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  ―a ghost story―

 

 

 

  湖の毒ある波には死が

  水底(みなそこ)にはふさわしい墓が

                   ――E・A・ポオ



 ものうい晩夏のたゆたう夕暮れが、かすかな地のため息に迎えられて、どこからともなく大気に暗色がしのび入る、風の死んだ、蒸し暑さのなかにも、この世の外からの冷気がふとよぎるかのような、そんな思いがする、森の道を歩む壽志門(よしと)の憂愁をふるわせ、その時、雑木の合間から、草木にうずもれた、鈍い沼の光が見えてきた。なぜであろうか、その沼の光を一目見た時から、壽志門の胸の中を、黒い鳥が羽ばたくような、不吉な思いが飛びかい始め、それは、これから訪れようとしている旧家の令嬢との、ある夏の日の出来事の記憶を甦らせ、さらにはその記憶が甦らせた不安な予感をあおりたてるかのようであった。壽志門は足を止めた。沼は昔と変わらぬ陰鬱な姿を見せていた。丈高い熊笹や灌木の隙間に覗かれる沼の面は、杉の大木の影を映して、ひっそりと静まりかえり、いたるところに水草が繁茂していた。そのどこといって、迷信的な惧れをつのらせるものがあるわけではない光景の中に、不思議な憂愁が立ちのぼって、壽志門の心を、あたかも沼の底に引きずりこむかのように沈みこませていった。なぜであろうか、この沼を見つめる時、抗しがたく心が沈みこみ、いかに明るい未来の思いであっても、不吉な影によって曇らされてしまうのは。うつろな眼のような水面のどんよりした光、底なしといわれる泥の底、覆いかぶさる杉の大木、それら一つ一つの中に封じられた沈黙の記憶が、沼の瘴気となって魂を包みこむかのようだった。壽志門は胸苦しさのあまり、目を空に注ぐと、沼の陰翳を映して、暮れかけていく青空がくもりをおびて見えた。

 

 四囲を山々に囲まれた、この奥深い地にも、かつて幾十世代前には、どこから来たとも知れない武将が山城を築き、その裾には、街路が開けたこともあって、今でも過去を髣髴とさせる、ゆかりの建物や古民家を、散見することが出来る。この山間の町は、土地の産物と好奇な都会人を惹きつける古風な魅力とによって、それなりの賑わいを見せていた。山脈の間を南北に縫う鉄道と、それに沿った道路とが、この町の交易と文化の動脈をなしているとは言うものの、少し市街を出外れると、昔ながらの山里の風景が、今世紀の文明の喧騒とは無縁のたたずまいを、旅人の眼前に展げているのである。

 杉山の多い土地である。無数の大木が立ち並ぶおぐらい林道を、一人たどっていくと、高い木立のどこと知れないところから、時折り静けさを破る得体の知れない鳥の声が、ひとしきり響き渡る。その鳴き声がいつまでも耳の底にこだまして、拭いさるかたもなく幻聴となってまつわりつく。歩みつづけると、山肌をめぐる道の片側に眺望が開け、谷間の小さな集落が現われてくる。山林との闘いでかちとってきた細々とした段々畑が、向かいの山肌に散見する。木の間がくれに見える家々の中には、いくつか普通の農家の造りとは異なる、古い格式のある屋敷のようなものが見受けられる。この土地に居城を構えた武将が、戦国の嵐の中で滅びさっても、その末裔と思しき一族が、ひっそりと住みつき、潤沢な木材の恵みによって、かつて財を成したのであった。駅周辺の表向きの賑わいを、世の中に対する顔向けとすれば、その背後には文明の喧騒とは遠い、昔ながらの精霊が、人知れずまどろみつづけているのだ。

 

 この地では一番古い家柄の山路家が、細々とその命脈を保っているこの谷間の家では、一人の客を迎えるというので、めったに泊まる人のないこの家にはめずらしく、いそいそした空気が流れていた。広い屋敷に住む者といえば、五十に手のとどく母親の刀自と、令嬢の由有子(ゆうこ)の二人だけで、旅行者の好奇な眼を嫌いでもするのか、瓦を戴いた時代がかった門には、いつでも重い貫木が掛けられていた。屋敷の使用しない部屋にはどのような秘密がひそんでいるのか、閉ざされた雨戸からは想像すべくもなかった。今はしかし、その一つが開けられ、夕方の湿った空気を吸いこんでいた。昔は手入れの行き届いていたらしい庭も、今では茂るがままの木々に覆われて、雑草がはびこり、ただ門のくぐり戸から玄関につづく石畳の道の周辺ばかりが、人の手入れを思わせるばかりで、昼間でも鳥獣の棲みかと化して、夜ともなれば梟の不気味な鳴き声や、狐狸の出没に、ただでさえ侘しい親子の胸中に、いっそう寥々とした思いを募らせるのであった。が、それにもましてこの屋敷に暗い宿命の影を落としているようなのは、近く二十歳の誕生日を迎える山路家最後の末裔、由有子のこの春より原因不明の病の床に臥したことであった。町の名医にかかり、また都会の病院へも母自ら具して、診察を受けはしたものの、原因の分からぬままに医者もさじを投げ、由有子は月を追うにつれ衰弱していくばかりで、もはや未来に光明はないかに見え、暗に刀自も本人も諦め気味に、病院通いも間遠に、ひたすら谷間の家に引きこもって、時々あやしげな祈祷をする占いの老婆が出入りするのが見られるばかりであった。

