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公園

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 林の中には世にも不思議な公園があって、不気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩していて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情していた。

                  ――中原中也「在りし日の歌」



 その公園のことを書こうと思う。どこから描いたらよいのか、なかなか書き出しが思いつかない。こんなとき小説家、あるいはメルヘン作者なら、どう書き出すであろうか。なにしろ書くことが実に平凡なのだ。単なる公園を、記憶に残るままに描きだそうというのだ。われながら、実にご苦労なことである。それでもその公園には“なにか”ありそうなのだ。その“なにか”は、何であるかは分からない。分からないから、それをひとつその“なにか”のひそんでいそうな背景なり、光景なりを、この公園のどこかに探してみようと思うのだ。そのためにまず、この公園そのものを、ある程度記憶に浮かぶかぎりを、おおまかに描いてみようというのだ。そういうわけだから、まず最初の一語がほしいのだ。

 一体こんな時はどう描き始めたらよいのか、画家なら眼に浮かんだ像を、その形のまま紙の上になぞるだろう。では形から始めればよいわけだ。その形なんだが・・・。

 

 この公園がどんな形をしているのか、その辺が実のところすこぶる確かでない。どこから始まって、どこで終って、その全体の形はどんなだか、丸だか、三角だか、ひし形だか、実際これまでそんなことはあまり考えたことがなかった。境界というものがすこぶる曖昧で、気がつくと公園の中にいるし、また気がつくと公園の外に出はずれている、といったあんばい。ただこの公園は、あとでもっとよく考えようと思うが、木々がやたらに多くて、その森のような木々が、だいたい周辺部をめぐっているのではないかと思われることだ。この木々のあるところは、場所によってだいぶ起伏がはげしい。時には切り通しのようになった場所もある。相当な急勾配の道と斜面が、いたるところにあるようだ。木々の間には建物も散見する。人家もあり、また公共建築物、というのは学校などもあるようなので、その辺が公園の境にちがいなかろう。

 形については別に空から見たわけではないから、だいたいこういう漠然とした印象から推す外はないのだが、やっぱり普通に円、あるいは長円と考えてよさそうだ。都会の公園のように、角ばったところはないようだ。いずれにしても、形などはどうでもよいではないか。だいたいこれまで考えてもみなかったことを、特にあらたまって詮索する必要があろうか。この公園について記憶していることだけを書けばよいので、あやふやな印象をいかにも断定的に決めつけるのは、この公園の性質からして望ましくない。

 余計なおしゃべりが邪魔してしまったが、さてこの公園の周辺についてはどうあれ、中心に関してはかなりはっきりしたことが言える。つまり、真中には池があるのである。公園全体は、この池に対して、周囲から傾斜している一種すり鉢のような観がある。それは大ざっぱな印象で、池の三方向はかなり急な丘の斜面に連なっていくが、一端はゆるやかな芝地に接している。ほぼ円形をしたこの池には、晴れた休日などには貸しボートが浮かべられて、人出でにぎわう。人々はこの池のことを、単純にボート池と呼んでいる。

 いま描写の便宜上、丘の頂の一つに自転車にでもまたがって、この光景を見下ろしているとしよう。丘の頂には何本も松の喬木が立ちならんでいて、その間を舗装した道がぬっている。道は急勾配をなして、丘の斜面をなだれおち、左へと池をへめぐって林の奥に消えている。自転車にまたがったまま佇立しているのは、ただ風景を眺めるためばかりではない。突然目の前に沈下した道の傾斜面に、言い知れぬ眩暈がひそんでいるためでもある。舗装されたその坂道をころがる車輪に、はたして魂がついていけるだろうか。眼は苦しげに、池のほうをさぐる。池にはボートが浮かび、青空を映した中をすべっていく。右手には青草の丘がゆるやかに起伏して、池の岸辺には、子供たちが、それとも小さく見える大人たちが、戯れたり、散策したりしている。そちらへ降りようか。それもかなりの冒険に思われる。なんだか丘を転がり下りる勢いのまま、ブレーキもかけられずに、池の中まで飛び込んでしまいそうなのだ。

