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老人国・最終回

老人国・最終回(20-22) -遥かなる老人星-   



 (20)

 

 次の日は、老人国へ来てから四日目になりますが、ブンプクの家で朝遅く目覚めました。さすがに旅の疲れが出たようで、なかなか起きられませんでした。ブンプクはやはり早起きで、この前のように朝食を用意してくれて、早々とどこかへ出かけていました。私は少し寝すぎて、ボオーッとした頭で、朝食を食べ、テレビを見ていました。老人国テレビは、老人国内の情報と、老人国間の国際ニュースに限られていますので、私のような外来者には退屈します。あちらの国に対しては、徹底した無関心を貫いているようです。

 荀子ではありませんが、「目をしてこれに非ざれば、見ることを欲する無からしめ、耳をしてこれに非ざれば、聞くことを欲する無からしめ、口をしてこれに非ざれば、言うことを欲する無からしめ、心をしてこれに非ざれば、慮(おもんぱか)ることを欲する無からしむるなり」といった、ストイックな心術のようです。

 今日は特にこれと言った予定もなく、私自身はそろそろ後にしてきた私の国での、私の居場所が気になってきたところでした。これ以上滞在しては、浦島のようなことになりかねませんので、明日には老人国を立つことにしました。そこで今日はぶらぶらと、散策にすごすこととしました。老人国気象衛星からの画像を見ると、天候も曇りがちになって行くようです。雨が降らないうちに、あちらの国に戻ろうと思いました。

 少し曇り気味の中を、当てもなく散歩しました。同じく散歩している、全く顔を知らない老人たちが、すれ違うたびに挨拶をかけてきて、話しかけてくる老人もいました。私がミロクさんたちの横に坐っているところが、テレビに映されたようで、私が外国人であることが広く知られてしまったようです。バオバブ島について聞かれましたが、何一つ知ってるわけではありませんので、説明するのも面倒なので、将来の老人国民であるということにしておきました。何だかそれを、アダム・スミスさんに予言されたような気がしましたので。私にとっては、老人国はドイツで言うSchlaraffenland (怠惰な人の楽園)のように思われましたので。

 

 すると、いつもは眠ったように静寂な老人国の空気を裂いて、奇妙にかん高い響きが遠くで起こり、しだいに大きくなってきました。あちらの国で、深夜などによく耳にする、不快な騒音でした。私はもしやと思いましたが、案の定マフラーを外したバイクの騒音のようでした。老人国に、招かれざる客が闖入して来るのでしょうか。老人たちも、私も立ちどまって、不安な思いにとらわれていました。バイクの音はさらに大きくなって、丘へと上ってくるようです。バリバリ、バリバリという音が、老人国の居住地の空気を不快に緊張させます。どうやらウッドチップに遠慮することもなく、町なかを走り回りだしたようです。

 遠くに二台のバイクが見え、蛇行しながら家の間を出たり入ったりしています。老人たちや動物たちが、あわてて避けます。転んでいる姿も見えます。私は急いでそちらへ向かいました。私はやくざと暴走族は極力避けるようにしているのですが、今はそんなことを言ってられません。角を曲がると、少し先に二台のオートバイが止まっていて、三人の男女の若者の姿が見え、まわりを近所の家々から出てきた老人たちが取り巻いています。どうやら若者たちは、何かの用事があるようです。一軒の家に入ってゆきました。近づいてみると、それは見覚えのあるクラシックおじいさんの家でした。乱暴な若者たちが、クラシック喫茶などに何の用があるのでしょう。老人たちも心配そうに硝子ドアの前に集まって、中の様子をうかがっています。私もちょっとためらって、ドアの前で様子をうかがいました。すると何かがバタバタと落ちる音がして、クラシックおじいさんの叫ぶ声がしました。

 「何をするんだ、マサオ!」

 私は急いで玄関ホールに入りました。他の老人たちもつづきました。応接間に入ってみると、若者の一人がクラシックおじいさんの大事なコレクションを、つぎつぎとラックからほうり落としています。おじいさんはそれを絶望的な眼で見つめていました。

 「オヤジー、まだこんなもんにこってるのかい」

 ジーンズに、ロゴ入りのTシャツの若者は、そんなふうなことをわめきちらしながら、CDやレコード盤をほうり投げています。もう二人の男女の若者は、それを無関心に眺めています。ひとしきり暴れてから、マサオと呼ばれた若者は、椅子にふんぞり返るように坐りました。他の二人もそれに習いました。