 由有子は自分の病気をあきらめきったかのごとくに、刀自の心遣いや配慮をよそに、一日屋敷にこもって寝台にうとうととするか、ものうげに書物の頁を繰ったり、古めかしい蓄音機を回して、好きなシューベルトの歌曲を聴いていた。食事が運ばれても、ほんのわずかしか口にせず、刀自の心配をよそに、憂わしげな眼を窓の外に向けるのであった。レースのカーテンの合い間から、夕暮れのやわらかな青空が覗かれる。ふと野山を自由に駆け回っていた幼い日のことが思い出されて、涙ぐんだ眼に風景がかすれていった。

 「今日は、壽志門(よしと)さんがいらっしゃるのね」

 「そうよ。そんな涙顔を見せたら、嫌われてしまいますよ。もっと食べて、元気にならないと」

 諦めながらも希望をこめた刀自の言葉には耳をかさずに、由有子は遠い眼をして追憶の渦に溺れていった。

 

 壽志門は山路家とは遠縁に当たる檜山家の一人息子である。由有子の住む所とは駅一つへだてて、幼い頃から互いに行き来していた。はたから見ると兄妹のように仲睦まじく、両家の親達は早くから二人の将来を暗黙のうちに認め合っていた。利発な娘とおっとりした息子は、一緒に山野を駆けめぐり、幼少期に固有の喜悦を共有し、親との死別を除けば、何の苦も知らずに成長した。長じるにつれて壽志門の由有子に対する親愛は驚嘆に変わっていった。年下にもかかわらず、由有子が時折り見せる何気ないひらめきや、並はずれた考えに、壽志門は困惑し畏れに近い感情を覚えることがあった。高等学校に上がった二人は以前のように子供らしい遊びにわれを忘れることもなくなって、小川のほとりや木蔭に坐って、新たに開けてきた世界や学問や書物について、時を忘れて語り合うのであった。そんな時由有子は不思議な直観力を示すことがあって、まだ常識の域を踏み出ることのできない年上の壽志門をとまどわせた。

 「私ねえ、時々世界が不思議なものに見えるの」

 ある日の午後、森深い沼のほとりで、二人腰をおろした時、由有子が傍らの壽志門を見るともなく語りだした。ちょうど陽が傾き始めて、木の間から斜めにもれる光が、まだらに二人の身体にふりかかっていた。夏休みもそろそろ終わりに近い頃で、壽志門は入試準備にいそがしくて由有子と会うのも間遠になっていたところ、少し前に手紙を受けとって彼女のことを思い出し、この日朝から山路家を訪れていたのであった。午後は連れだって昔なじみの山野の散策に出かけたものの、以前よりも互いに口数が少なくなり、何故かよそよそしさをつくろうようになっていた。

 くらかけ山の麓をめぐる森林の中を細々とつづく小径を、下生えを踏み分けて行くと、あまり人の近づかないちょっとした沼が、鈍色の陰気な光を放っているのに出会う。村の子供達が夜懐中電灯を手に、胆だめしにやってきては石を投げいれて逃げ帰る。巨大な杉が幾本も沼をつつむようにめぐり、腐敗した沼気が闇の中で星影を映しているのが、何かの怨霊のようで、大人でさえも夜は近づくのを気味悪がるのであった。沼の歴史は茫漠とした神代にまでさかのぼり、様々な伝説と結びついて人の世の秘密をその水底に沈めてきた。この沼は底無しであると人々は信じている。岸辺近くをびっしりとおおっている丈高い草を押し分けて、覗いてみると、あまり深くないところに底の泥土が見える。長い竹竿を突き刺してみると、どこまでも容易にずぶずぶと沈んでいく。ここに身投げした者達の死体は、かつて引き上げられたためしがないという。ちょっとでも沼に足を踏み入れたら、あっという間に沈んでしまう。沼に沈んだ人達の霊が足を引っぱるのだそうだ。

 由有子はどういうわけかこの沼が好きで、よく気の乗らない壽志門を引っぱってきた。沼の近辺は背の高い熊笹が茂っているので人目につかず、通りすがりの人は沼のあるのも気づかずにいるほどである。昼なお暗い木の下闇に広がる沼の水を見つめながら語らう二人は、沼の精ででもあったろうか。

 

 「前にも話したことがあったかしら」 由有子はつづけた。「小さな頃から、私気づいていたのだけれど、私一人この世界にとり残されてしまったような、とても一人ぼっちだという気持になることがあるの。いいえ、お父様が亡くなったこととは関係ないの。それはずっと後のことだわ。お父様が亡くなったとき、世の中が真暗に見えたけれど、やはり一時の悲しみが過ぎてしまうと、こんどは、いつまでくよくよしているの、みっともないことよ、死んだお父様のためにも、私以上に悲しまれているお母様のためにも、しっかりなさいと、自分で自分に言いきかせるようになったの。だから、お父様のことはなるべく口にしたくはないわ。でも、私どうしても胸にしまっておくことができそうにない苦しみがあるの。それは、誰も他の人には関係のないことだけれど、私一人の問題だけれど、ときどき、この私の苦しみを知ってくれる人がいたら、同情してくれる人がいたらと、妙に悲しい気持になるの。でも、誰にも話すことができないの、笑われてしまいそうで。お母様にも話せないわ。お父様にもできなかった。何故かひどく恥ずかしくって。

