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頭のくさる話

 

 頭のくさる話

 

 

 彼の頭が腐りだした。もう誰にも手がつけられなかった。彼のかかりつけの医者も、もうどうすることもできなかった。腐敗した脳ミソから不快な悪臭が発散していた。彼は下宿の部屋に一人とじこもり、部屋中に強い香水をまいて、臭いを消そうとしたが、どうも悪臭のほうが勝って、効果がつづかなかった。なにしろ、臭気の発生源が鼻の上十センチの腐った脳ミソときているから、どうにも処置のしようがなかった。鼻の孔に脱脂綿で栓をしてみても、息苦しいやら、くしゃみが出るやらで、しばらく我慢はしてみても、そのうち金魚よろしく、口をパクパクさせている自分がなさけなくなってくる。

 

 「どう考えてみても、これは不都合である。なぜおれだけが、こんな有様で、一日部屋の中にとじこもって、金魚の真似なんかしてなきゃならないんだ。おれは若くて健康だ。心身ともに溌剌としてるってのに、もう娑婆の空気も吸えないってのかい。なるほどおれは五体完全ではないかもしれない。おれの頭の中で有機体の融解現象という、役にも立たないことが始まりやがった。だがそれが何だというんだ。世間では前代未聞の奇病だといって、おれの名は世間に広まり、雑多なやつがおれのところへ、物珍しげに押しかけてきた。新聞屋もたくさん来たが、みなおれが健康そうな顔をして、いかにも正常でいるので、がっかりして、脳が腐ったなんてうそじゃないかとぬかしている。

 全体おれ自身、最初に大学病院のお偉い先生に、そう診断された時には、冗談でも言われてるのかと思ったくらいだ。本気で言っているのだということが解ると、おれはまるで自分の脳ミソが、漬物ミソになったみたいに感じたね。それから、一躍おれの頭は国中に知れわたって、いろいろな医者が調べに来た。なにしろ、トンカチで叩くは、針やら電極やらを刺したり、電流を流したり、妙な騒々しい音のするトンネルのような装置にかけられたり、あげくは脳切開の大手術の手はずとなったが、おれは断わったね。なにしろ、それまでのところは、脳が腐っていようがいなかろうが、おれの思考作用には何の支障もなかったので、おれはただ、多少頭がむずがゆいのと、時々吐き気や眩暈がするのを我慢すればよかったのだ。脳切開なんて大手術をして、白痴にでもなっちまったら、おれは天才として生まれてきたかいがなくなっちまうと、まあ、そう医者に言ってやったところ、医者はまじめな顔で、ほうっておけば遅かれ早かれそうなると言ったね。おれはどうにでもなれと思って、手術だけは断わったね。なぜかって言えば、おれは医者の連中が、おれの頭に実験材料としてしか興味を持っていないことが、よくわかっていたからね。

 当分の間は、その状態で、特に変調もなしに経過していた。そのころ、毎日おれの症状の悪化を予期して見にくる医者や看護婦がうるさくなって、眩暈も治まったので自分から退院してしまった。下宿の部屋でおとなしく養生していた。医者に見てもらうほどの症状はなかったので、大学病院へも通わなくなった。奇病として知られてしまったので、全国から好奇と冷やかしの手紙が舞い込んできた。おれは退屈しのぎに、それらを読んでは破り、読んでは破りしていた。

 そのうちに、おれの頭が臭いを出すようになったのだ。最初に気がついたのは、おれではなくて、下宿屋のお主婦さんだった。あのお主婦さんときたら、犬も顔負けの鋭い鼻を持っていて、旦那さんが帰ってくるのも、目や耳よりもまず鼻でわかるというのだから、おれの頭の臭いを最初に言いだした時も、こっちは全然気づかなかったほどだ。それがこの頃、頭の悪臭がひどくなってくるにつれて、もう騒ぐのなんの、もうおれをこの下宿から追いだすこと以外に考えがないほどだ。それで、おれもいやいやながら病院へ出かけた。