 「オヤジー、あんたは騙されてるんだよ。全財産を取られて、こんなチンケーなところに暮らしてるのかよ」

 若者は咆えました。

 「マサオ、おまえこそいい年をして、まだそんな真似をしているのか」

 クラシックおじいさんは、沈痛な声で言いました。

 「金が要るんだよ、金」

 「お前に残した金はどうした」

 「あんなもなー・・・」

 「あれで仕事を始めるんじゃなかったのか」

 「始めるにゃあ始めたが・・・。とにかくオレも所帯持つことにしたぜ」

 若者はそう言って、隣に坐ったやはりジーンズに赤いTシャツの、女性の手を握りました。若い女性は、フィアンセなのでしょうが、無表情にクラシックおじいさんにうなずいただけでした。

 「金などはない」

 とクラシックおじいさんは、決然と言いました。

 「少なくとも、お前には十分に残した」

 「だからよー、騙されて取られた金があるだろう。返してもらえばいいじゃねーか」

 「私は騙されてなどはいないよ。老人国では、金はなくても、生活のすべての面倒は見てもらえるのだ」

 「だから騙されてるっていうんだ。世の中に誰がただで人の面倒なんか見てくれるもんかい。老人国に誘拐されたって、嘆いてる家族はいくらでもいるんだ。残った家族は、一文無しでいいのかい」

 「若い人、それは違うよ」

と、部屋に入って、遠巻きに事態をどうなることかと、緊張して見ていた老人の一人が言いました。

 「私らは、みんな自分らの意志でこの国に来ているのだ。しかも、家族から虐待されたり、食い物にされたりすることに、嫌気がさしてここへ来るのだよ」

 「なんだい、あんたらは」

 若者は、周りに立っている私や老人たちをにらみつけるように、見回しました。

 「カンケーねえだろ、あんたらとは。オレとオヤジのうちわの話だわ」

 「そうはいかんよ。老人国で起こったトラブルは、全員で解決することになっているのだ」

 そうだ、そうだ、と他の老人たちも言いました。その勢いに、若者はちょっとひるんだようでしたが、勢いよく立ちあがって、

 「なんだこの連中は、出てってくれ。出てかねえと・・・」

 その時、すっと老人たちの前に出たものがいます。いつの間にか入ってきたブンプクでした。

 「乱暴はやめてください。ここは老人たちだけの国ですから、大声を出したり、騒いだりされては困ります」

 若者は珍妙なタヌキに、ちょっとびっくりしたようです。

 「なんだい、変なぬいぐるみを着やがって」

 「着ぐるみではありません。ぼくは本物のタヌキです」

 「気味の悪いやつだ。オレはタヌキなんどに用はねえ」

 「あなたがたも、老人国には用はないはずです。あちらの国で、どこでなりと走り回ってください」

 「利いた風なことをいうタヌキだな。生意気な、一発くらわしてやる」

 「やめろ、マサオ。ブンプクに手を出すな」

 とクラシックおじいさんは叫びましたが、若者は無視してブンプクに掴みかかりました。左手で襟を掴もうとしたのでしょうが、ブンプクは裸なので、つかみ所がありません。そのすきに、ブンプクはすばやく身を引きました。若者はなおカッとして、ブンプクを追い回そうとしましたが、その時、もうひとり部屋に入ってきたものがいて、「ホールド・アップ」と叫びました。見ると、ソフト帽をかぶり、腰にガンベルトを巻いた、黄色いワンがそこに立っていました。そして手には、先端がソフトクリームのようになった、銃らしきものまで握って構えています。まるで西部劇の保安官でした。

 「なんだい、今度はへんてこなワン公かい」

 若者は呆気に取られたように言いました。

 「みんなに乱暴しないで下さい。さもないと撃たねばなりません」

 黄色いワンは言いました。若者は馬鹿にしたような笑いを浮かべて、

 「そんなおもちゃで威そうっていうのかい、ワンちゃんよ。この国は、みんな気が狂ってるよ、あはは!」

 若者は大声で笑い出しましたが、その声は不自然で、顔も引きつっていました。その間に、クラシックおじいさんは寝室へ行き、また戻ってくると、手にした幾らかのお札の束を息子に渡しました。若者はちょっと数えてから、