 いいえ、病気ではないわ。なんと言ったらいいかしら、たとえば二重人格といったようなもの。一人の人の心に二人の人が住んでいるといったようなことを、あなたは信じるかしら。ええ、本気よ。あなたの他に、こんなこと話せないわ。お願い、おわりまで聞いてちょうだい。小さい頃だったわ。お父様に連れられて、野原で遊んでいたの。お花が咲いていて、長い草が私の背丈ほどあったわ。茂みをわけるとあちこちに跳びはねる、小さなバッタを追ってはしゃぎまわっていたわ。それから、ふいとお父様の姿が見えなくなったの。遊びにわれを忘れていた私は、気がつくと全く見知らない場所に、一人とり残されていたの。その時の気持を、どう形容したらいいかしら。日が暮れかかって、うすら寒い風があざけるように吹き寄せてきたわ。これが日光にあんなに明るく輝いていた世界なのかしら。いまは私の周りにあるものすべてが、よそよそしく、渋面をつくって、ひそひそと内緒話をしているようだったわ。私はたまらずに、しくしくと泣きだしたの。すると、少し離れたところの茂みが、がさがさと揺れたので、はっとして泣きやんだわ。もしかしたら、お父様と呼んでみたけれども、返事がないので、おそるおそる近寄って、茂みの間をのぞいてみると・・・

 私はあっと叫んで、全身ががたがたと震えだしたの。髪をふり乱し、真紅な口を開けた怪物が、その上に乗って組み伏せているお父様を、いまにも呑みこもうともがいていたの。私はもう無我夢中でその場を逃げだしたわ。どこをどう走ったのかは知らないけれど、途中で村の人に逢って、家まで送ってもらったのを思いだすわ。その晩、熱を出して、朝までうなされつづけ、目を覚ますと、のぞきこんでいる父母の顔が映ったわ。ああ、お父様は無事だったのね、私はほっとして手を差しだすと、にこにこして握りかえしたわ。すると、急に昨日の恐かったことが思いだされて、涙が出てきたので、恥ずかしくなって布団にもぐりこんでしまったの。そののち、どいうわけか、その事件について、お父様に聞きただしたことがないの。あの怪物がどうなったか、聞いてみたかったけれど、なんとなく恥ずかしくて、それに恐かったこともすぐに忘れて、また元のように元気になったわ。でも、それからは誘われても、お父様と野原へ遊びに行くことはなくなり、いつも家の中で、一人でままごとをして遊ぶようになったわ。

 その事件もずっと忘れて、小学校に入った頃かしら、またとつぜん、その不安がよみがえってきたのは。ある日、私は一人で校庭の柵にもたれて、外の風景を眺めていたの。ほかの子たちは、みな遊びに夢中になっていたけれど、私だけなぜかとけこんでいけなくて、ぼんやりとみんなの楽しそうな様を見ていたわ。すると、ふいに空が暗くなって、雲ひとつなく晴れわたっていたのに、墨でも刷くように曇っていったわ。雨が降るわよ、と私は遊んでいる子たちに教えてあげたのだけれども、みんな知らん顔をして遊んでいる。近くの子のそでをとらえて、教室に入りましょうとしきりに頼んでも、相手にされなかったわ。

 そのうちに息がつまるほど空気が重く感じられて、思わずよろめいて柵にしがみついたの。すると、柵の外の野原が、こんなに広かったかしらと思われるほど遠くまで広がって、明るくなんとも言えないほどぎらぎらと輝いていたの。あそこへ行けばこの息苦しさはおさまるのだ、この柵さえなければ、この柵のおかげで私は窒息してしまうのだわ。そう思うと、私はたまらなくなって、気が狂ったように柵をゆさぶったわ。そのうちに、ほかの子たちが気づいて、先生がやって来ると、泣いている私を柵から引きはなし、暗い部屋へ連れていったわ。お母様がやって来て、私をつれ帰り、一週間ほど学校を休んだの。また学校へ通うようになり、今度はほかの子たちとも遊ぶようにして、元気になると、そのこともいつか忘れてしまったわ」

 

 由有子は言葉をとぎらせた。壽志門は困惑した表情で、どう答えてよいか黙って思案するばかりだった。子供の頃から由有子は、ときどき不可思議なことを言って、彼を沈黙させた。彼には見えないものを、彼女はあたかも当然彼にも見えるかのように、指差したりするのであった。そういう時、壽志門は興味や心配よりも、何か冷ややかなものを体の芯に感じてしまい、言葉が出なくなるのである。常日頃知っている由有子が、由有子に思えなくなってくるのである。それは壽志門が少しずつ由有子に遠慮を覚えるようになってきた理由の一つでもあった。

 

 *   *   *

 

  玄関に迎えに出た刀自と久闊の挨拶を交わし、壽志門は用意された部屋にバッグを置くと、母親について由有子の部屋に入った。すでにカーテンを引いて灯りのついた部屋のベッドに、半身を起こして、由有子は精いっぱいの笑顔で壽志門を迎えた。半年ほど見ない間に、思いの外やつれていた。頬の丸みが失せ、骨が薄くういて、くぼんだ眼窩には眼だけが熱を帯びたように煌いていた。見るからに病者の印象であった。愛情よりも先に、哀れみのようなものが壽志門の胸にわいた。子供の頃の溌剌とした由有子、高校生の頃の時に不気味ではあったが、若さの魅力にあふれていた由有子、病によってこんなにも変わってしまうものなのか。壽志門はベッドから少し離れた椅子に腰をおろした。刀自は茶を入れに部屋を出た。

