴り飛ばされて目を覚ます。
「おぃ、あにぃ。なんだいこんな明け方に。しかも昨日仕事さぼりやがったな。急に姿を消しやがって……ん?」 
 眠い目を擦り擦り起き上がれば、闇の中に爽やかな座長の顔が見える。その隣に小さな影も見える。
 目を細めれば、そこに立っているのはかの、ドジョウの娘ではないか。
「お、おいお前。なんだ、おい」
「座長、ちょっと説明してもらうよ。どうしたの、女なんか連れて。何、座長はそんな子がお好きなのかい」
「馬鹿、轆轤姐、ちげえよ、この子は」
 川辺で見つけた、気の弱いドジョウの娘は鬼子を見てにこりと笑った。愛らしい笑みに、鬼子はぽかんと口を開けることとなる。
「おい、あにぃ。説明しろよ……まさか、この子に手を出して」
「……吉と申します」
 彼女は頭を下げた。先日見かけた時の、気弱な顔ではない。しっかりとした意思を持つ顔だ。
 ……先日までの彼女は孤独に押しつぶされそうな顔をしていた。しかし今は、確かに笑っている。
「皆さん。ご紹介しましょう。新しい家族が増えました」
 座長がご機嫌に微笑んでいる。その背が吉の背を押して、彼女は頬を赤く染める。
 座長はまるで、我が娘でも見るような目。わざわざ腰を落としてその耳に、何やら優しく囁きかけた。
「……鬼子、初恋は実らないってね」
「姐さんこそ、年増の嫉妬は醜いぜ」
 三つ指を揃えて座る幼い彼女は首を傾げて二人を見る。そして続いて天井を見上げた。
「あら、そこにもいらっしゃるのね。どうぞ……よろしくお願いします」
 天井に住み着く武士は、照れたのか情けなくもじたばた蠢き、聞こえるか聞こえないかの声で。
「うむ」
 とだけ言った。歴戦の怨霊と噂に聞いたが情けの無いことだ。と鬼子は思って爪を噛む。
「なんでい。どんなやつでも新しいのが増えれば、幽霊屋敷も賑わうぜ。なあ。百鬼夜行にゃまだ足りねえが」
「あと95人ほどでしょう? あっという間ですよ」
 座長はのほほんと、そんなことを言う。
「いつかは百鬼夜行の列を成し、この吉原を驚かせてあげましょう」
 幽霊屋敷を飛び出して、吉原の空を大地を水の中を、化け物が進む。大声で歌いながら踊りながら化け物の本性を剥き出しにして。
 人は驚くだろう逃げ惑うだろう。しかしそれが彼らなりのお披露目だ。どこの太夫よりも、きっと見事に歩いてみせようと、五人は顔をつきあわせ意地悪く笑った。
 外には、ゆるゆると朝がくる。
 闇を背負った吉原に、ようやく朝日が昇りはじめたのである。