 病院ではこの新しい病状に、医者どもが喜んで集まってきて、これはいよいよ本物だと騒ぎたてたね。だれかが、ノコギリとノミとカナヅチを持ってきて、さっそくおれの頭をぶち割ろうとしたから、おれはかろうじて逃れて、反対にそいつの頭をトンカチでぶち割ってやったね。他のやつらはそんなことには頓着せず、おれの頭を調べつづけている。やたらかまわず、つつきまわしたり、押したり、へこましたり、そのうち髪が邪魔だといって、ハサミでバッサリやられちまったから、おれは怒って、一番近くにいたやつの髪をひっつかんでむしりとると、そのまま病院から逃げだしたね。

 こっそり、見つからないように、、下宿の部屋に入ろうとしたが、すぐにお主婦さんに見つかってわめかれたから、おれは香水を買ってきたからと弁明して、部屋から一歩も出ないようにすると言っても、お主婦さんはどうしても出て行けといってきかない。が、ちょうどよい具合に、そよ風がおれの頭の上をかすめて、まともにお主婦さんの顔に吹きつけたものだから、お主婦さんは卒倒して、おまけに倒れた時の打ち具合が悪かったとみえて、病院へかつぎこまれたから、おれの第一の敵はいなくなった。

 しかし、おれはどこへも出ることができなくなった。今ではおれ自身、頭の臭いが耐えられなくなってきた。香水の香りも、悪臭と混じって、いとわしく感じられた。ああ、いっそ、頭をぶち割って、脳ミソを掘りだし、新鮮なやつと取り換えてもらえないものか」

 

 彼は憂鬱であった。こうまでになった自分の運命を呪わしく思った。数ヶ月前までは、若々しく希望に燃え、自分の将来に無限の可能性を感じて、胸を震わせたものだった。彼は自分が天才であるという確信を持っていた。その信念のもとに、彼はあらゆる学問と知識を究めようと、日夜勉学に勉学を重ねてきた。その目的のために、彼は睡眠を一日一時間と決め、食事も夕方一度取るだけにした。天才たるもの、そんな動物的欲求に負けてはいられなかった。そして、あらゆる時間に、彼の頭は学問と知識でいっぱいだった。 天体運行の法則が彼の頭をしめている時もあれば、トンボの唾液の成分の分析表から、東京駅における、コカ・コーラの売れ行きの報告書まで、さまざまな知識が幅をきかせていた。手当たりしだいの本という本を読みあさり、記憶し、頭に詰めこんだ。

 そんな生活を始めて三年もたった頃である。彼の果敢な決心を聞いて感心した老人が一人、彼のところへやって来たことがある。老人も若い頃、こうした情熱にとらわれて、数年努力したことがあったが、ついに自分の才能を疑いだして挫折した思い出があった。彼は老人の冗長な思い出話で、自分の貴重な時間が失われるのにいらいらしながら聞いていたが、とうとう癇癪を起こして立ち上がり、老人を送り出そうとした。老人は落ちついて、すぐに帰る気色もなく、二階へ上がろうとした彼を引きとめて、自分もあんたほどは勉強しなかったと言った。あんたも少しは健康に気をつけたほうがよくはないかね。そんなに勉強すると、今に頭が腐りだすよ、と言いだした。彼がほとんど取り合わないのを見て、老人は語調を強めて、本当に頭が腐りだすよ、ともう一度言った。後になって彼はこの時のことを思いだし、この老人の言葉が本当に彼の未来を予言したものであったのか、単なる言葉の言い回しにすぎなかったのか、真剣に考えさせられた。

 四年もたつと、ようやく彼もこうした普遍的学問の遅々として進まないいらだたしさに、その熱情もくじけかけてきたが、相変わらず天才としての固い信念を持ちつづけていた。しかし、これは何という天才であったか! 四年間一度も床屋へ行かず、湯もほとんど入ったことがなかったので、髪はぼうぼうと背丈ほどにのび、日光をさけたその青白い顔は、ホコリとアカで厚みをましていた。眼だけが何かにつかれたようにギラギラ光り、手足は瘠せて杖のように細く、白かった。おまけに、めったに着換えもしないので、修行僧のような異臭を発していた。この国の代表的な変人・奇人の列に加えられてもよさそうだった。