 「こんなんじゃあ、足しにもならねえよ。できちゃったんだよ、彼女に。責任とらにゃなんねんだよ。これのオヤジ、恐いんだなあ」

 現代風の化粧をした若い女は、私にはこの年齢の女は誰もが同じ顔に見えるのですが、そんな露骨な表現にも一向動じずに、無表情をつくろっています。

 「今あるのはこれだけだ。本気で家庭を持つなら、後で送ろう。とにかく今日は、皆に迷惑だから、帰ってくれ」

 クラシックおじいさんは、苦渋に満ちた顔で言いました。若者は坐りこみ、お札の束で膝を叩きながら、尊大そうに考えるふりをしましたが、その時ブンプクがまた、すっと前に立って、

 「お父さんを騙すなんて、ひどいです。ぼくたち動物には分かります。この女の人は、妊娠などしていません」

 「このタヌキめ。がまんならねえ」

 若者は再び立ちあがり、ブンプクに掴みかかりました。今度はすばやくもぐったブンプクの、菅笠の帽子が飛ばされました。

 「よさないか、マサオ!」

 父親は叫びましたが、息子は聞く耳を持ちません。テーブルの下にもぐったブンプクを追いかけつづけます。テーブルがひっくり返されます。

 「しかたない、黄色いワン頼む」

 クラシックおじいさんは言いました。黄色いワンは手にしている銃らしきものの先を、若者の方に向け、

 「やめないと、本当に撃ちますよ」

 と言いました。若者は狼藉を止めて、黄色いワンに向き直り、

 「犬のくせに、人間を威すのか」

 とすごみました。黄色いワンは動揺したようです。

 「かまわない、黄色いワン」

 と父親は言いました。

 「でも・・・動物三原則が・・・」

 と黄色いワンはためらいました。

 「しかたない」

 とクラシックおじいさんは言って、黄色いワンの手から銃を取り、銃口を息子に向けました。

 「マジかよ、オヤジー・・・」

 息子はあきれたように言いました。その途端、銃の先からレイザー光のような閃光がほとばしり、若者の額に当たりました。若者はよろめきました。倒れはしませんでしたが、急によれよれとして、立ちあがっていたもう一人の若者の肩につかまりました。

 「マアさん、どうしたい」

 「なんだか急に力が抜けちまった。かったるくてしょうがねえ。杖でもねえか」

 「杖ならここにあります」

 ブンプクが現われて、顔つきまで急に老人のようになった若者に、杖を差し出しました。

 「ありがてえ、タヌキさんよ」

 先ほどまで威勢のよかった若者は、杖にすがってやっとのこと立っています。それからどっと 倒れそうになったところを、父親が後ろから支えて、車椅子に坐らせました。

 「マサオ、許せ。一日だけ老人体験をしてもらう」

 そう、クラシックおじいさんは言いました。息子の方が、ずっと年老いて見えました。 一体どういうことなのでしょう。私は黄色いワンのそばへ寄って、訊きました。

 「いったい、どうなったのだい」

 「これは、エイジング・マシンといって、一時的に年齢を進めます。老人国で唯一許されている、護身用の武器なのです。あの人は、明日になればもとに戻りますよ」

 黄色いワンは、エイジング・マシンをおじいさんから受けとり、ガンベルトに戻しながら言いました。

 「ところで、さっきワンの言っていた、動物三原則とは、どういうことなのかね」

 「それはですね、老人国に暮らす動物の義務です。ひとつ、動物は人間に危害を加えてはならない。またその危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。ふたつ、動物は人間から与えられた命令に従わなければならない。ただし、与えられた命令が、第一の原則に反する場合は、従わなくても良い。みっつ、動物は、第一、第二の原則に反するおそれのない限り、自分の身を守らねばならない。ひとつ目の原則は、人間もまた守らねばならないことになっています。人間と動物との相互の約束です。人間は動物に危害を加えてはならない。またその危険を看過することによって、動物に危害を及ぼしてはならない。これが老人国の人間原則になります」

 

 「タアぼう、帰ろうよ。気味が悪い」

 若い女が言いました。タアぼうと呼ばれた若者も、すぐさま応じて、

 「悪いけど、じゃあな」

 と老人になった若者に声をかけ、そそくさと二人そろって部屋を出てゆきました。

 「オーイ、つめてーよ」

 と弱々しく呼びかけましたが、ふり向きもせず、取り巻いている老人国の老人たちの間をすり 抜けてゆきました。

 「町なかでは、バイクは押しなよ」

 誰かが声をかけると、 「ハイ、ハイ」 と大人しく答えていました。

 クラシックおじいさんとその老いたる息子をあとに残して、私たちは部屋を出ました。出がけに こんな会話を背後に聞きました。

 「父ちゃん、おしっこ」

 「よし、よし、今晩はここに泊まってくんだ」

 