 「わたしのことを、もうお忘れになった」

 由有子は半分からかうような、半分すねた口調で、少ししゃがれた声で言った。壽志門は戸惑いながら否定した。由有子は普段はポニーテイルにしている髪を、両肩に長く垂らしたのを、両手でそろえながら、笑みを絶やさずにつづけた。

 「こんな病気になってごめんなさいね。壽志門さんに忘れられても仕方ないの。大学はお忙しいでしょうし。壽志門さんは真面目ですから」

 壽志門は反論のしようがなかった。大学の学問が面白くなるにつれ、山中の故郷や、由有子のことは、次第に忘れがちになっていた。都会の喧騒から、山里に戻ってみると、まるで眠ったような別世界に思われるのだった。そこには電気や車は通っていても、文明や進歩とは無縁のように思われた。その中心に、壽志門の心のどこかを常に針の様に突いている追憶があって、

そのために彼はいま、由有子の部屋にいるのであった。壽志門は話題を変えるために、由有子の病態について聞いた。

 「お医者さまもお分かりにならないのです。遺伝子の異常とかいう、生まれつきの病でしたら、どうにもなりませんわね」

 由有子は人事でもあるように言った。ひたすら衰弱していくだけの、奇妙な病であった。気丈さと、過敏な神経と、不思議にいりまじった彼女の口調は、相変わらずであったが。

「近頃、不思議な夢を見るのです。夢というべきかどうか、それもはっきりとはしないのですけれど」

 由有子は壽志門の反応を見るように、じっと彼の眼を見た。壽志門はその輝きをじかにとらえるだけの自信がなかった。ふと目をそらしてしまった。

 「壽志門さんにしか話すことができないのです。ご迷惑ですか」

 壽志門は体の芯に何か冷たいものを感じながらも、拒むことができなかった。刀自が紅茶を運んで、壽志門の横のテーブルに置き、二人に遠慮して、また部屋を出て行った。

 「家の庭の隅に、古井戸があるのをご存知ですよね」

 由有子は紅茶をすする壽志門から目を離さずに、続けた。

 「あれには、昔からずっと木の蓋がしてあって、重い石が乗せてあります。ところが、誰のいたずらか、少し前から石がのけられているのです。そのためなのかどうか知りませんが、妙な夢を見るようになってしまいました。最初は、夢の中で私は、パジャマのまま庭に立っているのです。不安な気持がして、じっと井戸のほうを見ています。すると真っ暗闇なのに、木の蓋がはっきりと見えて、それが少しずつもち上がっていくのです。恐怖のあまり叫ぼうとするのですが、声が出ません。何か真黒な、頭のようなものが、そこからすべり出ようとしています。ぬるぬるとして、眼も鼻もないようなものが、ぬっとぬけだし、両手で井戸の縁をつかんでいました。あまりの恐さに、そこで眼が覚めました。

 あの井戸には、昔からの言い伝えがあって、底の水が沼とつながっているのだそうです。あれに蓋をしたのは、衛生によくないからでしょうが、沼の魔物が底の水を伝ってやってくるからだと、子供の頃に威されもしました。その記憶が悪夢となったのだと思います。それで済むかと思ったのですが・・・」

 由有子はしばらく言葉をとぎらせた。壽志門は湯気を立てる紅茶から目を離さなかった。なにか苛立ちのようなものさえ、心にきざし始めていた。しかしそれを抑えて、由有子の話を義務的にでも聞かねばならなかった。

 「昨晩のことです。やはり夢ともうつつともつかない状態でいた時のことでした。誰かが表の廊下の雨戸を開けるような気配がしました。近頃は閉めたままでおくことが多いので、昼間お母様が風を通しておいたのが気になっていたのかもしれません。閉め忘れたのかと思い、お母様を呼ぼうとしましたが、声が出ません。体も起こすことができないのです。すると、廊下を誰かが伝うようなヒタヒタという気配が起こりました。それは裸足の足が床に吸いつきでもするような、嫌な歩き方でした。私は泥棒と叫びましたが声になりません。するともはやその気配は、襖を開けるまでもなく、部屋の中に移っていました。私は仰向けに寝ていたのですが、それがベッドの足のほうに蹲っているのが分かりました。目も鼻もない、真黒な、ぬるぬるしたものが、ベッドの上に這い上がろうとしているのです。私は恐怖のあまり、手元にあるものをそれに向かって投げつけました。しかし手に掴めるものはたちまち紙か何かのようにやわらかくなって、それにぶつけてもまるで効果はないのでした。その真黒なものは、布団の下にもぐりこみ、蛇のようにじわじわと上半身へと這いのぼってくるのです。その時私はふと、全身をそのままこの異様なものに委ねてみようという気持が起こりました。すると恐怖が和らいで、そのものの感覚だけが、ザワザワと体を取り巻いてゆきました。そしてしだいに微かになり、消えてゆきました・・・」

 壽志門は由有子の語る夢魔の生々しさに打たれて、居心地の悪い思いをした。由有子はそれを察してか、

 「ごめんなさいね、ご気分を悪くなさったでしょうね。でも、一つだけお願いがあるのです。馬鹿げた迷信ですけれど、やはり気になります。あの沼の魔とつながっていると言う、井戸のことです。明日でよろしいですから、重い石をもう一度板の上に乗せて欲しいのです」