『ヘッセ』 犬子蓮木

第四夜エントリー
投稿時刻 : 2014.05.06 23:23
最終更新 : 2014.05.06 23:29
総文字数 : 2822字

獲得☆4.143


《入賞作品》
ヘッセ
犬子蓮木


 犬小屋の前にぼくは立っている。この犬小屋は大きくて、犬小屋自体があるお屋敷とちょうどバランスがいい具合になっていた。
 ここは誰も住んでいないお屋敷。ぼくは最近、このお屋敷に遊びに来る。このお屋敷には幽霊がでるってことを最近ぼくは知った。だけどこのお屋敷がいくら古くてぼろっちいからって、幽霊屋敷なわけではない。幽霊がいるのは、そう、庭の犬小屋。ぼくは、その幽霊犬小屋にでるシベリアンハスキーの幽霊、ヘッセと遊びにこのお屋敷に来ているのだ。
「ヘッセはさあ、なんで幽霊なの?」
「さあ、わからない」
「さわれるし」
 僕は犬小屋の前で伏せていたヘッセに抱きつく。もふもふして暖かい。幽霊なんかじゃなく、ふつうに生きているみたい。
「気を抜くと触れないけどね」
 ヘッセがそういうとぼくは透明になったヘッセの体を通過して地面に転がった。痛い。
「ちょっとー」
「ごめん」ヘッセは申し訳なさそうに長い鼻の頭を前足で撫でていた。
 ヘッセがまた普通の犬みたいに透明でなくなったので僕は彼女に寄りかかった。
「昔からおしゃべりできたの?」
 ヘッセが首を振る。
「いつのまにかこんな風になって、それから君がきて、はじめてだよ」
 いまのところは、ぼく以外にここへ遊びに来た人はいないらしい。ぼくも一週間ぐらい前にはじめて知ったばかりだから、ほんとうについ最近だ。
「他の人とも話せるのかなー」
「できればやめてほしいかな」
「なんで?」
「大騒ぎになるかもしれない」
「いやなんだ?」ぼくはうししと笑う。
 ヘッセはごろんと地面に転がった。ぼくもそのままヘッセのお腹に頭を乗せる。
「人間にはいい人もいやな人もいるからね。会う人は少ないほうがいい」
「いい人にもたくさん会えるかもじゃない?」
 ヘッセは考えるような顔をする。普通の犬がそんな顔をしているかぼくにはわからないけど、ヘッセの顔はなぜかどんな風に思っているかがなとなくわかるんだ。
「わたしは人間が嫌いだから」
「飼われてたのに」
「だからね」
 ヘッセが目をつむってしまう。ヘッセは生きている間になにかイヤなことがあったのだろうか。ぼくは全然わからない。このお屋敷に人が住んでいたのだって、もう何年も前のことだって聞いている。ヘッセの犬小屋もぼろぼろで屋根に穴が空いていたりした。
 ぼくもヘッセのように目をつむる。ヘッセのお腹はとても暖かくて、幽霊なんて嘘みたいだ。そして、透明になってぼくが地面に落ちないから、ヘッセが寝たふりをしているんだって、ぼくにはわかる。
「ぼくのことはきらい?」
「……そういうときは好きか、と聞くものではないかな?」
「どっちだって一緒じゃん」
「そうだけど……」ヘッセはぐるると喉をならす。「答えを言えば、息子みたいだと思っているよ」
「ヘッセがぼくのお母さん!」ぼくは驚いて飛び跳ねてしまった。
「わがままであまえんぼうなところなんか、たぶんそんな感じに、君のほんとうのお母さんも思ってるんじゃないかな」
「変なの」
 ぼくはそのまま眠ってしまう。

 ぼくは夢を見ていた。ぼくがヘッセにまたがって、ヘッセがいろいろなところを走る夢だ。ぼくとヘッセは旅をしているらしい。砂漠の国や海の国、森を走って、雪を食べて、ぼくはヘッセの相棒のつもりなのに、ヘッセはぼくを手間のかかる息子だって言う。失礼しちゃうよね、と思うけれど、ぼくはいつもヘッセに助けられてばかりだから、あんまり偉そうなことも言えない。
 あるとき、ヘッセが珍しいしゃべる犬だって、大金持ちの家来たちに連れて行かれた。ぼくには袋いっぱいの黄金を渡されて、これでいいだろってお別れさせられた。
 いいわけないじゃないか。
 ぼくとヘッセは友達なのに。
 ぼくはひとり、大金持ちの宮殿に乗り込んでヘッセを助けようとした。だけど家来に見つかって、つかまって、街から追い出されてしまった。
 もうヘッセには会えない。
 そう思っただけで、涙があふれてきた。