 (21)

 

 こんな一騒動がありましたので、外へ出ると昼もかなり過ぎていました。黄色いワンに誘われるままに、ベティーさんの家へ寄って、アフターヌーン・ティーを兼ねた昼食にあずかりました。明日帰ることを告げると、ベティーさんも、ワンも残念がりました。

 「いっそ、老人国にお住みになったら」

 とベティーさんは言いました。私はこんなに人から歓待されたことは、人生に数えるほどしかないので、気持は嬉しかったのですが、まだこの国に住む心構えが定まりません。

 「今は、あちらでし残したこともありますので」

 と言葉を濁しておきました。

 「残念ですわね。私も、来年はバオバブ島へ行ってみたいと思っています。温かい国を、ついの住みかにしたいと思いますの。その時一緒にゆきましょうよ」

 「そうですね。どうなるか分かりませんが、私も宇宙基地は見てみたいです」

 「その時はご連絡を差しあげますわ」

 私はベティーさんと黄色いワンに再会の約束をして、ベティーさんのピンク色の家を出ました。次に、私はダルマ大統領の家へ向かいました。大統領は家にいて、来客もないようでしたので、すぐにひよひよが取り次いでくれました。大統領は大きな目で私を見つめ、

 「いらっしゃいセイトさん。もっと頻繁に来てくだされ」

 と言いました。私は帰国の挨拶に来たので、ちょっと戸惑いました。

 「それが、明日帰ろうと思いまして・・・」

 「それは残念ですな。なにかご都合でも」

 「いえ、大したことはないのですが、今は私はあちらの人間ですから・・・」

 「本当に残念ね」

 とひよひよも言いました。私はちょっと気弱になりましたが、気を引き締めて、

 「大統領に依頼されたことは、あちらの国で私のできるかぎり果たすつもりです。私はアマチュアですから発表の場は限られていますが、老人国の実情を、私の見たまま、思うままに文章にしてみます。誰も信じないかもしれませんが」

 「それでいいのです」

 とダルマ大統領は言いました。

 「私らの国のことは、今はメルヘンにしておいてください。いずれ人類がもっと賢く、平和になった時に、私らの存在が伝説として甦るでしょう。そのために、あなたに依頼したのですから」

 

 ダルマ大統領とひよひよに玄関まで見送られて、外へ出た時には、日はだいぶ傾いていました。明日、早朝に立つ準備があるので、ブンプクの家に戻りました。ブンプクは夜遅くまで帰ってきませんでしたので、先に食事を済ませ、風呂に入り、明日の出立の準備をしました。いつの間にかブンプクが戻っていました。不思議な動物です。出入りの気配を感じさせないのですから。それでも慣れてしまうと、ブンプクの姿を見るとほっとします。人間のように裏表がないので、反応が予測できるからです。ブンプクには既に予定を告げてありましたので、明日はトンネルの先まで同行することになっていました。私はいつものように、先に寝てしまいました。

 翌朝、目が覚めると食事の仕度が出来ているばかりか、ちょうどブンプクがお昼のおにぎりを握っているところでした。タヌキの小さな手にしては、上手に大きなにぎりめしを丸めていました。私は感心しながら、

 「すまないね」

 と言いました。

 「いいえ。丸いおにぎりしか出来ませんが」

 とブンプクは答えました。そこで私は、

 「おにぎりは丸いのに限るよ。おむすびころりん、と言うじゃないか。三角のおにぎりじゃ、ころびようもないからな」

 「セイトさんも、古いことを知っていますね。またいらしてください」

 

 バックパックを背負って、ブンプクと共に外へ出ました。早朝ですが、早起きの老人たちのことです、もう散歩している姿がチラホラ見られます。一人の犬を連れた老人がやってきます。どこかで見覚えのある顔でした。挨拶を交わした時、老人国へ来た最初の日に、ホスピスで一緒に食事をしたドクターであることが分かりました。黒髯先生もまた、私のことを思い出したようでした。