 壽志門はやはり迷信的な不安に捉われだしていたので、一も二もなく承諾した。それから話は、壽志門の大学生活や、郷里での生活に移っていった。壽志門は強いて快活をよそおって、常になく冗談めいた口さえ利いた。

 

 深夜に壽志門はふと眠りから覚めた。しんとした家の中は、物音一つ聞こえなかった。自分がどこに寝ているのか、すぐには記憶が甦らなかった。十畳ほどもある広い部屋だった。幼い頃からよく泊まったことのある、山路家のなじみの部屋だった。一階のこの部屋を、壽志門は家族のように使わせてもらっていた。すぐ隣には、玄関の間を隔てて、改築した由有子の部屋と、母親の寝室があった。耳を澄ませれば、その寝息さえ聞こえることがあった。今は壽志門の微かな耳鳴りの外には、万物が闃としていた。その時雨戸が軽く鳴るような音がした。実際に聞いたのか、それとも由有子の夢魔に触発された幻聴であったのか、いずれにしても壽志門は緊張した。体がこわばるのが判った。怖れがすうっと胸にわいた。それに応えるかのように、なにかが障子の外の廊下を伝いだした気配があった。裸足の足が床に吸いつくような、ねとついた足音であった。壽志門は身を起こそうとしたが、四肢は動かなかった。頭すらあがらない。なにか真黒なものが障子の外で、壽志門をうかがっていた。恐怖の強烈な痛みが心臓を錐のように刺していた。ふとそれが止んで、怪物はどこかへ移って行った。

 壽志門は余りの息苦しさに身を起こした。豆電球に照らされた部屋の中は、なにかの粒子が渦巻いて、今にも形を取りそうに思われた。すると微かな笑いのようなものが起こった。いかにもこの場にそぐわなかったので、壽志門は冷水を浴びたような気がした。壽志門は聞き耳を立てた。それは確かに由有子の笑い声だった。しかし幻聴のようでもあった。笑いは再び起こった。しかも段々につのっていくようだった。ついには壽志門の頭の中で、どこか遠い奥底から近づいてくる、胸の悪くなる狂女の笑いとなって、いつまでも鳴りやまなかった・・・。

 

 あくる朝、由有子と顔をあわせた時、壽志門はきまりの悪い思いで目をそらせた。夢であったことでほっとしたものの、由有子の中に感じている、とらえどころのないものに対する不安が、夢魔を伝染させたのであることに疑いはなかった。その日の午前は、由有子の部屋で共に読書をして過ごした。壽志門は持参した建築学の本に目を落とし、由有子はなにか詩集を読んでいた。そしてその中の一つを、朗読した。壽志門の聞いたことのない詩人の、「幽霊船」という詩であった。

 

 希望(のぞみ)は八月の光とともに

 灰色のかもめの飛びかう波止場で

 悲しい汽笛を残して出航してしまった。

 銀色の波を吹く海風は

 はてしらにかの船を運んでいった

 遠い遠い、南の南の、輝く海を越えて。

 嗚呼、あの船はもう帰ってこない

 遠い遠い、南の海のかなたに

 流れ流れていく蒼白い幽霊船。

 長い長い旅路の果てに

 嗚呼、あの船は今青い波の下

 日の光も届かない、深い深い闇の中

 灰色のサンゴのそびえる静かな墓地に

 さまよい訪れる魚もない。

 

 午後は、一人壽志門は山里を散策して過ごした。その前に、由有子に頼まれた井戸の蓋の重い石を、やっとのことでもとに戻しておいた。少しだけ板をずらせて、中をのぞいてみた時、かなり下に溜まっているどす黒い水に、おのれの影を認めた。それには目鼻はなく、底に潜む異形な生き物のようにも思われ、壽志門は急いで蓋を戻し、自分の力に余るほどの重さの石を、必死に持ち上げたのだった。壽志門は沼を避けて、谷川沿いに散策した。頭の中は、近頃熱中している大学での学問で半ばふさがれていた。風景を見ても、思い出に耽ろうとしても、知識欲に邪魔され、憂鬱になって山路家に戻った。そして門をくぐると、由有子のことを忘れていた自分を責めた。

 由有子はその日は少し気分がよいらしく、久しぶりに壽志門と一緒に二階へ上がろうと言い出した。二階には父親の書斎があって、古い書物や骨董品がしまわれていた。壽志門が黴臭い部屋の雨戸を開けて風を通すと、夕べの涼風が空の色とともに窓辺をおとずれた。壽志門は子供の頃から何度かこの書斎に入りはしたが、何とない遠慮があって、書物であれ、骨董品であれ、あまり仔細に見たことがなかった。今初めて、これまでにない興味を感じて、改めて見回した。素人の郷土史家でもあったらしい由有子の父は、雑多なものを蒐集していた。錆びついた鎧兜や、価値のあるとも知れない陶磁器などに混じって、石仏ともつかない奇妙なフィギュアーも見かけられた。なにかの伝承と結びついているのであろう、奇怪な面相をしていた。沼の近くでは、時々雨上がりなどに、そうしたものが露出してくるのであると言う。たいていは沼の中に返されるのだが、そのいくつかがこの書斎に保存されていた。

 書物もまたほとんどが郷土史に関するものであった。郷土を出ることが夢であった壽志門には、まるで興味のわかないものであった。その背だけを眺めているうちに、一隅が前と奥と二重に置かれている書棚があった。前には背高い本があって、いかにも隠したがっているふうであった。壽志門は由有子の眼を気にして、勝手に見る前に、お伺いを立ててみた。