 ある日、彼の旧い友人が尋ねてきて、昔の紅顔の見る影もない彼の姿を見、どうしても見知らぬ狂人としか思えなかった。しかし、彼の方は世間の人間には無頓着で、友人が訪ねてきても、特別の用でもないかぎり、あからさまに迷惑がった。そして、その時も、ちょうど夢中になっていた昆虫の研究に熱中して、友人の見ている前で、ボロボロになった衣服を脱いで、ノミの跳躍力に関する緻密な観察記録をとりだした。そして友人の話もほとんど聞いていなかったので、友人はあきらめて帰っていった。

 友人はその後数年間は、彼についてどんな噂も聞かなかったが、その空白の後、ある時、「人間はどうして人間的形態をしているかについての形而上学的説明」という彼の長い論文を、ある雑誌で発見した。その他にも、いろいろと雑誌に投稿したようであったが、そのすべてを見るには至らなかった。また見ても、とてもその内容が理解できなかった。天才の書くものとは、そのようなものかと思った。まるで発表当時のアインシュタインの論文を理解する者が、世界で数人といわれたような、そんなとてつもなくひねくれた論文であったので。

 彼はある奇談・奇説をこととする雑誌社の招聘で、その社の雑誌の常任執筆者として上京することになった。金がないので、ゴミゴミした下町の下宿屋の四畳半に、畳のへこむほどの書物と共に寝起きしていた。そして日々研究と執筆にいそしんでいたのである。さすがに都会生活では髪も切らないわけにいかず、銭湯にも時々出かけたが、睡眠一時間、食事一回は相変わらずであった。

 そんな不健康な生活を、不健康な四畳半でつづけているうちに、今度の奇病が彼の身体のてっぺんにとりついたしだいであった。ちょうど「エゴトロンについての量子力学的トンネル効果による解明」に熱中している最中であった。急に眩暈がして、起きても、寝てもいられなくなったのである。いかに量子力学的解明とはいえ、不確定性と眩暈には勝てないので、彼はしぶしぶ病院へ出かけていった。三半規管の異状と思い、耳鼻科を受けようとしたが、脳外科にまわされた。画像診断を受けて、輪切りにされた脳を見せられながら、どうも脳内にカビが生えているようだといわれた。カビといえば足の指先などに生えるものだが、あまりに不潔にしたために、脳内にまで発生したのだろうか。彼は不快感と興味の半ばする複雑な気分で、大学病院の医師の話を聞いていた。その日はとにかく眩暈が治まったので、入院してしばらく様子を見ることにしたのだが・・・。

 

 脳のせいで気分まで腐ってしまった彼のところへ、ある日聞いたこともないITヴェンチャー企業の社長だという若い男が訪ねてきた。エゴトロンの研究でも聞きつけて、早速特許を買い取る相談にでも来たのかと思うと、案に相違して彼の脳の中味に興味があるようだった。こんなことを切り出した。

 「このたびは、大変な難儀に会われているようですね。あなたのような前代未聞の、いや世にまたとない知能の持ち主が、実に惜しいことです」

 まだ三十前の若い客は、暑くもないのに盛んに派手な模様の扇子を使っていた。いっそマスクでも使いたそうだった。閉めきった部屋の窓の方をしきりと見やるので、普段は気の利かない彼もいやいや窓を開けに立った。

 「すみません、気を使っていただき。人間の生身の脳というのは、どうもやっかいなものですね。いっそコンピューターの方が清潔で、さっぱりしていて、おまけにずっと性能がよいときています。実は私たちは人工知能の研究をしていまして、それも将来は医療関係に応用することを考えています。はっきり言いまして、人間の脳をすっぽりコンピューターで取り換えることが出来ないかということなんです。その第一号機がやっと完成しました・・・」

 呑みこみの早い彼は、この若いヴェンチャー企業の社長が、何の目的で彼のところへ来たかを察した。

 「つまり、最初の患者がおれという訳だな」

 「医療費などは一切こちらが持ちます。というよりもこれは秘密の手術でして、普通の脳手術のようにして、あなたの腐った脳、いやご病気の脳とまるごと取り換えてしまいます」

 「一体どんなメリットがあるのだい」

 「ご存知のように、先ず計算力や情報処理では、桁違いの能力が発揮できます。頭の中が計算機そのものですし、また世界中の知識がすっぽり納まってしまいます。さらに、感情だの、本能などによって、思考が邪魔されることがありません。感情や本能は、自動的に、または意志的に、切ったり入れたりすることができます。ここがただのロボットと違うところで、人間らしさもまたアド・オンとして保存できるのです」