 そう考えている間にも、自転車はひとりでに前へのめり、いまにも転がりだしそうだ。こらえようとしても、一向に抑えがきかない。いくらふんばってみても、自転車はずるずると草の丘を滑りだしていく。心臓は痛いくらいに緊張している。もうだめだ。いつの間にかハンドルから手を離していて、体は曲芸のようにサドルの上にそりかえったまま、よたよたと自転車は転げだした。と思うと、二、三度よろめいて、バッタリと横倒しに倒れてしまった。乗り手はほうり出されて、丘の中腹に尻もちをついている。その横で、自転車の車輪だけがからからと回っている。

 この辺の岸辺は樹木も少なく、おおらかに芝草が波うっている。その草いきれは、休日の日光にむされて、妙に情欲的である。それは手入れの行き届かない、丈高い青草のせいにちがいない。寝ころぶと、すっぽりその蔭に埋まってしまう。だが、この公園の情欲については、のちに語るとして、いま仮の位置としたxの丘からのぞむ展望を、なおも続けるとしよう。

 池をめぐって左右の岸沿いには、松の木がそびえ、下生えの藪の間には、丸太を半分に割ったベンチが見えている。右手の林の方はずっと人の出があり、心なしか松林に射している陽光も、この公園の他のどの林よりも明るいようだ。それに対して、左手の林は木々の茂りにさしたる違いはないのに、なにやら鬱勃たる陰気を籠めているようで、人影もあまり見かけない。その印象の原因は、一つにはその方向が公園の北に当たるということの外に、思うにその林の奥にあるとある建物が、想像力に対してかもしだす暗示のせいであったかもしれない。その建物についても後述することにして、とにかく池の左手の方の林には、なにか言い知れぬ不安をかもす生物が、黒い翼の影を水辺に落としてでもいるような、心に寒々としたものが感じられたのである。

 向かいの岸辺には、貸しボートの小屋がぽつんと望まれ、そばにコンクリートの水門のようなものがある。そこをくぐりぬけた池の水は、小さな流れとなって、彼方の森の奥へ消えている。池へと貢いでいる細流の方は、こちら岸にあって、左手の丘すその道に沿って、日の光に閃々たる姿をおどらせている。休日の真昼の陽光を浴びて、緑の草のしとねに埋もれていると、子供たちのはしゃぐ声、尾長鳥の奇怪な鳴き声が、いつの間にか靄につつまれたように遠く聞こえ、眼に映る光景がうつつの世界か、それとも閉じ合わされた目蓋の裏に展開する幻の像なるか、いずれとも定かならない夢うつつにおちいる。それはそれとして、一幅の桃源図ではある。こんなふうな情緒と休息も、たまには公園の散策者におとずれる。

 しかし、いまのところ語る必要があるのは公園の地理であって、事件や人物をデッサンする前に、まず書割りを仕上げておきたい。なぜなら、ある事件が“この”公園で起こったことであるかどうかは、それは一つにこの公園の地形、範囲、だいたいのディテールにかかっており、そればかりか、二つには“この”公園の地理を定めることによって、今後起こる事件の性質が、また影響されないとも限らないからである。奇妙なことを言うようだが、“この”世界には現在によって影響されない過去も、また未来もないのである。したがって、願わくばこの公園に関する記述が、単なる回想にとどまらずに、修復であり、同時に創造であらんことを。

 さて、丘の上から、池をめぐって北の方へゆく道を見下ろすと、それは急峻なばかりでなく、なにやらメービウスの帯のように歪んで見えるのである。そこを一息に駆け下りると、どこやらただならぬ世界に踏みいってしまいそうな。だから目眩がし、下半身がちぢむ思いがし、足下に踏む大地がふるえだしたとしても、不思議はない。その曲線の底を、いましも車が一台、馳せてくるところである。それほどの距離に見えないのに、近づくにつれて、車の大きさはちぢんでいく。もう上り坂にかかってもいい頃なのに、反対に豆自動車のように小さくなって、なおも沈んでいくようだ。丘の背丈が突然伸びでもして、高峰の頂からハイウェイを見下ろすかのようだ。

 こういう視覚の異常は、この公園では頻繁に起こるのである。おそらくこの公園自体が一つの完結した宇宙であるとすれば、こうした現象は相対論で説明できるのであろう。あるいは単に、目の生理的現象であるのかも知れない。そもそも、この世界は網膜のわずかな領域に、映し出されているに過ぎないのであるから。だから夜には逆に、小さな光るものが、眼に巨大化して映ってくるのである。いずれにしても、この公園が感覚に及ぼす影響は、ひととおりではないようだ。