 「なんでしょうね、父が隠したがるものは、私も見ていないのです。私は知りたくもないのですが、壽志門さんならどうぞごらんになってください」

 壽志門は郷土史の重い本をのけてみると、古文書が束になって押し込まれていた。版木に載せたものもあれば、手書きのものもあった。ざっと表題に目を通すと、ほとんどが伝説や怪異に関するものであることが判った。そうした迷信的なものに興味があることを、学術的良心から隠そうとしたのであろうか。中でも沼に関する荒唐無稽な伝説が、多くを占めていた。壽志門は古文書が読めるだけの知識がない。そこで興味を惹かれながらも、それらの束をもとのように書棚の奥へ戻そうとした時、一番下に壽志門にも読める文字で書き写したものがあることに気づいた。それだけをそっと取り出して、何故か由有子にことわることが憚られ、別の郷土史の本に挟み込んで、その本を読みたいという口実に紛らせた。

 由有子が疲れを感じてベッドに休むと、壽志門は本を携えて自室に下がった。早速古文書の写しを開いてみた。文章は古臭いキリシタン文書のスタイルのようだった。



 ヨグソトト始末記

 

・・・ぱあてれ大いなる井を丘のほとりに掘りて、ゆごとなる星辰より来たれる魔ども追い落とし、でうすの御名を唱し、ねくろみこなる神呪を唱し、かく封じたりけり。のち魔しづまりにければ、近在の百姓等かく霊力あらたかなるばてれんほめたたえけるとなん。われこのこと人づてに聞きしより、いみじきことに感じさうらうゆゑ、ヨグソトト始末記とてここにしるせるなり。

      天正四年  じゆりあの平助

 

・・・村人おののける折りしも、ひとりのいるまんあり。でうすの御使いかのもろもろの悪しき魔ども退散させたまへとて、ひとり山に入りたるが、はうはうのていにて帰り来たり申すには、かのぢやぼわが力の及ぶところにあらず。サントアントニオもまたかかる魔にあひたることなし。みやこに×××とてかうみやうのばてれんあり。そに頼み申すべしと語りてはてにけり・・・

 

・・・ぢやぼのかたちよにたとへやうもなし。ぱあてれ聖なる水そそぎしも、めただれ、鼻うせりといへども、大きなる赤き口にてなんにょとなく村人をのめり。ぱあてれねくろみこの法によらざればかかる魔のたいぢかなはざらんとて、まぐすなにがしを召したり。まぐすダビデの星をゑがきて呪をとなへること七日七夜、牛のごときたけなる魔どもちぢみゆき、ねずみほどになりたるをみなとらへたりけり・・・

 

 ・・・村人の沼に引きこまれたるもの数知らず。おおよそ食はれけるなかに、女とてはらみたるものあり。目なく鼻なきものうみて、ともに殺されんとするをおそれ、何処かへのがれけり。あるいはみそかに殺し沼に投げ入れたりといへり。沼のみづひあがりける年に、目のなき巨大なる魚あらはれたるは、それなりとなん。ヨグソトトまつれる石、そこにいくたりとなく沈みありとて、ひとのおそれ寄らざる沼とはなりにけり。・・・



 順序が齟齬しているようであるが、過去の何らかの出来事を報告した文書の断片であると思われた。壽志門は由有子に知られずにこれを読もうとした最初の動機が、正しかったと思った。この断片の謎めいた文書が、由有子がその存在を知っていたか否かは別として、書斎で目を通した瞬間に、由有子にとってその精神を動揺させるもの以外の何ものでもなかろうことが直感された。おそらく由有子は幼い頃か、いつかは知らないが、沼に関するこのような伝承に触れたことがあるのであろう。それが彼女の過敏な想像力に持続的な影響を及ぼして、少なくとも精神の方面での変調に原因しているのであるかもしれない。

 壽志門はこの他愛のない文書を折りたたみ、分厚い郷土史の中に紛れ込ませた。町史編纂室が編んだ郷土史の民俗の部には、ごく普通の習俗や祭りや伝説などが几帳面に記載されている。たまたま沼の伝承に触れたところを見ると、どこにでもあるカッパ伝説が記されていた。古くは河童沼と呼ばれ、今ではそこにある水神の小さな祠の故であろう、水神の沼と呼ばれている。形ばかりの祠の前に、龍とも蛇ともつかない像が巻きついた石柱が置かれているのを、壽志門も何度か目にした。カッパが人や馬を沼に引き込んで悪さをするので、ある時旅の僧(大師その人であるとされる)が村人の訴えを聞き、錫丈を沼に突き立てると龍と化して、カッパを追い払ってくれたので、それ以後沼の神となったのであるという。

 そうした退屈な記事を布団の中で繰っているうちに眠気が差し、壽志門は昼の散策の疲れから深い眠りに落ちた。そして夢を見た。壽志門はどこか知れない奇妙に侘しい野原に立っていた。足元に巨大な穴が開いている。そのそばに立っていると、脚が自然にふるえた。穴から目をそらそうとしても、目は魅せられたように釘付けにされている。深い穴のそこには水が溜まっているようで、どす黒い中に星の光のようなものが一つ映っている。なにか微かに騒ぐ音がする。びちゃびちゃと水が鳴るような音が。そしてヒタヒタと穴の側面をなにかが這うような気配が、だんだんに迫ってくる。それの近寄ってくるのが、途方もなく恐ろしいのだ。穴の闇の中に、黒いかたまりが見分けられてくる。まるで目も鼻もない真黒な赤子のようなものが、ひたすら這いながら足元に絡み付こうとしている。それが途方もなく恐ろしくいとわしく、壽志門は唸るような叫びをあげて目を覚ました。