「ヘッセ!」
「なに、怖い夢でも見ていたの?」
 ぼくが目を覚ますとぼくの頭の下にヘッセはなんにも変わらずリラックスした様子で寝っ転がっていた。
「別に怖くないけど」
「泣いてるのに」
「あくびだよ!」
「そう」ヘッセが笑った。「そういうことにしておくよ」
 ぼくは立ち上がって、それから勢いよくまたヘッセに抱きついた。地面に膝をついて、ちょっと痛いけれど、ヘッセのやわらかい毛が心地よかった。
「ずっとここにいてくれる? ぼくとあそんでくれる?」
「さあね」ヘッセが言う。「ずっとなんて約束はできないし、わたしがいつ消えるのかもわからない。いまだって、消えようと思えばすぐ消えられるんだ」
 ヘッセがさっと消えて。抱きしめていたぼくの両腕が空を切った。それから少しだけ離れたところにヘッセが現れる。
「なんで消えるんだよう」
「消えられるから、消えるんだよ」
「消えるなよ!」
「できるだけ、努力はするよ」
 ヘッセがゆっくりとぼくの方に歩いてきて、ぼくの顔をなめた。
「しょっぱいなあ」
「汗でしょ、泣いてないし」
「そう。でも、もう日が沈むから帰りな」
「また明日ね」
「明日があればね」
「そういうこと言うなってば!」
「性格なんだ。仕方がない」
 ぼくは立ち上がって、砂を払って、ヘッセの顔にぼくの顔を近づけてぎゅっとくっつけてから離れた。
「じゃあね」ヘッセが言う。
「またね!」
「うん、またの機会に」
 ぼくは大きく手を振ってからお屋敷の塀のほうに進む。それから割れたできた穴をくぐって、お屋敷を出た。帰って、お風呂にはいって、ごはんを食べて、宿題をして、眠って、起きて、学校へ行って、またヘッセに会いに行く。
 だけど、次の日、お屋敷にいったら、ヘッセの犬小屋はどこにもなかったんだ。
 ヘッセも消えていて、
 ぼくがなんども呼んでも、ヘッセはでてきてくれなかった。
 きっと透明になってぼくのこと笑ってるはずなのに。
 ぼくが泣いても叫んでも、
 いじわるしてでてきてくれなかったんだ。
 
 ヘッセとの数日間が、ぼくにとってのなんであったのかはわからない。夢だったのか幻だったのか。意味があることなのか、ぼくにいい影響を与えることなのかもわからなかった。ぼくは少しずつ大きくなって、今では高校生になった。それでもヘッセのことを忘れることなく、たまにお屋敷の前を通るとき、忍び込んでヘッセを捜した。
 だけどそんなことができるのもの今日が最後だった。
 ぼくの目の前でお屋敷が壊されていく。
 犬小屋はとうの昔になくなっていたけれど、ヘッセと遊んだ、その庭も重機たちが壊していった。
 ヘッセはなんでぼくの前にあらわれたのだろうか。そんなすぐに消えてしまうなら、出てこなければよかったのにと思ってしまう。一度も会わなければ、こんなに悲しくなかったのにと。
 それはたしかにそう思っていて、だけどそうではないとも思っていて、答えは決めることができないものだともわかっている。
 ただ、もう一度、ヘッセと遊びたいなとだけ、どうしても思うのだ。
 たとえそれが夢でもいいから。

<了>   

『高速道路』 粟田柚香

連作/第一夜エントリー
投稿時刻 : 2014.05.03 23:45
総文字数 : 3459字

獲得☆4.000
僕がその老人と会ったのは、白い蛍光灯が一定の距離を几帳面に守りながら、やはり一定の距離ごとに落ちる暗闇をも黙認している、長いトンネルの中だった。彼は路肩のわずかな石段、ちょうど僕の足の幅ほどしかない路肩の段の上を、片手はコンクリートの壁に這わせながら、一歩一歩慎重に歩を進めていた。僕はちょうど高速道路をかなり長い時間走ってきたところだった。夜空にサンルーフを開け放して、クラシック音楽専門のインターネットラジオを流したまま、次第に傾いて僕の視界から姿を隠そうとする北斗七星を追いかけながら車を走らせていた。そのためトンネルの中で僕は目指すべき指針を見失い、ジュリエットの姿が見えないことを歎くロミオの悲壮感を味わおうと務めていたから、高速道路のトンネル内を徒歩で進む老人の姿には、たいそうぎょっとさせられた。

