目次
アブラッソ(抱擁)
アブラッソ(抱擁)
泣く夜、泣かない朝
泣く夜、泣かない朝
愛する人がいる場所
愛する人がいる場所
キャラメル色の男の子
キャラメル色の男の子
温度
温度
愛している
愛している
同じ音楽が世界中で歌われている
同じ音楽が世界中で歌われている
世界中で誰かが踊っている
世界中で誰かが踊っている
ケミストリー
ケミストリー
四曲目
四曲目
ミロンガ
ミロンガ
狡い人
狡い人
四つの手がすること
四つの手がすること
彼のいる場所
彼のいる場所
痛み
痛み
記憶
記憶
言葉
言葉
距離
距離
彼女のいる場所
彼女のいる場所
拘束
拘束
身体が語ること
身体が語ること
二つの身体の距離
二つの身体の距離
反応
反応
本能
本能
現実
現実
嘘つき
嘘つき
黒い瞳の女
黒い瞳の女
歴史が交わるとき
歴史が交わるとき
秘密
秘密
私にできること
私にできること
パートナー
パートナー
背中
背中
言い訳
言い訳
過去へ
過去へ
ガールズトーク
ガールズトーク
二十四時間
二十四時間
すれ違い
すれ違い
コーヒーショップで
コーヒーショップで
前夜
前夜
十二時間
十二時間
必要なもの
必要なもの
月夜
月夜

閉じる


アブラッソ(抱擁)

 リサは思う。自分がする最高のアブラッソは、これから出会う誰かとするのだと。

 リサは東京出身の日本人で、東洋人にもブラジル人にも見えるような肉体を持っている。

 ディランはメリーランド出身のアメリカ人で、彼の筋肉の付き方は、彼の血統の歴史そのものだ。

 リサの歴史を語るものは、華奢な骨を豊かに包む肉体、そして浅黒い肌。血統がないのがリサの歴史だ。彼らの体の中には、いくつもの大陸を伝って愛し合った男と女の血が流れている。便宜上、アメリカ人とか日本人などと答えるが、彼らはその問いにいつも戸惑う。彼らが持っている先祖の写真には、さまざまな色形の人物が写っているのだ。

 ディランはリサを愛している。リサもディランを愛している。それだけで十分だ。二人はアブラッソを組む。

 

1
最終更新日 : 2014-02-18 07:23:30

泣く夜、泣かない朝

 リサは少女だった。ガシャガシャうるさいロックと低い声で男性が歌うソウルミュージックが好きだった。毎晩リサは眠る前に音楽を流し、テレビをつけて、静止した景色と、何かが起きたら知らせるという文字のメッセージと、十四インチのテレビの中で繰り広げられる哀しみを眺めながら眠りについた。リサが聴いている、ラブという言葉で満ちあふれた音楽。テレビの中では戦争が起こっていた。涙を流すと、リサはよく眠ることができた。だから毎晩、泣いた。

 

 ディランは戦争に行った。泣く暇はなかった。暇があったとしても、そこは涙が出る前に蒸発するような場所だった。食事する時間が少しと、仲間と卑猥な冗談を交わす時間と(もうそれにもうんざりしていたが)、祈る時間が少しあった。ディランの両腕には重い武器が装備され、それらがいつも彼の鍛えられた筋肉を締め付けていた。まるで彼の肉体と一体化するように。

 

 ディランは自分を待つ妻を思い、自分が妻のもとへ無事に帰れるよう、そのことだけを祈った。砂埃の味がする喉の奥から息のような声を出し、夜ごと祈った。

 

 子どもの頃、小さな家で、母親が貼った花柄の壁紙に、ハンバーグステーキを投げつけたときのことを思った。弟たちの夕食を作らなければならなかったディラン。ハンバーグステーキは焦げ、腹を空かせた弟が泣いた。ディランはカッとなって投げた。自分が、出て行った父親のようだと思った。いつも母を殴りつけていた父。赴任地から妻のもとに帰ったら、父のようにはしまいと誓った。上手に焼けなかったハンバーグステーキを投げつけた夜のほうが、赴任地の夜よりましだと、毎晩思った。

 

 妻と、家族の無事と幸運を祈るためにディランは目を閉じる。

 

 人は、比較級で幸せを確認し、生き延びる術を探すのだろうか。ディランはそんなことを思い、そんなことを思うことすらばからしくなり短い睡眠をとる。

 

2
最終更新日 : 2014-02-18 07:24:24

愛する人がいる場所

 リサが起きると、哀しくはないけれど楽しくもないテレビ番組が始まっていた。リサは学校へ向かう。通い慣れた道を。そのとき、空は青く、海沿いの遊歩道は、リサの好きな香りでいっぱいだった。オレンジとレモンの香り。それらを鼻に運ぶ海の香り。

 

 大人になったら、愛する人と結婚するんだとリサは思っていた。誰かが自分をさらいに来てくれると。そして、子どもの頃読んだおとぎ話に出てくるお姫様のようなドレスを着るのだと。

 

 リサは英語と数学が得意で、男の子たちにライバル扱いされていた。それは心地いいことだった。男の子たちは、どうせ、体が大きくなったら、それだけで自分のライバルではなくなるとリサは本能的に知っていた。男の子たちは、女の子を守る生き物に変身するのだと思っていた。

 