 「どこかでお会いしましたな」

 「ホスピスで、万能細胞についてのお話しを拝聴していました」

 「ああ、あの時のお方か。あちらの国から来られたそうな」

 これから帰国するのであることを告げて、そのまま別れようとしましたが、ふとドクターの足元にじゃれついている、ダックスフントを見て、

 「これが万能細胞によって、認知症から回復したというダックスでしょうか」

 と聞いてみました。

 「そうじゃよ。すっかり元気になったのは良いが、治りすぎてまるで赤ん坊の犬じゃよ。生命を赤ん坊からやり直すのじゃな」

 「N さんはどうなりましたか」

 ちょっとぶしつけですが、聞いてみました。黒髯先生は私の顔をじっと見つめて、

 「手術はうまくいったが、やはりいまの段階では、赤ん坊からやり直すほかはなかろう」

 そう言って、足元にじゃれつくダックスを抱きあげ、去ってゆきました。私はふと、若返りの泉の民話を思い浮かべました。性悪のお婆さんが、泉の水を飲みすぎて、赤ん坊になってしまう話です。子供の頃、それは悪い話ではなく思われたのですが。

 

 トンネルへ着くと、ブンプクが先に入り、私は来た時のようにLEDのランプをつけて、後につづきました。先へ出た時は、一週間も経っていないのに、なんだか別の場所のようでした。行きと帰りとの、方向の違いがそんな錯覚を起こさせるのでしょう。ふり向くと、たしかに老人国の文字と、Of The Old, By The Old, For The Old の文字がありました。

 「それではお気をつけて」

 とブンプクが言いました。私は感傷的になって、何か一言返そうとしましたが、もうブンプクの姿はトンネルの奥に消えていました。私は急に、夢でも見ていたような気持になりました。しかし、私がこのどことも知れない山中に、一人とり残されていることは確かですから、とにかく記憶が曖昧にならないうちに、もとの国に戻らねばなりません。私は軽いパニックに襲われて、廃線の道を急ぎたどりました。ポケットから皺くちゃになった、れいの稚拙な地図を取り出し、半日かけてやっとのこと、見覚えのある、出発点の北向き地蔵にたどり着きました。私はほっとして、しばらく咲き乱れているコスモスの間で休みました。 

 

 (22)

 

 私の職場での居場所は、なくなっていませんでしたが、かえって私はこの五日間の冒険の記憶が、夢のように思われてくるのです。浦島は、もどってきた世界もまた夢の世界に思われたことでしょう。夢のまた夢とでもいった気持になったことでしょう。相変わらずの世界が私を待っていたことで、この世界がなおさら味気なく、粗野で、暴力的で、不条理に思われてきたのです。毎日のニュースや、新聞記事が、神経を苛立たせます。通りにあふれかえる、肌も露わな若者たちや、騒々しい娯楽や、途絶えることのない車の列が、なんともこの世界を奇怪なものに見せています。そしてテレビをつければ、相変わらずの戦争や、クーデターや、テロです。政治家は金儲けや、戦争準備に走り、ローマ帝国のようにスポーツでもって人々の歓心を買おうとします。

 そんな荒廃した世界から、老人国の静謐な空気の中に思いを移すと、私の苛立つ心も鎮まってゆきます。老人国に滞在していた間、争いや、荒い言葉や、生き馬の目をぬくような競争やせわしなさは、見聞したことがありませんでした。それでいて、ゆったりとした生活が滞りなく流れていました。古代人が黄金時代として憧れていた時代も、たぶんそのようだったのでしょう。時代は、銀、銅、鉄と下るにつれて、粗野に、粗暴になってゆきました。結縄の昔に返らせると、老子も言っています。さすがに科学を否定したユートピアは、非現実的で、荒唐無稽です。科学は善にも悪にも使えますから、これからの人類の黄金時代があるとすれば、科学がそれを推進してゆくことでしょう。

 私は夜、時々戸外に出て火星を眺めます。目だって赤い光は、これまでの人類にとっては、何か不気味な予兆に思われたことでした。しかし、いつかその光は緑に変わり、地球を後にした、老人たちの楽園がそこに築かれることでしょう。それは昔ながらの姥捨てとは違って、人類の壮大な希望そのものに思われてくるのです。そう思うと、遥か彼方にある世界が、何となく懐かしく、慕わしく思われてきます。地を離れること、それはいかなる宗教にも増して、人類の思いを崇高にするものです。そこに神がいるわけではありませんが、そこに住む人々への思いが、心を平安にするのです。遠く旅立っていった人々の後を、だれもが慕うようになるでしょう。亡き人々を思うように。遥かなる、永遠の老人星を。




(老人国・完)

 

 

 




 





この本の内容は以上です。


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