老人は疾駆する僕の車の少し先を、夜走るどんな車両よりもゆっくりと歩いていた。トンネルはやや下り坂になっていて、僕の片足はブレーキに乗っていたから、動揺する気持ちとは裏腹に(夢想独特の浮遊感を打ち破られた時の暴力的な衝撃!)車はスムーズに減速した。一度は老人を追い越したけれど、行く手におあつらえむきの退避スペースがあった。僕は車を停めてシートベルトを外し、スライド式のドアを開けて、トンネルの中を引き返した。幸い僕の走っていた車線に他の車はいなかった。
ほどなく老人に追いついた。老人は僕が戻ってくることを知っていたようだ。なぜなら彼との間の距離がまだ2メートルはあろうかというところで、向こうから声をかけてきたのだ。
「サンルーフは閉めておくべきだな」老人にしては甲高い声だ。少なくとも僕にはそう聞こえた。「特にトンネルの中では。排気ガスが入ってきてしまう」
「いったい、どうなさったんです」僕は聞いた。
「家に帰りたいんだが」彼は答えた。「車をなくしてしまってね」
「なくした?盗まれたんですか」
「いいや違う。トランプに負けて引き渡したんだ」
僕は舌打ちしそうになった。すんでのところだった。じゃあなんで一般道や電車、もしくはタクシーを使わないのかと口にしそうになった。車がなくなったから、歩いて高速道路を踏断するなんて!やめたのは、困った立場の人に非難を投げかけるべきではないという、僕自身の良識からだ。
「それじゃあ、僕の車にお乗りなさい」僕はそう言った。「行けるところまで、お送りしましょう」
「もちろん、そうさせてもらう」と、彼は言った。言い方は穏やかなものだった。「が、そう遠くまでじゃない。このトンネルをでるところまででいいんだ」
「なにを言っているんです。トンネルを出たところで下ろして、どうやってお帰りになるつもりなんですか」
「すぐに分かるさ」そういって、彼はスタスタと僕を追い抜き、待避所にある車の方へ向かっていった。僕はあわてて追いかけた。対向車線を一台のミニバンが通りすぎた。
僕が運転席のドアを開けると、老人はとっくに助手席に収まって、シートベルトを締めたところだった。
「この甘い香りは何かな」彼は言った。「オレンジのカクテル?」
「違います」僕はそっけなく言って、車のサイドブレーキを外した。
「実験をしたことがある」彼は勝手に続けた。「ピールジョッキ一杯、ワイングラス一杯、カクテルグラス一杯、日本酒1合をいただいて、車に乗る。どの酒が一番ハイになれるか、どの種類が一番アブナイか。確かめれば、何も怖いことなんてない」
僕はもう返事をせずに、サンルーフを閉めようとした。
「開けておいてくれ」彼は言った。
「でも、排気ガスが」僕は答えた。
「星が見えないじゃないか」彼は言った。
トンネルの中ではよく見えなかったが、車内の明かりのなかで見ると、老人は思ったより小奇麗な格好をしていた。上半身は彼くらいの年齢の人が常に着ているジャケットだが、ビロードの様な光を含んだ生地で手入れも行き届いており、毛玉一つ見当たらない。正面のボタンは全部止められていたがその一つ一つがすべて違う色で、これもよく磨かれており、紺調のビロードの上でピカピカ輝いていた。ズボンには特に変わったところはなく、靴は座席の下に隠れていて見えない。人相はと言えば、頭髪はあまり面影をとどめておらず、代わりに綿毛のように真っ白な眉毛が頭頂よりすこし下にふさふさと揺れており、瞳は分厚く垂れ下がった瞼に隠されほとんど表情を示さない。鼻筋はちょっとみかけない立派な鷲鼻で、若い頃はさぞ高々としていたのだろう。年月が否応なしに積み重ねる皺が彼の皮膚を覆い尽くしていたが、その襞は綺麗にととのえられており、えくぼはその中でも埋もれることなく際立った存在感を示している(きっと皺だらけになってから生れたのだ)。実のところ、彼を老人たらしめているのはその数々の皺と、動作から永久に失われた機敏さだけで、何かのはずみに空でも飛んでしまいそうな、正体の分からないエネルギーが潜んでいた。
僕は結局サンルーフを開けたままにして、車を発進させた。動力を加えられたタイヤはするすると回り、下り坂を駆け下り始めた。
「そんなに急ぐことはない」老人が呟いた。僕はブレーキを踏み込んだ。