 彼はしばらく腕組みをして考えた。確かに危険な手術ではある。しかし医者のあやふやな脳手術よりは、実に明快な、論理的な発想である。彼は自分の脳を過信するあまり、これまでコンピューターには極力頼らないようにしてきた。しかし厖大なデータと取り組んでいる時には、さすがにコンピューターがねたましくもなった。何か知識と思考の途方もないライヴァルのように思われて、昔のラダイトのように世の中のコンピューターを片端から、カナヅチで壊して回りたくなったこともある。その憎い仇が今急に魅力を帯びた友に思われてきた。彼はナイヤガラから飛び込む決意で、この清潔そうなヴェンチャー企業家の申し出を承諾した。

 

 手術後ひと月 が経った。包帯が取れて、帽子でもかぶって外出すれば、特別の手術をしたようには少しも見えなかった。それは良いのだが、頭の中の切り替えがまだスムーズに行かなかった。これまでの習慣で、ついなにかを学んでしまおうとするのだった。ところがその知識はすでに頭の中にあって、無駄なデータを二重に保存することになる。毎日が削除の連続であった。何が新しく、何が古いかを、それを分別するソフトがまだ不完全なようだった。それをIT会社に問いただすと、今後開発するということであった。それはまだ良いとして、頭の中がコンピューターとなってからは、めっきり好奇心が薄くなったのである。あの熱情的な探究欲はどこへ行ったのか。ちょっとした疑問なら、あっという間にコンピ脳が解決してくれる。そのスピードも単なる記憶とは比較にならない。想起などというまどろっこしいものではなく、瞬時の処理なのである。なるほど老人医療には最適である。

 彼は、感情・意志アド・オンのスイッチを、頭の中で入れたり切ったりをくり返してみても、どうも以前のようには知性に情熱が伴ってこないのである。まさに神のような知性になってしまって、世の中の何事も、一切感情抜きに、傍観的に眺めるようになってしまった。その代わり経済や政治の動きが、人間の欲望や本能をデータ的に処理できるため、手に取るように予測できるようになった。株や投資の予測が児戯のように思われるばかりか、ギャンブルでさえある程度予測できるのだった。しかし、肝心の彼自身の欲望が、そのスイッチを最大限に入れても、過熱してうなりだすパソコンのように、どうも不調なのだった。

 ある日、訪れてきたIT企業の若い社長にその点を質してみた。

 「それはですね、コンピューターでなくても、生身の脳であっても、充分に起こりうることです。いわゆる禁欲ということですが、これが生身の場合にははなはだ難しい。難しいから無理に抑える。そこでなおさら、抑えられて欲望がいっそう高まる、そういう循環になっているわけです。欲望が知識欲にまわされるのは、他の方面で欲望が抑圧されているからです。ところが、コンピ脳では、一切欲望と関係なく知識方面が処理されますから、欲望が高まるきっかけがない。そこで人間の貪婪な欲望が自然と鎮まって、動物並みになるということでしょうか。動物は無駄に蓄積したり、必要以上のものを横取りしたりはしませんからね。コンピ脳は、動物に備わった理想の知性といえましょうか」

 理想の知性であれなんであれ、彼はこの頃やけに眠くてたまらない。知性を働かせていない時は特にそうで、犬や猫が満腹するとすぐ居眠りするように、情緒方面にコンピ脳のスイッチが入っていると、まるで平和な、物憂い心地よさが全身をひたすのであった。彼のそれまでの半生は、その心地よい怠惰に反撥しての努力の積み重ねであったのに、それが全くの無駄に思われてきた。何かことがあれば、自動的に判断方面にコンピ脳が切り換えられ、たちまち事態の解決法が示されるのであった。それに従って、意志的行動方面にスイッチを入れればよい。それも自動に設定しておくと、なにもかもが考えるまでもなく、いわば無意識に、合理的に進行してゆく。まるで、人間としてやることなど何もない。ひょっとしたら、宇宙を創造した神というのもこんな存在なのかと、コンピ脳にも唯一解答の出せないことを考えながら、自動的に彼はスリープ状態に陥っていく・・・。




 (「頭のくさる話」了)

 

 

     






この本の内容は以上です。


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