 心臓を重いもので圧迫されたような胸苦しさと、息苦しさで、すっかり眠気は取れてしまった。昼間読んだ古文書の影響が、こんなにも強烈であったとは、壽志門は迷信的な恐怖にとらわれて郷土史に挟まれたいまわしい文書を見やった。そこから得体の知れない不安が立ちのぼってくるように思われ、明日早々に燃やしてしまおうと思った。そのとき鋭敏になった壽志門の聴覚に、かたりと雨戸の鳴る音がひびいた。壽志門は布団の上で半身を起こしたまま、身を硬直させた。障子一枚をへだてた板廊に、なにかがヒタヒタと過ぎてゆく気配がした。玄関の間をすぎて、それは由有子と母親の寝ている部屋の方へ向かっている。母親が戸締りでもしたのであろうか。それにしては夜中すぎである。壽志門は実際に聞いたのか、幻聴であったのか、疑わしくなった。横になると、体中に重い疲労が感じられて、壽志門は大きな息をついた。するとその溜息に応えるかのように、微かな呻きが頭の中に響いてきた。ぶつぶつと呟くような妙な音が入り混じっていた。由有子が具合を悪くして、母親と何かの会話をしているのであろうか。そう壽志門は解釈して、無理にでも眠りに帰ろうとした。

 壽志門の眠りは浅く、重苦しかった。部屋のどこかで、なにかがパチパチとはぜたり、家のどこかでことことと鳴ったりした。壽志門は心配になって起き上がり、ふらふらと夢遊病のように部屋を出て、そのまま由有子の部屋へ行った。自分でも不思議なくらい遠慮を忘れていた。気がつくと由有子の部屋の中にいて、その隅からベッドの上の彼女をみていた。部屋には別の“存在”がいた。それは人とか男とか呼ぶには、あまりにも奇怪だった。それは背中を向けていた。一面にいぼいぼの生えた、腐ったような緑色の皮膚、肉のほとんどない尻の両たぼ、腿から急に萎えたように細くなった両脚、そして水掻きの張った足。首はまるでなく、のっぺらした芋のような頭が狭い両肩にのっている。耳の代わりに穴がぽっかりと開き、一瞬見せた片頬には、髯のように見える幾重ものひだが呼吸につれてうごめいている。すべてが一瞬の印象だった。はっと見直した時には、しどけなく露わになった女の胸元だけがあった。それを覆っているように見えた異形なものは消えていて、ただ微かな生臭い腐臭が部屋に漂っていた。

 

  壽志門はまだ実家に帰省していなかったので、その日の昼にひとまず山路家を辞することにした。実家よりも先に由有子を訪ねたのは、彼女からの手紙に促されたことと、どこか心の底にわだかまるものを、表面とりつくろおうとする、壽志門の疚しさのような感情が働いていた。別れる前に由有子は、フィッシャー=ディスカウの歌う「冬の旅」から Gute Nacht を一緒に聴いて欲しいと言った。聴き終ると、由有子は微かに涙を浮かべながら、「なんて澄みきった、けがれのない歌なのでしょう。人間であることが、嫌になってきませんこと」と評した。Gute Nacht が夜ひそかに旅立ってゆく男の別れの言葉でもあることをぼんやり思い出しながら、壽志門は目を由有子の顔からそらせた。

 

 実家ではさすがにくつろぐことができた。このまま数日滞在して、大学での研究に戻ろうと考えていた時、由有子の訃報が伝わった。驚いて壽志門は山路家に駆けつけた。壽志門が去ったその夕、由有子は、あの井戸の重い石をとりのけて、投身自殺したのであった。老刀自の嘆きは一方でなかったが、壽志門はその傍らで放心していた。幼い頃からの思い出が、今になって堰をきったようにあふれだし、壽志門の悔いをかきたてた。老刀自は壽志門に当てた由有子の書置きを彼に手渡した。

 

 「壽志門様。わたしはもうあなたには相応しくない女です。それは薄々あなたもお分かりであったと思います。わたしが病身であったということもそのひとつですが、でもそれだけならあなたに嫌われることもなかったでしょう。否定なさらなくても良いのです。あなたの困惑顔を思い出すだけでも、心苦しくなりますから。わたしの体は、私であってもう私でないものになってしまいました。わたしはわたしに寄ってくるあれが何であるかは知りませんが、最後まで抗うことができなくなっているのです。わたしの血の中に、遺伝の中にでしょうか、あれと同じものがさわぎだし、わたしはそれに身を委ねる他はなかったのです。たぶんお父様も・・・それを思うとわたしはお父様が許せます。わたしは運命に従って、向うの世界へ旅立ちます。壽志門様はわたしのことなどはお忘れになって、ご自身の建築家としての夢を成就なさってくださいませ。                                                                                                    由有子」

 

 添えられていた一枚の紙がはらりと落ちた。詩集の一頁をしおりとして破いたものであった。

 

   幻

 

 それは熱い情熱ではなかった

 燐光のように冷たい光を放ちながらも

 なおも燃えあがる炎であった

 いにしえの書物も 賢人の学問も

 あらゆる聖なる快楽をもってしても

 慰めることのできなかった 孤独の寂しさの中で

 ただ貴方の姿だけが

 北海の空の幻のヴェールのように立ち現われて

 凍てついた心に希望の光をもたらすのです

 