トンネルの先は長かった。すり鉢状の山を長々と貫く横穴の中を、僕と彼はだまって滑り降りていった。時折対向車線に大きなトラックや、小さなトラックが通りすぎた。僕はいつの間にかまた、トンネルの入口で見失った北斗七星のことを考えていた。出口で我々はまた出会えるだろうか?やむにまれぬ障害によって引き裂かれた2人がまた出会う時の感激、それは星と人の間でも同じだろうか?たとえそれが、人からの一方的通行にすぎないものであったとしても、星は常にあの偉大なまたたきで、僕たちに答えを返してくれる。人は所詮受け取り手にしかなれない。隔絶された宇宙と地球の距離を人の力で埋めようなどと、大それたことを考えるのはやめるべきだ。詩人も音楽家も、ずっとそうやってきたのではなかったか?…
「大それているから、美しいこともある」老人は言った。

車のナビ画面は、永遠につづくかと思われたトンネルももうすぐ終わりに近づくことを告げていた。僕は夢想を断ち切り、老人に声をかけた。
「どちらまで行けばいいんです」
「トンネルの出口までだ」彼はまた言った。
「そんな話は聞けませんよ」僕は言った。「貴方のようなご老人を一人、真っ暗の高速道路の上に投げ出すなんて。どんな事情があるかは知りませんが、安全な場所までは下ろしませんから」
「やれやれ」彼の声はなぜか、少し明るくなった。「迎えが来るんですよ。だからそんなにお手間をお掛けすることはないんです」
「迎えですって?」
「はい」
「一体、どこから?」
「迎えといいますか」老人はぼんやりと上方を見上げた。「彼女、トンネルの中を通るのは嫌がるのです。だからトンネルの中だけは、自分の足で行かなくちゃならなかったんです。拾っていただけたのは幸運でした。でも、あとは彼女が送ってくれます」
「彼女って?」
ちょうどその時、トンネルが尽きた。
几帳面な照明の列が一斉に途切れ、視界が闇に閉ざされた。サンルーフから新鮮で冷たい夜の空気が流れ込んできて、僕らの首筋と手首に触れる。
「ちゃんとついてきてくれたな」老人の声がした。彼の顔は見えなかったが、上を見上げていることは読み取れた。僕も顔を上に上げた。サンルーフからは、都市の照明に照らされ紫色に染まった夜空に、奇妙な図形の形をとって貼り付けられた、北斗七星がまたたいていた。
「すまないね、文曲さん」なぜか老人の声は、とおくから響いてくるようだった。「もうすこしだけ頼むよ。なに、たったの7光年のことだから」
天井から流れ込んできた静かな風が途絶え、一瞬、すぐ近くでキャンプファイヤーが燃え上がったと思えるかのような熱が流れ込んできた。ハンドルから手を離さずにいられたのは奇蹟に近い。目を硬く閉じてハンドルにしがみついた僕の頭上から、あの老人の声がした。
「今日はどうもありがとう。みんなも貴方のことを気に入ったみたいだ。よければ遊びにいらっしゃい」
熱気はあっという間に通り過ぎ、その後には冷たさをました夜気だけが残された。僕はいつの間にか路肩に車を寄せて、事故車両みたいに止まっていた。
車内には当然、僕以外に誰もいなかった。ただ、助手席には星形に繰り抜かれた茶色い紙片が置かれていた。ナビの白いかすかな明かりが、最初の一行を照らしだしている。