 ディランは戦争から帰った。すぐに妻が妊娠した。ディランは自分を待っていた妻を愛しく思い、自分は、母親が料理を家族のために作る家庭を作りたいと思った。子どもが夜遅くハンバーグステーキを焼き、その失敗に泣くような家庭を作りたくない、と。

 

 長い間自分の不在の家を守っていた妻を寂しがらせないためになら、何だってするつもりだった。家にいるとき彼は妻のしたいようにさせ、愚痴を聞いてやり、ドアが壊れたと聞けば、たとえバスケットボールの試合の一番の見所に声と両腕を上げていたとしても、彼女のところに飛んでいった。

 

 やがて彼女のお腹は大きくなり、そして子どもが誕生した。


3
最終更新日 : 2014-02-18 07:22:24

キャラメル色の男の子

 リサは十六歳だった。初めて好きな男の子ができた。その彼もリサを好きだった。リサはヴァージンで、とても恥ずかしがり屋なのに、外見が目立つせいで居心地の悪い思いをいつも、していた。

 

 彼はリサに十二回目のデートでキスをして、十七歳になったら裸を見たがった。リサは、裸を見せた。

リサは裸になると、ますます何人かわからないような形の肉体を持っていた。東洋人なのに手足が長く、胴体は分厚く腰の位置が高かった。艶やかに栗色をした髪はたっぷりと多く、ノースショアの波のように美しくうねり、胸のふくらみを隠す長さまで奔放に伸びていた。彼がリサの髪に触れようとするのを微笑みで制し、リサは服を着た。

 

 リサは教会が営む施設で育った。聖母マリアにとても憧れていた。リサにとっては、裸を見せることが、憧憬と好奇心の境界だったのだ。

 

 ディランの子どもは男の子だった。子どもはディランに似ていなくもなかった。黒い巻き毛。上唇の方が分厚い、湿り気のある濃いピンク色の、唇。肌の色は妻と同じキャラメル色だった。ディランは子どもを抱きしめて泣いた。

 

 泣く暇のなかった戦場で、表彰された儀式で、ディランの目はつり上がっていた。けれど、子どもを抱いたディランの目は丸く、満月の夜の海のように潤み、小さな者を慈しむ気持ちに満ちていた。妻を、彼女が、「背骨が折れちゃいそう」と笑いながら悲鳴を上げるまで強く、抱きしめずにはいられなかった。

 

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最終更新日 : 2014-02-18 07:25:10

温度

 リサは教会に行く。朝七時半のミサに出て、午前中にデートをして、午後早い時間から模試を受けるような日曜を過ごした。

 

 リサは、自分を置いていった母親が、どこかで幸せに暮らしてくれていたらいいと願った。血を分けた父親が、どこかで幸せに暮らしてくれていたらいいと願った。リサは、自分に、自分を守るけれども束縛する家族がいないことに、すでにすっかり慣れていた。

 

 リサは自分が生きているとわかっていた。そのことに満足していた。かわいらしい手でピアノを弾くことも、セロリを上手に切ることも、男の子を抱きしめることも、髪を三つ編みに結うこともできた。

 

 リサの手は温かい。そのことがとても大切だと思った。リサを育てたシスターたちは言ったものだ。リサちゃんは、とても温かい手をしていると。幸せになる人の手ね、と言っていつも抱き締めてくれた。

 

 ディランの弟が言うことには、ディランの妻には恋人がいた。ディランが戦争に行っている一年の間、彼らは逢瀬を重ねていたと言うのだった。

 

 弟は泣いていた。ディランの膝を叩きながら、床に、長く、虎のように逞しい脚を持て余して座り込んだまま、長いこと泣いた。しゃくりあげてはディランに謝り、長いことそのことを言えずにいた自分を責め続けてはしゃくり上げ、肩を震わせ、頭をうなだれ、ディランの心中を察しても察しきれない自分をなじっては、また泣いた。弟の声が掠れ、声ではないもののように粗く削られた音としてディランの耳の内側を乱暴に引っ掻いた。弟は、ただディランに無事に帰って欲しいと願っていた。だからそれ以外のことを赴任地にあるディランに言って苦しませたくなかったと言って泣いた。

 

 「ただ、生きて帰ってきて欲しかったんだ」と言って弟はディランを抱き締めた。

 

 幼い頃からの癖で、ディランは揉め事が始まると、喋ることができなくなった。喉の奥が、鉄の扉を勢いよく閉めてしまったかのように、声が出なくなるのだ。弟の背中をさすりながら、壁に投げつけたハンバーグステーキの、つぶれて床にこぼれ落ちる瞬間が脳裏に蘇るのを感じると同時に目眩をおぼえた。弟の背中が温かいことを、さする自分の手が温かくなっていくことをディランはぼんやりと感じた。木綿のTシャツを介して同調する、その温度だけを。

 

 時間は、ゆっくり回る無声映画のようだった。ディランは弟の背中をさすり続けた。彼が泣き止むまでディランは喋ることができなかった。弟に何と言ってやればいいのか、ディランはわからなかった。

母親に電話した。ハロー、マム。喉の奥から声というものを絞り出そうとした。三回目にようやく、低く掠れた音が出た。海底をたゆたう、遠くの船の底を、波が逆撫でするような声だった。ディランは泣いた。

「マム、マム……」

「まぁ、どうしたのベイビー。一体誰があたしのかわいいディランを泣かすのかしらねぇ」

 


5
最終更新日 : 2014-02-18 07:28:22


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