 由有子はなぜ、この誰とも知れない詩人の詩を、自身の最後の言葉に添えたのであろうか。それは書置き以上に、壽志門の心を苦悶でさいなむものであった。

 

  *     *     *

 

 ひぐらしが心細げに鳴いていた晩夏の森の木々も、どことなく秋の気配を帯びて静まり返り、つい先頃ここを通った時の憂わしさがいっそうの憂愁となって、記憶と共に壽志門の胸に染み入った。沼の鈍い光が目を打った時、その憂愁は耐え難いほどの重さとなって壽志門にのしかかった。夕の気配を漂わせる空高く突き立つ杉の古木の、崇高ともいえる高さへの憧れも、かえって彼の胸を押しつぶそうとする夢魔の影のように思われるのだった。何故ここへ来てしまったのだろう、重い気持にさいなまれることが解っていながら。由有子はもはやこの世のどこにもいないのだ。記憶という、頼りない世界の他には、どこにも彼女を探し求める場所とてないのに。人ごみの中ならまだしも、めったに人影のない山中の沼べに、思い出がとどまっている。そこへ行けば彼女に逢えるかのように。

 壽志門は熊笹を分け、岸辺の丈高い葦のかげに佇んだ。沼の半分は水中から繁茂する水草に覆われ、緑色に濁った水の上にはよく見ると小さな虫やアメンボウが漂っている。それもしだいに黒ずんでいく影に呑みこまれていく。沼の中ほどにはまだ空の光が映っていて、それを見つめていると、その光芒だけが視界を占めて、どこか黄昏の世界をさまよっているように思われてくる。壽志門は今おのれがどこにいるのかさえ忘れかけていた。闇は急速につのっていった。静かに身を包んでくれる闇の感触が、心地よくすらあった。深い森の闇の中に一人いながら、なぜか一人ではないような気がした。心のどこかに温かみのようなものがわいてくるのを感じた。

 壽志門さん!――ふいに鈴の鳴るような声がした。その声は余りに透明なので、一瞬惑わせたが、確かに由有子のものにちがいなかった。それは内界からのものとも、外界からのものとも区別がつかなかったが、彼女は確かに壽志門のそばにいた。

 由有ちゃん!――壽志門は低く声に出して、一歩沼の水に足を踏み入れた。微かに残っていた水面の明りは、ふと立ちのぼって壽志門の眼には霧のようなかたまりとなって映った。それがどろどろと渦を巻きだし、一つの形を取り始めた。

 由有ちゃん!――壽志門の足はずぶずぶと沼の泥に沈んでいったが、壽志門はもどかしげにそれを引き抜きながら、さらに沼の奥へと歩んでいった。由有子は丈高い水草の間に立っていた。井戸に身を投げた時に着ていたというドレスには見覚えがあった。それを着た由有子とは、何度か街なかを散歩したのだ。その緑の花模様が、水にしっとりと濡れて、沼に咲いたかのように思われた。いつもはポニーテイルに結んでいる髪はほどけて、長く肩にかかっていた。その先端から雫がしたたっている。

 由有ちゃん、今行くよ!――壽志門は遠い幻を追って、夢魔のように重苦しい足をひきずり、沼の奥へ奥へともがきながら進んだ。ついに膝の上まで泥にはまり、身動きできなくなった時、由有子の姿がすうっと近寄ってきた。

 無理なさらないで。あなたには大学のお勉強も、未来もあるのですから――

 もうどうでもいいんだ。由有ちゃんさえ生きていれば。こんなに濡れて・・・――

 壽志門は手を伸ばして由有子の力なくさげている手を取ろうとした。由有子も手を伸ばした。その甲には水草が張りついていた。

 こんなに冷たくなって・・・――

 壽志門はその死人のような手を頬に押し当てた。

 僕が温めてあげる――

 そして自分の手を見た時、それが緑色がかっているのに気づいた。あらためて自身を振り返った時、体中が水に濡れて、泥と水草に覆われていることに気づいた。由有子の寝室に夢遊病のように侵入した時、一瞬目にした得体の知れないものと同じものに、自身がなっていた。しかしそれは恐怖を呼び起こしはしなかった。壽志門の中にこれまで一度も感じたことのなかった喜びのようなものが涌きあがった。これが本当の愛だ。そう叫ばせるものがあった。

 壽志門は由有子の手元を手繰り、そっと引き寄せた。由有子は倒れこむようにして壽志門の胸に身を委ねた。こうして由有子を抱きしめたのは生まれて初めてであった。何故これまで出来なかったのであろう。そのこだわりが今全く解きほぐされて、壽志門は熱い情熱の胸にわくのを感じた。由有子の顔は透きとおって、内から乳白色に輝くようであった。その眼は子供の頃のように笑っていた。唇を合わせると、ほのかな柔らか味が、溶けるように壽志門の唇に伝わった。その甘美な歓びを、壽志門はいつまでも味わっていた。

 

 やがて山国の漆黒の夜が黒々とした山のシルエットをのこし、人の住むとも思われない森や沼を一様に呑みこんでいった。沼では何に驚いたか、一羽の水鳥が奇声を発して飛び立った。後には静まり返った寂寥の中に、二人の恋人の魂を呑みこんだどす黒い水面が、何事もなかったかのように、星影を映していた。



 (「沼」完)

 

 

  

 

 

 

 

 

 




この本の内容は以上です。


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