『星々の幽霊屋敷 招待状』


第二夜エントリー 『集合住宅』 に続く

『集合住宅』 粟田柚香

連作/第二夜エントリー
投稿時刻 : 2014.05.04 23:45
総文字数 : 4247字

獲得☆4.111


《入賞作品》
第一夜エントリー 『高速道路』 続編
集合住宅
粟田柚香


高速道路で奇妙な老人に出会い、世にも不思議な経験をしてから一ヶ月後。仕事から帰ってポストの中身をあらためると、投資信託のDMとピザのチラシに、青色の星形の紙が挟まっているのを見つけた。
以前とは-高速道路の路肩に止めた車の助手席に置き去りにされた白い星形の紙を見つけた時とは-うって変わった、落ち着いた気持ちで僕はそれを読んだ。
『来週日曜日、日が沈む頃に××駅の前。迎えに行きます。』
筆跡は万年筆で手書きで書かれたもののようで、駅という漢字が少し潰れていた。

僕は青い星形の手紙に指定された日、××駅前のロータリーへ向かった。そこは僕の家の最寄り駅から鈍行列車で五駅ほど郊外に出た土地にあり、そういった町にはよくあるように、駅前はロータリーになっていて、その中央には一握りの花壇と芝生があった。
あの老人を見つけるのにわけはなかった。彼は車に乗っていた。とてもよく目立つ水色のクーパだ。他にロータリーに停車していたのは黒塗りのタクシーと、おそらく老人介護施設から来た白いワゴンの送迎バスだけだった。
僕が車の脇に立ってから老人がこちらに気づくまで少しかかった。老人は駅の出入口とは反対側、ロータリー中央の芝生をやたらと熱心に眺めていたから。あるはずみに大きく嘆息し、額に浮き出た汗を拭い(彼の車には西日がよく当たっていた)それからようやく僕に気づいて、助手席側の扉を開けてくれた。
「車は賭けの抵当にとられたんじゃなかったんですか」僕は尋ねた。
「あれはセダンだった。これは違う」彼は言った。「人助けをして、その見返りに車をもらった。セダンほど乗り心地は良くないが、ないよりはずっといい」
助手席に僕が乗り込むと、老人は静かに車を発進させた。旧型の車にしてはその動作はゆるやかで、すでに彼がこの車を相当乗り込んだことをうかがわせた。
「先ほどは何を見ていたんです」
「モニュメントさ」老人は顎をしゃくってみせた。
ロータリーを滑り出る車から後方を振り返って、僕はなんとか、芝生の中央にそびえ立つ銀色のピカピカ光る巨大な彫刻を視界の隅におさめた。それが何を表象しているのかまではわからなかったし、きっとわからないままでいいのだろう。
「良い作品なのですか」僕は尋ねた。
「良いか悪いかは知ったこっちゃない。気に入るか、気に入らないかだ。」老人は言った。彼は片手でハンドルを操作していた。
「それで一体、これから何処に行かれるんです?」
「手紙に書いただろう」老人は真正面を見据えたままだった。「幽霊屋敷さ、我々のね」