 

 昼間の公園は、こうした錯視を楽しませてくれるのだが、夜ともなるとそうはいかない。午後も遅くなると、ザリガニ取りの子供も、ボートをこぐ少年たちも、散策する大人も、池の周辺から慌てたように姿を消す。人気のない公園に夕陽が射すと、心は早くも夜の中に沈みこんでいく。夜を愛する夢遊病者の世界が始まるのだ。夜の公園にとどまるのは、夜への情欲を抱く者たちだけである。

 先ほども述べたように、公園の北の森の中には、不思議な館がある。昼間はだれも近寄らないが、夜になると館には燐光のような明かりが灯り、夜の蝶である夢遊者たちを惹きつける。噂では、館には年齢の知れない美しい女が、一人暮らしている。館は閉鎖された博物館のようでもあるが、いつもホルマリンの匂いを漂わせているので、動物の剥製や昆虫の標本が連想された。ただ一人残った女は、未だにそれらの陳列品を守っているのである。

 夜の森は、どんなに暗い夜でも薄明りが漂っていた。夜行動物には、夜は十分に明るいのであるが、この森では森自体が乳白色の微光を放っているようだった。その中を本能に引かれるままに彷徨っていくと、館がすぐ目の前に現われてくる。入口のホールはいつも開いたままで、ぽっかりと暗い口が訪問者を呑みこもうと待っている。見上げると、二階の窓ガラスに、燐光が灯っている。それは星や月を反射したものではないらしく、標本にされた昆虫たちの放つシグナルのように思われた。

 この死の館に、男たちが惹かれてくるのは、女のため以外ではない。恐れつつも、抑えがたいエロスに誘われて、男たちはこの館の暗いホールに呑みこまれ、おそらくは二度と脱けでることがない。一歩踏み入ると、館の中は森と同じように、薄明りで満たされている。一階には図書室があって、朽ちた、ほとんど読みがたいほどに文字のかすれた書物が、書棚に詰めこまれている。中には、手で触れた途端に崩れてしまうものもある。書物でさえ、死んでいるのだ。 広い階段を上って二階へでると、そこには標本室や、実験室のような部屋もある。標本室には、ピンで留められた無数の甲虫が、かえって生きて動きだすかのように黒々と光り、大小色とりどりの蝶類が、今にも飛び立ちそうに羽を広げている。かすかな腐敗の臭いの立ち籠めたその部屋には、長くは留まれない。数限りない死が雄弁に語りかけてくるかのようである。

 隣の実験室には、中央に大きな長方形のテーブルが置かれていて、周囲の壁には薬品類の入った戸棚が並んでいる。この深閑とした部屋で待っていると、やがてどこからかスリッパを引きずる音が近づいてくる。開けたままのドアから、一人の白衣の女が、両手に大きなガラス壜を捧げて入ってくる。壜の中には何か得体の知れないものが入っているのだが、はっきりと見定めることができない。その壜をテーブルの上に置き、女は訪問者の方を振り向き、にっこりと頬笑むのである。

 壜の中身は、男との間のなにかの証しのようである。訪問者はそれから目を離すことが出来ずにいる。すると、もやもやとした塊が、晴れ上がって、そこに無数の昆虫が蠢いているのが見えてくる。蟻や蜘蛛や百足はもとより、見たこともない虫までがうごめく様が、ありありと眼に映るのである。標本にされた虫たちの魂であろうか。目を離そうとしても、そのイメージは目から離れようとしない。すると、しだいに周囲の空間が広がって、おのれが部屋の中にいるのか、それとも壜の中にいるのか、判断が曖昧になってくる。昆虫たちの間に、ひときわ目立った紫色の夜の蝶が、その羽をこきざみに震わせている。そして、ふと空中に飛び上がる。その燐光を放つ飛跡を追って、男もまた羽を震わせて飛び立つ。狂ったように舞う紫の蛾を追って、男もまた乱舞する。暗い夜の空へと、二羽の翼を得た魂が飛翔する。そして、高く高く舞いつつ、ついには抱擁と交尾の心身をとろけさせる快楽の中に、男は喪心する。

 昆虫館には、また新たな標本が加わったのだ。



(「公園」了)

  

 

 

 


この本の内容は以上です。


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