我々の車は大通りを突き当りまで進み、うねうねと複雑に入り組んだ横道に入り込み、犬の散歩をする人しか通らないような小路を抜けて、川沿いにあるマンションの駐車場にすべり込んだ。しめて20分くらいだっただろうか。老人はクーパを降りると自分の手でサイドミラーをたたみ、それから鍵を取り出して玄関の錠を外した。ここにはインターホンやロック式自動扉はないようだった。
「ご自宅ですか」二人入れば満員のエレベーターに乗りながら僕は聞いた。
「私のではないがね」老人の答えはこうだった。
電気式上昇箱は5階でとまり、我々は灰色の廊下をつきあたりまで歩いた。老人が立ち止まった家先は、暖色系のドアも鉄格子のはめられた窓も、ひとつのこらず通り過ぎてきた部屋と変わりはなかった。けれど静まり返った廊下のうつろな壁をふるわせる、かすかな人声が漏れ出てきた。
老人はチャイムを鳴らした。
<どうぞ>おそらく中から、ざらざらとした返答が聞こえた。
老人は今度は鍵もなしにドアノブを回した。開けてみると、ドアの小口にクッションがついていて、暖色系のドアは音もなくするすると開いた。中は暗く、奥に何があるかは見通せなかった。
彼はどうぞともお入りとも言わずに中に入った。僕も彼の後に従った。

狭い廊下の先には2つ3つの扉があり、行き止まった先、一般的なマンションならばリビングがあるであろう部屋に、見事なバーカウンターがしつらえられていた。
部屋はほぼ黒塗りで、天井からささやかな光沢を投げかけるオーナメントがいくつも吊るされている。ミラーボールのような派手な照明はなく、ごく普通の蛍光灯が、オーナメントたちに光を投げかけていた。カウンターは黒のタイル張りで、一部の欠けもはみだしもなく、見事な精密さで並んでいた。カウンターの中にはいかにもバーテンダーという服装、つまり黒い薄地のチョッキと蝶ネクタイをつけた男性がひとりいた。他にもカウンターには客がいた気がするが、なぜかそちらにはあまり注意が向かなかった。
「いらっしゃいませ」バーテンダーが言った。声質から、ついさっきチャイムに答えた声と同じとわかった。
「友人を連れてきたよ」老人が言って、さっそくカウンターに座を占めた。
「ようこそ、『幽霊屋敷』へ」バーテンダーはそう言って、老人の隣の席を僕に進めた。長い指ときれいな爪の持主だった。
「当店は前払い制になっております」
座るなり、バーテンダーはそう告げた。めんくらって言い返せない僕をよそ目に、老人はジャケットのポケットから(高速道路で着ていたものと同じだ)札束をひとつかみ取り出した。バーテンダーも眉一つ動かさず(眉も綺麗に整えられている)札束を手に取り、すばやく枚数を数えた。その手つきはいかにも大金をあつかいなれているといったものだった。そして老人が取り出し、バーテンダーが数えている紙幣は、僕がこれまで一度も目にしたことがないものだった。
「結構です」彼は言った。「どうぞ、お好きなものをお申し付けください」
「ジャマイカ・クーラー」老人は即座に言った。「コーヒー多めだ」
「帰りも運転されるのでしょう」僕は口を挟んだ。
「前にも言ったじゃないか、俺はきちんと実験してある」老人は平然と言う。「ジャマイカ・クーラーをコーヒー多めで2杯飲む。その後缶詰のオレンジと、栓を抜いたばかりのサイダーを混ぜ、一瓶分飲み干す。これで捕まったことはない」
そう言っている横から、バーテンダーがカクテルを持ってきた。小さなグラスの上には、星形のレモンの皮がのっている。
「何になさいますか」バーテンダーは今度は僕に眼差しをむけ、注文を促した。僕は何も気の利いたことが思いつかず、ただウィスキーを頼んだ。

僕と老人はしばらく、黙ってそれぞれの酒を味わった。老人はあっという間に一杯目のカクテルを飲み干し、二杯目が差し出されると、今度は少しづつ口にした。まるで本当に、一度口をつけるごとに一滴しか舌に載せていないかのようだった。
「そろそろ説明してくれませんか」僕は半分飲み干したウィスキーを脇におしやり、老人に言った。
「そうだねえ」老人はまた一滴、カクテルを口に含んだ。「何から聞きたい?」
「ここは本当に幽霊屋敷なんですか?」
「そうだとも。我々は幽霊のようなものだから。もちろんあんたは違う。ここの敷居をまたいだらお陀仏になったとか、そんなことはないから安心してほしい。だが、我々は幽霊のようなもの。亡霊、幽鬼、陽炎、まあなんでもいい」
「幽霊が車を乗り回すんでしょうか」
「まぜっかえすんじゃないよ。今日君が乗ったクーパに実体があったように、我々はちゃあんと身体を持っている。足だってはえている」彼は片手の拳で軽く膝を叩いた(紺のコールテン地のズボンだ)。「だけど我々は人間ではない。ここまではいいかな?」
「それは、もう」
「いいことだ。物分かりがいいと、人生はよりよいものにできる。それはともかく、では我々は何者かと言われると、そうだな、星から落ちてきたもの、と表現してみようか」
「宇宙人?」
「違うさ。そしてここでもう一段階。我々は生命の幽霊じゃない。星の幽霊だ」
「星の幽霊?」
「そう」
「では、超新星爆発で吹き飛ばされてきた?」
「いやいや。我々のふるさとはまだ存在している、ありがたいことに。その証拠は空にある。星々から降り注ぐ光が見えているかぎりね。星はとても遠い。君たちの尺度では測りきれないほど遠い。そんな遠くから、この地上に降ってくるものは?」
「放射線?」
「勘弁してくれたまえ。先ほど、ヒントを出したのに…」
「光?」
「その通りだ。やはり君なら理解すると思っていた」
「でもひ、光だなんて」僕はさすがにつっかえた。「光が…人間に?どうやって?」
「星がとても遠いということは、先刻言ったとおり。あまりにも遠すぎて、万物の中でも最高の速度で駆け抜けることができる光ですら、何万年という時間を積み重ねなければこの地上には届かない。光はふるさとである星から放り出され、どこまでもどこまでも、虚空の中を駆け抜け続ける。止まることはない。戻ることもない。そんな性質は持っていないから。ゴールの設置されていないモーターレースだ。やがて突然、光はこの惑星にぶつかる。温かい惑星だ。生命のいる惑星だ。君ならどう思う?何もない。音も光も空気もない宇宙空間を、いつ果てるともしれない長い時間飛び続けた星からの光が、この大地にたどり着く。足を止めたくならないだろうか?腰を据えたいと考えないか?」老人はそこで言葉を切って、半分ほど残っていたカクテルをぐいとあおった。「我々はそこから生まれた。我々はそんな風にやってきた。すでに故郷とは切り離されている。戻るすべはない。宇宙に帰ることもない。ここで暮らすことを選んだから」
「だから」僕は思わず呟く。
「そうだ。我々は幽霊。遠く遥か彼方にある、星たちの残滓。天体の幽霊。さまよい続ける魂の欠片」
「だから」僕は言わずにいられない。「北斗七星があなたを迎えに来た」
「トンネルの中を嫌がるからね」彼は言う。
僕は星々のことを考える。サンルーフの窓からのぞく紫色の空で、か細い光をふりまく星々のことを思う。

僕は2時間ほど滞在した。言葉を交わしたのは老人とバーテンダーだけだった。他の客もときおり訪れたが、干渉してくることはなかった。
「そろそろ帰るといい」彼は言った。「すまないが、俺はワインが飲みたくなった」
「いいですね。次回は僕も試すとしましょう」僕は言った。
「いつでもどうぞ」と、バーテンダーが答えてくれた。
「道は大丈夫か」老人が、立ち上がった僕に声をかける。
「ええ、まあ」僕はポケットにある携帯のことを考えている。
「北極星を探すんだ」老人は言う。「北極星を右手に見ながら進むといい」
その言葉を幕切れに、小口にクッションのついたドアは音もなく締まり、その夜は終わった。


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